寿司を握りながら走る。
重力を発生させる寿司の扱いは非常に難しいが、急ぐ必要があった。
「タイムリミットはおよそ30秒。重力の寿司で間に合うか、空間の寿司を握って、瞬間移動するべきか。だが場所によっては即死する。どうする」
ダンジョンの空気は重かった。
湿った岩肌からは冷たい水滴が落ち、鼻を突く血の臭いが漂っている。遠くからはモンスターの咆哮が響き、その音が迷宮の壁に反響して不気味さを増していた。
世界は暗黒期に入っている。
それは迷宮都市オラリオで暮らす誰もが知る事実だった。
闇派閥は地下で勢力を広げ続け、モンスターの異常発生も頻発している。その結果、多くの冒険者や市民が命を落とし、人々の間には不安と恐怖が広がっていた。
絶望は一気に訪れるものではない。少しずつ、しかし確実に人々の日常を侵食していた。
そんな状況の中、僕はダンジョン中層を高速で移動していた。
右手に握っているのは一貫の寿司。
マグロの寿司だ。もちろん、ただの寿司ではない。
僕が作り上げた圧縮寿司である。
ネタを握る。さらに握る。さらに握る。食材の形を崩さないまま、限界まで密度を高めていく。
「寿司料理技法、重力寿司」
寿司の本質は圧縮だ。
一貫の中に技術も力も全てを込める。
それが僕の寿司だった。
完成した寿司を壁へ向かって投げる。すると次の瞬間、空間がわずかに歪んだ。圧縮された質量が重力を発生させ、その力が僕の身体を前方へ引き寄せる。
景色が一気に流れる。
天井、壁、足場。
それらを利用しながら三次元的に移動し、迷宮を駆け抜けていく。普通の冒険者なら何時間もかかる距離だろう。しかし僕なら数分で突破できる。
移動しながら、僕は少し前の出来事を思い出していた。
『ベル、依頼が届いたわ』
神殿の執務室。
姿勢を正したデメデル様は、いつもより真剣な表情をしていた。
『ロキ・ファミリアに所属するアイズ・ヴァレンシュタインさんが孤立したようなの』
アイズ・ヴァレンシュタイン。
通称、剣姫。
オラリオでも最強クラスと呼ばれる冒険者だ。
『敵戦力は闇派閥。モンスターを利用した綿密な計画で大勢の被害が出ているわ』
そう言った後、デメデル様はまっすぐ僕を見た。
『ロキの眷属たちを助けてあげてほしいの。危険な任務だけど、お願いできる?』
僕は迷わず答えた。
『承知しました』
デメデル様は僕の神だ。そして恩人でもある。だから従う。だが、それだけではない。
最終的に決めたのは僕自身だ。
僕は昔から考えている。
善悪に絶対的な価値はない。
成功や失敗にも絶対的な意味はない。
世界そのものは本来空っぽだ。
だからこそ、人は自分で選ばなければならない。
自分で意味を与えなければならない。そして、その結果に責任を持つ。
それが僕の価値観だった。
今回の依頼にも、僕は自分なりの意味を与えた。だから最後までやり遂げる。
そう決めている。
「崩落、通路か」
不意に視線を前方へ向ける。
そこには崩落した通路があった。
地面には血痕。壁には鋭い剣による切断痕。さらに周囲にはモンスターの死体が七体転がっていた。
「この戦闘痕はハイクラスの冒険者」
どれも一撃で仕留められている。急所だけを正確に斬り抜いた痕跡だった。
僕はしゃがみ込み、死体を確認する。
「……アイズさんですね」
間違いない。
無駄のない剣筋。感情を感じさせない戦い方。ただ目的だけを追い続けたような斬撃だった。まるで復讐そのものが剣を振るったかのような傷跡である。しかし、そこで違和感を覚えた。
死体の配置。
血痕の向き。
戦闘の痕跡。
それらを観察すると、どこか不自然だった。
「誘導されている」
闇派閥は剣姫を孤立させた。
それは偶然ではない。
明確な意図がある。
アイズ・ヴァレンシュタインという強力な戦力を仲間から切り離し、罠へ誘い込もうとしているのだ。
僕は静かに立ち上がった。そして目を閉じる。腰に差した包丁へ手を添え、意識を集中させる。
「急ぎましょう」
その直後だった。
遠くから大きな爆発音が響く。迷宮全体が震え、空気が揺れた。さらに耳を澄ますと、かすかに聞こえる音があった。
少女の剣戟の音だ。
僕は再び寿司を握る。圧縮。凝縮。一点突破。極限まで高められた質量が重力を生み出す。その力によって身体が弾丸のように加速した。
剣姫の元へ向かうために。
戦闘音が近付いてくる。
金属音と爆発音。
モンスターの咆哮、そして――風。
強烈な風圧が迷宮の通路を吹き抜けた。僕は最後の角を曲がる。
そこで見た光景に目を細めた。
アイズ・ヴァレンシュタイン。
剣姫は立っていた。全身を血に染めながら。
肩は裂け、腕は傷だらけで、脚から流れる血液が床を赤く染めている。
それでも彼女は剣を振るい続けていた。
風を纏い、加速し、斬る。斬る。斬る。まるで復讐という目的だけで動く戦闘機械のようだった。
剣が閃くたびにモンスターが切り裂かれる。
首が飛び、腕が飛ぶ、胴体が断たれる。しかし敵の数が多すぎた。
モンスターの群れ。後方で指揮を執る闇派閥のモンスターの調教師。さらに後方には魔法部隊。彼らは無秩序に突撃しているわけではない。
連携している。時間をかけて削るための戦術だ。
前衛のモンスターが足止めする。
中衛の調教師が包囲する。
後衛が魔法で削る。
一騎当千の剣姫を、一万人で殺すための戦い方だった。
アイズさんが風を纏って突撃する。十体以上のモンスターが吹き飛ぶ。しかしその直後。後方から放たれた魔法が命中した。
爆発。煙。衝撃。
アイズさんの身体が大きく揺れる。さらにモンスターが襲い掛かる。
彼女は斬る。だが遅い。少しだけ。本当に少しだけ。その少しが致命的だった。
刃が肩を裂く、牙が脇腹を抉る。爪が太腿を引き裂く。そしてアイズさんの膝が床についた。
血液が滴る。黄金の髪が力なく揺れる。
闇派閥の男が笑った。
「終わりだ」
魔法部隊が杖を構える。
モンスターが飛び掛かる。
誰もが勝利を確信した瞬間。だからこそ誰も僕を警戒していなかった。
「遅くなりました」
僕は寿司による重力加速を解除する。そのまま敵陣の中央へ着地した。全員の視線がこちらへ向く。
僕は懐から箱を取り出した。蓋を開く。中には色鮮やかなマカロンが並んでいる。
僕は懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開く。色鮮やかなマカロンが整然と並んでいる。
パティシエとは設計し組み立てる料理だ。戦場を読み、敵の動きを予測し、罠を配置し勝利までの工程を組み上げる。
マカロン爆雷も、その設計思想から生まれた兵器だった。しかし設計だけでは制圧力が足りない。
そこで僕は、もう一つの料理体系を組み合わせる。
「パティシエ料理。更に中華料理を上乗せしたものです」
料理体系は互いに独立しているわけではない。組み合わせることで、新しい料理は完成する。
中華の本質は量産。
当たるまで撃てばいい。
一つの料理を百へ。百を千へ。物量そのものを武器へ変える思想だ。
僕はマカロンを一粒摘み上げる。
中華鍋を軽く振る。
ゴォッ、と鍋気が吹き上がった瞬間、マカロンが震えた。
一粒だった。二粒になる。四粒。八粒。十六。三十二。六十四。
指数関数的に増殖していく。
鍋の中で炒飯を増やすように、マカロンが次々と複製されていく。
数百個。いや、まだ増える。色とりどりの爆雷が空中を埋め尽くし、一つの雲のような群を形成した。
僕は静かに微笑む。
「一つでは避けられます」
指先でマカロンを弾く。
「十でも、防げるでしょう」
さらに弾く。世界が埋まる。
「ですが」
数百個のマカロンが敵陣全体へ降り注いだ。
「数百なら、どうでしょう。」
敵兵の顔色が変わる。
「ま、待て……!」
「逃げろ!」
「なんかやばいぞ!!」
逃げ場はない。
パティシエが戦場を設計し、中華がその設計を物量で埋め尽くす。
逃げ道にも、頭上にも、足元にも、壁にも全ての空間へマカロンが配置されていた。
僕は静かに指を鳴らす。
「死んで味わえ」
一拍置いて。
「マカロンの甘味を」
戦場全体が、甘い香りと爆炎に包まれた。
閃光。そして爆発。轟音が迷宮を揺らした。アイズさんを包囲していたモンスターが吹き飛ぶ。闇派閥の兵士も魔法使いもまとめて爆散した。衝撃波が周囲を薙ぎ払う。土煙が立ち込める。
数十秒後、そこに立っていたのは僕だけだった。
アイズさんは驚いたようにこちらを見る。
傷だらけの顔。
それでも美しい黄金の瞳。
その瞳に警戒の色が宿る。
当然だろう、突然現れた正体不明の男だ。
僕は彼女の前へ歩く。
僕は右手を差し出す。そして静かに寿司を握る。
寿司の本質は圧縮。
一貫へ全てを込める料理だ。食材だけではない。熱量も。重力も。空間も。生命も圧縮できるものなら、全て寿司の領域にある。
僕は自分の生命力へ意識を向けた。
全身を巡る生命エネルギーを少しずつ集める。
心臓の鼓動。血液の流れ。身体に満ちる活力。それらを一か所へ。さらに一か所へ。無駄を削ぎ落としながら極限まで凝縮していく。
大量の生命力を扱うのではない。必要な生命力だけを、一点へ圧縮する。
それが寿司料理だ。
手の中に淡い赤色の光が宿る。一貫の寿司が鼓動しているようだった。
「少しだけ失礼します」
僕はその圧縮された生命力を、ゆっくりとアイズさんへ流し込む。
圧縮されていた生命エネルギーは彼女の体内へ入ると同時に解放され、本来の量へ戻っていく。
「生命エネルギーを握った寿司です。貴方の生命を回復させます」
赤い光がアイズさんの全身を駆け巡った。
裂けた筋肉が繋がる。砕けかけていた骨が修復される。止まらなかった出血が収まり、青白かった肌へ少しずつ血色が戻っていく。荒れていた呼吸も次第に落ち着き、乱れていた魔力の流れまで安定していく。
生命力とは、本来は体内へ満ちているべきものだ。僕は失われた分を補い、本来あるべき状態へ戻しただけに過ぎない。だからこれは奇跡ではない。
寿司による『生命の圧縮と解放』という、一つの調理技術だった。
アイズさんはゆっくりと目を開き、自分の身体を見つめる。
傷は塞がり、痛みは消え、失われていた力が戻っている。
その黄金色の瞳が驚きに揺れた。
「……これは」
僕は小さく頷いた。
「寿司とは、一貫に全てを込める料理です。生命も、その例外ではありません。」
「……貴方は?」
僕は静かに頭を下げた。
「僕はメルデル様に仕えている戦闘料理人のベル・クラネルです」
包丁を抜く。
寿司包丁。
中華鍋。
フレンチナイフ。
パティシエ用の細工道具。
調理制服の各所から戦場のための調理器具が音を立てる。
「初めまして、アイズさん」
周囲では生き残った敵が後退りを始めていた。
僕は笑わない。ただ静かに告げる。
「救援に来ました」
そして前を向く。