俺、伝説の英雄に憑かれまして   作:クリムゾン

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二話 初めての旅

 町を出て、まだ空も白みきらないうちから、俺は早くも後悔しはじめていた。

 

「なあ、レオ。退屈だ。なんか喋れ」

 

「歌ってやろうか。俺の武勇伝、三百番まであるぞ」

 

「お、その石ころ蹴ってみろ。……へたくそ!もっとこう、ぱーんとだ」

 

 ガレンである。

 

 英雄だかなんだか知らないが、とにかく口を閉じない。墓場で出くわしてから、こいつが黙っているところを、俺はまだ一度も見ていなかった。しかも、すり抜けるくせに、やたら近い。振り向けば鼻先にいるし、前を見れば視界のど真ん中をふわふわ漂っている。鬱陶しくて払いのけようとした手は、むなしく空を切るだけだ。

 

「聞いてんのか、相棒」

 

「……夕べから、ずっとこれか」

 

「なにせ寝ねえからな。死人だし」

 

 静かに生きるはずだった人生に、よりにもよって、世界一うるさい道連れがくっついてきた。

 

 それでも。

 

 ゆるい坂をのぼりきった、その瞬間だけは。

 

 俺は足を止め、さすがのガレンも、口をつぐんだ。目の前に、世界があった。

 

 眼下に、朝靄の沈んだ草原が広がっている。銀色の川が一本、それを縫って光っていた。遠くには、青くかすむ山。地図でしか見たことのない雪をかぶった山脈の、いちばん端っこだ。

 

 空が、やけに広い。

 

 俺の町は、すり鉢の底みたいな場所だった。どこを見ても墓と、低い屋根と、その向こうの林で行き止まり。空なんて、井戸を覗くみたいに丸く切り取られたぶんしか知らなかった。

 

 なのに、ここには端がない。

 

 ……なんだ、これ。

 

 間抜けみたいに口が開いていた。壁の地図で勝手に想像してきた「外」は、こんなものじゃなかった。匂いがする。濡れた草と、土と、知らない花の匂い。風が頬を撫でて、髪をさらっていく。名前も知らない鳥が、聞いたこともない声で鳴いた。

 

 ぜんぶ動いている。ぜんぶ生きている。俺の知っている世界は、動かないやつばかりだったのに。

 

「いい顔してるじゃねえか」

 

 隣で、ガレンが言った。からかうでもなく、めずらしく静かな声だった。

 

「初めてか。町の外」

 

「……ああ」隠す気にもなれなかった。「初めてだ」

 

「そうかい」ガレンは俺と同じほうを見て、目を細めた。

 

「なら、たっぷり見とけ。世界は、お前が思ってるよりずっと広いぞ」

 

 不覚にも、目の奥が熱くなった。慌てて袖でこする。墓穴ばかり掘ってきた手の甲は、ひび割れて土の匂いがした。

 

「泣くな泣くな」

 

「泣いてない」

 

「鼻水出てるぞ」

 

「黙れ」

 

 とはいえ、感動が長く続かなかったのも、また事実だった。歩いても歩いても、景色が変わらないのだ。

 

 坂を下り、草原の一本道をひたすら行く。さっきまで綺麗だと思っていた「端のない世界」は、自分の足で進む身になってみると、ただ「目的地が遠い」というだけの話でしかなかった。足の裏が、じんじんと痛む。履き古した靴は町をうろつくぶんにはよくても、旅には向いていなかった。

 

 懐には、折りたたんだ地図と、固くなったパンの端きれ。手にはシャベルが一本。これが俺の全財産だ。

 

「なあ」たまらず、ガレンに聞いた。「次の町まで、どれくらいだ」

 

「さあな」

 

「さあって」

 

「地図、持ってんだろ。見りゃいい」

 

 言われて懐から地図を出す。広げてみて――俺は、自分が地図の読み方すら知らないことに気づいた。毎晩ながめてきたくせに、どの線が道で、どこが今いる場所かも、さっぱり分からない。眺めるのと歩くのとは、まるで別ものだった。

 

 そのとき、道ばたの草むらがガサリと揺れた。

 

 俺は反射的にシャベルを構えた。

 

 飛び出してきたのは、丸っこい野ねずみが一匹。きょとんと俺を見上げて、また草むらへ消えていった。

 

 ガレンが噴き出した。

 

「おいおい。墓掘りの道具で、ねずみと一騎打ちか」

 

「うるさい。ほかに、ないんだよ」

 

「いいか、レオ」笑いを引っ込めて、ガレンが言った。さっきまでのふざけた調子じゃない。

 

「これだけは覚えとけ。魔物だろうが野盗だろうが、面倒そうなやつに会ったら――まず、逃げろ」

 

「英雄様の、ありがたい教えがそれか」

 

「そうだ。今のお前は、笑っちまうくらい弱い。見栄を張って死んだ墓守を、俺は見送ってやれねえからな」

 

 もっともな話だった。腹は立つが。

 

「……だったら、お前が戦えばいいだろ。英雄なんだろ」

 

 ガレンは、一拍、答えなかった。

 

「俺はもう死人だぞ。剣も握れねえ」すり抜けるはずの剣の柄を、こつんと叩く真似をする。「だがまあ、いざってときは力くらい貸してやる。――お前が、本気でそれを望んだらな」

 

 貸してやる、ではなく。望んだらのところに、ほんの少し嫌な引っかかりがあった。聞き返す前に、ガレンはもう別の方角を指さしていた。

 

「ほら。人の匂いだ」

 

 昼を過ぎたころ、細い道は広い街道にぶつかった。

 

 人がいた。

 

 荷を山と積んだ馬車が、車輪を軋ませて行く。天秤棒をかついだ行商人。子どもの手を引いた巡礼らしき女。馬の汗と、土埃と、誰かの荷から漏れる香辛料の匂い。みんな、どこかから来て、どこかへ向かう途中だった。

 

 俺はその場に立ち尽くした。こんなに大勢の「知らない人間」を一度に見たのは、生まれて初めてだった。

 

 そして、もっと慣れないことがあった。

 

 誰も俺を避けないのだ。

 

 見るには見る。だがそれは、町の連中が俺に向けるのとは、まるで違う目だった。穢れを見る目でも、墓掘りを遠巻きにする目でもない。ただ、すれ違う見知らぬ若造を見る、それだけの目だった。

 

 

 

 街道の脇に、一台の荷馬車が停まっていた。年寄りの御者が、荷台から落ちた酒樽を、ひとりで積み直そうとしている。俺はなんとなく手を貸した。重いものを動かすのは、墓掘りで慣れている。

 

 ところが、だ。

 

 樽に手をかけた爺さんは、それを片手でひょいと持ち上げた。俺が両手で唸ってもびくともしなかった樽を、枯れ枝みたいな腕で、軽々と。

 

「……は?」

 

「お、すまんなあ、若いの。助かったわい」

 

 爺さんはからからと笑い、樽を荷台へ放った。どすん、と馬車が揺れる。礼だと言って、隣の村まで乗せてくれることになった。

 

 荷台に揺られながら、俺は声を落として、ガレンに聞いた。

 

「なあ。あの爺さん、なんであんな力が」

 

「ああ、あれか」ガレンは荷台のへりに腰かける格好で、宙にふわりと浮いていた。尻が板をすり抜けている。「おこぼれだよ。英雄譚のな」

 

「英雄譚のおこぼれ......?」

 

「英雄譚ってのはな。語られて、覚えられてるあいだ、土地や人に、ちょびっとずつ力を残してくんだ」ガレンは、面倒くさそうに手をひらひらさせた。「あの爺さんも、どっかの力自慢の英雄の歌の、おこぼれにあずかってんのさ。仕組みなんざ知らん。とにかく、そういうもんだ」

 

「ずいぶん、雑だな」

 

「学者じゃねえんだよ、俺ぁ」

 

 俺は、御者の背中を見た。鼻歌まじりに手綱をさばく腕は、さっき樽を放ったのが嘘みたいに、ただの枯れ枝に戻っている。

 

 雑な説明だ。けれど、妙に腑には落ちた。語られた者は、力になる。なら――語られもせず、忘れられて消えたあの町の死人たちは、なんだったんだろうな。墓守の俺は、そっちばかりを送ってきたけれど。

 

「じゃあ、お前は。お前も語られてるから、そんなにはっきり視えるのか?」俺はガレンを見た。

 

「お、鋭いな」ガレンは、にやりとした。「そういうこった。俺の歌は大陸中で歌われてる。だから死んでもこの通り、男前だ。腹も減らねえ。いい気分だ」

 

 御者の爺さんが、前を向いたまま、くつくつ笑った。

 

「若いのに、独り言が多いんじゃなあ」

 

「……すみません」

 

 町なら、薄気味悪がられて終わりだ。なのに爺さんは、ただ面白がっている。それだけのことが、なんだか、くすぐったかった。誰かに笑われて、こんなに嫌じゃないのは、初めてだった。

 

「ついでに、もうひとつ聞いていいか」俺は、小声で話す。「……俺のこれも、死人が視えるのも、どこかの英雄譚のおこぼれなのか」

 

 ガレンの返事が、一拍、遅れた。

 

「……どうだろうな」

 

 はぐらかした、と思った。こいつは知っている。知っていて言わない。

「その目、まだ残ってたのか――」墓場で、こいつは確かにそう言った。

 

「おい」

 

「ま、その話はいずれな」ガレンは、ひらひらと手を振った。「種明かしを一気にやると、旅がつまらなくなるだろ?」

 

 ごまかし方まで芝居がかってやがる。そのとき、御者の鼻歌が、ふいに節をはっきりさせた。聞き覚えのある、古い旋律。

 

 

 ――ガレンとルベール。二人ゆけば、夜も明ける。

 

 

 爺さんがよく俺に歌ってくれた、あの子守唄だった。『ガレンとルベールの旅物語』。

 

 俺は思わず隣を見た。歌われている当人は――荷台のへりで、めずらしく黙っていた。

 

「……いい気分なんじゃ、ないのか」

 

「いい気分さ」ガレンは笑った。けれどそれは、口の端だけの笑いだった。「ルベールの名前さえ、出てこなけりゃな」

 

 ルベール。歌の中のもう一人の英雄。

 

 それきり、ガレンは遠くの山を見て、何も言わなくなった。さっきまで、あんなにうるさかったのに。聞いちゃいけない気がして、俺も黙った。

 

 

 

 日が、傾きはじめていた。三叉路の手前で、爺さんは馬車を停めた。「わしは、こっちじゃ」と、東へ延びる道を指す。

 

「世話になりました」俺は頭を下げた。

 

「なあに。話し相手がおって、退屈せんかったわい……。ああ、そうじゃ」

 

 去り際、爺さんは思い出したように言った。「この先の村な。近ごろ、野盗が出るそうじゃ。気をつけて行きなされ。……少し前にも、退治に来た若い騎士さんが、ひとり命を落としたとか。むごい話よ」

 

 馬車が、土埃を上げて遠ざかっていく。あとには、俺とガレンだけが残された。

 

 西の空が、燃えるように赤い。その色を背に、街道の先――村へ続く道の脇に、誰かが立っていた。

 

 兵士の格好をした、若い男。くたびれた革鎧に、腰の剣。けれど、夕日を浴びているはずのその体は、影ひとつ落としていなかった。

 

 そいつは、こちらに気づきもしない。灯りはじめた村の窓を見つめて、譫言みたいに、同じ言葉を繰り返していた。

 

「……すまない。守るって、約束したのに」

 

 声が、震えていた。

 

「今夜、あいつらが戻ってくる。なのに俺は、もう……。すまない。すまない……。」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

 あれだけしゃべり残る死人は、よほどの心残りを、この世に縫いつけられている。ろくな話じゃない。

 

 隣で、ガレンが足を止めた。いつのまにか、あのへらず口が、笑っていない。

 

「死人の未練ってのはな、レオ」低い声だった。「たいてい、手遅れの形をして、突っ立ってやがる」

 

 逃げろ、と昼間のこいつは言った。お前は弱い、と。きっと今も、そう思っている。村の事情なんざ、俺には関わりない。背を向けて、先の町へ行けばいい。

 

 ――それなのに。

 

 誰にも気づかれず、誰にも届かず、それでも消えられずに同じ言葉を繰り返す。そんな死人を、俺はこれまで、ただの一人も、見て見ぬふりできたためしがなかった。

 

 俺は、シャベルの柄を握り直した。

 

 関わるな、と理性が言う。なのに足は、もう、その死人のほうへ歩き出していた。

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