ほらこうやってまた逃げてる。
なんかもう疲れた

1 / 1
人生ってなに?

 

夜の路地は、ひっそりとしていて息がしやすかった。

大通りの煌びやかな街灯や、目的を持った人々の足早な波、そして「何者かにならなければならない」という無言の圧力が満ちる駅前広場から逃れるようにして、僕たちはいつもこの細い道に迷い込んでいた。

少し前を歩く瑞希のヒールが、アスファルトの上に規則的な乾いた音を響かせている。

彼女の着ている薄手のコートの裾が、夜風に揺れてかすかな弧を描く。僕たちはどちらからともなく言葉を交わすのをやめ、ただ夜の底をあてもなく歩いていた。

ポケットの中で、スマートフォンがときおり短く震える。画面を開かなくても、それが何を告げているかは分かっていた。中学生時代の同級生だった拓海からの、何気ないメッセージの続きだろう。

『今度、新しく立ち上げるプロジェクトの件でシンガポールに出張なんだ。お前も就活落ち着いたら、美味いもんでも食いに行こう。奢るよ』

拓海は中学生のときに学校という枠組みを降りた。周囲の大人は彼を「ドロップアウトした人間」と呼び、腫れ物に触るような目を向けた。しかし、それから数年。彼は独自のルートで、文字通り自らの腕一本で這い上がり、今や業界でも一目置かれる戦略コンサルタントとして、目まぐるしい日々を送っている。

就職活動やインターンシップを本格的に始めてから、僕は残酷なほどに人間の輪郭を浮き彫りにする装置の中に放り込まれたような感覚でいた。

会議室の無機質な白い蛍光灯の下で、あるいはオンライン画面の分割された小さな四角形の中で、僕は数え切れないほどの同世代と出会った。皆、同じような黒いスーツを着て、同じような髪型をし、企業が喜ぶであろう「模範解答」を口にする。僕もその一人だった。与えられたお題に対して、論理的で、協調性があり、かつ少しだけ気の利いた意見を述べる。周りの空気を読み、波風を立てず、減点されないように立ち回る。それは僕がこれまでの人生で培ってきた、最も得意なサバイバル術だった。

大学では、歴史的な空間の成り立ちや、人が理屈抜きに集まってしまう空間のメカニズムを学んでいる。江戸の長屋や細い路地が、いかにして人々のコミュニティのハブとして機能していたか。あるいは、科学的な根拠など信じていないはずの人々が、なぜ現代でも特定のパワースポットへと引き寄せられていくのか。そうした「人の営みのなかに働く、見えない引力」を客観的に分析することに関しては、僕はそれなりの自信を持っていたし、サークル活動で地域の特産品であるジャムの販促改善に取り組んだときも、その知見を活かして小さな成果を上げた。自分なりに、真面目に、辛いことからも逃げずに努力してきたつもりだった。

けれど、就活という巨大なシステムの中で出会う「本当に魅力的な人たち」を前にしたとき、僕が積み上げてきたはずのプライドは、音を立てて崩れ去った。

彼らはどこか違っていた。言葉の端々に、借り物ではない「自身の体温」が宿っていた。話を聞けば、彼らは皆、人生のどこかで自ら決断を下し、あえて安全なレールを外れた経験を持っていた。ある者は大学を休学して見知らぬ土地で事業を立ち上げ、ある者は周囲の反対を押し切って全く未知の分野へ飛び込んでいた。拓海のように、早々に学校というシステム自体を見限った者もいる。

彼らの放つ魅力は、圧倒的だった。

レールを外れる恐怖、そこから這い上がるための泥臭い葛藤、誰にも理解されない孤独な夜。彼らが語る言葉の裏には、そうした生々しい傷跡が透けて見えた。しかし、彼らは一様に、その傷すらも自分の血肉として引き受け、今の自分を強烈に「楽しんで」生きていた。自らの足で大地を踏みしめ、自らの目で進むべき方向を見定めている人間の顔だった。

そんな彼らを目の当たりにするたび、僕は自分がひどく薄っぺらい書き割りのように感じられた。

僕はどうだ。

比較的、社会が思い描く「優等生」の型を、従順に、そして完璧に演じ続けてきた。進学校に入り、名のある大学へ進み、周囲が就職活動を始めれば、疑問も持たずに同じスタートラインに立った。インターンに奔走し、自己分析という名の「社会への最適化」を繰り返し、面接官が好むようなエピソードを綺麗に整形して差し出す。しんどかった。息が詰まるような毎日だった。けれど、「正しいレール」を歩んでいるのだから、この苦しさの先には相応の報いがあるはずだと信じて疑わなかった。

しかし、現実はどうだ。

どこまで行っても、僕は周りの目を気にしている。親がどう思うか。友人にどう見られるか。世間一般の「正解」から外れて、笑われるのが怖い。失敗して、「ほら見たことか」と指を指されるのが恐ろしい。だから、誰かが敷いてくれた安全なレールの上を、ただ息を殺して歩いている。自分の意志で選んでいるように見せかけて、その実、他人の評価という見えない手綱に首を繋がれているだけだ。

「……何やってるんだろうな、俺」

誰に宛てるでもない呟きが、夜の湿った空気に溶けていった。

胸の奥から湧き上がってくるのは、やり場のない虚無感と、そして醜いほどの嫉妬だった。

当たり前の環境から、ある種「逃げた」はずの彼らの方が、ずっと社会の真ん中で必要とされ、莫大な価値を生み出し、まばゆいほどの光の中にいる。一方で、枠からはみ出さないことだけを生きがいに、必死にすり減りながら走ってきた僕は、未だに自分が何者なのかすら分からず、内定という不確かな手形を求めて彷徨っている。今までの自分の努力は何だったのか。あの息苦しい夜や、押し殺してきた感情は何のためにあったのか。

彼らがそこに至るまでに、どれほどの血の滲むような努力をしてきたか、どれほどの不安に苛ませてきたか、頭では分かっているのだ。才能や運だけで片付けられるものではない。彼らが流した汗と涙の結晶の上に、今の眩しさがある。それを痛いほど理解しているのに、どうしても僕の胸の奥には、硬くて冷たい「しこり」が残る。

『彼らは特別だからできたんだ』

『僕みたいな凡人が同じことをしても、ただ野垂れ死ぬだけだ』

『僕には期待してくれている人たちがいる。その期待を裏切るわけにはいかないんだ』

頭の中に、次から次へと滑稽な「言い訳」が浮かんでくる。

本当は、ただ自分が傷つくのが怖くて一歩を踏み出せないだけなのに。レールを降りる勇気がない臆病者なだけなのに。自分の弱さを直視したくなくて、環境のせいにし、彼らとの間に「特別かそうでないか」という壁を作り、自分の不作為を正当化しようとしている。

そのことに、自分自身が一番気づいている。

僕が探しているのは、人生を切り拓くための方法ではなく、何もないでいるための「もっともらしい言い訳」だ。

自覚している。自分がどれほど卑怯で、惨めで、動こうとしない怠惰な人間か。

自覚しているのに、それでも僕は、今日も重たい足を一歩も動かすことができない。ただ、安全な場所に身を隠しながら、光を放つ彼らを横目で睨みつけ、唇を噛みしめている。

このやり場のない、泥のように粘り気のある感情を、一体どうすればいいのだろう。どうすれば、この「しこり」は消えてくれるのだろうか。自分に対する言い訳ばかりを探し、何も行動を起こさない自分に対する嫌悪感で、胸がはち切れそうだった。

「ねえ」

ふいに瑞希が足を止め、振り返った。

錆びついた街灯の薄明かりが、彼女の少し疲れたような、けれどすべてを見透かすような優しい瞳を照らし出す。

「さっきから、ずっと重たい荷物を背負ってるみたいな歩き方。……また、自分のなかが空っぽになっちゃった?」

瑞希は、僕がどれほど「優等生」の仮面を剥がされるのを恐れているかを知っている、唯一の人間だった。大学の講義で、人が自然と集まる空間や、目に見えない社会のつながりについて言葉を交わすうちに、いつしか僕たちはこうして夜の街を並んで歩くようになっていた。

「……分かる?」

「分かるよ。あなた、嘘をつくときはいつも、自分の爪をじっと見るから」

僕は慌てて、右手の人差し指を握り込んだ。瑞希は小さく笑い、僕との距離を数歩分、狭めた。

「拓海と、何か話したの?」

「……別に、大したことじゃないんだ。ただ、あいつや、インターンで会う『自分で決断してレールを外れても楽しそうにしてる奴ら』を見ていたら、急に足元がグラグラしてきてさ」

僕は歩道の縁石に視線を落とした。

「俺はさ、ずっと真面目にやってきたつもりだった。親や先生が言う『正しい道』を歩いて、波風を立てないように、期待に応えられるように。でも、そうやって必死にしがみついてきたレールって、一体誰が敷いたものなんだろうって思ったんだ」

言葉が、堰を切ったように溢れ出す。

「就活をしていてもさ、聞こえのいい志望動機を喋っている自分が、まるで他人のように思える。俺は本当に、自分の意志でこの会社に行きたいのか? 自分の意志で、この人生を選んでいるのか? 自分の足で歩いているつもりなのに、本当は、目に見えない巨大な重力に引きずられて、ただ流されているだけなんじゃないかって」

瑞希は何も言わず、静かに僕の言葉を、その痛みをそのまま受け止めるように聞いていた。

「最悪なのはさ、そうやって悩んでいること自体が、自分の実力不足や、現状に納得がいっていないことへの『言い訳』なんじゃないかってことなんだ。彼らの努力を蔑ろにして、社会のシステムに文脈を押し付けて、悲劇の主人公ぶっているだけなんじゃないかって。自分で決断してレールを外れた奴らのほうが、ずっと社会に必要とされていて、楽しそうなのに、僕はどこまでも周りの目を気にして一歩を踏み出せずにいる。そんな自分に猛烈に嫉妬して、言い訳ばかり探して、自覚しているのに何もしない。……俺は、本当に最低だ」

一気に吐き出すと、喉の奥がカサカサに乾いた。

大通りの喧騒からは完全に隔絶されたこの路地で、僕の自己嫌悪だけが、妙に生々しい輪郭を持ってそこに浮かび上がっていた。

これほど醜い告白をすれば、瑞希だって幻滅するかもしれない。そう思った。社会の優等生というメッキが剥がれ落ちた、ただの嫉妬深くて打たれ弱い男の姿が、そこにはあったからだ。

けれど、瑞希は幻滅するどころか、どこか切なそうな目を引力のある月へと向けた。

建物の狭い隙間から、白く、冷徹なまでに美しい満月が覗いていた。

その圧倒的な静けさと、地球上のすべての海を引っ張り上げるほどの不可視の引力に魅入られたように、僕は脳裏にずっとこびりついていた言葉を、そっと口に含んだ。

「……俺たちはきっと、月に堕ちながら、空を飛んでいると勘違いしているのだろう」

瑞希が、ハッとしたように僕を見た。

「それ、あなたの言葉?」

「うん。ふと、思い浮かんだんだ。僕たちは自分の翼で羽ばたいて、自由な空を飛んでいると思い込んでいる。でも実際は、月という巨大な天体の引力に捕らえられて、ただ真っ逆さまに、奈落へ向かって堕ちていくだけの存在なのかれない。進路を選んでいるつもりで、ただ落ちる角度が変わっているだけなんだとしたら、これまでの努力も、この苦しみも、全部ただの錯覚だ。そして、その重力から抜け出す一歩を踏み出せない自分を正当化するために、僕は必死で言い訳の泥を捏ね上げているんだ」

僕がそう言うと、瑞希はゆっくりと僕の方へ歩み寄ってきた。

 

 




あなたの考えを教えて

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。