古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第11話 魔法とは、現を言い聞かせる術です

 王様との謁見という、新入社員にはあまりにも荷が重すぎるイベントから数日が過ぎた。

 

 師匠魔女様の小屋は、相変わらず薬草のツンとした匂いと、乾いた土の匂いが充満している。

 

 私は土間に座り込み、山のように積まれた木の実の殻を延々と石で叩き割っていた。

 

 その横では、細かく刻まれた根っこが天日干しを待っている。

 

「……王様に会った翌日から、平然と根っこ洗いと木の実潰しですか」

 

 私は石を打ち下ろしながら、心の中で盛大にボヤいた。

 

「魔女業界って、華やかなイベントの後に特別休暇を挟んでリフレッシュするみたいな、ホワイトな概念は存在しないんですね。知ってましたけど」

 

 私がそんな愚痴を脳内でリフレインさせていると、炉の火をいじっていた師匠が、唐突に口を開いた。

 

「手を止めな。今日は座学だ」

 

 ピタッ、と私の手が止まった。

 

「……座学!?」

 

 一気に私の目が、爛々と輝き始めた。

 

「つ、ついに! ついに魔法の授業ですね! 呪文の詠唱とか、魔法陣の書き方とか、火や水といった属性の相性とか、魔法の杖の構え方とか、そういうやつですね!」

 

 興奮してまくし立てる私の前に、師匠は無言でいくつかの物を並べた。

 

 その辺で拾ったような石。

 

 かまどの灰。

 

 水が入った木の器。

 

 動物の骨片。

 

 枯れた草の束。

 

 そして、掃除に使っていた古びた箒。

 

 私は並べられたラインナップを見て、スッと真顔に戻った。

 

「……教室感ゼロ! これ、魔法学校のワクワクする授業というより、建設現場の安全講習みたいな雰囲気なんですけど!」

 

「やかましい口を閉じな」

 

 師匠が鋭く睨みつけ、私は慌てて居住まいを正した。

 

「まずは、魔法とは何かという根幹から教える」

 

 私の胸が高鳴った。

 

「やっと来た……。ここまで出張、腹下しの看病、王様面談、根っこ洗いばかりで、ファンタジー要素がほぼ皆無だったけど、ついに魔女の弟子らしいイベントが来たぞ!」

 

 師匠は、作業台の上に置かれた小さな石を拾い上げた。

 

 そして、それを私の目の前にコトリと置く。

 

「いいかい。魔法とは、意思の力で『現(うつつ)』を自在に操作する術である」

 

 私は息を呑んだ。

 

「おお……! 急にそれっぽい! ファンタジーの定義っぽい!」

 

 しかし、師匠の言葉はそこで終わらなかった。

 

「ただし、勘違いするんじゃないよ。現は、お前が想像するような、泥のように好きな形へ捏ね回せるような柔らかいものじゃない」

 

 師匠は、石を指差した。

 

「石のように重く、決して動こうとしない」

 

 次に、水の入った器を指す。

 

「水のように、低い方へ低い方へと流れようとする」

 

 そして、炉の火を指す。

 

「火のように、燃えるものを求めて移ろうとする。……それが、現の持つ『理(ことわり)』だ」

 

 師匠の目が、スッと細められた。

 

「その理を無視して、無理やり現を曲げようとすれば、曲げた者の方がへし折れる」

 

 あの冬の日の記憶が蘇る。

 

 寒さをどうにかしようと魔法を暴走させそうになった私に、黒猫が『内側から弾け飛ぶぞ』と警告した、あの感覚。

 

 私はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「つまり、魔法は万能の奇跡じゃない、と」

 

「そうだ。お前がこれまでやってきたことは、現の端っこを、少しだけ撫でるようなものだ」

 

 師匠は、私が刻んだ根っこを顎でしゃくった。

 

「苦い草を、人間が食える形に少しだけ近づける。腐りかけた根が放つ嫌な気配を拾う。弱った腹でも受け取れる形へ、煎じ薬の毒気を薄める。水に混じった悪い気配を嗅ぎ分ける。……それらは、現に微かな『お願い』をしているに過ぎない。とても小さな力だ」

 

 私は少し肩を落としかけたが、師匠は続けた。

 

「だが、魔法の入り口としては、極めて正しい」

 

「!」

 

 私はパァッと顔を輝かせた。

 

 私のやってきた地味な努力が、魔法の基礎として正式に認められたのだ。

 

「だがね」

 

 師匠の声が、一段階低くなった。

 

「空を飛ぶ。病魔を肉体から拒絶する。腐敗の進行を完全に止める。老いを退ける。死にかけた命の淵から、魂を強引に押し戻す。……そういう領域の術は、現の端を撫でる程度では済まない。現そのものに手を掛け、その理をねじ伏せる行為だ」

 

「急にスケールとリスクが跳ね上がった……」

 

「だから、術者の意思が弱ければ、現の重圧に呑まれて潰される。逆に、意思が強すぎれば、自分自身の肉体という『現』が耐えきれずに壊れる。魔法とは、そういう綱渡りなんだよ」

 

 師匠は、私を真っ直ぐに見据えた。

 

「その点において、お前の『意思』は、私が今まで見た誰よりも強いね」

 

 私は一拍遅れて、それが自分への評価だと気づいた。

 

「え、私ですか?」

 

「ここに他に誰がいるんだい」

 

 私は思わず鼻の下を伸ばした。

 

「へへへ、どうもどうも。やっぱり私、才能の塊なんですね。主人公補正ってやつですかね」

 

「調子に乗るんじゃないよ」

 

 バシッ! と、師匠の平手打ちが私の頭を小突いた。

 

「い、痛い!」

 

「意思が強いということはね、世界に対して『我が強い』ということと同義なんだよ」

 

「……我が強い?」

 

「そうだ。飢えに苦しんでも、凍えそうになっても、無力な赤子の体に押し込められても、お前は決して『自分』という芯を見失わなかった」

 

 師匠は、私の目の奥を覗き込むように言った。

 

「普通の魂なら、幼い肉体の未熟さと、この過酷な時代の暮らしに魂の表面を削り取られ、前の記憶などというものは、曖昧な夢のように消え去っていくものだ。だが、お前は消えなかった。五年、十年と肉体がこの地のものに染まっても、未だに『後の世の言葉』と『後の世の考え方』を、腹の底にどっしりと抱え込んでいる」

 

 私は黙り込んだ。

 

 自分では、前世の記憶にすがりながら、ただ必死に泥水を啜って生きてきただけだ。

 

 だが、師匠のような魔法の専門家から見れば、それは「世界からの同化を拒絶し続ける、異常なまでの我の強さ」と映るらしい。

 

「強いよ。……気味が悪いほどにね」

 

 師匠がポツリと漏らした。

 

「えっと、それ、褒めてるんですか? けなしてるんですか?」

 

「両方だね」

 

 相変わらず、この師匠との距離感は難しい。

 

 師匠は、ふと何かを確認するように、私へ問いを投げかけた。

 

「……お前は、夢の中で『後の世』を見ているわけじゃないんだね?」

 

 私はピクリと肩を震わせた。

 

「うん? ええっと……」

 

 これまで私は、前世の記憶について「夢で見た」だの「後の世の知識」だのと、適当にぼかしてごまかしてきた。

 

 村の女たちも、王様も、それで納得していた。

 

 だが、師匠の目は誤魔化せなかった。

 

「夢見の力を持つ者は、言葉の端がふらふらと浮つくものだ。自分の足が、今いるこの大地から少し離れているからね」

 

 師匠は私の口元を指差した。

 

「だが、お前の言葉は違う。大地に根を張り、泥を噛んだ人間の重さがある。お前は、『後の世を遠くから覗き見た者』の口をしていない。……『その時代で、実際に生きた者』の口をしているね?」

 

 私は、観念して小さく息を吐いた。

 

 ここで嘘をついても、どうせ見抜かれる。

 

「……はい。私の前世が、その『後の世』だったんです」

 

 私は緊張して師匠の顔色を窺った。

 

 普通なら、悪しきものに憑かれた子として恐れられるか、狂人扱いされてもおかしくない告白だ。

 

 だが、師匠の反応は。

 

「ふうん」

 

 たった一言、それだけだった。

 

「……えっと、師匠? 反応、薄くないですか?」

 

「別に。珍しいことではあるがね」

 

「珍しい、で済ませていいレベルの話ですか!? 私、時間を超えて転生してきたんですよ!?」

 

「世界は広いんだ。この島の外にも、海の外にも、人間の知る『現』の枠組みから外れた妙なことなど、いくらでもある」

 

「師匠の器が大きすぎるのか、それとも長年の魔女稼業で感覚が完全に麻痺してるのか、どっちか分からない……」

 

 私が脱力していると、師匠は炉の火を見つめながら続けた。

 

「通常、一度離れた魂が再び『現』に戻ってくる時は、心を綺麗に洗い流されるものだがね」

 

 師匠は、淡々と魔法的な一般論を語り始めた。

 

「大いなる存在が魂を別の時へ押し戻すにせよ、土地の力が魂を飲み直すにせよ、普通は前の心を洗って白紙にする。そうしないと、新しく入る赤子の未熟な器が、前世の重い心に耐えきれずに壊れてしまうからだ。それに、世界の流れも濁る」

 

 私は「へー、そうなんですか」と相槌を打ちながら、内心で激しく同意していた。

 

「大いなる存在……あの、生意気で食えない黒猫のことかな? あいつも『記憶を持ち越すのはシステム上の例外処理だ』みたいなこと言ってたし」

 

 私はチラリと師匠を見たが、師匠があの黒猫の存在を認識している気配は微塵もなかった。

 

 師匠が語っているのは、あくまで彼女が知り得る魔法理論に基づく推測に過ぎない。

 

 あの猫は、たぶん師匠のような凄い魔女であっても、絶対に手が届かない、ずっとずっと上のレイヤーにいる存在なのだ。

 

「お前は、洗われていないね」

 

 師匠の言葉に、私は現実に引き戻された。

 

「え? 私、洗われてないんですか」

 

「だから珍しいと言っただろうが。前の心の形を完全に保ったまま、新しい器にねじ込まれている」

 

「もしかして私、魂の業界でいうところの『事故物件』みたいな扱いですか?」

 

「似たようなものだね」

 

「ちょっと! そこは優しく否定してくださいよ!」

 

 私が泣きそうになると、師匠は呆れたように首を振った。

 

「そういえば」

 

 私はふと気になって尋ねた。

 

「師匠はさっき、『夢見の力を持つ者は』って言ってましたけど。夢で未来を見る人も、実際にいるんですか?」

 

「ああ。……知人というか、知り合いの『超越者』に一人いるね」

 

「超越者」

 

 中二病心をくすぐる単語の登場に、私はピクッと反応した。

 

「人の上にある者、とでも思っておきな。人の形をしていることもあるし、そうでないこともある」

 

「へえ……」

 

「この島ではない。ずっと遠い、東の島の出身の上位存在でね。そいつが、後の世の夢を見る力を持っている」

 

 東の島。

 

 その単語に、私は反射的に「日本」を連想しかけたが、確証はない。

 

「彼女はねえ、後の世の夢を見る。いや、見すぎるんだ」

 

 師匠は心底ウンザリしたような顔をした。

 

「正直、後の世の言葉に脳みそが染まりきっていて、口を開けば何を言っているのかさっぱり分からない女だよ」

 

「えっ、そうなんですか」

 

「ああ。まだ生まれてもいない国の名前やら、中に人が入る鉄の箱やら、聞いたこともない妙な歌やら、得体の知れない道具の名前やら……。とにかく、後の世の言葉を所構わずまき散らすんだ」

 

「……それ、だいぶ他人事じゃない気がする」

 

 私は冷や汗をかいた。

 

 もし私がうっかり現代知識をペラペラ喋りまくっていたら、師匠からそういう目で見られていたということか。

 

「アレに比べたら、お前はまだ状況を弁えて、自制できる方だわね」

 

「比較対象がヤバそうすぎて、全然褒められてる気がしないんですけど!」

 

 師匠は、スッと真顔になり、私に釘を刺した。

 

「いいかい。お前の持つ『後の世の記憶』は、確かに生き抜くための強い武器だ。だが、使い方を誤れば、お前自身を殺す猛毒にもなる」

 

「……」

 

「今の人間に言っても理解できない理屈を口にすれば、悪しきものに憑かれた子だと恐れられ、村から追われる。時には、怯えた者たちの手で縛られ、二度と戻れぬ森の奥へ捨てられることもあるだろう。王の前で迂闊に口を滑らせれば、便利な道具として死ぬまで利用される。十字の祈り手の前で言葉を誤れば、聖なる奇跡の体現者か、悪しき魔女の末裔かに仕立て上げられる。……お前、昨日、もうやったね?」

 

 ビクゥッ!

 

 私は、心臓が跳ね上がるのを感じた。

 

 昨日、出張先の村で、マルクスという宣教者に向かって、うっかりラテン語で「Gratias tibi ago」と感謝を伝えてしまった件だ。

 

 師匠の目は、すべてをお見通しだった。

 

「ちょ、ちょっとだけ、感謝の気持ちを……」

 

「馬鹿だねえ」

 

「……ぐうの音も出ないです」

 

「言葉は薬と同じだ。相手と量を間違えれば、いとも簡単に猛毒に変わる。肝に銘じておきな」

 

 私は胃の辺りを押さえながら、深く頷いた。

 

 あのラテン語の一言が、この先どんな面倒な種になるのか、想像するだけで吐き気がする。

 

「さて、座学はここまでだ」

 

 師匠がそう言うと、私はホッと胸を撫で下ろした。

 

「よかった、今日はもう終わりか……」

 

 しかし、師匠は壁に立てかけられていた、あの古びた箒を手に取った。

 

 ただの掃除道具ではない。

 

 柄は手垢で黒ずみ、穂先は硬い枝で束ねられ、幾重にも油と薬草の匂いが染み込んでいる。

 

「箒……ですか?」

 

「魔女になるんだろう? 空を飛ぶくらい出来て当然だね」

 

「!!」

 

 私のテンションが、大気圏を突破した。

 

「空を飛ぶ!? 箒で!? わーい! ハリポタみたいだー!」

 

「……ハリポタ?」

 

「私の前世にあった、後の世の物語です! すごく有名な、魔法学校の生徒たちが箒で空を飛ぶお話です!」

 

「まあいい。後の世の作り話がどうだろうと、空は空だ」

 

「ついに! ついにファンタジーらしい実技訓練が始まるんですね!」

 

 私が飛び跳ねて喜んでいると、師匠は小壺を取り出した。

 

「まずは、この軟膏を塗りな」

 

「軟膏?」

 

 壺の中には、獣の脂、灰、そして何種類もの薬草を練り合わせたような、黒緑色のドロリとしたペーストが入っていた。

 

 強烈な苦い草の匂い。

 

 煙の匂い。

 

 そして、雨上がりの土の匂いが混ざり合っている。

 

「これを箒に塗るんですか?」

 

「そうだ。柄に薄く塗る。お前の手が触れるところ、腿で挟むところ、そして『意識』を通すところへ、満遍なくね」

 

「おお……なんか儀式っぽくて魔女感ありますね!」

 

 私が浮かれていると、師匠は冷や水をぶっかけるように言った。

 

「浮かれるな。これはただの滑り止めの油じゃない。お前と箒の『境目』を曖昧にし、溶かし合わせるためのものだ」

 

「……境目を、曖昧に?」

 

「いいかい。箒は『乗り物』じゃない」

 

「えっ」

 

「乗り物だと思って乗るから、落ちる。ただの木の棒だと思うから、振り落とされるんだ。……箒を、自分の『体』にしな」

 

 私は唖然とした。

 

「自分の、体……」

 

「お前は、自分の足の先がどこにあるか、いちいち見なくても分かるだろう? 手の指が何本あるか、数えなくても動かせるだろう? なら、箒の穂先もそう感じな。箒の柄を、自分の背骨の延長だと思い込め。穂先を、自分に生えた尻尾のように感じろ。風を肌で受けるんじゃない。箒の先で受け流せ」

 

「ちょ、ちょっと待ってください。急に難易度が高すぎます! 跨って『飛べ!』って念じれば浮く仕組みじゃないんですか!?」

 

「ただ乗れば、落ちて死ぬだけだ」

 

「シンプルに怖い!」

 

 私は震え上がった。

 

 先ほどの座学の言葉が蘇る。

 

『魔法とは、意思の力で現を操作する術』。

 

 つまり、空を飛ぶということは、重力という絶対的な法則を消し去ることではない。

 

 箒という異物を自分自身の身体感覚に完全に同化させ、世界(現)に対して「私とこの箒は一つの生き物であり、空に浮かぶ性質を持っている」と、強烈な我の強さで押し通す・言い聞かせる技術なのだ。

 

「空を飛ぶって……ファンタジーな飛行魔法っていうより、高度な神経接続の身体拡張訓練みたいなんですけど……」

 

 *

 

 私たちは、小屋の裏手にある、少し開けた草地へ移動した。

 

 地面はぬかるんでおり、柔らかい泥が広がっている。

 

 万が一落ちても致命傷にならないよう、師匠が選んだ場所だ。

 

 私は軟膏を塗り込んだ箒をまたいだ。

 

 手がベタつき、薬草の強烈な匂いが鼻を突く。

 

 腿の内側に、硬い木の柄の感触が伝わってくる。

 

「まずは、指一本分だけ浮かせな」

 

 師匠が腕組みをして指示を出した。

 

「えっ、いきなり大空へテイクオフ! じゃないんですか?」

 

「馬鹿を言え。未熟な状態のまま大空に飛び出たら、制御を失って墜落して死ぬよ」

 

「夢がない!」

 

「夢の中で落ちても死なないが、現で落ちれば死ぬんだよ」

 

「はい、おっしゃる通りです……」

 

 私は深く息を吐き、集中した。

 

「箒は体。箒は私の体。背骨の延長……尻尾……」

 

 しかし、そこで前世の理系的な知識が邪魔をしてきた。

 

「いや、でも物理的にどうやって浮くの? 揚力はどこから発生する? 推進力は? 重心のバランスは? そもそもこの細い木の構造で人間の体重を支えて浮遊するなんて、空気力学的に絶対無理では……」

 

「余計な理屈で、現をカチカチに固めるんじゃない!」

 

 師匠の怒鳴り声が飛んだ。

 

「ひぃっ! すみません、理系的な前世の思考の癖が邪魔をして……!」

 

「お前のその『後の世の知識』は、こういう時には重たい枷になる。現に対して『それは物理的に飛べない』という理由を、わざわざ自分から教え込んでどうするんだい!」

 

 ハッとした。

 

 現代知識は、衛生管理や在庫の分類、医療の基礎としては絶大な武器になった。

 

 しかし、魔法という「理不尽を現に押し付ける」行為においては、「できない理由を論理的に知っていること」自体が最大のブレーキになるのだ。

 

 私は、理屈を頭の隅へ追いやった。

 

 冬の凍える寒さに耐えた時。

 

 春の強烈に苦い草を、なんとか薄焼きにした時。

 

 腐りかけの根を弾いた時。

 

 腹を下した子供に、水を少しずつ飲ませた時。

 

 私はいつも、この過酷な世界に向かって「こうあってほしい」と強く願っていた。

 

『食べられる形になれ』『腐るな』『この子の腹に入って、少しでも楽になれ』。

 

 それと、同じだ。

 

 私は、軟膏の塗られた柄を強く握りしめた。

 

「私と箒は別じゃない」

 

「この体は、ほんの少しだけ軽い」

 

「私は今、ここに、こう在る」

 

「だから、地面から、ほんの少しだけ離れてもいい」

 

 強い意思で、現にそう言い聞かせる。

 

 その瞬間。

 

 またいだ箒が、ピクリ、と内側から脈打つように震えた。

 

 泥に沈んでいた穂先が持ち上がり、私の両足が、地面からふわりと離れる感覚。

 

 風でもなく、物理的な力でもない、得体の知れない浮遊感。

 

「浮いた!?」

 

 私は思わず、歓喜の声を上げた。

 

「喋るな!」

 

 師匠の警告は遅かった。

 

 声を出した瞬間、私の意識の焦点が「飛ぶこと」から外れ、現への押し付けがふっつりと途切れた。

 

 途端に箒はただの木の棒に戻り、重力が容赦なく私を捕らえた。

 

 バランスを崩した箒が跳ね上がり、私は為す術もなく背中から泥濘の中へ叩きつけられた。

 

「ぐええっ!」

 

 盛大な音とともに泥水が跳ね上がり、私の粗末な服が茶色く染まる。

 

 軟膏でベタベタの手にも、泥がべったりと張り付いた。

 

「初日に指一本分浮いたなら、上等だね」

 

 師匠は、倒れ伏す私を無慈悲に見下ろして言った。

 

「褒めてくれるなら、もう少し優しく手を差し伸べながら褒めてください……背中痛い……」

 

「泥の味も、よく覚えておきな。空を飛ぶ者は、飛び方を知る前に、まず『落ち方』を覚えるものさ」

 

「魔女修行……思ってたのの百倍、体育会系すぎる……」

 

 私は泥まみれで仰向けのまま、高く広がる秋の空を見上げた。

 

 前世では、巨大な鉄の塊である飛行機が飛び交い、高層ビルが天を突く、人類が空を支配した世界だった。

 

 それに比べて、今の私には、油臭い箒一本と、自分自身の意思の力しかない。

 

 それでも、ほんの一瞬だけ、私は確かに自分の力で現を動かし、重力に逆らったのだ。

 

「飛べた……のかな」

 

「浮いただけだ」

 

「師匠、厳しい!」

 

「だが、空に話しかけるだけの『我の強さ』はあるようだ」

 

 師匠は背を向けながら、楽しそうに言った。

 

「明日から、毎朝やるよ」

 

「毎朝!?」

 

「空を飛ぶくらい、魔女なら出来て当然だからね」

 

「当然の基準が高すぎる!!」

 

 その日、私は身をもって知った。

 

 魔法というものは、便利な呪文でも神の奇跡でもなく、重く冷たい世界に向かって「私はこう在る!」と無理やり言い張る、とても傲慢で、とても危険な技術なのだと。

 

 そして同時に。

 

 魔女の修行において「空を飛ぶ」ための第一歩は、大空を見上げることではなく、泥の味を舌に覚え込ませることなのだとも、深く理解したのである。

 




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