呪いで美少女になった少年兵、剣一本で戦場を駆ける 作:ハネケン
灰色の無機質な石造りの建物が立ち並ぶフルスロックの街並み。その一角に、周囲を圧倒するようなひときわ大きな横長の施設がそびえている。
――セウスノール解放軍、フルスロック基地。
激戦の地、ウォーズレイ基地防衛戦から、すでに二週間という月日が流れようとしていた。
基地の一角にある殺風景な個室。簡易ベッドと一脚の木の椅子だけが置かれた狭い空間に、一人の少女がぽつんと座っていた。漆黒の髪に、底冷えするような真紅の瞳――クロコだ。男用のぶかぶかな私服に身を包んだクロコは、虚ろな眼差しで窓の外の曇天をぼうっと眺め続けていた。
コン、コン。
突如として、静寂を切り裂くようなノックの音が響く。クロコは気だるそうに立ち上がり、重い足取りでドアへと歩み寄った。
「やぁ、クロコ君! こんにちは!」
扉を開けた先には、明るい笑顔を浮かべたフロウが立っていた。
「…………ああ」
クロコはトゲのある無愛想な声でそれだけ返す。だが、フロウは気にする様子もなく、人懐っこい笑みを崩さない。
「今日はせっかくの久々の休みだしさ、一緒に街の市場でも回らないかなって思ってさ」
「……悪い。今日はそんな気分じゃない」
クロコは静かに、拒絶するように告げた。
「で、でもさ! ずっと部屋にこもってちゃ塞ぎ込むばかりだし、たまには外の空気を吸って気分転換した方がいいよ。きっと、少しは気持ちも……」
「……悪いな」
ガチャリ、と無慈悲に扉が閉ざされる。
フロウは目の前で閉まった木の板を呆然と見つめたあと、ふぅっと重いため息を吐き、すごすごとその場を後にした。
廊下の曲がり角。待ち構えていたかのように、クレイドが腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「あの野郎……ここ二週間、ずっとあの調子かよ」
「……仕方ないよ。ブレッド君が、親友が、あんなことになっちゃったんだからさ」
フロウは痛ましそうに肩を落とす。しかし、クレイドの冷徹な瞳は揺るがない。
「同情はするさ。だが、いつまでも過去にしがみついて自分を振り切らねぇと、次に死ぬのは間違いなく自分自身だぞ」
その厳しすぎる正論に、フロウはわずかに視線を落とした。
「……でもね、クレイド」
「なんだよ」
「人間ってさ……そんなに強い生き物じゃないからさ」
「…………そんなこと、百も承知だよ」
その頃。
フルスロック基地の厳重なゲートをくぐり、一騎の軍馬が蹄の音を響かせて飛び込んできた。
馬上の男が、巨体を揺すりながら下り立つ。黒髪を逆立てたその男――ガルディア司令官の帰還だった。
出迎えるように、長身で結った銀髪、アールスロウ副司令が静かに歩み寄る。
「よーう! 久しぶりだな、ファイフ!」
ガルディアは野太い笑い声を上げながら、屈託のない笑顔で副司令の肩を叩いた。
「お帰りなさい、グレイさん。……で、西部の視察はどうでしたか」
アールスロウはわずかに口元を緩ませて問いかける。ガルディアは鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「ダメだな、兵士のレベルがずいぶん低い。ほとんどのやつは構えもロクにできなかった。まっ、オレがこの手でたっぷり訓練をしてやったけどな!」
「……ちゃんと手加減して鍛えられましたか?」
「ハッハッハッ! せいぜい六人ほど怪我した程度だな」
「……あなたという人は、相変わらずですね」
アールスロウは深くやれやれとため息を吐いたが、その瞳の奥には、どこか信頼の色が宿っていたのだった。
「あっ、そういえばクロコはどこだ? あいつの『呪い』について、西部で少し情報を集めてきたんだ。あいつに教えてやろうと思ってな」
ガルディアが周囲を見回しながら言うと、アールスロウは一瞬だけ、その鋭い視線を足元へと落とした。
「……クロコには、今はやめておいた方がいいでしょう」
「ん? どうした。あいつ、何かあったのか?」
「……私が送った報告書にも記載しましたが。あのウォーズレイ基地防衛戦で、援軍として向かわせたブレッド・セインアルドが戦死しました」
「――!!」
ガルディアの巨躯が、見えない雷に打たれたように硬直した。
「それで……あいつは……」
「ええ。全体訓練に参加しても、心はどこか別の場所にあるようでした。用事がない限りは、ずっと自室に引きこもって誰とも口を利こうとしないようです」
「……そうか」
ガルディアの顔から光が消え、憂いが刻み込まれた。
「……報告すべき事案は他にも山のようにありますが、ついでに、もう一つだけ」
「なんだ」
「サキ・フランティスが、このフルスロックを離れます」
「サキが?」
それから二日後の午後。
フルスロックの石畳が敷き詰められた大通り、遠出用の大型馬車が一台、静かに停まっていた。
ここは、街の玄関口である駅馬車乗り場。
その馬車の前で、サキは十数人の部隊の仲間たちに見送られていた。その輪の中には、フロウやクレイドの顔もある。
「それじゃあサキ君、どうか元気でね」
「はい、ありがとうございます、フロウさん」
サキは柔らかく、しかしどこか芯の通った笑顔で頭を下げる。
フロウは少しだけためらうように視線をさまよわせた。
「……本当に良かったのかな。クロコ君には何も言わずに行っちゃって」
「いいんです。初めからそう決めていましたから。……後日、別の友人に手紙を渡してもらうように頼んでいます」
「君の赴任先……『クラット基地』だってね」
フロウの言葉を引き継ぐように、隣で腕を組んでいたクレイドが低く呟く。
「クラット基地……国軍との戦闘が最も激しい、最前線じゃねぇか」
「はい。ボク自身が志願したんです。アールスロウ副司令がなかなか首を縦に振ってくれなくて……説得するのに骨が折れました」
サキは困ったように小さく笑う。だが、フロウの顔には拭いきれない懸念が影を落としていた。
「どうして、わざわざそんな死地に自ら飛び込むような真似を……」
その問いに、サキは不意に視線を石畳へと落とし、静かに言葉を紡ぐ。
「……ブレッドさんは、ボクをかばって命を落としました。だから……ボクは、二度とあんな思いをしないために。強くなるために、あの戦場へ行くって決めたんです」
その悲壮な覚悟に、クレイドは少しだけ険しい表情で眉を寄せた。
「ブレッドの死を、お前がそこまで抱え込む必要はねぇ。あれは運が悪かった……不運な戦場の事故だ」
「仮にそうだったとしても、もう、ボクは誰かに背中を守られるだけの弱い存在のままじゃ嫌なんです。もしボクに……一人で戦い抜けるだけの力があれば、ブレッドさんがあんな風に、無防備なボクの盾になることはなかった……!」
サキは一瞬だけ、泣き出しそうなほど悲痛な目をした。
しかし、すぐに顔を上げ、力強い光を宿した瞳でフロウとクレイドを真っ直ぐに見据える。
「それだけじゃありません。ボクは……どんな形でもいい。クロコさんの助けになりたいんです。あの事件が起こるずっと前から……クロコさんに助けられたあの日から、強く、強くなりたいって願っていました。……だから、これはボク自身のための戦いでもあるんです」
その確固たる瞳の輝きに、フロウはふっと、肩の力を抜いて優しい笑みを浮かべた。
「……そうかい。君がそこまで覚悟を決めているなら、僕からはもう何も言うことはないよ」
フロウは黙って、サキへ右手を差し出した。
サキは弾かれたように顔を上げ、その手を両手でしっかりと握り返す。
「また、必ず会おう。生きてね」
「はい……必ず!」
横で見ていたクレイドも、呆れたように鼻を鳴らしたあと、ニヤリと口角を上げた。
「当たり前だろ。死んで戻ってきたら、俺が叩き起こしてやるよ」
同じ頃。
薄暗い自室のベッドの端に腰掛け、クロコは虚空を見つめたまま縮こまっていた。
窓の外からはまばゆい陽光が差し込んでいるはずなのに、クロコの目に入る景色はすべて、底なしの泥水のように澱み、冷たく暗く感じられた。
ドンドンドンッ!
静寂を乱暴に引き裂く、荒々しいノックの音が響く。
苛立ちに眉をひそめながら乱暴に扉を開けると、そこに立っていたのは不敵な笑みを浮かべた巨躯の男だった。
「よーう! クロコ、生きてるか!」
ガルディアが朗々とした声を張り上げる。
「……なんだよ、アンタか。何の用だ」
クロコはトゲだらけの冷ややかな視線を向けた。
「いやなに、ちょっと手が空いてな。ヒマつぶしに、お前のその変な顔でも見に来たんだよ」
ガルディアはからからと豪快に笑い飛ばす。
「……ふん」
クロコは嫌悪感を隠さず、あからさまに顔を背けた。
「おっと、すまないね。ちょっと失礼させてもらうぞ」
制止する間もなく、ガルディアはその巨体で強引に部屋へと踏み込んでくる。
「お、おい! 勝手に入るなよ!」
「おっ、意外と綺麗に片付いてるじゃねぇか。もっとこう、グチャグチャに荒れ果てているかと思ったがな」
ガルディアは周囲を見回して鼻を鳴らす。
「何の用だ、テメー……さっさと出ていけよ」
「おっ、案外元気じゃねぇか。ファイフからは、水に浮いたサーモンみたいな顔してるって聞いてたんだがな。あっ、実際にそう言ったわけじゃないぞ」
「……ッ!!」
その言葉に、クロコは鋭く目をむき、ガルディアを射抜くように睨みつけたあと、再びプイと顔をそらした。
「……で、用ってのはそれだけかよ」
「そういえば、お前はもう聞いたか? 今日、サキがあの基地を離れるそうだぞ」
「……は? サキが……っ!」
予想外の名前が出た瞬間、クロコの身体がびくりと跳ねた。
「出発は……ちょうど今頃の時間だったはずだがな」
「…………っ」
クロコは言葉を失い、歯を食いしばる。
「……追いかけなくていいのか?」
「今さら行ったって、もう間に合わねぇよ……」
「そうかもな」
ガルディアはそれ以上追及せず、重い巨体を簡易ベッドにドカッと座らせた。そして、クロコの顔を見据えることなく、ぽつりと静かに呟いた。
「……ブレッドが、死んだんだってな」
「…………っ!」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。
クロコは一切の言葉を失い、ただ全身をこわばらせて下を向く。
重苦しい静寂が空間を支配する。窓の外から、呑気に囀る小鳥の小さな声だけが、やけに鮮明に耳を刺した。
沈黙を破るように、ガルディアが再び口を開いた。それは誰かに向けたものではなく、自身の内側に向けられたような、底知れず静かな独り言のようだった。
「……オレがこの血みどろの戦争に身を投じて、今年で十年になる。その長い道のりのなかで……たくさんの仲間が死んでいった」
ガルディアの視線は、過去を見つめているようだった。
「死んでいった奴らの中にはな……心の底から愛おしいお気に入りの奴もいれば、顔も見たくないほど嫌いな奴もいた。そして…………かけがえのない、大切な友もいた」
「………………」
クロコは固く拳を握り締め、床板の一点を睨んだまま微動だにしない。
再び、重い静寂が二人の間を塞ぐ。鳥の鳴き声だけが、残酷なほど一定のテンポで響いていた。
ガルディアは、一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと、あまりにゆっくりと言葉を紡いだ。
「……人が死ぬってのは、どうしてこんなにも苦しいんだろうな。……誰もいなくなるってのは、どうしてこんなにも痛くて、さびしいんだろうな。もう二度と、どんなに手を伸ばしても、その顔に触れることも、声を聞くこともできないなんて…………」
ガルディアは瞼を、ほんのわずかの間だけ強く閉じ合わせた。
凍てついたような静寂が再び部屋を支配する。
ガルディアはゆっくりと上半身を向け、うつむくクロコを真っ直ぐに見据えた。
今度の沈黙は、これまでのどんな時間よりも長かった。一言も発せられないまま、ただ重い空気だけが流れていく。
クロコは床の一点を見つめたまま動かない。その深紅の瞳は、底知れない悲しみの泥沼に深く沈み込んでいた。ガルディアは、その痛みをすべて受け止めるかのように、ただじっと見つめ続けている。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
その硬質な沈黙を切り裂くように、掠れた声がこぼれ落ちた。
「……あいつは」
口を開いたのはクロコだった。
あまりに長い沈黙の果てに絞り出されたその声は、震え、途切れ途切れに小さく紡がれていく。
「あいつは…………ずっと、俺のそばにいた。いつの間にか、気付いたときには当然のように隣にいて……」
クロコの震える瞳の奥で、無数の思い出が痛々しくきらめく。
「ガキの頃から、無茶ばかりする俺の尻拭いばっかしてさ。村を出て、あの地獄みたいな街に落ちてからも……あいつはいつも、自分のことより俺のことを守って……」
幼い日の背中、冷たい街での逃走劇、そして戦場の喧騒。走馬灯のように脳裏を掠める相棒の横顔。
耐えきれなくなったように、クロコの声が激しく震えた。
「知ってたはずなのに……なのに俺は、あいつに文句ばっか言って……。俺はあいつに何も返せなくて、何ひとつ、してやれなかった……!」
細い身体が激しく痙攣し、耐えきれず崩れ落ちるように、クロコはガルディアの隣へと座った。
「もう……あいつは、いないんだ。どこを探しても……もう、いない……」
ガルディアは言葉を発せず、ただその小さな背中の震えの隣で、静かに耳を傾け続けた。
やがて、堰を切ったような感情が少しだけ凪ぎ、クロコの口調がかすかに落ち着きを取り戻す。
「もし……もし俺がいなければ、あいつは……俺なんかを守ることもなく、もっと、もっと自由に、安全に生きられたんじゃないのか……。俺はあいつの足引っ張って、迷惑ばかりかけて……」
自責の念という名の毒が、少年の心を内側から蝕んでいく。
再び訪れた重苦しい沈黙。
今度は、ガルディアがゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。クロコから視線を外し、窓の外の空を見上げながら、どこか遠くを見るような静かな声で。
「……オレはな、仲間が死ぬたびに、いつも同じことを考える。『もしあのとき別の道を選んでいれば、あいつは死ななかったんじゃないか?』『オレはもっと、あいつに救いの手を伸ばせたんじゃないのか?』ってな。……そんなことを何回も何回も考えちまうんだ」
ガルディアの横顔に、戦場を生き延びた者にしか分からない深い傷跡のような影が差す。
「もう二度と過去には戻れない。そんなこと、痛いほどわかっているのに……それでも、その問いから逃げることはできねぇんだよ」
紡がれた言葉の重みが、部屋の空気を震わせた。
しばらくの静寂のあと、ガルディアは再び顔を向け、真っ直ぐにクロコを見つめ返す。
「なあ、クロコ。……ブレッドは死ぬ間際、お前に何か残さなかったか?」
「……何か、残す……?」
クロコはハッと顔を上げ、真紅の瞳を丸くした。
「形のあるものとは限らない。……お前の胸に刻まれた、形のないものかもしれない」
「形の……ないもの……」
クロコは息を呑み、再び俯いて記憶の底をまさぐった。
あの瞬間の光景、あの熱、あの最後の感触。
「……っ!」
クロコの脳裏に、あの地獄の戦場でブレッドが遺した、最後にして最大の「言葉」が鮮烈によみがえった。
「……ふっ、どうやら、何か大切な心当たりがあるみたいだな」
少年の瞳に宿った変化を見逃さず、ガルディアは、ほんのわずかに、しかし深く救うような笑みを浮かべたのだった。
「なぁ、クロコ。……もしブレッドが、お前のことを『ただの足手まとい』だとか『面倒な重荷』だと思っていたなら、死の直前になって、わざわざお前に何かを遺していくだろうか?」
ガルディアの低く、しかし深く染み入るような声が、静まり返った部屋に落ちる。
「ブレッドは確かに、お前を守っていた。だが、それは一方通行の庇護じゃない。あいつは命を張ってお前を守りながら……同時に、お前という存在に救われていたんじゃないのか?」
「俺に……救われていた……?」
「俺が知るあいつはな、お前と一緒にいるとき、一番人間らしい、いい目をしていたよ。……ブレッドにとって、お前が必要だったんだ。俺にはそう見えたがね」
「…………っ」
「自分が死んだあとで、こんなにも悲しんでくれる奴がいる。……それこそが何よりの証拠だ。お前はあいつにとって、替えのきかない、あまりに大きなすべてだったんだよ」
ガルディアはふっと柔らかな笑みを浮かべ、圧倒的な熱を宿した瞳でクロコを見据えた。
「ブレッドがお前に遺したもの、その重みを無駄にするなよ」
それだけ言い残すと、ガルディアはどっしりとした巨体をゆっくりと立ち上がらせた。
「さて、長居しすぎたな。これ以上サボってると、ファイフの奴に小言を言われちまう」
ガルディアは静かに部屋をあとにする。
一人残された薄暗い個室。
静寂のなかで、クロコはハッと顔を上げた。不思議なことに、先ほどまで鉛のように重く淀んでいた部屋の空気が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
立ち上がり、窓の外へと歩み寄る。その瞬間――。
背後の空間が揺らぎ、鮮明に蘇る幻聴が、少年の耳元で優しく囁いた。
『――クロ。お前は決して、進むのをやめるな。進み続けろ』
びくりと背筋を跳ねさせ、クロコは慌てて振り返る。だが、そこにあるのは冷たい壁と、差し込む陽光だけだった。誰もいない。
しかし、その胸のなかで、凍りついていた何かが音を立てて砕け散っていた。
「……分かってるよ、ブレッド」
潤んだ真紅の瞳に、再び強い光が灯る。
「俺はもう、二度と立ち止まらない。……お前が繋いでくれたこの命で、どこまでも進み続けてやるよ……っ!」
迷いを振り払ったクロコは、閉ざされた扉を勢いよく蹴破り、フルスロック基地の廊下へと駆け出した。
一方その頃、駅馬車乗り場。
重厚な車輪が軋み、サキの乗った大型馬車がまさに旅立とうとしていた。
「それじゃあ、行ってきます!」
サキは力強く言い残すと、しっかりと馬車の扉を閉めて乗り込む。
「気をつけてな、サキ」
クレイドが軽く右手を挙げて見送る。
「うん、幸運を祈ってるよ、サキ君!」
フロウが温かい笑顔で手を振る。
ゴゴゴ、と地鳴りのような音を立てて馬車が前進し始める。見送る仲間たちの声援を背に受けながら、馬車は徐々に加速していく。
石畳の街並みへ向かうその姿は、粉雪が溶けるようにゆっくりと、しかし確実に遠ざかり、やがて視界の彼方へと消えていった。
「……行っちゃったね」
フロウが、ぽつりと寂しげな呟きをこぼす。
「ああ」
クレイドは遠ざかるほこりの向こうを見据えたまま、静かに呟くのだった。
ガタゴトと重い車輪を鳴らして進む馬車のなか。
サキは窓枠に額を預け、流れていく灰色の景色をぼんやりと眺めていた。
無機質な石造りの建物が次々と後ろへ走り去っていく。慣れ親しんだ街並みが遠ざかるにつれて、胸の奥底に鉛のように重い物悲しさが沈み込んでいった。
ふと、脳裏によみがえるのは、あの日の記憶――クロコと出会った瞬間のことだ。
基地のなかで理不尽ないじめを受けていた自分。そこに突如として現れ、それを一蹴して見せた、圧倒的な強さと輝きを放つクロコ。
思えば、あの瞬間からずっと、クロコは自分の眩しい「憧れ」だった。
だが、現実の結末は残酷だった。
結果として自分の未熟さが原因で、ブレッドという――クロコにとってかけがえのない存在を奪ってしまった。それなのに、クロコは一度たりとも自分を責めはしなかった。
「……ごめんなさい、クロコさん」
誰にも届かない謝罪が、揺れる車内で小さく溶けた。
その時、馬車が街の外れへと続く、大きな石造りの橋を渡り始めた。
ふと、窓の外を流れる川面から視線を上げると、平行して架かる隣の橋の上に、ポツリと小さな人影が立っているのが目に留まった。
――人影?
距離があって表情までは見えない。だが、その輪郭を見た瞬間、サキの心臓が激しく跳ねた。
次の瞬間、静寂を引き裂くように、その人影から魂を絞り出すような叫び声が響きわたる。
「――サキーッ!!」
鈴を鳴らしたような、しかし必死に張り裂けそうな少女の高い声。
聞いた瞬間に胸が熱くなる。サキは思わず馬車の窓から身を乗り出し、向こう側の橋を凝視した。
そこに立っていたのは――乱れ髪を風になびかせ、息を切らせて走ってきた様子のクロコだった。
「クロコさーんっ!!」
サキもまた、涙で潤んだ喉を絞り出すように大声で叫び返す。
クロコは橋の欄干に手をかけ、さらに声を張り上げた。
「このバカヤローッ!! サキっ、勝手に一人でどこ行ってんだよ……っ!!」
「すいませーんっ!!」
怒号と謝罪が、ゴウゴウと流れる川の音を越えてぶつかり合う。
馬車はスピードを緩めず、石橋を渡りきり、二人の距離は無慈悲に離れていく。
「サキーッ!」
「はーいっ!」
遠ざかる視界のなかで、クロコはふっと、あの日のような鮮烈な笑みを浮かべた。そして、ありったけの息を吸い込んで叫ぶ。
「――また、会おうっ!!」
その言葉を聞いた瞬間、サキの瞳から堰を切ったようにあふれ出した涙が、とめどなく頬を伝い落ちた。
「は、はいっ……! かならず、絶対に……また会いますっ……!!」
車体の振動に震えながら、サキは精一杯の声を張り上げて応える。
やがて、小さくなっていくクロコの姿は、舞い上がる土煙と遠ざかる景色の中に完全に溶け込み、二度と見えなくなった。
(クロコさん……ありがとう……っ)
ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うこともせず、サキは胸に灯った温かい光を抱きしめながら、前を向いて新しい戦場へと走り出した。
黄昏の茜色が、フルスロック基地の無機質な石壁を染め上げていく。
副司令室。大きな黒檀の執務机に向かい、アールスロウは山積みの書類の束と格闘していた。壁一面の本棚に囲まれた静かな空間で、ペンを走らせる音だけが規則正しく響く。
(やれやれ……。この調子では、今日の夜食にありつけるのは何時になることやら)
小さく息を吐きかけたその時、コン、コン、と控えめなノックが響いた。
(この乱暴でも軽快でもないノックは……グレイさんではないな)
首を傾げながら扉を開けると、そこには思いがけない人物が立っていた。
黒髪に、強い光を取り戻した真紅の瞳。クロコだった。
「……よう。今、暇か?」
相変わらずぶっきらぼうな口調だが、その瞳の奥にはかつての澱みが消えていた。
アールスロウは驚きにわずかに目を丸くしたあと、すぐにいつもの涼やかな笑みを浮かべる。
「ほう……君から俺を訪ねてくるとは珍しいな。一体どうしたんだ、突然」
「『どうしたんだ』じゃねぇよ。アンタが言ったんだろ。『暇があれば稽古をつけてやる』ってな」
その言葉に、アールスロウは一瞬きょとんとしたが、やがてすべてを察したように深く頷いた。
「ああ、確かにそんなことも言ったな」
「……で。今、暇なのか?」
アールスロウは悪戯っぽく口角を釣り上げる。
「奇遇だな。今まさに、一息つこうと思っていたところだ。すぐに準備をするから、少し待っていてくれ」
そう言うと、アールスロウは素早く室内に戻り、長剣を手に取って再び扉を開けた。
夕闇が落ち始めただだっ広い演習場。
その中央で、アールスロウとクロコは互いに木剣を携えて対峙していた。
「では、基礎から小言を並べるよりも……まずは俺と剣を交えよう。君の今の状態がどれほどのものか、その身で教えてやる」
アールスロウはすらりとした長身を低く落とし、静かに木剣の切先をクロコに向ける。その構えには、隙という概念が存在しない。
「上等だ……! 今度こそ、その澄ました顔面に一発ブチ込んでやるよ!」
クロコは重心を落とし、愛用の木剣を力強く握り締める。
応じるように、アールスロウも静かに息を整えた。
「――来い」
「言われなくても……っ!」
硬質な木と木が擦れ合う音が爆ぜるより早く、クロコは地面を蹴った。
研ぎ澄まされた殺意を乗せ、少女の身体が弾丸のように肉薄する。
――ブレッド。
聞こえないはずの相棒の声が、風の音に混ざって脳裏をかすめる。
……オレは、もう立ち止まらない。
どこまでも、進み続けるよ。
夕闇のなかに木剣が激突する乾いた音が響き渡り、新たな物語の歯車が、音を立てて力強く回り始めた。