夏油が離反せず高専に残る話は複数ありますが、夜蛾センが夏油の異変に気がつき話を聞くというssは見たことがなかったのでAIに創ってもらいました。

夏油が救われる話なのに高専メンバーで灰原だけ亡くなってしまうのも嫌だったので生存させてます。

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第1話

 

 

第一章:因習に沈む村、狂気の引き金

 

二〇〇七年、九月。

初秋とはいえ、山深くへ分け入るほどに、ねっとりとした湿気を含んだ重い空気が肌にまとわりついてくる。東京立呪術高等専門学校の三年生、夏油傑は、自身の足元を見つめながら、重い歩調で未舗装の険しい山道を歩いていた。

 

本来であれば、この「山間部の集落における住民の不審死および精神異常に関する調査」は、一級術師である夏油が単独で赴くはずの任務であった。

 

残された呪力の痕跡から推測するに、潜んでいる呪霊の等級は高くても二級、あるいは準一級といったところだろう。

 

夏油の卓越した実力をもってすれば、一人で向かい、ものの数分で対象を無力化し、自らの内に取り込んで終わる――いつも通りの、ありふれた「業務」になるはずだった。

 

しかし、今日の夏油の数歩後ろには、呪術高専の教師であり、彼らの担任である夜蛾正道が並んで歩いていた。

夜蛾が半ば強引に同行を申し出たのは、ここ数ヶ月の夏油の様子が、明らかに常軌を逸していたからだ。

 

かつての夏油は、細身ながらも芯の通った美しい体躯をし、その表情には常に理性的で穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

だが、今の夏油は痛々しいほどに激痩せしており、前髪の隙間から覗く切れ長の瞳は、光を失って濁っていた。

呪霊を「祓い、取り込む」という行為を、まるで感情の失われた機械のように繰り返す愛弟子を見て、夜蛾は強い危機感を抱いていた。

 

「傑。……体調はどうだ。少し休むか?」

夜蛾の低い、しかし父親のような温かみを含んだ声が、静かな山林に響く。

 

夏油は歩みを止めず、振り返りもせずに、いつもの完璧に整えられた、しかし仮面のように冷たい微笑を声に乗せて返した。

「問題ありませんよ、夜蛾先生。ただの夏バテです。毎年、この季節は少し食欲が落ちるものでしてね」

 

その言葉が嘘であることなど、夜蛾には百も承知だった。だが、無理に踏み込めば、夏油はさらに深い殻に閉じこもってしまうかもしれない。夜蛾は奥歯を噛み締め、それ以上追及することを諦めた。

夏油の脳内には、ここ数ヶ月、消えることのない暗い澱が渦巻いていた。

 

『呪術は弱者を守るためにある』

かつて自分が信じ、自らの行動指針としていた強固な理念。

それが、去年の夏、星漿体である天内理子の死をきっかけに音を立てて崩壊し始めていた。天内の命を奪った伏黒甚爾という男の存在。

そして何より、彼女の死体を前にして、嬉々として拍手を送り、笑顔を浮かべていた「盤星教」の非術師たちの姿。あの光景が、夏油の網膜に焼き付いて離れない。

 

(彼らは呪力を持たない。呪いを見ることも、感じることもできない。それなのに、彼らはその醜いエゴや怨念で呪いを生み出し続ける。そして、その呪いを、私たち術師が命を懸けて、血を流しながら祓う。……なぜだ? なぜ、強者である私たちが、あんな『猿』どもを守るために、これほど摩耗しなければならない?)

 

さらに、つい先日行われた任務での出来事が、夏油の心を決定的に追い詰めていた。

後輩である二年生の灰原雄と七海建人が向かった任務。

ただの二級呪霊の討伐のはずが、その正体は土地の神たる一級呪霊(産土神)だった。情報に致命的な誤りがあったのだ。

 

現地に駆けつけた夏油が目にしたのは、呪霊の圧倒的な暴力の前に、文字通り死にかけていた灰原の姿だった。幸いにも、七海が必死に時間を稼ぎ、夏油の介入が間に合った。

 

そして高専に連れ帰り、家入硝子の反転術式によって、灰原は五体満足、傷一つ遺さずに奇跡的な生還を果たした。

それどころか、驚異的な生命力で、次の日の朝には「いやあ、お腹減っちゃいました!」と、すぐに動き回れるほど元気に復活していた。

 

だが、夏油の心は救われなかった。

(灰原は五体満足で、次の日にはすぐに元気に動けていた。無事だった。……だが、それはただの『結果論』だ。もし硝子の治療が遅れていたら? もし私が間に合わなかったら? 灰原は間違いなく死んでいた。

 

非術師たちがのうのうと生きる世界の裏で、私の大切な後輩が、あんな無惨に命を散らすところだったんだ)

 

元気に笑う灰原の姿を見れば見るほど、夏油の心の中では「非術師への嫌悪」が反比例するように巨大化していった。一度芽生えた思考の毒芽は、すでに彼の精神を蝕み尽くそうとしていた。

 

「……見えてきたな」

夜蛾の声で、夏油は思考の海から強引に引き揚げられた。

 

木々の開けた先に広がっていたのは、時代に取り残されたような古びた集落だった。灰色に変色した木造の家屋が数棟、すり鉢状の地形の底にへばりつくように並んでいる。

村全体を覆う空気は重く、ねっとりとした陰湿な呪力の残穢が、薄い霧のように立ち込めていた。

 

「手分けして生存者を探す。傑、お前は西側の住居群を。私は東側を捜索する。何かあればすぐに術式で合図を送れ。いいな」

「わかりました、夜蛾先生」

夏油は静かに一礼すると、錆びついたトタン屋根が連なる西側のエリアへと足を向けた。

 

呪霊の処理自体は、夏油にとって欠伸が出るほどに容易なものだった。村に漂う閉鎖的な人間関係、あるいは誰かに対する陰湿な妬みや怨念が形を成した、二級程度の呪霊。夏油は呪霊操術を使い、指先一つ動かすだけでその呪霊の動きを止め、完全に組み伏せた。

いつものように、これを球体にして取り込めば終わり――。

 

しかし、その作業に移る前に、夏油の耳に微かな「声」が届いた。

西側の最も奥まった場所にある、頑丈な丸太で造られた古い蔵の中からだった。

 

不審に思った夏油が蔵の重い扉を開け、薄暗い内部へと足を踏み入れた瞬間、彼の目は驚愕に見開かれた。

埃っぽく、光の届かない蔵の最奥。そこには、太い木製の檻が設置されていた。

 

檻の中にいたのは、二人の幼い少女だった。衣服はボロボロに裂け、髪は泥にまみれ、体中には無数のあざや生々しい傷跡がある。衰弱しきって身を寄せ合う彼女たちの体からは、明らかに常人とは異なる、しかし未だコントロールされていない「呪力」が漏れ出ていた。

 

菜々子と美々子。

二人の幼女は、突然現れた夏油の姿を見ると、恐怖に小さな体をさらに縮こまらせ、声を殺して怯えた。

 

「……これは、どういうことだ?」

夏油が呟いたその時、背後から無数の足音が近づいてきた。

 

振り返ると、そこには鍬や鎌、頑丈な木棒を手にした村の老人や大人たちが、総出で集まってきていた。

彼らの顔には、罪悪感など微塵もなかった。あるのは、歪んだ正義感と、異質なものに対する剥き出しの排他性だった。

 

「ああ、あんたかい。東京から来たっていう専門家は」

一人の老人が、前歯の抜けた口を開いて、醜悪な笑みを浮かべた。

 

「そこの檻にいるガキども、そいつらが村に変な化け物を呼び寄せる『呪われた化け物』なんだよ」

 

「そうだ! こいつらが少し大きくなってから、村で不審な死人が出るようになったんだ!」

 

「俺たちは村を守るために、この化け物どもを閉じ込めて懲らしめてやってるんだ。なぁ、専門家さんよ、早くその不浄な血筋をここで処分してくれよ!」

 

口々に吐き捨てられる、悪意に満ちた言葉。

彼らは自分たちが「正しいこと」をしていると信じて疑っていなかった。自分たちの心の醜さが呪霊を生み出したにもかかわらず、その原因を、かすかに呪力が見えるだけの無辜の子供たちになすりつけ、虐待し、悦に浸っている。

 

その瞬間、夏油の脳内で、何かが決定的に弾けた。

張り詰めていた理性の糸が、不快な音を立てて千切れ飛んだ。

 

(ああ……やはり、そうか)

 

(こいつらは、悪だ。救う価値などない)

 

(呪いを生み出し、それを自覚もせず、自分たちと違う力を持つ無垢な子供を虐げる。これらを『猿』と言わずして、何と言う?)

 

夏油の瞳から、完全に光が消え失せた。深い、底なしの虚無と殺意がその眼窩を支配する。

彼の背後の空間が歪み、禍々しい特級呪霊の巨大な影が、実体を持って這い出てきた。蔵の空気が、一瞬で凍りつくような殺気に満たされる。

 

(殺そう)

(この村の人間を、一人残らず、根適やしにしよう。それが、術師だけの世界を作るための、汚れなき第一歩だ――)

 

夏油が呪霊を解き放とうと、指先を掲げたその時だった。

 

「――傑ッ!!!!」

 

初秋の静寂を引き裂く怒号が、蔵全体に炸裂した。

凄まじい呪力の波動をまとい、夜蛾正道が二人の間に割って入ってきた。夜蛾の鋭い眼光は、檻の中の凄惨な光景と、完全に狂気に染まりかけている夏油の表情を瞬時に捉えていた。

 

「夜蛾、先生……。邪魔をしないでください」

夏油の声は、驚くほど冷たく、平坦だった。

「こいつらは、生かしておいてはいけない生き物だ。今ここで、私が間引きしてあげます」

 

しかし、夜蛾の怒りは、暴走しかけている夏油に向けられたものではなかった。

夜蛾は夏油の前に大きな背中を向けて立ちふさがると、鍬を手にした村人たちに向けて、文字通り「割れんばかりの激怒」の咆哮を浴びせた。

 

「ふざけるなァッ!!!貴様ら、人間を何だと思っている!!!」

夜蛾の巨体から放たれた、一級術師としての圧倒的な威圧感と殺気が、津波のように村人たちを襲う。

 

「ひっ……!」

「うわあああ!」

老人たちは悲鳴を上げ、持っていた鍬や鎌を放り出して、その場に尻もちをついた。数人は恐怖のあまり失禁し、這いつくばって逃げようとしている。

 

「この子供たちが何をしたというんだ! 呪いを生み出しているのは、貴様ら自身の腐った精神、醜いエゴだろうが! 児童虐待、不法監禁、殺人未遂……! 呪術界の規定以前に、現代日本の法のもとに、貴様ら全員を社会的に抹殺してやる! 覚悟しておけ!!」

 

夜蛾は懐から、呪術高専が管理する特殊な通信機を取り出すと、待機させていた補助監督を通じて、即座に警察のキャリア上層部へと緊急連絡を入れさせた。

呪術高専は、国家の最高機関とも直通の権限を持っており、こうした非術師の凶悪犯罪に対しても、警察権力を強制的に介入させることが可能だった。

 

「おい、何を言ってるんだあんた……! 俺たちは、村を……」

「黙れ! 言い訳は法廷の場で聞く!」

夜蛾は一歩も引かず、腰を抜かした村人たちを呪力で完全に縛り付け、その場から動くことを許さなかった。

 

その間に、夜蛾は素早く檻へと近づき、頑丈な木製の錠前を素手で叩き割った。そして、檻の中に手を伸ばし、怯える菜々子と美々子を、壊れ物を扱うかのように優しく、その大きな両腕で抱き上げ、自らの上着で包み込んだ。

 

「大丈夫だ。もう終わった。もう誰も、君たちを傷つけさせはしない。この私が、命に代えても保証する」

夜蛾の大きな、しかしこれ以上ないほどに温かい手と言葉に触れ、少女たちはそれまで張り詰めていた糸が切れたように、声を上げて泣き崩れた。

 

夏油は、その光景をただ、呆然と見つめていた。

 

(殺さない……? 警察に、引き渡す?)

 

(なぜだ。なぜそんな回りくどいことをする。こいつらは猿なのに……。殺してしまえば、すべてが解決するのに……)

 

しかし、夜蛾の尋常ではない「ブチ切れ」の剣幕は、村人たちの悪意を粉砕しただけでなく、夏油の暴走しかけた精神を強引に現実に繋ぎ止めるだけの冷や水となった。夏油の背後に浮かんでいた特級呪霊の影が、静かに霧散していく。

 

数時間後、山奥の孤立した集落には、赤色灯を激しく回転させた数十台のパトカーと、呪術界が手配した「窓」の大型車両が到着した。因習の村の大人たちは、次々と手錠をかけられ、容赦なく警察車両へと押し込まれていく。

 

彼らが築き上げてきた醜い因習の世界は、呪術的な大虐殺ではなく、皮肉にも彼ら自身が属する「非術師の法律と警察介入」という極めて現実的な手段によって、一晩にして完全に崩壊した。

 

菜々子と美々子は、高専の医療施設で最優先で保護されることが決定し、先行する救急車両に乗せられた。

 

夏油は、自分が引くはずだった引き金を、夜蛾によって強引に戻された形になった。離反という、取り返しのつかない破滅への機会は失われ、彼は「高専の術師」のまま、夜蛾と共に東京への帰路につくことになった。

 

第二章:歪む帰路と、二者面談の夜

 

東京へ向かう特急列車の車内。

グリーン車の座席に並んで座る夜蛾と夏油の間には、言葉にできないほど重苦しい沈黙が流れていた。

 

夏油は座席に深く体を預け、窓の外を高速で流れていく夜の景色を、ただじっと見つめていた。その横顔は、街灯の光に照らされるたび、まるで死人のように蒼白に浮き上がる。

 

村人たちを殺さなかった。それは、隣に夜蛾がいたからだ。だが、夏油の胸中に渦巻く「非術師への徹底的な拒絶感」は、何一つ解決していなかった。むしろ、あの老人たちの醜悪な笑顔や、言い訳をしようとした口元を思い出すたびに、胃の底から酸っぱい液が込み上げてきて、激しい吐き気に襲われる。

 

(私は間違っていない。非術師は弱く、醜く、そして術師を搾取する存在だ。やはり、あの村の連中も含め、すべて淘汰されるべきだったんだ……。夜蛾先生は法律で裁くと言ったが、そんなもので彼らの本質が変わるわけがない……)

 

隣に座る夜蛾は、腕を組み、目を閉じて瞑想しているように見えた。しかし、その研ぎ澄まされた呪力の触覚は、夏油の精神が今にも完全に破綻しそうなほど摩耗していることを、正確に捉えていた。

 

呪力の不規則な揺らぎ、極端に浅い呼吸、精度を欠いた呪力のコントロール、そして何より、周囲のすべてを拒絶するような、凍りついた無機質な佇まい。

 

「傑」

夜蛾が静かに、しかし低く響く声で名前を呼んだ。

 

「……はい、夜蛾先生。何でしょうか」

「高専に着いたら、そのまま私の部屋へ来い。面談を行う」

「……分かりました。今回の任務の報告書の作成ですね。すぐに仕上げます」

「いや、報告書などどうでもいい。私とお前の、二者面談だ」

 

夜蛾のトーンには、教師としての厳格さだけでなく、一人の親が我が子の危機を察した時のような、深い憂慮と切実さが含まれていた。夏油はそれ以上、拒絶の言葉を紡ぐことができず、ただ小さく首を縦に振った。

高専に到着したのは、深夜の二時を回った頃だった。

静まり返った敷地内を歩き、二人は夜蛾の執務室へと入った。

部屋の明かりは薄暗く落とされ、夜蛾が夜な夜な作り続けているおびたただしい数の呪骸たちが、棚の上から静かに二人を見守っている。

 

夜蛾は大きな体を椅子に沈めると、机を挟んで向かい側に夏油を座らせた。そして、自ら急須で温かい緑茶を淹れ、夏油の前へと差し出した。

 

「飲め。少しは腹が落ち着く」

「……ありがとうございます」

 

夏油は湯呑みを手に取り、お茶を口に含んだ。

しかし、喉を通る液体からは、何の味も、何の温かみも感じられなかった。彼の感覚は、それほどまでに麻痺していた。

 

「傑。お前、あの村の蔵で……村人を全員、皆殺しにしようとしたな」

夜蛾のストレートで、一切のオブラートに包まない問いかけに、夏油の肩が一瞬、微かに跳ねた。

 

言い逃れをすることは不可能だった。一級術師であり、長年自分を指導してきた夜蛾正道の目を欺くことなどできるはずがない。夏油はふっと自嘲気味な、乾いた笑みを唇の端に浮かべ、視線をゆっくりと床へ落とした。

 

「……やはり、気づいておられましたか」

「お前の呪力の質が、一瞬にして黒く濁った。あの場でお前が放とうとした殺気は、呪霊のそれと何ら変わりがなかった。私が止めなければ、お前は間違いなく、一線を越えていた。そうだな」

 

夜蛾は咎めるような口調ではなく、ただ確定した事実を淡々と告げた。その静かさが、逆に夏油の心に突き刺さる。

 

「なぜ止められた、と私を恨んでいるか?」

「……いえ。先生の判断は、高専の教師として、誠実な社会の秩序を守る人間として、完全に正しいものです。ですが……」

 

夏油の拳が、ズボンの生地を破らんばかりの力で強く握りしめられた。指先が白くなり、身体が細かく震え始める。

 

「私は、もう限界なんです」

ぽつりと、夏油の口から本音が漏れ出た。それは、彼がこれまで決して他者に見せることのなかった、内面のひび割れから溢れ出た最初の毒だった。一度堰を切ると、それはもう止まらなかった。

 

「非術師という存在が、どうしても、どうしても理解できないんです。彼らは呪力を持たないのに、その醜い感情、嫉嫉、恐怖、悪意で呪いを生み出し続ける。私たちはそれを、命を懸けて、仲間を失いかけながら、血を流しながら祓い続けている! 灰原は無事でした! 次の日の朝には元気に動き回れるほどだった! でも、それはただの運が良かっただけの奇跡だ! 一歩間違えれば、彼はあの暗い土地で死んでいたんだ! あの村の子供たちを見ましたか!? 呪力があるというだけで、あの『猿』どもに檻に閉じ込められ、あざだらけになるまで痛めつけられていた! なぜ、強者である私たちが、あんな悍ましい弱者を守らなければならないんですか!? 本末転倒だ! 私はもう、非術師を『弱者』とは思えない! ただの『猿』としか思えないんだ。彼らをすべて淘汰し、術師だけの世界を作ればいいとすら、本気で考えていた……!」

 

一気に捲し立てた夏油の呼吸は、激しく荒くなっていた。その目は血走り、額には青筋が浮かんでいる。

 

彼は、自分がどれほど狂気的で、呪術師の根幹を揺るがす異常な思考に囚われているかを自覚していた。だからこそ、誰にも言えなかった。最強の親友である五条悟にも、現実主義者でありながら仲間想いの家入硝子にも、自分を慕ってくれる後輩たちにも。

 

夜蛾は、夏油の魂の叫びとも言える言葉を、一切遮ることなく、最後まで静かに聞き届けた。

 

そして、深く、重い溜息をついた。

「……よく話してくれた、傑。本当に、言いづらかっただろうな」

 

夜蛾の声は、夏油の予想に反して、驚くほど包容力に満ちた、優しいものだった。夏油は、激しい怒声や「術師の心得」といった説教が飛んでくるものと全身を硬くして身構えていたため、拍子抜けしたように夜蛾の顔を見上げた。

 

「先生……? 私は、非術師を皆殺しにしようと……」

「お前がそこまで追い詰められていることに、気づきながらも、心の奥底まで踏み込めなかった私の落ち度だ。だがな、傑。お前は昔からそうだ。責任感が強すぎるあまり、悩みや不満、苦しみをすべて自分一人の中で処理しようとする。完璧であろうとする。それは術師としてお前の美徳でもあるが、こと精神の摩耗においては……最悪の『悪い癖』だ」

 

夜蛾はゆっくりと立ち上がり、机を回って夏油の傍へと歩み寄った。そして、その細く震える肩に、自身の大きな手をぽんと置いた。

 

「呪術師は、一人で生きているわけではない。お前が非術師に対して抱く嫌悪も、絶望も、決して特別に異常なものではない。多くの術師が、その生涯の中で一度は直面し、苦悩する道だ。だが、それを一人で反芻し、一人で答えを出そうとすれば、思想は歪み、狂気へと変わる」

「ですが、私はもう、彼らを愛することも、守るべき弱者と思うこともできない……」

「ならば、お前一人で答えを出すな。周りを見ろ、お前には仲間がいるだろう」

 

夜蛾はそう言うと、懐から高専内の緊急招集用の通信機を取り出し、いくつかのボタンを迷いなく押した。

 

「夜蛾先生、何を――」

「今、ちょうど別の長期任務から悟と硝子が戻ってきたところだ。それに、学内に残っている冥々と歌姫、そして、次の日にはもう元気に動いていた灰原と、それに付き添っていた七海も呼ぶ。全員、今からこの部屋へ召集する。お前が抱えるその吐瀉物のような不満を、灰原にも、全員にも、すべて聞かせるのだ」

 

「待ってください! 灰原たちにそんな……! 彼らは私の後輩です、私の醜い、呪術師として失格の思想を、みんなに聞かせるわけにはいかない……! 頼みます、やめてください!」

 

夏油は青ざめ、夜蛾の手を止めようとした。

「否! 聞かせるのだ」

 

夜蛾は夏油の制止を、岩のような厳しい、しかし確かな慈愛を込めた眼差しで撥ね退けた。

 

「お前がどれだけ擦り切れ、どれほど非術師に絶望し、不満を抱いているか、全員の前でぶちまけてしまえ。高専の仲間は、そんなことでお前を軽蔑したり、見捨てたりはせん。悟もお前が思うほど子供ではないし、硝子もお前をずっと心配していた。灰原も七海も、お前のその姿を知る権利がある。傑、自分の殻にこもるな。さらけ出せ」

 

夜蛾の圧倒的な教師としての意志に押され、夏油はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。彼はただ、これから訪れるであろう「審判」の時間を前に、小さく身を震わせるしかなかった。

 

第三章:ぶちまけられた本音、仲間たちの眼差し

 

十分後。

夜蛾の学長室の重い扉が開き、夜蛾の緊急呼び出しによって集められた面々が、次々と部屋に入ってきた。

 

「なにー? センセー。傑と一緒に任務行ってたんでしょ? こっちは長期の遠征から今戻ったばっかで、超疲れてるから早く寝たいんだけどー」

不満げに白い髪を掻きむしりながら、いつもの丸いサングラスを指で弄りつつ入ってきたのは、現代の最強・五条悟だ。

 

その背後から、気怠げにタバコの匂いを漂わせている家入硝子。

 

そして「夜分にお呼び立てですか、学長。手当(残業代)は期待してよろしいのかな?」と不敵な笑みを浮かべる冥々、その後ろで「夜蛾先生、お疲れ様です! 夏油、あんた大丈夫?」と心配そうに一礼する庵歌姫が続く。

 

そして、次の日にはもうピンピンと元気に動き回っていた二年生の灰原雄と、その相棒である七海建人が、硬い表情で部屋に入ってきた。

 

「夏油さん、大丈夫ですか!? 夜蛾先生から緊急の呼び出しって聞いて、飛んできました!」

灰原は傷一つない元気な姿で、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべながら夏油に駆け寄ろうとした。

 

しかし、夏油はその灰原の姿を直視することができず、視線を頑なに床に落としたままだ。その異様な、周囲を寄せ付けない拒絶のオーラに、五条が前に出て灰原をそっと制した。

 

五条のサングラスの奥の「六眼」が、夏油の呪力の流れが致命的なまでに乱れ、変質しているのを捉えたのだ。

 

「……傑?」

五条の声から、いつもの軽薄さが消えた。

 

「全員揃ったな。夜遅くに集まってもらい、すまない」

夜蛾が重々しく口を開く。

 

「今回の任務で、傑は精神的に完全に限界を迎えた。今から傑が、日頃から自分の中に溜め込んできた本音を、お前たちに話す。全員、茶化さずに、最後まで一言も漏らさず聞け。灰原、七海、お前たちもだ」

部屋の空気が、一瞬にして凍りつくように張り詰めた。

 

硝子は目を細めて夏油の横顔を凝視し、冥々は興味深げに片眉を上げた。歌姫は心配そうに胸元で手を強く握りしめ、灰原は驚いたように目を見開き、七海は静かに姿勢を直して、先輩の言葉を待った。

 

夏油は何度も深く息を吸い込み、自らの喉の奥に張り付いた拒絶感を無理やり引き剥がすようにして、ついに、自分の心に蓋をしていたドロドロとした感情を、言葉にして吐き出し始めた。

 

「私は……非術師が、嫌いになった」

ぽつり、ぽつりと、しかし拒絶の意志が明確にこもった声が響く。

 

「彼らは呪いを見ず、理解せず、ただ無自覚に自らの悪意や恐怖、嫉妬を垂れ流して呪いを生み出し続ける。今回の任務で行った村では、呪力を持つというだけの、何の罪もない幼い姉妹が、非術師の大人たちによって檻に監禁され、虐待されていた。彼らはその子供たちを『化け物』と呼び、私に処分しろと言い放ったんだ」

 

夏油の声に、激しい憎悪と、それと同等の深い悲哀が混ざり合う。

 

「理子ちゃんの時もそうだ。盤星教の奴らは、彼女の死体を前にして、笑顔で拍手をしていた。」

 

「……灰原がこの前、死にかけたのもそうだ。元を正せば、非術師が生み出した一級呪霊のせいじゃないか。灰原、君は無事だった。硝子の治療のおかげで、次の日には元気に動けるようになっていた。」

 

「……でも、それはただの運だ! 一歩間違えれば、君は死んでいたんだ! なぜ、強者である私たち術師が、あんな悍ましく醜い弱者を守るために、命を削り、大切な仲間を危険に晒さなければならない? 本末転倒だ。」

 

「私は……もう非術師を『弱者』とは思えない。ただの『猿』としか思えないんだ。彼らをすべて淘汰し、術師だけの世界を作ればいいとすら、本気で考えていた……!」

 

すべてをぶちまけた夏油は、肩を激しく震わせ、次の言葉を待った。

軽蔑される、あるいは「狂った」と拒絶され、拘束される。そう身構えていた。

 

「……なんだよ、それ」

 

最初に声をあげたのは、五条悟だった。

その声には、怒りではなく、深い困惑と、そして親友の苦痛に気づけなかった自分に対する強いショックが混じっていた。

 

「なんで早く言ってくれなかったんだよ。俺たち、親友だろ?」

五条は夏油の前に一歩踏み出し、その顔を覗き込もうとした。

 

「傑がそんなに悩んでるなんて、俺、全然気づかなかった……。いや、気づこうとしてなかったんだ。ちょっと前にも『ソーメンの食いすぎか』なんて笑ってさ……クソ、そんな可愛い問題じゃなかったんじゃん。何が『俺たちは最強』だ。隣にいるお前がここまで擦り切れてることにすら気づけないで、何が最強だ……!」

 

五条は自身の白い髪を乱暴に引っ掴み、自分自身を激しく責め立てた。最強としての万能感に溺れ、最も近くにいる親友の「内面の崩壊」を見落としていたことに、五条は強い悔恨を抱いたのだ。

 

硝子もまた、ふぅと長い息を吐き出し、持っていたタバコを灰皿に強く揉み消した。

「……そうか。夏油、あんたそんなに悩んでたんだね」

 

硝子の瞳には、いつもの冷めた様子ではなく、同期としての深い憂慮があった。

 

「確かに違和感はあったよ。最近、急に痩せたし、笑顔が完全に作り物になってた。でも、あんたは優秀だし、真面目だから『まあ、夏油なら大丈夫だろう』って、私、勝手に思い込んでほったらかしにしちゃってた。医者としても、同期としても、本当に良くなかったな。ごめん」

 

灰原は、夏油の言葉を聞いて、大粒の涙をボロボロと流し始めた。傷一つなく、次の日にはすぐに動ける状態だった自分の身体を抱きしめるようにして、震える声で言った。

 

「夏油さん……! 僕が、僕がのんきに『次の日にはもう動けます! 大丈夫です!』なんて笑っていたから、夏油さんを余計に苦しめていたんですね……! 僕が死にかけて、夏油さんがどれだけ心を痛めてくれたか、僕は何も分かっていませんでした……! すみません、夏油さん、すみません……!」

 

七海が静かに、しかし確固たるトーンで灰原の肩を支えながら口を開いた。

 

「夏油さん。灰原が生き残ったのは、あなたの迅速な指示と、家入さんの反転術式のおかげです。次の日にはすぐに動ける状態だったのは、紛れもなく高専の仲間がいたからです。」

 

「しかし……もしあの時、灰原が本当に死んでいたら、私も同じように、この呪術界の構造や非術師という存在に対して、絶望し、すべてを投げ出していたかもしれません。あなたほどの強者が、一人でそれほどの重圧を抱えていたことに気づけず、後輩として申し訳ありません」

 

仲間の、自分を責めるような、しかしどこまでも温かい言葉に、夏油の頑なな心が少しずつ、みしみしと揺らぎ始める。

 

すると、それまで腕を組んで静観していた冥々が、扇子を顎に当てながら、意外そうな声をあげた。

「おや……。呪霊操術という、およそ常人には扱い切れない最高峰の術式を使いこなし、どんな任務も涼しい顔で遂行する『強者』のキミが、そこまで精神的に参っていたとはね。正直、驚いたよ。キミはいつでも完璧だったからね」

 

歌姫も大きく頷き、涙を浮かべながら言った。

「そうよ、夏油。あんたは五条と並んで、『最強』の二人組じゃない。でもそんなあんたが、ここまで一人で苦しんでいたなんて、想像もしてなかったわ。私たちはあんたの『強さ』に甘えすぎて、一人の人間であることを忘れていたのかもしれないわね…」

 

冥々の「呪霊操術を駆使して戦うキミが」という言葉、そして歌姫の「強さに甘えていた」という言葉に、夏油はハッとした。

 

彼の胸の奥で、誰にも言えなかった、最も泥臭く、最も惨めで、生理的な嫌悪感を伴う「本当の秘密」が、堰を切って溢れ出そうとしていた。

「……実は」

 

夏油の声が、微かに震える。

「実は……呪霊操術の、その『過程』自体が、私にとっては……終わりのない地獄なんです」

 

全員の視線が、再び夏油に集中する。

「呪霊を取り込むとき、私はその呪霊を、黒い球体に圧縮する。それを……口から直接、飲み込むんです。その味は、まるで……吐瀉物を処理した雑巾を、そのまま丸飲みしているような……悍ましく、生理的な拒絶反応を引き起こすものです。数え切れないほどの呪霊を、これまで何度も、何度も、何度も、自らの胃の中に流し込んできた」

 

夏油の目に、涙がじわりと浮かび、頬を伝った。

 

「でも、これが私の術式だから。これが私の『仕事』だから。みんなに心配をかけたくなくて、弱みを見せたくなくて、無理をして、ずっと黙っていました。非術師への嫌悪だけじゃない。この、呪霊を体に取り込むという行為そのものが、私の五感を汚染し、精神を内側からボロボロに腐らせていたんだ……!」

 

沈黙が部屋を完全に支配した。

 

五条も、硝子も、冥々も、歌姫も、灰原も、七海も。彼らは夏油の術式の「結果」しか見ていなかった。強力な呪霊の軍勢を従える、華やかで圧倒的な術式。

 

だが、その裏にある「過程」が、どれほど猟奇的で、五感を汚染する苦行であるか、誰も想像できていなかったのだ。毎日、吐瀉物を処理した雑巾を飲み込むような行いを続けながら、笑顔で「弱者を守る」と言っていた少年の孤独が、どれほど深かったか。

 

「傑……」

夜蛾が、再び夏油の前に立った。そして、その大きな両腕で、夏油の細い体を力強く、壊れぬように抱きしめた。

 

「お前はまず、悩みを溜め込むな! ここには仲間がいる! 辛いときは辛いと言え! 汚いものを飲み込んで苦しいなら、そう叫べ! なぜ一人で背負おうとする! 私たちは、お前の強さだけを求めているわけではない!」

 

夜蛾の不器用だが、確かな愛情がこもった抱擁。

「仲間がいる」という言葉が、夏油の凍りついた心を完全に溶かした。

「……っ、先生……、私は……、私は……!」

 

夏油の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出た。

 

張り詰めていた理性の糸が切れ、子供のように声を上げて泣く夏油。五条はその背中をそっと、しかし力強く叩き、硝子は静かに涙を拭うためのハンカチを差し出した。灰原は「夏油さんっ……!」と一緒に泣きじゃくり、七海もまた、その光景を静かに見守りながら、先輩が繋ぎ止められたことに安堵の息を漏らしていた。

 

ひとしきり泣き、夏油が少し落ち着きを取り戻した頃。

五条が腕を組んで、ふてくされたような、しかしこれ以上ないほどに真剣な目で夏油を見た。

 

「なぁ、傑」

「……なんだい、悟」

 

「お前さ、非術師=全員『猿』で淘汰すべき、って極論に走ってたろ。極端なんだよ、お前は昔からさ。白か黒かでしか考えられない」

五条はニカッと不敵な笑みを浮かべた。

 

「だったらさ、今度『禪院家』に行ってみるか?」

「禪院家……? 御三家の?」

 

「そう。あそこは完全な『術師至上主義』の家系だ。傑が嫌う非術師はほとんどいない。……だけどさ、あそこにいる奴ら、マジで性格終わってる術師ばっかだぜひねくれてて、権力に固執して、才能のない身内や女の術師を虐げてさ。」

 

「非術師よりよっぽどタチの悪い『人間のクズ』がウジャウジャいる。俺の家も大概だけど、あそこは特に煮詰まってる」

五条の言葉に、歌姫が「ちょっと、五条、御三家の悪口をそんな……まあ、事実だけど」と苦笑する。

 

「何が言いたいかっていうとさ」

五条は夏油の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「腐ってる人間は、非術師にも、術師にもいるってことだよ。お前はそれをちゃんと認識した方がいい。『術師=善、非術師=悪(猿)』なんて綺麗な二分割はできねーんだって。術師の中にも殺したくなるような猿はいるし、非術師の中にも良い奴はいる。一括りにすんなよ」

 

五条の、荒削りだが本質を突いた言葉。

夏油の脳裏に、新たな思考の視界が開けたような感覚があった。

(術師の中にも、腐った人間はいる……。非術師の中にも、そうではない人間が……?)

 

「よし、決まりだ」

夜蛾が手を叩いた。

 

「傑、お前はしばらく任務を免除する。まずは休養だ。そして来週、悟と共に禪院家へ挨拶に行ってこい。硝子、傑の精神管理と栄養補給を頼む。灰原と七海は傑の心のサポートをしてやれ」

 

「はいっ!!! 任せてください!」

「承りました」

 

と灰原が涙を拭いながら力強く返事をした。

七海は少しでも夏油の心の負担を減らそうと意識し返事をした。

 

夏油は、まだ赤くなった目のまま、仲間たちの顔を見渡した。

そこには、自分を軽蔑する目は一つもなかった。ただただ、自分をこの世界に繋ぎ止めようとする、温かい絆だけがあった。

 

「……ありがとう。みんな」

夏油傑は、踏み外しかけた境界線から、仲間の手によって強引に引き戻されたのだった。

 

第四章:爛れたエゴイズム、そして気づき

 

数日後。

夏油は五条に伴われ、京都にある禪院家の巨大な屋敷を訪れていた。

表向きは「東京高専の特級・一級術師による、次世代の交流を兼ねた挨拶」であったが、実態は五条が夏油に見せるための「反面教師の巣窟」ツアーだった。

 

歴史を感じさせる重厚な日本家屋。しかし、そこに流れる空気は、夏油が先日訪れた「因習の村」と酷いほどに酷似していた。否、それ以上かもしれない。

 

「おい、そこの呪力なし。邪魔だ、どけ」

「使えん術式しか持たん奴め。禪院の恥晒しが」

 

すれ違う術師たちが、身内であるはずの「呪力の低い者」や「女性の術師」に対して、平然と蔑みの言葉を投げかけている。

その瞳にあるのは、絶対的な血統主義と、強者が弱者をいたぶる陰湿な愉悦だった。

 

夏油はその光景を目の当たりにし、強い嫌悪感を覚えた。

 

(……これが、術師の世界の縮図なのか?)

 

(非術師を排除した先に、こんな醜い世界が待っているというのか?)

 

彼らは間違いなく「術師」だ。

夏油の定義のなかで「守るべき仲間」に分類されるはずの存在。

 

しかし、彼らの精神性は、あの村で幼女を監禁していた非術師の老人たちと何一つ変わらなかった。

 

屋敷を出た後、京都の街を歩きながら、五条が夏油の顔を覗き込んだ。

 

「どーだった? 傑」

「……最悪だったよ、悟。君の言う通りだ。あそこにいた連中は、術式を持っていようが、私の基準では『猿』と大差ない、いや、それ以上に悍ましい人間たちだった」

 

夏油は天を仰いだ。秋の澄んだ空が広がっている。

「私は、どうかしていたんだね。非術師というだけで全員を『猿』と一括りにし、排除しようとしていた。……でも、それは間違っていた」

 

夏油の脳裏に、いくつかの記憶が鮮明に蘇ってきた。

 

まずは、自分の両親の顔。

彼らは呪力を持たない、完全な非術師だ。夏油が幼い頃、見えないはずの呪霊に怯えていた時、彼らは夏油を狂人扱いせず、ただ優しく抱きしめてくれた。夏油が高専に行くと決めた時も、涙を流しながらも「傑が選んだ道なら」と応援し、仕送りを送り続けてくれている。

(両親は非術師だ。だが、私を誰よりも大事に育ててくれた、本当に良い人たちだ)

 

さらに、高専に通う前の学生時代の友人たちの顔。

「夏油、お前また変な体調不良か? 無理すんなよ」と、呪いの影響で体調を崩していた夏油を心配してくれたクラスメイト。

放課後に一緒に買い食いをした、他愛のない笑顔。

 

(彼らも非術師だった。だが優しかった。私を人として扱ってくれた)

 

「……一括りにしては、ダメなんだ」

夏油は呟いた。

 

「非術師だから悪なのではない。術師だから善なのではない。どこにいたって、腐っている奴は腐っているし、良い奴は良い奴なんだ」

その当たり前の事実に、彼は限界まで追い詰められて初めて気づくことができた。

 

「そ。気づいたなら合格」

五条はポケットに手を突っ込み、嬉しそうに笑った。

 

「お前が守りたいと思う奴だけ、守ればいいんだよ。全員を平等に救おうなんて、それこそ神様の仕事だろ。俺たち最強だけど、神様じゃねーんだからさ」

「……ふふ、そうだね。本当に、その通りだ」

 

夏油の心から、あのドロドロとした黒い澱みが、完全に消え去っていた。

 

もう、呪霊を飲み込むときの「吐瀉物を拭いた雑巾」のような味も、仲間たちの顔を思い浮かべれば、耐えられる気がした。

 

いや、今度は「苦しい」と五条や硝子、そして灰原たちに愚痴を言いながら、小分けにして処理していけばいいのだ。

 

東京高専へ戻ると、校庭では夜蛾が新しい呪骸を作っており、硝子がベンチでジュースを飲んでいた。

 

菜々子と美々子も、高専の敷地内で少しずつ笑顔を取り戻し、元気に走り回っている。

 

そして灰原が「夏油さーん! おかえりなさーい! 今日は一緒にご飯食べましょう!」と、あの元気な笑顔のまま、大きく手を振っていた。

隣にいる七海も夏油の様子を見て安堵する。

 

「おかえり、傑。顔付きが変わったな」

夜蛾が手を止め、夏油を見た。

 

「ただいま戻りました、夜蛾先生。……ご心配をおかけしました」

夏油は深く、深く一礼した。

 

「もう、大丈夫です。私は、私の術式で、私が守りたいと思う仲間や、家族を守ります。そのために……私は高専に残ります」

夏油の言葉に、五条が背中をバシバシと叩き、硝子が「おかえり、夏油」と微笑んだ。

 

夏油傑は離反しなかった。

彼を救ったのは、大いなる大義ではなく、彼を「最強のパーツ」としてでもなく「一人の人間」として扱い、その泥臭い苦悩ごと抱きしめた、高専という名の家族の絆だった。

 


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