もしもアインが図書館に現れたなら?   作:ムール貝

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呼吸する過去

 

目を覚ます気配のない男を、いつまでも床へ寝かせておくわけにはいかなかった。

 

俺はアインと呼ばれた男の背と膝へ腕を回し、その身体を抱え上げた。成人した男として不自然なほど軽いわけではない。それでも、白衣の下にある身体は痩せており、腕に伝わる重みは見た目以上に頼りなかった。

 

胸は浅く上下している。首元へ指を当てなくとも、呼吸していることだけは分かる。

 

光の中から現れたという事実さえ除けば、ひどく普通の人間に見えた。その普通さが、かえって目の前の出来事から現実味を奪っている。

 

「どこへ運ぶ?」

 

俺が尋ねても、アンジェラはすぐには答えなかった。

 

彼女は、男が出現した場所を見つめていた。床には焦げ跡も、光の残滓も、何かが形成された痕跡すら残っていない。まるで最初からこの男だけが室内に存在し、俺たちが今になって気づいたかのようだった。

 

「アンジェラ」

 

もう一度名前を呼ぶと、彼女は僅かに目を伏せた後、ようやくこちらへ顔を向けた。

 

「空いている部屋へ運びましょう。ほかの階から離れている場所がいいわ」

 

「隔離するってことか?」

 

「正体も目的も分からないものを、皆の前に置いておく必要はないでしょう」

 

声には普段の硬さが戻っていた。

 

だが、本当に冷静さを取り戻したのか、崩れそうなものを無理に押し込めただけなのかまでは分からない。

 

俺は余計なことを言わず、扉へ向かった。

 

男の首が力なく傾き、黒い髪が頬へかかった。腕の中で何の抵抗も見せず、眠ったまま運ばれていく姿は、俺が想像していた「アイン」という人物像とはあまりにもかけ離れている。

 

顔も声も知らなかった。

 

それでも、名前だけは知っていた。

 

アンジェラが進んで語ったことは多くない。けれど、司書たちの記憶や、彼女自身がこれまで零してきた言葉をつなぎ合わせれば、アインが何をした男なのかは嫌でも見えてくる。

 

アンジェラを造り、彼女へ途方もない時間を与え、その果てに自らは光へ消えた男。司書たちの過去を辿れば、どの道を選んでも、最後にはこの名前へ行き着く。

 

俺が知っているのは、彼らから聞いた断片だけだ。それでも、こいつが残したものがどれほど多くの人間を縛り、どれほど深い傷を残したのか、その一端くらいは理解しているつもりだった。

 

そんな男が今、何も語らず俺の腕の中にいる。

 

弱々しい呼吸を繰り返しながら。

 

「何を考えているの?」

 

後ろからアンジェラの声がした。

 

「顔に出てたか?」

 

「少しね」

 

「困ったな。最近は隠すのが上手くなったと思ってたんだが」

 

「以前より分かりやすくなっただけじゃないかしら」

 

「そいつは成長ってことでいいのか?」

 

「好きに解釈すればいいわ」

 

いつものやり取りに近いはずだった。

 

けれど、そこに普段の軽さはなかった。俺もアンジェラも、それ以上言葉を続けられないまま廊下を進んだ。

 

足音が長い廊下へ乾いて響く。

 

以前なら、図書館の静けさそのものを不気味に感じていたかもしれない。今ではもう、それも馴染みのあるものになっていた。誰かに監視されているような沈黙ではなく、何も起きていない時間をそのまま受け入れられる静けさだ。

 

今はそこへ、もう一人分の呼吸が混ざっている。

 

俺の腕の中から聞こえる浅い息が一度響くたびに、終わったはずの過去が、現在へ少しずつ染み出してくるようだった。

 

やがてアンジェラが、一つの扉の前で足を止めた。

 

「ここにしましょう」

 

扉の向こうは簡素な部屋だった。寝台と小さな机、椅子が一脚。壁際には空の書架が置かれている。誰かを迎えるための部屋というより、必要な形だけを揃えた仮の空間に近い。

 

俺は寝台へ近づき、アインの身体をゆっくりと横たえた。

 

白衣が皺にならないよう端を整えかけ、途中で手を止める。

 

こいつへ気を遣う必要があるのか。

 

そう考えた。

 

だが、襟元が乱れたままなのも妙に落ち着かない。結局、俺は白衣の端を伸ばし、首元を少し整えた。

 

「ずいぶん丁寧に扱うのね」

 

入口に立ったまま、アンジェラが言った。

 

「もう少し雑に扱った方がよかったか?」

 

「そうしろと言った覚えはないわ」

 

「なら、これでいいだろ」

 

アンジェラは答えず、寝台へ近づいた。

 

男の胸は今も浅く上下している。頬は痩せ、目元には薄い影が落ちていた。生気に乏しく見えるが、死人の顔ではない。呼吸も脈もあり、血の通う人間としての反応は保たれている。

 

「調べられそうか?」

 

「試しているわ」

 

「何か分かったか?」

 

「まだ何も分からない」

 

即答だった。

 

俺が横顔を見ると、アンジェラはアインから目を離さないまま続けた。

 

「図書館の記録に、この身体へ対応する情報がないの。客として招かれた記録も、本として保存された情報も、復元された痕跡も見当たらないわ」

 

「こいつは本になった客じゃないんだろ。だったら記録がなくても不思議じゃないんじゃないか?」

 

「問題は記録がないことだけじゃないわ」

 

アンジェラが右手を上げる。

 

指先へ淡い光が集まり、その光がアインの胸元へ降りた。だが、身体へ吸い込まれることも、押し返されることもない。輪郭の上で不安定に揺れた後、行き場を失った霧のように消えてしまった。

 

アンジェラの眉が僅かに寄る。

 

「図書館の力が、彼を一人の人間として捉えられないの」

 

「見たところは普通の人間だがな。脈もあるし、呼吸もしてる。体温だってある」

 

「外見と身体機能だけなら、人間に見えるでしょうね」

 

「なら、何が足りない?」

 

アンジェラは少し間を置いた。

 

「欠けているものがある。ここに存在しているものだけでは、一人の人間として完結していないのかもしれないわ」

 

その答えを聞き、俺は寝台の男へ視線を戻した。

 

身体だけがここへ来た。

 

意識は別の場所へ残された。

 

先ほどから俺が感じていた印象と、よく似ている。

 

「つまり、中身がないってことか?」

 

「空っぽというわけじゃないわ」

 

アンジェラはすぐに否定した。

 

思った以上に強い声だった。

 

彼女自身もそれに気づいたらしく、一度口を閉ざす。僅かな間を置き、今度は先ほどよりも抑えた声で続けた。

 

「完全な空白なら、名前を呼ばれたことに反応するとは考えにくいでしょう」

 

「さっき、指が動いたことか」

 

「ええ」

 

「偶然って可能性は?」

 

「その可能性もあるわ」

 

言葉の上では、アンジェラは冷静だった。

 

だが、その答えに本人が納得しているようには見えない。俺にも、あの動きをただの偶然だと言い切ることはできなかった。

 

名前を呼ばれた直後に指が動き、それに合わせるように図書館の光まで揺らいだ。

 

偶然にしては出来すぎている。

 

「本物だと思うか?」

 

口にした途端、部屋の空気がさらに重くなった。

 

アンジェラは答えない。

 

聞くべきではなかったかもしれない。

 

けれど、このまま曖昧なものを寝台へ置き、何も決めずに見張り続けるわけにもいかなかった。

 

「顔は同じなんだろ?」

 

「ええ」

 

「声は確認できない。記憶も分からない。図書館にも情報がない」

 

「そうね」

 

「だったら、アインの姿を真似た別の何かって可能性もある」

 

「分かっているわ」

 

冷たい声だった。

 

俺へ向けた怒りではない。もっと内側、自分自身へ突きつけるような冷たさだった。

 

アンジェラは眠る男を見つめている。その視線は鋭いのに、敵を見るときのものとは違っていた。

 

本物だと確かめたいのか。

 

偽物だと否定したいのか。

 

どちらかへ決めてしまうこと自体を恐れているのか。

 

俺には判断できなかった。

 

「もし本物だったら、どうする?」

 

アンジェラの右手が僅かに曲がる。

 

答えを探しているようにも見えた。

 

だが、おそらく答えがないわけではない。殺す、追い出す、閉じ込める、目覚めるまで待つ、問いただす。あるいは何もしない。

 

選択肢はいくらでもある。

 

問題は、そのどれを選んでも正しいとは言い切れないことだった。

 

「今は決めないわ」

 

やがてアンジェラはそう答えた。

 

「意外だな」

 

「何が?」

 

「お前なら、もっと早く決めると思ってた」

 

「情報が足りないのに、結論を出すつもりはないわ」

 

いつもの言い方だった。

 

しかし、その後に続いた声は少しだけ低かった。

 

「これが本当に彼なのか、私にも判断できない」

 

アンジェラはアインの顔を見つめたまま、言葉を重ねる。

 

「彼は光へ消えた。肉体が残るはずはないし、ここへ戻ってくる理由もない。図書館が記憶から姿を作った可能性もある。残った光が、彼の形だけを再現したのかもしれない。私の知らない何かが、彼を模倣していることも考えられるわ」

 

言葉が増えるほど、声は硬くなっていった。

 

本物ではない理由を、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえる。

 

けれど、本物であってほしくないのか、それとも偽物であってほしくないのかまでは分からない。

 

おそらく、アンジェラ自身にもまだ整理できていない。

 

「ほかの連中には知らせるか?」

 

話題を変えると、アンジェラは少し考えた後、首を横へ振った。

 

「今は知らせる必要はないわ」

 

「隠しておくのか?」

 

「正体も危険性も分からない。知らせても混乱を招くだけでしょう」

 

「ホクマー辺りは、あとで知ったら面倒なことになりそうだが」

 

アンジェラの目が僅かに細くなる。

 

「だから、今は知らせない」

 

その答えだけで、彼女が何を警戒しているのか分かった。

 

ホクマーにとって、アインは単なる過去の人間ではない。

 

この男を見れば、冷静ではいられないだろう。もっとも、それはアンジェラにも当てはまるのだが、今それを口にするべきではなかった。

 

「分かった。なら、とりあえず俺も残るよ」

 

「あなたまで残る必要はないわ」

 

「そういうわけにもいかないだろ」

 

「これは、あなたには関係のないことよ」

 

思わず息が漏れた。

 

笑いではない。

 

呆れに近かった。

 

「今さらそれを言うのか?」

 

アンジェラがこちらを見る。

 

「どういう意味?」

 

「お前の過去は、お前だけのものだ。そこへ勝手に入り込むつもりはない」

 

俺は寝台の男へ視線を向けた。

 

「けど、こいつは今、図書館の中にいる。正体も分からないし、何が起きるかも分からない。今さら、俺には関係ないで済ませられる話でもないだろ」

 

「危険なら、私が対処するわ」

 

「さっきのお前を見て、はいそうですかって帰れると思うか?」

 

金色の目が僅かに細くなる。

 

言いすぎたかもしれない。

 

だが、撤回する気にはなれなかった。

 

「私は冷静よ」

 

「そうかもしれないな」

 

「信じていないの?」

 

「信じてるさ。だからって、一人にしていい理由にはならないだろ」

 

口にしてから、少し直接的すぎたと思った。

 

アンジェラは何も言わない。

 

俺も目を逸らさなかった。

 

しばらく睨み合うような時間が続き、先に視線を外したのはアンジェラだった。

 

「……好きにすればいいわ」

 

「最初からそのつもりだ」

 

椅子を寝台の近くへ運び、腰を下ろす。

 

アンジェラは反対側に立ったまま、座ろうとしなかった。

 

「ずっと立ってるつもりか?」

 

「その方が都合がいいの」

 

「そうかい」

 

俺は背もたれへ身体を預けた。

 

部屋の中には、アインの呼吸だけが響いている。

 

浅く、静かに。

 

ここにいる者たちの事情など、何も知らないように。

 

「なあ」

 

俺は眠る男へ声を掛けた。

 

アンジェラの視線がこちらへ向く。

 

「聞こえてるなら、さっさと起きた方がいいぞ。お前に聞きたいことがある奴は、ここに大勢いる」

 

もちろん、返事はない。

 

それでも、黙って見つめ続けるよりはましだった。

 

「まあ、俺にも何個かあるしな」

 

「話しかけても意味はないわ」

 

「名前には反応したんだろ?」

 

「名前に反応したからといって、あなたの声まで届くとは限らないでしょう」

 

「試すくらいはいいだろ」

 

俺は寝台の男を見下ろした。

 

眠った顔は穏やかだった。苦しんでいる様子もなく、自分がどこへ現れたのかさえ知らないように見える。

 

その無防備さが、妙に腹立たしかった。

 

「まず、どうして今さら戻ってきた」

 

反応はない。

 

「それから、アンジェラに何を言うつもりだった。謝るのか。言い訳するのか。それとも、また何も言わずに消えるのか」

 

「ローラン」

 

低い声で名前を呼ばれた。

 

止めろという意味だろう。

 

俺はそこで口を閉じた。

 

今の言葉はアインへ向けたつもりだったが、途中からアンジェラへぶつけるものに変わっていた。

 

彼女が言うべきことを、俺が先回りして口にしていいはずがない。

 

「悪い」

 

短く謝る。

 

アンジェラは答えなかった。

 

再び沈黙が部屋へ戻り、アインの呼吸だけが変わらず続く。

 

そのとき、寝台の脇に置かれた空の書架から、小さな音がした。

 

俺とアンジェラは同時に振り向く。

 

何も置かれていなかったはずの棚。その中央に、一冊の本が現れていた。

 

俺が椅子を運んだときには確かに空だった。誰かが部屋へ入った気配もなく、本が落ちた音もしなかった。

 

黒い表紙には題名がない。

 

ただ、中央に白い文字が一つだけ刻まれていた。

 

A

 

俺は椅子から立ち上がった。

 

アンジェラの顔から、僅かに色が失われたように見えた。

 

同時に、寝台で眠るアインの唇が僅かに動く。

 

声にはならない。

 

だが、確かに何かを言おうとしていた。

 

アンジェラが一歩、寝台へ近づく。

 

「今……」

 

その瞬間、部屋の壁が揺らいだ。

 

白い壁の向こうへ、別の景色が一瞬だけ透けて見える。

 

狭く無機質な廊下。

 

等間隔に並ぶ扉。

 

天井を走る照明。

 

そして、赤く明滅する警告灯。

 

それが何なのか認識したときには、景色はすでに消えていた。

 

元の部屋が戻っている。

 

それでも、鼻の奥には僅かな鉄の匂いが残っていた。

 

アンジェラは壁を見つめたまま動かない。

 

「今のは何だ?」

 

俺が尋ねても、すぐには答えなかった。

 

やがて、押し殺した声が落ちる。

 

「……L社の施設よ」

 

その言葉を聞いた瞬間、ようやく理解した。

 

ここで目を覚まそうとしているのは、過去から戻ってきた一人の男だけではない。

 

この男とともに、男が残したものまで、図書館の中へ戻ろうとしている。

 

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