古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜 作:パラレル・ゲーマー
カンタベリーの地から、あの強烈な節点ワープを経て師匠の小屋へ帰還した日の夜。
「……あんたは本当に、地雷原をタップダンス踊りながら駆け抜けてきた自覚がないんだね」と、師匠から深い深い溜息を吐かれた後、私は逃げるようにして薬草臭い藁の寝床へと潜り込んだ。
ボロ布を頭まで被り、冷え切った手足を丸めながら、私は必死に自分を弁護していた。
「いやいやいや、だいぶ気をつけて言葉を選んだはずなんだけどなぁ」
ブツブツと、暗闇に向かって抗議する。
「未来の具体的な話は一切しなかったし、日本なんて言ってないし、フランスって単語も飲み込んだ。細菌もウイルスも言わなかったし、何より『私は聖女じゃありません!』って全力で否定したじゃないか」
「『病人の前では共存できますね』って、めっちゃ建設的で前向きな話もしたし。……むしろ、異教とキリスト教の歴史的融和に向けた、パーフェクトな実務交渉だったのでは?」
しかし、師匠のあの氷のような目と、カンタベリーでの異様な緊張感、そして節点移動の強烈な吐き気が合わさり、私の疲労はすでに限界に達していた。
自己弁護もそこそこに、私の意識は重い泥の中に沈むように、急激に途切れていった。
*
夢の中。
視界が、乳白色の濃い霧に包まれていた。
足元を見ると、雨に濡れたヨーロッパの古い石畳のようでもあり、前世で毎日立っていた通勤電車の駅のホームのようでもあり、あるいはこの六世紀ブリテン島のぬかるんだ泥道のようにも見える。
どこでもなく、だが確実にどこかへと繋がっている、奇妙な境界の場所。
その霧の向こうから、ゆらゆらと長い尻尾を揺らしながら、一匹の黒猫が姿を現した。
金とも翠ともつかない、深く透き通った瞳が、私を真っ直ぐに見据えている。
「あ、久しぶりですね、賢者猫」
私が軽く手を上げると、猫は立ち止まってふわりと座り込んだ。
『久しぶりじゃのう。元気そうで何よりじゃ』
「まあ、毎日泥と病人と薬草の処理に追われつつ、複雑怪奇な宗教政治の間に挟まれて胃を痛めてますけど、なんとかかんとか生きてますよ」
『うむ。生きておるのは良いことじゃ。……それにしても、お主、また随分と凄いことをしでかしたのう』
猫の言葉に、私は首を傾げた。
「えー、そうなんですかー?」
『……お主、本当に自覚なしなのか?』
猫の目が、スッと細められ、呆れ果てたような光を帯びた。
「いや、さっき師匠にも『地雷原を駆け抜けた』って言われましたけど……そこまでですかね?」
『そこまでじゃ。控えめに言って、大爆発じゃな』
猫は、前足で顔を丁寧に洗いながら、唐突に妙な話を始めた。
『ワシも若い頃は、ヒマを持て余していろいろと試したものじゃ』
「若い頃?」
『うむ。例えばそうじゃな、織田信長という男にちょいとばかり不思議な力を与えてみたり、徳川吉宗という将軍に、外の国の知恵と有り余る金を流してみたりな』
私は、危うくひっくり返りそうになった。
「ちょっと待ってください。歴史の裏側で何やってるんですか、この猫は!」
『ただの気まぐれじゃよ。ちょっと小石を投げ入れたら、世の波紋がどう転がるか、高みから眺めておっただけじゃ』
「スケールが完全に神の実験なんですよ! 日本史の教科書が書き換わるレベルの介入じゃないですか!」
『ワシはただの年寄り猫じゃよ。ニャー』
「その白々しい『ニャー』で全部誤魔化せると思わないでくださいね!」
私がツッコミを入れると、猫は尻尾をパタンと叩きつけた。
『だがのう。信長や吉宗に力や金を与えて盤面を掻き回した時よりも、今回のお主のやらかしの方が、ずっとひどいぞ』
「なんで!?」
『あやつらは、せいぜい一つの国の形を物理的に変える程度じゃ』
「『せいぜい』の範囲がバグってますけど!?」
『だがお主は、宗教史と神学と土着信仰と医療実務と未来知識を、十歳の『森の使い』という皮を被って、全部一気に鍋へ投げ込んだ』
「言い方!」
『事実じゃろうが』
猫の容赦ない指摘に、私は少しずつ青ざめ始めていた。
『よいか、お主が今回踏み抜いた地雷を、一つずつ解説してやろう』
猫は前足を一本立てた。
『まず第一。お主はあの場でラテン語を完全に理解したにもかかわらず、あえて現地の言葉で返したな』
「そこはむしろ、めちゃくちゃ慎重に立ち回ったところですよ! いきなりラテン語ペラペラで返したら、絶対に怪しまれると思ったから!」
『相手からすれば、明確に理解しているのに、あえて使わぬ方がよほど怪しく見える場合もある』
「そんなぁ……」
『知らぬふりをするなら、完璧に知らぬふりをせねば意味がない。お主の態度は、相手に「あえて隠している」という印象を強く与えた』
「面談の難易度が高すぎません!?」
猫は二本目の前足を立てた。
『次に、「後の世の記憶がある」という言葉じゃ』
「私は『未来から来ました』なんて一言も言ってません!」
『宗教の文脈においては、同じことじゃ』
「同じだった……」
私は頭を抱えた。
『神の言葉を扱い、奇跡を説く者たちにとって、「後の世を知る者」などという存在は、幻視者か、予言者か、あるいは悪魔に近い危険な霊と見なされる。決して「ちょっと雑学に詳しい村の子供」という枠には収まらぬ』
「うわぁ……」
猫の瞳が、さらに鋭く光った。
『そして最大級の地雷がこれじゃ。「後の世でも、あなた方の教えは長く残っています」。……なぜ、あんなことを言った』
「相手を安心させようと思って……! 敵じゃないですよってアピールしたかったんです!」
『ふむ。相手は間違いなく安心したじゃろうな』
「じゃあ、成功では!?」
『安心の方向が、「我らの信仰が未来永劫続くということを、神秘の力によって告げられた!」という、最悪のベクトルに振り切っておるがな』
「大失敗じゃないですか!」
『しかも、相手はあのアウグスティヌスじゃ。その重要性を理解できぬほど暗愚ではない。本国ローマへ報告書を飛ばすに決まっておる』
「ま、まさか、もう?」
『うむ。火種はすでに海を渡る準備を始めておるぞ』
私は、その場に崩れ落ちそうになった。
『極めつけがこれじゃ。「私は聖女ではありませんが、そちらの解釈までは関与できませんのでお任せします」じゃな』
「それは! ビジネス上の普通の免責事項です! 『当方は一切の責任を負いません』っていうアレです!」
『異教の神と十字の神がせめぎ合う宗教の最前線で、免責事項を出すでないわ』
「本当にそうですね!!」
私は全力で同意した。
『相手から見れば、「私は自らを聖なるとは名乗らぬ。お主らの信仰の目で見極めよ」と、神学的な『試し』を与えられたようなものじゃ』
「私、そんな高難度の宗教問答みたいなこと言ってないです! ただ実務の線引きをしただけなのに!」
『言ったことになったのじゃよ。言葉とは、そういうものだ』
「言葉、怖い……!」
私は完全に打ちのめされ、霧の石畳の上にぺたんと座り込んだ。
『ちなみに』と、猫がサラッと言い放つ。
『キリストも、そのあたりをずいぶんと気にしておったぞ』
「……は?」
私は、首の骨が鳴るほどの勢いで猫を見た。
「キリスト様にまで何か言われてるんですか!?」
私の案件、いったいどこまでエスカレーションしてるの!?
カンタベリーからローマ教皇庁どころか、天界のCEOにまでクレームが上がってるってこと!?
『まあ、あやつは根本的に懐が大きいからな。愛があり、弱き者を助けようとする真っ直ぐな意思があるなら、お主の多少のやらかしは笑って許すじゃろうて』
「そ、そこは安心していいんですか?」
『ただし』
猫は厳しく釘を刺した。
『キリスト本人の懐の深さと、地上の教会組織の解釈、そして神学上の処理というものは、全くの別問題じゃ』
「あー……巨大組織あるあるですね。創業者の崇高な理念と、現場の官僚主義が完全にズレるやつ!」
『また後の世の嫌な例えを出す』
「分かりやすかったので、つい……」
『ともかく、すぐに悪しきものとして断じられ、火にかけられるような事態には程遠い。そこは安心せい』
「よかった! 一番怖いのはそこですから!」
『むしろ厄介なのは、お主が向こうの組織内で「聖なるもの」として扱われ始めることじゃ』
「全然よくなかった!」
私は頭を抱えてゴロゴロと転がりたくなった。
『考えてもみよ。異教の森の使いでありながら、後の世を知り、病人を救う清めの作法をもたらし、教えの未来を告げ、しかも自ら聖女であることを明確に否定し、解釈を委ねる。……神学的には、大荒れに荒れるじゃろうなぁ』
「むむむ……今後は、もっと発言内容に気をつけよう……!」
『それを毎回言っておるがな』
猫の冷たいツッコミが刺さる。
「猛烈に反省はしています!」
『反省はするが、改善が絶望的に遅い』
「グサリと刺さる!」
猫は、前足で口元を覆い、小さく欠伸をした。
『ローマ教皇グレゴリウスの元まで火種が飛んだぞ、お主』
「ええー……それ、やっぱりマズいですか?」
『ヤバいかヤバくないかで言えば、面倒じゃ』
「面倒で済みます?」
『すぐに悪しきものとして断じられるような話ではない。そもそも今のこの地は、後の世の狂気じみた魔女裁判の時代ではないしのう。それに、あのグレゴリウスという男は、現地の古い習慣をすべて焼き払えと命じるよりも、使えるものは教えの中に取り込んで改めさせるという、柔軟な方向を取れる男じゃ』
「へえ、実務派なんですか?」
『かなりの実務派じゃな』
「じゃあ、ちゃんと現場の実情を話せば、分かってくれる可能性が?」
『分かりすぎるからこそ、面倒なこともあるのじゃよ』
猫の瞳が、面白そうに細められた。
『お主の持ち込んだ「清めの作法」の有用性を理解すれば、あやつらはそれを、ごく自然に、そして大規模に教会の作法として取り込み始めるかもしれぬ』
「あー……パクられる」
『良い術は真似される、と魔女も言っておったろう?』
「分かってはいるんですが、複雑です。私が一生懸命フローを組んだのに!」
『それが、社会に「実装」するということじゃ。術が個人の手を離れ、大きなうねりとなる。お主の望んだことじゃろう?』
私は深くため息をついた。
確かに、病人が助かるなら誰の手柄でも構わない。
でも、自分の特許を大企業に無断使用される下町工場の社長のような、やり場のない悔しさは残る。
『さて』
一通り私のやらかしをイジって満足したのか、猫は話題を変えた。
『それで、現代知識チートの方は順調か?』
その言葉に、私は少しだけ元気を取り戻した。
「そうですね! 清めの作法は森の村で広め始めましたし、腹下しで死ぬ子も明らかに減ってるっぽいですし、初期ロットとしてはかなりいい感じに回ってますよ!」
『うむ。そこは悪くない』
「ですよね!」
『ただし、清めだけでは腹は膨れぬぞ』
「うっ」
痛いところを突かれた。
いくら衛生環境を整えても、根本的なカロリー不足が解決しなければ、冬を越せない命は必ず出る。
『次は、農業じゃろうな』
猫の言葉に、私の目がカッ! と見開かれた。
「ですよね! 私も考えてたんです! そろそろ一次産業にテコ入れする時期かなって!」
私は前のめりになって語り始めた。
「次は、三圃制の導入とか、輪作とか、マメ科の植物で窒素固定するとか、そういう方向かなーって! 歴史好きの友人から聞いた、農業チートの知識が火を吹きますよ! 村の畑を三つに分けて、冬作、春作、休閑地でローテーションして、地力を落とさずに収穫量を底上げする感じで!」
私が意気揚々とプレゼンを終えると、猫はゆっくりと尻尾を揺らした。
『考えとしては、悪くない』
「おお!」
『ただし、それを雑に導入しようとすれば、村が真っ二つに割れるぞ』
「えっ」
猫は、冷徹な目で私を見た。
『よいか。村の畑は、お主の頭の中のノートではない。誰の所有する畑を、どの年に休ませるのか。休ませている間、その家の腹はどうやって満たすのか。家畜をどこで放牧させるのか。共有地の管理権限は誰が持つのか。新しい種の調達ルートは? もしその農法が失敗して収穫が落ちた時、責任は誰が、どうやって取るのか』
私は、言葉を失った。
「うわ、そうか……」
『ただマメを植えればすべて解決、という魔法はない。土地の水はけ、気候、村の長年の慣習、家畜の頭数、種の保存状態、そして女たちや男たちの労働力の配分時期。それらすべてが複雑に絡み合っておるのじゃ』
「……農業って、ただの土いじりじゃなくて、完全に村の『社会システム』そのものなんですね」
『そうじゃ。お主が前に学んだことじゃろう? 村人の手で続かぬ術は、術ではない』
「またそこに戻ってくる……!」
どんなに優れた農法でも、村人の生活インフラと合致しなければ、ただの机上の空論なのだ。
『石鹸の大量生産という手もあるのう』
猫が、別のアイデアを提示してきた。
「あー、それもありますね! 清めの作法と相性抜群じゃないですか! 手洗いに使えるし、病人の布の汚れも落としやすくなるし、祈りや供物前の清めのシンボルとしても使えますよ!」
『うむ。石鹸そのものは、決して悪くない』
「ですよね!」
『ただし』
またしても、猫の『ただし』が発動した。
『灰、獣の脂、火を焚くための膨大な燃料、作るための容器、保管場所、強い匂い、肌荒れへの対策。誰がそれを専任で作るのか。出来上がったものを誰が優先して使えるのか。どこまで無料で配り、どこから対価を取るのか』
「まーた運用設計の問題!」
『そうじゃ』
猫は続ける。
『石鹸を、高価で神聖な「清めの品」と位置づければ、王や修道士、商人たちの間には一気に広がるじゃろう。だが、貴重な獣の脂は、本来は飢えた腹を満たすための食料じゃ。燃料の薪も、冬を越すための命綱。それらを消費してまで泡を作ることに、村の人間が納得するか?』
「食べられる脂を石鹸の材料に回すなんて、飢えてる村では暴動が起きますね……」
『そういうことじゃ』
「でも……森の作法として、本当に少量から、手に入りやすい材料で試作するなら、いけるかも……」
『その考え方はよい。まずは小さく、実験区画から回してみることじゃな』
私は、手持ちのチートカードが、いかに運用コストの高いものかを思い知らされた。
その時、猫が少しだけ声を低くした。
『それから、硝石と黒色火薬の製法もあるじゃろうが……これは、絶対に止めた方が良いのう』
「あー……」
私は少し視線を逸らした。
「それも一応、ミリタリー好きの友人から聞いたことはありますね。混ぜる比率とか」
『決して、外で詳しく語るでないぞ』
「はい」
『西暦六〇〇年のこの島に、大砲や銃の概念が生まれるのは、流石のワシでも笑えん』
「それもそうかー」
私は少し残念そうにため息をついた。
「村を守るための軍師ポジションとして頑張る今後も、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ考えてたんですけど」
『やめておけ。魔女として、人の戦に深く関わるのは止めておくことじゃ』
「なんでですか? 圧倒的な力があれば、戦乱を早く終わらせて被害を減らせるかもしれませんよ?」
猫は、冷ややかな瞳で私を見た。
『減らせるかもしれぬ。だが、逆に増えるかもしれぬ。お主が一つの王に強大な力を貸せば、別の王は必ずそれに対抗する手段を求める。武器の知識は広がり、使われ、奪われ、瞬く間に真似される』
「……」
『そして、すべてを教え尽くしたお主は、王に利用されるだけ利用されて、最後は危険物として捨てられるのがオチじゃ』
私は黙った。
師匠も、絶対に同じことを言うだろう。
あの人は、人間の業と戦の匂いをよく知っている。
「でも……」
私は一つ疑問をぶつけた。
「上位存在って、人間の戦争に関わっちゃいけないんですか?」
『基本的にはな』
「なんでですか?」
猫は、揺らしていた尻尾をピタリと止めた。
『上位存在が、世の戦争に直接関われば、必ず別の上位存在も関わってくるからじゃ』
「……」
『一つの王にワシのような猫がつけば、敵対する別の王には竜がつく。一つの国に未来の恐るべき知識を与えれば、別の国にはまた別の神の力が与えられる。……そうなれば、人の戦は、もはや人の戦ではなくなる』
「上位存在同士の、代理戦争になる……」
『そうじゃ。それを防ぐために、上位の者どもには暗黙の掟がある。直接、世の戦争に肩入れしない。決定的な兵器を与えない。特定の王を勝たせるために、直接的な力を振るわない。……人の争いは、あくまで人の範囲で終わらせるのじゃ』
「へー……なるほど。確かに、インフレしすぎると世界が壊れますもんね」
『もちろん、例外はある。世界を滅ぼすような大災厄を防ぐ時、世界の流れが根本から壊れそうになった時、あるいは……遊びすぎた馬鹿を止める時、とかな』
「遊びすぎた馬鹿」
『ワシも若い頃は、少し遊びすぎたからのう』
「信長と吉宗の件ですね?」
『ニャー』
「また誤魔化した!」
猫は、咳払いをするように喉を鳴らし、改めて言った。
『お主が次にやるなら、農業と石鹸じゃな』
「戦争はなし」
『なし』
「火薬もなし」
『なし』
「軍師もなし」
『なし』
「三圃制は?」
『慎重に、小さな実験区画から』
「輪作とマメ科植物は?」
『土地の性質と種、家畜の数、そして女たちの労働の余力をよく見てから』
「石鹸は?」
『少量から。高価な清めの品として、上澄みから始めるのが無難じゃろうな』
「なるほど……」
私は、深く理解した。
現代知識は、ただ出せば勝てる無敵のカードではない。
出す順番、規模、対価、管理する人間、真似された時の広がり方、宗教的な意味づけ、政治的な影響。
そのすべてを俯瞰してコントロールできなければ、ただの事故の元なのだ。
「結局、何をやるにしても運用設計が必要なんですね……」
『そうじゃな』
「魔女の仕事って、完全に現場改善コンサルタントじゃないですか」
『よかったのう。前世の社畜経験が、こんな時代でフルに活かせて』
「全然嬉しくないです!!」
猫が最後に、少しだけ真面目な声で言った。
『それと、もう一つ』
「はい」
『お主は、森の使いという立場でありながら、十字の者たちに未来を匂わせた。今後、お主の言葉は、お主が思っている以上に勝手に重くなるぞ』
「重くなる……」
『何気ない一言が、教会の作法になり、聖なる予言になり、神学的な教義の端に引っかかるやもしれぬ』
「怖すぎる……」
『特に、「神」「救い」「死」「魂」「未来」「戦」「王」……このあたりの言葉を口にする時には、くれぐれも気をつけよ』
「禁止ワードリストがまた増えた……」
『増やすより、口を閉じる技を覚えよ』
「師匠にも全く同じことを言われました!」
『二人から言われるということは、お主にそれが本当に欠けているということじゃ』
「ぐうの音も出ない!」
猫は、少しだけ目を細めた。
『まあ、失敗しても死なぬ程度ならよい。人間は、失敗して痛い目を見て学ぶ生き物じゃからな』
「どうか、死なない程度の失敗でお願いします」
『それはお主の立ち回り次第じゃな』
「厳しい!」
夢の終わりが近づいているのか、周囲の白い霧が徐々に薄くなり始めていた。
猫が、くるりと背を向ける。
「賢者猫」
私は、最後に一つだけ尋ねた。
『なんじゃ』
「私……悪い方向に進んでますか?」
猫は、少しだけ顔を振り返らせた。
『悪い方向ではない』
私は、ホッと胸を撫で下ろした。
『ただし、派手な方向ではあるな』
「派手……」
『泥の中で病人を助け、森の作法を作り、十字の者に未来を匂わせ、ローマの教皇へ火種を飛ばした。……本人は地味な現場作業のつもりで、世界の深いところをガンガン突いておる』
「私はただ、目の前の腹下しで死ぬ子を減らしたかっただけなんですけど……」
『世界を変える始まりなど、案外そういうものじゃよ』
私は、返す言葉がなかった。
『次は、腹を満たす術を考えよ。ただし、畑は人間の腹と同じくらい繊細じゃ。素人が雑にいじれば、すぐに壊れるぞ』
「はい」
『では、起きるがよい。お主の魔女修行は、まだまだ長いぞ』
「今後は本当に、言動に気をつけます」
『それを三日守れたら、ワシが褒めてやろう』
「褒められる気が全くしない!」
『ニャー』
猫の鳴き声が霧に溶けると同時に、私の意識は急浮上した。
パチリと目を覚ますと、小屋の炉の火は消えかけており、外はまだ冬の重い暗さに包まれていた。
私は藁の寝床の上で身を起こし、両手で頭を抱えた。
「ローマ教皇案件……農業の社会実装……石鹸の試作……禁止ワードの追加……戦争チートの厳禁……」
朝から処理しなければならない情報量が多すぎる。
そこへ、寝床の向こう側から師匠の容赦ない声が飛んできた。
「朝だよ。いつまで寝ぼけてるんだい。さっさと冷たい水で、そこの根っこを洗っておきな」
「はーい……」
夢の中で、世界の運命だの、上位存在たちの暗黙の掟だの、ローマ教皇の神学的解釈だのと壮大な話を聞かされても、魔女の弟子の現実は変わらない。
まずは冷たい水で泥だらけの根っこを洗い、木の実の殻を潰すという地味な作業から、今日という一日が始まるのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!