リゼロキャラ達がIFルートや本編の記憶を持って初期地点に逆行してきた件(主人公:スバル)   作:駄々我菓子

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家具の完成

 不快だ。スバルは雑巾で顔を拭われる感覚をそう処理した。何よりも厄介なのは、これがいつまで続くのかが分からないという事だ。

 

「こっちも汚れているわね……」

 

 そう言われ、雑巾の位置が顔から耳の方に移った。そのタイミングを利用して、深い呼吸をする。何度も顔を拭われていれば、呼吸もやりずらくなっていたからだ。

 そんなことはどうでもいい。

 スバルは自分の行いを深く反省させられる。あれは、紛れもない裏切りだった。

 それでも、成仏できるならと強欲の自分を信じたのに全てが失敗に終わった。

 あの後のラムについて、何も分からなかった。彼女には何が見えているのだろう?今、なんのためにこれをやっている?

 

「……現実に戻れて、さらに助かるの?」

 

「チッ・・・・目も口も動かさないで。やりずらいわ」

 

 本当にあの現実に戻れて、さらに解決策が思いつているのなら、それはもう神だ。ただ賢いなんていう言葉では言い表せないだろう。そして、それだけ賢いなら今スバルがどれだけその答えを知りたがっているかも分かっているはずだ。

 それでも、ラムはまるで家具を拭くように、スバルを扱った。

 

 スバルは内心で頷く。自分は家具だ。下手に考えて余計な行動に走ってきたせいで、今までなんどラムを失望させたのだろう。

 もしも本当に全ての解決策を彼女が思いついているのなら、スバルは家具になるべきなのだ。

 家具はまず、使える状態に手入れしなければならない。だから、あと何時間雑巾で顔を拭われようが、それを不快だと感じることすら自分にはおこがましいのだ。

 

 家具、道具、物体、物質、ただそこに存在する異物、役立たずの出来損ない。だが、それでも使い方によってはあの悪夢すら打開する鍵になる。それができるなら上手く使ってくれ。

 魂を磨いて磨いて、邪魔なものをそぎ落とす。

 

「終わったわ」

 

「え?」

 

 突然の終了に、思わず気の抜けた声が出てしまった。

 どうやら雑巾で顔を拭う行為には気が済んだらしい。

 ようやく、心の準備ができたところだったためか、変な気持ちになってしまった。決して、もっとやってくれなどとは思う訳がないのだが。

 

「あぁ・・・・終わったのか、ありがとう……」

 

 適当にお礼を言って、スバルは立ち上がろうとした。

 だが、背後からラムに肩を掴まれるとまた椅子に座らされてしまう。

 

「待ちなさい。髪が乱れているわね」

 

「……う」

 

 思わず寒気がゾクッと背筋に走った。

 何も終わってなどいなかったのだ。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 静まり返った薄暗い平屋の中、ガタつく引き戸の隙間からわずかに風が吹き込む。

 背後から、一切の乱れも許さないように、ラムの指先がスバルの頭皮を規則正しく、機械のように撫で続けている。すでに数時間が経過し、指の滑るかすかな摩擦音だけが耳元で反復されていた。

 

「……じっとしていなさい、バルス。まだ、全然駄目。ここも、そこも……ほら、毛先がまだ散らかっているわ。ラムの目が誤魔化せると思って?」

 

 乾いた指の腹が、さっきも通ったばかりの頭頂部から側頭部へ、寸分の狂いもなく同じ軌道でゆっくりと滑り降りてくる。

 

「まったく、世話の焼ける男ね。……でも、安心していいわよ。ラムがこうして整え続けている限り、あんな不快なもの、何一つあなたの頭に入り込ませたりしないから」

 

 指先が再び生え際へと戻り、数千回目となる同じ感触が頭皮をなぞる。ラムの表情は背後にいるためか、見えないが、想像もしたくなかった。

 

「ねえ、バルス。……ラムの手、気持ちいいでしょう?」

 

 言葉を返さないようにしていた。最初の方は相槌を打っていたが、何か言い返す度に彼女が不快になっているような気がしたのだ。

 だが、スバルが何も言わなくなると途端に機嫌を良くし始めた。背後で独り言を言い始めた時は不安でたまらなかったが、それももう慣れた。

 これでいいのだ。ラムにはもう自分が見えていないのだと、スバルは確信してしまっている。

 

「……っ!」

 

 また、細い指先に後頭部から前髪を掻きならされた時、思わず肩を震わせてしまった。

 狂っている。この感覚には飽きるほど慣れたはずなのに、なぜか髪の毛の1本1本までに感覚が研ぎ澄まされていってしまうのだ。

 黙ってはいるが、脳内では大声で叫び散らしている。これが外に漏れないように抑えておかなくては。

 

「ズレたわ……チッ!」

 

 久しぶりにラムは舌打ちすると、その怒りのままにスバルの髪の毛をめちゃくちゃに乱した。

 これで最初からやり直しだ。ちょっとでも動いたら最初からやり直しなのだ。

 

「俺が……悪かった……ごめんなさい」

 

 そして、何かがプツリと切れた。

 

 スバルの突然の謝罪に、背後で機械的に動いていた指先がピタリと止まった。

 だが、それもほんの一瞬のこと。

 次の瞬間には、前にも後ろにもずれない全く同じ力加減で、指の腹が頭皮をぞわりと擦り抜けていった。

 言葉を返してしまったので、またキレられると思ったのはハズれだったようだ。

 

「……謝る必要なんて、どこにあるの?」

 

 奇跡的にも言葉のキャッチボールが成立した。これはいつぶりだろうか?

 

 ラムの声は酷く平坦で、どこまでも甘やかで、それゆえに逃げ場がない。

 すっと指が髪の隙間を分け入り、頭蓋の丸みを確かめるように、執拗に、ゆっくりと毛筋をなぞり下ろす。

 

「ええと……」

 

「バルスが悪いことなんて、何一つないじゃないの。全部……そう、全部バルスが、不潔なバルスが悪いのよ。バルスはただ、無力で、愚かで、ラムの手の届くところに座っていればいいの」

 

 文章の前半と後半で言葉が矛盾してるぞ、とツッコんでやることはできなかった。

 せっかく成立している言葉のキャッチボールを台無しにしたくない。

 

 耳元に落ちてくる吐息は温かいのに、頭皮の上を滑り続ける指先は、まるで冷たい陶器のようになめらかで、決して終わらない。

 

「ほら、また身じろぎした。……駄目よ、バルス。まだ頭の芯に、そのみっともない考えのカスがへばりついているのが見えるわ。……綺麗にしてあげる。ラムが、全部梳き取ってあげるから」

 

 指が額の生え際から、つむじ、そして襟足へと、もう数千回繰り返された完璧な軌道を描いて沈み込む。

 

「いい子ね、バルス。……ラムに全部預けて、何も考えなくていいのよ」

 

 どんな言葉を返そうか、スバルが考えている間に、また独り言のように彼女は話続けてしまう。

 このまま言葉を返さない方が平和なのだ。もうこの頭で思いつく何を言っても、彼女を不快にさせることしかできない。

 

「全部、ラムの言うとおりにするよ……だから、現実でやり直せる方法が分かっているのなら、それで助けてほしい」

 

 溜めて、解き放った言葉がこれだった。

 ラムの指先が、再びピタリと動きを止める。

 今度はすぐに再開されることはなく、スバルの頭皮の上にそっと両手が乗せられたまま、静寂が部屋を満たす。

 

 背後から、衣擦れの微かな音とともに、彼女の顔が耳元へとゆっくり近づいてくる。

 

「……現実で、やり直す?」

 

 ラムの声音には怒りも嘲笑もなく、ただ純粋な、どこまでも透き通った憐憫の色だけが混ざり合っている。

 頭に乗せられた指先が、髪の根元を優しく、逃れられない重みで包み込む。

 

「まだそんなみっともない妄想にしがみついているのね、バルス。あの、目を開けるたびに喉を抉られ、息をする間もなく命を擦り潰されるだけの、あの肉の塊に戻りたいとでも?」

 

「……え?」

 

 ふっと、冷たく乾いた吐息が、唖然としたスバルの耳朶を打つ。

 

「……けれど、そうね。ラムを誰だと思っているのかしら。あんな絶望的な状況の打開策も、この夢の理屈も……とうに全部、見抜いているわ」

 

「ッ!」

 

 確信に満ちたその言葉に、わずかな熱が宿る。しかしそれは救済の光などではなく、底なしの沼のような深さを湛えていた。

 

「あの地獄の結び目を解き、現実を塗り替えて目覚める道なら、最初から一つだけ存在しているのよ。……それはね、バルス」

 

 答えを待つ。夢にまで願った答えを、

 両手が両のこめかみへと回り、顔を正面へ固定するように、慈愛を込めて強く引き留める。

 

「バルスが、この偽りの平屋で、ラムとレムだけを完全に愛すること。ただ私たち二人だけに心と命を差し出すことよ。あなたの魂が私たちのものとして完全に染まりきった時、初めてこの夢の檻は反転し、現実の呪縛を食い破る」

 

 指先が再び、ゆっくりと、執拗に頭皮をなぞり始める。先ほどよりも深く、逃げ道を塞ぐように。

 それでも、その言葉の本当の意味がスバルには分からない。

 そんなことをして、どうやって現実で助かるんだ?

 

「……できるのかしら、バルスなんかに?レムのために流す血も、ラムのこの指の温もりも、すべてを永遠の愛として飲み干す覚悟が……本当にあなたにあるというの?」

 

「俺は、レムとラムを愛していない……。これは正直な気持ちだ。でも、二人が俺を見捨てないでいてくれたから、もう目を逸らしたりしない。ちゃんと向き合うと誓うよ」

 

 スバルの背後の引き戸の奥には、すでにラムの「施し」を5時間受けきったレムが横たわっている。

 焦点の合わない青い瞳を見開いたまま、口元からわずかに息を漏らし、仰向けでピクリとも動かない。

 

 レムとラム、2人と別の世界線で何があったのか、スバルには分からない。

 その重さを背負う覚悟も、諦める覚悟もなかった。

 でも、ラムの言うとおりにして全員助かるのなら、スバルの弱さの全てがそれ以上の意味を持たない。

 

「……愛していない、ですって?」

 

 耳元で、ラムの声がすっと冷え込む。

 けれど、スバルの両のこめかみを固定していた手は離れない。それどころか、爪の先がわずかに食い込むほど、頭蓋を強く引き寄せられる。

 

「呆れた。本当に、心底呆れたわ、バルス。そんな薄汚い本音を、よくもラムの顔の前で吐き出せたものね。……でも、ええ。嘘をついて媚びを売られるよりは、その濁った誠実さの方が、まだ壊しがいがあるというものよ」

 

 頭皮をなぞる指先が、首筋から鎖骨のあたりへと冷たく滑り降り、再び後頭部を抱え込むように持ち上げる。

 

「思い出しなさい、あのレムの姿を」

 

 冷酷な声に身を任せて目をつぶり、暗闇の中にあの顔を思い出してみる。

 レムは、目の焦点が合わなくなり、泡を吹いてしまうくらいおかしくなっていた。 

 

「ラムが5時間かけて頭を撫でてあげたら、ほら。あんなにも静かに、何も考えず、満ち足りて眠っているわ。血なんて一滴も流させない。ラムの手が、あの子の余計な思考を全部融かしてあげたのよ」

 

 そして、指先が再びスバルの生え際へと戻り、先ほどよりも強い圧力で、逃れようのない規則正しいストロークを再開する。

 

「『向き合う』……? そんな生温い覚悟で、ラムたちの愛に追いつけると思っているのかしら」

 

 首筋に触れる吐息が、微かに震えるような恍惚を帯びて耳朶を濡らす。

 

「いいわ、バルス。今は愛していなくても。ラムがこれから、毎日、毎日、何時間でもあなたの頭を撫で回してあげる。……あの子のように、目を開けたまま何も考えられなくなるまで。全部ラムの指で掻き消してあげるわ」

 

「・・・・・」

 

 返す言葉が無い。会話が成立しない。

 

 ガタつく引き戸の向こうから、冷たい風が吹き込む。

 寸分の狂いもなく繰り返される頭皮への摩擦が、正気の輪郭をじわじわと削り取っていく。

 

「向き合いなさい、バルス。……ラムの愛が、あなたのそのくだらない心を完全に塗り潰すのが先か。あなたが私たちを愛して、現実へ這い戻るのが先か……試してあげるわ」

 

「はい……俺を作り直してくれ。俺には……お前を救うことができない」

 

 何も考えずに、スバルの心に浮かんだ言葉だった。

 できないことをやろうとしたのが間違いだった。スバルは決して、絶対にラムを救うことなどできるわけがなかったのだ。

 

「……ふふ」

 

 耳元で、かすかな吐息交じりの笑みが零れる。

 頭皮を捕らえていたラムの両手が、ふわりと力を緩め、まるで壊れやすい硝子細工を扱うような慈しみの手つきに変わる。

 

「やっと、ラムの望む言葉を口にしたわね。……ええ、それでいいのよ、バルス」

 

 ここにきて、初めてスバルの言葉が彼女を不快にさせなかったようだ。

 指先が生え際から後頭部へと、これまでの数千回とは違う、どこか熱を帯びた粘り気のある動きで滑り降りる。

 

「救うだなんて、最初から思い上がりも甚だしいのよ。無力で、愚かで、一人では死ぬことすら選べない出来損ないのくせに。……ラムを救おうだなんて、百年早いわ」

 

 額に回された手が、背後から両目をそっと覆い隠す。

 視界が暗転し、畳の上で呆然と失神しているレムの姿も、ガタつく引き戸の縁側も消え去り、ラムの冷たい掌の感触と、規則正しく頭皮を撫で回す指の摩擦音だけが世界のすべてになる。

 

「いい子。目を閉じて、全部ラムに明け渡しなさい。あなたのそのみっともない自尊心も、余計な後悔も、……全部、ラムが一つ残らず撫で落として、綺麗な空っぽにしてあげる」

 

 耳元に唇が触れそうなほど近づき、甘く、逃げ場のない囁きが落とされる。

 

「……ほら、力を抜いて。ラムの指を感じなさい。もう何も、痛いことなんてないでしょう?」

 

 寸分の狂いもなく、同じ軌道、同じ圧力で、機械的かつ甘美な指先が頭皮を擦り続ける。

 スバルの正気の輪郭が、静かに、確実に溶け落ちていく。

 

 傲慢の極みだ。ラムの瞳が桃色に輝きだしたことが、終わりの証明であり、スバルでは到底届かないところに彼女が到達してしまった事の証明だったのだ。

 もう、この手は永遠に届かず、彼女から手を差し伸べられることしかできなくなったのだ。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 スバルは目を覚ますと、布団に仰向けに寝かされていた。

 すぐに失神していたことに気づき、飛び起きて外を見る。

 

「あ・・・・明るい!」

 

 すでに夜は終わり、朝になっていた。

 窓から外を見ていると、井戸端でラムが桶を使って衣類を洗う、規則正しい水音と衣擦れの音だけが微かに響いてきた。

 

 だが、それを呆然と眺めていたスバルは、腕をつかむ強い力でようやくレムに気が付いた。

 

「スバル君っ!ようやく目を覚ましたのですね!ずっと呆然としていたので、心配でしたっ!」

 

 呆然と失神していたといえば、レムのことだろう。昨日の姿がまだ目に浮かぶ。

 レムも、スバルと同じようにもうはっきりと意識を取り戻しているようだった。

 

「ははっ。まさか失神しちまうとはな。我ながら情けねーぜ」

 

 スバルが、軽く笑い飛ばすと、レムは何かに驚いたかのように目を見開いた。

 

「スバル君……どうしてそんなに不器用に笑うんですか?」

 

「ん?どゆことどゆこと?それはwhat do you mean?」

 

 冗談ぽく答えているのに、目の前の少女は涙を流してしまう。

 

「嘘です……その笑顔はスバル君の嘘です!その笑い方、まるで泣いているみたいで見ていられません!」

 

「何を言うてんねん、キミは?こんな天気の良い朝は笑顔から始めないと運気が下がるぜ?朝からレムの涙を見せられて、俺の心は張り裂けそうだ……」

 

 スバルは、胸に手を添えて内心をアピール。だが、その手を怪力のレムに奪い取られてしまった。

 

「ちょっ!あいたた!」

 

「レムが……だらしないから‥目を逸らした隙に、姉様にやられてしまいました!」

 

「痛い痛いっ!暴力反対!美人が台無し、おやつで許す!」

 

 リズムのいい軽口で返すと、強く睨まれてしまった。

 

「その、壊れてしまった血の一滴まで……全て吸い出さなきゃ!」

 

 だが、レムの狂った一言で、スバルの作りこまれた狂気が正気に戻りそうになった。

 掴まれた指先は一瞬だけ震え、この内心が外に漏れ出そうになってしまう。

 

「おいおい、血を吸いだすってなんだよ、吸血鬼か?そんな怖い事言うのやめようぜ?それよりも、ラムに外で仕事やらせてついさっきまで失神してたってやばいジャン♪。じゃあ、そろそろ俺達も仕事だ、仕事!」

 

 軽口で誤魔化しながらも、ひったくるように抱きとめられていた手を奪い返す。

 

「茶化さないでください!レムには分かります……。スバル君は姉様のいいなりになってそうやって壊れたフリをしているだけですっ!」

 

「あのさぁ‥。壊れたフリってどういう言いがかりなわけ?それって、俺を休ませてくれたラムが聞いたら悲しむよ?泣いちゃうかもよっていうのは、殴られたくないからなかったことにして。つまり……!その発言は、俺とラムの権利の侵害ってことだ!you know?」

 

「そんな……」

 

 レムが全身から力が抜けたかのように前に崩れ落ちそうになった。

 思わず、ギリギリで抱きとめる。

 

「最近疲れてたよな?心配ばかりかけてほんとうに悪かった……。一人で頑張りすぎるなよ。俺もラムも、お前の一番の味方なんだから。……正確には、ラムが一番で、俺が二番です。これが一番正確ね」

 

「……っ、スバルくん……!」

 

「まぁ、一旦落ち着けよ。ほら、ここ座っとけ」

 

 危ない。ブレーキをかけられたら本当にまずい。このまま走り切る方が正しいんだ。

 スバルはレムを椅子に座らせると、逃げるように窓際に走り、勢いよく開けた。

 

「お~い!ラム!寝坊して悪かった!俺もすぐ行くから!」

 

「あっ!ちょっと!何やってるんですか!」

 

 レムの方には振り返らない。窓の外に、佇むラムの姿が見えた。

 井戸で、衣服を擦る規則正しい音がピタリと止まり、彼女がこっちを見た。

 その、日光にも負けないように桃色に輝く瞳は、この世界の何よりも美しい。

 

 洗い桶の前にしゃがみ込んでいたラムが、ゆっくりと立ち上がる。

 濡れた手についた水滴を無造作に払うこともせず、桃色の前髪の奥から、冷淡で底知れない瞳が真っ直ぐに窓辺のスバルを射抜いた。

 

「……朝からうるさいわね、バルス。相変わらずみっともない大声を出して」

 

 ラムは乱れのない足取りで、家の窓の方に歩み寄って来る。

 そのいつもと変わらない態度で、なぜかスバルは胸が熱くなり、心が安心してしまう。

 昨日までの全てが、なかったかのように。

 

「俺に、寝坊ポイント1個つけていいぜ。怠慢は勤勉さで取り戻すから」

 

「寝坊? いいえ、構わないわ。昨夜はバルスの頭があまりにも散らかっていたから、ラムが念入りに『手入れ』をしてあげたもの。朝まで起きられないのも無理はないわ」

 

「姉様……スバル君を元に戻してください!」

 

「おい、だからそれは俺達の権利の侵害だって……でも、ごめんな。心配してくれてありがと」

 

「ふざけるのはやめてください!……」

 

「レム……」

 

 スバルに強く言い返したレムだったが、静かに姉に名前を呼ばれると、その瞳から目が離せなくなっていた。

 ラムの桃色に輝く瞳に吸い込まれて、何も言い返せなくなる。

 

「おはよう……今日も世界一美しい妹だわ」

 

「……姉様」

 

 レムは、自信の胸を両手で押さえて、何かの気持ちを堪えている。その瞳からは堪えきれない涙がこぼれ、魂の底から姉に対する愛に溺れていると分かった。

 

「それに比べて、バルスは……」

 

「おいおい、朝から尊いシーン見せてもらったのに、台無しにしないでくれる!?」

 

「ハッ……!同じ空気が吸えて、幸せだと思いなさい」

 

「そりゃあ、その通りだ。俺は世界一の幸せ者だよ」

 

 スバルは、今のこの言葉がまたフリをしているのか、それとも本心なのか、一瞬分からなくなった。

 パチンと頬を叩いて、その痛みを確かめる。

 

「……いい心がけね、バルス。今日の働きぶりによっては、また昨日の続きをしてあげるわ」

 

 逃れようのない日常の鎖を誇示するように、ラムの指先が、空中でつむじをなぞるような輪を描いた。

 

「いらねーよ!べ、別にまじで本当はやってほしいとか思ってないからな!まぁ、レムはまだ疲れてるようだからやってもらえよ!な!」

 

 スバルは、レムの方に振り返ってそう言った

 

「さ、今日も強く生きよーぜ!」

 

 レムは、まだ胸に手を当てたまま苦しそうにスバルを見る。そして、次にラムの方を見た。

 そして、薄青の髪を両手で抱え込み、姉を睨みつけた。

 

「姉様……レムは、あれが嫌いです!スバル君にも、二度としないでください!」

 

 喉の奥から絞り出すように言い放ち、レムは窓辺のスバルと、縁側の下に佇むラムの両方から逃げるように視線を床へ落とす。 

 必死に嫌悪感を剥き出しにして拒絶する妹の叫びを、窓の外のラムは濡れた手を組んだまま、感情の読めない冷ややかな紅の瞳で静かに見つめていた。

 

「分かったよ……。ラム、もうあれ禁止にしよう……一旦禁止だ」

 

 縁側の下に立つラムは、二人の様子を静かに見つめた後、ふっと鼻を鳴らした。

 

「……禁止、ね。身の程知らずもいい加減にしなさい、バルス」

 

「え?」

 

「誰の許可を得て、このラムに指図しているのかしら。あなたのその粗末な頭なんて、ラムの手間をかける価値すらないゴミ屑よ。梳いて差し上げているこちらの慈悲に平伏すこともできず、生意気にも『いらない』だなんて……片腹痛いわ」

 

「もう!トゲトゲすぎる!」

 

 ラムは冷たく吐き捨て、スバルを軽蔑するように一瞥する。

 しかしその直後、窓の外からすっと軽やかに上がり込むと、乱暴に足音を立てることもなく部屋の奥のレムの前へと歩み寄った。

 

「……レム」

 

 名前を呼ぶ声は、先ほどの刺々しさが嘘のように柔らかく、甘く蕩けるような温度を帯びている。

 身を縮こまらせる妹の前に膝をつき、まだ冷たい自らの手の甲で、妹の強張った頬を壊れ物に触れるようにそっと撫で上げた。

 その感触に、レムの体がビクッと反応した。昨日の頭を撫でられる感触を思い出してしまったのだろう。

 

「姉様……レムは」

 

「良い子ね、レム。怖がらせて悪かったわ。……そんなにも嫌だったのね。もうあんなに長く触ったりしないわ。あなたが息苦しくなるようなこと、二度と無理強いなんてしない」

 

 そう言って、ラムはレムの薄青の髪を一撫でだけ整える。

 レムは思わず姉を見上げたが、二回目の撫ではもう来なかった。

 

「お、恐ろしいぜ」

 

 レムの表情が、拒絶したはずの姉の指が恋しくなってしまっているように見えて、思わずそう呟いてしまった。

 

「……バルス。突っ立っていないで、さっさと朝食の芋を蒸かしなさい。言っておくけれど、ラムは美しいレムの髪が乱れていたら直したくなるし、醜いバルスの髪があまりにも目に余ったら直したくなってしまうわ。覚えておきなさい……」

 

「俺、坊主にしようかな」

 

 スバルは前髪を掻き上げようとした手をひっこめる。その横で、レムの醸し出す空気が少し重たくなった。

 

「このままでは……ダメなんです。レムがしっかりしないと」

 

 全てを救うには、レムも傲慢の極みに達するしかない。

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