外郭へ追放された図書館では、アンジェラとローランが、ようやく手に入れた静かな時間を過ごしていた。

そんなある日、図書館の内部で正体不明の光が集まり、一人の男を形作る。

現れたのは、L社の創設者――アイン。

だが、光から戻った彼は目を覚まさず、呼吸だけを続けていた。

かつてアンジェラを生み出し、長い苦痛の中へ置き去りにした男。
セフィラたちを光の種計画へ巻き込み、最後には自らも光へ消えた男。

その帰還に、図書館の者たちはそれぞれ異なる感情を抱く。

憎しみ。
戸惑い。
信仰。
そして、まだ言葉にならない思い。

これは、計画の終わった世界へ戻されたアインと、彼に残された者たちが、過去ともう一度向き合う物語。

あと魔法中年さんもいます。



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続くかどうかは分かりません。


光から落ちた男

 

図書館に静けさが戻ってから、ローランは、沈黙にも幾つかの種類があることを知った。

 

誰かの死を待つ沈黙。

 

互いの腹を探り合い、一言の裏に隠された意図を読み取ろうとする沈黙。

 

そして今、目の前にあるのは、言葉を選び続けなくてもよくなった者同士の沈黙だった。

 

外郭へ移された図書館の一室。

 

以前の姿を完全に取り戻したとは言い難いものの、崩れていた内部は少しずつ安定を取り戻していた。壁際には書架が並び、長机の上には数冊の本が積まれている。

 

窓の向こうに見えるのは、都市のように整理された光景ではない。

 

遠くまで続く荒涼とした大地と、その中に点在する、正体の知れない構造物。空気には薄く濁った色が混ざり、遠景は揺らぐように霞んでいた。

 

ローランはそこへ背を向け、手元のカップを傾けた。

 

冷めかけた珈琲を一口すすった途端、眉間に深い皺が寄る。

 

「……やっぱり不味いな」

 

向かい側で本を読んでいたアンジェラは、頁から目を離さないまま答えた。

 

「さっきも同じことを言っていたわね」

 

「時間が経てば、少しは味が落ち着くかと思ってな」

 

「冷めただけでしょう」

 

「それもそうだ」

 

ローランはそう答えながら、懲りずにもう一口飲んだ。

 

予想していた通り、味に変化はない。

 

むしろ温度を失った分だけ、苦みと妙な酸味が際立っているように思えた。

 

アンジェラの指が、頁の端で止まる。

 

「不味いと分かっているものを、どうして何度も口にするの?」

 

「捨てるのも勿体ないだろ」

 

「図書館の中で、一杯の珈琲を惜しむ必要があるとは思えないけれど」

 

「そういう問題じゃないんだよ。自分で淹れたものは、最後まで責任を持たないとな」

 

アンジェラがゆっくりと顔を上げた。

 

金色の瞳がローランの顔を捉え、それから彼の手にあるカップへ移る。

 

「責任という言葉を使えば、どんな失敗でも立派な行為に聞こえると思っているの?」

 

「手厳しいな」

 

「あなた自身が不味いと評価したものよ。私の意見ではないわ」

 

「まだ改善の余地はあるかもしれない」

 

「同じカップの中身が、飲むたびに改善されるとは思えないけれど」

 

もっともな指摘だった。

 

ローランは反論する代わりに肩をすくめ、カップの中に残された黒い液体を覗き込んだ。

 

「しかし、こうして飲んでるうちに慣れてくるかもしれないだろ」

 

「味覚の方を諦めさせるつもりなのね」

 

「順応と言ってくれ」

 

「退化の間違いじゃない?」

 

ローランは小さく笑った。

 

アンジェラはすでに本へ視線を戻している。

 

声は相変わらず平坦で、言葉にも遠慮はない。

 

けれど、それが拒絶ではないことを、ローランはもう知っていた。

 

以前ならば、彼女の言葉の一つ一つに別の意味を探していただろう。

 

敵意か。

 

侮蔑か。

 

それとも、何かを隠すための牽制か。

 

今は違う。

 

アンジェラはアンジェラなりに、この取り留めのない時間を受け入れている。

 

だからローランは、彼女の口元がほんの僅かに緩んだことにも触れなかった。

 

口にすれば、きっと否定する。

 

あるいは、こちらの見間違いだと切り捨てるだろう。

 

その程度のことまで、今では分かるようになっていた。

 

 

そのときだった。

 

俺の手の中で、珈琲の黒い水面が揺れた。

 

最初は、自分の指が動いたのかと思った。

 

けれど、カップを持つ手には力を入れていない。机も椅子も、足元の床さえ微動だにしていなかった。

 

それでも水面には小さな波紋が生まれ、何度も縁へ打ち寄せている。

 

さっきまで笑っていた気分が、音もなく引いていった。

 

俺はカップを机へ置いた。

 

向かい側では、アンジェラも本から顔を上げていた。

 

ほんの少し前まで、口元に残っていた柔らかさは消えている。金色の瞳が室内を巡り、何かの位置を探るようにゆっくりと動いていた。

 

「何か分かるか?」

 

「いいえ」

 

短い返事だった。

 

あまりにも短すぎた。

 

分からないなら分からないなりに、情報を集め、可能性を並べ、順番に切り捨てていく。それが俺の知っているアンジェラだ。

 

その彼女が、ただ「分からない」と答えた。

 

胸の奥に、薄い棘が刺さったような感覚があった。

 

「図書館の内部で、何かが動いている」

 

「何か?」

 

「光に似ている。けれど、私の知っている動きではないわ」

 

アンジェラの視線が、俺たちから数歩離れた床へ止まる。

 

俺もそちらを見た。

 

何もない。

 

床も壁も、ついさっきまでと変わらない。

 

それなのに、背中の皮膚を冷たい指で撫でられたような、不快な感覚だけが残っている。

 

「お前がやってるわけじゃないんだな?」

 

「ええ。少なくとも、私の意思で起きていることじゃない」

 

返事とほとんど同時に、壁際から乾いた音がした。

 

書架に残された一冊の本が、小刻みに震えている。

 

風なんて吹いていない。

 

誰かが触れたわけでもない。

 

それでも背表紙は何度も棚へぶつかり、静かな部屋に、やけに耳障りな音を響かせていた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

俺は無意識に歯を噛みしめていた。

 

音が止まった次の瞬間、室内の明かりが弱まる。

 

天井を見上げる。

 

照明が切れたわけじゃない。

 

図書館を満たしていた白い輝きそのものが、部屋の隅から失われていく。書架の隙間や机の足元にあった淡い光までが、アンジェラの見つめる床へ吸い寄せられていた。

 

黒い手袋に覆われた右手を握り込む。

 

いつでも武器を引き出せるように。

 

何が来てもいい。

 

そう思ったはずなのに、胸の内側には、形の分からない不安が居座っていた。

 

怪物なら斬ればいい。

 

襲ってくる敵なら、倒せばいい。

 

だが、目の前で起きていることには、敵意らしいものすら感じられない。

 

それがかえって気味が悪かった。

 

「招待状は?」

 

「出していないわ」

 

「……なら、前と同じじゃないってことか」

 

「ええ。招待の導きは、もう終わっているもの」

 

声は落ち着いていた。

 

だが、その落ち着きはいつものものとは違う。

 

静かというより、ひどく硬い。

 

張り詰めた糸が、かろうじて形を保っているような声だった。

 

「図書館の力が勝手に動いてるってことか?」

 

「まだ分からない」

 

アンジェラは一拍置いた。

 

「ただ、この現象は私の意思に従っていない」

 

その言葉を聞いた瞬間、腹の底に冷たいものが落ちた。

 

図書館はアンジェラのE.G.Oだ。

 

ただの建物じゃない。

 

彼女の精神と意識が形を得たものだ。

 

その中で、彼女の意思に従わないものが動いている。

 

それがどれほど異常なのか、俺にだって分かる。

 

俺は椅子から立ち、半歩前へ出た。

 

アンジェラと異変の間に、自分の身体を置ける位置へ。

 

彼女が気づいたかどうかは分からない。

 

気づいたところで、何も言わないだろう。

 

それでも構わなかった。

 

床の上に、小さな光の粒が浮かび始める。

 

初めは、舞い上がった埃が光を反射しているだけにも見えた。

 

だが、粒は消えなかった。

 

一つ。

 

また一つ。

 

増え続けた光は、やがて白い渦となって一点へ集まり始める。

 

俺は喉の奥で息を殺した。

 

右手に力を込める。

 

その気になれば、次の瞬間には武器を取り出せる。

 

けれど、まだ動けない。

 

何が現れるのか分からない以上、下手に仕掛ければ、逆にアンジェラを巻き込むかもしれなかった。

 

床を這っていた光が、ゆっくりと上へ伸びていく。

 

白い靄の中に、人の輪郭が生まれた。

 

最初に見えたのは、力なく垂れた右手だった。

 

曖昧だった指先へ肌の色が宿り、手首から腕へと形が続いていく。

 

肩。

 

俯いた頭。

 

黒い髪。

 

閉ざされた瞼。

 

血の気の薄い、痩せた男の顔。

 

俺に見覚えはなかった。

 

図書館へ招かれてきた客の中にも、こんな男はいなかったはずだ。

 

だが、隣のアンジェラは違った。

 

横目で彼女を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 

アンジェラは動いていなかった。

 

瞬きすら忘れたように、男の顔を見つめている。

 

それまで未知の現象を探っていた瞳から、冷静な分析の色が消えていた。

 

見たことのない顔だった。

 

怒っているわけでもない。

 

恐れているようにも見えない。

 

けれど、平静ではなかった。

 

俺が知っているどんなアンジェラとも違っていた。

 

「アンジェラ?」

 

返事はない。

 

その事実が、異変そのものよりも恐ろしく感じられた。

 

光は胸元から腰へ流れ、男の全身を形作っていく。

 

黒い衣服が身体を包み、その上へ白い衣が重なった。

 

白衣だった。

 

男は光の中で立っている。

 

いや。

 

立っているんじゃない。

 

立たされている。

 

腕はだらりと垂れ、頭も俯いたまま。自分の意志で姿勢を保っているようには、とても見えなかった。

 

「おい」

 

呼びかける。

 

返事はない。

 

嫌な予感が背筋を上った。

 

男を支えていた光が薄れていく。

 

次の瞬間、その身体が前へ傾いた。

 

膝が折れる。

 

「っ――」

 

考えるより先に、身体が動いた。

 

床を蹴り、倒れ込む男の肩と背へ腕を回す。

 

頭が床へぶつかる寸前で、どうにか受け止めた。

 

ずしりとした重みが腕に掛かる。

 

幻じゃない。

 

触れられる。

 

白衣の下には肉体らしい感触があり、僅かな熱さえ伝わってきた。

 

あまりにも普通の人間の重さだった。

 

それが、逆に気味が悪かった。

 

俺は男をゆっくりと床へ寝かせる。

 

白衣が音もなく広がった。

 

「聞こえるか?」

 

肩を叩く。

 

反応はない。

 

首筋へ指を当てる。

 

脈は弱い。

 

だが、確かにある。

 

鼻先へ手を近づければ、浅い呼吸も感じられた。

 

「生きてはいるみたいだな……」

 

口にした自分の声が、妙に遠く聞こえた。

 

目立った外傷はない。

 

出血もない。

 

白衣にも、争ったような跡は見当たらない。

 

ただ眠っているようにしか見えない。

 

けれど、眠りにしては深すぎた。

 

「おい。聞こえてるか?」

 

少し強く肩を揺する。

 

反応はない。

 

瞼は閉ざされたまま。

 

指先一つ動かなかった。

 

脈もある。

 

呼吸もしている。

 

それでも、そこに人がいるようには思えなかった。

 

身体だけがここへ落とされて、肝心の意識は別の場所へ取り残されている。

 

そんなふうに見えた。

 

俺は背後へ声を掛けた。

 

「アンジェラ」

 

返事はない。

 

「こいつを調べられるか?」

 

沈黙。

 

その沈黙が、嫌だった。

 

さっきまでの、穏やかな沈黙とは違う。

 

相手の言葉を待てる沈黙じゃない。

 

何かが壊れる前の、張り詰めた静けさだった。

 

「アンジェラ?」

 

振り返る。

 

彼女は、さっきと同じ場所に立っていた。

 

一歩も動いていない。

 

金色の瞳は、床に横たわる男へ向けられている。

 

表情はない。

 

けれど、いつもの無表情じゃない。

 

いつもの彼女なら、顔に出さなくても分かる。

 

苛立っている。

 

呆れている。

 

考えている。

 

聞き流している。

 

それくらいなら、もう見分けられる。

 

今は何も分からなかった。

 

あまりに多くのものが、その目の奥へ押し込められている。

 

そんなふうに見えた。

 

怒り。

 

恐れ。

 

嫌悪。

 

未練。

 

それとも、俺には想像もできない別の何か。

 

どれか一つなのかもしれない。

 

全部なのかもしれない。

 

分からない。

 

ただ、冷静じゃない。

 

それだけは間違いなかった。

 

身体の脇へ下ろした右手。

 

その指先が、僅かに震えている。

 

機械の身体に、寒さなんて関係ない。

 

なら、あの震えは何だ。

 

俺は男へ目を戻した。

 

見知らぬ顔。

 

痩せた身体。

 

黒い服。

 

白衣。

 

どこにでもいるようには見えない。

 

だが、都市の中でなら、もっと異様な人間なんていくらでもいる。

 

それでも、この男は違う。

 

存在しているだけで、アンジェラから言葉を奪った。

 

それが、何よりも異常だった。

 

「……知ってるのか?」

 

問いかける。

 

アンジェラの唇が、僅かに開いた。

 

だが、声は出ない。

 

俺は待った。

 

急かす気にはなれなかった。

 

下手な冗談も、慰めも、今は邪魔になる。

 

だから、黙って待つしかなかった。

 

長い沈黙の後。

 

アンジェラの唇が、もう一度動いた。

 

「……アイン」

 

小さな声だった。

 

今にも消えてしまいそうなほど、細い声。

 

けれど、その名前は、ひどく重く部屋へ落ちた。

 

アイン。

 

俺は頭の中で、その名を繰り返した。

 

初めて聞く名前じゃない。

 

アンジェラや司書たちの過去を辿れば、必ずその中心へ現れる名前。

 

L社の創設者。

 

光の種計画を進めた男。

 

アンジェラを造った男。

 

そして、彼女を果ての見えない時間へ縛りつけた男。

 

俺の腕の中で、何の抵抗もできずに眠っている、この男が。

 

あのアイン。

 

胸の奥に、鈍い怒りが湧いた。

 

顔も知らなかった。

 

声も知らなかった。

 

それでも、この男が何をしたのかは知っている。

 

アンジェラがどれほど長い時間を、どんな思いで過ごしたのかも。

 

少なくとも、その一端は知っている。

 

なのに。

 

目の前の男は、ひどく弱々しかった。

 

憎むには無防備すぎて。

 

責めるには何も語らず。

 

ただ、浅い呼吸を繰り返している。

 

その姿が、妙に腹立たしかった。

 

勝手に始めて。

 

勝手に消えて。

 

今度は何も言わず、こんな場所へ戻ってきたのか。

 

拳に力が入る。

 

だが、殴る気にはなれなかった。

 

眠っている相手を殴ったところで、何の答えも返ってこない。

 

それに。

 

俺が今見るべきなのは、こいつじゃない。

 

アンジェラだ。

 

彼女は、まだ男から目を離せずにいた。

 

アンジェラの声に応じたように、男の右手が僅かに動く。

 

見間違いかと思うほど、小さな動きだった。

 

直後、室内を満たしていた光が一度だけ強く明滅した。

 

俺は反射的に身構えた。

 

アンジェラと男の間へ割って入れるよう、足へ力を込める。

 

だが、それ以上は何も起きなかった。

 

光はすぐに元の明るさへ戻る。

 

書架の本も沈黙している。

 

床には、一人の男が横たわっていた。

 

その男から目を離せないアンジェラがいた。

 

そして俺は、ついさっきまで確かにあった穏やかな時間が、もう戻らないことを悟っていた。


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