ウォール・ローゼの内側へと逃げ延びた難民達を待っていたのは、救済ではなく、緩やかな死の地獄だった。シガンシナ区を追われた数十万の民が、限られた土地へと一気に流れ込んだのだ。当然、食料も住居も足りるはずがない。
避難所となった区域の空気は、常に酸鼻を極めていた。配給されるのは、まともな大人が一口で食べ終えてしまうような、硬く薄い一切れのパンと泥水のようなスープだけ。
「パンを……頼む、子供が飢えて死にそうなんだ……!」
「ふざけるな!俺たちの分だってねぇんだよ!」
毎日、配給所の前では怒号と悲鳴が飛び交い、奪い合いで血が流れた。昨日まで隣で泣いていた者が、翌朝には冷たい骸となって転がっている――そんな光景が、日常の全てを侵食していた。
しかし、その生き地獄の中で、ミカサ・アッカーマンだけは奇妙なほどに瑞々しさを保っていた。その頬はこけず、瞳は濁らず、肌には生命の艶すらある。
一切れのパンをエレンやアルミンにすべて譲ってなお、彼女は飢えに苦しむ素振りすら見せなかった。
(くく……あはは! 浅ましいねぇ、人間は。たかが胃袋を満たすためだけに、尊厳もへったくれもなく泥をすすり合っている)
脳内で、阿朱羅丸が心地よさそうに喉を鳴らす。
ミカサが飢えない理由。それは、彼女の体内に棲まう鬼が、彼女の精神と肉体を「呪い」の力で満たし、養っているからに他ならなかった。
(いいかいミカサ。僕が君の血を、魂を吸う代わりに、君の肉体は僕が完全に保護してあげる。あんな豚の餌みたいなパン、君が口にする必要はない。君はただ、僕の愛だけを食べて生きていればいいんだよ)
(……うん。ありがとう、阿朱羅丸)
ミカサは心の中で、愛おしげに相棒の言葉を反芻する。エレンたちが飢えに顔を歪める中、自分だけが満ち足りていることに罪悪感などなかった。
阿朱羅丸が自分を特別にしてくれる。その事実だけが、冷え切った避難所の中でミカサの心を狂おしいほどに温めていた。
やがて、政府は難民達を飢餓対策として荒れ地の開拓へと駆り出した。ミカサも、エレンやアルミン、そしてアルミンの祖父と共にクワを握り、固い土を耕した。だが、にわか仕込みの開拓で、数十万の口を潤すほどの作物がすぐに実るはずもない。食料不足は一向に解決しなかった。
そして、846年。中央政府は、あまりにも残酷で、あまりにも合理的な「決定」を下す。
『ウォール・マリア奪還作戦』
響きの良い名目の裏に隠された真意は、ただ一つ。
――大規模な『口減らし』だ。
生産性のない難民たちを大量に壁の外へ放り出し、巨人の餌とすることで、壁内の食料消費量を強制的に抑え込む。国家という巨大な機構が、自国民を間引きするための冷酷な罠だった。
子供たちは労働力、あるいは将来の兵力として参加を免除された。しかし、アルミンの祖父のような、高齢で開拓の効率が落ちる難民たちは、有無を言わさずその「死への行進」へと登録された。
「アルミン……これを持って行きなさい」
出発の前夜、アルミンの祖父は、古い茶色の帽子をアルミンに被せ、穏やかに微笑んだ。彼自身、これが奪還作戦などではなく、生贄の儀式であることなど百も承知だったはずだ。それでも、残される孫のために、老人としての役目を引き受けたのだ。
「おじいちゃん……嫌だ、行かないで……!」
アルミンがその服の裾を掴んで泣き叫ぶが、駐屯兵団の兵士達がそれを冷酷に引き剥がしていく。
(へえ……。自分の仲間をあんな風に間引くなんて、人間ってのは僕たち『鬼』よりもよっぽど残酷で、悪趣味な生き物だね)
阿朱羅丸が、心底感心したように呟く。
(ねえミカサ、あの老人を助けたい? 君が僕を抜けば、あの生意気な兵士共も、壁の外の巨人も、全員消し炭にしてあげられるよ? どうする?)
試すような、甘い誘惑。ミカサは一瞬、彼方に消えていくアルミンの祖父の背中を見た。だが、すぐに視線を落とす。
(……いいえ。ここで暴れたら、エレンもアルミンも、居場所がなくなる。今は、貴方の力を隠さなきゃいけない)
(くく、賢いね。そうさ、あんな老い先短い人間のために、僕達の力を無駄遣いすることはない。君が守るべきは、君を愛する僕だけでいいんだ)
阿朱羅丸は満足そうに笑い、ミカサの心の奥深くを狂気的な愛撫で満たした。ミカサはその感覚に身を委ね、老人の死を見送る選択をした。
数日後。『作戦』の結果が、生き残った子供達に告げられた。出征した25万人の難民のうち、生還したのは、ほんの一握り。そして、そこにアルミンの祖父の姿はなかった。手元に戻ってきたのは、彼が被っていた、薄汚れた茶色の帽子だけ。
「う……あああ……! おじいちゃん……おじいちゃん……っ!!」
避難所の片隅で、アルミンはその帽子を抱きしめ、地面に額を擦り付けながら号泣していた。彼の細い身体が、絶望と悲しみのあまり激しく痙攣している。その隣で、エレンは怒りに身体を震わせていた。
壁の向こうの巨人への憎悪。そして、同胞を切り捨てた壁の中の権力者への憎悪。その二つの濁流が、エレンの瞳を怪しく、凶暴に燃え上がらせる。
「……あいつらだ。巨人も、この壁の中の奴らも……! 俺達から全部奪っていく……!」
エレンは爪が肉に食い込み、血が滴るほどに拳を握りしめた。
「駆逐してやる……! この手で、一匹残らず……!!」
アルミンは絶望に泣き崩れ、エレンは復讐の鬼へと変わっていく。その地獄の中心で、ミカサだけが、どこか現実味のない、人形のような美しさを保ったまま佇んでいた。
彼女はエレンの肩にそっと手を置く。その表情は一見、幼馴染を気遣う悲しげなものに見えた。だが、彼女の胸の奥で響いているのは、世界で最も甘く、最も毒に満ちた、相棒の声だけだった。
(これで、この頼りない男達も、少しは牙を研ぐ気になるかねぇ? ……でもね、ミカサ。世界がどれだけ彼らを絶望に突き落としても、君には僕がいる。僕だけが、君を裏切らない、君だけの絶対的な武器だよ)
(ええ……分かっているわ、阿朱羅丸。私は貴方を離さない)
泣き叫ぶアルミンと、呪詛を吐くエレンの影で、ミカサは自らの胸を強く抱きしめた。
その皮膚のすぐ下で、漆黒の鬼の刃が、愛おしそうにドクドクと脈打っているのを確かに感じながら。