当時の文壇に衝撃を与えた空手界からの刺客「キーパー」
自衛隊でのトラウマ、青春への強いコンプレックス、そして晩年まで彼を悩ませたアスペルガー症候群、ASD、PTSD、統合失調症、境界知能、ホモセクシャル。それらを軽妙かつ大胆に描いた遺作「東方雲蒸龍変」の最終話。白金の如く光り輝き伝説となった彼の軌跡を見逃すな!
敵の最後の一体が地に伏せた瞬間、幻想郷の空は橙色に染まっていた。
獅村燈は血の滲む拳を握りしめたまま、しばらく動かなかった。風が吹いて、戦場の埃を運んでいく。遠くで誰かが咳をした。生き残った者の咳だ。
脳裏に顔が浮かぶ。名を呼ぶのも辛いから、ただ浮かべるだけにした。
帰ろう、と燈は思った。もう十分だ。
天狗の里への帰路は不思議なほど静かで、仲間たちとほとんど言葉を交わさなかった。それでも良かった。黙ってそこに居てくれる者がいるというだけで、足は前へ出た。
椛が戸口で待っていた。
何も言わずに抱きついてきた。その温もりに、燈はようやく息を吐いた。ずっと止めていたような気がした。
夕飯の膳は質素だったが、椛が丁寧に作ったことは一目でわかった。味噌の香り、ほんのり甘い煮物、白くふっくらした飯。燈は一口ごとに、少しずつ人間に戻っていく気がした。
「ねえ、燈」
椛が茶碗を膳に置いた。少し改まった声だった。
「話があるんだけど」
燈は椀を持ったまま顔を上げた。
「私ね…お母さんになったの」
白い狼天狗の耳がぴくりと揺れた。椛は緊張した顔で燈を見ていた。嬉しいのか怖いのかわからない、そういう顔だった。
燈の目に熱いものが込み上げてきた。声が出なかった。
椛の瞳を見つめた。その瞳の奥に、これから生まれてくる小さな命を見ようとした。
――その瞬間。
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天井にひびが走っていた。
古い木の染みが、いつ見ても同じ形をしている。子供の頃から見ているから、目をつむっても描けた。
燈は動かなかった。
布団が薄かった。背中から床の硬さが伝わってくる。肌着は洗いすぎて繊維が死んでいて、肌に触れてもほとんど何も感じない。
ずいぶん長い夢だった。
起き上がると、体のあちこちが軋んだ。戦いの傷ではない。ただの疲れだ。昨日も一昨日も同じように体を使ったから、蓄積している。
窓の外が白んでいた。配給の時間が来る前に並ばなければならない。
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集合住宅の廊下に出ると、同じ顔をした男たちが列をなしていた。同じ顔、というのは実際に似ているのではなく、全員が同じ表情をしているということだ。虚ろ、とも違う。ただ、ここにいる、という顔。
配給のおにぎりは冷たく、米が固まっている部分と崩れている部分があった。冷や汁はほとんど味がしない。だしを取るものが足りないのか、それとも最初からそういうものなのか、もう気にしていない。
隣の男が黙って食べていた。名前は知らない。同じ棟に住んでいる。それだけだ。
父親が死んだのは先月のことだった。
洞窟の崩落。凶暴な妖怪の暴走に、運悪く巻き込まれたらしい。下敷きになって、そのまま。
葬儀らしい葬儀はなかった。燈が工場に報告に行ったら、作業長の河童が帳面に何かを記入して、「ご愁傷様です」と言った。それで終わりだった。
父親のことを格好いいと思ったことは、あまりない。気が短く、見栄を張り、いつも自分を大きく見せようとした。強い妖怪の前では腰が引けるくせに、弱い者の前では威張った。そういう男だった。
でも、と燈は思う。
自分も同じ炭鉱で働いている。
別にここしかないわけではない。外に出ようと思えば出られる。でも出られない。出たとして、どこかでまともにやっていける気がしない。
怖いのだ。
その怖さを直視するのも怖いから、「ここが慣れているから」「今は貯えがないから」と言い訳を探す。父親も同じことをしていたのかもしれない。それが一番、腹立たしかった。
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炭鉱に入ると空気が変わる。冷たく、湿っていて、土と岩の匂いがする。
燈はツルハシを手に取り、いつもの場所に向かった。
カン、カン。
響く音が壁に跳ね返ってくる。
夢の中で燈は戦っていた。強大な敵と、信頼できる仲間と、守るべきものを背負って。最後には勝って、泣いて、帰って、温かい飯を食べた。
全部でたらめだった。
カン、カン。
今日は椛は来るだろうか。
犬走椛。白狼天狗の哨兵で、たまに作業長への報告に来る。こちらが一方的に知っているだけで、話したことは一度もない。でも来ると、なんとなく坑道の空気が少し変わる気がした。気のせいかもしれない。
いつか話してみたい。
なんていうか、挨拶くらい。「お疲れ様です」とか。
燈は苦笑した。誰もいないのに苦笑した。
この一週間、まともに交わした会話といえば、作業長に「ツルハシが錆びてしまいました、取り換えを希望してもよろしいでしょうか」と言ったのが最後だ。それも会話と呼んでいいのか怪しい。
カン、カン。
洞窟の奥で、誰かのツルハシが鳴いていた。