古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第9話 現地ヒアリングは魔法ですか?

 十歳という節目を迎え、村から森へと引き渡された翌朝。

 

 私は、薬草のツンとした匂いが染みついた、硬い藁束の寝床で目を覚ました。

 

 初めて師匠魔女様の小屋で迎える朝だ。

 

 普通なら、差し込む朝日、森の爽やかな空気、コトコトと煮込まれるスープの良い匂い、そして師匠との静かで神秘的な朝食の時間が描写されるべきだろう。

 

 しかし、現実は圧倒的に違った。

 

「起きな。出るよ」

 

 まだ半分夢の中にいた私の耳元に、師匠の低く鋭い声が落ちてきた。

 

「……んぁ? どこへ、ですか……」

 

 寝ぼけ眼をこすりながら身を起こす私に、師匠は容赦なく告げた。

 

「西の森縁の村だよ」

 

 私は一瞬で覚醒し、藁束の上で跳ね起きた。

 

「えっ、本当に行くんですか!? 昨日のあれ、弟子をビビらせるための冗談とかじゃなかったんですか!?」

 

「病人は冗談で腹を下さないよ。さっさと支度をしな」

 

 有無を言わさぬ口調で、師匠は私の前に荷物を放り投げた。

 

 昨日、村を出る時に母親から持たされた布袋。

 

 父親が削ってくれた護身用の短い木の棒。

 

 それに加えて、師匠が夜なべして用意したらしい小さな薬草包みの数々。

 

「いいかい。この茶色い包みは、腹を激しく壊した者に少しずつ飲ませる苦い煎じ薬の元だ。こっちの乾いた手布は、熱を見るために使う。この小袋は匂いを分けるためのもの。そして、この赤い紐が巻かれた粉は、絶対に他のものと混ぜるんじゃないよ。分かったね」

 

 私はそのラインナップを見て、内心で盛大にツッコミを入れた。

 

「持ち物が完全に営業カバン! しかも中身が薬草と毒物って、どんな物騒なセールスに行くんですか!」

 

 だが、そんな抗議が通じる相手ではない。

 

 師匠は私の肩を掴み、出張先で確認すべき「ヒアリング項目」を機関銃のように叩き込み始めた。

 

「着いたらまず、誰が最初に倒れたかを聞け。何を食ったか。同じものを食った者は誰と誰だ。水はどこの水場から汲んでいるか。その上流で、獣が死んだりしていないかよく見ろ。保存食は湿ってカビていないか。腹を壊した者は熱を出しているか。便の状態はどうか、水のように下っているか、血が混じっているか、黒いか白いか。赤子はまだ泣く力があるか。看病している母親は自分も食えているか。村に新しい祈り手が来たか。王の使いが通ったか。……全部聞いてくるんだ」

 

 私は白目を剥いた。

 

「質問項目が多すぎる! そんなのいっぺんに覚えられません! 事前ヒアリングシートを紙でください!」

 

「紙なんぞ、この森のどこにあるんだい。脳みそに刻みつけな」

 

「出た、ブラック現場特有のメモ禁止・暗記強要!」

 

「お前が覚えられないなら、向こうで腹を下して死ぬ子供が増えるだけだよ。それだけのことさ」

 

 その言葉に、私の顔からサッと血の気が引いた。

 

 そうだ。

 

 これは笑い話ではない。

 

 私が「忘れた」で済ませた項目が、あの凍りつくような冬の朝に運び出されていった小さな亡骸を、また一つ増やすかもしれないのだ。

 

「……はい。全部、覚えます」

 

 私が真顔で頷くと、師匠は短く「行くよ」と言って、小屋の外へ歩き出した。

 

 *

 

 早朝の森は、薄暗く、霧が立ち込めていた。

 

 師匠は迷うことなく森の奥へ進み、やがて、枯れかけた巨大な古木と、苔むした不自然な巨石が並ぶ場所で足を止めた。

 

「いいかい。踏ん張るんだよ」

 

 師匠が石に触れた瞬間、昨日と同じように、空間が凄まじい力で「折り畳まれた」。

 

「ぐえええええええっ……!!」

 

 胃袋がねじ切れ、三半規管が絶叫を上げる。

 

 湿った土の匂いが、一瞬にして乾いた風の匂いに切り替わり、鳥の鳴き声のトーンが全く違うものにすり替わった。

 

 私は新しい土地の地面に手をつき、ゼェゼェと荒い息を吐いた。

 

 今回はなんとか吐かずに持ち堪えたが、不快感は最悪だ。

 

「ほう。少しは慣れたね」

 

 上から降ってきた声に、私は涙目で睨み返した。

 

「慣れたくありません! こんな強引な交通手段、二度と御免です!」

 

「馬鹿をお言い。帰りもあるんだからね」

 

「うそっ! 往復出張!?」

 

 絶望する私をよそに、師匠はスタスタと歩き出そうとした。

 

 向かう方向は、木々の隙間から微かに煙が見える村の方角……ではなく、さらに深い森の方だった。

 

「えっ、ちょっと待って! 師匠は一緒に村に行ってくれないんですか!?」

 

「私は北へ行く。難産の産婦が一人、危ない状態なんだ。お前は真っ直ぐ西へ下って、あの村に入りな」

 

「本当に私一人の単独出張なんですか!? 無理ですよ、私昨日まで別の村で木の実拾ってただけの素人ですよ!」

 

「単独じゃないさ。この土地の目が、お前を見ている」

 

「それ、上司が監視カメラ越しに見てるだけで現場の責任は全部こっちに丸投げするやつじゃないですか!」

 

 私の叫びを無視して、師匠は振り返った。

 

「日が傾く前に、必ずこの節点へ戻ってきな。遅れたら置いて帰るからね」

 

「新人に厳しすぎる!!」

 

 悲痛な叫びが木霊する中、師匠の姿はあっという間に霧の向こうへ消えてしまった。

 

 *

 

 森を抜け、斜面を下った先に、西の森縁の村はあった。

 

 私の育った村と似ているようで、やはり少しずつ違う。

 

 家の屋根の葺き方が異なり、畑の畝の作り方も、水場の引き方も違う。

 

 私が「完全に外から来た異邦人」であることを、肌で実感した。

 

 村の入り口に立つと、泥仕事や薪割りをしていた村人たちの視線が一斉に私に突き刺さった。

 

 十歳ほどの少女。

 

 見慣れない粗末な服。

 

 肩から下げた薬草包み。

 

 そして、森の奥の匂いを漂わせている。

 

「……森の女の使いか」

 

 誰かが低く呟いた声が聞こえ、私の背筋がピンと伸びた。

 

 ここでは、私はただの「役に立つ子供」ではない。

 

 あの恐ろしい師匠魔女様の「代理人」として見られているのだ。

 

 怖い。

 

 足が震えそうだ。

 

 でも、仕事をしなければ、あの小屋には帰れない。

 

 私は、男たちには話しかけず、まっすぐに村の女たちのいる作業場へと向かった。

 

 私の村で五年間鍛え抜かれた処世術が、ここでフル稼働する。

 

「女たちの手元をよく見る」「忙しい時間帯には邪魔をしない」「いきなり命令するのではなく、手伝いながら話を聞く」「必ず年長の女に一番最初に挨拶を通す」。

 

 これは、現代日本の営業の基本でもある。

 

「……森の奥から、来ました。腹を下して苦しんでいる子が、いると聞いて」

 

 私が年長の女に声をかけると、女は私の顔と薬草包みを交互に見比べ、重い溜息をついて顎でしゃくった。

 

「あっちの小屋だ。三人が寝込んでる。一人は母親も倒れたよ」

 

 案内された薄暗い小屋の中に入ると、強烈な酸っぱい匂いと、排泄物の腐ったような匂いが鼻を突いた。

 

 薄い藁の上に、小さな子供が三人転がっている。

 

 一人は微かに泣き声を上げているが、もう一人はぐったりと動かず、最後の一人は異常な熱を出して荒い息を繰り返していた。

 

 その傍らで、やせ細った母親が力なく倒れ伏している。

 

 症状は最悪に近い。

 

 完全な脱水症状と、何らかの強烈な食中毒か感染症だ。

 

 前世の医者の友人が言っていた言葉が蘇る。

 

『子供の下痢は本当に怖いからね。あっという間に水分が抜けて、致命的な脱水になる。でも、吐き気がある時に一気に水を飲ませると逆効果なんだよ。スプーン一杯の水を、数分おきにチビチビと飲ませるしかない』

 

 私が、師匠から持たされた苦い煎じ薬の包みを取り出そうとした、その時だった。

 

 小屋のさらに奥、暗がりの中で、見慣れない男が動いた。

 

 粗末だが、村の人間が着る麻布とは明らかに違う、清潔さを保とうと努力した痕跡のある長い衣。

 

 胸元には、木で作られた小さな十字架が下がっている。

 

 顔には深い疲労が刻まれ、衣の裾は泥だらけだ。

 

 彼は、手にした小さな木の器に水を汲み、片言の現地語で倒れた母親に語りかけていた。

 

「ミズ……ノム。スコシ、ノム……」

 

 母親は苦しそうに顔を背けてしまう。

 

 男は困惑したように眉を下げ、目を閉じて、静かに、しかし切実な声で祈りの言葉を紡ぎ始めた。

 

 私は、その言葉を聞いて、足の裏が地面に縫い付けられたように立ち尽くした。

 

 “Domine, miserere huius pueri. Si manus meae non sufficiunt, praesta manum tuam. Quaeso, ne derelinquas hanc matrem.”

 

(主よ、この子を憐れんでください。私の手が足りぬなら、あなたの手を貸してください。どうか、この母を見捨てないでください)

 

「……えっ?」

 

 私は、激しい混乱に陥った。

 

 意味が、分かる。

 

 男が口にしたのは、私が知る現代日本の言葉でも、この村の現地語でもない。

 

 間違いなく、彼方ローマから持ち込まれた「ラテン語」だ。

 

「分かる。ラテン語の意味が、脳内で自動翻訳されてる! なんで!? ……いや、よく考えたら、転生した直後から現地の言葉がペラペラ分かってたんだから、今さら言語チートに驚くのもおかしいけど!」

 

 だが、それ以上に私を驚かせたのは、その祈りの「重さ」だった。

 

 前世の、キリスト教の歴史にやたらと詳しかった友人の熱弁が脳裏をよぎる。

 

『古代や中世初期の宣教者ってさ、現代人がイメージするスーツ着た布教営業マンみたいな軽さじゃないんだよね。普通にバタバタ死ぬのよ。海を渡って、言葉も通じない、未知の風土病もある、食べ物も合わない、現地の王が気まぐれで皆殺しにするかもしれない未開の土地に突っ込んでいくんだから。狂気にも近い、本物の信仰がなきゃ絶対に無理な仕事だよ』

 

 私は、目の前の若い男をじっと見つめた。

 

 彼は疲弊し、村人から向けられる疑いの目に傷つき、そして何より、目の前の命が消えていくことに怯えていた。

 

 それでも、逃げずに泥だらけになって病人のそばに座り続けている。

 

「この人も……命懸けで、この地獄みたいな土地に来てる人なんだ」

 

 私は、警戒心を少しだけ解いた。

 

 だが、男が顔を上げ、私の姿に気づいた瞬間、最悪の「名刺交換」が始まってしまった。

 

「……誰だ?」

 

 男が片言の現地語で問う。

 

 背後からついてきた村の女が、刺々しい声で言った。

 

「森の女の使いだよ。お前さんの神様じゃ治せないから、お呼び立てしたのさ」

 

 男――十字の宣教者の顔が、一瞬にして強張った。

 

 彼にとって「森の女」とは、異教であり、古い神々と悪霊の影を引きずる土着信仰の象徴だ。

 

 彼は反射的に後ずさりし、胸の十字架を握りしめて素早く十字を切った。

 

 私も、急な敵意に反応して、父親から渡された木の棒をグッと握り締めた。

 

 お互いに、「こいつは敵かもしれない」「邪魔をする気か」と睨み合う。

 

「うぅ……っ」

 

 その一触即発の空気を破ったのは、藁の上で苦しむ子供のうめき声と、激しい嘔吐の音だった。

 

 対立などしている暇はない。

 

 私は木の棒を床に放り出し、駆け寄って子供の背中をさすった。

 

 そして、宣教者が手に持っていた水の器を指差して言った。

 

「水、一気に飲ませたら駄目。吐くから。少しずつ。本当に少しずつ」

 

 宣教者は、目を丸くした。

 

「……アナタ、知ッテイル?」

 

「少しだけ」

 

 私は端的に答えた。

 

 宣教者は、少しだけ警戒を解き、悲痛な顔で言った。

 

「ワタシハ、祈ル。水、運ブ。デモ、ナゼ、悪イカ、分カラナイ」

 

 その不器用な言葉に、私は彼への評価を改めた。

 

「この人、ただ神頼みして祈ってるだけじゃない。ちゃんと水を運び、病人の世話をする現場作業もしてるんだ」

 

 私は深く頷いた。

 

「じゃあ、私がなぜ悪いかを探す。手伝って」

 

 *

 

 そこからは、師匠から叩き込まれた「現地ヒアリング業務」の独壇場だった。

 

 村人たちは、排泄物の状態や食べ物のことなど、よそ者には話したがらなかった。

 

 だが、私は十歳の子供の顔を最大限に利用し、「師匠に怒られちゃうから、お願い、教えて」と懇願するスタイルで、女たちの口を割らせていった。

 

 森の女の報復を恐れる彼女たちは、渋々ながらも情報を吐き出した。

 

 分かってきた情報は、最悪のパズルだった。

 

 ・病人は、村の東側、同じ水場を使っている家に集中している。

 

 ・少し前、水場の上流で小さな獣が死んでいたという噂があるが、誰も片付けていない。

 

 ・腹を壊した家は、冬の終わりに掘り出した「湿った保存根」を食べている。

 

 ・病人が吐いた布を、こともあろうにその水場で洗っている者がいる。

 

 ・この十字の宣教者が村に来た時期と、腹下しが始まった時期が重なっているため、村人たちは「あの男の神が呪いをかけた」「泉の神が怒った」と疑っている。

 

「原因の候補が多すぎる! 水質汚染と、不良在庫の保存食と、公衆衛生の欠如と、宗教不信が全部一気に絡み合ってるじゃないですか! これ、新人に投げていい難易度の案件じゃないですよ!」

 

 私は頭を抱えた。

 

 まずは現場確認だ。

 

 村の子供の案内で、東側の水場へ向かう。

 

 泉ではなく、谷の細い流れを利用した水場だった。

 

 宣教者も、村人の白い目を気にしながら静かについてきた。

 

 水は一見すると澄んでいるように見えた。

 

 だが、水際に近づいた瞬間、私の「魔力の感知能力」が強烈な警報を鳴らした。

 

 生臭い腐臭。

 

 皮膚にまとわりつくような冷たいぬめり。

 

 そして、腹の底がざわつくような明確な「嫌な感じ」。

 

「……この水、そのまま飲ませたら絶対に駄目だ」

 

 私が確信を持って呟くと、隣にいた宣教者が私の顔を見て何かを察したように、ラテン語で小さく呟いた。

 

 “Ut putabam, aqua est causa.”

 

(やはり、水が原因か)

 

 私はビクッと反応しかけたが、必死に無表情を貫いた。

 

「ラテン語が分かるってバレたら絶対に面倒なことになる。黙秘、黙秘だ」

 

 だが、同時に私は彼に感心していた。

 

 村人たちが「泉の神の怒り」だの「十字の呪い」だのと騒いでいる中、彼は冷静に「水という物理的な要因」を疑っていたのだ。

 

 次に、保存食の確認だ。

 

 病人の家から、冬の残りの根菜や乾燥の甘い草束を引っ張り出させる。

 

 私は一つ一つ手に取り、重さを確認し、匂いを嗅いだ。

 

 湿気を含んでカビ臭いもの、中が黒ずんでいるものを、容赦なく「捨てる山」へと弾き飛ばしていく。

 

「何をするんだ! それは春まで持たせる大事な食い物だぞ!」

 

 家の主が怒鳴り込んできたが、私は一歩も引かなかった。

 

「これを混ぜたら、無事な食べ物まで全部腐る! 腹を壊して死にたいの!?」

 

 前世の経理友達が憑依したかのような私の剣幕に、男は言葉を詰まらせた。

 

「森の女の使い」という肩書きの威光も手伝い、なんとか強引に仕分けを完了させた。

 

 問題は、弾いた「捨てる山」の処理だ。

 

 カビや腐敗菌にまみれたそれを触れば、手が汚れる。

 

 私はどうやってこれを離れた場所に捨てさせようかと考えたが、その前に動いた者がいた。

 

 宣教者だった。

 

 彼は、顔をしかめ、嫌悪感に苛まれながらも、その腐った根の山を自分の長い衣の裾に包み込み、村から離れた穴へと運んでいったのだ。

 

「……ちゃんと、誰もやりたがらない汚れ仕事もできるんだ、この人」

 

 私は、彼への信頼度をもう一段階引き上げた。

 

 *

 

 小屋に戻ると、応急処置の開始だ。

 

 私は、ただの水を飲ませることを厳禁とし、貴重な薪を割いて水をしっかり煮沸させた。

 

 そこに師匠から預かった苦い煎じ薬の粉をほんの少しだけ溶かし、木の匙で、本当に数滴ずつ、子供の口に含ませていく。

 

 吐いたら休ませ、また数滴。

 

 根気勝負だ。

 

 母親には、硬い繊維を完全に避けた、煮汁のうわずみだけを少しずつ飲ませるように指示した。

 

 宣教者は、嫌な顔一つせず器を支え、暴れる子供の体を優しく押さえ、そして休むことなく祈りの言葉を唱え続けていた。

 

「一度に、飲ませないで。少しずつ」

 

「……スコシズツ、スコシズツ」

 

 私の指示を、宣教者が片言で復唱する。

 

 薄暗い小屋の中で、森の女の使いである十歳の少女と、ローマから来た十字の祈り手が、額を突き合わせるようにして一人の病人の看病に当たっている。

 

 様子を見にきた村人たちは、その奇妙すぎる絵面に言葉を失っていた。

 

 夕方が近づく頃。

 

 宣教者が、看病の疲労からか、壁に寄りかかって目を閉じ、誰に聞かせるでもなくラテン語で静かに呟いた。

 

 “Domine, ego nondum linguam huius terrae novi, nec iram et timorem eorum solvere possum.”

 

(主よ、私はこの地の言葉をまだ知らず、彼らの怒りも恐れも解くことができません)

 

 “Quaenam est haec puella? Utrum sit ex silva, an auxilium a te missum?”

 

(この少女は何者ですか。森の者か、それともあなたが遣わした助けですか)

 

 私は、その呟きを完璧に聞き取ってしまい、胃痛がマッハで加速した。

 

「やめて! そんな重たい祈りの対象にしないで! 私は神の使いでも聖女でもない、ただの過労気味の転生社畜です!」

 

 だが、その呟きからは、言葉の壁と宗教的偏見に阻まれ、必死に命を救おうとしながらも孤独に苦しむ彼の本音が痛いほど伝わってきた。

 

「この人たちは、世界を支配しに来た悪の秘密結社なんかじゃない。少なくとも、この人は今、目の前の子供を死なせたくなくて、泥にまみれて必死に足掻いている、一人の人間なんだ」

 

 日が傾き始めた頃、ようやく目に見える変化が現れた。

 

 一番重症だった子供の吐き気が少し収まり、小さく水を飲み込めるようになったのだ。

 

 ぐったりしていた母親も、うっすらと目を開け、自力で器を持とうとした。

 

 小屋の外で様子を窺っていた村人たちの間に、どよめきが走った。

 

「森の使いが水を分けたぞ」

 

「十字の男も、逃げずに手伝っていた」

 

「子供の顔色が、少し戻った!」

 

 私は立ち上がり、村の女たちを睨みつけた。

 

「まだ治ってない! 水を煮ないで飲ませたら駄目。腐った根を食べるな。病人が吐いた布を、水場で絶対に洗うな!」

 

 私が叫ぶと、宣教者もたどたどしい現地語でそれに続いた。

 

「水、ニル! スコシズツ! 汚レ、離ス!」

 

 あまりにも発音がひどくて、私は思わず吹き出しそうになった。

 

「発音、ひどい」

 

 私が小さく笑うと、宣教者も自分の言葉の拙さに気づいたのか、疲れた顔で苦笑いを返した。

 

 宗教的な対立の壁を越え、現場の最前線で働く者同士の、ほんのわずかな連帯感が生まれた瞬間だった。

 

 帰り際。

 

 村の境界で、宣教者が私を呼び止めた。

 

「アナタ、森ノ女ノ、弟子?」

 

 私は少し考えてから答えた。

 

「使い。まだ弟子、少しだけ」

 

 男は、自らの胸に手を当てて言った。

 

「私ハ、マルクス」

 

 私は自分の村での名前を名乗ろうか迷ったが、やめておいた。

 

 マルクスは、不思議そうな目で私を見下ろした。

 

「アナタ、怖クナイ? 私ノ神。十字。アナタノ森ハ、嫌ウト思ッタ」

 

 私は、彼の泥だらけの衣と、水を運びすぎたせいでふやけた彼の手を見た。

 

「病人の前で、汚い水を運んでくれる人は、少しも怖くない」

 

 マルクスは、その答えに少しだけ目を丸くし、そして、憑き物が落ちたように穏やかに笑った。

 

「アナタモ、怖クナイ。スコシ」

 

 お互いに相手を「ヤバい宗教的危険物」扱いしていたが、現場での泥臭い共同作業を通じて、相互評価が微増したようだ。

 

「じゃあ、帰る。……水、忘れないで」

 

 私が背を向けて歩き出そうとした時、ふと、ある考えが頭をよぎった。

 

 ラテン語を理解していることは、絶対に隠すべきだ。

 

 師匠にも言われていないし、面倒なことに巻き込まれるのは目に見えている。

 

 でも。

 

 彼は、言葉も通じないこの最果ての村で、罵られ、疑われながらも、逃げずに汚れ仕事を引き受け、一人の子供の命を繋ごうとした。

 

 宗教的な勢力としては警戒すべき相手かもしれない。

 

 だが、現場で共に汗を流した「同僚」としては、どうしても敬意を示したかった。

 

 私は立ち止まり、振り返らずに、小声で短く呟いた。

 

「Gratias tibi ago.」

 

(あなたに感謝します)

 

 背後で、マルクスが息を呑み、完全に凍りつく気配がした。

 

 私はそれ以上は何も言わず、足早に森の中へと姿を消した。

 

 *

 

 指定された節点へ戻り、空間の折り畳みを経て魔女様の小屋へ帰還した私は、土間に突っ伏してしばらく動けなかった。

 

「げぇぇ……胃が……」

 

 北の産婦の件を終えてすでに戻っていた師匠が、呆れたように私を見下ろした。

 

「遅いね。報告しな」

 

 私は這いつくばったまま、息も絶え絶えに報告を上げた。

 

「子供三人、母親一人がダウン。水場が汚染されてます、上流に死んだ獣の痕跡。保存根は湿って腐敗。しかも水場で病人の布を洗うという公衆衛生のガン詰め状態。あと、十字の祈り手が一人いました。名前はマルクス。……悪い人ではなさそうです」

 

 師匠の目が、スッと細められた。

 

「十字の男は、何をしていた」

 

「祈ってました」

 

 師匠が鼻で笑おうとしたのを、私は遮った。

 

「でも、水も運んでました。腐った根も捨てに行き、汚れた布も素手で触ってました。村人に疑われて罵られても、逃げずに病人を一人で看病してました」

 

 師匠は、ピタリと動きを止めて黙り込んだ。

 

「……だから、悪い人では、たぶんないです」

 

 しばらくの沈黙の後。

 

 師匠は薬草を刻む手を動かしながら、ポツリと言った。

 

「……悪い者ばかりなら、楽なんだよ」

 

「え?」

 

「悪い祈り手なら、村を煽って追い払えば済む。だが、善い祈り手は、真面目に泥を被って人を助ける。助けられた者は、その祈りの言葉を信じるようになる。……そうやって、古い泉も、この森の神も、少しずつ彼らの神の名へと変えられていくのさ」

 

 私は、返す言葉が見つからなかった。

 

「あいつらは、新しい『火』を持ってくる。寒い者は、それに群がって喜ぶさ。だが、その火は、古い森の在り方そのものを根こそぎ焼いちまう。……だから、善人ほど厄介なんだよ」

 

 キリスト教という巨大なうねりが、この小さな島を飲み込もうとしている。

 

 師匠は、単なる敵意ではなく、古い世界が書き換えられていくことへの静かな諦念と危機感を抱いていたのだ。

 

 *

 

(同じ頃、西の村にて)

 

 粗末な獣脂の灯りの下で、マルクスは震える手で羊皮紙の切れ端に羽ペンを走らせていた。

 

 カンタベリーの修道院へ戻る者に託すための、短い報告書だ。

 

『森の女の使いと呼ばれる、十歳ほどの少女が現れました。

 

 彼女は驚くべき正確さで病人の水と食物の毒を見分け、確かな手当で子を助けました。村人たちは彼女を恐れながらも深く信頼しています。

 

 そして……彼女は、私の祈りの言葉を聞いていたのかもしれません。

 

 去り際、彼女は私に向かって、明確なラテン語で「Gratias tibi ago」と感謝を述べました。

 

 彼女が悪霊に仕える魔女の雛なのか、それとも、主の憐れみがこの地に遣わした助け手なのか、私には判断がつきません――』

 

 *

 

 その夜。

 

 私は、薬草の匂いが染み付いた藁の寝床で、完全に白目を剥きながら天井を見上げていた。

 

 魔女の弟子の初出張は、腹下しの原因を突き止める現地聞き取り調査と、宗教対立の最前線でのクレーム対応と、ラテン語でのうっかり名刺交換で終わった。

 

 どう考えても、木の実拾いしかしたことのない新人に任せる案件では、絶対になかった。

 

「魔女の仕事って……思ってたのの百倍ハードル高い……」

 

 私は深い溜息をつき、明日の筋肉痛と胃痛を予感しながら、泥のような眠りへと落ちていった。

 




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