5話:狂おしき黒髪、鬼の嘲笑
あの地獄の奪還作戦から、さらに一年――。
847年、人類の反撃の牙となるべく、少年少女たちが集う場所があった。第104期訓練兵団。
泥をすすり、絶望に震えるだけの家畜であることを止め、巨人に立ち向かう戦士となるための揺籃である。抜けるような青空の下、広大な練兵場に整列した新兵達の前に、一人の大柄な男が立ちはだかっていた。
頭部を覆う威圧的な威容と、全てを見通すような鋭い眼光。訓練兵団の教官、キース・シャーディスである。
「貴様はなぜここにいる!?」
「人類の勝利に貢献するためです!」
キースの怒号が響き渡る。いわゆる「通過儀礼」だ。すでに巨人の恐怖を味わった者以外の新兵を言葉の暴力で怒鳴りつけ、これまでの平穏な常識を徹底的に破壊して従順な兵士へと作り変えるための儀式。
恐怖に顔をこわばらせる新兵達を、キースは次々と恫喝していく。やがて、キースの鋭い視線が、一人の少女の前でピタリと止まった。
ミカサ・アッカーマン。
彼女の瞳には、恐怖も、緊張も、未来への気負いすらもなかった。ただ、静まり返った深い湖のような、不気味なほどの平穏。
(……ほう)
キースの背筋に、一瞬だけ冷たいものが走る。数多の修羅場をくぐり抜けてきた調査兵団前団長としての直感が、警鐘を鳴らしていた。
この少女は、ただ者ではない。すでに自立した圧倒的な強さと、何者にも染まらない異質な精神性を秘めている。
キースはあえて言葉をかけず、ミカサの横を通り過ぎた。問うまでもない。彼女はすでに、この場にいる誰よりも完成された「兵器」だった。
その時、ミカサの脳内で、鈴の音を転がしたような笑い声が弾けた。
(あははは! 面白いねぇミカサ。あのハゲ頭の男、君の正体に怯えてやがる。鬼の気配を無意識に察知するなんて、人間にしては上出来な勘の持ち主だ)
(……阿朱羅丸、静かに)
(いいじゃないか、退屈しのぎだよ。……っておや? あはははは! 見てよミカサ、あれ!!)
突然、脳内の阿朱羅丸が大爆笑し始めた。釣られてミカサが視線を泳がせると、数列隣にいる茶髪の少女――サシャ・ブラウスが、直立不動の姿勢のまま、堂々と蒸かした芋を口に放り込んでいる姿が目に飛び込んできた。
(おいおい冗談だろ!? あんな厳粛な儀式の最中にイモを食べてるよ、あの女! 人間ってのはつくづく理解不能で最高に滑稽だねぇ! 傑作だ!)
脳内で転げ回るように笑う愛しい相棒の気配に、ミカサは唇の端を微かに綻ばせそうになるのを必死に堪えた。
世界がどれほど殺伐としていても、阿朱羅丸が隣で笑ってくれているだけで、この訓練兵団という退屈な場所も悪くないと思えた。
その日の夜。食堂は早くも新兵達の熱気と、隠しきれない不和で満ちていた。原因は、エレンとジャン・キルシュタインの衝突だった。
「憲兵団に入って内地で快適に暮らす」と言い放つ現実主義のジャンと、「巨人を駆逐して外の世界へ出る」と息巻く理想主義のエレン。二人の思想は水と油であり、瞬く間に胸ぐらを掴み合う喧嘩へと発展した。
「おい、やめろよ二人共!」
アルミンの制止も虚しく、一触即発の空気が流れる。ミカサはいつでもエレンを庇えるよう腰を浮かせたが、体内の阿朱羅丸は酷く退屈そうにあくびを噛み殺していた。
(やれやれ、また始まった。あの血の気の多い坊やも、内地へ行きたがる腰抜けも、どっちも小さなどんぐりの背比べさ。くだらないねぇ)
結局、食堂の扉が開く音を教官の巡回と勘違いしたことで、二人は互いの服を離し、ひとまず手打ちにすることでその場を収めた。
「チッ、行くぞミカサ」
エレンは不機嫌そうに吐き捨て、食堂を出ていく。ミカサはすぐさまその後を追おうと席を立った。エレンが食堂の扉の向こうへ消えたのを確認し、足早に歩みを進める。
「あ……おい、ちょっと待ってくれ」
背後から声をかけられ、ミカサは足を止めた。振り返ると、そこには先ほどエレンと揉めていたジャンが立っていた。
昼間の傲慢な態度はどこへやら、彼は耳まで真っ赤にし、視線をキョロキョロと彷徨わせながら、もじもじと頭を掻いている。
「あの、さ……お前、ミカサ、だろ? その……すごく、綺麗な黒髪だなと思って、さ……」
ジャンの視線は、ミカサの肩に流れる艶やかな夜色の髪に釘付けになっていた。それは紛れもない、思春期の少年が抱く純情な憧憬の告白だった。しかし、ミカサの反応は冷淡そのものだった。
「……ありがとう」
事務的な一言だけを残し、すぐに踵を返そうとする。その瞬間、ミカサの脳内に、それまでの無邪気な笑い声とは打って変わった、地を這うような冷酷な声が響き渡った。
(――不愉快だ。ヘドが出るよ)
阿朱羅丸の声から、一切の温度が消えていた。激しい、狂気的なまでの独占欲の波動。
(何なんだい、あの害虫は。僕のミカサをそんな汚い、ねっとりした目で見つめるなんて。ねえミカサ、あの男の目玉をくり抜いてあげようか? それとも、僕でその小生意気な首を叩き切ってあげようか? 君の髪に触れていいのは、君の美しさを褒めていいのは、この世界で僕だけだ……!)
脳内で狂い叫ぶ鬼の嫉妬。普通なら恐怖を覚えるほどの呪詛だが、ミカサにとってはそれこそが、何よりも甘美な「愛の証明」だった。
阿朱羅丸が自分をそれほどまでに欲してくれている。その事実が、ミカサの胸をドクドクと熱く狂わせる。
(いいのよ、阿朱羅丸。あんな害虫、私の視界には一瞬たりとも入っていないわ。私の髪は、私の身体は、全部貴方のものよ)
心の中でそう宥めると、阿朱羅丸は不機嫌そうに「フン」と鼻を鳴らした。食堂を出て、月明かりが照らす夜道を歩くと、前方にエレンの背中が見えた。
「エレン」
ミカサが追いつくと、エレンは振り返り、少し煩わしそうにミカサの顔を見た。そして、彼女の長い黒髪に視線を落とす。
「あぁ、ミカサか。……お前、その髪、切っとけよ」
「え……?」
「近々、立体機動の訓練が始まるだろ。そんな長い髪じゃ、ワイヤーやギアに巻き込まれて事故の元だ。邪魔になるだけだからさ」
エレンは何の気なしに、ただ合理的な理由だけでそう告げた。普段のミカサなら、エレンの言うことには無条件で従っただろう。
しかし、今の彼女には、エレン以上に絶対的な存在がいる。ミカサは心の中で、体内の相棒に問いかけた。
(阿朱羅丸……どう思う? 髪、切った方がいい?)
脳内の鬼は、少しの間沈黙した。そして、じわじわと 滲み出るような、邪悪で愉悦に満ちた笑い声を漏らした。
(くく……くははは! いいね、切りなよミカサ!)
阿朱羅丸の声には、極上の悪意が混ざっていた。
(さっきのあの害虫……ジャンとか言ったっけ? あいつ、君のその“綺麗な黒髪”に惚れてただろ? 君がその髪をバッサリと切り落としたら、あいつ、一体どんな絶望した顔をするかなぁ? 想像するだけでゾクゾクするよ。あいつの大事な幻想を、僕たちの手で木っ端微塵に壊してやろうじゃないか!)
他者の好意を徹底的に踏みにじり、嘲笑う。それが鬼の本性であり、阿朱羅丸の歪んだ愛情表現だった。
(……分かったわ。あなたがそう言うなら、そうする)
ミカサの瞳に、妖しい光が宿る。エレンのためではない。ジャンへの嫌がらせを愉しむ、愛しい阿朱羅丸の願いを叶えるために。
「わかった。切るわ」
ミカサは静かにそう答え、夜風に揺れる自らの黒髪に手をやった。
翌朝、短く切り揃えられたミカサの髪を見たジャンが、どれほどショックを受け、それを見た阿朱羅丸がどれほど脳内で愉快に狂い笑うか。それを想像しながら、ミカサは深い闇の中で、静かに微笑みを浮かべるのだった。