Q.デルウハ殿が3700年腹を空かせるとどうなる? 作:とんこつラーメン
日本という国に来て三日目。
デルウハはたい焼きなる甘味を齧りながら街を歩いていた。
軍から与えられた休暇はさほど長くない。残り二日で果たしてどれだけ日本食を楽しめるだろうか。
天ぷら、ラーメン、寿司…脳内に浮かぶメニューに優先順位をつけながら、目の端に映る飲食店もチェックする。
観光客で溢れる大通りを行き交う人々の表情には浮き立つような明るさがあり、それを見るだけでも自分が日常から離れた場所へ来ていることを実感できた。平和な国だ。
祖国も街中はこんなものだろうが、生憎とデルウハには縁がない。今回の休暇だって部隊に
一ヶ月前、同僚が言った。
日本には美味いものが多い、と。
その言葉を聞いた瞬間にはデルウハは休暇申請書を書いていた。
パンとサラミさえ食べられればそれでいい、というのがデルウハのモットーだ。しかし美味いものを食えるのであれば、それに越したことはない。日本に来て正解だった。何を食べても新鮮に感動する。
神社仏閣を巡るでもなく、買い物をするでもなく。ただデルウハは黙々と食べ続けた。
もし休暇があと一週間あれば、日本列島を端から端まで食べ歩いていたかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
空が光った。
街全体が緑色の閃光に包まれる。
軍人としての本能が警鐘を鳴らしていた。
咄嗟に遮蔽物に身を隠して体を縮めたのは反射としか言いようが無い。はじめ、それを爆発と判断したのだ。衝撃に備え耳を塞ぎ、口を開いたところで⸻
視界が暗くなった。
身体が重い。
指先から感覚が消えた。
世界から音が消える。呼吸もできない。
それでも意識だけは残っていた。何が起きている?
あらゆる可能性を考えた。
先ほどの緑色の光はなんらかの爆発によるもので、自分はそれによる衝撃を受けた。頭部を打撲し、現在は植物人間のような状態になっている。
あるいは神経系に作用する未知の兵器によって全身を麻痺させられたのかもしれない。軍事研究の存在は知っている。知られていない技術があっても不思議ではない。
あるいは、俺は既に死んでいる。
死後の世界というやつだ。個人的には信じていないが、否定する材料もない。少なくとも今の状況を説明できる仮説ではある。地獄というには真っ暗で随分と味気ない世界だったが。
もっとも、死後の世界にしては妙だった。
腹が減るのだ。
きりきりと、狂おしく。音を鳴らすこともなく、静かに腹が減る。
何時間経ったのか分からない。何日か、何ヶ月かも。真っ暗でただ考えるしか無い中では時間などあってないようなものだった。
身体は動かない。目も開かない。それでも意識だけは活動を続けている。
時折、引き摺り込まれるような強烈な眠気があった。以前、死に瀕したときにも似た、抗い難い眠気である。
デルウハは別に抵抗する気はなかった。何もできない現状では意識を落とすことが最善であろうと思えた。
状況が分からないのだ。考えたところで答えも出ない。ならば一度意識を手放し、目覚めた後で改めて状況を確認すればいい。
軍人として合理的な判断だった。
だが眠れなかった。
腹が減っていた。
強烈な飢餓感が、ひたすらデルウハを苛んだ。
胃の感覚はない。内臓が存在しているのかどうかすら分からない。身体の感覚そのものが消え失せているのだから当然だ。
それなのに空腹だけがあった。
まるで意識そのものに飢えがこびりついているかのようだった。眠りの淵へ落ちかけるたびに、それが引き戻してくる。
食べたい。
何か食べたい。
その衝動だけが、暗闇の中で異様な鮮明さを保っていた。
────
一人の科学を愛する少年が、人間離れした執念をもって意識を保ち、秒数を数え上げていたそのとき。
その男は意識が沈みかけるたびに、飢餓に引きずり上げられていた。
人類の文明が滅び、森が世界を覆い尽くし、歴史そのものが風化するほどの歳月。デルウハはその全てを、腹を空かせながら過ごしていた。
のちに彼はこの3700年を振り返り、こう語る。
「どんな拷問よりも、あれが一番辛かった」と。
────
「あなたが目覚めてくれて良かった」
集められた食料を前に、若い青年──獅子王司はにっこりと笑った。
若者を主に選抜して目覚めさせたはいいものの、現代人にサバイバル知識などほぼ皆無に近しい。司帝国の食糧事情は大樹の採取する果実や野草、司や氷月、羽京らが狩猟によって確保する獣肉によって辛うじて支えられている状態であり、総勢四十名に迫ろうかという集団を維持するにはあまりにも脆弱だった。
そこに加わったのが最近目覚めたデルウハという男である。
軍人として培った知識と経験は石の世界でも十分に通用した。食用植物の選別、罠の設置、水場の確保、保存可能な食料の見極め。そうした技術によって、これまで一日一食が当たり前だった集団の食卓は僅かながら改善されつつあった。
司が浮かべる感謝の笑みに、デルウハもまた人当たりの良い笑みを返す。傍から見れば信頼し合う仲間同士の光景だった。
しかしデルウハの思考は冷静に現状を分析していた。あまりにも脆いこの集団を。今は上手く回っているように見える。だがそれは司という規格外の男が毎日のように狩猟へ出ているからであり、羽京や氷月の能力が支えているからであり、そして何より運が味方しているからに過ぎない。
運はいつか尽きる。狩猟だけの生活には必ず限界が来る。
獣が獲れない日もある。
嵐が来ることもある。
病人が出ることもある。
人数が増えれば食料消費も増える。
当たり前の話だった。当たり前だからこそ恐ろしい。
文明というものは、そうした当たり前の問題を解決するために積み重ねられてきたものだ。それを否定するのが目の前にいる司という青年である。
一般的に見ると司という男は好感の持てる人物だった。
強い。責任感がある。指導者としての器もある。仲間を守ろうという意志も本物だ。少なくとも自分勝手な独裁者ではない。
だからこそ厄介だった。善人は扱いにくい。特に、自らの正しさを疑わない善人は。
デルウハは手元の焼かれた肉へ視線を落とした。
香りは悪くない。味も悪くない。だが、それだけだった。
塩がない。香辛料もない。保存技術もない。調理法も限られている。獲れたものを焼いて食べるだけだ
結局のところ、人類の歴史とは腹を満たすための歴史だ。
狩猟採集から農耕へ。農耕から都市へ。都市から国家へ。
その全ての根底には食料問題がある。腹を満たしたいという人の欲が科学を発展させ、文明を築き上げてきた。
ならば科学を否定するということは、食料生産の発展を否定することと同義ではないか。
その考えに至った時、デルウハの中で何かが静かに傾き始めていた。
もちろん、まだ結論ではない。話を聞いただけだ。
千空という男が本当に司の語るような危険人物なのかも分からない。だが少なくとも一つだけ確かなことがある。
この集団の未来を考えた時、今のままでは限界が来る、それは時間の問題だ。
夜の森は静かだった。
その静けさの中でデルウハは誰にも気付かれないまま結論を先送りにした。まずは自分の目で見てみよう、石神千空という男を。
そして、その男が作ろうとしている文明を。
もしそこに自分が求める未来があるのなら──その時は、その時だ。
とにかく一日三食、しっかりと腹が満たせるのなら。自分の居場所なんてものはどこでもいいのだから。