暁の水平線に勝利を刻むアカデミア 作:スーパースタリオン
──中学校の卒業式から間もなく、渚は静岡県垢離里へ転出することになっていた。
というのも、晴れて合格した雄英高校が同地域に所在するからであり、そしてそれが物理的に実家からの通学が不可能な距離でもあったからである。
隣県とはいえ、わざわざ数時間をかけて毎日通学するくらいなら、雄英の近場に部屋を借りてそちらから通学した方が良いだろう──そんな両親の現実的な判断によって、渚は生まれて初めて親元を離れることになったのだ。
オートロックなどの防犯設備がしっかりしたマンションで、間取りは一人暮らしには十分すぎるほどの1LDK。既に私物や家具家電の搬入と整理は終えており、移動による疲れを取るため、渚はソファに腰掛けながらコーヒーを呑んだり、惰眠を貪ったりしていた。
お金を出して貰っている手前、渚としては適当なワンルームでも良かったくらいなのだが、これには母親だけではなく父親も難色を示した。厳しい育児をしてきたからこそ、未成年の娘が一人暮らしをするにあたって放任するような真似はしない。贅沢をさせないのは金銭感覚が狂わないようにという教育方針によるものだが、安全面だけは決して妥協できなかったのだろう。このマンションの一室は、渚の父親の内部基準では辛うじて合格点といったところである。
卒業後、主に引っ越しの準備と新生活の立ち上げに時間を取られていた渚ではあったが──兎にも角にも、遂に入学式当日となった。
両親は急遽予定が入って来られなくなったが、制服が届いた日に三人で記念写真は撮ってあるので、まあ大丈夫だろう──そんなことを考えながら、渚は二月末に訪れた雄英高校の校舎へ再び足を踏み入れた。
入試の日には緊張と期待で周囲を見る余裕もなかったが、改めて見上げる校舎はやはり巨大だった。その威容には自然と背筋が伸びるものがある。
彼女は予定時刻よりも早めに到着していた。
階段を上り、長く幅のある廊下を歩く。磨き上げられた床に足音が響き、壁に掲示された案内板を確認しながら進んでいく。そしてようやく辿り着いた自分の教室の前で、渚はふと立ち止まり、その巨大な扉を見上げた。
1年A組──場所に間違いはない。ここが、自分の高校生活の始まる場所。ここが、ヒーローへの第一歩となる場所。そう思うと、渚は僅かに胸の鼓動が速くなるのを感じた。
バリアフリーを意識しているのだろう巨大な扉へ手を掛け、渚はゆっくりとそれを開いた。
教室の中には、既に何人かの生徒たちが席に着いていた。入試会場で見掛けたような顔もあれば、全く見覚えのない顔もある。これから三年間を共に過ごすかもしれない同級生たちを前にして、渚は静かに教室の中へ足を踏み入れた。
「(さて、私の席は……)」
「む! おはよう! 俺は私立聡明中学出身、飯田天哉だ。我々の座席表はそちらの黒板に貼られてるぞ」
「ありがとう。私は舵原渚、一年間よろしくね。飯田くん」
「ああ、よろしく頼む!」
キョロキョロと周りを見渡していると、大きな声の少年に話しかけられる。飯田天哉と名乗った彼は、自己紹介を挟みながら座席表を指さした。
真面目で堅物そうな人だな、と思いながらも、渚は軽く頭を下げて笑顔で返す。まだ数人しか来ていない机の間を縫って、座席表に書かれていた自分の座席に荷物を置いた。渚の席は、廊下側の端から二列目の前から二番目だった。
「あ、渚。もう来てたんだ、早いね」
「響香ちゃん、おはよう」
しばらくして、鞄を肩に引っ提げた少女が教室に入ってくる──入学試験で出会った彼女は、渚にとって嬉しいことに雄英に合格していたのである。
合格発表の日、ほとんど同じタイミングで電話がかかってきて、その流れで以前の言葉通り互いに自己紹介をした。耳郎響香、そう名乗った彼女と渚はその日、一時間ほど電話で話していたこともあり、実際に顔を合わせるのは入試以来とはいえ、不自然なく会話が出来ていたのである。
入学前から同級生となる相手と交流を持てたのは、渚としても、中学とは異なり誰も顔見知りがいないこの高校生活に若干の安心感を与えていた。
「うちら隣の席じゃん」
「ええ、そうみたい。改めてよろしくね」
交流の浅い相手には基本的に丁寧な言葉遣いを心掛けている渚ではあったが、耳郎の方からフランクに接してくるものだから、自然と口調も砕けたものに変わっていた。渚と耳郎は二人で雑談に興じながらも、しかしその声量は小さかった。
時間が迫り、続々と教室に生徒たちが入ってきてはいるものの、他の生徒はまだ互いに距離感を伺っているタイミングだ。友人同士で入学したものは余りいないようだった。そのため、渚たち以外はほとんど会話していないのだ。
例外はさきほど挨拶をした飯田くらいで、渚にしたように、教室に入ってきた生徒に対して、力強い挨拶と共に座席表の存在を教えていた。
「──机に足をかけるな!」
しばらくして、飯田の声が教室に響く。
すわ何事かと渚は耳郎との会話を中断し、そちらに目を向ける。そこには飯田と、凶悪な表情を浮かべるツンツン頭の男子が居た。机に足をかけて、ポケットに手を突っ込んでいるその様はまるで不良のようだった。
雄英にもああいうタイプはいるんだな、と思うと同時に、初日特有の緊張感が走った教室の空気に僅かに顔を顰めた。
「ああん?」
「その机の製作者の方や、備品を大事に扱ってきた雄英の先輩方に申し訳ないと思わないのか!?」
「思わねぇなァ、テメェどこ中だよ。この端役が」
それにしても──あのツンツン頭、どこかで見た覚えがある。渚は既視感のある彼の顔立ちに、頭を巡らせた。
「ぼ──オレは私立聡明中学出身、飯田天哉だ」
「ソウメイ!? クソエリートじゃねぇか、ぶっ壊しがいがありそうだなァ」
「ブッコワシガイ!? 酷いな、本当にヒーロー志望か!?」
ああ、と渚は思い出す。
確か彼はヘドロ事件の被害者として報道されていた少年だ。個性を用いて抵抗した末に、オールマイトに助けられていたのだったか。未成年ということもあり名前は報道されなかったが、事件中の映像がネットやテレビで出回っていたこともあり、渚も見たことがあった。
「む」
「あ?」
ふと、言い争っていた二人が口を止めて扉の方を見た。彼らに注目していたクラスメイトたちも、釣られるようにそちらへ視線を向ける──そこにはボサボサ頭の緑髪の少年が、気まずそうにその場で固まっていた。
「……みんな個性強いなぁ」
「そ、そうね」
それに気付いた飯田が、これまでと同じようにズカズカと歩み寄りながら自己紹介を始める。
その様子を眺めつつ、渚は耳郎の呟きに相槌を返した。文字通り、人物的な意味で個性が強そうな面々だと、渚もまた感じていたのである。
教室の前で繰り広げられるやり取りをぼんやりと見ていると、途中で明らかに彼らのものではない声が割り込んできた。
「お友達ごっこしたいなら他所で行け。ここは──ヒーロー科だぞ」
「「「(なんか居る──!?)」」」
ヂュッとゼリーを吸い込む音と共に、くたびれた雰囲気の男が寝袋から顔を出し、廊下に横たわっていた。
教室中の注目が集まる中、その男はゆっくりと立ち上がって寝袋を脱ぐ。無精髭に乱雑に伸びた黒い髪。目の下にははっきりとした黒い隈が浮かんでいた。
「ハイ静かになるまで8秒かかりました。時間は有限、君たちは合理性に欠くね」
「てことは……この人もプロのヒーロー……?」
「担任の相澤消太だ、よろしくね」
「「「(担任!?)」」」
流石の渚も、これには瞠目した。
雄英の教師は全員がプロヒーローだというが、少なくとも彼の顔や姿にほとんど誰も見覚えはなかった。
「早速だが、コレ着てグラウンドに出ろ」
先程まで入っていた寝袋からゴソゴソと取り出したのは、雄英指定の体操服だ。
見せつけるように掲げる相澤に、生徒たちは互いに困惑したような視線を交わしながらも、大人しく指示に従った。
■■■
「個性把握テストぉ!?」
「入学式は!? ガイダンスは!?」
「ヒーローになるなら、そんな悠長な行事に出ている暇はないよ」
相澤の言う通り、体操服へ着替えた1-Aの生徒たちはグラウンドへ集合し、そして告げられた内容に驚愕を露わにした。
「雄英は自由が校風の売り文句。そしてそれは先生側もまた然り」
ソフトボール投げ、立ち幅跳び、50メートル走、持久走、握力、反復横跳び、上体起こし、長座体前屈──中学時代に誰もが一度は経験した体力測定。
そして今から行うのは、個性ありでの測定だという。
「国は未だに画一的な記録を取ることをやめていない。個性は千差万別。こんな非合理の極みはないが……まぁ、文科省の怠慢さ」
ふう、とため息をつく相澤に、渚たちは何とも言えない表情を浮かべた。しかし彼はそこで話を終えなかった。
「入試一位は……爆豪だったな。お前、中学のときソフトボール投げ何メートルだった?」
「67メートル」
「ほんじゃ、個性使ってやってみろ。円から出なきゃ何してもいい。早よ」
相澤に名前を呼ばれた例の男子が、グラウンドに敷かれた白線の円の内側へ立つ。ソフトボールを握り、肩を回して軽くストレッチをすると、彼は勢いよく腕を振りかぶった。
「んじゃまぁ──球威に爆風をのせる……!死ねえ!!」
リリースの瞬間、凄まじい爆発が発生する。
投げられた白球は瞬く間に空高く吹き飛び、あっという間に彼方へ消えていった。相澤が手にしていたスマホのようなデバイスには、その結果が表示されている。
「まず自分の最大限を知る。それが、ヒーローの素地を形成する合理的手段」
爆豪の結果は、705.2m。
個性の使用を禁じられている中学までの身体測定では、決して出ることのない大記録だった。
「うぉぉぉ! なんだこれ、面白そー!」
「705ってマジかよ」
「個性思い切り使えんだ! さすがヒーロー科!」
まず目にすることのない数値。そして入学初日から個性を全面的に使用して行う身体測定という、これまで経験したことのない催しに、一部の生徒たちは興奮を隠せない様子だ。
しかし──。
「面白い、ね……ヒーローになる為の三年間をそんな腹積もりで過ごす気でいるのか? ──よし、トータル成績最下位の者は見込み無しと判断し、除籍処分としよう」
「はあああ!?」
「(それは……なんともまぁ)」
続いて飛び出した爆弾発言に、今度はクラス全員が激しく反応する。渚もまた突然の宣告に困惑しつつも、おそらく相澤にとって何か思うところがあったのだろうと察していた。
この個性把握テストが最初から最下位除籍という形式だったのなら、「よし、なら」とは言わないだろう。
「と、とんでもない事になっちゃったね、渚……」
「(本気で最下位にするつもりだ、この人)」
「生徒の如何は俺たちの自由。ようこそ、これが雄英高校ヒーロー科だ」
これが最高峰か、と渚は拳を握りしめた。
合格したことや、早々に仲良くなれそうな友人が出来たことで、どこか楽観的になっていた気持ちが自然と引き締まる。ある程度の覚悟はしていたが、それにしても洗礼というにはあまりにも重いテストだった。
「放課後ファストフード店で談笑したかったなら、お生憎……これから三年間、我々は全力で君たちに試練を与え続ける。自然災害に大事故、いつどこから来るか分からない厄災──そういうピンチを覆していくのがヒーローだ。要するに、Plus ultraさ。全力で乗り越えて来い」
挑発するかのような表情と仕草に、不満と困惑が入り混じっていた生徒たちも──ここに至り、ようやくこの個性把握テストへ真剣な面持ちで向き合い始めていた。
「さて、デモンストレーションは終わり。こっからが本番だ」
第一種目は50メートル走。
渚は、この種目では個性を使わなかった。というのも、どう工夫しても記録が伸びそうになかったからである。故に体内資源……もとい脂質の温存も兼ねて、まずは身体を温める意味も含め、純粋な身体能力で臨んだ。
記録は7秒20。
最後に中学で計測した時より僅かに速かったが、移動へ応用できる個性を持つ生徒たちとは比較にならない。飯田などは早くも3秒台という驚異的な記録を叩き出していた。
第二種目の握力も同様だった。
こちらも個性は使わなかった。そのせいで相澤の何かを含む視線が向けられていたことは彼女も自覚していたが、しかしどうしようもならないものはどうしようもないのである。次の第三種目である立ち幅跳びでは、そろそろ何か言われるだろうと感じたこともあり、ようやく個性を使用することにした。
生憎と、参考になりそうな生徒──爆破系と思しき個性を持つ爆豪が、自分よりも先に計測していたことは彼女にとって幸いだった。
両手に12センチ単装砲を生成展開し、跳躍した瞬間に砂場へ向けて左右一発ずつ順番に砲撃する。演習弾ではあるが、その反動を利用して滞空時間を伸ばしたのだ。
流石に爆豪ほどではないにせよ、生成と装填を余裕のある範囲で繰り返し、結果として砂場を飛び越えることに成功した。
相澤の視線の色が第二種目までのものとは変わったことを感じ取り、渚は内心でそっと安堵の息を吐く。
続く第四種目の反復横跳びは普通に行ったが、第五種目のボール投げでは砲口にボールを添え、砲撃によって加速させることで記録を伸ばした。運動エネルギーと爆発エネルギーを重ね合わせた、彼女なりの創意工夫である。
しかしその直後、別の女子生徒が中世の大砲を思わせる巨大な砲を創造し、そこへボールを装填して砲撃するという、渚からすれば上位互換もいいところな方法でボール投げを突破したものだから、流石に肩を落としてしまう。そんな彼女を見て、耳郎が苦笑混じりに慰めていた。
それはともかく──。
未だ目立った記録を出していない、それどころか他の種目の記録も平凡な一人の男子に、生徒たちの視線は自然と集まっていた。
総合成績最下位は除籍。
そういう形式のテストである以上、残念ながら現時点で最もそれに近いのは彼だろうと、流石の誰も口には出さないまでも、渚を含めてそう考えていた。相澤の目つきも、心なしか他の生徒へ向ける時より厳しく見える。
「なっ──今確かに、個性を──っ!」
ソフトボール投げ。
円の中へ入り、ボールを振りかぶった彼の初球は力なく弧を描き、やがてボトリと地面へ落ちた。記録は46メートル。誰もが何かしら突出した数字を叩き出している中では、あまりにも見劣りする結果だった。
「個性を消した。ったく、やはりあの入試は合理性に欠ける。何度も言ってきたんだが……オマエみたいな奴でさえ合格できてしまうのは、選抜システムに欠陥があることの証左だろう」
「個性を消した……!? あのゴーグル、そうか……! あなたは抹消ヒーロー〈イレイザーヘッド〉!!」
聞き覚えのない名前に、知っている者と知らない者が入り混じってざわめく。しかし渚には、数年前にヒーロー専門誌でその名前を見かけた記憶があった。
確か視線を合わせた相手の個性を封じることができる、そんな個性のヒーローだ。いわゆるアンダーグラウンド寄りのヒーローであり、マスメディアへの露出はほとんどないと聞いたことがある。
もっとも、ヒーロービルボードチャートへ名を連ねるような有名ヒーローならともかく、それ以外のヒーローまで把握しているわけではない。彼の言葉を聞いて、ようやく曖昧な記憶の中から名前と能力が結び付いた程度だった。
「イレイザーヘッド……ああ、なるほど。それでね」
「渚?」
「いえ、なんでも。ところで響香ちゃんはどう? 大丈夫そう?」
「うーん……正直、流石に最下位ではないとは思うよ。アイツには悪いけど」
癖なのだろう。個性のイヤホンジャックを指へくるくると巻き付けながら、耳郎は横目で緑髪の男子を見た。
彼女が言わんとしていることは、渚にもよく分かっていた。
個性を発動しているのだろうか。逆立つ髪の隙間から見えた相澤の瞳は赤く染まり、その眼光は鋭い。怒りとは違うことだけは分かるが、その奥にある感情までは渚にも読み取れない。
相澤は、個性を消されたことで記録が伸びなかったのであろう緑髪の男子を、首に巻いた布で引き寄せて何事かを告げている。内容までは、流石に渚たちの位置からは聞こえなかった。
「指導を受けているようだな」
「ハッ、除籍宣告だろ。無個性の雑魚が」
「無個性……?」
明らかに彼を見下した口調だったが、それに眉を顰めるより先に、渚はその言葉の内容に引っ掛かった。
無個性なのに、あの入試を突破したというのか。
ありえない、と即座に否定する。
渚たちの世代において、無個性はもはや旧時代の天然記念物か、生きた化石に近い存在だ。逆説的には、それだけ個性を持つ人間が当たり前になった社会なのである。
倍率三百倍、あの日だけでも千人以上はいたであろう受験者たち。あの熾烈な競争を──仮想敵がひしめくあの演習場での実技試験を、無個性の人間が容易く突破できるほど雄英の壁は低くない。
テスト中の二人の様子から旧知の仲であることはすぐに分かる。だが、それを差し引いても爆豪の発言は明らかにおかしかった。
「無個性? 彼が入試で何をしたのか君は知らないのか!?」
「あ?」
「彼は──」
飯田と爆豪のやり取りに耳を傾けながらも、渚は緑谷から目を離さなかった。爆豪の言葉にあった違和感。その真偽を確かめたいと思ったからだ。
──ドン、と砂埃が舞う。
爆豪がデモンストレーションで見せた時以上に、渚には強烈な一撃に見えた。
「705.3メートル」
記録計測用ロボットから告げられた数字に、それまで見守っていた生徒たちから歓声が上がる。
「相澤先生……まだ、動けます……!」
「こいつ──」
「(指が腫れてる? ……本人が自壊するほどのパワー、ということ? いや、それはそれでどうやってあの入試を……)」
「やっとヒーローらしい記録が出たー!」
顎に手を当てながら考え込み、そこで渚はふと思い出す。
入試は、仮想敵を倒すことだけではなかった。
仮想敵の撃破数が少なくとも、それ以上にヒーローらしい行動を示せば評価される。つまり救助行為。審査員にそうした行動を認められ、彼はあの敵ポイントとは別枠のポイントを獲得したのかもしれない。
そして身体強化系と思しき個性と、腫れ上がった指を見て、これまで個性を使わなかった理由にも思い至る。
身体強化系でありながら自壊するということは、まだ出力の調整ができていないのだろう。個性は遅くとも四歳から五歳までには発現する。それにもかかわらず、あそこまで制御が未熟であるなら、何らかの事情で使用を控えていた可能性が高い。
兎にも角にも、不思議な雰囲気を持った少年だなと思った。
──その後、何故か突然激昂した爆豪が、計測を終えたばかりの彼へ向かって突進し、それを相澤の“捕縛布”で止められるという騒動もあったが……最終的には大きな問題もなく、個性把握テスト全種目の計測は終了した。
相澤が生徒たちの前へ立つと同時に、場に緊張感が走る。
渚の隣に立つ耳郎は、最下位だけでなく成績の悪い生徒までまとめて除籍されるような最悪の展開がないことを祈っているようだった。
しかし──。
「ちなみに除籍は嘘ね。君たちの全力を引き出す合理的虚偽ってやつさ」
「はぁぁぁ──!?」
表示された総合成績の最下位は、例の男子──緑谷出久だった。しかし直後、皮肉げに口角を上げた相澤によって、除籍処分云々が嘘だったことが明かされる。特に緑谷や飯田を筆頭に、何人もの生徒が驚愕で声を上げた。
「あんなの嘘に決まってるじゃない」
五十メートル走で原付を出して悠々とゴールし、ボール投げでは大砲まで創造してみせた女子生徒──確か八百万とかいったか──が、呆れたように呟く。
だが渚は、先程まで緑谷へ向けられていた相澤の厳しい視線や態度を思い返し、とても全てが嘘だったとは思えなかった。
合理的虚偽。おそらく、今のその言葉自体が相澤なりの合理的虚偽なのだろう。
とんでもない人物が担任になったものだ。
それが、短い時間の中で渚が抱いた相澤消太という人間への率直な評価だった。
■■■
「雄英って凄いね。初日からまさかあんな事になるなんて」
「ほんとにね」
時刻が正午に差し掛かった頃、感嘆したような声を漏らした耳郎に、渚は苦笑しながら頷いた。
今日は入学初日だ。
本来であれば入学式やガイダンスが行われるはずだったのだが、相澤によって個性把握テストが実施された結果、テストが終わった頃には入学式もとっくに終了していた。ガイダンスの方もプリントが配布された程度で、詳しい説明は翌日のホームルームへ持ち越しとなっている。
入学式に両親が来られなくなったのは、結果的には良かったのかもしれない。
そんなことを考えながらも、渚はこれから始まる高校生活を思い、少しばかりの不安を覚えていた。
「あんたはこの辺りに住んでるんだっけ?」
「うん。歩いて十分くらいの所」
「一人暮らしか、良いな」
「でも大変よ? 洗濯も掃除も料理も全部自分だもの」
「うへぇ。やれない事はないだろうけど絶対メンド〜」
下校時刻を迎え、渚は耳郎と共に昇降口を出た。
雄英のある垢離里ではないが、耳郎は同じ静岡県内から電車で通学しているらしい。そして彼女が利用する駅の近くに、渚の住むマンションもあった。そのため、せっかくだから一緒に帰ろうという流れになったのである。
「てか料理も出来んだ?」
「ある程度のものは作れるわね。昔から、そういうのは自分でやれって言われてきたから」
「厳しいのか放任してるのかよく分からないね」
「でも仲は良いわ。響香ちゃんの家は?」
「うちは……うん、割と自由かも。仲は凄く良いと思う」
照れくさそうに笑う彼女を微笑ましく思いながら、渚は他愛もない話を続けた。
まだ名前と顔が一致しないクラスメイトたちの印象や、中学とは比較にならない雄英の自由さ。そして担任である相澤の強烈さ──そんな話題で盛り上がりながら歩いていると、やがて見慣れたマンションが視界に入る。
その前で立ち止まった渚を見て、耳郎が少し驚いたように目を見開く。
「うわ、めっちゃ綺麗なマンションじゃん。もしかして渚、ここに住んでるの?」
「ええ。良かったら上がってく?」
「いいの?」
「そうね。お昼時だし、折角なら一緒にご飯食べましょ。何か作るわ。……予定があるなら別に構わないけど」
「行くよ行く!」
中学で生徒会長を務めていた渚には、それなりに友人がいた。だが、自宅に招くほど親しい相手はほとんどいなかった。古民家同然の実家へ呼ぶのに気が引けたという事情もある。
そんな彼女が、既に友人と呼べはするものの、付き合い自体は浅い耳郎を自宅へ招いたのは、実家とは異なりマンションが綺麗だからというだけではない。せっかく縁ができた相手と、もっと仲良くなりたい。そういう気持ちが少なからずあった。
耳郎もまた遠慮がちではあったが、同い年で一人暮らしをしている渚の生活には興味があったのだろう。全く迷惑ではないと念を押されると、素直に頷いていた。
「お、おじゃましまーす」
「いらっしゃい」
部屋へ足を踏み入れた耳郎は、思わず周囲を見回した。
濃紺と白を基調とした落ち着いた色合いのファブリック。深い色味の木製家具。実家の自室で使っていた調度品の趣味を、そのまま広げたような空間だった。
テレビ脇に置かれた小さな時計が静かに時を刻み、ソファ横のランプが穏やかな存在感を放っている。
「渚って意外とレトロ趣味なんだ。もっとこう、お嬢様!って感じの部屋かと思ってたよ」
「母方の祖父が元々海自の将官でね。小さい頃、その人の部屋がこういう雰囲気だったの。気付いたら私も似たような趣味になってたわ」
手洗いを済ませ、ブレザーを脱いだ渚は、お気に入りのデニムエプロンを身につけながらそう答えた。耳郎はへぇ、と興味深そうに相槌を打ちながら、なおも室内を眺めている。
「響香ちゃんってアレルギーとかある?」
「特にないよ。……うちも何か手伝おうか?」
「ううん、気にしないで。すぐ終わらせるから、ゆっくり寛いでなさいな」
カウンターキッチンでテキパキと料理を始める渚を、スツールに腰掛けて眺めていた耳郎は、ふっと小さく笑って呟いた。
「渚って良いお母さんになりそうだね」
「そ、そんなに老けて見える……?」
思わず手を止めて振り返る渚に、耳郎は笑いながら首を横に振った。
「あっははは。違う違う。そういう意味じゃなくてさ。なんか面倒見良さそうだし」
「そう? 私より響香ちゃんの方が面倒見良いじゃない」
「それは渚が抜けてるから心配なだけ」
そう言われて、渚は少しだけ考える。
確かに昔から、困っている人がいれば放っておけない性分ではあった。生徒会長を務めていた頃も、誰かの相談に乗ったり、面倒事の仲裁に入ったりすることは少なくなかった。だがそれは別に特別に意識していたものでもない。
そもそも、面倒見の良さなら自分よりも耳郎の方が勝っていると渚は思っている。入試の時もそうだが、それ以降も色々と優しくしてくれている。良いお母さん、というのなら自分よりも耳郎だろう。
そんなことを考えながら、渚は手際よく調理を進めていく。やがて簡単な昼食が出来上がり、二人で向かい合って席に着いた。
「いただきます」
「いただきます」
まだ入学初日だというのに、雄英高校は想像していた以上に騒がしく、そして濃密だった。この先の三年間がどのようなものになるのか、渚にはまだ分からない。ただ一つだけ確かなのは、今日という一日が、その始まりとして渚の忘れられない日になったということだった。