食器を片付け終えた頃、控えめなノックが部屋へ響いた。
「失礼します。」
扉を開けて入ってきたのは、デメデル・ファミリアの女性だった。
彼女とは顔なじみだ。
食材の手配や依頼の仲介を担当しており、僕がデメデル様から直接受ける仕事も、ほとんど彼女を通して伝えられる。
もっとも、僕はデメデル・ファミリアの団員ではない。
デメデル様個人に雇われている私兵であり、戦闘料理人。
ギルドへ登録した冒険者でもなければ、ファミリアの指揮系統へ属しているわけでもない。ただ、食材を仕入れてくれる彼女たちとは、料理人として親しく付き合っている。
女性は一礼すると、淡々と任務を読み上げた。
「戦闘料理人。ミッションを連絡します。」
自然と背筋が伸びる。
「闇市場に展開する守備部隊を排除してください」
僕は黙って耳を傾けた。
「ご存じの通り、闇市場はギルドおよび神々の秩序に賛同しない反体制勢力の拠点です。我々は平和的な話し合いによる解決を望んでいます。しかし彼らは頑なにこれを拒み、攻撃的な姿勢を崩していません」
女性の声は、感情を交えない。
任務の事実だけを伝えていく。
「今回のミッションは、話し合いのための示威行為です。力をちらつかせた交渉は、我々の本意ではありません。しかし現状では、それ以外に対話の席へ着いていただく方法がありません」
一拍置き、最後の情報が告げられる。
「なお、闇市場の主戦力である高レベル冒険者は、離れた地域で作戦行動中です。現地に残るのは守備部隊のみ。確実なミッション遂行を期待しています。」
「……了解しました。」
僕は静かに頷く。依頼書を受け取り、内容を一度だけ確認してから折り畳んだ。
戦場は闇市場。
目的は殲滅ではない。守備部隊を突破し、「こちらには武力もある」と示すこと。
あくまで交渉を成立させるための任務だ。
目的を履き違えてはいけない。
女性が退出すると、僕は静かに立ち上がった。
包丁を一本一本確認する。
刃こぼれはない。砥石で軽く整え、鞘へ納める。
寿司包丁。中華包丁。細工包丁。
それぞれを所定の位置へ収める。
調味料の小瓶。携帯用の飯盒。乾燥食材。最低限の救急用品。
荷物は驚くほど少ない。
必要な物だけを持つ。
それが僕の流儀だった。
ふと視線を感じる。振り返ると、アイズさんが椅子へ座ったまま、じっとこちらを見ていた。興味深そうに。まるで新しい剣術でも見るような目で。
「……行くの?」
「はい、依頼ですから」
短く答える。
アイズさんは僕の手元から目を離さない。料理人の道具を整える姿を、一つひとつ観察している。その眼差しには、剣を学ぶ時と同じ真剣さがあった。
僕は少し考えてから口を開く。
「アイズさん」
「なに?」
「体はまだ万全ではありません。ロキ・ファミリアへ戻られた方が、皆さんも安心されると思います」
ロキ・ファミリアなら、仲間も治療環境も整っている。
それが一番自然な選択だ。しかし、アイズさんはゆっくりと首を横へ振った。
「……まだ帰らない」
その金色の瞳は真っ直ぐ僕を見ていた。
「私は」
少し言葉を探すように間を置いてから、静かに続ける。
「ベルから、力を学びたい」
その声には焦りはなかった。ただ、確かな意思だけがあった。
「剣だけじゃ……足りなかった。今回、それが分かった。だから知りたい。」
「ベルは、どうしてそんなふうに戦えるのか。どうして、あんなに落ち着いていられるのか。」
僕はしばらく黙っていた。
彼女が求めているのは技術だけではない。
戦い方。考え方。生き方。それら全てを学ぼうとしているのだと分かった。だからこそ、僕は正直に答える。
「……でしたら」
包丁袋を肩へ掛ける。
「見ていてください。僕は先生ではありません。ですが、一人の料理人として、戦い方ならお見せできます。」
アイズさんは小さく頷いた。
「うん。ベルのこと見てるね」
その返事は短かった。けれど先ほどまで絶望に沈んでいた少女の瞳には、ほんの少しだけ、新しい何かを探そうとする光が宿っていた。
夜の闇市場は静かだった。
人の気配はある。しかし、それは商人の活気ではない。武器を隠し持ち、こちらを警戒する守備部隊の殺気だ。
「来たぞ!」
「迎え撃て!」
怒号と同時に、十数人の冒険者が路地裏から飛び出す。
剣士、槍兵、魔導士。
連携は悪くない。だが――。
「アイズさん、お願いします」
「うん」
彼女は短く頷く。
その瞬間だった。
「エアリアル」
淡い緑色の風が彼女の身体を包み込む。
地面を蹴る。
次の瞬間には、もう敵陣の中央へ到達していた。
「速――」
敵が言い終える前に、一閃。銀色の軌跡が夜を切り裂く。
一人。二人。三人。
斬撃は無駄なく急所を外し、戦闘不能へ追い込んでいく。さらに風が吹き抜ける。
剣速が増す。踏み込みが深くなる。敵の攻撃は彼女へ届く前に、全て空を切った。
圧倒的だった。
「やはり強い」
剣技。身体能力。経験。
どれを取っても第一級。
正面から戦えば、僕が前へ出る理由はほとんどない。ならば料理人として、自分の役割を果たすだけだ。
僕は携帯鍋を片手で振る。
「中華術――香辣鍋」
鍋から真っ赤な香辛料が霧となって広がる。
辛味。刺激。咳き込むほどではない。だが視界が滲み、呼吸が浅くなり、判断力が鈍る程度には十分だった。
「ぐっ……!」
「目が……!」
「なんだ、この煙!」
守備部隊の動きが一斉に止まる。その一瞬を、アイズさんは見逃さない。風が渦を巻く。
彼女は香辛料の霧をまとったまま駆け抜けた。風が彼女の周囲だけを吹き払い、刺激物は近づくことすらできない。
風そのものが盾になっているようだった。
敵だけが動きを鈍らせる。
アイズさんだけは、何一つ影響を受けない。
「はあっ!」
閃光のような連撃。
剣が舞うたびに、一人、また一人と武器を落として倒れていく。戦場というより、稽古を見ているようだった。
僕は周囲を観察する。
増援なし。
遠距離魔法なし。
逃走経路も封鎖されている。
「左から二人」
短く告げる。
アイズさんは振り返ることなく踏み込んだ。風が身体を押し出し、左側へ急旋回する。
二人の敵が同時に剣を振るう。しかし、彼女の剣はその合間を縫うように走り、柄で一人の手首を打ち、返す刃でもう一人の剣を弾き飛ばす。
致命傷は与えない。
それでも戦闘を継続できる者は、一人も残らなかった。
静寂が戻る。
倒れているのは闇市場の守備部隊だけ。
僕は鍋を片付けながら、小さく息を吐いた。
「……僕の出番は、ほとんどありませんでしたね」
アイズさんは剣を鞘へ納める。
「違う」
首を横へ振った。
「ベルが敵を止めてくれた。私は、その間に斬っただけ。」
僕も小さく笑う。
「それなら、今回の料理は成功ですね」
料理人は主役である必要はない。最高の一皿を完成させるために、必要な役割を果たせれば、それで十分なのだから。
任務を終え、デメデル様の拠点へ戻る頃には、夜も更けていた。
今日の夕食も簡素なものだった。
炊きたての白米。
野菜の煮物。
焼いた魚。
温かい味噌汁。
戦場から戻った身体には、それくらいがちょうどいい。向かいに座るアイズさんも、静かに箸を動かしている。
食事の時間は、いつも穏やかだった。しばらく無言のまま食べ進めていると、不意にアイズさんが口を開いた。
「……ベル」
「はい?」
「ベルは、私を怒らないんだね」
僕は味噌汁を置き、彼女を見る。
「戦いのことですか?」
アイズさんは首を横へ振る。
「ううん。他のことも。勉強とか、教えてほしいものは教えてくれる。でも逆に、『こうした方がいい』とか、『こう生きた方がいい』とか……そういうアドバイスは、あんまりしない」
なるほど、と僕は小さく頷いた。
「そうですね。アイズさんの自主性は、尊重しているつもりです。敵へ突っ込むのも構いません。好きなようにやって、そこから成功したり、失敗したりする。それが人生ですから。」
アイズさんは箸を止めた。
「私は……」
少し考えるように視線を落とす。
「いつも『やり過ぎだ』とか、『危険だから駄目』って言われてた。行動を制限されることが多かった。別に、大丈夫なのに」
その言葉に込められた感情は、反抗心ではなかった。
理解してもらえなかった寂しさ。
そんな響きだった。
僕は静かに頷く。
「それを言った方々の気持ちも分かります。大切な仲間だからこそ、失いたくなかったのでしょう」
少し間を置いて続ける。
「ですが、僕はたぶん……。アイズさんの『心』を優先しているんです」
アイズさんが顔を上げる。
「心?」
「はい。」
「人は、自分で選んだからこそ、その結果を受け止められます。逆に、誰かに止められ続けると、『もしあの時、自分で選べていたら』という後悔が残ることがあります。」
僕は箸を置き、穏やかに話す。
「ですから、もし仮に、アイズさんが自ら選んで敵へ突っ込むのなら、僕は、その選択を尊重します」
「……私が死んでも?」
真っ直ぐな問いだった。試すような口調ではない。ただ、確かめたかったのだろう。
僕は迷わず頷いた。
「はい。それは、アイズさんが自分で決めた人生です。もちろん。僕は死んでほしいとは思いません。無傷で帰ってきてくださるのが一番嬉しいです」
ですが、それ以上に。
「自分の人生を、自分で選んで生きてほしいと思っています」
部屋が静かになる。
僕はゆっくりと言葉を続けた。
「人は失敗します。怪我もします。遠回りもします。でも、その経験を通してしか見えない景色があります。だから僕は、必要以上に人生へ手を出したくありません」
必要になれば助けるし、教えてほしいと言われれば教える。けれど、歩くことまでは代わってあげられない。
アイズさんはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……そうなんだ」
少しだけ微笑む。
「ベルは、なんかみんなと違うね。」
「そうですか?」
「うん」
彼女はゆっくり頷いた。
「すごく……自由な人」
僕は少し考えてから、小さく笑った。
「自由というより、僕は、人には自分で人生へ意味を与える権利があると思っているだけです」
善い人生も、悪い人生も。
成功も、失敗も。
ラッキーも、アンラッキーも。
幸福も、不幸も。
「最初から価値が決まっているわけではありません。だからこそ、自分で選ぶことに意味があります。結果がどうあれ自分で選べば納得できます。折り合いをつけて、前へ進める」
アイズさんはその言葉を繰り返すように、小さく呟いた。
「……自分で、選ぶ」
その声は静かだった。けれど今までより少しだけ、迷いの色が薄くなっているように僕には見えた。
食事を終え、お茶を淹れていた時だった。
僕は窓の外へ視線を向ける。複数の気配。足音は隠している。けれど、敵意はない。
迎えに来たのだろう。
湯呑みを机へ置き、静かに口を開く。
「アイズさん」
「……?」
「貴方に、一つの選択が迫られています。」
彼女も窓の外を見る。まだ姿は見えない。しかし、剣士として気配は感じ取ったようだった。
「ロキ・ファミリアの皆さんが、貴方を迎えに来ているようです」
僕は落ち着いた声で続ける。
「どうしますか? 断るか、話し合うか、共に戻るか」
アイズさんは困ったように眉を下げた。
「……どれが良いんだろう」
そして、僕を見る。
「ベルは、何が良いと思う?」
僕は静かに首を横へ振る。
「選択肢は四つです。」
「……一つ増えた?」
「断る。話し合う。共に戻る。」
一拍置く。
「……そして、力で黙らせるか。」
「……!」
アイズさんは目を大きく見開いた。
驚きと困惑が入り混じった表情。
「そんなことしても……良いの?」
僕は少し考えてから答える。
「『良い』『悪い』ではありません。まず考えるべきなのは。アイズさんが、何をしたいのかです」
彼女は黙る。
僕は続ける。
「そのうえでその選択をした時、何が起こるのか。誰が悲しむのか。誰が安心するのか。何を失い、何を得るのか。そこまで考えて、それでも選ぶなら、その選択は、アイズさん自身のものになります」
静寂が流れる。
アイズさんは視線を落とし、小さく呟いた。
「戻ったら……また心配される。でも、ここにいたら迷惑かな。いや、ベルから、もっと学びたい。でも、みんなも嫌いじゃない。心配かけたくない」
考えが口から零れていく。
整理しようとしているのだろう。
「話し合えば……分かってくれるかな。」でも、きっと連れて帰ろうとする。断ったら……怒るかな。戦ったら……傷つけちゃうかな。」
何度も何度も同じところを回る。
未来を想像し。
可能性を比べ。
答えが出ない。
僕は何も言わなかった。
急かさない。
答えは、僕が与えるものではないからだ。
やがて。長い沈黙のあとアイズさんは顔を上げた。
「ベル」
「はい」
彼女の金色の瞳には、迷いは残っていた。
それでも、決めた人の目だった。
「一緒にいて。」私は、一人じゃ難しいから。ベルも一緒に。私は、もう少しここにいたい」
僕は静かに頷く。
「わかりました。」
立ち上がり、包丁袋を肩へ掛ける。
「では、まずは話をしましょう。もし互いに譲れない点があるなら、実力を示すことになるかもしれません。ですが、その場合も目的は勝つことではありません。今回は相手に帰ってもらい、お互いに冷静になる時間を作ることです」
アイズさんは少しだけ笑った。
「……派手かな」
僕も苦笑する。
「ええ、少し派手な反抗期ですね。」
その言葉に、アイズさんは小さく吹き出した。戦場から帰ってきて初めて見る、肩の力の抜けた笑顔だった。
やがて玄関の扉が、静かに叩かれる。
迎えは、もう来ていた。
交渉は、決裂した。
怒鳴り合いになったわけではない。剣を交えたわけでもない。互いに譲れないものを抱えたまま、最後まで話し合った。
そして、それでも結論は変わらなかった。
ロキ・ファミリアはアイズさんを連れて帰りたい。
アイズさんは、今は帰りたくない。
ただ、それだけだった。
扉が静かに閉まる。
去っていく足音が少しずつ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
部屋には静寂だけが残る。
アイズさんは玄関の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……行った」
「はい」
僕も静かに答える。
彼女は振り返る。
「これで、私はここにいていい?」
「はい。」
僕は迷わず頷いた。
「今回の話し合いでは、お互いの意見は一致しませんでした。ですから、今後しばらくはアイズさんがここで生活することになります」
アイズさんは胸を撫で下ろすように、小さく息を吐いた。その表情には安堵と、少しだけ申し訳なさが混ざっていた。
「……迷惑じゃない?」
「迷惑じゃないですよ。ただ、一つだけ」
僕は穏やかに続ける。
「ここは宿ではありません。共同生活になります。」
アイズさんは首を傾げる。
「共同生活?」
「はい。」
「料理は基本的に僕が作ります。ですが、片付けや掃除は一緒にお願いします。洗濯も、できることはご自身で。戦いだけではなく、生活も人を成長させますから。」
アイズさんは少し考えた後、小さく頷いた。
「……頑張る」
「分からないことがあれば聞いてください」
「うん」
短い返事。けれど、その声はどこか柔らかかった。僕は荷物の置かれた部屋を指差す。
「隣の部屋を使ってください。必要な家具はあります。足りない物があれば、明日買いに行きましょう。」
「……ありがとう。」
アイズさんは部屋の中を見回し、それから僕を見る。
「ベル」
「はい」
「これから、よろしく。」
その一言には、以前よりも自然な笑みが添えられていた。
僕も静かに頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
こうして、不思議な共同生活が始まった。
剣しか知らなかった少女と。
料理で戦う男。
同じ屋根の下で過ごす毎日は、互いにとって新しい価値観と向き合う時間になるのだろう。
焦る必要はない。
一日ずつ。
一食ずつ。
一歩ずつ。
それで十分だと、僕は思っていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
あなたがこの物語に費やしてくださった時間は、何よりも尊いものです。この物語が、あなたの心に小さな希望を残せたのなら、これ以上の喜びはありません。
また、いつか続きでお会いしましょう。