もしもアインが図書館に現れたなら? 作:ムール貝
原作:Library Of Ruina
タグ:R-15 残酷な描写 本編後 ネタバレ 既プレイ推奨 原作改変 独自解釈 独自設定 曇らせ シリアス アイン生存IF AI利用
そんなある日、図書館の内部で正体不明の光が集まり、一人の男を形作る。
現れたのは、L社の創設者――アイン。
だが、光から戻った彼は目を覚まさず、呼吸だけを続けていた。
かつてアンジェラを生み出し、長い苦痛の中へ置き去りにした男。
セフィラたちを光の種計画へ巻き込み、最後には自らも光へ消えた男。
その帰還に、図書館の者たちはそれぞれ異なる感情を抱く。
憎しみ。
戸惑い。
信仰。
そして、まだ言葉にならない思い。
これは、計画の終わった世界へ戻されたアインと、彼に残された者たちが、過去ともう一度向き合う物語。
あと魔法中年さんもいます。
続くかどうかは分かりません。
図書館に静けさが戻ってから、ローランは、沈黙にも幾つかの種類があることを知った。
誰かの死を待つ沈黙。
互いの腹を探り合い、一言の裏に隠された意図を読み取ろうとする沈黙。
そして今、目の前にあるのは、言葉を選び続けなくてもよくなった者同士の沈黙だった。
外郭へ移された図書館の一室。
以前の姿を完全に取り戻したとは言い難いものの、崩れていた内部は少しずつ安定を取り戻していた。壁際には書架が並び、長机の上には数冊の本が積まれている。
窓の向こうに見えるのは、都市のように整理された光景ではない。
遠くまで続く荒涼とした大地と、その中に点在する、正体の知れない構造物。空気には薄く濁った色が混ざり、遠景は揺らぐように霞んでいた。
ローランはそこへ背を向け、手元のカップを傾けた。
冷めかけた珈琲を一口すすった途端、眉間に深い皺が寄る。
「……やっぱり不味いな」
向かい側で本を読んでいたアンジェラは、頁から目を離さないまま答えた。
「さっきも同じことを言っていたわね」
「時間が経てば、少しは味が落ち着くかと思ってな」
「冷めただけでしょう」
「それもそうだ」
ローランはそう答えながら、懲りずにもう一口飲んだ。
予想していた通り、味に変化はない。
むしろ温度を失った分だけ、苦みと妙な酸味が際立っているように思えた。
アンジェラの指が、頁の端で止まる。
「不味いと分かっているものを、どうして何度も口にするの?」
「捨てるのも勿体ないだろ」
「図書館の中で、一杯の珈琲を惜しむ必要があるとは思えないけれど」
「そういう問題じゃないんだよ。自分で淹れたものは、最後まで責任を持たないとな」
アンジェラがゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳がローランの顔を捉え、それから彼の手にあるカップへ移る。
「責任という言葉を使えば、どんな失敗でも立派な行為に聞こえると思っているの?」
「手厳しいな」
「あなた自身が不味いと評価したものよ。私の意見ではないわ」
「まだ改善の余地はあるかもしれない」
「同じカップの中身が、飲むたびに改善されるとは思えないけれど」
もっともな指摘だった。
ローランは反論する代わりに肩をすくめ、カップの中に残された黒い液体を覗き込んだ。
「しかし、こうして飲んでるうちに慣れてくるかもしれないだろ」
「味覚の方を諦めさせるつもりなのね」
「順応と言ってくれ」
「退化の間違いじゃない?」
ローランは小さく笑った。
アンジェラはすでに本へ視線を戻している。
声は相変わらず平坦で、言葉にも遠慮はない。
けれど、それが拒絶ではないことを、ローランはもう知っていた。
以前ならば、彼女の言葉の一つ一つに別の意味を探していただろう。
敵意か。
侮蔑か。
それとも、何かを隠すための牽制か。
今は違う。
アンジェラはアンジェラなりに、この取り留めのない時間を受け入れている。
だからローランは、彼女の口元がほんの僅かに緩んだことにも触れなかった。
口にすれば、きっと否定する。
あるいは、こちらの見間違いだと切り捨てるだろう。
その程度のことまで、今では分かるようになっていた。
♢
そのときだった。
俺の手の中で、珈琲の黒い水面が揺れた。
最初は、自分の指が動いたのかと思った。
けれど、カップを持つ手には力を入れていない。机も椅子も、足元の床さえ微動だにしていなかった。
それでも水面には小さな波紋が生まれ、何度も縁へ打ち寄せている。
さっきまで笑っていた気分が、音もなく引いていった。
俺はカップを机へ置いた。
向かい側では、アンジェラも本から顔を上げていた。
ほんの少し前まで、口元に残っていた柔らかさは消えている。金色の瞳が室内を巡り、何かの位置を探るようにゆっくりと動いていた。
「何か分かるか?」
「いいえ」
短い返事だった。
あまりにも短すぎた。
分からないなら分からないなりに、情報を集め、可能性を並べ、順番に切り捨てていく。それが俺の知っているアンジェラだ。
その彼女が、ただ「分からない」と答えた。
胸の奥に、薄い棘が刺さったような感覚があった。
「図書館の内部で、何かが動いている」
「何か?」
「光に似ている。けれど、私の知っている動きではないわ」
アンジェラの視線が、俺たちから数歩離れた床へ止まる。
俺もそちらを見た。
何もない。
床も壁も、ついさっきまでと変わらない。
それなのに、背中の皮膚を冷たい指で撫でられたような、不快な感覚だけが残っている。
「お前がやってるわけじゃないんだな?」
「ええ。少なくとも、私の意思で起きていることじゃない」
返事とほとんど同時に、壁際から乾いた音がした。
書架に残された一冊の本が、小刻みに震えている。
風なんて吹いていない。
誰かが触れたわけでもない。
それでも背表紙は何度も棚へぶつかり、静かな部屋に、やけに耳障りな音を響かせていた。
一度。
二度。
三度。
俺は無意識に歯を噛みしめていた。
音が止まった次の瞬間、室内の明かりが弱まる。
天井を見上げる。
照明が切れたわけじゃない。
図書館を満たしていた白い輝きそのものが、部屋の隅から失われていく。書架の隙間や机の足元にあった淡い光までが、アンジェラの見つめる床へ吸い寄せられていた。
黒い手袋に覆われた右手を握り込む。
いつでも武器を引き出せるように。
何が来てもいい。
そう思ったはずなのに、胸の内側には、形の分からない不安が居座っていた。
怪物なら斬ればいい。
襲ってくる敵なら、倒せばいい。
だが、目の前で起きていることには、敵意らしいものすら感じられない。
それがかえって気味が悪かった。
「招待状は?」
「出していないわ」
「……なら、前と同じじゃないってことか」
「ええ。招待の導きは、もう終わっているもの」
声は落ち着いていた。
だが、その落ち着きはいつものものとは違う。
静かというより、ひどく硬い。
張り詰めた糸が、かろうじて形を保っているような声だった。
「図書館の力が勝手に動いてるってことか?」
「まだ分からない」
アンジェラは一拍置いた。
「ただ、この現象は私の意思に従っていない」
その言葉を聞いた瞬間、腹の底に冷たいものが落ちた。
図書館はアンジェラのE.G.Oだ。
ただの建物じゃない。
彼女の精神と意識が形を得たものだ。
その中で、彼女の意思に従わないものが動いている。
それがどれほど異常なのか、俺にだって分かる。
俺は椅子から立ち、半歩前へ出た。
アンジェラと異変の間に、自分の身体を置ける位置へ。
彼女が気づいたかどうかは分からない。
気づいたところで、何も言わないだろう。
それでも構わなかった。
床の上に、小さな光の粒が浮かび始める。
初めは、舞い上がった埃が光を反射しているだけにも見えた。
だが、粒は消えなかった。
一つ。
また一つ。
増え続けた光は、やがて白い渦となって一点へ集まり始める。
俺は喉の奥で息を殺した。
右手に力を込める。
その気になれば、次の瞬間には武器を取り出せる。
けれど、まだ動けない。
何が現れるのか分からない以上、下手に仕掛ければ、逆にアンジェラを巻き込むかもしれなかった。
床を這っていた光が、ゆっくりと上へ伸びていく。
白い靄の中に、人の輪郭が生まれた。
最初に見えたのは、力なく垂れた右手だった。
曖昧だった指先へ肌の色が宿り、手首から腕へと形が続いていく。
肩。
俯いた頭。
黒い髪。
閉ざされた瞼。
血の気の薄い、痩せた男の顔。
俺に見覚えはなかった。
図書館へ招かれてきた客の中にも、こんな男はいなかったはずだ。
だが、隣のアンジェラは違った。
横目で彼女を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
アンジェラは動いていなかった。
瞬きすら忘れたように、男の顔を見つめている。
それまで未知の現象を探っていた瞳から、冷静な分析の色が消えていた。
見たことのない顔だった。
怒っているわけでもない。
恐れているようにも見えない。
けれど、平静ではなかった。
俺が知っているどんなアンジェラとも違っていた。
「アンジェラ?」
返事はない。
その事実が、異変そのものよりも恐ろしく感じられた。
光は胸元から腰へ流れ、男の全身を形作っていく。
黒い衣服が身体を包み、その上へ白い衣が重なった。
白衣だった。
男は光の中で立っている。
いや。
立っているんじゃない。
立たされている。
腕はだらりと垂れ、頭も俯いたまま。自分の意志で姿勢を保っているようには、とても見えなかった。
「おい」
呼びかける。
返事はない。
嫌な予感が背筋を上った。
男を支えていた光が薄れていく。
次の瞬間、その身体が前へ傾いた。
膝が折れる。
「っ――」
考えるより先に、身体が動いた。
床を蹴り、倒れ込む男の肩と背へ腕を回す。
頭が床へぶつかる寸前で、どうにか受け止めた。
ずしりとした重みが腕に掛かる。
幻じゃない。
触れられる。
白衣の下には肉体らしい感触があり、僅かな熱さえ伝わってきた。
あまりにも普通の人間の重さだった。
それが、逆に気味が悪かった。
俺は男をゆっくりと床へ寝かせる。
白衣が音もなく広がった。
「聞こえるか?」
肩を叩く。
反応はない。
首筋へ指を当てる。
脈は弱い。
だが、確かにある。
鼻先へ手を近づければ、浅い呼吸も感じられた。
「生きてはいるみたいだな……」
口にした自分の声が、妙に遠く聞こえた。
目立った外傷はない。
出血もない。
白衣にも、争ったような跡は見当たらない。
ただ眠っているようにしか見えない。
けれど、眠りにしては深すぎた。
「おい。聞こえてるか?」
少し強く肩を揺する。
反応はない。
瞼は閉ざされたまま。
指先一つ動かなかった。
脈もある。
呼吸もしている。
それでも、そこに人がいるようには思えなかった。
身体だけがここへ落とされて、肝心の意識は別の場所へ取り残されている。
そんなふうに見えた。
俺は背後へ声を掛けた。
「アンジェラ」
返事はない。
「こいつを調べられるか?」
沈黙。
その沈黙が、嫌だった。
さっきまでの、穏やかな沈黙とは違う。
相手の言葉を待てる沈黙じゃない。
何かが壊れる前の、張り詰めた静けさだった。
「アンジェラ?」
振り返る。
彼女は、さっきと同じ場所に立っていた。
一歩も動いていない。
金色の瞳は、床に横たわる男へ向けられている。
表情はない。
けれど、いつもの無表情じゃない。
いつもの彼女なら、顔に出さなくても分かる。
苛立っている。
呆れている。
考えている。
聞き流している。
それくらいなら、もう見分けられる。
今は何も分からなかった。
あまりに多くのものが、その目の奥へ押し込められている。
そんなふうに見えた。
怒り。
恐れ。
嫌悪。
未練。
それとも、俺には想像もできない別の何か。
どれか一つなのかもしれない。
全部なのかもしれない。
分からない。
ただ、冷静じゃない。
それだけは間違いなかった。
身体の脇へ下ろした右手。
その指先が、僅かに震えている。
機械の身体に、寒さなんて関係ない。
なら、あの震えは何だ。
俺は男へ目を戻した。
見知らぬ顔。
痩せた身体。
黒い服。
白衣。
どこにでもいるようには見えない。
だが、都市の中でなら、もっと異様な人間なんていくらでもいる。
それでも、この男は違う。
存在しているだけで、アンジェラから言葉を奪った。
それが、何よりも異常だった。
「……知ってるのか?」
問いかける。
アンジェラの唇が、僅かに開いた。
だが、声は出ない。
俺は待った。
急かす気にはなれなかった。
下手な冗談も、慰めも、今は邪魔になる。
だから、黙って待つしかなかった。
長い沈黙の後。
アンジェラの唇が、もう一度動いた。
「……アイン」
小さな声だった。
今にも消えてしまいそうなほど、細い声。
けれど、その名前は、ひどく重く部屋へ落ちた。
アイン。
俺は頭の中で、その名を繰り返した。
初めて聞く名前じゃない。
アンジェラや司書たちの過去を辿れば、必ずその中心へ現れる名前。
L社の創設者。
光の種計画を進めた男。
アンジェラを造った男。
そして、彼女を果ての見えない時間へ縛りつけた男。
俺の腕の中で、何の抵抗もできずに眠っている、この男が。
あのアイン。
胸の奥に、鈍い怒りが湧いた。
顔も知らなかった。
声も知らなかった。
それでも、この男が何をしたのかは知っている。
アンジェラがどれほど長い時間を、どんな思いで過ごしたのかも。
少なくとも、その一端は知っている。
なのに。
目の前の男は、ひどく弱々しかった。
憎むには無防備すぎて。
責めるには何も語らず。
ただ、浅い呼吸を繰り返している。
その姿が、妙に腹立たしかった。
勝手に始めて。
勝手に消えて。
今度は何も言わず、こんな場所へ戻ってきたのか。
拳に力が入る。
だが、殴る気にはなれなかった。
眠っている相手を殴ったところで、何の答えも返ってこない。
それに。
俺が今見るべきなのは、こいつじゃない。
アンジェラだ。
彼女は、まだ男から目を離せずにいた。
アンジェラの声に応じたように、男の右手が僅かに動く。
見間違いかと思うほど、小さな動きだった。
直後、室内を満たしていた光が一度だけ強く明滅した。
俺は反射的に身構えた。
アンジェラと男の間へ割って入れるよう、足へ力を込める。
だが、それ以上は何も起きなかった。
光はすぐに元の明るさへ戻る。
書架の本も沈黙している。
床には、一人の男が横たわっていた。
その男から目を離せないアンジェラがいた。
そして俺は、ついさっきまで確かにあった穏やかな時間が、もう戻らないことを悟っていた。