鈴木悟の残響 - 骸の玉座に座してなおも人の夢を見る - 作:朝型人間
ナザリック地下大墳墓の空気は、いつもと変わらないはずだった。
磨き上げられた床。
静かに並ぶ燭台。
音もなく控えるメイドたち。
当然のように保たれた秩序。
だが、アインズの内側だけは違っていた。
アルベド。
ユリ・アルファ。
シズ・デルタ。
三人を伴い、アインズは宝物殿へ向かっていた。
目的は明確だった。
ワールドアイテム。
それが必要になった。
そう判断せざるを得なかった。
シャルティア・ブラッドフォールンは、死亡していない。
所在も確認されている。
存在反応もある。
だが、《伝言》には応じない。
命令にも反応しない。
ナザリックの命令系統から外れている。
精神支配。
魅了。
洗脳。
支配系状態異常。
考えられる可能性は、すべて検討された。
解除魔法も試した。
状態異常回復も試した。
精神操作への対抗手段も用いた。
だが、届かなかった。
通常の魔法体系では干渉できない。
この事実が意味するものは、一つしかなかった。
ワールドアイテム。
それに類する何かが、シャルティアに使われた。
アインズは内心で、何度もその結論を反芻していた。
ワールドアイテムを持つ者が、この世界にいる。
そして、それがナザリックの守護者に届いた。
自分は、それを防げなかった。
シャルティアに外部任務を与えることを許可したのは、自分だ。
セバスたちの任務に同行させることを認めたのも、自分だ。
一人だけ待機させるのも可哀想だ。
戦力活用としても悪くない。
その程度の判断だった。
その結果、ペロロンチーノが創ったシャルティアは、何者かの精神支配を受けた。
友の娘。
そんな言葉が、アインズの中で重く沈む。
シャルティアは、ただの配下ではない。
守護者という戦力でもない。
至高の仲間が遺した存在。
ナザリックの一部。
自分はそれを守るべきだった。
感情が膨れ上がりかける。
だが、アンデッドの精神がそれを強制的に均す。
焦燥は薄れる。
恐怖は押し潰される。
しかし、後悔だけは消えなかった。
冷たく、重く、胸の奥に沈んだままだった。
「アインズ様」
アルベドの声が聞こえた。
アインズは歩みを止めずに答える。
「何だ」
「宝物殿へ到着いたします」
「ああ」
短く答える。
それ以上、言葉はなかった。
アルベドも何も言わない。
ユリもシズも、ただ静かに後ろへ続いている。
一行は、宝物殿へ至る扉の前に立った。
そこは、ナザリックの中でも特別な場所だ。
ギルドが集めた財宝。
装備。
神器。
ワールドアイテム。
アインズ・ウール・ゴウンの力そのものが眠る場所。
アインズは指に嵌めた《リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン》へ意識を向けた。
ナザリック内部を移動するための特別な指輪。
宝物殿へ至る鍵でもある。
転移。
視界が切り替わった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
宝物殿の空気は、他の階層とは違っていた。
重い。
静か。
そして、濃い。
金銀財宝が眠る場所でありながら、ただの富の匂いではない。
この場所に集められたものは、力そのものだった。
アインズが一歩踏み出した時。
前方に、一つの影があった。
アルベドが息を呑む。
「タブラ様……?」
その声は、わずかに揺れていた。
タブラ・スマラグディナ。
アルベドを創造した至高の御方。
彼女にとって、特別な存在であることは間違いない。
だが、揺れは一瞬だった。
次の瞬間、アルベドの目から熱が消えた。
「いや、違う」
低い声。
「殺しなさい」
ユリとシズが即座に動こうとする。
その瞬間、アインズの声が落ちた。
「待て」
たった一言。
それだけで、二人の動きが止まった。
アインズは、タブラの姿をした者を見た。
「パンドラズ・アクターだ」
その名を聞いた瞬間、タブラの姿をした者は大仰に両腕を広げた。
「おお、我が創造主!」
芝居がかった動作。
過剰な姿勢。
無駄に高い声。
「モモンガ様!」
その呼び名に、アインズの内側がわずかに揺れた。
モモンガ。
今の名ではない。
だが、かつての自分の名。
パンドラズ・アクターは、深く、深く頭を下げる。
その動作すら、妙に大仰だった。
「今は、アインズ・ウール・ゴウンと名乗っている。アインズと呼べ」
アインズは短く言った。
普段であれば、その過剰な挙動に内心で頭を抱えていたかもしれない。
なぜ自分はこんな設定をしたのか。
なぜこんな動きを取らせたのか。
かつての自分を殴りたい衝動が湧いたかもしれない。
だが、今は違った。
そんな余裕はなかった。
「アインズ・ウール・ゴウン様!」
パンドラズ・アクターは、さらに誇張された動きでその名を復唱した。
アルベドは、どこか複雑な顔をしている。
ユリは沈黙。
シズは無表情のまま、じっと見ていた。
パンドラズ・アクターは、その姿を変える。
タブラ・スマラグディナの姿が溶けるように崩れ、軍服に身を包んだ異形の姿へと戻った。
宝物殿の領域守護者。
アインズ自身が創造したNPC。
パンドラズ・アクター。
彼は、再び深く礼をした。
その動きの中で、ほんのわずかな間が生まれた。
誰も気づかないほどの一瞬。
だが、パンドラズ・アクター自身は気づいていた。
創造主の反応が薄い。
いつもの沈黙ではない。
困惑でもない。
照れでもない。
ただ、先を急いでいる。
重いものを背負ったまま。
パンドラズ・アクターは、それを感じ取った。
だが、アインズはその変化に気づかない。
今の彼には、そこまで見る余裕がなかった。
「奥へ進む」
アインズは言った。
「指輪を預ける」
アインズは、自らの指から《リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン》を外した。
宝物殿へ至るための鍵。
ナザリックを移動するための特別な指輪。
だが、この奥へ進むには外さなければならない。
この先には、かつての仲間たちの姿を模したアヴァターラがいる。
その防衛機構は、指輪を持つ者を侵入者として認識する。
アインズは指輪を、パンドラズ・アクターへ差し出した。
「お預かりいたします」
パンドラズ・アクターは深く頭を垂れ、両手で恭しく受け取った。
続いて、アインズはアルベドを見る。
「アルベド。お前もだ」
「……はい」
アルベドの指が、ぴたりと止まった。
彼女にとって、その指輪はただの転移用アイテムではない。
アインズから与えられたもの。
アインズとの繋がりを、形として示すものだった。
「アルベド」
「分かっています」
そう言いながらも、アルベドはすぐには外さなかった。
指先で、名残惜しそうに指輪を撫でる。
「少しだけですわ。ほんの少しだけ、離れるだけですものね」
それは誰に向けた言葉なのか。
少なくとも、指輪へ語りかけているように見えた。
ユリは目を伏せた。
シズは無表情のまま、じっとアルベドの指輪を見ている。
普段のアインズであれば、内心で何かを思ったかもしれない。
重い。
いや、少し怖い。
いやいや、忠誠心の表れだ。
そう自分を納得させていたかもしれない。
だが、今は時間が惜しかった。
「早くしろ」
「……はい」
アルベドは、渋々指輪を外した。
パンドラズ・アクターはそれも恭しく受け取る。
二つの指輪を預け、アインズたちは宝物殿の奥へ進んだ。
パンドラズ・アクターは、深く頭を垂れたまま見送る。
その背に、違和感はさらに強まった。
いつもの支配者の背ではない。
何かを悔い、何かを決めた者の背だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
霊廟の奥には、静かに並ぶ影があった。
四十。
かつての仲間たちの姿。
至高の四十一人のうち、アインズを除いたすべての者たち。
一人、また一人と去っていく仲間を見送るたび、アインズはその姿をここに残してきた。
もう戻らないかもしれない者たち。
それでも、忘れたくなかった者たち。
だから、作った。
彼らのアヴァターラを。
かつて共に笑い、共に戦い、共にこのナザリックを築いた者たちの墓標として。
アルベドは、息を呑んでいた。
ユリも、シズも、言葉を発しない。
この場所は、彼女たちにとって聖域だった。
神々の姿が並ぶ場所。
不可侵の霊廟。
アインズにとっては、少し違っていた。
神ではない。
仲間だった。
馬鹿な会話をした。
くだらないことで笑った。
真剣に攻略を考えた。
新しい装備を自慢し合った。
失敗しても、それを笑い話にした。
もう、戻らない時間。
「この場所は……」
アルベドの声が震えた。
「かつての仲間たちが去ったとき、私が作ったのだ」
アインズは静かに言った。
「四十一人の仲間たち。そのうち、私を除く四十人」
アインズは、その奥にある最後の空間へ視線を向けた。
「そして、最後のひとつは私の分だ」
アルベドが息を呑んだ。
「アインズ様……」
「いずれ、という話だ」
アインズは淡々と告げた。
「この場所は、去った者たちのための場所だ。ならば、最後まで残った私にも、いずれ置き場所が必要になる」
「そのようなこと……」
アルベドは言葉を詰まらせる。
アインズは彼女を見なかった。
ただ、並ぶ仲間たちの姿を見つめていた。
「私は、残された者だ」
静かな声だった。
「だからこそ、残されたものを守らねばならない」
残されたもの。
ナザリック。
宝物殿。
彼らが作ったNPCたち。
そして、シャルティア。
ペロロンチーノが創った娘。
アインズの胸の奥に、冷たい後悔が沈む。
自分の判断が、彼女を危険に晒した。
自分の命令が、彼女を外へ出した。
そして今、彼女を殺さなければならないかもしれない。
アインズは、霊廟に並ぶ仲間たちの姿から目を離さずに言った。
「シャルティアとは、私が一人で戦う」
「なりません」
アルベドは即座に顔を上げた。
「私が参ります。アインズ様が直接危険を冒される必要などありません」
「お前で勝てるのか?」
その一言に、アルベドは言葉を失った。
勝てる。
そう言いたかった。
だが、言えなかった。
シャルティア・ブラッドフォールン。
第一から第三階層の守護者。
守護者の中でも最強格。
アルベドであっても、確実に勝てるとは断言できない。
まして、相手は精神支配下にある。
行動を予測できない。
「……」
アルベドは答えられなかった。
「私とて、分が良いわけではない」
アインズは言った。
「シャルティアは、私にとって相性が悪い。正面から戦えば、勝率は良くて三割といったところか」
アルベドの顔が強張る。
「ならば、なおさら――」
「だからこそ、私が行く」
アインズは、霊廟に並ぶ仲間たちの姿を見た。
彼らが残した武器。
彼らが残した力。
それを使う。
友の娘を取り戻すために。
たとえ、そのために一度殺すことになったとしても。
「これは、私の責任だ」
アインズは呟くように言った。
「私が行かねばならない」
アルベドは、しばらく何も言わなかった。
唇を噛むように、ただ頭を垂れる。
やがて、彼女は深く息を吸った。
「でしたら」
声は、かすかに震えていた。
「ひとつだけ、お約束ください」
「何だ」
「必ず、お戻りください」
それは、守護者統括としての声ではなかった。
命令を求める配下の声でもなかった。
アインズを失いたくない。
ただそれだけを願う者の声だった。
アインズは、霊廟に並ぶ四十の姿を見た。
去っていった仲間たち。
残されたナザリック。
彼らが残したNPCたち。
そして、今まさに奪われたシャルティア。
自分は、それらすべてを預かっている。
「約束しよう」
アインズは言った。
「必ず帰る」
アルベドは、深く、深く頭を下げた。
「必ず……お待ちしております」
約束はした。
だが、その言葉を口にしたアインズの内側は、限界に近かった。
シャルティアは敵ではない。
ペロロンチーノが創った、ナザリックの大切な一部。
友の娘だ。
その娘を、自分の判断ミスで危険に晒した。
そして今、自分の手で殺さなければならないかもしれない。
アンデッドの精神が、過剰な感情を抑え込む。
だが、消えない。
後悔だけは、冷たく残り続けていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
霊廟を後にするアインズの足取りは重かった。
アルベドは、その背を見て何かを言いかけた。
だが、口を閉じる。
約束は得た。
ならば、今は信じるしかない。
宝物殿の入口へ戻ると、パンドラズ・アクターが変わらず待っていた。
預けられた二つの《リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン》を、恭しく捧げ持っている。
「お戻りなさいませ、アインズ様」
アインズは指輪を受け取った。
アルベドも指輪を受け取る。
アルベドは、それを両手で持ち、ほんの一瞬だけ目元を緩めた。
そして、丁寧に指へ戻す。
アインズはそれを見ていた。
だが、何も言わなかった。
今は、その小さな仕草に反応する余裕すらない。
「アルベド。ユリ。シズ」
「はい」
三人が姿勢を正す。
「先に戻れ。必要な指示は追って出す」
アルベドが一瞬だけ動きを止めた。
「アインズ様……」
「心配するな」
アインズは短く言った。
「約束は守る」
その言葉に、アルベドは深く頭を垂れた。
「……承知いたしました」
ユリとシズも静かに頭を下げる。
「アインズ様。ご武運を」
ユリの声は静かだった。
「……お気をつけて」
シズは短く告げた。
平坦な声だったが、視線だけはアインズから離れなかった。
アインズは頷く。
三人の気配が遠ざかっていく。
やがて、完全に消えた。
宝物殿に残されたのは、アインズとパンドラズ・アクターだけだった。
沈黙が落ちる。
黄金。
宝石。
神器。
ワールドアイテム。
かつてギルドが集めた数えきれない財宝が、周囲に眠っている。
だが今のアインズには、そのどれもが遠く感じられた。
先に口を開いたのは、パンドラだった。
「アインズ様」
アインズは答えない。
いや、答えられなかったのではない。
返す言葉を選ぶ気力がなかった。
「……いえ」
パンドラズ・アクターは、わずかに声を落とした。
「モモンガ様」
その名に、アインズの動きが止まった。
今の名ではない。
この世界で名乗るべき名でもない。
アインズ・ウール・ゴウン。
それが、今の彼の名だ。
ナザリックの支配者。
唯一残った至高の存在。
NPCたちが仰ぐべき王。
だが。
モモンガ。
その名は、もっと古い。
もっと弱く、もっと人間に近かった頃の名。
仲間たちと共に笑い、ふざけ、くだらない会話をし、攻略に熱中し、ナザリックを築いた頃の名。
アインズは、ゆっくりとパンドラズ・アクターへ顔を向けた。
「……今は、アインズだと言ったはずだ」
「はい。承知しております」
パンドラズ・アクターは深く頭を垂れる。
「ですが、今この場でお呼びすべき名は、そちらではないと判断いたしました」
「判断?」
アインズの声が、わずかに低くなる。
本来であれば、不敬とも取れる言葉だった。
だが、パンドラズ・アクターは怯まない。
「はい」
彼は静かに答えた。
「私は、モモンガ様によって創られました」
アインズは黙る。
「宝物殿を守る者として。財を管理する者として。そして、モモンガ様が残されたものを保管する者として」
パンドラズ・アクターは、そこで一度言葉を切った。
「ですから、分かります」
「何が分かる」
「今の御身が、普段とは違うご様子ということが」
アインズは何も返さなかった。
パンドラズ・アクターは続ける。
「先ほど、私が誇張された礼を取った時、アインズ様はほとんど反応なさいませんでした」
「……」
「叱責も、困惑も、沈黙も、いつもの間もございませんでした」
アインズの中で、何かがわずかに揺れた。
パンドラズ・アクターは気づいていた。
あの大仰な態度に、普段の自分なら内心で頭を抱えていたはずだ。
恥ずかしさに耐えながら、それでも支配者として取り繕っていたはずだ。
だが、今回は違った。
そんな余裕がなかった。
「余計なことを」
アインズは言った。
声は冷たかった。
だが、その冷たさは、相手を拒むためのものではない。
自分を守るためのものだった。
パンドラズ・アクターは、静かに頭を下げた。
「申し訳ございません」
そこで終わるかと思われた。
だが、彼は続けた。
「ですが、私は宝物殿の番人です。至高の御方々から預かった品を、必要な時に、必要な方へ差し出す役目を与えられております」
アインズの視線が、わずかに動いた。
「預かった品?」
「はい」
パンドラズ・アクターは、ゆっくりと姿勢を正した。
先ほどまでの芝居がかった動きではない。
無駄のない、静かな所作。
「モモンガ様。至高の御方々より、あなた様へ託されたものがございます」
アインズは動かなかった。
「私に?」
「はい」
「誰が」
「詳細な名を、すべては知らされておりません」
パンドラズ・アクターは答える。
「ただ、複数の至高の御方々が関わった品であること。そして、最後に残るであろうギルド長へ渡すための品であること。その二つだけは、確かに命じられております」
最後に残るであろうギルド長。
その言葉は、あまりにも正確だった。
かつての仲間たちは、知っていたのか。
自分が最後まで残ることを。
知っていて。
それでも。
「……なぜ、私に直接渡さなかった」
声が出た。
気づけば、アインズはそう問うていた。
パンドラズ・アクターは静かに答える。
「直接渡せば、モモンガ様は受け取らないだろう、と」
アインズは言葉を失った。
「気を遣い、遠慮し、あるいは笑って流してしまうだろう。そう、至高の御方々は判断されたようです」
パンドラズ・アクターの声は穏やかだった。
「だから、宝物殿に預けられました」
「……お前に?」
「はい」
パンドラズ・アクターは深く頭を垂れる。
「モモンガ様が創られた私に」
沈黙が落ちた。
アインズは、返す言葉を見つけられなかった。
パンドラズ・アクターは宝物殿の奥へ視線を向ける。
「お待ちください」
そう告げると、彼は奥へ向かった。
その背を、アインズは黙って見送る。
宝物殿に、再び沈黙が戻った。
長くはなかった。
だが、アインズには妙に長く感じられた。
やがて、パンドラズ・アクターが戻ってくる。
その手には、小さな箱があった。
豪奢ではない。
むしろ、宝物殿に眠る数々の神器と比べれば、あまりにも質素だった。
黒い箱。
蓋には、四十の小さな紋章が刻まれている。
アインズは、その紋章を見た。
知っている。
すべて、知っている。
かつて、同じ旗の下にいた者たちの証。
たっち・みー。
ウルベルト・アレイン・オードル。
ペロロンチーノ。
ぶくぶく茶釜。
ヘロヘロ。
やまいこ。
タブラ・スマラグディナ。
そして、他の仲間たち。
アインズは、視線を外せなかった。
パンドラズ・アクターは、箱を両手で捧げ持つ。
「名を、《星環の遺志(アストラル・レガシー)》」
静かな声だった。
「一度限りの使用で失われる、願望成就系の秘宝でございます」
「願望成就……?」
「はい。ただし、表層の願いを叶えるものではない、と伺っております」
パンドラズ・アクターは続ける。
「使用者の深層に眠る、本当の願い。それを読み取り、叶えるものだと」
「本当の、願い……」
アインズは呟いた。
願いなど、いくらでもあった。
シャルティアを救いたい。
ナザリックを守りたい。
NPCたちを守りたい。
アインズ・ウール・ゴウンの名を汚したくない。
仲間たちが遺したものを壊したくない。
だが、それが本当の願いなのか。
分からない。
分からなかった。
「モモンガ様」
パンドラズ・アクターは、静かに言った。
「至高の御方々は、こうも命じられました」
アインズは動かない。
「モモンガ様が、モモンガ様であることを忘れそうになった時。ギルド長として、王として、アインズ・ウール・ゴウンとして背負いきれぬほどのものを抱えた時。これを渡せ、と」
その言葉が、アインズの内側へ落ちた。
深く。
重く。
砕けるように。
「……私は」
声が漏れた。
それは王の声ではなかった。
支配者の声でもなかった。
「私は、忘れてなど……」
言い切れなかった。
忘れていない。
そう言いたかった。
だが、分からなかった。
自分は、モモンガだった。
鈴木悟だった。
だが、今はアインズ・ウール・ゴウンだ。
唯一残った至高の存在。
ナザリックの支配者。
NPCたちの主人。
そう振る舞い続けなければならない。
そうでなければ、残されたものを守れない。
だが。
そのために、何を押し殺してきた。
何を見ないふりをしてきた。
どれだけ、感情抑制に救われてきた。
どれだけ、それに逃げてきた。
シャルティア。
ペロロンチーノが創った娘。
友の娘。
自分の安易な判断で危険に晒した。
そして今、自分の手で殺さなければならないかもしれない。
「……っ」
何かが、軋んだ。
パンドラズ・アクターは、箱を開く。
中には、指輪があった。
星を閉じ込めたような、静かな輝き。
派手ではない。
だが、目を離せない。
内側には、四十の紋章が小さく刻まれている。
アインズは、その指輪を見つめた。
かつての仲間たちが、これを作った。
自分のために。
一人残されるであろう、自分のために。
その事実が、アインズの中の何かを決定的に揺らした。
「受け取ってください」
パンドラズ・アクターは言った。
「これは、モモンガ様のものです」
アインズは、長い沈黙の後、手を伸ばした。
指輪が、骨の指に触れる。
その瞬間。
四十の紋章が、静かに光った。
星のような光ではない。
小さな灯火。
かつて共にいた者たちの名残。
その光が、アインズの骨の指へ絡みつく。
そして、彼の中に沈んでいた名を呼び起こす。
モモンガ。
鈴木悟。
残された者。
友。
願いは、言葉にならなかった。
人間でありたい。
逃げずに痛みたい。
だが、アインズ・ウール・ゴウンを捨てたくない。
ナザリックを守りたい。
NPCたちと、これからも過ごしたい。
その矛盾した願いを、《星環の遺志》は読み取った。
そして、叶えた。
世界が、反転した。
骨だけの身体に、熱が生まれる。
空洞だった胸に、音が宿る。
どくん。
一度。
どくん。
二度。
心臓が動いている。
肺が、空気を求める。
喉が震える。
肌が、空気の冷たさを拾う。
骨ではない。
肉だ。
血だ。
熱だ。
そして。
感情が消えなかった。
後悔が。
恐怖が。
悲しみが。
波のように押し寄せる。
アンデッドの精神抑制は、もう働いていなかった。
アインズだった者は、震える息を吐いた。
息。
それは、彼が長い間忘れていたものだった。
パンドラズ・アクターは動かなかった。
動けなかった。
目の前にいる創造主は、先ほどまでとは違っていた。
白骨の王ではない。
黒衣を纏った、生きた人間。
だが、彼は膝を折った。
変わったからではない。
変わってもなお、その方が自分の創造主であることに変わりはないからだ。
「モモンガ様」
パンドラズ・アクターは、深く頭を垂れた。
その声に、男は震える手で自分の胸に触れた。
鼓動があった。
生きている。
痛みも、恐怖も、後悔も、消えない。
それでも。
いや、だからこそ。
彼は初めて、王ではなく、人として呟いた。
「……シャルティア」
友の娘の名を。
その声は、宝物殿の静寂に小さく落ちた。