古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第16話 石鹸は清めの品ですが、脂は食べ物です

底冷えするような空気が小屋の中を這い回る朝。

 

私は、身を切るように冷たい水桶に手を突っ込みながら、前夜の夢の中で賢者猫から突きつけられた課題を反芻していた。

 

『畑は人間の腹と同じくらい繊細じゃ。素人が雑にいじれば、すぐに壊れるぞ』

 

ごもっともである。

 

前世の知識を活かして、三圃制だの輪作だの、マメ科植物で地力を回復させるだのと言ってみたものの、冷静に考えれば農業とは巨大な「社会システム」そのものだ。

 

「畑の所有権はどうするのか。休耕地に誰の家畜を放牧させるのか。新しい種をどうやって調達し、不作だった場合の責任を誰が取るのか……」

 

考えれば考えるほど、胃が痛くなってくる。

 

いきなり村の農法を根本から変えるなど、油壺の中で松明を振り回すようなものだ。

 

農業改革チートへの道は、想像以上に険しく遠い。

 

「なら、優先すべきはやっぱり、アレか……」

 

私は、ごしごしと泥だらけの根の表面をこすりながら呟いた。

 

清めの作法の延長線上にある、強力な衛生管理ツール。

 

そう、石鹸だ。

 

手洗いに使えば、水と土だけよりも格段に汚れが落ちる。

 

病人が吐いた布や、排泄物で汚れた布を洗浄するのにも絶大な威力を発揮するはずだ。

 

だが、ここで再び現実という名の高い壁が立ちはだかる。

 

「石鹸の主原料は、獣の脂と木灰の汁。つまり灰汁。それに、煮詰めるための膨大な薪……」

 

私はため息をついた。

 

この慢性的な飢えに苦しむ村々において、獣の脂は命を繋ぐための貴重な「食料」だ。

 

そして燃料となる薪もまた、凍死を防ぐための絶対的な命綱である。

 

「そんな状況で、村の女たちに向かって『食べられる脂を使って、ただ泡になって消えるだけの清めの道具を作りましょう!』なんて言ったら……確実に石を投げられるどころか、村八分にされる」

 

石鹸は素晴らしい。

 

だが、それを生み出し維持するだけの「余力」が、今の民衆には決定的に欠けているのだ。

 

「じゃあ、諦めるか? ……いや」

 

私の前世のビジネス脳が、ここで一つの解を導き出した。

 

「下から無理なら、上から落とせばいいんだ」

 

王族、有力な長老たち、豊かな商人、そして権威ある祈り手たち。

 

彼らなら、腹を満たす以上の「余剰資産」を抱え込んでいる。

 

清潔であること、良い香りを纏うことが、自らの権力や神聖さを示すステータスになると理解させれば、彼らは必ず金を出す。

 

最初は一部の特権階級に向けた「高級な清めの品」として流通させる。

 

商売になると分かれば商人たちがこぞって参入し、技術競争が起きる。

 

そうして大量生産の道筋が立てば、いずれは価格が下がり、いつか貧しい村の女たちの手にも届くようになるはずだ。

 

「よし。これは完全に、トップダウンで推進すべきBtoB案件だわ」

 

私が冷たい水の中に両手を突っ込んだまま、ニチャァ……と邪悪な笑みを浮かべていると、背後から冷ややかな声が降ってきた。

 

「朝っぱらから、何を一人で薄気味悪くニヤついているんだい」

 

「ひゃっ! し、師匠!」

 

振り返ると、師匠魔女様が腕を組んで私を見下ろしていた。

 

「また何か、妙なことを企んでいる顔だね。今度は何を言い出すつもりだい」

 

「……実は、新しい『清めの道具』を作れないかと考えてまして」

 

私は濡れた手を拭い、師匠に向き直った。

 

「獣の余った脂と、強い灰汁を合わせて火にかけ、練り上げるんです。そうすると、布や肌にこびりついた汚れを、水に溶かして落としやすくする不思議な塊ができます」

 

師匠は、ピクリと片眉を上げた。

 

「脂を使うのかい」

 

「はい」

 

「なら、この貧しい村にはまだ早すぎるね。脂は腹に入れるものだ」

 

「ですよね! 私もそう思います」

 

私は我が意を得たりとばかりに頷いた。

 

「だから、これは王様へ持っていく案件なんです」

 

師匠は、これ以上ないほど深い溜息をついた。

 

「……お前、また王のところへ行くつもりなのかい」

 

「今回は危ない火種じゃないです! 神学的な解釈とか一切挟まない、純粋な実務提案とプロダクトの営業ですから!」

 

私が必死に弁明すると、師匠は忌々しそうに鼻を鳴らした。

 

「お前の言う『純粋な実務提案』とやらが、だいたいどこかで想定外の大火事を起こすんだよ」

 

「私、そんなに信用ないですか!?」

 

「信用どころか、前科と実績が山積みだからね」

 

 

とはいえ、師匠も実物を見ないことには判断ができない。

 

私たちはその日の午後、小屋の奥で試験的に少量の「清めの道具」を精製することにした。

 

作り方は、前世のうろ覚えの知識と、現場の感覚の擦り合わせだ。

 

かまどの灰から抽出した強い灰汁を用意し、そこに村から分けてもらった、というより師匠の威光で買い取った少量の獣の脂を合わせる。

 

嫌な匂いを消すために、香りの強い薬草をいくつか刻んで放り込む。

 

あとは、弱火で慎重に熱を加えながら、ひたすら棒で練り上げていく。

 

「……混ぜるだけとはいえ、かなり刺激の強いものだ。素手で触ると火傷のような荒れ方をするかもしれないね」

 

師匠は、鍋の中身を見つめながら、自身の魔力でその「毒気」と「薬効」のバランスを慎重に測っていた。

 

「私の知っている知識でも、灰汁が強すぎると肌を溶かしちゃうんです。師匠の魔力で、その辺りの刺激の強さをマイルドに調整できませんか?」

 

「人使いの荒い弟子だね……まあ、いい」

 

数時間の格闘の末、冷やし固められたそれは、私の前世の記憶にある「真っ白で滑らかな固形石鹸」とは似ても似つかない代物だった。

 

ゴツゴツとして粗く、色はくすんだ茶褐色。

 

獣の脂の生臭さと、灰のツンとした刺激臭がまだ微かに残っている。

 

「うーん……現代の石鹸と比べると、だいぶワイルドな仕上がりですね」

 

私が少しがっかりして呟くと、師匠が不敵に笑った。

 

「なんだい。汚れを落とす『清めの道具』の役割さえ果たせれば、見た目などどうでもいいだろう」

 

「まあ、そうですね。これを『無添加の高級ナチュラル・オーガニック・ソープ』だと言い張れば、ある層には刺さるかもしれません」

 

「おーがにっく?」

 

「後の世の、原価の安いものをなんかイイ感じの雰囲気で高く売りつけるための魔法の言葉です」

 

「……王の前の商人に、そんな胡散臭い言葉を使うんじゃないよ」

 

「分かってます。心に秘めておくだけです」

 

私たちはさっそく、薬草の汁と獣の血がこびりついた小布を使って洗浄試験を行った。

 

ただの水と揉み洗いだけでは決して落ちなかったガンコな油汚れが、茶色い塊をこすりつけて洗うと、微かな泡立ちとぬめりとともに、スルリと水の中へ溶け出していったのだ。

 

洗い上がった布は、元の生成り色を取り戻していた。

 

「なるほど……。泥や血だけではなく、見えない病の気配すらも、水へ移して流しやすくするわけか」

 

師匠は、綺麗になった布を撫でながら感心したように言った。

 

「はい。目に見える汚れだけじゃなく、布に染み付いた『病の影』も払い落とせる……という言い方なら、森の清めの作法にも合致しますよね?」

 

「悪くないね」

 

ただ、私の手の甲に少しつけて洗ってみたところ、ピリッとした刺激が走った。

 

「うわ、やっぱり素肌に直接ゴシゴシやるには、まだちょっと刺激が強いかも」

 

「強すぎるね。そのまま使えば、肌が割れてそこから逆に病が入るよ」

 

師匠の指摘を受け、私はすぐに仕様書を修正した。

 

「布や道具の洗浄にはそのまま使える。でも、人の肌に使う場合は、ごく少量を水に溶かして薄め、後で大量の水でしっかり洗い流す必要がある……という運用ルールにします」

 

師匠は、出来上がった茶色い塊を布で包みながら、私を見た。

 

「で、これをどうするつもりだい」

 

「王様へ持っていきます」

 

「村の女たちには教えないのかい」

 

「はい。今の村には高すぎます。貴重な脂をこんなものに変えたら、『食い物を粗末にするな』と怒られます。まずは、王族や有力な長老、豊かな商人、そして新しい祈り手たちに使わせます」

 

私は、頭の中で練り上げた戦略を師匠にぶつけた。

 

「彼らは、生きるためのギリギリ以上の『余剰』を持っています。王や有力者にとっては、常に身体や衣服を清潔に保つことが、自らの権威を示すステータスになります。商人はこれを珍しい高級品として高値で売り捌くでしょう。祈り手たちは、神聖な『清めの儀式』の道具として必ず飛びつきます」

 

「……ふむ」

 

「そうやって上流階級で価値が認められれば、商人たちはもっと安く、大量に作るための工夫を始めます。私が小屋で一生懸命この塊を作って無償で配り歩くより、商売の競争原理に乗せた方が、結果的に早く、広く普及するんです」

 

師匠は、しばらくの間、無言で私を見つめていた。

 

そして、フッと口元を綻ばせた。

 

「……あの泥まみれで泣きべそをかいていた小娘が、だいぶ腹黒く学んだじゃないか」

 

「社畜の経験と、師匠の厳しい魔女修行の賜物です!」

 

私が胸を張ると、師匠は外套を手に取った。

 

「なら、王の広間へ説明しに行きな」

 

「えっ、師匠は?」

 

「私もついていくに決まってるだろう。お前一人で、あの食えない王や欲深い商人たちの前に放り出すには、まだお前自身が抱えている危ない火種が多すぎるからね」

 

「だから、私そんなに信用ないですか!?」

 

「何度も言わせるな。実績が豊富すぎるんだよ」

 

 

再び空間の折り畳みを経て、私たちはエゼルベルト王の居所を訪れた。

 

広間は相変わらず、重厚な毛皮の匂いと、戦士たちの武具が触れ合う金属音、そして商人たちの活気に満ちていた。

 

一段高い玉座から私たちを見下ろしたエゼルベルト王は、私の姿を認めるなり、楽しげに口の端を歪めた。

 

「ほう。森の小さな使いは、今度は十字の者たちの寝首を掻き回して、大層騒がせたそうだな」

 

私は、心臓が凍りつくかと思った。

 

「えっ……あの西の村での出来事、もうご存知なんですか!?」

 

王は、鼻で笑った。

 

「私の治めるこの地に、私の耳が届かぬ場所があると思うのか」

 

隣で、師匠が忌々しそうに皮肉を放つ。

 

「この王は、耳だけは無駄によく働くからね」

 

「口も、剣も、相応に働くぞ」

 

「なら、その分、胃の腑も痛めて苦労するこったね」

 

顔には笑みを浮かべながら、見えない刃を交えるような二人の挨拶。

 

「王様と師匠の会話、相変わらず笑顔で殴り合ってるな……」と私がヒヤヒヤしていると、王はスッと表情を引き締め、本題を促した。

 

「それで? 今日は、何を持ち込んだのだ」

 

私は一歩前に出ると、持参した布包みを解き、あの茶色くゴツゴツとした塊を王の前の台に置いた。

 

「これは?」

 

王が怪訝な目を向ける。

 

周囲に控えていた長老や商人たちも、いぶかしげに首を傾げた。

 

「『清めの道具』です」

 

私ははっきりと答えた。

 

「薬か?」

 

「いいえ、薬ではありません。これを飲んだり塗ったりしたからといって、病が直接治るわけではありません」

 

私は、ここで絶対に「薬効」を大げさに語らないように気をつけた。

 

万能薬だと勘違いされれば、後で効果が出なかった時に詐欺師として処刑されかねない。

 

「ですが、布や手、身体にこびりついた『汚れ』を、驚くほど落としやすくします。目に見える泥や血だけでなく、病気を引き起こす見えない穢れをも払い落とすことができます。……結果として、腹痛や病の影を遠ざける強い助けになります」

 

「ほう」

 

王の目が、鋭い興味の光を帯びた。

 

「口で言うだけなら簡単だ。見せてみろ」

 

私は、用意してきた血と泥で汚れた小布と、水の入った二つの木桶を取り出した。

 

まず、片方の水桶で布を揉み洗いする。

 

水はすぐに濁るが、布の繊維に深く入り込んだ油汚れや血の染みは、黒ずんだままほとんど落ちない。

 

「これが、ただの水で洗った場合です」

 

次に、もう一つの水桶の水で布を濡らし、茶色い塊をこすりつける。

 

微かに泡が立ち、灰汁のぬめりが布全体に広がる。

 

数度揉み込んでから水の中で濯ぐと、黒ずんでいた汚れが、まるで嘘のように水の中へ溶け出していった。

 

引き上げられた布は、完璧な純白とはいかないまでも、見違えるほど綺麗になっていた。

 

広間の中から、「おお……」というどよめきが漏れた。

 

特に、壁際に控えていた商人たちの目の色が、明確に変わったのが分かった。

 

王は身を乗り出し、その布を手に取ってしげしげと眺めた。

 

「これを使えば、腹痛や病を遠ざけることができるというのだな」

 

「はい。絶対ではありませんが、確実な助けになります」

 

私は力強く頷いた。

 

「病人の看病をする者、産婦や赤子に触れる者、そして日々の食事を準備する者が、これで手や道具を清めれば、村を脅かす病の広がりを抑え込むことができます。布地のひどい汚れを落とすのにも最適です」

 

「なるほど……。だが、素肌に使うには少々強すぎるのではないか?」

 

王は、石鹸の表面を指でなぞりながら鋭く指摘した。

 

「おっしゃる通りです」

 

私は王の観察眼に感服した。

 

「そのまま肌にこすりつけると荒れてしまいます。ですから、人の身体を清める場合は、湯に少しだけ溶かして薄め、後でたっぷりの水で流す必要があります」

 

王は石鹸に鼻を近づけ、わずかに顔をしかめた。

 

「……獣の脂と、灰の匂いが残るな。あまり良い匂いとは言えん」

 

「香りづけの薬草や花を多く練り込めば、匂いは良くなります。……ただ、その分、作るのにはさらに費用と手間がかかります」

 

王は、その茶色い塊を台の上に置き、静かに私を見下ろした。

 

「ふむ。……民が日常的に使うには、高すぎるな」

 

「はい」

 

私は、ごまかすことなく即答した。

 

「貴重な獣の脂を使います。強い灰汁を作るための大量の薪、煮詰めるための容器と途方もない手間がいります。良い香りをつけようとすれば、なおさらです」

 

「脂は、民にとっては食い物だ」

 

「その通りです。ですから、飢えと寒さに苦しむ村の民衆に、これを今すぐ広げるのは不可能です。彼らにとっては、汚れを落とすことよりも、今日の腹を満たすことの方が重要ですから」

 

王は、試すような、底知れぬ深さを持った目で私を射抜いた。

 

「では、なぜ、お前はこれを私のところへ持ってきたのだ?」

 

私は、真っ直ぐに王の目を見返して答えた。

 

「王族の方々、有力な長老、豊かな商人、そして祈り手の方々になら、すぐにお使いいただけるからです」

 

広間が、シンと静まり返った。

 

「まず、生活に余裕のある方々が、自らの権威と神聖さを示す『清めの高級品』としてこれを使います。実際に病を遠ざける効果が見えれば、その価値は誰の目にも明らかになります」

 

私は、壁際で聞き耳を立てている商人たちをチラリと見た。

 

「価値が分かれば、商人が『これは高く売れる』と判断します。売れると分かれば、多くの人が作るようになり、材料の調達や製法が工夫され、少しずつ安くなっていきます」

 

「……」

 

「最初から、民衆全員に無償で配り歩くのは不可能です。でも、一番上流から始めて、商売の力に乗せれば……いずれ必ず、村の女たちの手にも届くようになります」

 

王は、無言のまま私の言葉を反芻していた。

 

広間の隅では、すでに商人たちがヒソヒソと熱を帯びた声で算段を始めている。

 

「これは、長く保存できるのか?」

 

一人の商人が、たまらずといった様子で進み出て尋ねてきた。

 

「湿気の多い場所に放置しなければ、ある程度は持ちます」

 

「良い香りの花や高価な油を混ぜれば、さらに高く売れるか?」

 

別の商人が目を輝かせる。

 

「売れると思います。王宮の奥方様や、主だった祈り手の方々には、特に喜ばれるはずです」

 

「布の汚れがそれほど落ちるなら、我々のような織物商人にとっても垂涎の品だ」

 

商人たちの熱気を見て、王はフッと笑みをこぼした。

 

「見ろ、森の使いよ。奴らの目の色が変わったぞ」

 

商人たちはハッとして慌てて平伏したが、王は機嫌良さそうに手を振った。

 

「隠さずともよい。お前たちの頭の中では、すでに銀貨がチャリンと鳴ったのだろう?」

 

王は、楽しげに私の方へ向き直った。

 

「商人は、儲かると分かれば惜しげもなく金を使う。金を使えば人を雇い、材料をかき集め、より効率的な作り方を編み出す。……お前が森の奥でちまちまと一人で作るより、よほど早く国中に広まるというわけだな」

 

「はい。その通りです」

 

王は、少しだけ思案するような表情を見せた。

 

「……この『清めの道具』の作り方は、王の秘匿とするべきか?」

 

それは、この時代の権力者なら当然至る発想だ。

 

王家が製法を独占し、特権階級への献上品としてのみ扱えば、莫大な富と権威を独占できる。

 

私が答える前に、師匠が私の背中を軽く突いた。

 

「お前が答えな」という合図だ。

 

私は一歩前に出て、はっきりと進言した。

 

「隠せば、確かに高く売れて一部の富を独占できます。……でも、広がりません」

 

「広がらないか」

 

「はい。広がらなければ、この国の腹痛や病を遠ざける効果は、ごく一部の特権階級の範囲に留まります。それでは、ただの『王家の贅沢品』で終わってしまいます」

 

私は、商人たちの方を手で示した。

 

「基本の作り方は、あまねく伝えた方が良いと思います。ただし、より良い香りをつける技術、肌に優しくする工夫、布の痛みを減らす製法、持ち運びやすくする形……そうした付加価値の部分は、商人たちの創意工夫と競争に任せればいいのです」

 

「基礎は広く民のために伝え、上等な品で商売をさせよ、か」

 

王は、深く頷き、力強く宣言した。

 

「よし。……使者を走らせ、有力な長老、商人、祈り手たちへ申し渡そう。この『清めの道具』を用いて、身体と手、そして布を清めよ、と」

 

広間が、ざわめいた。

 

王の口から、正式な申し渡しが出たのだ。

 

「特に、病人の世話をする者、赤子と産婦に触れる者、食事と薬草を扱う者は、極力これを用いるように手配せよ。……作り方も、使者や集会を通じて広く伝えさせる」

 

王の視線が、鋭く私を捉えた。

 

「ただし。民に無理に使わせるような真似はせぬ。脂を食って飢えを凌ぐべき貧しい家に、その命の糧を泡へ変えろなどという暴君の命令は出さぬ」

 

私は、心の底から安堵して深く頭を下げた。

 

「はい。そこが一番大事なところです。ありがとうございます」

 

「どれほど優れたものであろうと、その効果が目に見えて証明され、己の暮らしに余裕ができた後でなければ、民というものは決して新しいものに納得はせぬからな」

 

「ええ。おっしゃる通りです」

 

まずは使える者に使わせ、商人に作らせ、祈り手に神聖な作法として扱わせる。

 

そうして病が減るという実績が積み重なれば、いずれ必ず下へ下へと浸透していく。

 

完璧なトップダウンの社会実装プロセスだった。

 

「……森の小さな使いよ」

 

王が、低い声で私を呼んだ。

 

「はい」

 

「お前は、いつも私の元へ、実に面白いものを持ってくるな」

 

その声色に微かな警戒心を覚えた私は、すかさず防御線を張った。

 

「あの、火事を起こすものとか、国を揺るがすような危険物ではありませんからね!」

 

「……火種としては、すでにカンタベリーの方でずいぶん大きく燃え上がっていると聞くが?」

 

「そ、それは! 言葉の解釈の行き違いというか、向こうの過剰な誤解といいますか……!」

 

私がしどろもどろになっていると、背後で師匠がボソリと呟いた。

 

「誤解、かねぇ」

 

「師匠まで! そこは弟子のフォローに入るところでしょう!?」

 

そんな私たちのやり取りを、広間の少し奥、薄御簾の向こう側から静かに見つめている影があった。

 

フランク王国から輿入れしてきた、ベルタ王妃だ。

 

彼女は、付き従う司祭とともに静かに進み出ると、台の上の石鹸を見つめて、透き通るような声で尋ねた。

 

「……この清めの品は、我らが主への祈りの前の、身を清める儀式にも使えますか?」

 

王妃の突然の問いかけに、私は緊張で背筋を伸ばし、慎重に言葉を選んだ。

 

「使えると思います。ただ、先ほども申し上げました通り、素肌には刺激が強すぎる場合がありますので、薄く溶かし、清らかな水でよく流していただく必要があります」

 

王妃は、ふわりと優美な微笑みを浮かべた。

 

「……良い香りの花のエキスを練り込めば、王宮の女たちも、こぞって喜んで使うことでしょうね」

 

「はい。薬草や花の香りを加えれば、身分の高い奥方様や、神聖な祈りの場には、より自然な形で広がりやすいかと思います」

 

私は内心で舌を巻いていた。

 

「王妃様、完全にマーケティングのターゲット層と需要を理解してる……! 女性層へのアプローチと、教会という巨大なインフラへの導線を一瞬で見抜いたぞ」

 

 

王への謁見を終え、再び節点を通って小屋へ帰り着いた時。

 

私は、ドッと押し寄せてきた疲労感に耐えきれず、土間にへたり込んだ。

 

「ふーっ……死ぬほど緊張した……。でも、とりあえず『清めの道具』としての初期導入フェーズは、文句なしの完了ですね……」

 

私がぐったりしていると、外套を脱いだ師匠が珍しく素直に言った。

 

「上出来だね」

 

「えっ」

 

私は信じられないものを見る目で師匠を見上げた。

 

「本当ですか? 危ない火種、置いてきてませんか?」

 

「ああ。今回は、日々の飢えに苦しむ村に無理を押しつけなかった。脂を『食い物』として正しく評価した。商人たちの欲を上手く使った。王に理を説いて命じさせた。そして、祈り手にも使える形として落とし込んだ。……悪くない手際だよ」

 

「やったぁ!」

 

私は飛び上がって喜んだ。

 

「今回は火事にならなかった! 安全な平原を歩き切りましたよ!」

 

しかし、師匠は口の端を歪めて、残酷な宣告を下した。

 

「……どうだろうね」

 

「えっ」

 

「お前は、清めの作法を十字の連中に渡し、今度は物理的な清めの道具を、この国の王と商人、そして王妃に渡した。……火そのものは小さくとも、ずいぶんと『よく燃える場所』に、的確に火種を置きに行ったじゃないか」

 

私は青ざめた。

 

「……また、何かの比喩で大火事になります?」

 

「大火事というより、制御できない速さで広がるだろうね」

 

「そ、それは、衛生環境が改善するって意味では成功なのでは?」

 

「大成功さ」

 

師匠は目を細めた。

 

「だから、死ぬほど面倒なことになるんだよ」

 

 

夜。

 

私は、作業台の上に残された、茶色い石鹸の不格好な試作品の欠片を見つめながら、深いため息をついていた。

 

「あー……早く、もっと安く作れるようにならないかなぁ……」

 

王侯貴族や商人たちに広まるのはいい。

 

だが、最終的な目標は、あの西の村のように、理不尽な腹痛で命を落とす子供たちを救うことだ。

 

「獣の脂肪を使う限り、どうしても食料との競合になるんだよなぁ……」

 

植物油を使えればいいが、この時代、この冷涼なブリテン島で安定的に大量の油を絞れる植物など限られている。

 

貴重な木の実の油を使えば、結局は高級品のままだ。

 

魚油を使う手もあるが、強烈な生臭さをどう消すかという問題があるし、海から遠い内陸部への流通コストもかかる。

 

灰を安定的に確保する仕組みもいるし、燃料の問題もある。

 

「まずは高級品。次に中産階級への業務用品。そして最後に、一般民衆向けの安価な普及品……。このロードマップの順番を一つでも間違えたら、私の善意は、村人たちの腹の足しになるはずだった食料を奪う『悪意』に変わってしまう」

 

私は、小さな茶色の塊を指先でツンツンと突きながら、前世の愚痴をこぼした。

 

「清めの泡を一つ作るのにも、人々の腹の空き具合と、商人の財布の中身と、王様の政治と、祈り手の信仰が全部複雑に絡み合ってくるのか……。現代知識チートって、本当に面倒くさい」

 

「面倒なら、やめるかい?」

 

寝台の準備をしていた師匠が、背中越しに問いかけてきた。

 

私は、首を横に振った。

 

「やめません。あの腹痛で死にそうになっていた子が、一人でも減るなら、私はやります」

 

「……そうかい。なら、明日は少し遠出して、西の街道沿いにいる獣脂を扱う太った商人の顔と、灰を作る炭焼きの顔を覚えてきな」

 

「えっ、また外回りですか!?」

 

「当たり前だろう。商人の競争を促すなら、最初の火付け役となる卸問屋の選定はお前がやらなきゃいけないんだからね」

 

「また仕事が増えたァァァ!」

 

こうして、私が設計した「清めの作法」は、ついに石鹸という物理的な「道具」を手に入れた。

 

ただしそれは、貧しい村の子供たちの泥だらけの手へすぐ届くような、魔法の奇跡の品ではない。

 

まずはエゼルベルト王の広間で、欲深い商人の倉で、祈り手の祭壇の脇で、そして高貴な香りを纏った上等な贅沢品として。

 

このブリテン島という複雑な社会の「上澄み」から、静かに、だが確実に、その泡を広げていくことになるのである。




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