古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜 作:パラレル・ゲーマー
あの地獄のような「恐怖と監禁の季節」を、私たちはなんとか生きて抜けた。
小川に張っていた氷が薄くなり、砕け、下を流れる水音が軽やかさを増した。
岩のように凍りついていた泥道は、ぬちゃりとした元の柔らかさを取り戻し始めている。
遠くの森からは、甲高い鳥の鳴き声が聞こえるようになった。
私は、小屋の戸口から外へ一歩踏み出し、深く息を吸い込んだ。
冷たい風だが、あの冬のように皮膚を切り裂き、骨まで凍らせるような鋭さはない。
雲の切れ間から差し込む陽射しが、頬を薄く温めてくれる。
「……勝った。勝ったよ」
私は両手を握り締め、心の中で歓喜の声を上げた。
外に出ても、即死しない。
たったそれだけのことが、今の私には奇跡のように思えた。
冬に勝った。
これで少しは楽になる。
ようやく、この過酷な異世界生活にも「春」という名の救いが訪れたのだ。
しかし、その希望に満ちた幻想は、朝食の器を覗き込んだ瞬間に、音を立てて崩れ去った。
「え……」
私は、自分の小さな木の器と、母親の顔を交互に見比べた。
器の中に入っているのは、粥というのもおこがましい、数粒の麦が沈んだ白濁した水だった。
冬の終盤に飲んでいた薄い粥よりも、さらに薄い。
底の木目まで完全に透けて見えている。
母親の顔は、春の訪れを喜ぶどころか、冬の間よりもさらに険しく、落ち窪んだ目をしていた。
父親は無言のまま、その麦の沈んだ水をすすっている。
私は天井の梁を見上げた。
冬の初めに吊るされていたあの黒い干し肉の塊は、もはや影も形もなかった。
他の保存食も、豆も、木の実も、何もかもが尽き果てていた。
「春なのに……なんで食べるものがないの?」
私は思わず、前世の平和ボケした感覚で心の中で叫んだ。
現代日本における「春」のイメージといえば、満開の桜、暖かな陽気、そして新生活。
スーパーに行けば、柔らかい春キャベツや甘い新玉ねぎ、タケノコや山菜が所狭しと並び、「春の味覚フェア」なんてポップが踊っているはずだ。
だが、この寒村の春先に、そんな牧歌的なものは一切存在しなかった。
畑はまだ凍りついており、仮に種をまいたとしても、それが収穫できるのは遠い未来の話だ。
今の空腹を満たしてくれるわけではない。
冬を越えて骨と皮ばかりになった鶏は、卵を産む気力すら失っている。
我が家には、乳を出してくれる牛も山羊もいない。
母親が、空になった保存食の壺を片付けながら、吐き捨てるように呟いた。
「春まで持った。……だが、今日から食うものが地面から湧いてくるわけじゃないんだ」
私は絶望のどん底で白目を剥いた。
「春って、希望と芽吹きの季節じゃなかったの……?」
その日の昼下がり。
小屋の前の柵に寄りかかって虚無の表情を浮かべていた私の視界の端に、壊れた柵の柱の上に座る黒猫の姿が映った。
陽射しの中で見る猫は、影のようだった冬の夜の姿とは違い、艶やかな毛並みを陽光に輝かせていた。
私は即座に念話を飛ばした。
「猫! ちょっと聞いてくださいよ! 春なのに、なんで食べ物がないんですか!」
猫は欠伸を一つして、翠の瞳で私を見下ろした。
『阿呆。春とは、食べ物が魔法のように湧いてくる季節ではないわ』
「だって春ですよ? 芽吹きとか、実りとか、希望とか、そういうポジティブな単語の詰め合わせじゃないですか!」
『芽吹きは実りではない。種は今食うものではなく、未来のために土へ返すものじゃ。若芽も、人間すべての腹を膨らませるほど群生しておるわけではない。冬の蓄えは完全に尽き、次の実りはまだ遥か先。ゆえに、春先こそが一番腹が減るのじゃよ』
「春、思ったより詐欺ですね……」
私が項垂れると、猫は尻尾を揺らした。
『冬は家の中に閉じ込められて飢える季節。春は、自らの足で歩いて探す飢えじゃな。まあ、外へ出ても死ななくなっただけ、マシと思うことじゃな』
そうだ。
冬の「監禁」は終わった。
飢えていることには変わりないが、探すことは許されている。
それが、この時代の「春」の正体だった。
*
数日後。
村の女たちが総出で外へ出る日が来た。
目的はただ一つ。
食べられる若芽、木の根、残った木の実、食べられる草……とにかく、腹に入りそうなものを根こそぎ探すことだ。
母親も当然それに加わり、私もその後ろをくっついて歩くことになった。
最初は「邪魔になるから帰れ」と言われかけたが、冬の間に私が「働くならいい」という最低限の評価を勝ち取っていたことが功を奏した。
村の女の一人が、私の小さな手を見て言った。
「小さい手なら、石の隙間の細い根を折らずに抜けるかもしれないね」
別の女が、ふらつきながらも歩き続ける私を見て呟く。
「あれだけ腹が減ってるはずなのに、よく動く子だね。まあ、連れて行ってもいいだろう」
私は内心でドキリとした。
猫が言っていた「無意識の魔法による身体能力の底上げ補正」のことだ。
確かに、空腹で目は回っているし足もガクガクだが、他の小さな子供がすぐにへたり込んでしまうような場面でも、私はもう少しだけ歩くことができた。
とはいえ、それを「魔法のおかげです!」と元気よくカミングアウトしてしまえば、森のものに触れられた子だ、魔女様に見せた方がいい子だと囁かれかねない。
そうなれば、私は家の子供ではなく、森へ返すべき子として扱われるかもしれない。
私は無言で、ただ従順に母親の背中を追った。
野草の採取。
前世の私は、それを完全に舐めていた。
「タンポポって食べられるんだよね。あとはノビルとか、イラクサとか、ツクシとか? 現代知識があれば、草なんて見分け放題でしょ」
そんな浅はかな考えは、森の入り口に立った瞬間に木っ端微塵に砕け散った。
目の前に広がるのは、枯れ葉と泥に埋もれた、名も知らぬ無数の緑の点。
似たような形の葉が多すぎる。
新芽はどれも小さすぎて特徴が掴めない。
枯れた葉と若葉が複雑に絡み合っている。
根を掘り出してみても、それが食べられるものなのか、猛毒なのか、素人には全く判断がつかない。
「これ……知ってる名前と目の前の実物が、全然一致しない……」
私は青ざめた。
図鑑の知識など、実地ではクソの役にも立たない。
間違えて毒草をかじれば、この時代に胃洗浄なんて気の利いた医療はない。
普通に死ぬ。
しかし、村の女たちは違った。
彼女たちは、地面を素早く見渡しながら、躊躇なく草を分別していく。
「これは食える。こっちは腹を下す」
「これは灰を入れてしっかり煮ないと駄目だ。こっちは生でもいける」
「これは弱った赤子には絶対やるな」
「こっちは根を少し残してちぎれ。来年困る」
その解像度の高さと判断のスピードに、私は圧倒された。
彼女たちは無知な農民ではない。
文字を持たないだけで、代々受け継がれてきた口伝と、血の滲むような実体験によって、命を繋ぐための「知識」を完全にインプットしているプロフェッショナルなのだ。
「まただ……」
私は自分の傲慢さを恥じた。
現代知識があるから特別だなんて、思い上がりも甚だしい。
この人たちは、何が食べ物で、何が毒で、どうすれば来年まで命を繋げるかを、私なんかよりずっと深く理解している。
「おい、そこ。それは取るな。腹を酷く下す草だ」
ふと、私が手を伸ばしかけた草を見て、年長の女が鋭い声を上げた。
私はビクッと手を引っ込め、即座に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
ここで「でも現代の知識だと似た草が食べられるはず……」などと口答えするのは愚の骨頂だ。
私は言われた通りに手を引き、その草の特徴――葉の縁の細かいギザギザ、茎のわずかな赤み、鼻を突く青臭い匂い――を、脳内のメモリに全力で刻み込んだ。
そして、次に似たような草の群生地を見つけた時。
私はその草を的確に避け、隣に生えていた安全な若芽だけを摘み取った。
それを見ていた先ほどの女が、少しだけ感心したように頷いた。
「……一度言えば覚えるか。お前、覚えは悪くないね」
私は内心でガッツポーズをした。
「よっしゃ! 知能評価、いただきましたァ!」
顔には出さず、あくまで「素直で従順な幼女」のポーカーフェイスを貫きながら、私は次々と女たちの指示を吸収していった。
私の小さな身体と手は、この採取作業において思わぬ強みを発揮した。
大人の太い指では摘みにくい岩の隙間の若芽。
細すぎて途中で折れてしまうような木の根。
それらを、私は小さな指先で器用に掘り出すことができた。
背が低い分、地面に近い小さな変化にも気づきやすい。
「お前、小さいくせに目はいいんだね」
村の女の一人が、私の差し出した根を受け取りながら言った。
母親も、私の働きぶりを見て、何も言わないが微かに頷いていた。
「この子は、春の採り物には使える」
そう評価してくれたのが分かった。
今回の生存ポイントも、しっかり加算されているようだ。
採取を続ける中、前世の友人たちの言葉がまたしても私を助けてくれた。
『食べられる野草でもさ、弱り切った胃腸に急に大量にぶち込むと、消化不良で普通に死ぬからね。遭難直後にドカ食いして死ぬパターン、結構あるんだよ』
と語っていた医者の友人。
私は、見つけた若芽を全部生で口に放り込みたい衝動に駆られていたが、女たちが決して生食せず、持ち帰って煮ようとしているのを見て、その言葉の意味を理解した。
「食べられる=無条件で食べていい、じゃないんだ」
そして技術屋の友人。
『分類と再現性がない知識はゴミだよ。似たものを明確に区別する言語化ができて、初めて技術って呼べるんだ』
私はその言葉に従い、草を脳内で必死にタグ付けして分類し始めた。
葉が丸い、尖っている。
茎の色。
生えている場所が日陰か日向か。
匂い。
「あああ、エクセルに打ち込みたい! 写真を撮ってデータベース化したい! 経理の子が言ってた『記録のない運用は死ぬ』って言葉が身に染みる!」
紙もペンもないこの世界で、私は自分の脳みそという極めてアナログな記録媒体だけを頼りに、必死にデータを整理し続けた。
*
森の入り口から少し進んだ、古い大きな木の根元。
泉のように少し水が湧き出ているその場所の手前で、女たちの足がピタリと止まった。
そこには、まだ採られていない若芽がいくつも生えていた。
「あそこ、まだあるよ?」
私が指を差して言おうとした瞬間、隣にいた母親がガシッと私の肩を掴んで強く引いた。
母親の顔は緊張で強張り、他の女たちも一様に口を閉ざしている。
年長の女が、私を睨みつけるようにして低い声で言った。
「そこはまだ駄目だ。春の挨拶が済んでいない」
「……挨拶?」
私が首を傾げると、年長の女はさらに声をひそめた。
「あの奥には、魔女様の目がある。挨拶もなしに、勝手に恵みを採るものじゃない」
私は息を呑んだ。
魔女様。
この村に来て、初めて聞いた具体的なファンタジー用語だった。
悪魔のように忌み嫌われているわけではない。
だが、単なるおとぎ話の住人でもない。
「あの方」「森の奥の女」とも呼ばれるその存在に対する村人たちの態度は、深い敬意と、そして触れてはならないものへの「恐れ」が入り混じっていた。
私が興味津々で口を開きかけたのを察したのか、年長の女が釘を刺すように言った。
「目をつけられるのが怖いからって、挨拶を怠る方がもっと怖いんだ。……今年は、この子を連れて行こう」
女の視線が、私に向けられた。
「へっ?」
私が間抜けな声を出した。
母親が庇うように私の前に出た。
「この子はまだ……」
「この子は、冬を越えても妙に動くし、目つきが大人びてる」
女は母親を制した。
「魔女様も、この小さな手で摘んだ最初の若芽を見れば、村にまだ春の命が残っていると機嫌を良くしてくださるかもしれない」
私は内心で白目を剥いた。
「ちょっと待って! 怖い宗教行事の生贄役に、私が選ばれちゃったんですけど!?」
だが、拒否権などあるはずがない。
私は大人しく、女たちに手を引かれて森の境界へと進み出た。
春の挨拶は、拍子抜けするほど静かで、そして貧しいものだった。
古い木の根元にある、苔むした石積みの前に、女たちが持参した供物を置く。
最後の干し肉の切れ端。
麦の一つまみ。
私が直前に摘まされた、柔らかい若芽。
そして小さな器に入れた水。
男たちは遠巻きに見ているだけで、近づこうとはしない。
これは産、病、食、そして森の境界を司る、女たちだけの神聖な領域なのだ。
年長の女が、キリスト教ではない、古い土着の祈りの言葉を紡ぐ。
「春の恵みを分けてください。病を遠ざけてください。どうか、この冬を越えた子らを連れて行かないでください」
私は息を潜めて、その様子を見ていた。
その時。
森の奥から、ふっと冷たい風が吹き抜けた。
チリン、という微かな音がした。
鈴の音なのか、氷が割れる音なのか、枝が擦れ合う音なのか分からない。
供物のそばに置かれた私が摘んだ若芽が、ふわりと揺れた。
その瞬間。
私だけが、明確な「視線」を感じた。
あの黒猫の、上から見下ろすような視線とは違う。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ、森そのものが巨大な目となって、私という存在を値踏みしているような、深く静かな視線。
胸の奥で、私の中にある名状しがたい「何か」――魔力と呼ばれるものが、その視線に呼応するように、微かに震えた。
すぐに風は止み、視線も消えた。
年長の女が、振り返って私を見た。
その目には、明確な警戒の色が浮かんでいた。
「……やっぱり、この子はただ覚えが早いだけじゃないね」
母親の顔が、恐怖で強張った。
私は、自分が何か決定的に「村の枠組み」から外れてしまったような、不穏な予感に包まれた。
*
挨拶を終えた帰り道。
「挨拶は済んだ。手前の若芽なら、少しは採ってもいい」
年長の女の許可が出て、私たちは再び採取を再開した。
私は、彼女たちの手つきを必死に目で追った。
決して全部は採らない。
根を残し、若い芽だけを少しずつ間引くように採る。
それが「来年の春」を約束する唯一の方法なのだ。
ふと見ると、村の別の子供が、空腹に耐えかねたのか、食べられる若芽を見つけて根こそぎ引き抜こうとしていた。
私は慌てて小走りで近づき、その子の手を掴んだ。
「駄目。それ、全部取ると、次がなくなる」
子供は涙目で私を睨んだ。
「だって、腹が減ってるんだ!」
私も腹が減っている。
全部口に放り込みたい気持ちは痛いほど分かる。
だから、言葉に詰まった。
そこへ、年長の女が近づいてきた。
「その子の言う通りだ。残せ。全部食うな」
女が厳しい声で子供をたしなめ、そして私の方を見て少しだけ頷いた。
「……覚えていたか」
私は無言で頷き返した。
内心では「本当は全部私が食べたいです!」と血の涙を流しながら。
これでまた、私の「賢くて我慢できる子供」という評価が上がったはずだ。
その日の夕食。
私の木の器には、いつもの薄い粥の中に、今日採ってきたばかりの若芽が少しだけ浮いていた。
母親が、私の器にだけ、ほんの一枚多く若芽を入れてくれたのだ。
「母の評価、微増。報酬、若芽一枚……泣ける」
私はその若芽を慎重に口に運び、ゆっくりと噛み締めた。
強烈な青臭さと、舌が痺れるような苦味が口いっぱいに広がる。
決して美味しくはない。
だが、それは間違いなく、私が自分の手で探し出し、知識で勝ち取った「春の味」だった。
夜、藁の上で丸まりながら、私は今日一日を振り返った。
春は、私を満腹にしてくれる希望の季節ではなかった。
ただ死なないために、地面を這いずり回って探し続ける季節だった。
それでも、冬とは違う。
外に出られた。
草を覚えた。
村の女たちに少しだけ認められた。
そして。
あの、森の奥からの冷たい視線。
魔女様と呼ばれる存在。
私はまだ、知る由もなかった。
この日、森の奥から私をじっと見つめていたあの視線が、いつか私を村の外へ導くことになるのだということを。
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