嫌われ者の俺が皆を助けて記憶を失ったら、美少女生徒会長が恋人を名乗り始めました 作:夢見戸イル
どうやら記憶を失う前の自分は恵まれていなかったらしい。灯夜は夜の病院の窓から少し欠けた月をぼんやりと眺めながら、医師や看護師から言われたことを思い出していた。
灯夜が医師や看護師から聞いたことは、2つ。父にあたる人から暴行を受けていた可能性があること。そんな父が起こした事件に巻き込まれて
けれども灯夜は実感がわかなかった。記憶が無いから当然の話ではあるが、他人の過去を聞いているような気分だった。
ただし記憶喪失と言っても、記憶が完全に消えたわけではないらしい。あくまで思い出せないだけで、頭のどこかにはあるという。
だから自分の身体にある痣を見ると、どうしてか体は強張った。そして、自分の母親だと名乗る女性が現れたとき、知らない感情が湧き上がってきた。
『来ないでください!』
灯夜は思わずそう叫んでいた。
『ごめんなさい。あなたとは会ってはいけない、そんな気がするんです』
『灯夜、聞いて。それはね、もう大丈夫なのよ。だから……』
『本当に、ごめんなさい……』
湧き上がってきたのは、これ以上近付けば何かを失うのではないかという恐怖だった。
灯夜の言葉に、依里は寂しそうに笑った。
『わかったわ。でも、もし会ってもいいって思えたら、いつでも連絡して。いつまでも待っているから』
そう言って、依里は病室を出て行った。なんとなくその背中を追いたくなって病室の扉の前まで行けば、依里が声を抑えながらも廊下で泣く声が聞こえた。
けれども灯夜は、その扉を開けることができなかった。
それでも、不安な感情ばかりではなかった。自分の恋人だと言った、ストレートの長い髪をポニーテールにしてまとめている凛とした少女。こんな綺麗な人が自分の恋人だということが、灯夜は信じられなかった。
最初抱きしめられた時は、安心より緊張の方が勝ってしまった。そもそも抱きしめられた瞬間、大きな胸が顔を覆ったのだ。だから、何も思わないほうが無理だ。
知らない感情は、彼女を見ても湧き出てこなかった。けれども灯夜を包み込むような優しい声が、何も覚えていない灯夜の心を安心させてくれた。
あれからすぐに彼女は他の人たちと一緒に病室を追い出されてしまって話せていないが、また話せればいい、そんなことを思いながら、その日は眠りについた。
次の日、彼女は1人で病室にやってきた。
「調子はどう?」
「えっと……、しんどいとか、そういうことはないから、普通、です……。もう少し様子見て、問題なければ退院できるって、先生も……」
そう言いながらも、不安はあった。退院すれば、自分はどこに行くのだろうか。
事件を起こしたという灯夜の父親は行方をくらませ捕まっていないらしい。そんな状態で、住んでいた家に戻る勇気が灯夜にはなかった。けれども、母親の元に戻ることを考えると、母親に会った時の恐怖が蘇って怖くなった。
「新城君……?」
そんなことを考えていると、彼女が不安そうに灯夜を覗き込んだ。
何か言わなきゃ。そう思った時、灯夜は重要なとあることを知らないことに気が付いた。
「あの……」
「なあに?」
「ごめんなさい。あなたの名前を教えてください。その……、本当に何も覚えていなくって……」
灯夜の言葉に、彼女は昨日も見せた優しい笑顔で灯夜を見つめた。
「朝比奈律花よ」
「朝比奈、律花さん……。えっと……、俺が記憶を無くす前は、あなたのことをなんて呼んでいましたか……?」
灯夜の言葉に、どうしてか律花の目は泳いだ。そして、恥ずかしそうに目を逸らす。
「えっと……、律花、よ。律花って呼んで」
「律花……?」
「そ、そうよ! あってるわ! それに敬語もやめて! 私たち、同い年なのよ!」
どうしてか顔を真っ赤にしながら言う律花に首を傾げながらも、断る理由はなかった。
「わ、わかった! 敬語は、使わない……。あれ、でも、律花はどうして俺のこと、苗字で呼んでるの?」
なんとなく感じた疑問だった。それを灯夜が口に出した途端、律花はまた挙動不審になった。
「へ? あ、ええっと……。ほ、本当は違うの! わ、私も灯夜って呼んでたわ! で、でも、
「そ、そうだったんだ。ごめん、ほんと……。記憶無くしちゃって……」
きっと、彼女と付き合うことを決めた時の幸せな記憶もあったのだろう。辛い記憶だけでなく、そんな大切な記憶まで無くしてしまったことに、灯夜は申し訳なくなった。
けれども、そんな灯夜の手を、律花は優しく包む。
「大丈夫よ。付き合ったばかりって言ったでしょう? だから、思い出もこれからだったの。これから幸せな記憶、一緒に沢山作っていけばいいわ」
そう言って優しく笑う律花に、灯夜も安心してしまった。こんな優しい彼女と付き合えたのだから、きっと恵まれていない人生だけじゃなかったのだろう。
それ程までに心は穏やかだった。次の律花の言葉を聞くまでは。
「その幸せな記憶を作るためにね、1つ提案があるの」
「提案……?」
「ええ。灯夜にとっても悪くない話だと思うわ。退院したら、私の家で暮らさない?」
律花の突然の提案に、灯夜の心は別の方向で乱れ始めた。
「い、いや、一緒に住むって、どういう……」
「依里さんから話は聞いたわ。でも、元の家に戻るわけにもいかないでしょう? だからお父さんに相談したの。お父さんも、了承してくれたわ」
「お、お父さん……?」
律花の言葉に、ようやく灯夜は一緒に住む場所が律花の家族もいる場所なのだと理解した。けれども理解したのはそれだけで、それ以外のことに頭が付いていっているわけではなかった。
「流石にそれは申し訳ないというか……」
「言ったでしょう? お父さんも了承してくれたの。それに私も知らなかったけど、お父さんも灯夜のことを知っていたらしいわ。だから大丈夫。ね?」
「いや、そんな、大丈夫なわけが……」
「こんなことがあって、私、灯夜と少しも離れたくないの。ね、いいでしょう?」
そう言って、律花は顔をぐっと近付け、上目遣いで灯夜を見つめた。
そんなことをされて、断れるはずがない。寧ろお世話になるのはこちらの方で、お願いされること自体おかしいのだ。
「わ、わかった。ただ一度、その、律花のお父さんとも話を……」
「本当⁉ じゃあ早速お父さんに、灯夜がOKしてくれたって連絡してくるわ!」
「待って! まだ完全にOKしたわけじゃ……」
律花は灯夜の言葉を聞いていないのか、嬉しそうに病室を出て行った。そんな律花に灯夜は頭を抱える。
「流石にひとつ屋根の下は、ダメでしょ……」
突然静かになった病室で、けれども頭の中はこれからのことで煩くて落ち着かなくて、頭を抱えながら灯夜は病室のベッドで丸まった。
それからも、律花は毎日灯夜のお見舞いにやってきた。時には生徒会の後輩だという人たちを連れ、時には1人で。
灯夜が律花の家でお世話になる計画は、次の日にはもう確定事項となっていた。律花の仕事の速さに頭を抱えながらも、それを嬉しそうに話す律花の姿に、灯夜は何も言えなかった。
そして、退院の日はあっという間にやってきた。土曜日の午前中、律花と一緒に律花の父親、
「新城……、いや、これからは俺も灯夜って呼ぶか。とりあえず、久しぶりだな。って、覚えてないんだっけか」
信悟は真面目な印象のある律花とは正反対の、頭がボサボサの適当な人という印象を受けた。
こんな見た目でも中学の魔工学の教師で、灯夜が1年生から3年生までずっとお世話になった担任の先生らしい。
「とりあえず、車乗れ。詳しい話は家に帰ってするから」
信悟の言葉に、灯夜も頷き車に乗り込んだ。律花のも灯夜の隣に座り、他愛のないことを色々話していたが、灯夜はそれどころではなかった。
車を運転する信悟の表情は、灯夜からは見えなかった。けれども突然彼女の家に上がり込もうとする自分を、律花の父親として快く思われているとは到底思えなかった。ここ数日の律花の様子を見ていると、強引に了承させたのではという不安もあった。
それから家に着き、簡単に家の説明を受けた後、灯夜はソファーに座らされた。緊張して背筋を伸ばしながら座る灯夜の前に、信悟は足を広げ、背中をソファーの背にもたれかかりながら口を開いた。
「とりあえず、服とか必要そうなもんは、おまえの住んでた家から勝手に持ってきた。律花の部屋にまとめてある。金も、おまえの母さんから生活費としていくらか貰ってる。だから必要なもんがあれば気にせず言え。いいな」
「わ、わかりました……。ありがとうございます……」
灯夜がそう言って頭を下げると、信悟はどうしてか大きなため息を付いた。
何か不味いことを言ってしまっただろうか。そう思って灯夜が信悟を見ると、信悟は面倒くさそうな表情のまま言った。
「おまえは覚えてねえんだろが、中学ん時は生意気なガキだったんだぞ? 先生のこと、あんたとか呼んでな」
「そ、それは、ごめんなさい……」
「中学のガキなんてそんなもんだろ。だからおまえも、一緒に住むんだからせめてタメ口ぐらいはきいてくれや。調子狂うわ。まっ、俺のことは先生とでも呼んでくれや」
「わ、わかった……。えっと、先生……?」
灯夜がそう言えば、信悟は突然吹き出し、そして声をあげて笑い始めた。
「あの……」
「あー、わりいな。まさかあのクソ生意気なガキに、先生と呼ばれる日が来るとは思わなかったわ。中学時代のおまえに見せてやりたいぜ」
いったい中学生の時の自分はどれほど生意気な子供だったのだろうか。少し不安になったけれども、信悟が灯夜を受け入れてくれていることだけは、灯夜も理解した。
そしてどうしてか、信悟の声を聞いていると安心した。
「まっ、律花から聞いてると思うが、俺は教師という仕事上、平日も遅くしか帰って来れないし、土日も部活の対応で家にいないことが多い。母さんのことも、まあ律花から聞いただろうが、そういうことだ。ハメだけ外さねえように、好きに過ごしてくれ」
律花のお母さんのことは、灯夜も聞いて知っていた。だからこそ、灯夜が魂を喰われたとわかった時も不安だったのだと。
彼女を不安にさせたことに申し訳なくなりながらも、当の本人は灯夜の気持ちなど掻き消す勢いで、目を輝かせて灯夜を見た。
「話は終わりよね! じゃあ、さっそく私の部屋に行きましょう!」
そう言って、律花は灯夜の手を引っ張ろうとする。けれども信悟は、大きくため息を付いた。
「まだ待て。大切な話がある。……夜の話だ」
信悟の言葉に、灯夜も、そして律花も、顔を真っ赤にして固まった。
記憶が消えているとはいえ、灯夜は一般的な知識は残っていた。しかも、灯夜は健全な男子高校生である。律花と一緒に住むと言われて、病室でも頭に浮かんで離れなかったのは、一般的に恋人同士が夜に多く行うことだった。
「お父さん⁉ な、何を……」
「普段は律花の部屋で過ごしてもらって問題ない。ただし、寝る時だけは俺の部屋で寝ろ。以上だ」
「は……?」
信悟の言葉に、声をあげたのは律花だった。
「なんで!? いいじゃない! ただ一緒に寝るだけよ!」
「年頃の男女が一緒の部屋で寝ることを許すわけないだろう!」
「灯夜のことを信用してないの⁉」
「灯夜のことは信用している! 寧ろ信用していないのは、律花、おまえだ!」
「な、何を言っているの! そんな恥ずかしいこと、するはずないじゃない! 灯夜の前で変なこと言わないでよ!」
顔を真っ赤にする律花を前に、信悟は遠い目をしてどこかを見つめた。
「律花は母さんに似てるからなあ」
「それと何が関係あるのよ!」
「とりあえずだ。これだけは絶対に譲れん。灯夜を追い出すことになってもいいのか?」
「それはダメよ! ダメだけど……」
律花は拗ねたように頬を膨らませながら、クッションを抱きしめた。
律花のお母さんがどのような人だったか灯夜は知らない。けれども仮にも彼女の親もいる空間でそういうことをするのは、灯夜自身戸惑いがあった。そう考えると、ある意味良かったのではないかとさえ思う自分がいた。
と、信悟は立ち上がり、灯夜にだけ聞こえる声で言った。
「とはいえ、俺もほとんど家にいねえからな。小遣いやるから、いつ襲われてもいいように準備だけはしとけよ」
「え、おそ……、われ……?」
「まっ、そういうことだ」
信悟はそれだけ言って、台所のほうに消えて行った。
律花のお母さんはいったいどのような人だったのだろうか。灯夜は深く考えないようにした。
その日は、荷物の片づけだけで1日が終わった。
荷物自体は少なかった。けれども灯夜自身がその荷物を覚えているわけではなく、その確認作業だけで時間がかかった。
「そうだ、これ」
と、信悟に渡されたのは青色のスマートフォンだった。
「おまえが記憶を失う前に持っていたスマホは、どうやら
「あ、ありがとう、ございます……」
思わず敬語になってしまう程、スマホという言葉を聞くと灯夜の心はざわついた。けれどもざわついただけで、渡された青いスマートフォン自体には何も感じなかった。
と、律花が、ニコニコとしながら渡されたスマートフォンを覗き込む。
「じゃあ、さっそくメッセージアプリの友達登録しましょ! アプリのダウンロード方法はわかる?」
「えっ……? ええっと……。多分……」
「せっかくなら一緒にやりましょう! 電話番号も教えて! あっ、そうだ!」
そう言って、律花は灯夜の体を引き寄せ、律花のピンク色のスマートフォンを取り出す。そして、高く持ち上げカシャリと写真を撮った。
「一緒に暮らす1日目の記念写真ね! これも後で送るわ!」
「あ、ありがと。……そうだ」
写真。その言葉を聞いて、灯夜は1つのことが頭に浮かんだ。
「あのさ。せっかくなら、記憶を失う前の写真も、送ってくれない? もしかしたら、何か思い出せるかも……」
「へ?」
けれども律花は、どうしてか灯夜の言葉に固まった。そして、挙動不審になって灯夜から目を逸らす。
「あ、え、ええっと……。記憶を失う前の灯夜は、写真撮られるのがすっごく嫌いだったのよ! だから、残ってないというか……」
「え、あ、そ、そうなんだ……。なんかごめん」
「謝らないで! それに、幸せな記憶、一緒に作っていくって言ったでしょう? だから、今の灯夜が嫌じゃないなら、これからは沢山写真撮るわよ!」
どうしてそこまで写真を撮られるのが嫌だったのだろうか。見えないのに突然溢れ出す感情が写真を撮られた時には起きなくて、灯夜はわからなかった。
けれども深く考える前に、玄関の扉が開く音がした。
「ただいまー。って、マジで兄ちゃん来てる」
現れたのは、律花の弟で中学2年生の大地だった。大地はサッカー部で、今日も朝から部活の練習に行っていたらしい。
灯夜を見て顔をしかめた大地に、律花は眉を吊り上げ詰め寄った。
「その態度は何⁉ 今日から来るって説明してたでしょ⁉ それに、灯夜は大地の命の恩人なのよ!」
「そ、それはまあ、そうだけど……。まさか姉ちゃんの恋人だと思わねえじゃん! 流石にどう接していいかわかんないって!」
「普通に話せばいいじゃない! ね、灯夜!」
突然話を振られた灯夜は戸惑ったが、とりあえず作り笑いをして小さく手をあげる。
「えっと、これからよろしく、ね。ごめんね。お邪魔して……」
灯夜自身、大地を助けた記憶も消えていたから、大地とどう接していいのかわからなかった。そんな灯夜の顔を、大地は目を細めてじっと見る。
「なんか、俺の知ってる兄ちゃんじゃないみたい。前はこう……、クールでカッコ良かったっていうか……。今はなんか、ちょっと情けな……」
「記憶無くしてるって説明したでしょ! だいたいあんたは助けてもらった身で……」
「わかった! わかったから! もう俺、自分の部屋行くから!」
「あ、ちょっと! 洗濯物はすぐ出しなさいっていつも言ってるでしょ!」
律花と大地が言い合っている様子に、何も言えずに立ち尽くしていると、灯夜の肩を信悟がぽんと叩いた。
「騒がしい奴らで悪いな。あれでも仲は良いから、見守ってやってくれ」
「わ、わかりました……」
そうは言いながらも、灯夜はどこか取り残された気持ちになっていた。
記憶を無くす前の自分のことは、自分のことなのに、灯夜だけが知らなかった。そして、信悟も大地も、律花でさえまるで全く別の人のことを話しているように聞こえた。
そして律花と恋人同士になったのは、記憶を無くす前であるはずだった。
――じゃあ今の俺のことを、律花はどう思っているのだろうか。
そんな不安が、灯夜の心の中でぐるぐる回って消えなかった。