黒鬼の呪縛   作:鉅鹿

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6話:鋼の刃への嫉妬

翌朝、訓練兵団の宿舎から出てきたミカサの姿を見て、一人の男が文字通り硬直した。ジャン・キルシュタインである。

 

昨日まで肩を優雅に覆っていた夜色の黒髪は、跡形もなくバッサリと耳の下で切り揃えられていた。機能性を重視したと言えば聞こえはいいが、彼にとってはあまりにも致命的な一撃だった。

 

「お、お前……その髪……」

 

ジャンは口をパクパクと動かし、まるでこの世の終わりを見たかのような、ハイライトの消えた「死んだ魚のような目」でミカサを見つめた。その無様な姿を捉えた瞬間、ミカサの脳内で爆発的な笑い声が弾けた。

 

(あはははは! 見たかいミカサ! あの害虫の顔! まるで親の仇にでも会ったかのような絶望っぷりだ! 傑作、本当に傑作だよ!)

 

阿朱羅丸はミカサの精神の奥底で、床を転げ回るようにして大笑いしている。

 

(君が髪を切っただけであんなに魂が抜けちまうなんて、人間ってのは本当に脆くて、下らなくて、最高に面白いおもちゃだねぇ。あいつの顔、もっと近くで見せてよ!)

 

(……阿朱羅丸、はしゃぎすぎ)

 

ミカサは心の中でそう窘めながらも、ジャンの視線を完全に無視して通り過ぎた。阿朱羅丸がこれほど喜んでくれたのだ。髪を切り落とした価値は、それだけで十分すぎるほどにあった。

 

やがて、訓練兵団の最初の難関である「立体機動装置の適性訓練」が始まった。ワイヤーで吊るされた状態でバランスを保つだけの単純な訓練だが、これができなければ兵士としての適性なしと見なされ、即座に開拓地へと送り返される。

 

ミカサは何の苦もなく、完璧な姿勢で宙に静止してみせた。アッカーマンの身体能力と、体内の鬼がもたらす絶対的な体幹の安定。教官のキースも、彼女の完璧な様に見惚れるしかなかった。しかし、トラブルは別の場所で起きていた。

 

「う、うわあああ!?」

 

エレンがワイヤーに吊るされた瞬間、無惨に頭からひっくり返り、地面に激突したのだ。

 

「何をしている、エレン・イェーガー! 体を起こせ!」

 

キースの怒号が飛ぶが、エレンは何度やっても無様に逆さ吊りになってしまう。

 

(おや?あの子は本当に不器用だねぇ。僕の力をほんの少しでも分けてあげれば、あんな風に泥に塗れずに済むのに。……まあ、絶対に分けてあげないけどね)

 

阿朱羅丸は冷ややかにエレンの失態を眺めていた。ミカサも心配そうにエレンを見失わないようにしていたが、翌日の再テストで、キース教官が「機材を交換しろ」と命じたことで事態は一変する。

 

エレンの使っていた装置のベルトが、あらかじめ破損していたのだ。故障した機材であれだけ持ち堪えていたエレンの凄まじい根性に、周囲は息を呑んだ。新しい装置に換えたエレンは、今度は嘘のように安定して宙に浮いてみせた。

 

「どうだ……ミカサ! 俺は、やれるぞ!」

 

誇らしげに叫ぶエレンを見て、ミカサはホッと胸を撫で下ろした。だが、その安堵も束の間、物語はミカサにとって「最悪の訓練」へと移行する。

 

適性試験を終えた訓練兵たちに配られたのは、壁内の最新技術の結晶――「立体機動装置」と、一対の輝く『超硬質ブレード』だった。

 

巨人の肉を削ぎ落とすために作られた、強靭でしなやかな、冷たい鋼の刃。森の中に配置された巨人の模型を、この刃で削ぎ落とす対巨人戦闘訓練。ミカサは指示通り、その二本のブレードを両手に握り締めた。

 

その瞬間。

ドクン、とミカサの胸の奥で、今まで感じたことのないような、ドス黒く悍ましい「冷気」が炸裂した。

 

(……ミカサ)

 

脳内に響いたのは、いつもの悪戯っぽい声ではなかった。地の底から這い上がってくるような、どろりとした、狂気的なまでの「嫉妬」に塗れた阿朱羅丸の声だった。

 

(何だい、その安っぽい鉄クズは。そんな鈍らで、君は何を斬るつもりだい?)

 

「阿朱羅丸……? これは訓練で……」

 

(うるさい。気に入らないな、酷く気に入らない。君の手に握られていいのは、君の肉を切り裂いていいのは、この僕だけだ。……それなのに、君はそんな汚い人間の武器を、嬉しそうに両手で握り締めている)

 

ミカサの脳内で、阿朱羅丸の幻影が、彼女の魂の首筋に冷たい指先を突き立てるのが見えた。鬼の瞳はドス黒く濁り、狂おしいほどの独占欲でミカサを睨みつけている。

 

(ねえ、ミカサ。僕以外の武器を使うなんて、僕に対する裏切りだよ。あんな鉄クズ、今すぐ投げ捨ててよ。君には僕がいるのに、どうして他の刃を頼るんだい? 怒るよ? 君の心臓、中からめちゃくちゃに抉り取ってあげようか?)

 

「あ……く……」

 

阿朱羅丸の精神的な圧迫により、ミカサは現実の森の中で、あやうくブレードを落としそうになった。胸が苦しい。全身の血が逆流するような熱さと、締め付けられるような快感が同時に押し寄せる。

 

阿朱羅丸が、自分以外の武器を握る私に、狂うほどの嫉妬を向けてくれている。それは苦痛でありながら、ミカサにとっては最高の「愛の束縛」だった。

 

(ごめんなさい、阿朱羅丸……。私は、貴方を裏切らない。これは、ただの目眩まし。人間の目を欺くための、ただの飾りよ)

 

ミカサは心の中で必死に懇願し、体内の相棒に縋り付いた。

 

(飾り、ねぇ……。じゃあ、早く終わらせなよ。そんなゴミを握る君の手なんて、見たくもない。……あーあ、早く僕を抜いてくれないかなぁ。そうすれば、君の身体を僕の呪いで、僕だけの色彩で、隅々まで満たしてあげられるのに)

 

拗ねたように、けれど独占欲を隠そうともせずに呟く阿朱羅丸。

 

「……すぐに、終わらせる」

 

ミカサは現実の瞳に、鋭く、そして歪な光を宿した。ガスを噴射し、ワイヤーを大樹へと突き刺す。巨人の模型へ向かって突進するミカサの動きは、他の新兵たちとは一線を画していた。

 

彼女は、両手の超硬質ブレードを、まるで忌まわしいゴミを扱うかのように乱暴に、しかし圧倒的な速度で振り抜いた。模型のうなじの肉が、派手に消し飛ぶ。

 

早くこの訓練を終わらせて、この鉄クズを投げ捨てたい。そして、自分の体内で嫉妬に震える、愛しい鬼を甘やかしてあげたい――。

 

飛び散る木屑の中で、ミカサはただ、自分の中だけで狂おしく脈打つ阿朱羅丸の存在を、その身に深く刻み込んでいた。

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