古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第12話 清潔は魔法で作れても、水場は増えません

 西暦六〇〇年、冬。

 

 私が「十を数えた日」に森の奥へ採用されてから、すでに数ヶ月の月日が流れていた。

 

 魔女の弟子となった私の毎日は、想像していたような優雅な魔法修行とは程遠いものだった。

 

 あの恐ろしい箒飛行の訓練は毎朝の地獄のルーティンとして定着したものの、まだ空高く飛び立つことはできず、水溜まりを少し飛び越えたり、泥の斜面を滑るように降りたりする程度だ。

 

 相変わらず着地に失敗して泥を舐めることの方が多い。

 

「魔女の箒飛行って、もっと夜空をバックに月を横切ったりする優雅なものだと思ってたんだけど……現実は、節点ワープの強烈な乗り物酔いと、泥だらけの徒歩移動、それにごく短距離の決死のジャンプが基本って、夢がなさすぎる……」

 

 私の主業務は、師匠の「医療巡回」への同行だった。

 

 北の村で産婦が熱を出し、西の谷で保存食の腐敗騒動が起き、東の森縁では子供の重い咳が止まらない。

 

 古い泉の水が濁ったと騒ぐ村があれば駆けつけ、王の使いが通って食料を過剰に徴収された家が飢えかけていれば、師匠が裏から手を回してどうにかする。

 

 私はその先々で、重い薬草袋を運び、水を煮沸し、汚れた布を素手で仕分けし、腐った根を弾き、子供の排泄物の匂いを必死に嗅ぎ分けた。

 

 年長の女たちには腰を低くして頭を下げ、怪訝な目を向ける村の男たちの視線はやり過ごす。

 

 そして小屋へ帰還するたびに、師匠から「報告の精度が甘い!」と容赦なく絞り上げられるのだ。

 

「魔女の弟子って、思ってたよりも医療巡回員……いや、保健所の職員って感じ。……でも、保健所って言うには、圧倒的に人手も予算も法的な後ろ盾も足りなさすぎるんだけど!」

 

 そんな超過酷な巡回業務を続ける中で、私は何度か、あの若い宣教者マルクスとすれ違うことがあった。

 

 彼は相変わらず泥だらけになりながら、祈りと同時に病人の世話を焼き続けていた。

 

 驚いたことに、彼は私が教えた「水を煮て、少しずつ飲ませる」というやり方を、律儀に実践していたのだ。

 

「覚えてる。しかも、ちゃんと実践してる……」

 

 その真面目さに感心する一方で、マルクスの方も私を見るたびに、どこか緊張したような、複雑な視線を向けてくるようになっていた。

 

 ある冬の晴れ間、別の村で彼と出くわした時のことだ。

 

「アナタニ、会イタイ人ガ、イル」

 

 片言の現地語が少しだけ上達したマルクスが、真剣な顔でそう切り出してきた。

 

「会いたい人?」

 

「アウグスティヌス。私タチノ、上ノ祈リ手。カンタベリーニ、イル」

 

 私は、頭を抱えてしゃがみ込みそうになった。

 

「出たよ! 歴史の教科書に太字で載るレベルの超大物ネーム! アウグスティヌスって、あの初代カンタベリー大司教になる人だよね!? 同名異人も多い時代だけど、場所がカンタベリーなら絶対ご本人じゃん!」

 

 マルクスは、私の内心のパニックなど知る由もなく、真摯に言葉を続けた。

 

「森ノ使イ。アナタノ言葉、私、報告シタ。彼ハ、会ッテ、話シタイト言ッテイル」

 

「報告したんだ! やっぱり報告書に上げやがったんだ! ああもう、あの時カッコつけてラテン語で感謝なんか伝えるんじゃなかった!」

 

 私は全身から冷や汗を流しながら、必死に無表情を作って答えた。

 

「時間が空いたら、行く」

 

「ホントウ?」

 

「師匠に聞く。私、勝手には行けないから」

 

 マルクスは深く頷いた。

 

「待ツ」

 

「待たないでほしい……。でも、待たないでって言えない……」

 

 私は、自分から蒔いてしまった巨大な火種に頭を抱えながら、早々にその場を立ち去った。

 

 *

 

 巡回を重ねるうちに、私はこのブリテン島の、あまりにも複雑な勢力図を肌で理解し始めていた。

 

 最初は単純に、「新しいキリスト教が入ってきて、古い魔女や土着信仰が駆逐されていくんだろうな」くらいに雑に考えていた。

 

 だが、現実はそんな二元論で語れるほどシンプルではない。

 

 ローマから来たアウグスティヌス一行。

 

 エゼルベルト王の妻であるベルタ王妃が持ち込んだフランク系のキリスト教。

 

 さらに西側には、ローマの権威を嫌う古いブリトン系のキリスト教徒たちがいる。

 

 北西の島々にもまた別の祈り手たちがおり、一方で、土地の古い泉や森の信仰、アングロ・サクソンの古い神々を奉る者たちも健在だ。

 

 そこに、王の権力拡大、商人たちの交易、慢性的な飢えと疫病、村の女たちの薬草ネットワーク、そして我が師匠魔女様の「政治的牽制」が複雑に絡み合っているのだ。

 

「ちょっと複雑すぎない!? どの陣営にも、純粋な善人と、現場で泥水すする担当者と、裏で手を引く政治家がいるんだから……」

 

 マルクスのような善人もいるし、エゼルベルト王のように立派だが古い森には危険な為政者もいる。

 

 師匠魔女様は怖いけれど、誰よりも現実の病人を救っている。

 

「誰が正しいか」なんて、神の視点でもなければ決められない。

 

 今の私に考えられるのは、「目の前の悲惨な状況を、どうやって回していくか」だけだった。

 

 *

 

 ある日、泥まみれでの巡回から小屋へ帰る道すがら、私はブツブツと独り言をこぼしていた。

 

「あー、もう、現代知識を使って雑に『衛生概念チート』とか発動して、一気に村人を救えればいいのになぁ」

 

 手をしっかり洗う。

 

 生水は煮沸して飲む。

 

 病人が吐いた布を、共有の水場で洗わない。

 

 汚物と水場を完全に切り離す。

 

 傷口は清潔に保つ。

 

 現代人からすれば、幼稚園児でも知っているような基本中の基本だ。

 

「これの重要性を啓蒙するだけで、絶対に救える命は劇的に増えるはずなんだけど……」

 

 だが、すぐにその発想が「前世の平和ボケした傲慢」であることに気づかされる。

 

 そもそも、手や布を洗うための「清潔な水場」がないのだ。

 

 水場があったとしても、村の中心から遠く離れている。

 

 水を煮沸したくても、貴重な薪が圧倒的に足りない。

 

 冬の寒空の下、冷たい水で布を洗い続ければ、女たち自身が凍えて死んでしまう。

 

 煮沸用の大きな鍋も、病人の食器を分けるための予備の器も足りない。

 

 汚物を離れた場所に捨てろと言っても、村の地形や水路の都合でどうしても混ざってしまう場所がある。

 

 そして何より、一日中働き詰めの村の女たちに、これ以上の「見えない敵」のための追加の手間を強いる体力的な余裕がないのだ。

 

「……清潔って、個人の思想や心がけの問題じゃなくて、完全に社会の『インフラ』に依存してるんだ……」

 

 私は、自分の前世の知識がいかに脆弱な土台の上に乗っていたかを痛感した。

 

 インフラのない世界で衛生観念だけを説いても、それはただの「無理難題の押し付け」でしかない。

 

 実は、私自身は、魔女の弟子となってから「清潔にする魔法」の初歩を身につけていた。

 

 泥を落とし、血の匂いを消し、薬草道具のべたつきを弾き、腐敗の気配を薄れさせるような、小さな術だ。

 

 師匠曰く、私のこの能力が伸びたのは、私の持つ「前世の知識」が影響しているらしい。

 

『お前は、汚れの形をよく知っている』

 

 師匠はそう説明してくれた。

 

『見えない汚れや病の元を、目に見える泥と同じように明確に嫌悪しているだろう。だからこそ、お前の手の周りの汚れは、お前の意思一つで現から容易に剥がれ落ちるんだよ』

 

「現代の義務教育で叩き込まれた公衆衛生の概念が、魔法適性に直結してる……!」

 

 私は、自分の小さな両手をこすり合わせた。

 

 魔力を通すと、こびりついていた泥や嫌な匂いが、パラパラと剥がれ落ちていく。

 

 だが、限界は明白だった。

 

 綺麗にできるのは、自分の手、自分の器、小さな布、そしてせいぜい小さな傷口周辺くらいだ。

 

 村全体の水場や、家畜小屋の糞尿、何十人もの村人の衣服までを一気に清めるような、ドラえもんの道具のような力はない。

 

 私が村を去れば、またすぐに元通りに汚れるだけだ。

 

「私が分身の術でも使って、ブリテン島中の村人を一人一人清潔にして回るわけにもいかねーからね……」

 

 私は、自分の手のひらを見つめながら、己の力のちっぽけさに歯噛みした。

 

「いっそのこと、水脈を見つけるチートとかできたらいいのに……」

 

 清潔な水源さえ確保できれば、手洗いも煮沸の手間も劇的に改善する。

 

 私は、前を歩く師匠の背中に向かって尋ねた。

 

「師匠、水脈を探り当てたり、綺麗な水場をポンッと生やしたりする魔法ってないんですか?」

 

 師匠は振り返りもせずに即答した。

 

「水脈を探る術なら、あるよ」

 

「あるんですか!」

 

 私は目を輝かせたが、師匠の続く言葉に打ちのめされた。

 

「ただし、水脈を見つけたからといって、そこまで井戸を掘れるかどうかは全く別の話だね」

 

「ぐっ……」

 

「大地の下の水の流れを読むのは難しくない。だが、読めたところで、硬い岩盤や深い土の底まで穴を掘り進める人手と道具が、今の村にあるかい? 掘った穴を崩さないための土留めの技術は? 湧いた水を汚さずに保ち続ける管理の手間は?」

 

「ぐうの音も出ない……」

 

「じゃあ、魔法で直接、水場を生やすのは?」

 

「そんなもん、あるわけないだろ」

 

「ないんですか」

 

「大地そのものの形を変えるなんてのは、人間の魔女には荷が重すぎる。雨を呼ぶのも、川の流れを曲げるのも、新しい泉を生むのも、決して軽々しくやるもんじゃない」

 

 師匠は、立ち止まって私を見た。

 

「やった場所だけで完結する問題じゃないからね。どこかに水を生めば、必ずどこかの水が涸れる。それは、下流の村や、森の獣たちを殺すことになるかもしれないんだよ」

 

「……なんでも魔法でポイッと解決、とはいかないんですね」

 

「無理だね」

 

 師匠の断言に、私はため息をつくしかなかった。

 

 魔法とは、決して現実の法則を完全に無視できる便利な万能ツールではないのだ。

 

 *

 

 その日の夕方。

 

 外は雪混じりの冷たい雨が降り出し、私たちは小屋の炉の火を低く燃やして暖を取っていた。

 

 私は、泥だらけの足を抱え込みながら、肉体的にも精神的にもすっかり疲れ果てていた。

 

 手や顔は清潔魔法で綺麗にしたが、病人と理不尽な現実に向き合い続けた心の疲労はどうにもならない。

 

 そんな私を見て、師匠が珍しく口を開いた。

 

「今日は、茶にするよ」

 

「えっ、お茶!?」

 

 師匠が、木の実の殻を削って作った不格好な器に、温かい薬草茶を注いでくれた。

 

 相変わらず強烈に苦いが、冷え切った内臓の底からじわじわと温まるのが分かる。

 

 私は、久しぶりに心からの安堵の息を吐いた。

 

 師匠は、茶をすする私をじっと見つめて言った。

 

「……お前の『後の世』には、どんな菓子があったんだい」

 

「お菓子、ですか?」

 

 その単語を聞いた瞬間、私の脳内に、前世で愛してやまなかったスイーツの数々が弾幕のように流れ込んできた。

 

 バターの香るクッキー、とろけるようなプリン、専門店で奮発して買った濃厚なチョコレートケーキ、仕事帰りにコンビニで必ず買っていたシュークリーム。

 

 冬のこたつで食べる羊羹やカステラ……。

 

「甘いもの……食べたい……」

 

 思い出しただけで、自然と目が潤み、よだれが湧いてくる。

 

 師匠は、私のそのだらしない顔を見て、フッと小さく笑った。

 

「よほど、強く鮮烈な記憶のようだね」

 

 師匠は、立ち上がって棚から小さな平たい皿を取り出すと、私の前に置いた。

 

「いいかい。お前の頭の中にあるその記憶の『味』と『香り』、そして『食感』を、一つだけ強く思い出しな」

 

「え?」

 

「それを型にして、一口分だけ現へ写し取ってやるからさ」

 

 私は驚愕した。

 

「魔法で、お菓子を作れるんですか!?」

 

「無から生み出すわけじゃない。ここにある蜂蜜と、木の実から絞った少しの油、穀物の粉、そして私の魔力を使って、お前の記憶の味を『模倣』するだけさ。だから、一つだけだ」

 

 私は真剣に悩んだ。

 

 チョコレートはカカオがないから再現が難しそうだし、生クリームやプリンも、乳や卵がないこの時代の材料では厳しい気がする。

 

 だとするなら……焼き菓子だ。

 

 私は、前世で友人と一緒にお茶をした時に食べた、バターたっぷりの、サクッと軽い食感の厚焼きクッキーの味を、頭の中で全力で再生した。

 

 バターの豊かな風味、砂糖の焦げた甘い匂い、口の中でホロリと崩れる食感。

 

 師匠が、私の額にそっと冷たい指先を当てた。

 

 次の瞬間、小さな皿の上に、ポンッと、親指の先ほどのサイズの丸い焼き菓子のようなものが現れた。

 

 見た目は、私の知る洗練されたクッキーとは違う。

 

 表面は粗く、色もくすんだ茶色だ。

 

 だが、そこから漂ってくる香りは――間違いなく、「後の世」の、豊かな甘さと香ばしさが凝縮された香りだった。

 

 私は震える手でそれを摘み上げ、口に放り込んだ。

 

 完全なクッキーの味ではない。

 

 蜂蜜の風味が強く、木の実の油の癖も少し残っている。

 

 でも、甘い。

 

 圧倒的に甘い。

 

 そして、サクッとした食感とともに、前世の台所の風景、コンビニの蛍光灯の眩しさ、スーパーの陳列棚、友人たちの笑い声……それらすべてが一瞬で脳内にフラッシュバックした。

 

「美味しい……」

 

 私は、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、その一口を咀嚼した。

 

 師匠も、皿に残った小さな欠片を指先でつまみ、口に入れた。

 

 そして、ゆっくりと目を細めた。

 

「……ほう。これは、驚くほど美味いね」

 

 私は、なぜか自分が褒められたように誇らしくなって、涙と鼻水を拭いながら言った。

 

「でしょう? 私の前世、食文化だけは本当に豊かだったんですよ」

 

 師匠は、探るような目で私を見た。

 

「お前、前の世ではよほど美味い料理ばかり食べていたんだね。……ひょっとして、王族か貴族だったのかい?」

 

「ブフッ!」

 

 私はむせて、全力で両手を横に振った。

 

「いやいやいや! とんでもない! 貴族なんかじゃないですよ! ただのしがない一般庶民です!」

 

「信じられないねぇ。これほどの味を知っている者が、庶民だなんて」

 

「本当にただの庶民です! むしろ、毎日の労働にすり減っていた社畜寄りです!」

 

「しゃちく?」

 

「後の世の、権力者にこき使われて疲れ果てた民のことです」

 

 師匠は、信じがたいというように黙り込んだ。

 

「……そんな疲れ果てた民が、日常的にこれほどの菓子を食える世の中だったのか」

 

「そうです」

 

 その沈黙に、私は未来の豊かさの異常性を、改めてこの時代の人間目線で突きつけられたような気がした。

 

「以前話しただろう。後の世を夢で見る、東の島出身の上位存在の話を」

 

 師匠が、ふと思い出したように言った。

 

「あいつも、私に自分の記憶にある料理を振る舞ってくれたことがあるんだ」

 

「あの、後の世の言葉に染まりきってるっていう人ですか」

 

「ああ。アレの料理も、確かに悪くはなかった。……だがね、お前の記憶のこの菓子の方が、味の『層』がずっと細かくて深いよ」

 

 私は少し得意げに解説した。

 

「まあ、未来のフランス料理とか、日本の繊細な洋菓子の技術とか、小麦の品種改良、製糖技術の発展、乳製品の品質向上とか、何世紀にもわたる歴史の積み重ねがありますからねぇ」

 

「……ふらんす?」

 

 師匠が怪訝な顔をした。

 

「あっ」

 

 また余計な言葉を滑らせた。

 

「なんだい、その国は」

 

 私は慌てて記憶の引き出しをひっくり返し、必死に時代考証の辻褄を合わせた。

 

「えーと……フランク王国の後の世というか、今のベルタ王妃様の故郷のあたりに、ずっと後になってそういう名前の国ができるというか……」

 

「なるほど。フランクの後の世の、洗練された料理というわけか」

 

「だ、だいたいそんな感じです」

 

 師匠は呆れたように笑った。

 

「後の世の人間というのは、ずいぶんと食に執念深いんだね」

 

「食は文明のバロメーターですからね」

 

 私たちは、苦い薬草茶をすすりながら、少しだけ声を立てて笑い合った。

 

 *

 

 お茶と未来の菓子で少し心がほぐれた私は、ふと、ずっと抱えていた浅はかな考えを口にしてしまった。

 

「それより師匠。魔法でこう……私が育った村みたいな飢えている場所に、料理を出してあげることはできないんですか?」

 

 師匠は、ピタッと茶をすする手を止めた。

 

「料理を、かい?」

 

「はい。こうやって記憶から味や食感を写し取って具現化できるなら、あの飢えに苦しむ村に、お菓子じゃなくても、栄養のある粥とか、もっと美味しいものを出してあげられないかなって」

 

 師匠は、すぐには否定しなかった。

 

 ただ、静かに私を見つめて言った。

 

「できないこともないよ」

 

「本当ですか!」

 

 私は身を乗り出した。

 

「だが、それはほんの一口、二口の話だ。祭りの日に、腹を空かせた子供の舌へ、一瞬の夢を見せるくらいなら私にもできる」

 

 師匠の目が、スッと冷たく、そして重い光を帯びた。

 

「だが、村の全員の腹を満たすほどの量を現に出現させるには、それに見合うだけのものを、現から『借り』なければならない」

 

「借りる……?」

 

「先ほども言っただろう。何もない虚空から、食い物は生えないんだよ」

 

 師匠は、空の小皿を指で弾いた。

 

「穀物が土から吸い上げた熱、木の実の油分、蜂蜜の甘み、獣の脂。森の力、術者の体力、そして土地の機嫌。何かと何かを混ぜ合わせ、何かを削り、現の理を歪めて強引に形にする。……それを村全員の腹を満たす規模でやれば、必ずどこかの森が枯れ、誰かの命が痩せ細ることになる」

 

 私は、ハッとして黙り込んだ。

 

 魔法は、無限のエネルギー機関ではない。

 

 等価交換、あるいはそれ以上の代償を支払う技術なのだ。

 

「それに」

 

 師匠は、さらに鋭い言葉を私に突きつけた。

 

「彼らは、それに見合う『対価』を出せるのかい?」

 

「対価……」

 

「村人たちは確かに貧しい。だが、決して何も持たない無力な存在ではない。草を採り、薪を拾い、畑を耕し、赤子を育て、泉に供物を置き、互いに貸し借りをして必死に生きている」

 

 師匠の言葉が、私の胸に重くのしかかる。

 

「そこへ、魔女が突然現れて、一方的に美味い食い物を出してやる。魔法で清潔にしてやる。病をすべて払ってやる。……彼らは、お前に何を返すんだい?」

 

「感謝、とか……」

 

 私が蚊の鳴くような声で答えると、師匠は容赦なく切り捨てた。

 

「感謝の言葉だけで、削られた森は戻らない。お前の腹も膨れないし、土地も納得しないよ」

 

 私は完全に言葉に詰まった。

 

「対価なき一方的な奉仕は、人間を動物として『飼う』のと同じことだよ」

 

 師匠のその一言は、私の胸にグサリと突き刺さった。

 

「動物……」

 

「厳しい言い方だがね。人を一方的に保護し、食わせ、清め、病から遠ざけ、その代償として相手には何も求めない。それは、その村人たちを『自分で考え、自分で働き、自分の力で返すことのできる対等な人間』として扱っていないということだ」

 

 師匠の目は、悲しいほどに澄み切っていた。

 

「彼らも、知恵を持ち、プライドを持って生きている。貧しいからといって、魔女に飼われる愛玩動物ではないんだよ」

 

 私は、自分の「現代知識チートでみんなを救ってチヤホヤされたい」という善意が、いかに浅はかで、上から目線の一方的な保護の発想に寄りかかっていたかを思い知らされた。

 

「なるほど……深いです。私、すごく浅はかでした……」

 

 師匠は、少しだけ声のトーンを和らげた。

 

「助けるなと言っているわけじゃないんだよ」

 

「え?」

 

「ただ、助けるのであれば、相手が自分たちの力で『返し、回していける形』を作りなさいと言っているんだ」

 

 師匠は、炉の火を火箸でいじりながら言った。

 

「薪に余裕がある家には、水を煮て病人に飲ませる術を教える。布を用意できる家には、病人の布とそうでない布を分けて洗うやり方を教える。王には、水場を汚した者を罰する掟を出させる。商人には、清い水を売ることで得になる商売の形を教える。祈り手には、病人を清める作法としてそれを覚えさせる」

 

「……」

 

「お前が一生そこにいて魔法をかけ続けることはできない。なら、相手の手で、相手の知恵で、明日からも続く形にして残してやるのが、本当の魔法の使い方だよ」

 

 私は、目から鱗が落ちる思いだった。

 

 チートとは「私がすごい魔法を使って全部解決してあげる」ことではないのだ。

 

「相手の社会の中で、継続的に回るシステムを設計してあげること」こそが、真の力なのだ。

 

 前世の技術屋の友人の言葉が、脳内でクリアに再生される。

 

『どんなに優れた技術でも、開発者しかメンテできない属人化したシステムはいずれ必ず死ぬ。大事なのは、素人でも回せる運用設計を作ることだ』

 

「チートって、技術や知識そのものを見せびらかすことじゃなくて……社会実装のための『運用設計』だったんだ……」

 

 私は、深く、深く頷いた。

 

 *

 

 思考がクリアになった私は、改めて師匠に提案した。

 

「じゃあ、私が知っている『衛生概念』の知識を、村人たちの運用に乗る形で広げていくのはどうですか?」

 

「広げるだけなら、構わないよ」

 

「でも、民の村では水も燃料も圧倒的に足りません。現代の完璧な衛生環境をいきなり求めるのは無理です」

 

 私は、頭の中でターゲット層をセグメント分けした。

 

 燃料と人手があり、水場を管理する権力を持つ層――貴族、王族、大商人、王の広間、修道院、交易拠点。

 

 彼らには、水を煮沸し、病人を隔離し、排泄場所を分けるという「高度な衛生管理」を、権威ある作法として導入できる。

 

 一方、民の村では、それは不可能だ。

 

「だから、ターゲットによって要求するレベルを変えればいいんです。貧しい村には、毎日のお祈りや儀式に紛れ込ませるような、極限まで簡略化したルールだけを教えるとか」

 

「……ほう」

 

 師匠が、少しだけ身を乗り出した。

 

「これ、森の信仰を取り戻すのにも使えそうですね」

 

「どういうことだい」

 

「古い泉や森の『清めの作法』として、新しいルールを作って教えるんです」

 

 私は身振り手振りを交えて熱弁した。

 

「森の泉は清らかだから、絶対に泥や汚物を近づけて汚してはいけない。供物を置く前には、必ず手を水で洗って清めなさい。病の穢れがついた布は、決して泉の下流へ持ち込んではいけない。赤子に飲ませる水は、一度火を通して邪気を払ってから冷ましなさい、とか」

 

「……」

 

「こういう形なら、ただの面倒な衛生ルールじゃなくて、神聖な『信仰の作法』として、村の女たちの中に自然に残せるかもしれないじゃないですか」

 

 師匠は、しばらくの間、無言で私を見つめた。

 

 そして、小さく息を吐き出し、少しだけ感心したように口元を綻ばせた。

 

「なるほどね……。古い泉の名を借りて、村人たち自身の意思で水を守らせるわけか」

 

「はい!」

 

「悪くない」

 

 師匠からの明確な高評価に、私は思わずドヤ顔になりかけた。

 

 だが、師匠はすぐに冷や水をぶっかけてきた。

 

「まあ、いずれ十字の祈り手たちにも、すぐ真似されるだろうけどね」

 

「パクられるってことですね」

 

「ぱくる?」

 

「ああ、現代語で『技術を盗まれて真似される』って意味です」

 

 師匠は、フッと笑った。

 

「真似されるなら、それが本当に良い術だということの証明だよ」

 

「でも、せっかく森の信仰の手柄になるようにルール化したのに、その実績ごと十字側に持っていかれちゃいますよ?」

 

「構わないさ。病に苦しむ命が助かるなら、政治的な手柄など、後でいくらでも奪い返せばいい」

 

 私は、少し驚いて師匠の横顔を見た。

 

 この人は、古い森の世界を守るために王と牽制し合うような政治家でもある。

 

 だが、その根底にあるのは、政治的な勝利よりも「目の前の命を一つでも多く繋ぐ」という、泥臭くも圧倒的な実務者としてのプライドだった。

 

 その信念の格の違いに、私はただただ圧倒された。

 

 *

 

「さて」

 

 茶の器を片付けながら、師匠が言った。

 

「そういえば、あの十字の若造が、何か言っていたらしいね」

 

 私は、先延ばしにしていた爆弾に火がついたのを感じて、胃を押さえた。

 

「あ、はい……。カンタベリーにいるアウグスティヌスって人が、私に会いたいって、マルクスが……」

 

 師匠は、炉の火を見つめたまま、長く重い沈黙を落とした。

 

 その沈黙が、歴史の転換点の足音のように聞こえて怖かった。

 

「……とうとう、来たか」

 

「とうとう?」

 

「お前が西の村で、不用意にラテン語なんぞを口走ってしまったからだよ。十字の連中が、お前の存在に『意味』を見出し始めている」

 

「本当にすみません……」

 

「だが、いずれ会うことにはなっただろうね」

 

 師匠は立ち上がり、壁に掛けられた薬草の束を手に取った。

 

「会うんですか、私?」

 

「すぐではない。……だが、お前の言う『清めの作法』をこの島に広く根付かせるつもりなら、いずれあのカンタベリーにいる連中を無視して通ることはできなくなる」

 

 私は、頭を抱えた。

 

 カンタベリーのアウグスティヌス。

 

 歴史の教科書に太字で載るような超重要人物との面談イベントが、ついに確定してしまった。

 

「また歴史の教科書級の人物と面談……。私の胃壁、そろそろ穴が空くんですけど」

 

「今度は、絶対に不用意な後の世の言葉を使うんじゃないよ。十字の連中は、言葉の解釈一つで人を聖者にも悪魔にも仕立て上げるからね」

 

「はい……肝に銘じます……」

 

 お茶会が終わり、記憶の菓子の幻は完全に消え去った。

 

 皿の上には、甘いバターの香りだけが、ほんのわずかに残っている。

 

 私は、藁の寝床に横たわりながら、今日学んだことを反芻していた。

 

 自分は未来の知識を持っている。

 

 手を清める小さな魔法も使える。

 

 水を煮沸する医学的根拠も知っている。

 

 だが、それだけでは、この世界は一ミリも変わらない。

 

 水場を管理する掟。

 

 薪を集めるルール。

 

 布を使い分ける習慣。

 

 それらを、王の権力、商人の利益、祈り手の言葉、そして森の女たちの信仰という「現地のシステム」に組み込んで、初めて意味を成すのだ。

 

「チートって、知識をひけらかせば終わりじゃない。誰が、何を、どうやって続けるかまで設計して、初めて本物の魔法になるんだ」

 

「明日は、清めの作法を一つ作るよ」

 

 背後から、師匠の声が降ってきた。

 

「作法、ですか?」

 

「森の泉をこれ以上汚さないための、村の女たちに向けた作法だ」

 

 師匠が、ニヤリと笑った気配がした。

 

「お前の頭の中にある後の世の清潔の理屈と、こちらの古い森の清めの言葉を混ぜ合わせるんだ」

 

「おお! いよいよ本格的な衛生概念チートの社会実装ですね!」

 

「浮かれるんじゃない。まずは、村の女が毎日、無理なく続けられる形まで、お前の理屈を徹底的に削ぎ落とす作業からだ」

 

「実装設計から入るのか……」

 

「じっそう?」

 

「あ、えーと、誰でも続けられる形に仕組みを落とし込むってことです」

 

「そうだ。……誰かの手で続かない術は、本物の術ではないんだからね」

 

 その夜、私はようやく理解した。

 

 魔法も、現代の衛生知識も、そして人間を救いたいという善意すらも、ただ強く願うだけでは何一つ足りないのだ。

 

 それを、現実に生きる人々の手で「続けられる形」に落とし込んで初めて、この冷たく重いブリテン島の現を、ほんの少しだけ動かすことができるのだと。

 




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