「――止まりなさい、クラネルさん。この先は、少し趣向が変わるようです」
僕が寿司の二貫目で闇派閥の防衛線を冷徹に破壊し、さらにダムの最深部、中央管制室へと一直線に続く巨大な渡り廊下に足を踏み入れた瞬間。
背後からついてきていたリューさんが、鋭い声と共に僕の制服の袖を強く引いた。
僕もまた、その「異変」に気づき、すでに歩を止めていた。
眼前にあるはずの、重厚な鉄骨と無機質なコンクリートで組まれたダムの主要通路。それが、奇妙な『甘く濃厚な香気』の広がりと共に、異様な質感へと変貌を遂げていたのだ。
壁面はまるで丁寧に焼き固められた頑強な焼き菓子のタイルのように美しく整列し、手すりや梁は光を鈍く反射する強固な飴細工の柱へと置換されている。
通路のあちこちには、色鮮やかなマカロンのような球体が不規則に浮遊し、不気味な魔力の脈動を放っていた。
「……パティシエ。戦場そのものをあらかじめ設計し、防衛環境を構築する特化型の調理術です」
「つまり、貴方と同じ?」
「はい。料理人がいます」
僕の呟きに応じるように、通路の奥、中央管制室の重い扉の前に立つ一人の影が、低く笑った。
闇派閥の法衣を纏ったその男は、手にした巨大なパレットナイフを愛おしそうに撫度しながら、僕たちを冷徹な目で見下ろしている。
「ようこそ、戦闘料理人ベル・クラネル。君の噂はかねがね聞いているよ。寿司の一点突破も、中華の飽和攻撃も素晴らしい。だが、この厨房において、君たちの敗北は『始まる前に終わっている』のだ」
男がパレットナイフをひと振りする。瞬間、浮遊していたマカロンが淡く発光し、狂ったような魔力を放出し始めた。
「クラネルさん、来ます!」
リューさんが木刀を構えて地を蹴ろうとしたが、僕はそれを即座に制した。
「待ってください、リューさん。迂闊に動けば向こうの思う壺です。向こうの思想は『勝敗は準備段階で決まる』――この空間全体が、すでに敵の術式として完成している」
敵の仕掛けたマカロン兵器。あちこちに配置されたそれは、単なる爆弾ではない。僕たちのわずかな踏み込みや空気の振動を感知して起動するマカロン地雷およびマカロン時限爆弾だ。不用意に突撃すれば、連鎖爆発に巻き込まれる。
「まずは足場を『解体』させてもらうよ、クッキー型術式」
男が空中にナイフで四角い形を描く。すると、僕とリューさんが立っていた頑丈な床が、まるで型抜きクッキーのように綺麗に正方形に切除され、消失した。底の見えないダムの暗黒へと、足場ごと僕たちの身体が投げ出される。
「くっ……!? 空中では回避が――」
機動戦や即応性に劣るのがパティシエの弱点だが、こうして完全に陣地を「設計」された状態での防衛戦において、その強さは文字通り『無敵』に近い。
だが――。
「――私を侮るな、闇派閥!」
落下する暗黒の中、リューさんの凛とした声が響き渡った。彼女の背から、エルフの魔力が爆発的に膨れ上がる。
「ルミナス・ウィンドウ。簡易版」
リューさんが放ったのは、ただの風ではない。彼女の正確無比な体術によって指向性を持たされた『風の足場』だ。
落下の衝撃を相殺するクッションとして機能した突風は、僕たちの身体を宙に繋ぎ止め、同時に彼女は失われた床の縁へと驚異的な跳躍を見せた。
「クラネルさん、敵の防衛網の隙間は私が切り拓きます! 貴方はそのまま、あの男のレシピを崩す準備を!」
「了解しました、リューさん。おまかせします」
宙を舞うリューさんの姿は、美しくも苛烈だった。彼女は空中を蹴るようにして、浮遊するマカロン爆雷の隙間をすり抜けていく。
敵の男がすぐさまパレットナイフを振るい、クッキー型術式で彼女の軌道を切り抜こうとするが、リューさんの速度はその予測を遥かに上回っていた。
「小ざかしい術式など、私の前ではただの標的に過ぎません!」
リューさんは跳躍の最中、詠唱を開始する。
「ルミノス・ウィンド!」
彼女の周囲に、薄緑色の光を纏った無数の大光玉が生成される。広域攻撃魔法。だが、リューさんはそれをただ拡散させるのではなく、正面の通路に向けて収束させた。
「行け――!」
放たれた無数の光玉が、通路に敷き詰められたマカロン兵器を一つ残らず叩き潰し、強制的に誘爆させていく。
甘ったるい煙と凄まじい衝撃波が空間を包むが、男は慌てず、壁面から飴細工を突き出させて即席の防壁を構築した。
ドォン! と緑の光と飴の防壁が激突する。
「無駄だよ。砂糖結結晶と時間固定の保存技術は、どれほどの衝撃であってもその状態を固定し、劣化を許さない。君たちの攻撃では、この要塞は傷一つつかない!」
男が勝利を確信して笑う。しかし、リューさんの攻勢はそこで終わりではなかった。
「傷がつかないのなら――その構造ごと、叩き切るまでです!」
煙を突き抜けて肉薄したのは、リューさん自身だった。
彼女は飴の硬度を恐れることなく、そのスレンダーな体躯からは想像もつかないほどの勁力を木刀に込め、敵の防壁の「繋ぎ目」へと超高速の連撃を叩き込んだ。
バキィィン!
凄まじい破壊音が響く。どれほど強固に『保存』された飴細工であっても、リューさんの謹厳実直な剣術と、一切の迷いのない正義の重さは、その結晶化された術式の耐久値を一瞬で超過させた。
飴の防壁がガラスのように粉々に砕け散る。
「な、何だと……!? 私の設計した防壁を、力任せに……!」
「私の女神が教えてくれた正義は、このような欺瞞の要塞に屈するほど脆くはありません!」
リューさんの空色の瞳が、怒りと共に鋭く輝く。防壁を失い、完全に動揺した敵の男の眼前に、彼女の木刀が肉薄していた。背後からその鮮やかな戦いぶりを観察していた僕は、手袋を締め直し、静かに前へと歩み出た。
「いける。押し切りましょう」
リューさんの剣撃によって砕け散ったはずの飴の防壁。しかし、敵の男は血を吐きながらも不敵に笑い、パレットナイフを自らの胸へと突き立てた。
「時間空間を停止しろ! 発酵停止術。更にチョコレート現実改変!」
男の傷口から溢れ出た血液が、瞬時に焦茶色の高密度物質へと変換され、肉体を、衣服を、砕かれた防壁をも瞬く間に覆い尽くしていく。
削り取られたはずの構造が、より強固な『チョコレート城塞』として急速に再生・巨大化していく。パティシエの本質たる防衛術と保存の概念。一度完璧に設計された陣地は、素材が残っている限り、無限にその完成形へと巻き戻るのだ。
「無駄だと言ったはずだ! 私の設計図は不滅。この強固な城塞の前に、君たちの攻撃は全てただの徒労に終わる!」
再生した巨大なお菓子の腕が、凄まじい質量を伴ってリューさんへと振り下ろされる。
「くっ……なんという再生能力……!」
リューさんは風を纏って間一髪でそれを回避するが、周囲の空間はすでに敵の砂糖結晶術によって酸素すら固定され、呼吸することすら困難なデス・ゾーンへと変貌しつつあった。
長期戦・要塞戦に持ち込まれれば、僕たちの敗北は確定する。
「リューさん、下がってください」
僕は静かに前へ出た。敵が空間そのものを「保存」し、未来永劫変わらない強固な箱庭を作ろうとするならば。
僕はその箱庭の前提となる『空間』そのものを、一貫のなかに握り潰すまでだ。腰のヘラを捨て、僕は両手を胸の前で合わせた。
【寿司】の最上位技術。極限の圧縮がもたらす、重力崩壊の再現。
「――握り術。無限圧縮、空間崩壊、全吸引。……『ブラックホール寿司』」
パチ、と僕の手のひらの中で、極小の「黒い球体」が爆誕した。それは光さえも脱出できない、無限の密度を持つ重力の極点。
僕がそれを前方へと放った瞬間、多重ダムの強固なコンクリート壁、激流をあげる水、そして男が構築したチョコレート城塞のすべてが、凄まじい地鳴りと共にその「黒い一貫」へと引き寄せられる。へし折られ、吸い込まれ始めたて、空間そのものが歪み、男の足場が根底から崩壊していく。
「おのれェ! 目眩ましのつもりか!? 吸引するだけのブラックホール寿司など、このパティシエの完成された料理の前では無力!! 契約術式を展開し、その重力ごと保存してやるわ!」
男は重力に抗いながら、狂ったようにパレットナイフを振り回し、世界を再び固定しようと叫ぶ。だが、僕の目的は敵を吸い尽くすことではない。このブラックホールによって、敵の『視界』と『意識』、そして戦場のすべての『情報』を僕の手元に引き寄せ、固定すること。
すべては、敵の精神と本質を完全に解体するための仕込みに過ぎない。
僕は引き寄せられた男の歪んだ表情、その奥にある弱点をネタ選別で見据えながら、静かに息を吸った。戦場に、僕の驚くほど穏やかで、平坦な丁寧語が響く。
「調理の前に。少し、貴方のカウンセリングをはじめましょう」
「な……何だと……!? そんなことをするなんて余裕だな! 戦闘料理人!」
「あなたは完璧な設計図に固執している。変化を恐れ、すべてを『保存』という名の停滞に閉じ込めようとしている。それは、かつて自分が作った未熟な作品を否定された、あるいは大切な何かを失った『失敗の記憶』から来る、ただの防衛行動だ」
戦闘の最中、僕は淡々と、冷酷なまでの他者理解の技術を以て、男の精神の核心を貫く。
「どれほど強固に保存しようと、素材は腐り、世界は変わる。変化を容認しない貴方の設計図は、世界に通用しないッ!」
「が、は……あ、あああぁぁぁあッ!!」
核心を暴かれ、精神の均衡を完璧に崩された男が、頭を抱えて絶叫する。その瞬間、城塞の再生が完全に停止した。
「クラネルさん、危ない!! その男に意識を集中しすぎるな!!」
背後から、リューさんの引き裂くような悲鳴が響き渡る。
僕の精神の解体ほ完璧に決まった。だが、あまりにも多くの人間の内面を深く観察し、理解しようとする僕の対話能力は、時に戦場において致命的な隙を晒す。
精神を崩壊させたパティシエの男が、狂乱のままに発動させた自爆術式――マカロン時限爆弾の連鎖起動が、僕の目の前で始まっていた。