それは、今日までだった。
「せんせ、今日もよろしくお願いします」
ユウカがシャーレの扉を開けて入ってきた。
この挨拶、朝かと思う?残念、夕方でした。
遠くでカラスが鳴いている。「アホー、アホー」と。誰のことだ。
夕焼け空が、いつも以上に赤い。たぶん私を嘲笑っている。
「せんせ、聞いているんですか先生?」
「あっはぁ!なんだった!?」
驚きのあまり、手元の紙を握りつぶしてしまった。皺だらけのそれは、今の私の心境そのものだった。
気配に気づかなかったのは疲労のせい――なんて言い訳、自分でも信じていない。
疲れている?その台詞は一週間前の自分に言ってやってくれ。
「もう、しっかりしてください。総決算の書類整理が終わらないって言って困っていたの先生じゃないですか」
モモッターで愚痴った覚えはある。だが、迎えに来てくれとは書いていない。
乙女心とやらは、こうも行間を読むものらしい。今度から愚痴は墓まで持っていくとしよう。
「それで、なにを見ているんですか」
今日も残業....と言うところだが、今日の私は違った。
——よりによって、ユウカの前で。
私は今、婚姻届を眺めていた。生徒と混浴より人生最大の失態を更新した瞬間だった。
「あ!い、いや、なにも?」
我ながら見え透いた言い訳と共に、紙を隠そうとした。
「あ、またそうやって....!」
日頃の行いというのは、こういう時に限って牙を剥く。手元の紙は、当然のように仕事の書類だと誤解された。
おい、過去の自分!お前に言っているんだぞ!
「ちょ、ユウカ!これは本当にダメなんだって!」
「いいからっ!一つずつ片づけますよ....っ!」
しかも、なにが不味いって、長年の習慣というのは恐ろしいもので、書類感覚で自分の名前を夫の欄に記入してしまっていたことだ。
決裁印を押す要領で、人生を決定づけるところだった。我ながら、仕事熱心にもほどがある。
腕力で乙女に勝てたためしがない。安全装置の外れた爆弾は、そのままユウカの手に渡った。
「あ、えっと....」
「えっとなになに?婚姻とどk.....」
あぁ、終わった。社会的に。たぶん教師としても。
まだ、巻き返しは効く――そう信じたい。
「先生、結婚を考えているんですか!?」
「まぁ、うん、そうだね」
「....お相手は?」
「....まだ決まってない」
「....はい?」
「形から入るタイプなんだ」
「それ、結婚の話で一番言っちゃいけないやつです」
傷つくなぁ....。まるで、私が結婚できない人種だとでも言いたげじゃないか。
心当たりしかないけど。
「その....私とか....ダメですか?」
何言ってんだこいつ。
ダメだ、今のは聞かなかったことにしよう。聞こえてしまったら、社会的に死ぬのは私の方だ。
「ダメだよ、生徒とはそう言う関係にはなれない」
「その、私が卒業した時とか....」
「それも難しい。私には時間がないから」
「時間?先生もしかして.....」
ユウカの目が、みるみる潤んでいく。
なんだ、その目は。やめろ、変な勘違いをするな。
「....寿命が近いんですか!?」
ちがぁぁぁぁぁぁう!
病気でもなければ、余命宣告もされていない!老人に進化しちゃうって!
ただ単純に、行動力がアラフォーに追いついていないだけなんだって!
「違うんだよユウカ!若いうちは分からないだろうけど、年齢を気にする年に自分はなっただけだから....」
「....そう....ですか」
ユウカが胸をなで下ろした。
「びっくりさせないでくださいよ、もう」
勝手にびっくりしたのはそっちじゃんか―そう言いたかったが、今日何度目かになる言葉を飲み込んだ。
「じゃあ、これ、前のやつです」
ユウカが机の書類をまとめて鞄からドンっと机に出した。
危機感のかけらもなく、私はただ「助かるなぁ」としか思っていなかった。
平和だ。今思えば、嵐の前の静けさという言葉がこれほど似合う瞬間も無かった。
その後は何事もなかったかのように、書類作業に没頭した。
ただ、今だからこそ言える。この時の自分の呑気さを、全力で張り倒してやりたい。
もっと注意深くやっていれば....。
——————
ミレニアムのセミナーの一室。
ユウカは、スタンドライトの明かりを灯しながら深夜の先生の業務を持ち帰っていた。
「えっと....これもよし。次....」
おでこには冷えピタを張りながら、黙々と鞄から書類を出していた。
「えっと次は、婚姻届k....」
眠そうなユウカの目が覚めた。
「あ!しまった!」
ユウカが、慌てて鞄に戻そうとした手がなぜか止まった。
これは、先生が間違えて紛れ込ませたものだろう。今すぐ突き返すべきだ。
頭ではそう分かっているのに、指先が紙から離れない。
妻の欄が目に入る。
空欄。
なんと、空欄である。
「もし....もし決まってないなら....私の名前をここに書いたら....その時点で....」
手元にあるボールペンを、チラチラと見つめた。
「いやいやいや、流石の私でもこんなこと....」
首を振り、紙をしまおうとするが。
「いや、先生は私が管理してあげないと今日みたいに散財していますし、お相手として適任だし.....」
何かしらの理由付けで自分自身を正当化しようと一人で躍起になってた。
「だから....ここに書いても....問題ないわよね」
ペンを持ち、書こうとした瞬間——
「ユウカちゃん?」
背後から突然声がかかる。
「わぁ!急に驚かさないでよノア....」
「うふふ、とても楽しそうだったのでつい」
「まったくもう....」
「ところで、先ほどからずっと思っていましたが....手元にあるものは一体なんですか?」
——————
ない!ない!ない!どこにもない!
デスクの中も机の上も鞄の中も....!
あの婚姻届け、まさかとは思うけどユウカ、持ち帰りで持って帰った....?
ないとは思っていながらも、パンツの中も確認しようとしたとき——
モモイからメッセージが飛んできた。
こんな時にと思いながら、モモイからの連絡を見ると....。
その予想は、合っていそうだった。
モモイからは、ミレニアム全体で紛争に近い状態なっているからすぐに来てとの....。
夜にミレニアムに行くなんて、コユキに誘われてパジャマパーティに参加したくらいしかないのに、婚姻届けごときで騒ぎになるかと疑問に思いながら、ヘリの手配をした。
————
「ユウカが何か大事な書類を持っているから捕まえて欲しいって言われてはいるけど....」
ミレニアムでは、ノアが先導して居残っていたできる限りの戦力を使って、ユウカを捕らえようと躍起になっていた。
「なんとしてでも捕まえてください!捕まえないと大変な書類を持っているんです!」
「なんでそんな書類をユウカが持っているんですかね....」
夜だと言うのにミレニアムの校舎全体が銃の閃光で明るくなっていた。
「どうしよう....ノアに完全に勘違いされたちゃってる....」
「先生から任された」とか、適当なこと言わなきゃよかったと後悔しても遅い。
手元の婚姻届をまじまじと見ながらどうこの状況を打開するか考えていた。
「キャッ‼︎」
至近距離で爆発が起き、ユウカが体勢を崩す。
「いたぞ!あそこだ!」
カリンがユウカを捉えた。
「...ッ!しつこいわね!」
ユウカも応戦するが、多勢に無勢、すぐに他の生徒が応援に駆けつけてしまった。
「キヴォトスが混乱に陥るくらい重要な書類なら巻き込んでもいいよな!?」
ネルが徹底的に抗戦する。
いつも破壊しまくってセミナーの予算を圧迫する存在なのに、今この瞬間だけは頼もしいと思ってしまう自分が嫌だ。
「エンジニア部は左側から、C&Cはそのまま追い詰めてください」
ノアが監視カメラを見ながらユウカを一歩ずつ詰めていった。
「どこか、どこか隠せそうな場所は....」
走っている中、目についたのはゲーム開発部の部室だった。
「....」
背に腹は変えられない。
普段、馬鹿なことに付き合わされていたが、この時くらいは頼らざるを得なかった。
そう決心し、部室の扉をノックなしに開けた。
この騒動のせいで、ユアはより一層ロッカーに閉じこもっており、モモイとミドリはレールガンを構えているアリスに体を寄せ合っていた。
「....突然で悪いんだけど、この紙を預かってくれない?」
「え?なんで急に?」
「いいから!」
くしゃくしゃになっても、丁寧に折り畳まれた紙をモモイに渡した。
「いい?ぜっっったいにその内容を見ちゃダメよ?」
「え?だ、だから急にそんな」
「いいから!」
ユウカはそれだけ言い残し、ゲーム開発部の部室から出た。
——————
「一体、何がどうなってんだか....」
ヘリに乗ってミレニアムに近づいていた。
窓の外には、爆発で照らされる校舎と、対物ライフルの弾でごっそり抉れた壁が見えた。
婚姻届一枚で、ここまでやるか。あの時の光輪大祭よりよっぽど気合が入っている。
「にしても....私の婚姻届ごときでミレニアムが大混乱に陥るなんて....」
ヘリポートに降り立ち、急いで向かおうとするが。
「う、うわぁ、建物全体が揺れている!」
婚姻届一枚にしては、震度がおかしい。気象庁もびっくりの規模だ。
なんとか非常階段の扉に手を掛けたが——開かない。
引いても押しても、うんともすんとも言わない。
まさか、こんな時に限って立て付けが律儀な仕事をするとは。
——いや待て、立て付けの問題ではない。建物そのものが傾いている!
扉が悪いんじゃない、ミレニアムが悪い。
——————
「くそ、セミナーの会計のくせに足がはぇ!」
カリンと共に追っていたネルが足を止める。
「諦めないで下さい!」
「んなぁこたぁ分かってる!カリン行くぞ」
しかし、ネルが呼びかけるがうつむいたままカリンは動かなかった。
「カリン?どうした?行くぞ!」
「....いえ、少し話が」
「なんだよこんな時に」
ネルが足を止めてカリンの話を聞く。
「私、見てしまったんです....ユウカさんの持っている紙....」
「んぁ?なんて書いてあったんだ?」
「....先生の名前が記入されている....婚姻届です」
「はぁ⁉︎」
ネルが顔を赤くした。
「ちょ、ま、おいノア!お前、あんだけ言っておいて私たちにに追っかけさせていたのが婚姻届ってか⁉︎」
「....そうです」
「そんなもんなら撤収だ撤収!人様の幸福を側から潰すようなことはしちゃいけないだろ!」
ネルが部室に戻ろうとした。
「いえ、それが....」
「なんだよ、まだなにかあるのかよ」
と、ノアが話そうとした時。
「御意。それであれば全力で取り返します」
真顔だが、トキがとんでもないことを考えているであろう顔をしながら、ユウカを追いかけていった。
「あ、おい!トキ!」
トキが向かった直後、銃声が再び鳴り響いていた。
「止めてきます」
カリンがトキを止めに向かった。
ネルは呆れながら、ノアの話の続きを聞こうとしていた。
「....んで、ノア続きは?」
「....はい、ユウカちゃん婚姻届を書く時に何かしらの理由づけをして書こうとしていたんですよ」
「それで?」
「普通に書く時はそんな考え込まないのでおかしいと思いまして....」
「なるほどな....そいつはかなり怪しいな....」
「誰かいないか....あ!ネル!」
「先生⁉︎」
「ちょうどよかった。先生、ユウカと結婚するのか?」
「いや、違う!っていうかユウカはやっぱり婚姻届を持っていったんだね!?」
「....んってことはだ」
「....ですね」
ネルとノアがミレニアムで起きたことを先生に説明した。
——————
「くっ流石にキツイわね....」
ミレニアムのほとんどを相手にしながら戦うのはいくら計算が得意でも無理がある。
トキが真顔でただただアビ・エスエフを身にまとい、本気でユウカを叩きにいっている。
「このままじゃ、ってうわぁ!」
突然投げ込まれた閃光弾に煙幕。
銃弾やこの場に乗じて乗り込んできた不良生徒と、ミレニアムのエントランスは更に混沌を極めていた。
前が見えない。
「トキ!落ち着いて!」
先生の声。
場が混沌と化している中、ユウカは逃げるタイミングを逃さない。
「今ね!」
ユウカがこの場に乗じて、物陰から外の玄関口へと向かった。
このまま逃げ切れる——そう思ったのも束の間。
——バサッ!
「う、うわぁ!」
煙幕で見えない中、走っているユウカに捕獲用の網が飛んできた。
縄に引っかかり、身動きが取れなくなった。
「ふっふっふ....こんなこともあろうかと、自動センサー式目覚まし時計を開発しておいて正解でした」
コトリがカウンターから姿を出し、縄にかかっているユウカに近寄る。
「さぁ、書類を渡すのです」
「違うって!ただの誤解」
「ユウカ!どこにいる⁉︎」
煙幕でよく見えないが、通路の奥から先生とネルが一緒に走ってきた。
「せ、先生!?どうしてここに!?」
「そこだな!」
声がする方に先生が向かおうとする。
「ちょ、おい!落ち着きやがれ!」
「トキ....落ち着いて!」
ネルとカリンとでトキを封じ込めている。
「ユウカ。婚姻届持っていった?」
「あははは.....バレちゃいました?」
——————
「——とういうことで....」
「無くした!?」
ケイから説明を受けて、壁も、私の魂も、両方ともすっかり抜けてしまっていた。
私は、穴の空いたゲーム開発部の部室で、同じくらい穴の空いた表情のまま座り込んだ。
ユウカが婚姻届を渡した後のゲーム開発部の話を聞くと——。
——事の発端は、モモイが「絶対に見るな」と言われた紙を、見てしまったらしい。
いつも意地悪されているからと言うことで見てしまおうとの魂胆だったが、私の名字が入っている婚姻届けを見て流石のモモイでも不味いと思ったのか、きちんと仕舞おうとした....。
だが、そこに運悪く、ちょうど砲撃の衝撃で部室の窓が割れ、突風が吹き込んだ....。
そして、紙は、窓の外へと飛んでいった——とのこと。
誰も悪気はなかった。それだけは、痛いほど伝わってきた。
まだ誰も被害は出ていない。婚姻届的な意味で、私の将来設計が死んだだけだ。
「えっと....確認なんですけど、ユウカちゃんの"先生に任された"は言い訳で、ただ単に間違えて持って帰ってきたと....」
「そう....だよ....」
依然として私は立ち上がらず、まるで灰になったかのようにその場に座ってしまっていた。
心なしか、風が吹けば飛んでいきそうな気さえした。
まだ、効力として残っている紙は、今頃どこを飛んでいるのだろうか。
ゲヘナだけはやめてくれ。あそこの生徒に拾われたら、戦争どころか抗争になる。
トリニティも勘弁してほしい。お祈りのネタにされるくらいなら、いっそ燃えてくれた方がマシだ。
願わくば、誰にも拾われず、適当な草むらにでも落ちていてほしい。
そう、心の底から祈った。
――この祈りすら、後にもっと最悪な形で裏切られるとは、この時の私は知る由もなかった。