「あの、杜爾様のお宅はこちらですか?」
『はい…そうですが。どちら様でしょうか?』
「これ、信幸さんのお骨です」
『まぁ、ご丁寧に…ありがとうございます。お墓に納める事が出来ると、舅も姑もきっと喜びます』
1906年9月。北海道にほんの一瞬だけ訪れる秋。日露戦争で戦死した夫が還ってきた。小さな小さな、何処かの骨になって。軍人さんの持つ白い綿のハンケチに包まれた、本当に夫のものともしれないそれを咄嗟に受け取って、咄嗟に頭を下げて、まろび出たのはそんな言葉だった。
私は、嬉しいとは思わなかった。あのまま還って来なければ、戦死したなんて言われたけれど何処かで生きているかも知れないと、そう思っていられたから。
…夫は優しい人だった。軍人になんて向いていない、穏やかで純朴な人だった。寺の次男として生まれた夫は、男色の噂が絶えず戦場へ赴く前夜でさえ私に触れることなく冷たく突き放すばかりだった前夫──自身の兄──に代わって、口数少ないながらに心の支えになってくれた。姑に至らない嫁だと責められて裏庭で泣いている私に、無言でそっと花を差し出してくるような、そんな優しい人だった。
前夫が日清戦争で死んで、三回忌が明けると同時に私は夫の妻になったけれど夫は、お前の事は妹のように思っているんだよ、と私の身体を暴こうとはしなかった。だから私は、二十六の今も乙女のままだった。
その事に安堵した夜もあった。私は前夫の事も夫の事も、愛してはいないから。けれど、子を授からぬまま三年が過ぎた時に〝三年産まずは実家へ帰せ〟という言葉が重くのしかかり、女として愛されていないという寂しさもまた静かに胸に沈んだ。私は女として不十分だったのだろうか、と。
──夫と夫婦になって、夫が日露戦争に出征するまでの六年間、一度も夫は私を抱かなかった。
「紗和さん」
『はい、お義母様』
「出て行ってくれないかい」
子供も居ないしアンタは器量良しだからすぐに次の旦那が見つかるだろう?姑が夕食の片付けをしている私にそう言った。夫の戦死の報せが来た時からずっと物言いたげに私を見ていた姑だ。私にはとうとうこの時が来たのだなと、そう受け止める事しか出来ない。
…目を伏せて、従順に。はいお義母様、荷物を纏めますので三日程ご猶予ください、と頭を下げた。
実家に居場所が無いのは知っているだろうに。そう恨み言を吐きたくなって、でもそんな事を言える立場でもないと飲み込んで。だって仕方がないのだから。女というのはそういうものだ。夫との子を授からないまま三年経った時に〝三年産まずは実家に帰せ〟という言葉の通りにされなかっただけ感謝しなければ。
──あれから半年。年が明けて1907年3月。婚家を出て、小樽での暮らしを始めて半年。私の暮らしは困窮を極めていた。
職業婦人になろうにも、一刻も早く私を嫁にやりたかった父親と、男色家の息子でも男も女も無いような歳の嫁ならばひょっとするのではないかという姑の意向の一致で、初潮も来ていない十三の歳で猫の子のように寺の息子に嫁がされた私には、手に職を得るだけの知識などなかった。父親や男兄弟の後ろ盾のない女は、一人で家を借りることさえ許されない。
宿での暮らしは、常に財布の中身との相談だった。
最初は着物を質に入れた。その金が尽きたら次は帯を。そして簪を。夫から贈って貰った品々が、財布の中身が尽きるたびに一つずつ減っていく。
このままではいけない──そうわかっていながら、私はただ、静かに耐えることしかできなかった。
『……お足が足りないわ。どうしましょう』
もう売れる物など無い。せいぜい長く伸ばした髪くらい。けれどこれがあと何日分の宿代になるのかと考えると遣る瀬無くて、床屋へ向かう足は重かった。
…床屋での断髪は女子断髪禁止令を理由に断られ、私は宿屋の女将に頭を下げて肩につくかつかないかの長さに削いで貰って売りに行った髪は、ほんの暫くの間の宿代にしかならなかった。
──嗚呼、腹を括るしかないのか。
『どうかこちらに置いては頂けませんか。少々薹が立っておりますが、置いて頂けるなら何でも致します!』
「そうは言われてもねぇ…ウチみたいなとこは前借金契約ン時に親兄弟を連帯保証人にしないと女を置かないんだよ。そこらの私娼になる分には関係ないからサ」
暗にそうしろと。その日暮らしの私娼として街角に立てと。そう言われた屈辱に奥歯を噛み締めて、そこのところをどうか、と再び頭を下げる。店先に立つ若い
…腹を括って宿を引き払い、婚家を出た時よりずっと少なくなった荷物を手に赴いたのは小樽の売春宿。女の私に残された〝金になるもの〟などもう己の身体ただ一つだったから。
二度も結婚しておいて一度も夫に求められなかったこの身がどれ程の価値を持っているかなんて知らないけれど、もう、これしかないのだ。
──口惜しかった。父にも母にも大切にされなかった私をたった一人、母親に楯突いてまで大切にしてくれた夫に、今はもう会えない夫の想いに、報いる事すら出来ない己が。
夫が言った。本当に好き合った人と肌を重ねる幸せを知って欲しいのだと。私ではお前にそういう幸せを教えてやる事は出来ないのだと。だから好き合った人が出来るまで大切にしているのだよと。
夫が守ってくれた私を僅かなお足の為に穢すのが申し訳なくて、でもやっぱり、口惜しさが勝った。女の身に産まれたというただそれだけで、男と同じ人間なのに出来ない事が山程あって、夫や父や兄弟の庇護が無ければ何も出来ない身の上が口惜しくて仕方がなくて、凍りついた地べたに正座している寒さのせいだけではない震えが止まらなかった。
────
「そこの若いの」
「へい、なんでしょう旦那様」
「あの娘はいつからああしているんだ?」
「…半刻程前からです。親兄弟の許しなく身売りをしに来たようなんですが、前借金契約に親兄弟の一筆を貰えないのなら私娼になれと門前払いされているようで」
「そうか」
〝土方 歳三〟と合流し〝牛山 辰馬〟を引き入れた後も小樽の遊郭街で他の脱獄囚の情報を求めて聞き込みをしていた〝永倉 新八〟の目に、遊女屋の前で座り込む髪の短い娘が留まった。雪掻きがされた軒下に正座して少し俯いた娘の、羊毛の肩掛けをしても尚華奢な肩が震えていたから。
初めは凍えているのかと思ったが、それが寒さによるものではないと分かったのは膝の上で握り締められた拳が真っ白になるほど、力を込められていたからだ。
…よく見ると、柔和な顔立ちに反して意志の強そうな目をした娘だった。抜けるように白い肌に最初の妻を重ねた。土方も好みそうな女だと思った。そして、あんな眼差しの女が娼婦になって男に踏み躙られるのは勿体無いと思った。
──その境遇に対する少しの憐れみと、あの眼差しへの興味。声をかけるには、それだけで充分だった。
「永倉、その女性は?」
「この娘は紗和と言います。遊女屋の前に座り込んでいるのを拾いました。身売りをしに来た娘なのですが、前借金契約に親兄弟の一筆を貰えないなら私娼になれと門前払いされているのが憐れでしたので…」
「うむ…紗和」
『はい』
「得意な家事は何だ?」
『料理と裁縫でございます』
「生憎うちには料理も裁縫も得意な者が居ない。世話になるぞ」
『ありがとうございます…!』
永倉に声をかけられるまま小樽の拠点まで着いてきた紗和は土方の言葉に感極まったように眉を垂らして、躊躇なく土間に膝を着いて頭を下げる。その紗和に手を差し伸べた永倉が、風邪を引いてしまうから立ちなさい、男物で悪いが着替えを貸そう、と声をかけて立ち上がらせると、家の奥へと案内した。
…町外れの家故に風呂があるのは幸いだった。永倉は着替えと手拭いを持たせ、風呂は沸かしてやるからゆっくり温まりなさい、凍傷になってしまう、と紗和の細い背を押した。着物の上からそっと触れただけでも背骨が浮いているのが分かるくらいに痩せている。半年前に姑から追い出されたとは先程聞いたばかりだが、きっとそれ以前からまともな食事を与えられていなかったのだろう。折角嫁いで来てくれた娘に酷い事をする。
──紗和が風呂に入っている間裏庭の風呂焚き竈の世話をしてやった永倉は、白い頬を薄紅色に上気させて頭からほこほこと湯気をたてながら律儀に礼を言いに来た紗和を、湯冷めするから部屋に戻りなさい、と叱る羽目になった。
永倉の拾った娘は自分が下に置かれる事にあまりにも慣れているものだから、永倉はこの後一生、紗和に事ある毎に説教する羽目になる。
────
「着替えが要るな、紗和よ」
『そうでしょうか?これ一枚でも不便はしておりませんが』
「若い娘がそう無頓着をするんじゃない。私が着物も帯も用立てよう」
『…申し訳ありません』
「こういう時は謝るのではなく礼を言いなさい」
『あ…ありがとう、ございます』
食事の支度をして手に残った水気を端切れを寄せ集めて作った前掛けで拭っていると、土方様がそう仰った。今身に纏っている小豆色の色無地は婚家で雑用をしていた時から着ていた物で、所々擦り切れてはいるけれどきちんと繕ってそれなりに見られる状態にはしてあるし、不便など感じた事は無かったのだけれど、土方様から見たらそれは嘆かわしい事らしい。縁側の籐の安楽椅子に座る土方様から新聞を受け取っている永倉様も、うんうん、と頷いて土方様へ同意を示しておいでだ。
…あの質屋にまだ私の質入れした着物が残っているといいのだけれど。
こちらに引き取って頂いたその日に身売りに至るまでの身の上を話しはしたものの、土方様も永倉様も二度も夫を亡くした不吉な女である私を疎む事なく受け入れてくださった。牛山様には一度閨への誘いを受けたけれど、亡き夫に操を立てておりますので、とやんわり断るとそれ以上の無理強いをされる事もなく、気さくな紳士として接してくださる。こんな暮らしが送れるようになるなんて、思いもしなかった。
食の面だけでも劇的にいい方向へと環境は変わり、作った食事にケチをつけられる事もなく寧ろ礼すら言われ、麦飯と香の物以外の物を食べても怒鳴られたり叩かれたりしない。明日の食事の心配をせずにくちくなった腹を擦りながら眠るのなんて、物心ついてから初めてだった。
──そんな些細な事が幸せで、ほんの少しの欲が出た。
『…新しく仕立てて頂くよりも、質入れしてしまった、夫に貰った着物を買い戻したく思います』
「夫君との思い出の品か…いいだろう。着いて来なさい。質入れした質屋を回るとしよう」
『はい、土方様…ありがとうございます』
呉服屋に行ってしまえば直ぐに済むものをわざわざ質屋を回って欲しいと我儘を言ったのに、土方様は目元を弛めて鷹揚に頷いて、私を連れて質屋を回ってくださった。質屋に売った着物も帯も残念ながら安価な木綿の普段着には買い手がついてしまっていたが、檀家との会合や親族の集まりの時にだけ着る事を許されていた正絹の手描き友禅の留袖や紬、丸帯や紋織帯なんかは買い手がつかずに残っていたようで、私が持ち込んだ時は買い叩かれたのか質入れした時よりもずっと高価な値段で売られているのに恐縮しながら買い戻して頂いた。簪だけは質流れした物を手入れして店頭に並べる前だったので全てを買い戻す事が出来た。
…それでも着替えの数が足りないと仰る土方様から呉服屋に連れて行かれたけれど。
先程あれだけ買い戻すのもかなりの額だったし、普段着なのだから木綿で構いません、と言い募ってようやく正絹の反物から手を離してくださった土方様は、着物が安物なのだからと毛皮の外套や襟巻きまで新調してくださって、下げた頭を上げられない思いだ。
──土方様は恐縮しきりの私の肩を柔らかく叩いて、お前は人に甘える事を覚えなさい、と優しく諭した。私は祖父母というものを知らないけれど、世の中の祖父や父というものはこういうものなのだろうかと、胸がツキンと痛んだ。
私の父はいつも、私を憎しみの籠った眼差しで睨めつけるばかりであったから。
『本当に、ありがとうございます土方様…こんなに良くして頂いてどうお礼をすればいいか…』
「夕餉の味噌汁の具を大根にしてくれ。今日の礼はそれで構わない」
『そのような事でよろしいのですか?』
「生憎、贅沢には興味がないのでな」
『かしこまりました』
贅沢に興味がないと言うのならば、土方様は何を思って莫大なアイヌの金塊などというものを求めておいでなのだろう。学のない私には想像すら出来なかった。けれどきっと、大義だとか大志だとか、そういうものを胸に抱いていらっしゃるのだろう事だけは理解出来た。
…人の欲とは際限のないものだと、幼い頃から身に染みて分かっている。
私は鰊番屋を営む裕福な家に産まれたが、母は贅沢な暮らしに飽き足らず事業が軌道に乗るまでの貧しい時代を支えてきたのだからと不貞に走り、父に三行半を叩きつけられて家から追い出され、幼い私を置いて男と消えた。
父は私の事も不義の末に出来た子ではないかと疑い、あまり父と面差しが似ていなかった故そうに違いないと決めつけ、不義の子の分際で家の禄を食んで育った落とし前をつけろ、結納金をたっぷり払ってくれる家に嫁いでさっさと消えろ、幼い私に何度もそう言い聞かせた。
最も身近である両親だけでもそうだったのだから、欲のままに生きる人達だったのだから、人とは皆そういうものなのだろうと、私のように自我の弱い人間はそういった人に振り回されて好き勝手に動かされる人生を送るしかないのだと諦めて生きてきたのだ。
──だからこそ、夫のように無欲で優しいように見えて自分を曲げない人も、土方様のように我欲がある訳でもなく巨万の富を求める人も、よく分からない。よく分からないから、知りたいと思う。
そうして、彼らのように志の強さに裏打ちされた優しさを、私も身に着けたいと思うのだ。
────
『あの…土方様、どうして私までお連れになったのですか?』
「年寄りの男二人で旅をしているより、若い娘が一人居た方が警戒されにくい。それともなんだ、牛山と札幌に行きたかったか?」
『絶対に嫌です』
「ハハハ」
少し前に内通者にした〝白石 由竹〟を尾行して小樽の沿岸に行っていた土方が戻り、今度は茨戸へ向かうと言い出した。ヤクザ者の抗争が起きているのだという。先日銀行強盗を働いた時に手勢を多く喪ったから、人員を補充したいのだろう。それに刺青の皮の噂の事もある。
白石とのやり取りの為に札幌へお遣いに出された牛山と別れ、茨戸に向かっている貸切馬車の中で土方はそう言って、眉間をキュッと寄せて俯いた紗和の髪を梳かすように頭を撫でた。永倉が呆れたような目で土方を見ている。またそうやって紗和を揶揄って、という目だ。
…紗和が牛山をほんのり苦手としているのは分かりきった事だが、それをこんな風に意思表示をするようになった事が、老人二人には微笑ましく映る。拾った当初なんて、自分で作った煮物にすら箸をつけようとしない程に緊張していたから。婚家では麦飯と香の物以外を口にすると姑に折檻されていたのだという。
婚家である寺では食べる事を禁じられていた肉や魚も食べるようになって暫く経ち、骨と皮のように痩せ細っていた身体に極薄く肉がつき始めた事が着物の袖から覗く腕だけでも見て取れる。ゲッソリとしていた頬もふっくらと丸みを帯びてきて、老人二人から見ればただでさえ可愛かったのが益々可愛らしく思える。
美味しそうに飯を食べているところなんか特にそうで、毎日紗和が、もう食べられません、と自己申告してくるまで飯を食わせる始末だ。
──今も永倉が飯盒── 永倉は曲げわっぱの弁当箱と迷ったが、持ち歩いている間に凍ってしまっても飯盒なら直接火にかけて温め直せる、という土方の考えで飯盒に決まった──を複数用意して米とおかずを詰めていつも持っているようにと言い聞かせて用意させている弁当を、馬車の中で食べさせられている。
とにかく三食に加えて間食まで食べろ、空腹の時間を作るな、身体を育てるにはまずそれだ、と言った牛山の言を信じての事である。縦にも横にもデカい男の言う事なのできっと正しい。
牛山曰く、たった
「旦那様、ご到着です」
「着いたようだな。紗和、永倉の後ろに居なさい」
『はい、土方様』
「私の手を取りなさい、転んでは大変だ」
『ありがとうございます、永倉様』
永倉の手を取って馬車から降りた紗和は、顔を見られないようにしなさい、お前は可愛いから
…そんな土方達の気遣いは無駄に終わったが。
町に入ってすぐに
──金目の物と女を置いて行け、と銃を突き付けてきた破落戸は手首から先を失って苦悶の声をあげてのたうち回る。もう一人は間髪入れずに銃で胸を撃たれて沈黙した。紗和は目の当たりにした過激な暴力に顔を真っ白にして、永倉の羽織の裾をぎゅうと掴んで小さく震えた。
「泣き喚くのは覚悟がなかった証拠だ。次の喧嘩は野良ネコ相手でも命を掛けて挑むことだな」
『、この人達に次なんて無さそうですけど…見てください、完全に心を折られた人の目をしてますよ』
「紗和、お前さん実は平気だな?
ちょっと派手にやり過ぎましたかね」
民家の雨戸を細く開けて此方を窺う茨戸の住人達を見回しながらそんなやり取りをしていると、理髪店の店主と思しき男が茨戸の町の状況を教えてくれた。破落戸達の殺し合いでこちとら商売上がったり、景気がいいのは棺屋だけだ、と語って店に通してくれる。店主なりの客引きのつもりなのかもしれない。
…紗和は親切心で自身の手ぬぐいを手首を切り落とされて喚いている破落戸に渡して、早く血を止めてお医者様に診てもらってくださいね、と言い残して永倉達に続いた。
──その背中に破落戸から、菩薩だ、と手を合わせられていた事など知らずに土方達に続いて理髪店に入り、早速髭を整えて貰いながら情報を引き出している土方とその隣に座る永倉の隣に腰掛けた。
「あんたら歳の割にはめっぽう腕が立つようだな。どっちに売り込む気だ?」
「……どっち?」
「あんたら用心棒で稼ぎに来たんじゃねぇのかい?
いや、若い女を連れてんなら、妾として女を売りに来たか?」
「その娘は売り物じゃない。この町のヤクザは用心棒を募っているのか?」
「ああ。もともと茨戸の宿場町に賭場は一つだった。小さなニシン場の〝日泥〟って親分が賭場も仕切っていて、借金を作った奴らはニシン場でタダ働きさせる仕組みだった。
その親方が賭場をそっくり息子に譲ったもんだから、一番の子分だった〝久寿田 馬吉〟が怒って出て行き近所に賭場を開いちまった」
『ああ…散々仕えてきた見返りが得られなくて気を悪くしてしまったんですね』
「そうだよ。それでも小競り合いで済んでたものが最近になって殺し合いにまで膨らんだ。この宿場町の警察署長が馬吉に突然肩入れしてきたのさ。
署長と言っても役立たずの部下数名ばかりを従えた小さな分署だがね。奴らが全部揉み消すおかげでこの町は無法地帯だ」
「警察なら自分で日泥をしょっぴけばいいじゃないか」
「それがな…ニシン場の日泥一味は昔から札幌本署のお偉いさん方に賄賂を渡していて、直接は手が出せんのよ。
あんたらがさっきぶっ殺したのは日泥の息子がよそから連れて来たヤクザだ。今なら馬吉に売り込むといい。うちの店から見えるあの旅館が久寿田馬吉の本陣さ」
「そりゃあどうも。話ついでに頼み事なんだが、私達が戻って来るまでこの店でこの娘を預かっていてくれんか?礼は弾むぞ?」
「まぁ、そりゃあ構わんが…そもそも連れて来なけりゃ良かったんじゃねぇか?」
「下手に留守番なんかさせて今札幌に遣いに出てる色情狂の部下と二人きりにする訳にはいかんのだよ」
「……そりゃあ、気の毒な事だ。まぁ爺さん達が迎えに来るまでの間、看板娘として頼むよ」
『ありがとうございます。お世話になります』
「では紗和、いい子に待っていなさい」
どうかご無事で、と土方と永倉の手を握って額を擦り寄せた紗和の頭をそれぞれに撫でてやってから出て行く二人を見送って、お茶を淹れましょうか?と紗和は店主に微笑みを向けた。
────
「いらっしゃい」
「髭と刈り上げの手入れを頼む」
「はいよ」
土方様達が出て行って私が店主と自分に茶を淹れ終えた頃、入れ替わるように来店した軍人さんがボソボソと低く艶のある声で話して席へと掛けた。
髪を掻き上げた時にチラリと見えた袖章を見る限りは上等兵。でも坊主頭ではない。退役軍人さんかしら。
…思わずじっと見つめてしまったせいか、軍人さんと目が合った。土方様を見ていても思うけれど、お声が美しい人はお顔まで美しくないといけないのだろうか。血色が透けて見える程に白い肌と、深い黒をした髪と瞳の対比が美しい。顎を走る傷跡まで左右対称の、美男子の鑑のようなお顔立ちをしている。あまりに美しくて、つい一挙手一投足を目で追ってしまう。
──初対面の年増女にそんな風に目で追われたら気分を害するだろうと、軍人さんの分の茶を淹れに奥へ引っ込んだ。
『お茶です』
「……ッ」
『すみません、熱かったですね。私の分は少し冷めてますので取り替えます。まだ口をつけてないので安心して飲んでくださいね』
伏し目がちに様子を窺っていると軍人さんは、淹れたての熱い茶の入った湯呑みを一瞬握って直ぐに指の背で遠ざけたから、熱いものは苦手なのかしらと思って少し冷めていた自分の分と入れ替えると、今度はすんなりと口をつけた。顎髭を蓄えた厳ついナリをして猫舌なところが、少し可愛らしかった。
大人の男の人を見て〝可愛い〟なんて思ったのは生まれて初めて。
…そう思ってふと、夫の言葉を思い出した。
自身の夫の暴力から逃れて寺を頼りに身を寄せた女性の抱く赤ん坊を見て、可愛らしいですね、と私が呟いた時に、愛おしいとも言うんだよ、人は誰かを心の底から愛おしいと思った時に可愛らしいと感じるんだ、と言った事を。
ならばこれは〝愛おしい〟という意味の〝可愛い〟なのだろうか。名前も知らない初対面の男の人にこんな事を思ったりするものなのだろうか。
──だって私は恋をした事がない。
実家では物心ついた頃から、自分の部屋を出ることを禁じられていた。婚家でも義両親の目が常にあり、外出は許されず、人とまともに会うことすらできなかった。
父は、淫蕩な女の娘だから自由にさせたら男を誘うに決まっている、と言って私が純潔を失えば高額な結納金が得られなくなるからと閉じ込めた。義両親もただ私のことが気に食わず、同じように私を寺の敷地という小さな世界に押し込めた。
だから私には、恋や愛というものが分からないのだ。
店主が先程土方様達にしたのと同じ話を軍人さんに聞かせているのを横目に、私はぼんやりと考えていた。
夫がよく聞かせてくれた、洋の東西を問わない神話や昔話の中で語られる恋や愛の形と、私の今の心の形とに似た物がないか、記憶を探って。
「……で、あんたはどっちに売り込む気だ?」
「署長は馬吉にこの宿場町の賭場のナワバリを奪い取らせて賄賂を頂こうって話かい?」
「それがな、狙いはそれだけじゃなさそうなんだよ。署長は日泥一味が持ってる〝何か〟が欲しいんだとか…」
ほう、軍人さんの低く響く声が興味に少し上擦ったその時に、新たな客が理髪店を訪れた。
店主が〝署長さん〟とオドオド応対するその相手が先程までの話に上がっていた分署長なのだろう。分署長の言う〝腕の立つお侍さん〟は土方様だ。
尊大に振る舞う分署長の視線からそっと静かに逃れて、理髪店の二階に続く扉の影に潜んだ。ああいう手合いは女を道具のように扱うから、目を付けられると面倒な事になるという事くらい、私がどんなに世間知らずでも知っている。
…そこのチンピラ、と呼ばれた軍人さんが躊躇いなく分署長を痛めつけて情報を引き出す。左右に割れた顎先に鋏を入れられて、両の瞼が内出血で腫れ上がるまで殴られている。
軍人さんに〝ケツアゴ署長〟とあだ名されているのが不謹慎ながら少し面白くて、肩が恐怖ではない感情で震えた。私は意外と神経が太かったのだなと自分でも驚いた。
ドクドクと常より速く跳ねるように動く心臓が秘めているのはきっと、恐怖ではない。
──軍人さんの暴力から逃れるように扉の影に逃げてきた店主はおっかなびっくり店内を覗き込んでいて、その下で同じように店内を覗き込む私の目はきっと、好奇心に光っているのだろう。
嵐のような暴力を散々撒き散らして、人相が変わる程殴られた分署長を引き摺って店から出て行った軍人さんの背中を目で追った。そのすぐ後に外で響く、二発の銃声と、その銃弾が命中したのだろう鐘の音。事が大きく動き出す音がした。
「……娘さんあんた、怖くないのかい?」
『人があんなに殴られる所は初めて見たけど、意外と平気みたいです』
「…あの爺さん達に連れられてるだけはあるな」
『ふふ、ご主人は顔が真っ青ですよ』
あんたの頬は赤いよ、と呆れたように言った店主が、危ないから二階にでも隠れててくれよ、と私の背中を押した。ので一度足音を立てて二階まで上がった後に、音を立てないように静かに一階に戻り、扉の向こうで聞き耳を立てた。
「困るよ、日泥の妾を匿うなんて…!」
「日泥の賭場に借金があるらしいな」
「ッ…!」
「協力しろ。事が上手く運べば借金はチャラだ」
「……匿う、だけなら…」
土方様達の思惑に思いっきり巻き込まれたらしい店主が了承の返事をするのを待って店内に顔を出せば、店の奥から女が出てくるとは思っていなかったらしいお妾さんと額に傷のある青年が驚いた顔でこちらを見た。
いい子にしていたか、と私を招き寄せる永倉様に、私がいい子じゃなかった時がありましたか?と首を傾げて招き寄せる為に肩の高さに持ち上げられた手の下に頭を差し出せば、それもそうだ、と撫でてくださるから、頬を弛める。
『初めまして。お嬢さん、ボク。私、永倉様達にお世話になっている、紗和と言います』
「…初めまして、私は千代子です」
「……新平、っす」
『千代子さんと新平くんですね。身重のお身体に緊張はよくありませんから、ゆるりとなさっては?白湯をお持ちしましょう』
「あ、ありがとうございます…」
湯を取りに行く私の後ろで店主が永倉様に、アンタらの預けてった娘さんちょっと図太過ぎるよ、と苦情を言っていた。
…千代子さんの分の少し熱めの白湯を注いだ湯呑みを持って店内に戻ると店主と千代子さん以外の人間は居らず、永倉様達の分まで茶を用意しなくて正解だった、と思いながら湯呑みを千代子さんに手渡した。
緊張に手が冷えていたのだろう、何度か指先で持ち直して落ち着いた様子の千代子さんが白湯を一口飲んで、ほぅ、と息を吐く。そして私の頭の先から足の先までするりと視線で撫でて、口を開いた。
「紗和さんは…あのお爺ちゃん達のお妾さん?」
『いえ……夫を日露戦争で亡くして、子供も居なかったから婚家を追い出されたんです。路頭に迷って、身売りをしようとしている所を拾って頂きました…得意な家事を訊かれて、料理と裁縫だとお答えしたら、世話になるぞと言って頂けて…』
「そうなの。まだ全然あのお爺ちゃん達の事知らないけど、お爺ちゃん達らしいなって思えるわ。紗和さん、拾ってくれたのがお爺ちゃんで良かったわね」
そう言祝ぐように笑った千代子さんは、きっと私よりずっと歳下なのに、とても大人に見えた。人生経験の違いなのだろうか。きっとそう。
ふっくら膨れたお腹は理髪店に連れて来られた時は緊張で張っていたのだろう、今は少しだけ柔らかそうに見える。そのお腹をさする千代子さんの表情は幸せそうだ。女というのは、子を授かるとその子の父親が好きな人でなくても慈しめるものなのだろうか。愛おしく思えるのだろうか。
そう思うとつい疑問が口からこぼれ落ちた。
『千代子さんはその…お腹の子は、旦那様の?』
「いいえ。新平ちゃんの子よ。旦那様には子種がないの」
『新平くんの事、好きなんですね。素敵。好き合った人との間に授かった子を抱くのが、私の夢なんです』
「まぁ、好きな人が居るの?」
『いえ…まだ恋をした事がないんです』
私がそう答えると千代子さんは、私の手をそっと包んで胸に当てさせて、好きな人の事を想うとここがきゅうっと痛むのよ、紗和さんにもそんな人が早く出来ますように、と笑ってくれた。その微笑みは天女のようだ。内側から光り輝くような、満ち足りた美しさを湛えている。
…いつか誰かを好きになって、その人が私を好きになってくれたら。その人と結ばれる事が出来たら。私も千代子さんのような美しさが手に入るのだろうか。
──まだ私は、恋を知らない。
────
「勘弁してくれよ。なんで俺が人質の受け渡しに立ち会わなきゃならんのよッ!」
「全てが済んだ後で我々に脅されたとでも言えばいい」
「急がないと、もうすぐ日泥達がこの店の前に来る時間だ」
「なんでうちの店の前で受け渡しをするんだッ!?」
『大丈夫ですよ千代子さん。土方様達は貴方が傷つくような事はなさいませんから』
頭巾の中で冷や汗をかいている千代子の背をさすってやる紗和の横顔は穏やかで、短い時間で随分仲良くなったものだ、と土方は思った。
紗和の事は、元より人の懐に入るのが上手い娘だとは思っている。性格は穏やかで物静かでありながら自分の芯を曲げない強さがある。幼くして嫁いだ為に学はあまりないが、寺で生きてきただけあって慈悲と知恵と倫理観を持ち、世や人に尽くす円満な人間性を備えている。故に人から、特に年嵩の者から可愛がられる。
そんな仏道で語られる理想的な人格者としての内面を、
あの眼差しに射抜かれて尚冷淡で居られる男はそうは居るまいと土方は思う。土方でさえ思わずたじろぐくらいの念の籠った目をする時がある。今がそうだ。
…千代子をその小さな背に庇って守るようにして、物言いたげな眼差しで土方をじっと見るのだ。千代子を庇う紗和の視線を受け止めて、分かっている、というように頷いて土方は、お嬢さんの着物を永倉に貸しなさい、と指示をした。
──斯くして、人質と刺青人皮の交換が始まった。
「来た…」
『店主さん、ここから見ても分かるくらい冷や汗まみれですね』
今度こそ理髪店の二階に隠れているようにと言い聞かされて千代子と共に窓辺から目元だけ覗かせて店の前の通りを見下ろしている。
…不安そうに眉を寄せる千代子とは対照的に、紗和は生まれて初めて見るド修羅場の気配に目を輝かせていた。あまりにも刺激の少ない人生を送ってきた紗和はこの歳になって受けた強烈な刺激に好奇心が抑えきれないのだ。
──パシィッ…ダアァァン…
「お爺ちゃんが撃たれたッ」
『大丈夫、撃たれたのはお腹の詰め物です』
顔を青褪めさせた千代子の肩を抱いてやりながらそう言った紗和は、食い入るように喧騒を目に焼き付けていた。
…銃声。悲鳴。怒号。窓ガラスの割れる音。茨戸の宿場町に響き渡る暴力の音。
その渦中にある小さな安全地帯で震える千代子の肩を抱き込んで、大丈夫、大丈夫です、と宥めてやりながら、紗和は千代子とは違う汗を滲ませていた。
──背筋がゾクゾクする。頬に血が上る。心臓が跳ねる。紗和の心は高揚していた。人が死んでいるのに。
目の前で起こる殺人に興奮している訳では決してない。紗和は生きるか死ぬかの修羅場に身を置いて、生きている実感に高揚していたのだ。
物心ついた時には親の傀儡で、嫁いでからは義両親の言いなりで、心を殺して、死んだように、ただ時を過ごしてきた紗和の心が〝自分は今生きている〟と感じて昂っている。
紗和は頬を赤らめて永倉が刀を振るう姿に魅入っていた。
「紗和、来なさい」
『はいっ』
「番屋から火が出た。向かうぞ」
馬吉一味を排除し永倉が拾い上げた刺青人皮が入っていると思われた木箱は空っぽで、恐らく人皮は日泥一味の根城である鰊番屋に隠されているのだろう。海岸で出火してすぐに慌てた様子で煙が上がった方へ駆けて行った女将の背中がそう物語っていた。
…土方の紗和を呼ぶ声に上擦った声で返事をして、千代子さんは新平くんが迎えに来るまで此処に居てくださいね、と最後まで千代子を気遣ってから、紗和は珍しく着物の裾を乱して階段を駆け下りる。
──理髪店を飛び出した紗和がつんのめったのを受け止めた土方は、怪我は無いな、行くぞ、と紗和を永倉に受け渡して番屋への道を進んだ。
「待ってろ」
「はいッッ」
『土方様、』
「お前は来なさい」
『ありがとうございます』
すっかり土方に心酔した様子で従う日泥の配下だった青年達を番屋の外で待たせて、煙の漂う番屋へ足を踏み入れた紗和は、囲炉裏の前に銃を抱えて座る先程の軍人〝尾形 百之助〟を見て目を丸くした。
…常はおっとりと垂れた目を伏し目がちにしている紗和がまん丸く目を見開いて、その瞳は纏う涙の膜を僅かに厚くする。薄暗い番屋の中に入ったからだけではない瞳孔の拡張により、紗和の世界は常より少し明るく見えた。
「どんなもんだい」
「ヤレヤレ…番屋に放火して女将に出させる方法はイチかバチかで考えてはいた。ただ、ひとつ狂えば刺青人皮が燃えてしまう危険な方法だからな。
馬じゃなく私の頭を撃ち抜く事も出来たはずだ…なにが狙いだ?」
「茨戸まで来たのは刺青の噂を偶然耳にしたからなんだがね、床屋の前であんたらを見てすぐに分かった…俺は情報将校である鶴見中尉の下で動いていたからよく知ってるぜ、土方歳三さん。
腕の立つ用心棒は要らねぇかい」
ドヤ、とニヤつきながら鼻を鳴らした尾形に呆れたように溜息を吐いた永倉と、好きにするといい、拒む理由もない、と鷹揚に尾形を受け入れる姿勢を示した土方。
一行に尾形を加えて番屋を後にした土方達は、馬車を置いている宿場町の厩へ向かう道中で自己紹介とまではいかないが、それなりに若者同士での交流が起きていた。主に、壊滅した日泥一味から離れて土方についてくる事にした〝奥山 夏太郎〟が、戦う土方が如何にカッコよかったかを紗和に興奮気味に聞かせてやる形で。
『あのっ、軍人さん…お名前はなんと仰るのです?』
「……尾形、百之助」
『私は紗和と言います、尾形様…』
夏太郎が連れの〝亀蔵〟と話し始めて視線が逸れるとするりと離れ、常より潤んだ瞳で尾形を真っ直ぐに見つめる紗和を見て、ああいう男が好みなのか、と土方は少し驚いて、永倉は静かに頭を抱えた。娘のように可愛がって世話を焼いている紗和があろう事かとんでもない男に惚れてしまったのが一目で分かったので。
…その気持ちに気付いていないのは紗和本人と、初対面で常の紗和を知らない尾形だけ。老人二人の生暖かい視線に尾形は不思議そうに、ゆっくりと首を傾げた。
「紗和、お前が先に乗りなさい。手を」
『はい、土方様』
「暗くなったら冷えてくるから、掛布を荷台から取ってこよう」
『ありがとうございます』
「……その女、爺さん達の情婦か?」
「下世話な事を言うんじゃねぇよ若造。私達はそんな下衆な理由で紗和を預かっちゃいない。
紗和の耳にそんな言葉を入れるような事があったらただじゃおかんぞ」
「…おお、怖い、怖い」
「チッ…クソガキが…」
土方の手を借りて馬車に乗り込み、土方が荷台から引っ張り出した掛布に巻かれて蓑虫のような姿で馬車の席に収まっている紗和を外から指差して、下世話な勘繰りをした尾形に対する永倉の反応はまさに、娘に寄り付いた虫を払う父親の如き気迫であった。鋭く舌を打って悪態を吐く。
…結局馬車には、酔いにくい進行方向を向く形で紗和、土方、永倉が座り、向かいに尾形、亀蔵、夏太郎が座る。六人も乗れば座席はぎゅうぎゅう詰めだ。
「紗和。隅は狭いし、冷えるだろう。私の膝に座りなさい」
『いえ土方様…平気です』
「…私が寒いのだ。温石代わりになってくれるか?」
『……はい』
「オイ」
「黙れ尾形」
おずおずと土方の膝の上に横抱きで収まり土方の肩に頭を預けた紗和を、これでも情婦じゃないって?と言いたげに指差した尾形。その指を掴んで下げさせる永倉。夏太郎と亀蔵は土方と紗和をソワソワした様子でチラチラ見ている。
…土方に寝かしつけるようにゆったりと一定の速さで肩を叩かれて、紗和が小さく寝息をたて始めてやっと、永倉が静かに口を開いた。
「…紗和は夫を日露戦争で亡くし、子供を産んでいない嫁など養えんと婚家を追い出された娘だ。
母親の不義の末に産まれた子だと父親に疎まれている故に実家にも帰れず、私物の殆どを質に入れて髪まで売って…それでも路頭に迷って身売りしようとしている所を私が拾った。時代に翻弄される、哀れな娘だ。
婚家で長年姑にいびられて痩せ細ってしまっているからな…健康な身体になったら然るべき所に縁付かせるつもりで世話をしている。
尾形、お前に人の心があるのなら、この娘の耳に入るところで心無い事を言うな」
「………フン」
「……なんていうか、災難な人っすね…こんな綺麗な嫁さん貰っといていびり倒すなんて、きっと性根が腐った姑だったんすよ。せめて旦那さんは、良い人だったらいいなぁ…」
「紗和の夫は寺の次男坊でな、紗和は元々長男の嫁だったんだが、最初の夫は結婚してすぐに日清戦争で死に、そのまま義弟の嫁になった。嫁の実家に結納金をたんまり払った家じゃよくある事だ。
この二番目の夫が大層人の出来た男だったようでな、紗和は善悪の基準の全てをその夫を基にしている節がある。父より母より、慕わしいのだろう。夫と言うよりは、兄のように思っているようだ」
永倉の話に思うところがあったのか、じ、と紗和を凝視する尾形に嫌な予感を感じた永倉は、紗和に手を出したらお前の逸物は私の刀の錆になると思え、と釘を刺した。
────
『…おはようございます……申し訳ありません、寝過ごしてしまって…』
「構わん。疲れが出たのだろう。体調を崩すよりはずっといい」
茨戸から小樽へ戻る馬車に乗り込んでからの記憶がない。起きたら小樽の永倉様のお家で、自分に与えられた部屋で布団に包まっていた。日も高い。慌てて居間に向かう。
すぐにお食事の用意をしますので、と頭を下げる私に、牛山が家永の粥を作るついでに作ったものを食べた故もういい、昼は外に食べに行こう、と新聞片手に答えた土方様に招き寄せられて額の温度を計られ、ついでにと寝癖で跳ねた髪を撫でつけられている私を火鉢で暖をとりながら見る尾形様に、フン、と鼻で笑われた。
「……後家さんよォ、遅いお目覚めだな。もう昼だぜ」
『申し訳ありません』
「尾形ァ、紗和夫人を虐めるんじゃないよ」
うちの居るだけで可愛い紅一点なんだから、と牛山様が札幌で回収してきて一行に加わる事になった〝家永 カノ〟様の介抱をしながら尾形様にお小言を連ねていらっしゃる。
…私の耳にはちっとも言語として届いて来ないけれど。
尾形様の艶を帯びた天鵞絨のようなお声が鼓膜を叩くと、そのお声をもっと聞いていたくて、ついそちらに耳と意識を傾けてしまう。
厭世的な黒い瞳がこちらに向けられると、変な所がありはしないかとつい身なりを気にしてしまう。じ、と数秒見つめ合うような形になって、先に目を逸らしたのは尾形様。少し残念な気持ちで目を伏せると、下を向いた視界の中で尾形様の影が大きく動いた。
「…変人とジジイとチンピラ集めて〝蝦夷共和国〟の夢をもう一度、か?
一発は不意打ちでぶん殴れるかも知れんが、政府相手に戦い続けられる見通しはあるのかい?
一矢報いるだけが目的じゃあ、アンタについて行く人間が可哀想じゃないか?
〝のっぺらぼう〟は…アイヌなんだろ?」
「鶴見中尉はそこまで掴んでいたか」
「のっぺらぼうが殺したアイヌ達……七名分の遺留品に共通点があったそうだ。
男達の小刀や煙草入れ、それら全てによく見ると新しい傷が付けてあった。アイヌの葬式では、死んだ人間があの世でも使えるように副葬品に傷をつけたり破壊して、この世での役目を終わらせるそうじゃないか。
死体を残虐にもバラバラにしておきながら丁寧に全員の所持品に傷をつける行為は、どこか懺悔のようなものを感じる…なぜ殺した?
殺された七名は各地の村の代表者で、和人と戦う武器を買うため金塊に手をつけた。のっぺらぼうの目的が北海道独立ならばどうして仲間割れした?
殺された七人が金塊欲しさに裏切ったのか?」
『あのそれ…苫小牧の事件ですよね。六年程前の…』
「そうだが?」
『婚家は苫小牧の寺でしたので、苫小牧周辺で起きた人死にには家業柄詳しいのですが…殺されたアイヌの方々は、身体をバラバラにされて、顔の皮を剥がされ、目玉を刳り貫かれていたと…野次馬をしていた檀家のご主人から聞いています。
のっぺらぼうと呼ばれている方が、自分の身元を誤魔化す為にそういった行動に出られたのだとしたら、のっぺらぼうはかなり特徴的な外見をしていたのではないでしょうか…例えば、髪や目の色が和人やアイヌとは大きく異なるだとか、背がとても高いだとか。のっぺらぼうは…本当に日本のアイヌなのでしょうか?
のっぺらぼうが日本のアイヌではなく、ロシアから金塊目当てに渡って来た略奪者なのだとしたら、殺されたアイヌ達を先に裏切ったのはのっぺらぼうの方という事になりますよ』
きゅう、と目を見開いて驚いた猫のような表情で私を見つめる尾形様に思わず笑みが零れる。可愛いお顔をされているから。少しだけお口が開いているのが、呆けた猫のようで、本当に可愛らしかった。
…土方様がクツリと笑う。こちらは面白いものを眺めるような目が私と尾形様を順に撫でて、ゆっくりと息を吸った。
「紗和はまるで、見てきたかのように語る」
『…浅学な女の、戯言でございます。ご不快でしたら黙ります』
「何、好きに話しなさい。お前を抑えつける者はもう居ないのだから」
『…であれば続きを。恐らくのっぺらぼうの正体は、アイヌに扮した極東ロシアのパルチザンでしょう。日露の関係に緊張感が強まった頃に夫がロシアの情勢を話してくれた中で聞いた事があります』
「ぱる?なに?」
『パルチザン…ゲリラだとかコサックだとかという国や地域もありますが、パルチザンの場合は民間人が組織した反政府軍です。
彼らは内戦や革命の際に非正規の軍事活動をする民兵組織で、ロシア極東にもアムール川流域の少数民族などによる多数の遊撃隊が存在しているそうです』
「ああ。ロシアと言っても一枚岩じゃない。
白系ロシア人が支配する帝政ロシア、レーニン率いるユダヤ系の共産党…そして極東に住む少数民族などで構成されたパルチザン。
ロシア国内ではこれらの勢力が三つ巴になって殺しあっている」
「つまり…のっぺらぼうは極東ロシアの独立戦争に使うためアイヌの金塊を樺太経由で持ち出そうとして、失敗したのが今回の発端なわけか」
「ジイさんアンタ、これっぽっちものっぺらぼうを信用してなかったんだな。という事は監獄の外に居るのっぺらぼうの仲間も…」
「アイヌに成りすましたパルチザンの可能性が高い」
紗和は化粧を直して来なさい、紅を塗り直した方がいい、そう言って私の肩をそっと押した土方様の言葉に従って自室へ下がる。途中で台所に寄って湯を張った桶を取るのも忘れずに。
…鏡台の前で水分を含ませた糠袋で磨いて化粧を落とし、小町水を馴染ませる。クラブの水白粉を薄く伸ばしてから桐の灰で作った眉墨で元々短い眉尻を描き足して、紅と紅筆を手に取った時、蝋引きされた襖が音もなく開いた。
──ギッ、と畳を軋ませて黙って入室してきたのは尾形様だ。化粧の施し終わっていない顔を見られるのが恥ずかしくて、袖で顔の下半分を隠した。婚家では無化粧で居る事なんて当たり前だったのに、どうしてこの人を前にするとそれを恥ずかしく思うのだろう。
「後家さんよ」
『紗和でございます』
「………紗和」
『はいっ』
「お前は何処でそんな知識を身につけた?
東京の金持ちの家に生まれたならいざ知らず、北海道の寺の嫁が知ってていい事じゃねぇ」
『…全て、亡き夫に教わった事です。私はあの人が昔言っていた事を実行しているに過ぎないのです。
夫も明治生まれではありますが…徳川幕府が倒れて明治の世になって、女の立場はとてつもなく弱くなったと…女は財産を持つ権利も、学びを得る権利も、家を継ぐ権利も全て取り上げられて、男の言いなりになる事でしか生きていけない存在にされてしまったと……だからこそ学びなさいと仰いました。
財貨を持てないなら知恵をつけ、その知恵を評価してくれる
だからそうしているだけです、そう尾形様の目を見つめて微笑むと、尾形様は驚いたように目を見開いて私をじっと見て、すぐに視線を左右に彷徨わせてから頭ごと下を向き、俺の母もお前のような女だったら…少しはマシな人生だったのかもな、と消え入りそうな声で呟いて、髪を掻き上げた。黒い瞳が私を捉える。瞳の奥の熱が揺れていた。
何かを悔やむような、取り戻せないものを惜しむような、歳に見合わぬ幼気で寂しげな眼差しはきっと、私を通して自身のお母様を見つめているのだと思う。私とお母様の境遇は似ているのだろうか。土方様は何かご存知だろうか。後でこっそり聞かなくては。身辺を探るような真似をしたと知られたらきっと気分を害されるから。
…昨日知り合ったばかりの短過ぎる付き合いだけど、尾形様の真っ黒な瞳はいつもどこか寂しげに、私の目には映る。迷子の子供のようにすら思える程。
私はその眼差しを見る度に、寂しげな目をしたこの人が笑っている所が見たい、この人が辛い思いや苦しい思いをしないで生きられるような世になって欲しい、光の当たる場所でこの人と手を繋いで歩けるような女になりたい。そう思うのだ。
それはきっと、初めて目が合ったあの瞬間から。ずっと。
──嗚呼、きっとこれが〝こい〟だ。
だけど分かる、この人が私を愛する事はないと。だからきっとこれは、恋ではなく
────
「紗和」
『はい』
「尾形が気に入ったようだな」
『…そんなに分かりやすいですか?』
「フフ…年の功だ」
食事処でいつものようにお茶漬けの刻み沢庵のせを頼んだ土方が の定食を頼んだ紗和にそう微笑みかけた。
カァ、と頬を赤く上気させて視線を彷徨わせる紗和が、恥じらいに潤んだ瞳で土方を窺う。微笑ましそうにそれを見る土方は、反転声を潜めて忠告めいた声音で続けた。
「しかしあの男は一筋縄では行かん男だぞ、紗和。
のっぺらぼうがアイヌである事まで情報を共有されている辺り、使い捨ての下っ端ではないだろう。それでいながら鶴見の指揮下を離れる男だ。腹に何を抱えているやら」
『……それでも、諦めるには男が佳すぎるとは思いませんか?』
「顔か?」
『顔です。声も素敵。色白で、艶やかな黒髪で…美男子の鑑のような方だとは思いませんか?
……何よりもあの瞳が素敵です。寂しそうで、放っておけないんです。それによく見ると、とてもお優しい目をなさっているなって…素直じゃなくて、不器用そうで、でも優しい…そういう所が、お可愛い人だと思うんです』
「女が男を可愛いと思うようになったら、もう後戻りが出来んとこまで惚れていると言うが、まさかお前のような女がたった一日でそんな深みに堕ちるとはな」
『………初めてなんです、こんな気持ちになるのは。
誰かに笑って欲しいと、苦しみのない日々を送って欲しいと、自分の胸が痛いくらいに思うのは』
正しく忠告のつもりで言った土方だったが、とてもじゃないが外野の忠告如きで引き下がれる域ではない所まで尾形に惚れ込んでいる紗和の情の強さに何を言っても無駄だと悟り、そういう気持ちは大切にしなさい、と紗和の髪を撫でる事しか出来なくなった土方に、報われなかった時は慰めてくださいますか、と紗和は眉を垂らして微笑んだ。
「お前の事は両親不明の〝棄児〟として新しく戸籍を作り、永倉の娘として嫁ぎ先を探すつもりでいたが…どうやらその必要は無さそうだな」
『…はい……尾形様に振り向いて貰えないからと言って、誰か別の人に嫁ごうとは思いません。好いて好かれた人と夫婦になるのが、夢なのです』
「あの野良猫を口説き落とすつもりか?」
『はい。男の人を捕まえるには、胃袋と……その、玉袋を捕まえるのが間違いないと、千代子さんに教わりました……私、頑張りますっ』
「……あの妾っ…!」
なんて事を教えてるんだ。
照れくさそうに耳まで赤くして、気合いを入れるように胸の前で拳を握ってみせる紗和に、土方は頭が痛くなった。紗和を我が子のように可愛がっている永倉が居なくて良かったと思うし、土方自身も食事が運ばれてくる前で良かったとも思う。
…まずは肉をつけねばなりませんね、こんな骨と皮みたいな身体では殿方は興味を示してくださいませんもの、と運ばれてきた定食に手を合わせる紗和を見て、進んで食べるようになったのはいい事だけれどその原動力になっているものを受け入れたくない、と思いながら土方も箸を持った。
──その翌早朝、亀蔵を回収係に連れて鳥を撃ちに行った尾形と、夏太郎を手伝いにつけて厨で朝食の準備に励む紗和ら当事者が居ない隙をついて土方は、紗和が尾形に想いを寄せている事を年長者達で共有したが、胃袋と玉袋、の下りは自分の胸に秘めておく事にした。永倉が憤死しそうだと思ったので。
『…あの、尾形様』
「……なんだ」
『椎茸、お嫌いなんですか?』
朝食は昨夜の筑前煮の残りに出汁を足してうどんを入れたものと、卵焼きと青菜のおひたし、干したししゃもを七輪で焼いたもので、尾形を除く面々は食べ終わったものを厨に下げて思い思いに過ごしていた。
…一人、丼の底に残った椎茸を忌々しそうにつつく尾形を除いて。
片付けが終わらんから尾形の膳を下げて来て、と牛山に言われて鳥の下拵えを一段落させた紗和が尾形の隣に膝を着いて控えめに声をかけていた。
「…好かん」
『ではお好きな食べ物はなんですか?』
「………あんこう鍋」
『あんこう?お郷の物ですか?』
「西のフグに東のアンコウっつって…地元じゃ安く手に入った。冬になると母が毎日あんこう鍋を作った…それが、好きだ」
『お母様の味なのですね…素敵です。私の地元はニシンですが、私はニシンが嫌いです。もう一生分食べたので、食べたくないです』
下げて来て、と言われはしたものの尾形と話せる機会を逃したくなかった紗和は、伏せた瞳を左右に揺らす尾形の横顔をじっと見つめて尾形が瞳をこちらに向けてくれないかと待っていた。
…紗和がハッキリと何かを〝嫌い〟だと言ったのが意外だったのか、それとも故郷の味を嫌いと言ってのける人間が居るのが物珍しかったのか、尾形の瞳が紗和を捉えた。ふ、と目元を柔らかくした紗和から目を逸らさずに、そういうものなのか、と細く問うた尾形に紗和は、柔らかに聞こえるように心がけた声音とは正反対に瞳が暗くなってしまうのを感じながら口を開く。
『私には母の味というものはありませんから。家事をしていたのは使用人達で、私の母は私が五つの時に不貞が父にバレて追い出されました』
「…お前の母は、お前の父を愛していなかったのか?」
『さぁ…私も幼かったので、分かりません。それに、自分が結婚したからこそ分かるのですが、世の夫婦者の皆が皆、情愛で結ばれているわけではないのですよ…財ある家ほど特に』
尾形の口がゆっくりと開いては閉じ、逡巡しているのが手に取るように分かった。紗和は尾形が口を開くのをゆっくりと待つ。
…紗和から見た尾形は決して口数が少ない人間では無いが、何処か言葉足らずで誤解をされやすい、と言うよりは悪い意味での誤解をされようと言葉を捏ねくり回す男だ。それでいて、大事な事程自問自答で済ませてしまう節がありそうだと思っている。
──きっと、傷付きたくないのだ。
自分の心の柔らかいところを嘘や憎まれ口で覆い隠していれば、好かれる事なく最初から嫌われていれば、傷は最小限で済むから。そうやって不器用に、自分を守っているのだ。
黙り込んでただ耐える紗和とはまた別の方法で、尾形は自分を守って今まで生きてきたのだ。
尾形がそんな人間だから紗和は、尾形が自分の傷に触れさせてくれるような距離に、近付きたいと思うのだ。
「…夫婦ってのは、愛し合ってなるもんだろ」
『そういう形が、きっと理想的なんでしょうね…少なくとも私の知る夫婦というのは家を存続させて財産を受け継がせる子供を作る為だけの関係でしたよ』
「……俺の母は、父を愛していた。父に捨てられて頭がおかしくなる程に」
『そう言えるほどお母様を見ていた貴方もきっと、お母様を愛していたのですね……いえ、今も慕わしく思っていらっしゃるのでしょう?』
「何故そう思う」
『貴方の瞳は、貴方がそう思っているよりもずっと雄弁ですよ。お母様の事を話す貴方は優しい目をしています……貴方に想われているお母様が少し、羨ましいくらい』
「………そうかよ」
動揺を顕にした尾形の膳に手をかけて、これからは尾形様の分のお膳からは椎茸を避けますね、と紗和は微笑んだ。
…それを丸く見開いた目で見送った尾形は、黙って自分の髪を掻き上げて整えた。その仕草を、自分で自分の頭を撫でているみたいで可愛い、と紗和に思われているとは知らない。
その日の昼食の主役は、尾形が撃った鳥と近所から分けてもらった卵を使って紗和が作った親子丼もどきだった。美味しいですねぇ、と尾形に微笑む紗和を直視出来ずに尾形は俯いた。
──その日から紗和は、言葉にした通り尾形の分の膳から椎茸を抜いた。尾形がその事に気付いたのは暫くが経ってからだったが、その小さくとも確かな尊重を感じる気遣いにどんな顔をしたらいいのか分からなくなって、然りげなく傍に寄ってくる紗和を拒めなくなり始めていた。
────
「夕張に向かうぞ」
『すぐに支度致します』
茨戸で刺青人皮を手に入れて暫く、家永様の傷もすっかり癒えた頃。土方様が郵便局から受け取ってきた一枚の手紙が、小樽での日常の終わりを告げた。
夏太郎くんと亀蔵くんを留守番に、短期の旅支度を整えて発つ。夕張までは札幌を経由して日の無い間は休息とし、徒歩で片道三日程だと土方様は仰った。米や肉は道中の町や山で調達するとして、調味料と調理器具、替えの衣類を纏めたものを馬に積み、家永様と私の二人が乗った馬の手綱を土方様が持った。
…春ですねぇ、山桜の紅色が目にとまって馬上からそう呟くと家永様が、貴方の瞳は新緑の色をしていますね、と私の顔を至近距離で覗き込みながら微笑んで、涎を垂らした。湿った吐息が頬を撫でる。私は実は、彼が少し怖い。
紗和夫人を食べちゃダメだぞ、と緩い口調で諌める牛山様にはもっと真剣に頑張って欲しい。
「…網走監獄脱獄囚ってのは、イカれた奴しか居ねぇのかよ」
「人間長く生きてるとな、否応なく屈折するものだ」
「屈折し過ぎだろ」
「ハハ、まぁ囚人など皆その様な者だ」
最近は、私が涎を垂らす家永様から逃げて背中に隠れてもあまりお嫌そうになさらなくなった尾形様が、そんな事をボヤきながら双眼鏡を覗いて周囲を警戒して殿を歩いておいでだ。
宿をとるのか野営をするのかは分からないけれど、寝る時は家永様から離れられるといいな、と間近で涎を啜る音を聴きながら現実逃避した。
…土方様のお言葉通りに三日程で─正確には小樽を出て四日目の朝─夕張に到着し、二手に分かれて情報収集に出る。土方様は永倉様と家永様を連れて町に、私は牛山様と尾形様に連れられて炭鉱夫達に、と話を聞いて回っていたが、ふと気付くと牛山様と逸れてしまっていた。多分私が尾形様ばかり気にしていたせいだ。
『牛山様と、逸れてしまいましたね』
「…仕方ねぇ、お前を一人にしとくと俺がジジイ達にどやされる。ついて来い」
『はいっ』
炭鉱夫達から聞いた話では近頃町外れの剥製工房に軍人が出入りしているらしい、行くぞ、と前を歩く尾形様の後を、小走りで追った。土方様達に叱られる、という理由であっても私を連れ歩く判断をしてくださった事が嬉しくて、足取りは自然と軽くなった。
…尾形様が情報を手に入れたその工房は情報通り町外れにポツンと建っている、木造の洋風建築だった。ガラス窓の多さがそれなりの財力を物語っているが、表から見えないガラス窓には鉄格子が嵌っている。盗っ人対策だろうか。けれどそうと言うよりは、何か見られたくないものがあるからのように私には思えた。
──暫く様子を伺っていると、兵士にしては小柄な男が桶を抱えて工房から出て行く。その背中が小さくなってから尾形様は双眼鏡を目元に当てた。
あれは前山か、恨むなら鶴見中尉についた自分を恨むんだな。尾形様は私を足元の熊笹に隠れさせて自分は銃を構え、そう言った。そして銃声が一発。呼ばれたのは剥製工房の中に居る兵士の名前だと分かる。尾形様は一緒に日露戦争に出征した筈の戦友を撃ったのだ。
それを目の当たりにしてやっと理解した。これはそういう戦争なのだと。
「…さっき出て行った月島は長風呂だから暫く戻って来ない。ここで何を企んでいるのか、剥製屋に吐かせる余裕はあるだろう。
中の兵士は排除した。お前もついて来い。目幅が利くから怪しいと思う場所を探れ。
危険だと思ったら机かなんかの下に潜ってろ。そしたら俺が呼ぶまで出てくるなよ」
『はい、承知しました』
拳銃を片手に警戒しながら近寄っているからだとは分かっているけれど、小走りにならずともついて行ける速さで歩かれている事が少しだけ嬉しかった。
…玄関を蹴破るように足で開け、剥製の展示室兼応接室だろう部屋に置き去りにされた小銃からボルトを引き抜く尾形様は、室内に脅威になる人物が残っていない事を確認すると私に手で先を行くように示されたので、私は展示室の奥の工房だろう部屋の扉に手をかけた。
──工房の中には幾人もの人間の死体から皮を剥がして作られた剥製が並んでいて、製作途中だろうものは逆さに吊るされ、制作が終わっているものはそれぞれが思い思いにポーズを取らされてまるで雑談している最中かのような様相をしている。
工房の中を覗き込む姿勢のまま固まる私を不審に思ったらしい尾形様も同じように中を覗き込み、固まる。思わず顔を見あわせて、もう一度工房の中を見て、一言。
『まぁ…なんてこと』
「なんだこりゃ……お、いい趣味してるじゃねぇか」
『尾形様、これを』
「なるほど……これは厄介だな。これでは鶴見中尉に有利過ぎる」
『あの、頭にお椀をつけた剥製は…?』
「鶴見中尉を象ったものだろう。剥製屋の坊やは鶴見中尉にぞっこんらしい。懐柔は難しいかも知れ……しまった……逃げられた」
『白い熊の剥製が一つ足りませんね』
「それに入って隠れていたのだろう…逃げろ紗和!」
──ガンッ!
『ひえっ…』
尾形様の拳銃の掛け金を貫いた銃剣の切っ先が光るのを見て、喉の奥から変な声が出た。
逃げろ、と言われるままに机の周りに並べられた人間の剥製の影に小さくなると、銃剣の持ち主──恐らく月島さん──に蹴り飛ばされて転がり込んできた尾形様に向けて撃ち込まれた銃弾は机を叩いた。自分達の方へと向けられた銃弾が跳ねる音に私の肩も跳ねた。
…月島さんが、よくも戦友を殺せたものだな、と怒号を発する。よく通る太い声だった。それに対して冷静に、お前達は反乱分子だ、と返す尾形様が震えている私の手を一瞬だけ握ってくださった。
──月島さん曰く。お前は本部の飼い猫だ、お前は本部に反乱分子として我々を差し出して出世という名のご褒美が欲しいのだ、より大きな見返りを得る為に我々が増長するのを虎視眈々と待っている、第七師団長であった父を超えたいがために仲間を売るのだ、と。土方様に聞いても分からなかった尾形様のご出生を思わぬ所で知ってしまった。
第七師団長の名前は〝花沢 幸次郎〟だったはずだ。苗字が違う。先日の尾形様のお母様の話といい、訳ありなのだと分かる。
「仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿」
──ドンッ!
『はゎ…』
「江渡貝ッ!生きてるか!?……あれかッ!」
『…………出て行きましたね』
「江渡貝を追って行ったか。月島より先にとっ捕まえないと…」
「今出て行った兵士はほっといていいの?」
「この家が気になる」
次から次に来客の多い家だ。月島さんと入れ替わりに入ってきた男達の事を、尾形様はご存知の様だった。手のひらを見せて、私にこのまま待つようにと合図して扉の影に潜んだ尾形様は、声からして白石さんに銃を突きつけて幾らかの台詞を吹き込んで月島さんを追って工房を出て行くように仕向けると、ご自身もその後を追った。
「お前は此処で待て。俺が呼びに来るまで黙って隠れていろ。動くなよ」
『はい』
そう言い残して。
尾形様に言われた通りに剥製の間に身を潜めていたものの、誰も訪れる気配も様子もないまま暫くして山が大きく揺れた。炭鉱ではガスによる爆発がよくあると耳に挟んだ事がある。
…尾形様がアレに巻き込まれて、死んでしまっていたらどうしよう。居ても立ってもいられないような心地で、けれど尾形様の言いつけに逆らう事も出来ずに私は待った。
──待って、待って、待って。
遠くから明確にこの工房を目指して近付いてくる幾人もの賑々しい話し声の中に尾形様のお声がある事に気付いて、緊張の糸が切れたようにドバッと涙が溢れ出した。
「……おい、出て来い…何故泣いている」
『ご無事で、何よりですっ……尾形様のお声に安心してつい、涙が…』
「………ハァ…立て」
『はいっ……あ、お顔が煤まみれですよ尾形様。手拭いを濡らして参りますね…』
剥製の間に身を縮めたまま座り込んでいた私に珍しく手を差し伸べてくださった、なんとも言えない複雑そうな表情の尾形様の手を取って立ち上がる。さっきは逆光になっていて見えなかったけれど、尾形様の白い肌が煤で黒く汚れている。外套も煤だらけだ。
…用は済んだとばかりに私の手を離そうとするのを握り返して、台所には水がある筈です、お顔を綺麗にしましょう、と今度は私が手を引いた。多分そうでもしないとこの人は汚れた顔のまま平気で居るだろうから。
「…後ででいい。やる事がある」
『汚れたままではお肌が荒れてしまいますよ』
「男の顔が汚ねぇのなんか普通だろ」
『尾形様のお顔はいつも綺麗です…だから荒れてしまうのは嫌です』
「………ハァ…勝手にしろ」
『はい、勝手に致します』
呆れたような溜め息さえも可愛らしかった。照れ隠しなのが分かっているから。この方はこうやって私からの好意を直視しないくせに、受け取る事は拒まないのだ。なんてお可愛い人なのだろう。
…人間剥製から服を引き剥がして並べる尾形様を横目に手拭いを濡らす為に厨を探す私を指差して、あれ誰だ、永倉のジジイが拾って来た未亡人、何で未亡人なんか連れ歩いてんだよ、土方のジジイが気に入って連れ回してんだ、という男性陣のやり取りを少し遠くに聞いた。
「贋物は…恐らくこの六体の剥製を利用して作られた」
「何てこった気色悪い…」
『私達も最初見た時驚いたんですよ』
「とりあえずあの…紗和、さん?尾形の顔拭きながらなんて事ない顔して口挟んでくるのやめない?」
『ふふ、私の事はお気になさらず』
いや気にするでしょ、と白石さんが言うのを無視した尾形様は額の煤を私に拭われながら、剥製工房の主の死を確認した、月島さんの死体が坑道から出なければ六枚の贋物が出回る事になる、と軍帽の青年〝杉元 佐一〟さんに視線を向けた。ほんのりと彼を咎めるような目で。
「ジジイは呼んだか?」
「もうすぐ来るはずだ」
「…贋物か本物か……この忘れ物がどっちなのか…判別する方法を探さねば」
猫を抱き刺青人皮を手に入室してきた土方様のお姿に全員の視線が集中する。不敵に微笑む土方様を見て顔色を変える白石さんと、訝しむ杉元さん。杉元さんは〝キロランケ〟と名乗ったアイヌの男性と一緒になって〝アシㇼパ〟というアイヌの少女を庇うように前に出た。
「ジイさんあんた……見覚えがあるような……どこかで会ったかな?」
「いや…!会った事がある訳ねぇ、こいつは…土方歳三だぞ」
「久しぶりだな?白石由竹。お友達を紹介してくれんのか?」
笑顔で人を追い詰めるのはやめて差し上げて欲しいな、と冷や汗で汗みずくになる白石さんを見て頭の隅で思った。仮にも土方様の密偵だろうに。
…キロランケさんに村を訪れたのは土方様かと確認を取った杉元さんが言葉を重ねる。曰く、のっぺらぼうが土方様にだけ伝えた情報があるはずだ、アイヌに武器を持たせての独立戦争を持ちかけられたのか、のっぺらぼうは本当にアイヌなのか。感心したように、そこまで辿り着いた杉元さんへ賛辞を送る土方様に、杉元さんが凄んだ。
「のっぺらぼうも出し抜こうって魂胆かい?
アイヌの埋蔵金でもう一度蝦夷共和国でも作るのか?土方歳三さん」
「私の父は…!」
「手を組むか、この場で殺し合うか…選べ」
鯉口を切った土方様に場の緊張感が高まる。
尾形様にしろ杉元さんにしろ恐らく私より若いだろう方々は、土方様がアイヌの埋蔵金探しをしていると知ると口を揃えて蝦夷共和国をもう一度興したいのかと言うけれど、私はその構想が土方様の私欲から来たものではないのだろうと思うのだ。
土方様の行動や、瞳に宿る信念の根幹には〝義〟があると感じる。国を憂いて戦いの道を選び、賊軍になって尚信念を貫く姿は、誰かへの恩義を必死に返そうとしているような切実さを感じる。土方様はまさに論語で語られる君子九思の揃ったお人だと感じる。
…今だってそうだ。取り乱したように感情を顕にしたアシㇼパちゃんを遮る形で彼女のこれ以上の失言を避けさせた。アシㇼパちゃんは深い青の瞳をしている。海の向こうの血が入っている事は明らかだ。きっと、のっぺらぼうの関係者なのだろう。発言と歳の頃からして娘だと思われる。
──グキュルルル…
「刺青人皮を持っているなら我々が買い取ろう。一緒に国を憂いてくれとは言わん。
刺青を売ったカネで故郷に帰り、嫁さんでも貰って静かに暮らす道もあるが…若いモンにはつまらん道に聞こえるかね?」
「…のっぺらぼうに会いに行って確かめたい事がある。それまでは金塊が見つかって貰っちゃ困る」
──グルルッコロコロコロッ
「会いに行くだって?」
──コロコロ、コロコロコロコロコロッ、コロコロッ
「なあに?コロコロって!?」
『アシㇼパちゃん、お腹が減っているのですか?』
「私が何か作りましょうか?」
「家永生きてた!」
お話の続きは食事の席でされてはいかがでしょうか、とお顔を出した家永様に、尾形様のお洋服を綺麗にしたらお手伝いしますね、とお伝えして尾形様の煤まみれの外套と上衣を預かった。
『煤まみれの方々はお風呂に入っていらしてはいかがでしょうか。そんな汚れた身なりで食卓につかれては困ります』
「何、このお姉さんからの尾形ちゃんと俺達に対する扱いの差…」
「紗和夫人は尾形にしか優しくないから…」
「……フン…」
「腹立つ顔しやがって…」
牛山様の言葉に得意げに鼻を鳴らした尾形様が、堪らなく可愛かった。今はそうやって、私の好意を利用していて。いつかそれを直視してくれたらいい。直視して、いなせなくなって、逃げられなくなって…いつか、いつかでいい。その瞳に私を映して欲しいの。
────
『ふふ、おかわりですか?』
「…ジジイ共の分だ」
『では少しだけ少なめによそいますね』
食後は炭鉱へ情報収集に出るという土方達に持たせる為に炊きたての米をおにぎりにしている紗和に、尾形が両手に持った茶碗を差し出した。食卓のお櫃は空になったらしい。
…紗和はアシㇼパよりも少ない量の食事で満腹だと言って席を立ったが、食卓での杉元と尾形の居心地の悪くなるような会話は聞いていた。杉元は、一度寝返ったやつはまた寝返る、そう言ったけれど、紗和は尾形の第七師団からの離反を寝返りとは考えていなかった。自分と相手との目的が一致しない、またはその相手の所に居続ける事で自分の立場を悪くする、そういう理由で組織から離れる事の何がいけないのだろうか、とすら思っている。
──紗和は思う。人は皆、自分の目的の為に生きているのだと。その為に何かをする力がある人間は、何だって出来る。紗和から見た尾形は、その力がある側の人間だ。選択した事を責められる謂れは無いと思っている。
だから尾形がそれを周りの誰から責められたって、紗和だけは尾形の味方でいようと、心を決めていた。
『月島軍曹の生死が確認出来次第、熊岸さんという方に会いに行くのでしたよね』
「ああ」
『…そんな事しなくても、分かりそうなものですけどねぇ、贋物の判別方法』
「お前は分かるのか」
『革製品も生臭物だと言って婚家では忌避されていたので詳しくは存じませんが、革というのはなめし剤に何を使うかで性質が僅かに変わるのだと聞いた事があります。
これ程精巧な剥製を作る職人ならば、薬剤に拘りがあっても可笑しくないと私は思うのですが、尾形様はどう思われますか?』
「…そのなめし剤の違いで見分ける方法があるとして、詳細が分からねぇんだったら現状、熊岸に会ってあの忘れ物を見せるしかねぇだろ」
『そうですね…出過ぎた事を申しました、すみません。こちら、土方様達のおかわりです』
茶碗の縁が熱くなっておりますのでお気をつけて、と尾形に茶碗を渡した紗和は、おにぎりを作る作業に戻っていく。永倉達に拾われてからまた伸ばしているがまだ結い上げる程の長さにはなっていない髪がその横顔を隠した。
茶碗の受け渡しの時に寸の間触れた紗和の指先は、尾形のそれより熱かった。
…紗和はいつも、尾形を真っ直ぐに眼差す。嘘で他人を操る尾形の上官の妖しく光るそれとも、清廉潔白なまま死んだ異母弟の眩い光を湛えたそれともまた違う、人の心の奥底まで見通すような穏やかな光を持つ瞳で。
──その瞳が真っ直ぐに向けられるのが己だけだと気付いた時、尾形の心中は荒れた。その瞳に宿るのが愛情だと気付いてしまってからは尚。紗和の真意が読めなかったからだ。
〝愛〟は〝神〟と同じくらいに存在があやふやなものだと、尾形は信じている。信じようとしている。尾形にとってはそうでなければいけないからだ。
だから紗和のそれは、尾形にとって〝毒〟になる。甘く優しく、献身的で穏やかで押し付けがましくないそれは、強く拒む事も目を背ける事も受け流す事も出来ない、あまりにも心地の良い猛毒だった。尾形の信念を侵食する、痺れるくらいに甘い猛毒だ。
『人数分のおにぎりを作っても残ったご飯があるので持って行きますと、食卓に残ってる食いしん坊さん達にお伝えくださいね』
「…ああ」
俺をそんな目で見るな。そう怒鳴りたくなるのを抑えて、尾形は紗和に背を向けた。
…その後暫く、杉元一行を加えて大所帯になった土方達は坑道の出口周辺で月島の捜索を行っていた。生死の確認が取れるまで此処を動けない、という土方の判断で。
外は危ないから紗和は此処で家永と待っていなさい、と江渡貝邸に置き去りにされる紗和は堪ったものじゃないけれど。家捜しの為に土方が、そして哨戒の為に尾形が、江渡貝邸に残っているのが救いだ。
夜になると戻ってくる面々の為に家事をする紗和を物欲しそうに見ては涎を垂らす家永から受けるストレスがピークに達する度に、尾形を探して背中に隠れて溜息を吐いている。
──その矢先だった。窓から火炎瓶が投げ込まれたのは。
「あッ!?チッ…やられた。家永ッ!外へ出るな撃たれるぞ!」
『どうしましょう尾形様…』
「…俺の後ろに隠れてろ」
『はい』
「いま外にチラッと軍服が見えた。数名に囲まれているようだ」
「贋物製造に繋がる証拠を隠滅しに来たか」
紗和を兵士達の突入口となる玄関から遠避けて、上に上がって江渡貝の寝室あたりに隠れてろ、俺も行く、と背中を押す尾形に、用心棒が形についてきたな、と土方は場違いに思った。尾形は順調に紗和に絆されていっている様子。野良猫のような尾形が紗和の思惑通りに掌で転がされているのは、最近の老人達の語り草になっている。
「鶴見中尉の手下がこの家を消しに来たという事は、月島軍曹が生きて炭鉱を脱出したと考えるべきか」
「だろうな。窓は鉄格子がある。外の連中にとっても突入できるのは玄関以外は無い。外の連中を玄関まで追い込む」
階段を駆け上がった尾形は、言われた通りに江渡貝のベッドの影にしゃがみ込んで小さくなっている紗和に、いい子にしてろよ、と指示して銃床で窓を叩き割った。
…銃声に肩を跳ねさせながらベッドの影から目元までだけ出して尾形の横顔をじっと見つめていた紗和は、突入してきた兵士を銃剣で刺したものの肉弾戦で返り討ちに遭う尾形の姿に息を呑んだ。脇腹に銃剣を柄だけになる程深く突き立てられて尚、尾形に馬乗りになって銃床で殴りつける兵士は紗和が居る事には気付いておらず、紗和は息を殺して災禍がこちらに及ばないようにする事しか出来なかった。
紗和は土方から護身用にとレミントン・モデル95・ダブルデリンジャーを持たされており、今も着物の袷に挟んでいるが、紗和の認識している用途としては自決用に近い。敵の手に落ちて、自分を拾ってくれた永倉や金銭的に面倒を見てくれている土方に迷惑をかけるくらいならば、自ら命を絶つ。その為に込められた銃弾だと思っている。
──そもそも紗和は、人を殺すくらいなら自分が死にたいと思っている。
杉元に後ろから殴り倒された兵士が沈黙してやっと、ベッドの影を出て尾形の血塗れになった頬に手を当てて鼻が折れていないかを確かめる紗和を、尾形が手で制してやんわりと止めた。
「なんだよ。お礼を言って欲しいのか?」
「お前が好きで助けた訳じゃねえよ、コウモリ野郎」
『喧嘩しないでください…』
「チッ」
紗和に窘められた腹癒せのように倒れた兵士の頭に銃弾を撃ち込んだ杉元が踵を返して階段を降りて行った。紗和は尾形の顔に飛び散った血を手拭いで拭いてやりながらそれを見送って、これからどうなさるのです、と尾形を窺った。
「威嚇射撃で奴らの動きを止める。その隙に出るぞ」
『承知しました』
「煙が充満してきたな…時間が無い。お前は足が遅いから俺が担ぐ」
『はい』
担ぎやすいように寝台の上に立ってろ、そう言われるままに動いた紗和は、小屋の影から僅かに見えた小銃の銃身を狙って命中させるという尾形の正確無比な威嚇射撃の後に尾形の肩に俵担ぎにされて、炎に包まれつつある江渡貝邸を脱出した。
…てっきり脱出が済んだら投げ捨てるように降ろされるかと思っていた紗和は、壊れ物のように、とまではいかないがそれなりに丁寧に地面に降ろされて一瞬目を白黒させて、尾形に手を引かれるままに走り出した。向かう先では土方と杉元が会話している。先の事を決めているのだろう。
「永倉達を探して合流する。お前達は先に月形へ向かえ」
「こいつらと?」
「何の話だ?」
『っ…二手に、分かれるようですよ…はぁ、大所帯っですからね、分割しないと…はー…目立ちます』
「紗和夫人大丈夫か?ジジイ達と行ったがいいんじゃねぇか?馬もあるし」
「アシㇼパも歳頃の娘だ。一人くらい女が傍に居た方が助かる事もあるだろう」
「…ホントに大丈夫か…?」
ゼェゼェ息を切らしている紗和の背中を擦ってやる牛山は、暫く背負ってやるよ、と紗和の前にしゃがみ込んだ。
申し訳ありません…お世話になります、と素直におんぶされる紗和は、永倉のジジイに拾われて来た頃より少し重くなったな、いい事だ、もっと太れ、と牛山に説かれながら夕張の町を出た。
…尾形は周囲を警戒しながらも、その後ろ姿を深淵から這い出てきた怨嗟の化け物のような瞳で見つめていた。
何故俺を頼らない、という言葉は喉の奥に詰まったまま。
────
「紗和夫人、川渡ったら降ろすからな」
『はい…漸く落ち着きました』
「肉がついてきたから、そのうち体力もついてくるさ。そう焦るなよ。疲れたらまた言いな、いつでもおぶってやるから」
『ありがとうございます』
とにかくちゃんと飯を食わないとな、と片手で背負い直した私を軽々と揺らしながら川を渡る為に靴を脱いでいる牛山様が笑う。その前方で杉元さんが、用心の為に人里を避けて月形まで向かう、土地の人間の証言をつたって追跡されるから、と方針を話していた。
振り向くと尾形様は双眼鏡を目元にあてて後方の警戒をしている。牛山様に降ろして頂いたら、尾形様の傍を歩いてもいいだろうか。
…川を渡って少し歩いた茂みの中を、ヤマシギという鳥が歩いているのをアシㇼパちゃんが杉元さんに見せてやっている。アイヌはヤマシギの事を〝トゥレㇷ゚タ チㇼ〟と呼ぶらしい。地面から餌を掘り出す長い嘴がアイヌの使うオオウバユリの根を掘る道具に似ているから〝ウバユリを掘る鳥〟という意味を持つそうだ。
──多分私にも、アイヌの血が流れている。口さがない使用人達の噂では、母が私を孕んだ時期に気に入っていた男が、私と同じ緑の瞳をしたロシア系アイヌだったそうだから。
けれど私は和人の中で生きてきたから、自分と同じ血を持つはずのアイヌの暮らしや文化の事は殆ど知らない。彼らは文字を持たない民族だから、違う文化の中で暮らす人間に彼らの暮らしを伝える方法は酷く少ない。
彼女の傍に居ればそれを知る機会も増えるのだろうか。それを思うと、この徒歩の旅も悪くないと思える。脳ミソは食べたくないけれど。
「おい!尾形、やめておけ」
「なんでだよ。食うんだろ?」
「一羽に当てられたとしても他のが逃げてしまう。ヤマシギは蛇行して飛ぶのでその銃の弾じゃ当てるのは難しい。
私達はヤマシギの習性を利用した罠を知っている。枝でヤマシギが通りたくなる通路を作って括り罠を沢山仕掛ける。罠なら皆の分も獲れる」
「フン…」
『アシㇼパちゃんは、物知りですね…私よりずっと歳下なのに、私よりずっと生き方を知っているのですね』
「全て父が教えてくれた事だ。紗和と言ったか。お前何歳なんだ?」
『もうすぐ二十八になります…』
「ええっ!?み、見えない…」
沢山の括り罠を作るアシㇼパちゃんとのやり取りに、てっきり俺より歳下かと思ってた、と杉元さんが口元を隠して驚いている。私は顔はともかく、背が小さいから歳より若く見られるが、彼は私を何歳だと思っていたのだろうか。尾形様まで真ん丸に目を見開いてこちらを振り返っていた。年増なのは知っていたでしょうに。
…その夜はヤマシギの罠に期待しながらそれぞれが持っていた食糧を出し合って野草と一緒に作ったあり合わせの鍋を食し、焚き火を囲んで野宿した。月形まで人里に降りる予定は無いようだから、明日もきっと野宿だろう。
──翌朝。あれだけ罠を仕掛けたのに二羽しか掛からなかった事にご機嫌斜めのアシㇼパちゃんが不機嫌丸出しで羽根を毟っていて、雑に投げられた羽根が顔に直撃している杉元さんが顔を顰めて嫌がっている。けれど険悪な空気は無い。隣合って作業している二人は仲が良いのだなと思う。微笑ましいやり取りだ。
──ドサドサッ
『まぁ、こんなに沢山』
「今朝また居なくなったと思ったら……散弾じゃないのによく撃ち落としてこれたもんだ」
『尾形様は銃が本当にお上手ですね』
「フンー!」
「腹立つなコイツ」
「チッ…アシㇼパさんに無理だって言われたからムキになっちゃってさ…ハンッ!」
「杉元は銃が下手くそだから妬ましいな!」
「別に!!」
尾形様が獲って来た三羽のヤマシギにコロッと機嫌を直したアシㇼパちゃんはご機嫌な笑顔で杉元さんを揶揄っていて、杉元さんは顔を伏せて羽根を毟っている。
…得意げな顔をした尾形様は、ヤマシギの羽根を毟ろうと手を伸ばした私の手を取って、何でそうしたのか自分でも分からないと言いたげな顔で手をじっと見下ろしている。きっと褒めて欲しいのだろうと思ってその手を尾形様の頭の上に伸ばすと、瞳をキュッと小さくして驚いて、数秒逡巡した様子を見せた後に目を伏せた。心做しか頭も少しだけ、撫でやすいように傾けられている。
「「えっ?」」
『ふふ、尾形様…偉いですねぇ、これで皆お腹いっぱいご飯が食べられます。ありがとうございます』
「フン…」
ほんの少し満足気に微笑んだ尾形様が可愛くて、思わず頬が弛む私と尾形様を唖然とした顔で見ている杉元さんとアシㇼパちゃんがこちらを指差して、二人はそういう…?と杉元さんがキラキラした目で問うてきた。恋の話が好きらしい。
…ヤマシギの羽根を毟る尾形様の頭をそっと整えながら、私が一方的にお慕いしているだけです、と答えた。嘘だぁ、とにじり寄って来る杉元さんに、うるせぇよ一等卒、さっさと羽根毟れ、とヤマシギを押し付けた尾形様は、お前も、と私の膝にヤマシギを乗せた。尾形様が撃ったものだ。
羽根を毟りながらそっと尾形様を窺うと、彼は私の手元をじっと見下ろして暗い瞳をしていた。良くない過去に沈溺している時の人の目をしている。最初の夫の遺骨を持ち帰ってきた、日清戦争の帰還兵を思い出した。
『尾形様、ヤマシギのお肉楽しみですね。ヤマシギは仏蘭西では高級食材なのですよ』
「………そうかよ」
『婚家では生臭物を食べるなと言われて…十三で嫁いで以来ずっと食べられずにいたので、今こうやってお肉も魚も食べられる生活が私は幸せです。沢山鳥を撃って来てくださる、尾形様のおかげですね』
「そうかよ」
『はい。だからお礼に、美味しいお鍋を作りますね』
「…ああ」
紗和夫人は尾形の扱いが上手いだろ、と杉元さんに耳打ちしている牛山様に、アシㇼパちゃんが大きく頷いていた。扱っているつもりはないのだけれど。私はただ、尾形様が心安らかに過ごせるように言葉を選んでいるだけで。物憂げなお顔が、私の言葉で少しでも安らいでくれたらと、そうしているだけで。
…鳥を捌くのに、当たり前のような顔をして頭骨を切り開くアシㇼパちゃんに、先程放たれた〝脳ミソが美味い〟という発言を思い出して血の気が引いた。本当に食べるんだ。しかも生で。
真っ先に飛びついてズルズルと啜り、チパチパと指についたそれまでしゃぶっている杉元さんを胡乱な目で見てしまう。つい尾形様を窺うと、彼も信じられないものを見る目で杉元さんを見ていた。そしてこちらを見て、私の表情を確認してホッとしたような目をした。
──結論として、牛山様はアシㇼパちゃんの輝く眼差しに負けて脳ミソを啜った。食べてもいいものなのかい?それ、と青い顔で冷や汗を掻きながら。
「尾形も、ホラ」
「いや俺は要らん」
「…紗和……」
『すみません、私お腹が弱くてナマモノが食べられないんです』
「……それなら仕方ない…胃薬は要るか?」
『いえ、火を通したものなら平気なので必要ありませんよ。アシㇼパちゃん、お気遣いありがとうございます』
尾形様は素気無くキッパリと、私は屁理屈を捏ね回してやんわりと、塩を振っただけの生脳ミソから逃げた。お腹が弱いのは嘘では無いのだし。
私の言い訳に天啓を得たのか、俺も慣れない物を沢山食うと腹が痛くなるんだった、と言って牛山様も指で一掬いしたきり口をつけていなかった脳ミソを杉元さんに押し付けていた。杉元さんは無垢な瞳でそれを喜んで食べている。
…まさか肉まで生で出てくるなんて事はないだろうか。私の中でアイヌの食文化への期待がジワジワと下がっていくのを感じる。
脳ミソを食べ終わった杉元さん達は肉を刃物で叩いて〝チタタㇷ゚〟という料理を作るらしい。これもアイヌの伝統料理だが、本来は生で食べるところをつみれ汁にしてくれると言う。心底安心した。安心して調理に参加した。
チタタㇷ゚は皆で交代しながら肉を叩くのだと言う。その際に〝チタタㇷ゚〟と唱えながら叩くのがアシㇼパちゃんのお家の決まりらしい。アシㇼパちゃんの亡くなった母親が言い出しっぺだと聞いた。お茶目な女性だったようだ。
『…チタタㇷ゚…チタタㇷ゚…チタタㇷ゚…』
「紗和はアイヌ語の発音が上手いな。杉元はいつもチタタプって言ってるのに」
『ふふ、褒めて頂けて嬉しいです。外国の言葉には口の動きと息だけで声を出さずに発音する音が沢山あるので、そのようにしているんです』
「外国の言葉が話せるのか?」
『……英語で挨拶と自己紹介と、少しの世間話が出来るくらいです。日露戦争で死んだ夫が教えてくれました』
「そっか…紗和さんの旦那さんも日露戦争で」
チタタㇷ゚と言わない、という理由で杉元さんとアシㇼパちゃんに絡まれている尾形様の横で代わりにチタタㇷ゚と唱えていると、アシㇼパちゃんが私をそう褒めた。確かに無声音というのは和人にはあまり馴染みがない。杉元さんも牛山様も〝チタタプ〟と言っている。
…夫を日露戦争で亡くしたという言葉に心做しか私に向けられる視線が柔らかくなった杉元さんが悼ましげにそう言って、どんな人だったのぉ?と目を輝かせた。
尾形様の前でこの話をするのは気が進まなかったけれど、この中で一番女に対しても容赦ないであろう杉元さんの好感度を稼ぐのも大切だと思って、少しだけ夫の事を語る。
──最初の夫は日清戦争で死に、三回忌が明けると同時にその弟と再婚した事。今話している夫とはその再婚相手である事。夫は穏やかで物静かで、いつも機嫌よく微笑む、知的な人だった事。彼は私を妹のように可愛がり、私は彼を兄のように慕っていた事。ただそれだけで男女の情はない事。
『…ご期待に添えないお話で、すみません杉元さん』
「や、そんな、ウン…夫婦って言っても色々あるしね……こっちこそごめんね」
「紗和はどうして、好きでもない男に嫁いだんだ?」
『父に売られたのです。私の母は性に奔放な人で、私は多分父の子ではないのです。父は自分の血を引かない私を疎んで、男色家の息子の為に男も女もないような歳の幼い嫁を求めて結納金をたっぷり積んだ婚家に、喜んで私を放り投げたのです』
「……酷い親だ。娘をそんな風に扱うなんて」
『いいんです。もう済んだ事ですから。生家に残してきた弟…誠司さんの事は少し心配ですけど…誠司さんを産んだお妾さんは真面目な方で誠司さんは正真正銘父の子ですし、私のような扱いは受けていないでしょう。ただ誠司さんは私の事をよく慕ってくれましたから、私の事で父との仲が悪化していないといいなと思うだけです』
「…お前、異母弟が居るのか」
『異母弟というか…血筋だけ見れば他人ですけど、まぁ、弟です』
ヤマシギのチタタㇷ゚を肉団子にして鍋に入れながら話していた事に思わぬ所で尾形様が食いついた。弟をどう思ってる、と身を乗り出してきた尾形様に、姉さん姉さんと懐いてくれる可愛い子でしたよ、私と関わってくれる唯一の家族でした、嫁いでからは手紙も出せなかったのでどうしているか分からないです、そう答えると尾形様は深く鼻で溜息のような息を吐いて、口元に笑みを湛えて目を伏せた。何か思うところがあるのだろう。
…お父様は地位のある人のようだし、尾形様とは苗字が違う。婚外子なのが尾形様で、ご正妻との間に腹違いのご兄弟がいるのだろう事まで理解して、そして、私と誠司さんの関係ときっと近しいものなのだろうと尾形様の反応で推測した。この人は意外と、瞳も仕草も関心の方向も雄弁だから。
──ヤマシギとクマゲラのカムイの恋の話を聞かせてくれるアシㇼパちゃんに、杉元さんと牛山様が乙女のような表情で聞き入っている。のを素無視しておかわりを求めて器を突き出してきた尾形様からお椀を受け取って、私を除く面々に二杯目が同じくらいの量行き渡るように考えながらおかわりをよそった。本当はもっと沢山食べて頂きたいけれど。
────
「白石の下らん話は放っといて、恋といえば土方さん、紗和の事はどうなさるおつもりなんですか」
「尾形は順調に紗和に絆されていっているからな。そのうち正式に軍を辞めるか、今回の鶴見中尉の造反を陸軍本部に報告した見返りに下士官に出世するなりして、紗和を嫁にくれと言ってくるだろう」
「…私は許しませんよ。大体紗和は今は私の娘です。父親に許可も得ずに娘の周りを彷徨く男なんぞ、斬り捨てられたって文句は言えんでしょう」
「周りを彷徨いてるのは紗和の方だ。現実を見ろ」
「しかしですね…」
焚き火を囲んで話した白石の恋の話を下らんと言い捨てて横になったキロランケを尻目に、永倉が土方に苦言を呈している。尾形の事が気に食わないと言うよりは、可愛い紗和に寄り付く男は誰であろうと気に食わないのだろう。土方は鷹揚に笑いながら、白湯を飲んだ。
…紗和ちゃんはさぁ、とキロランケに貶されて拗ねたように寝転がった白石が口を挟む。
「尾形ちゃんの何処が好きなんだろうね」
「顔と声だそうだ」
「安直ッ」
「ただ今となってはもう、尾形が愛しくて仕方がないのだろう。尾形の事を可愛いと言っていた。
笑っていて欲しい、苦しい思いや辛い思いをしないで暮らして欲しい、その傍に自分を置いて欲しい。けれど自分でない誰かでも尾形を幸せにしてくれるなら、それでいいそうだ」
「愛だねぇ…」
そんなに愛されてて尾形ちゃんは幸せ者だねぇ、と白石は土方達の昔話を子守歌に瞼を下ろした。ほんの少し見ただけだけれど、紗和が尾形に向ける視線が少し羨ましかった事が印象に残っている。
…馬がある故に街道沿いを進んだ土方一行は、樺戸監獄のある月形の街がもう目と鼻の先だ。
──翌日。樺戸監獄の典獄から探し人の〝熊岸 長庵〟が死んだと聞かされて計画変更を伝える為に月形の町で杉元達を待つと決めて土方達が宿をとった頃。紗和達は月形まであと少しのところをアイヌのコタンで休ませて貰おうと寄り道していた。
村長の家に通して貰う為にアイヌ式の訪問の手順を踏んで外で待たされる事になった面々の中で紗和が、村の中を不自然に思われない程度に見回している尾形の腕に身を寄せて、尾形様、と外套の裾を引いた。
『ここは変な村ですね。この規模なのに子供の姿も声もありません。女性達も何処か緊張しているようです』
「ああ、男共が怪しいな。杉元はちっとも疑っちゃいねぇけどな」
『杉元さん、アイヌに対して心を許しすぎでは?』
「しょうがねぇだろ。馬鹿なんだから」
『やめてあげましょうよ…純真だと言っておきましょう』
頭一つ分の身長差を埋める為に少し背伸びした紗和と、少し腰を屈めてやる尾形。頭を寄せ合って小さな声で話している姿を微笑ましく見守る牛山の想定とは違い、二人は随分と殺伐とした話をしていた。
暇を持て余してヒラヒラと舞う蝶を目で追う尾形を柔らかく弧を描いた瞳で見上げて紗和は、またきっとロクでもない事が起こるに違いない、と懐の銃を撫でた。
…まだなのか、とアシㇼパに聞いた牛山に、アイヌの本当にあった丁寧なんだか無礼なんだか分からない役人への対応の話を聞きながら、紗和はとうとう我慢出来なくなったのか蝶に手を伸ばして追いかけ始めた尾形を見つめていた。
「
「あッ、よし、牛山手を出せ」
「全員で手を繋ぐのか?」
「背筋を伸ばすなッ、手を引かれて招き入れられる時は腰を屈めるのが作法だぞ」
牛山と尾形の間で両手を繋がれた紗和は、言われた通りに腰を屈めてアイヌのチセに入る。口の周りに刺青を入れた女性の斜向かいに座らされて、家長らしき老人の挨拶を受ける。
拝む仕草の後に〝
…嗚呼、男達はアイヌではないのか、と紗和が愛想の良い笑みを浮かべたまま正座した爪先を茣蓙に立てていつでも立ち上がれる姿勢をとった。
「この子は…どうしてアンタらと一緒に居るんだ?」
「あー…ちょっと駄賃をやって案内をさせてるんだ。俺達はこうやってアイヌの村にも滞在したりするんでね」
「そうか…」
取り繕ったつもりらしい〝エクロㇰ〟と名乗る男は家族を紹介しようとするが、またアシㇼパがそれを遮って、オソマ行ってくる!と立ち上がる。へ?と戸惑うエクロㇰ。我慢出来ないの?と止めた杉元に、もうオソマが出口まで来てる!そう言って聞かないアシㇼパがチセを出て行く。
「んまぁ〜!下品ッ……すみませんね、普段は礼儀正しいんだけど……他の家ではこういった場で挨拶の邪魔なんてしなかったし、頭の鉢巻とかも取ってちゃんとしてたのに…どうしたんだろうな」
「…………気にしてない。子供のやる事だから。
うちの便所は分かりにくい場所にある。迷ってないかちょっと見てこい」
そうエクロㇰに肩を叩かれて弟として紹介されようとしていた男が立ち上がる瞬間、ヤクザ者の刺青がチラリと覗いた事に紗和は気付いて、尾形の方を窺った。小さく頷かれる事にホッとした。同じモノを見たらしい。
「ムㇱオンカミって、どういう意味だ?
…………おや?もしかして分からんのか?」
「ムㇱオンカミはちょっと聞いた事がない。さっきの娘はこの辺のアイヌか?アイヌ語にも方言がある」
「うんうん確かに!行者にんにくだけでも〝プクサ〟とか〝フラルイキナ〟とか違う呼び名があるらしいからね。
一体何を疑ってるんだ尾形!この人達に失礼な真似は許さんぞ!」
「こいつら本当にアイヌか?」
『…子熊の扱いも悪いように思います。先程は言い訳されてましたけど、アイヌは子熊を大切にするんでしょう?暮らしに余裕が無いんだとしても、どうしてあんな扱いになる前に送る儀式をなさらないんです?』
「紗和さんまでッ…ほら見ろこの耳朶!アイヌは耳朶が分厚いんだ、シンナキサラじゃない!」
「福耳にしか見えねぇけどな」
訝しむ尾形と紗和にエクロㇰの耳を見せてくる杉元にそう突っ込んだ尾形に小さく頷いて、辺りを見渡していざという時の隠れ場所を見繕った紗和の視線の向こう、窓から顔を覗かせた女性が〝
…今のご婦人はなんと?と紳士故に女性を気にかけて仕方がない牛山が問うも、和人をよく思わないアイヌも居る、とはぐらかすエクロㇰを紗和と尾形がじっと見つめる。
〝モノア〟と紹介されていたアイヌの女性が、同じ言葉を叫んだ。助けを求める顔をしている。出て行けと凄まれてチセを出て行くモノアの背中を紗和が小さく唇を噛んで目で追っていた。
「何か奥さんの気に障ったかな?失礼があったらすまない」
「いやいや…」
「やっぱりどうも様子がおかしいぞ」
「まだ言うか尾形!
よし分かった!さっきそこの〝シントコ〟の裏に落ちてるのが見えたんだが…これを使ってみせてくれ。ほんとのアイヌなら使い方を知ってるはずだ。
ちなみに俺は、アシㇼパさんほど上手く使えなかった…」
用途の知れない三又に別れて布が巻かれた棒切れ─キサラリ─に、なにそれ、と杉元を除く面々の心の声が一致した瞬間だった。
まず話を振られたのは牛山で、杉元の〝使ってみせてくれ〟という言葉の通りに牛山はキサラリを暫く捏ねくり回した後、思う用途で使ってみせる。何故持ち主が未亡人である必要があるのだろうか、と遠い目をする紗和。
…孫の手のように使ってみせた牛山に、全然違うッ、と杉元の怒号が飛んだ。
次にキサラリを渡されたのは
「もういい。寄越せ。俺が正しい使い方を当ててやる」
「尾形に分かるかなぁ〜?」
「フッ……」
─ガツンッ…!
「痛たあっ!」
「この使い方が正しかったようだな」
『ふふ、やっぱり日本語話せたんですね』
してやったり、と笑う尾形の隣にいつの間にか移動していた紗和が、困った人、と尾形に微笑んでいる。
足を抱えるように床に転がって痛みに悶えるレタンノを助け起こした杉元が、日本語を話せるアイヌなんて珍しくもなんともない、何てことするんだ尾形、と非難するが、杉元はまだレタンノ達をアイヌと信じている様子だ。
「ほんとにアイヌなら痛い時とっさに日本語が出るもんかね?」
『咄嗟の時って、お国言葉が出ますよね』
「そもそもこの人達がアイヌのフリをして何の得があるって言うんだ!?二人共いい加減にしろッ」
そこにアシㇼパを便所まで案内すると言って席を外した男が戻ってくる。エクロㇰと声を潜めて話し込み、紗和達を不穏に眼差した。
…そこでやっと手洗いにしては戻るのが遅い事に思い至った杉元が、あれ?アシㇼパさんは?と男達に問うた。
──そして男は答える。アイヌの女の仕事が出来ないアシㇼパが、近所の女性に刺繍を教わって夢中になっている、と。杉元の目の色が変わったのを見た紗和が尾形の背に隠れた。
──バキンッ!
「アシㇼパさんが〝刺繍に夢中〟だぁ?てめえ……あの子をどこへやった?」
「あ?なんだその足」
「そうそう。さっきも出て行く時にちらっと足首に見えた気がしたんだよな。その〝俱利迦羅紋紋〟が……ヤクザがアイヌのフリか?」
「ゔぇろろろろごうろろろあ゛あ゛ッッ!!」
アシㇼパさんを何処へやった!!という杉元の殺気に塗れた怒号と共に、それは始まった。
────
「流れ弾が飛んでくる前に部屋の隅に行け、あの漆器の山の影にでも隠れてろ、いいな」
『はい』
俺の一声で外に居る仲間があのガキの喉を掻き切るぜ、と鉈か何かを抜いた男の首を杉元さんが圧し折るところまでを見届けて、尾形様に言われるままに漆器の影に小さくなって息を殺していた。戦いとなると役立たずな私はせめて誰の足も引っ張らないように動くしかない事は分かっているから。
…杉元さんが銃の扱いはそこまで得意でない為か銃声は少ない。肉を殴打する鈍い音と男達の断末魔の間に、女性の怒号が入り混じる。アイヌの女性達も蜂起したようだ。
──村が静まり返るまで、そう時間はかからなかったように思う。
もう出てきていいぞ、と尾形様の言葉で漆器の影を出て家からも出ると、村にはゴロゴロと男の死体が転がっているのを目にした。
アシㇼパちゃんがそれを見て立ち尽くしている。
「杉元のやつ…殆ど一人で偽アイヌ共を皆殺しにしやがった。おっかねぇ男だぜ」
「ッ……」
「アシㇼパさん。アシㇼパさん、怪我は無いかい?奴らに酷い事されなかった?」
『……杉元さんのあの二面性をどうも飲み込めずにいるんですよね、私』
「俺もだ」
そう言って、この数の墓穴を掘るのは骨が折れるな、と髪を整える尾形様が、牛山を探して来る、力仕事ならあの野郎が一番向いてる、と鍬等の穴掘りに使える道具を三本集めると杉元さんに一本持たせ、穴掘りは練兵で慣れっこだろ、と村の周りの草原に墓穴を掘れと指示を出して、アシㇼパちゃんには通訳として女共との間に立てと言う。
…動揺から立ち直ったアシㇼパちゃんは女性達に、死体を村の外に運び出して埋めよう、手伝ってくれ、と話しかけ立派に仲立ちしてくれた。私も女性たちを手伝って死体を運んだし、墓穴に放り込んだ死体に土を被せもした。
──丸一日かかった埋葬が終わり、二十に迫る数の土饅頭を前に、私も少し動揺していた。女性達が忌まわしげに墓を後にし、アシㇼパちゃん達もアイヌの家へと案内されて行くのを見送って、私は真新しい墓の前に膝をついて、手を合わせた。
そして馴染み深い修証義を唱える。尾形様だけがそんな私の後ろに立っていた。
「そんな奴ら、お前が手を合わせて経を唱えてやる程の価値は無いだろ」
『…確かに殺生は、仏の教えに反する行いです。彼らは罪を償う為に入った監獄から脱獄して、無辜のアイヌの男性達を殺し、女性達を脅し、この村を支配して更に罪の上塗りを重ねました。けれど、それは彼らが根っからの悪人だったからでしょうか?
……育った環境や時代が原因で悪意に染まって、その結果罪を犯してしまっただけで、この人達にも幼く無垢な頃があったでしょう。ならば弔ってあげましょう、かつては無垢だった魂の冥福を祈って』
「………お前は…俺が死んでもそうやって、手を合わせて経を上げるのか」
『勿論です。でも…そうする前にきっと、この世の終わりのように嘆くと思います。
そしてきっと、一生忘れません。貴方を喪った悲しみが癒える時は訪れないでしょう』
「……そうか…」
真言を唱え終えて振り返ると尾形様は、考え込むように俯いている。耳の先だけが、少し赤いように見えた。
…村に戻ると子供達が駆け回り、一人生き残って縄で柱に繋がれた囚人を棒でつついたりして遊んでいる姿があった。子供達までは殺されていなかった事に酷く安心して、この子達が生きていて良かったですね、と尾形様に声をかけたけれど、彼は心ここに在らずと言った様子でまだ考え込んでいる様子で、私は何か言ってはいけない事を言ったのだろうかと不安になる。
──アイヌの女性達からお礼のご馳走を振舞って貰う中で尾形様が食事の支度に使っている杵を〝ソレさっき囚人の頭を殴ってたやつだろ〟と指摘したり、杉元さんの持ち込んだ味噌を大便だと思ってアイヌの女性達が困惑したり、登場人物全員が変態のアイヌの昔話をアシㇼパちゃんが聞かせてくれるなどの一幕を経て、一棟家を借りて
「…お前は」
『はい、なんでしょうか』
「奴らにも幼く無垢な頃があったはずだと、だから弔ってやるのだと、そう言ったな」
『ええ』
「……欠けた人間にも、幼く無垢な頃があったと思うのか」
『欠けた人間、ですか?』
「愛の無い両親が交わって産まれた、人として当たり前に備わっているべきものが欠けた人間だ」
『そもそも、何もかもが過不足なく揃った完璧な人など、居るのでしょうか』
「居る。俺はそういう奴を知っている」
肩を押さえつけていた尾形様のゴツゴツした手が離れたかと思えば私の腰を掴み、寝むのに邪魔で解いていた帯のない腹を這い、袷をなぞって首へと至り、脈を測るように首の両脇に親指と中指を添えてボソボソと言葉を連ねている。黒檀のような瞳が揺れていた。
…嗚呼、これが尾形様の傷なのだ。やっと、触れさせてくれた。やっと私に、見せてくれた。
──抱え切れない歓喜に瞳が潤んで、頬に熱が昇る。
私の首に添えられた指の力は強くも弱くもなく、逃がす気は無いが殺す気も無い、そんな加減であった。その手に自分の手を添えて、親指を優しく引き剥がす。戸惑うように震えた手を頬に運び、擦り寄った。尾形様は努力家で働き者の手をしていた。
『そんな人が居るとしても…私は…』
「私は?」
『もし欠けているのだとしても、私は貴方が好き。貴方だけが、好き…』
「ッ……馬鹿か、お前」
尾形様の声が掠れ、頬を包む指先に力が込もる。黒い瞳が激しく揺れ、まるで信じられないものを見るような、怒りと戸惑いと何かを堪えるような複雑な表情を浮かべていた。
…嗚呼、貴方は誰にも、好きだと言われた事がなかったのですね。こんな女の〝好き〟にも、動揺するくらい。そう思うともう、言葉が止まらなかった。
──今私に触れている、ゴツゴツした頑張り屋さんの手が好き。滑らかに銃を操るところなんて見惚れてしまうくらい。
皮肉ばっかり言うけれど、相手への思いやりが滲み出てしまう不器用なお口が好き。相手の心を抉るような嫌味だって、その人をよく見ていないと出ないから。
何事にも無関心そうにしているけれど、意外と雄弁で素直な瞳が好き。動揺したら相手から目を逸らしてしまうところも、人間らしくて素敵。
小さい子供やお年寄りなんかの、か弱い人に優しくて面倒見がいいところも好き。見捨てられないのは心根が優しい証拠。
動揺を顕に硬直する尾形様の掌に唇を寄せて、初めてそこに口づけをした。
────貴方は愛に、値する人。私の愛する人。
「ッ……責任を取れ。俺に、こんな情を植え付けた責任を取れ」
『どうすれば、よろしいのですか?』
「…………俺を、俺だけを見ろ」
『ずっと見ていましたよ、貴方だけ。尾形様……私は貴方をお慕い申し上げております』
崩れ落ちるように私の首筋に顔を寄せた尾形様が、俺はお前の思っているような人間じゃない、失望したってもう逃がさねぇぞ、と唸った。その言葉の熱が、肌に直接触れるように響いた。
…首を捻ってこめかみに唇を寄せると、尾形様がこちらを向いた。黒い瞳が間近で揺れ、息が混じり合うほどの距離で、噛み付くように唇が重ねられた。
少しカサついた唇が、私の唇を貪るように食んだ。整髪料に含まれる丁子の香りと、白粉や花を思わせる粉っぽいような肌の香りと、服に染み付いた硝煙の香りが鼻腔を満たす。泣きたくなるくらいに心が安らぐ香りだった。
尾形様の口吸いは最初は荒々しくまるで怒っているかのように激しかったのに、徐々にその力が緩み、逡巡するような小さな震えが混じり始めた。
──好き。好き。
口吸いの合間に、鳴き声のようにその言葉を繰り返すと、尾形様の喉が低く鳴る。掠れた笑い声が唇の隙間から漏れ、距離が近すぎてぼやけた視界に、まるで心地よい時の猫のように目を細めた尾形様が映った。
その瞳の奥に、戸惑いと、怒りのようなものと、それでも抑えきれない熱が渦巻いているのが分かった。嗚呼、やっと、この人の心の奥に触れられた。
────それがあまりにも愛おしくて、この人になら、殺されてもいいと思った。
────
「あれ?紗和は何処に行った?」
「紗和さん?あれ、居ないな…」
「紗和夫人ならここに居るぞ」
ホラ見ろ、と尾形の腕の中を指差す牛山の指先を追うと、尾形の腕の中で尾形の纏う外套に包まるようにして紗和が寝息を立てていた。尾形は既に起きているものの、二の腕を枕に寝ている紗和を叩き起こす事が出来ずに横になったまま紗和の目覚めを待っているような様子で、それを指差して声をあげようとした杉元の口をアシㇼパが手で塞いだ。
…それでも騒ぎは騒ぎだ。紗和の眉がムズがるように寄って、ンン、と鼻声をあげてから瞼を開いた。
『…おはようございます』
「起きたんならさっさと退け。腕が痺れて敵わん」
『でも、起こさないでいてくれたんですよね。ありがとうございます』
一層柔らかな声で尾形に微笑む紗和に、尾形は小さく舌打ちして顔を背けた。それに対して、女性に失礼な態度をとるな、大体未婚の男女が一緒に寝るなんて、と食ってかかる杉元にチクチクと嫌味を刺している尾形の殴り合いになる寸前のような応酬を聞きながら、紗和はアシㇼパに手伝ってもらって帯を巻き直し、チセの隅で男性陣に背を向けて軽く化粧を直すと、お待たせしてしまってすみません、と眉を垂らして微笑んだ。
…一行は身支度を整えるとアイヌの女性達と共に生き残りの刺青脱獄囚で詐欺師の〝鈴川聖弘〟の処遇を話し合う。
アイヌの女性達は〝主犯はこの男だが、これ以上この男に関わりたくない〟と望んだので、杉元達でどうするかを決める事になる。
面倒だから殺して皮を剥いで行こう、と主張した尾形に、無抵抗の人間まで殺したくない、とアシㇼパが反論し、鈴川は命惜しさに他の囚人の情報があると訴えた。
「…ほお」
「どうだかな。お前詐欺師だろう?時間稼ぎの嘘かもよ」
「嘘なら舌を引っこ抜いてやるさ。閻魔様がやるか俺がやるかの違いだろ?
先を急いでるから鈴川聖弘は連れて行く。土方歳三達と合流してからコイツの処遇を相談しよう」
『顔こわ…』
「ハハァ、俺も〝怖い顔〟の部類なんだがな…」
杉元の脅しに死んだ目をして俯いている鈴川を憐れむような目で見ながら紗和は尾形の背中に隠れた。昨夜あれだけ愛を囁かれても何故ここまで紗和に懐かれているのかがイマイチ分かっていない尾形も、紗和が外套の背にしがみついてくる事に少し遠い目をした。
「この村は男が居なくなったからずっとコタンに居ろと言っている。チンポ先生が大人気だ。熊に勝ったし、強い子供が出来ると言っている。」
「悪いが用事があるんでね」
「子種だけ置いていけないだろうか…」
「弱みにつけ込むのは良くないぞ牛山。責任取れるのか?」
「弱くなんかない。アイヌの女だって強かなんだ。このコタンは必ず生き返る。
さあ先を急ごう。白石もきっと杉元に逢いたくて寂しがってる」
うおおおおおおおぉ女ァ!と雄叫びをあげる牛山を両脇から抱えて引き摺る杉元と鈴川、そして両足だけでなく股間からも土を抉った線を残しながら引き摺られる牛山。それを引いたような目で見る紗和は、牛山様は此処に残った方が幸せに暮らせそうですよね、と尾形に囁いた。
そうだろうが置いて行く訳にもいかんだろ、と返して尾形は一行の最後尾でひっそりと、紗和の手を引いた。
…樺戸監獄のある月形町はもう目の前だ。
「あらっ!」
「はァ?」
樺戸監獄から一番近い宿屋で落ち合う約束をしていた通りに永倉達と合流したが、夕張で別れたはずの土方と白石とキロランケの姿が無い。永倉と家永だけが宿で杉元達を待っていた。
最後尾を歩く紗和と尾形の手が繋がれている事に気付いて黄色い声をあげた家永と、地を這うような声を漏らした永倉。正反対の反応を示した同年代の老人二人は紗和に詰め寄り、すぐさま永倉が尾形から引き剥がして、家永が根掘り葉掘り聞く為に宿の部屋へと連れて行く。尾形と紗和が二人揃って目を丸くしてされるがままになっているのが家永は面白くて、永倉は気に入らなかった。
…そこで初めて明確に紗和と尾形の関係を察した杉元は、身近な所で発生した恋の話にときめけばいいのか、相手が尾形である事に噛み付けばいいのか分からない、と複雑そうな顔をしていた。
「お若いですねぇ、お二人共。少し離れてる間にすっかり仲睦まじく……嗚呼、紗和さんのお肌がいつになくツヤツヤと」
『そんなに近くで見られたら恥ずかしいです、家永様』
「尾形さんとはどこまで…?
ああっ、早くお二人の赤ちゃんが見たいっ…お産を手伝いますから、胎盤を私にくださいね。あれは栄養があるらしいの」
『気が早いですよ…』
土方達が月形で得た二つの悪い報せを永倉から共有し、月形に着いて早々に第七師団に捕まった白石を奪還しに行った土方達を追いかけて深川村へ向かう道中、紗和は涎を啜る家永に詰め寄られていた。たまに見兼ねた尾形が間に入ってくれるけれど、基本的に逃げ場の無い馬の背中で家永に詰め寄られ続けて深川村に着く頃には疲労困憊になった紗和の背中を尾形が気遣わしげに摩る姿があった。
「平気か」
『食べられるかと思いました…苦手なんですよね、あの、涎を垂らして迫ってくるところ…』
「得意な奴は居らんだろ」
『でも、嬉しかったです。間に入ってくださって…ありがとうございます』
「別に…礼をされる程の事じゃねえよ」
『ふふ』
深川村に着いて土方とキロランケを探している一行の一番後ろで、紗和は腰を屈めて頭を差し出す尾形の頭を撫でていた。そのやり取りに気付いた永倉がジト目で尾形を見ている。
…無事深川村で合流した土方とキロランケも、紗和の心底幸せそうな微笑みが尾形に向けられている事に関係性の進展を察して微笑ましそうに二人を見た。元より土方は紗和の恋路を後押しした張本人なので。
「恐らく白石は今頃は旭川へ着いてしまっているだろう。アイツが勝手に脱出できたとしても、いつになるか分からないものを我々は待っている訳にもいかない」
「そもそも脱出できるかどうか…脱獄王とはいえ監獄とは違うんだ。どんな扱いを受けているか」
「今この瞬間、皮を剥がされているかも」
『家永様はどうして楽しそうなんです?』
「尾形見て来いよ。お前第七師団だろ」
「………俺は今脱走兵扱いだ」
「キロランケは?元第七師団だろ?」
「俺はカムイコタンで顔を見られた」
話の流れが悪かった。白石の事は諦める方向に纏まりつつある。考え込む面々と同じように紗和の頭の中を、初対面で口説いてきた時の白石のキメ顔が過ぎる。諳んじられる台詞から読み取れる使い古し具合に腹が立ったのもついでに思い出す。
…まぁ、いいか。紗和にしては珍しくアッサリ見捨てる方向に思考が向いていた。そもそも白石に対する好感度がかなり低いので。
アイツの刺青は写してあるし、とアシㇼパを肩車して呟く牛山に、紗和もコクンと頷いた。
「いや……俺は助けたい。この詐欺師を使おう」
作戦を立てる為に一度何処かに腰を落ち着けよう、こんな小さい村にはこの人数が入れる宿は無いな、と杉元が言い、アシㇼパの案内で旭川近郊にあるアイヌコタンを目指した。
…その道中で逃げた鈴川をサルカニ合戦よろしく捕獲する等の一幕を経て、一行はアイヌのチセに身を寄せた。
男性陣とアシㇼパに捕獲され、尾形に三十年式歩兵銃の表尺を見せられながら脅されて逃走を諦めた鈴川が、俺にどうしろって言うんだ、と顔を青くして怒鳴り、樺戸監獄で集団脱獄を起こしたように白石を第七師団から助け出せ、方法はお前が考えろ、と土方と永倉に圧をかけられている。
すみませんねぇお騒がせして、と好青年の顔してチセの家主に謝った杉元は一転、羅刹の顔をして鈴川を見下ろした。
「おい鈴川…協力しないなら俺がお前の皮を剥ぐ。この計画でドジを踏めばお前は第七師団に皮を剥がされる。お前が皮を剥がされずに済む道は、計画を成功させるしかない」
「白石が旭川第七師団の兵営の何処にいるのか…中に潜入して探らなければなるまい」
「関係者に成りすますか?」
『酒保に納品する出入り業者を買収して一緒に入らせて貰うというのはどうでしょうか?』
「平時なら紗和の言う方法でも可能だろうが……今はカムイコタンの件で警戒してるはずだから、よほどの関係者じゃない限り簡単に教えるはずがない」
あとお前は尾形から離れなさい、と車座になる時に当たり前のように尾形の膝に乗せられた紗和を話の合間に回収して自分と土方の間に座らせた永倉を暗い目で見ている尾形が、東京の師団の上級将校とかは?と軍の内部に興味のない兵卒ならではの提案をした杉元に、軍は上に行くほど横の繋がりが強いから架空の上級将校はバレる、と否定の言葉を吐いた。
…チセの外から聞こえてくる犬の鳴き声から鈴川が連想した男は網走監獄で典獄を務める〝犬童 四郎助〟で、犬童と面識のある人間達からは似てないと言われても、鈴川は彼なりに見出した変装の極意を語りながら家永の手を借りて変装を始める。
──なんとなく似てきたかも、と牛山が言うが、土方達から見ればあと一歩足りないらしい。それを感じ取った尾形が口を開く。
「第七師団内に網走監獄の典獄と親しい人間が居る可能性は低いが、よほど似てないと多少面識のある人間にはバレちまうぞ?大丈夫か?」
「犬童は…厳格で潔癖、規律の鬼と言われながらも、個人的な恨みで私を幽閉する矛盾を持ち合わせている。心の歪みが顔に現れている」
「確かに……性格って顔に出るよな。ヒグマもキツネっぽい顔つきしてて睨んでくるのは気性の荒いヒグマだって。そうなんだよね?アシㇼパさん?
ダメだ…おねむの時間だ」
「ふむふむ。ならばこれでどうかな?」
『まぁ、別人みたい』
「アンタは俺に損得なく優しくしてくれたから教えてやるよ。覚えておきなお嬢さん。
今回は実在する人間に化けているがね、時には自分よりより弱い…腹の膨れた妊婦だとか、死病を抱えた人間だとか、そういう攻撃するのを躊躇うような存在に化ける事が身を助ける事もある。どんな悪人だって、これから子を産む女や、手にかけなくたって直に死ぬ相手に手をあげるのは躊躇うもんさ」
『ありがとうございます鈴川様。胸に刻んでおきますね』
「今俺が言ったこと、いつか役に立ててくれよ」
はい、と紗和は微笑んだ。道中で鈴川を気遣って声をかけたり傷の手当てをしたりして地道に好感度を稼いできたのが功を奏していた。
…網走監獄の典獄に化けてどうしようってんだ?と鈴川に凄む杉元に、考えがあるから準備が必要だ、と横になる鈴川。先程までの狼狽え様が嘘のようだった。役に没入するタチなのだろうな、と興味関心を鈴川からうつらうつらしているアシㇼパに移した紗和は、アシㇼパちゃんを寝かせる用に余ってるお布団が無いか聞いてきます、と席を立った。その後ろを自然と尾形がついて歩く。懐いた猫のような仕草だった。
──その姿に永倉が頭を抱え、土方が愉快そうに微笑んでいた。
────
『はい、尾形様の分です』
「オイ、それやめろ」
『はい?』
「………お前もそのうち尾形になるだろ」
『まぁっ、そんな事まで考えていてくださったんですか?』
「……俺は娶る気もない女に無責任に手を出す男じゃない」
『ま、ふふ、嬉しい……百之助様とお呼びしても?』
「様も要らん。俺は自分の伴侶に様付けで呼ばれる趣味はない」
『では、百之助さん』
「なんだ」
『不束な女ですが…末永く、一緒に居てくださいませ』
「……ああ」
お借りしたアイヌの家で配膳をしていた時に不意に発生した尾形様…百之助さんとのやり取りに家永様と杉元さんが乙女のような悲鳴を、永倉様が舌打ちを、永倉様を除く年長者達が感心したようなため息を零し、そしてアシㇼパちゃんがコチラを指差して、お前達ケッコンするのか?と聞いてきた。
「アシㇼパ…兵卒は入営前に籍を入れていたならともかく、入営後に妻を娶る事は認められていない…俺は軍での階級は上等兵だ。もう一つ階級を上げて伍長勤務上等兵になれば、上手く誤魔化して妻帯の許可を得る事は出来るだろうがな」
「軍人というのは不自由だな」
『…辞めても、いいんですよ。貴方にとって居心地が悪い場所なら、拘らなくたっていいと思います』
「……ああ、そうだな」
アシㇼパちゃんに軍の制度を教えてあげる百之助さんは目を伏せて、椀の中の汁物の水面をじっと見ている。考え込んでいる時の瞳の動きだ。
…元軍人で今も軍袴を履いているキロランケさんとも、そこに加えて軍帽を被っている杉元さんとも、百之助さんの装いは違う。軍を脱走してなお上等兵の階級を示す上衣を脱がない彼の心は、今も軍にあるのではないだろうか。少なくとも私の目にはそう映る。
──本当の目的を明かしてくれる日はきっと来ないだろう。でもそれでいい。誰にだって胸に秘めておきたい事は当然あるから。何もかもを暴きたいなんて思っていない。ただ何時だって、傍に置いて欲しい。傍に居させて欲しい。例えそこが死地だって。
────その日はすぐにやって来た。
「紗和はアシㇼパと同じ馬に乗りなさい。お前達二人で私達一人分の重量だ」
『分かりました。よろしくお願いしますね、アシㇼパちゃん』
「ああ、手綱は任せろ!」
割り当てられた逃走用の馬はアシㇼパちゃんとの同乗だった。土方様の言い分は筋が通っているし、私は一人では常歩しかさせられないから、どうやったって誰かと同乗する必要がある。
私が振り落とされないようにと自身は首の付け根に跨って背中を私に譲ってくれたアシㇼパちゃんは、しっかりしがみついてろよ、と私を振り返って快活に笑ってみせた。太陽のような笑顔だった。
…土方様に買って貰った双眼鏡をアシㇼパちゃんと共有してかわりばんこに覗きながら様子を伺っていると、小銃にしては軽いが確かな銃声が鼓膜を叩いて、間髪入れずに杉元さんが白石さんを抱えて兵舎の窓を突き破って飛び出してきたのが遠目に見えた。
近くで馬を落ち着かせていたキロランケの制止を振り切って馬を走らせ始めたアシㇼパちゃんにしがみついて、空を見上げる。
──木々の切れ間から大きな紙風船のような物が宙に浮いているのが見えた。骨組みだけの木の船のようなものをぶら下げて。
目を丸くして驚いていると、あそこに杉元達が居る、とアシㇼパちゃんが指差して、知らない顔もあるな、矢で驚かせて振り落とす、と弓を構えた。邪魔にならないようにアシㇼパちゃんの向いた方向から身体を逸らして、アシㇼパちゃんの弦鳴りの音を聞いた。
「私はあの、ぶら下がってる白石を捕まえて杉元達に合流する!紗和、お前木登り出来るか?」
『やった事ないです』
「じゃあ私の腰とお前の腰を縄で繋ぐ。杉元達に引き上げて貰おう」
『アシㇼパちゃんの負担になりませんか?』
「お前くらい軽くて細いなら平気だ。尾形と一緒に居たいんだろ?」
『はいっ、お願いします』
空飛ぶ船の進路に先回りして、一際背の高い木に登る為に手をかけたアシㇼパちゃんがそう言って、私も頷いて、アシㇼパちゃんの荷物にある中で一番長い縄でお互いの腰を繋ぐと、それを確認したアシㇼパちゃんはスルスルと木に登っていく。
…暫くして、グン、と私の腰の縄が引かれて馬の背中から身体が浮き上がった。
そのままフワリと身体が浮いて、腰に巻かれた縄に全体重が乗ってお腹が苦しくなる前に、縄を手繰り寄せて足を引っ掛けてお腹への締めつけをなくし、振り落とされないように強くしがみついた。
──アシㇼパさん!と杉元さんがアシㇼパちゃんとの合流を喜ぶ声が上がる。このまま行けば、百之助さん達と逸れずに済みそうだ。
────
「あれっ…アシㇼパさんの腰から縄が……あっ!紗和さんまでぶら下がってるッ、なんで!?」
『早く引き上げてくださ〜い!』
「オイ尾形お前も手伝えっ!」
「ったく…」
旭川司令部の兵士から奪った最新式の銃を早く触りたくてウズウズしていた尾形だったが、紗和のいつになく情けない最早泣きの入った声に腰を上げて、白石とアシㇼパ、そして更にその下に紗和をぶら下げている縄を引き上げるのに参加した。
…酒や飴で弛んだ身体の白石はともかく、少女のアシㇼパと成人しているものの痩せ型で小柄な紗和は酷く軽く、団子になっている白石とアシㇼパさえ引き上げてしまえば紗和は白石一人でも軽々と引き上げてしまえる程だった。
偵察用飛行船の試作機の上に揃った面々は、怪我人の杉元をエンジンの前に座らせて思い思いに骨組みの上で体勢を整えた。高い所が怖いと言って震えていた紗和だけは尾形の膝の上に乗せられているけれど。
『高い…怖い…百之助さん離さないでくださいね、多分泣いちゃいますから』
「泣く以前に落ちたらお前死ぬぞ」
『ですよね…支えててくださいね、私多分そのうち疲れてしがみつけなくなっちゃいます』
「体力つけろ」
『ごもっともです…』
内通してただの裏切ってなかっただのと重い話をしている杉元達とは打って変わって、尾形の膝の上に向かい合わせに座らされてひしとしがみついている紗和と、その紗和を抱えて〝三十八年式歩兵銃〟の具合を確かめている尾形の会話は静かだった。我関せずとも言う。
…そのうち紗和も飛行船に揺られているのに慣れたのか辺りをキョロキョロ見回し始め、下さえ見なければ大して怖くないですね、と落ち着いた様子を見せた。
肝が据わっているのは知っていたが、これも平気なのか、と尾形は紗和の横顔を見る。目にかかるくらいの長さの前髪が風で後ろに流れて、深緑の瞳がキラキラと輝いているのが分かる。余所見しやがって、と腹が立ったので顎を掴んで自分の方を向かせ、キョロキョロされると重心がブレる、ともっともらしい事を言って紗和の余所見を邪魔してやった。
──プスン、プスン…
「おいなんか止まったぞ。白石直せるか?」
「どれどれ」
恐らく燃料が切れたのだろう、沈黙したエンジンを杉元と白石がゴソゴソといじり回すが、エンジンは沈黙を保っている。痺れを切らした二人が猿の鳴き声をあげながらエンジンを殴っている。紗和は尾形の膝の上からそれをドン引きした目で見た。普通に奇行が怖くて。
…そこにアシㇼパまで混ざって猿叫をあげながらエンジンを殴るのを見た紗和は、この面子で本当に大丈夫なのだろうか、と遠い目をした。珍しく大きな声で三人を喧しいと叱る尾形にも驚いていたけれど。
──風に流されるままになった飛行船は、岩壁の間に吸い込まれるようにして空を泳いだ。
「直せなかったねぇ…あとは風の吹くままだぜ」
「うおおお危ねぇ…風に流されてあんな岩場にぶつかったらやばいぞ」
「パウチチャシだ。パウチチャシとは〝パウチカムイが住む村〟という意味で……このあたりの奇岩はパウチカムイの砦と言われている」
『パウチカムイとはどんなカムイなんですか?』
「淫魔であまり心の良くない神様だ。取り憑かれるとその人間は素っ裸になって踊り狂う」
「ハッハッハッ、そんな馬鹿な…アイヌは想像が豊かだねえ」
『ああ、低体温症になると、寒いはずなのに脱衣してしまう事があるといいますもんね。それを神話として語るとそうなりますよね』
「エッ…マジ?」
『はい。八甲田山雪中行軍遭難事件でも、裸で凍死している人が居たそうですよ』
「こわぁい…」
お天気が崩れなければ大丈夫ですよ、と紗和が穏やかに笑うと白石はホッとした顔をして、紗和の隣で首を最大限後ろに向けて深淵のような瞳をして無表情で白石を見つめる尾形に気付いてバッと顔を背けた。普通に怖かったので。
…やがて飛行船は木に引っかかるという形で数時間の空の旅を終えた。先に下船した尾形に抱き留めて貰う形で飛行船を降りた紗和は、足場が悪いからお前は俺の手の届く範囲に居ろ、転んで怪我でもされたら面倒だ、と言う尾形の言う事を素直に聞いて、尾形の隣で興味深そうに野山に茂る植物を見ている。
土方に買い与えられた洋靴を脱いで川を渡り、漸く木々の中に身を隠せる状況になって杉元の傷の手当てに着手したアシㇼパが、杉元から鈴川の最期を聞いて眉を寄せている。
──鈴川様も死んでしまったんですね、と少し気落ちした様子を見せた紗和に、元よりそういう旅だ、と尾形は返した。無情に聞こえる言葉が尾形なりの慰めの言葉であると読み取った紗和は、尾形の外套の裾を摘んで、貴方が死んでしまわないならいいです、それだけでいいです、と真っ直ぐに尾形を眼差すから、尾形は俯いて、小さく頷いてから双眼鏡を目元に当ててそっぽを向いた。
『…ふぅ……はっ…』
「紗和、急げ。追手が近い」
『っはい……』
一行は大雪山へと逃れていた。第七師団に追い立てられて。紗和にとっては生まれて初めてと言ってもいい本格的な登山だった。
…ところで紗和は、土方達に連れ回されるようになってから袴を履き始めた。着物と違って裾の乱れを気にせずに動き回れるためだ。今日は薄紺地に上前の胸に薄紅色で芙蓉の花が刺された二尺袖と小豆色の袴の上から、黒貂の襟巻きと濃紺に染められた毛付きの羊皮で作られた長外套を羽織っている。野宿をする時には寒いので、夏でも防寒着は手放さないままだ。天気が崩れて真冬のように冷え込む中で震えている白石達と比べたら、山登りで疲れている事を除けばケロッとした顔で過ごせている。生まれも育ちも北海道故に寒さに慣れているのは間違いない。
──あまりの寒さに頭が回らないのか、引き返して下山しようなどと言い始めた白石を怒鳴りつけながら、尾形は紗和の手を強く引いた。
穴を掘って避難出来る程の残雪もなく、一番軽装の白石が低体温症の初期症状を示し始めた頃に蝦夷鹿の群れと遭遇。アシㇼパの指示で三頭仕留め、大雑把に皮を剥がして内臓を掻き出して、まさかの蝦夷鹿の体内に避難する事になった。
低体温症で錯乱して服を脱いでしまった白石とその服を一頭に押し込み、杉元とアシㇼパが一頭に、紗和と尾形が一頭に。それぞれ収まって寒さを凌ぐ。
『まぁ、凄いにおい』
「…こっち向け。男臭ぇだろうが、血生臭いよりマシだろ」
紗和を少しでも暖かい所に。無意識でもそう思った尾形に背骨側に押しやられた紗和は、尾形に背を向ける形で腕の中に収まっていたが、そう言われてモゾモゾと身体を反転させると丁度、尾形の首筋の辺りに鼻先が埋まって、思わず笑みを溢す。
『ふふ、男臭いなんて嘘。いい香り。落ち着く…』
「……やめろ、顔を首筋に擦りつけるな」
『すみません。白粉がついてしまいますね』
「…違う。手出しが出来ん状況で煽るなという意味だ」
『マ………すみません』
「なんだ?急に身体を熱くして。お前、男の事が何も分かってないんだな」
『その…夫達はそういう感情を私に向ける人ではなかったので…』
なんだお前、
アワアワと動揺しつつも尾形から離れようとはしない紗和が、この話やめましょう、ね、ね、と懇願する。
「ハハァ、なんだ?汗だくで震えて」
『あぅ、あっ、やだ、囁かないで…』
「嫌だなんて、傷つくじゃねぇか」
『あの、恥ずかしくて…すみません…』
お前布団があるとこに着いたら覚えてろよ、と唸る尾形に、流石に何をされるか分からない程鈍くない紗和は真っ赤に上気した頬を尾形の首筋に埋めて、優しくしてください、とせめてもの懇願を吐いた。
…布団があって壁で仕切られてて、腰を落ち着けられる場所に着いたらこの女を抱こう。自分が自然とそう思えた事に尾形は静かに驚いていた。
尾形は自分の─というよりは男の─性欲というものを穢らわしいものだと思っているフシがある。
入営して初年兵を上がる時に軍の通過儀礼のように遊郭に連れ込まれはしたが、尾形は宛てがわれた遊女を抱かなかった。抱けなかったというのが正しい。
性行為のその先に発生する現象が、恐ろしかったのだ。例え相手が確実に堕胎という選択肢を選ぶと分かっている売春婦相手であっても。
とはいえ尾形も健康的な若い男ではあるので、出すもん出さないと調子を崩す。しかしその行為に相手を必要とした事が無かった。
──だからこそ、今腕の中で湯気が出そうな程に身体を熱くしてオロついている紗和と、自分が肌を重ねる事を自然と想像出来た、寧ろそうしたいと能動的に思った己に驚嘆していたのだ。
そんな事はつゆとも知らない紗和は話の方向性を変えたいのか、何事かを考えている様子だった。
『あの、私は…こうして貴方の腕の中に居るのが凄く幸せで…怖いくらいに、幸せで。都合のいい夢を見てるんじゃないかって思うくらい。でも百之助さんはどうなのかなって、時々考えるんです』
「俺の、幸せ?」
『はい。仏の教えでは、人は〝人間に生まれた時でなければ達成できない本当の幸せ〟を求めて生まれてきたと言われるのですよ』
「……俺は、神だの仏だの愛だのと、存在があやふやなものは信じん」
『実は私も信じていませんよ。でも、長い時間をかけて沢山の人が考えて作り上げてきた教えというのは、人がよりよい人生を歩むための考えの礎になるものだとは信じています』
「それは神仏を信じている事にはならんのか?」
『神や仏の存在を信じているのではなく、神や仏を信じて祈って、よりよい人生を歩むために考えてきた人達の人生の経験則を信じているんです』
紗和の穏やかな声が、尾形の耳朶を柔らかく撫でる。尾形は案外、紗和の語る仏の道の話が嫌いではない。
尋常小学校の
…それは教師と生徒という上下関係にない紗和の口から語られるからそう感じるのかも知れないし、紗和の痛みと苦しみに満ちた人生がそのように聞かせるのかも知れないし、同じ傷を抱えて生きてきて尾形とは違う答えに辿り着いた女だから尾形も割と素直に受け止められるのかも知れない。
──そもそも紗和は、仏の教えを自分なりに咀嚼して理屈として受け入れているから、説教臭くならないのだろう。
「…屁理屈だな」
『貴方だって、理屈屋でしょう?私と少し方向性が違うだけです』
「………屁理屈ついでに訊いてやる。お前の思う幸せってなんだ?」
『…大好きな人の隣に居られて、理不尽に怒鳴られたり叩かれたりしないで、安心して暮らせる家がある事です』
「……そりゃあ多分、普通の暮らしだろ。愛されて産まれてきた人間なら誰しも普通に得られる、普通の」
そう。普通の幸せのはずだ。祝福されて産まれてきた人間なら誰しもが得られる、普通の暮らしのはずだ。
その普通から弾かれて産まれてきた人間が〝普通の幸せ〟を
…理不尽な暴力を受けずに暮らせる、普通の家。そのくらいなら自分にだって用立てられる。そう思った事が、尾形にとっては言葉が出なくなる程の驚きだった。
『百之助さんは?』
「あ?」
『百之助さんの幸せって、なんですか?』
「……………知らねぇよ」
『いつかこれだと思う事があったら、教えてくださいね』
「気が向いたらな」
『はい』
紗和が幸せそうに微笑んだのが暗闇でも分かった。こんな返しの何がそんなに嬉しいんだか、と尾形は妙な胸の擽ったさを覚えながら、紗和の肩を抱いて瞼を閉じた。
…その顎をそっと撫でたのが何か、分かっていた。その慰撫に込められた想いが何か、分かるようになった。愛だ。母のように姉のように女のように愛してくれる紗和の唇が、尾形の顎の線をそっと辿って、いい夢を、そう耳元に囁いた。
──この愛に溺れてしまえば、己の胸の欠落は埋まるのだろうか。眠りに落ちる寸前、詮無いことを考えた。
────
『…外から、獣の息遣いがします』
「静かに出ろ。大雪山にはヒグマが数多く生息している。鹿の死骸の臭いに集まってきたんだ」
『は、離さないでくださいね』
外が見えないから正確な時刻は分からないけれど、眠りから覚めた時の感覚からしてきっと朝。
鹿が外から揺すられている。コフコフと、獣の息遣いも微かに聞こえる。思わず百之助さんの腕に縋ると、力強く抱き寄せて、出るぞ、と銃剣を抜いた。
…モゾモゾと這い出すと、鹿の死骸の周りに何頭ものヒグマが集まっていて、本能的に汗が噴き出した。
アシㇼパちゃんに言われるまま息を殺してジワジワとヒグマから離れようとしたが、一人鹿のお腹に収まったまま白石さんが鹿ごと連れ去られようとしている。
「白石が持って行かれる!!」
──ブリッ
「おぎゃあ」
謎の産声でヒグマを怯ませて遠ざけた白石さんは、昨夜杉元さんと一緒に鹿に押し込んだ時には全裸だったが、鹿の体温で正気づいて服を着直したのか現在は着衣だ。ホッとした。夫でもない男性の裸などそう目にしたくはない。
…アシㇼパちゃんを先頭に静かにその場を離れ、ヒグマが追って来ていない事を確かめてそれぞれにホッと息を吐く。昨夜の悪天候で、第七師団の追手も一旦は撒けたようだ。
アシㇼパちゃんが、アイヌは大雪山を〝カムイミンタㇻ〟と呼ぶのだと教えてくれた。意味は〝ヒグマが沢山居るところ〟で、一度ヒグマが獲物として認識してしまったあの鹿は諦めるしかないと続く。
──お腹が空きましたねぇ、と百之助さんに声をかけると百之助さんは、懐から飴玉を出して私の口に放り込んできた。
ジイサン達からお前の非常食は持たされてる、森に入ったら火を焚いて食わせてやるからとりあえず今はこれで我慢しろ、との事で、コロコロと口の中で飴を転がしながら、杉元さんの提案で網走方面ではなく十勝方面へ向かって下山する。
「アッ、紗和ちゃん尾形ちゃんから飴貰ってる〜。いいなぁ、俺も腹減ったよ〜!ちょうだい?」
「コレは土方のジイサン達が、紗和をこれ以上痩せさせるなと言って俺に預けたモンだ。お前にはやらん」
「ケチ!」
白石さんが膨れっ面で、お腹空いたよォ、と杉元さんにしなだれ掛かっている。鬱陶しい、と押し退けられながら。
…鈴川さんの情報を頼りに十勝から釧路へ向かい、囚人探しをするのだという。
今までに私が接触した事のある囚人は土方様、牛山様、家永様、白石さん、鈴川様と比較的会話の成り立つ人ばかりだけど、土方様が言うにはかなり性格や性癖が尖った人も多いのだという。確かに家永様も時々会話が成立しない。涎を垂らしながら物欲しそうに私の目を凝視している時なんて、同じ人間と思えない。怖い。百之助さんが背中に庇ってくれなかったら、いい歳して怖くて泣いていたかも知れない。
──追手から離れて焚き火の煙が目立たなくなる森に入るまでは、火を焚いて暖かいものを口にする事は出来ないと杉元さん達が判断した。アシㇼパちゃんが作った〝ブラーシカ〟という罠でネズミを獲りながら、私達は十勝方面へと山を降った。
──ゴトン!
「獲れた!」
「そのネズミ、下山するにつれてだんだん獲れなくなってきたな。山の上にはいっぱい居たのに」
「高いところにしか居ない変なネズミなのかも知れない」
『植物にも高山地帯にしか生えないものがあるように、このネズミもその一種なのかも知れませんね』
「…またネズミかぁ」
銃声で追手に居場所がバレる訳にはいかないから、鳥や鹿を撃つ事も出来ない。暫くはアシㇼパちゃんの罠で獲れる小動物に頼るしかない。ネズミばっかり、とひっくり返ってダダを捏ねる白石さんには悪いが、私は案外今の暮らしが好きだ。
銃も狩りも好きな百之助さんは、暇さえあれば鳥や鹿を撃ちにフラリと居なくなってしまうけれど、今はそれが出来ないから自然と傍に居てくれる。
…アシㇼパちゃんに渡されたネズミの脚に黙って齧り付く百之助さんは、アシㇼパちゃん達の言うように〝ヒンナ〟と言わないけれど、案外食べ物の好き嫌いが分かりやすい。
大抵何でも黙って食べるけれど、美味しいものや気に入ったものは頬が膨らむくらいに頬張って食べるし、そうでないものはそっと遠ざけたり他の人に押し付けたりする。そういうところも可愛らしい。
──白石さんが頭を蝮に噛まれたり、アシㇼパちゃんが大の蛇嫌いだという事を知ったり、アイヌの伝説の蛇の化け物に遭遇したりと、ただ山を降りるだけの事でどうしてこんなに騒動続きなのだろうと首を傾げたくなる一日を過ごした。蛇の化け物から逃げる時は当たり前のように百之助さんが私を抱き上げてくれていた。
「なんだって山降りるだけでこんな珍道中になるんだ…」
『ふふ、本当に…何でこんなに退屈と無縁の旅になるんでしょうね』
蛇の化け物から逃げて腰を落ち着けた先で焚き火を囲んで松の葉を敷いて寝床を整えながらそう言って、百之助さんの手をそっと握った。健康優良児のアシㇼパちゃんはすっかり夢の中で、頭や顔を腫らして疲れたらしい白石さんと杉元さんから最初の火の番を任されて、百之助さんと二人で起きていた。
『アシㇼパちゃんに好物を聞かれた時、どうしてお答えにならなかったんです?』
「…言っても意味無いだろ」
『そうでしょうか…お互いの好き嫌いを教え合うのも、仲良くなる為には大切ですよ』
「仲良しこよしする為に旅してる訳じゃねぇからな」
『そうですか…でも私は、いつか一緒に貴方の故郷に行きたいです。アンコウ鍋を食べに』
「…俺の故郷?身内も居ねぇのに帰って何になる」
『それならお墓参りをしましょう。お母様のお墓を掃除して、手を合わせて、言うんです……百之助さんをこの世に産んでくださってありがとうございますって』
「は?」
『私が百之助さんをお婿さんに貰って、幸せにするから安心してくださいって、言いに行くんです』
「ッ……」
『ふふ、苦しい』
ぎゅうぎゅうと抱き締められて、苦しいのに幸せで、思わず笑みが溢れた。百之助さんの頭を胸に抱き込んで、幸せにします、一生かけて、と額に口づけた。
…百之助さんの瞳が、炎の揺らぎだけではない震えに揺れていた。いつもより少しだけ、涙の膜が分厚いように思えた。
──どうしてこの人を愛さずに居られるだろうか。
こんなに愛を求めているのに、こんな女のこんな言葉に涙ぐむ程愛に飢えているのに、どうして今までこの人と関わった人達はこの人を愛さなかったのだろうか。
百之助さんは、まるで愛を知らない子供がそのまま年齢を重ねてしまったような、そんな男の人。でもこの人は誰にも愛されていなかった訳では無いと思う。
言葉遣いや言葉選びに滲むその知能の高さに釣り合った確かな教養も、食事の時に見て取れる染み付いた正しい作法も、誰かの愛が育んだものだと見る人が見ればすぐに分かる。決して放棄されるままに生きてきた人ではない。
でもきっと、百之助さんが求めていた愛情と、百之助さんに与えられてきた愛情は違う形をしていたのだと思う。だからこんなにも、飢えている。
私はこの人の望む形の愛情を、望む形に限りなく近い形の愛情を、もう要らないと突っ撥ねられるまで注いでいたい。
────そしていつか、満ち足るを知ったこの人が誰かに愛情を注げるようになった姿を、見たいと思った。
────
「お腹空いたね」
『最近いつもそれ言ってませんか?』
「そりゃあ紗和ちゃんは尾形ちゃんが持ってるご飯食べてるけどさ、尾形ちゃん俺には分けてくれないんだもん」
「……」
「ゴメンって!あ!!良かった帰ってきた」
紗和達は一週間近く山を歩いて釧路湿原へと辿り着いていた。紗和と会話をする度にただでさえ真っ黒な瞳を更に真っ黒にして白石をジッと見つめてくる尾形を白石はおっかないと思うけれど、杉元とアシㇼパが食料調達の為に抜けると会話が成立する相手が紗和しか居なくなる。白石は気さくで明るいキロランケが恋しかった。
…杉元が一抱えもある丹頂鶴を抱いて戻ってくると、すぐに鍋の支度が始まった。羽根を毟り、血抜きをして、解体して一口大に切った肉を行者ニンニクと煮込んで塩で味付けしたものだ。紗和はその傍らで飯盒で炊いた米もアシㇼパと分け合って食べている。土方達に持たされている米や飴は尾形の背嚢から出てきて、女性陣にだけ振る舞われている。本来は紗和一人の為の物だけれど、食べ盛り育ち盛りなんですから、と言って聞かない紗和の手でアシㇼパにも行き渡るのだ。
「鶴って江戸時代は関東の方にも飛んできてたらしいな。将軍様もこうやって鶴の汁を食べてたって…」
「だいぶ減ったみたいで、もう関東じゃ見たことないぜ。う〜ん…」
「泥臭いようなムッとする変な匂いだろ?」
『クセが強いですね』
「なんで丹頂鶴なんか獲ったんだ!」
『獲れてしまったものは仕方がないので、きちんと食べてしまいましょう』
アシㇼパ曰く、丹頂鶴は普段は獲らないけど杉元が〝北海道の珍味を食べ尽くしたい〟といつも言っているから獲った、という言い分で、杉元はそれを即座に否定した。そんな目的で旅してない、と。
「……杉元は…どうして金塊が欲しいんだ?」
「まだ言ってなかったっけ。戦争で死んだ親友の嫁さんをアメリカに連れて行って、目の治療を受けさせてやりたいんだ」
「〝惚れた女の為〟ってのはその未亡人のことか?」
『まぁ、そうなんですか?』
「え、そうなの?」
何の流れでそうなったのか紗和は知らないが、尾形には話した事があったらしい。意外だ、と目を丸くして尾形と杉元を見比べる紗和の向かいで突然立ち上がったアシㇼパが着物の裾をバサバサやって釧路に伝わる〝
「こっちに誰か来るぞ」
『女性と子供ですね』
「チロンヌㇷ゚と…チカパシだ。何でこんな所に!?」
「知ってる子?」
お互いの顔が見えるくらいの距離でこちらを指差した少年〝チカパシ〟とそれに続くアイヌの女〝インカㇻマッ〟が駆け寄って来た。チカパシが、小樽からアシㇼパを探して〝谷垣 源次郎〟と共に旅をしてきたと言い、その谷垣が大変な事になったと慌てた様子で話し、要領を得ないチカパシに代わってインカㇻマッが事情を語り出した。
…曰く、最近この辺りで家畜や野生の鹿を粗末に扱う人間が居り、谷垣はその犯人と誤解されて地元のアイヌに追われているのだと言う。
〝粗末に扱う〟だとか〝カムイを穢す〟だとかの意味が分からず首を傾げた紗和は自分より頭一つ背の高い尾形の耳元に背伸びして唇を寄せ、どういう意味か分かりますか、と静かに問う。話の流れと不穏な単語に大体の意味を察しこそすれ、とてもじゃないがそんな事を紗和の耳に入れたくなかった尾形は、さあな、と誤魔化した。
──インカㇻマッは冷静に、谷垣がその犯人と誤解された原因になったきっかけ、犯人の名前と分かっている限りの素性、そして現在に至るまでの経緯を話し、一行の見解は〝姉畑 支遁〟という脱獄囚の仕業に違いない、手分けして谷垣と姉畑を探そう、逸れたら釧路の町で待つように、と一通り取り決めて別れた。
「山に入るぞ。谷垣ならそっちに逃げる筈だ」
『白石さん達はいいんですか?』
「アイツら連れて行って何の役に立つって言うんだ。置いて行く」
『私も役立たずですけど…』
「お前が居るだけで俺は警戒されにくくなる」
『そうですか、分かりました』
気合十分と言った様子のアシㇼパと杉元が先程狩りの途中で見つけた犯人の痕跡を目指して一行から抜け、残された面々から紗和の手を引いて離れた尾形は、マタギとして育った谷垣ならば追われたら山に分け入って逃げる筈だ、と読んでいた。自分に追われた時もそうだったのだから。
…果たして尾形の読みは当たり、谷垣は発見された。銃を持ったアイヌの男達に追われ、追いつかれた所で取っ組み合って銃を取り上げ、俺はやってない、濡れ衣だ、と声を上げたものの、聞き入れて貰えずに銃床で殴られている所を見つけたのだ。
俺の後ろに隠れていろ、と言われるままに尾形の外套の影にそっと佇む紗和は尾形が銃口を天に向けるのを見て、揉め事にならないといいけれど、と頬に手を当てた。
──ダァーン…
「久しぶりだな、谷垣一等卒」
「尾形上等兵!!」
「オマエ仲間か?」
「谷垣、貴様は小樽に居たはずだ。何をしにここへ来た?鶴見中尉の命令で俺を追ってきたのか?」
「俺はとっくに降りた!軍にもあんたにも関わる気は無い。世話になった婆ちゃんの許に孫娘を無事帰す。それが俺の〝役目〟だ」
「…頼めよ〝助けてください尾形上等兵殿〟と」
自分に慈悲を乞え、と高慢な笑みで迫りながら排莢した尾形に、アンタの助ける方法なんてこの人達を皆殺しにするだけだろう、話せば分かってくれるから手を出すな、と谷垣が言うが、それこそ失言だと紗和は僅かな頭痛を覚えた。案の定、谷垣の発した〝皆殺し〟という言葉に反応したアイヌ達は尾形に銃を向けた。
「俺達に銃を向けるな。殺すぞ?」
たち?と不思議そうに尾形を見返してやっと、尾形より頭一つ小さい紗和がその後ろにひっそりと立っている事に気付いた谷垣が息を呑んだ。谷垣にとっては〝あの〟尾形上等兵が女を連れていて、尚且つその女を背に庇うような行動をとっている事が異常事態だったので。
…その場を治めたアイヌの老人が、谷垣達を村に連れて行く、とアイヌ語で指示して、谷垣は後ろ手に縛られて腰に縄をつけられコタンへ連行された。
──子熊の檻に縛り付けられた谷垣を高床式の食糧庫に登ってどこか愉快そうに眺める尾形の隣に座る紗和は、楽しそうですね、と尾形に囁いた。谷垣の処遇を巡るアイヌ達の話し合いが紛糾している中で、紗和は谷垣の行く末に大して興味が無い様子だ。けれど、尾形が谷垣を割と気に入っている事は察している。
「ハハ、そう見えるか?」
『はい。あの人の事、お気に入りなんですね』
「ドジでマヌケな野郎を眺めてるのは嫌いじゃねぇ。寄って来たらムカつくけどな」
『そうですか』
軍に居た頃から可愛がってたんだろうな、と察して紗和は微笑ましい気持ちになった。残念ながらその気持ちは相手には伝わってなさそうだけど、と思いながら。
…谷垣が捕まった事を聞きつけてか一足遅れてコタンにやって来て谷垣とアイヌ達の間に入った杉元が、アイヌの大男に顔を殴られ、腹を殴られ、また顔を殴られている。アイヌ達が雄叫びを挙げ、アシㇼパが悲鳴じみた声で杉元を呼んだ。
──そのアシㇼパに無言で掌を向けて制止し、次の瞬間。
──ボコォン……バタァン…
『うわぁ…』
正確に顎を狙った一撃で伸してしまった。アシㇼパと谷垣が真顔になり、尾形は愉快そうに拍手をしている。紗和は的確な暴力に小さな声を洩らした。
犯人の名前は姉畑支遁、上半身に刺青がある男だ、そう言った杉元が谷垣の襯衣の釦に指をかける。
弾け飛ぶ釦。こぼれ落ちる豊かな胸毛に覆われた谷垣の胸。尾形は咄嗟に紗和の目を塞いだ。
「この谷垣源次郎は寝てる間に犯人に村田銃を奪われた、ドジマタギだ!!」
──ブチィッ!
「…うーふッ」
「俺達が必ず姉畑支遁を獲ってくる」
『あの、何が起きてるんです?』
「……お前は知らなくていい」
「くしゅんッ」
アシㇼパのくしゃみを聞きながら首を傾げた紗和は、百之助さんがそう仰るならそうします、と大人しく尾形に従った。尾形は、フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
…アイヌ達との話し合いが終わり、子熊の檻に入れられた谷垣から姉畑の目的も聞いた杉元達が姉畑を探しに森へ入る前に尾形の所へと寄って来て、谷垣の事を頼むと言う。
「あの子熊ちゃんを助けて俺に何の得がある?
奴は鶴見中尉の命令で俺達を追って来た可能性が高い。鶴見中尉を信奉し、造反した戦友三人を山で殺す男だ」
「谷垣と行動してた三人の事か?
あいつらを殺したのはヒグマだ。俺がその場に居たんだから間違いない」
「ヒグマ?」
「谷垣はマタギに戻りたがっていた。足が治った後も軍に戻らずフチの家に居たと聞いた。谷垣に何かあればフチが悲しむ」
「アシㇼパさんの頼みを聞かねえと…嫌われて獲物の脳みそ貰えなくなるぜ」
『……脳みそは要らないです…せめて焼いてから食べたいです…』
「言っとくが…俺の助ける方法は選択肢が少ないぞ」
穏やかではない事を言いながらもアシㇼパの頼みを承諾した旨を尾形は口にしたけれど、アシㇼパは険しい顔になってしまった。素直じゃないですよ、と尾形の脇を指先でツンとつついた紗和が、私も谷垣さんを気にかけておきますから、とアシㇼパを宥めてコタンから送り出した。
「お前は村の中で好きに過ごせ。その方が上手くいく。ただし夜寝る時はここに来い」
『分かりました』
紗和は理由を問う事はしなかった。尾形がこの食糧庫の前から動かないつもりだという事は理解したし、逆に紗和には村に少しでも馴染むようにと言いつけた事も理解していたから。それが尾形なりの気遣いである事も同時に。
…紗和はやがて中年と言われるような歳になる女だが、少女のように小柄で華奢で、若々しい容姿をしている。如何にも非力で、如何にも無害。そんな印象を見る者に与える容貌は、人に警戒心や猜疑心を抱かせない。
普段は尾形がその隣に仏頂面で立っているせいで人に避けられるが、今はその尾形から離れて一人だ。
──もし、そこのニㇱパ。
殊更柔らかな声で紗和にそう話しかけられた鉢巻を巻いた青年は、無警戒に振り向いた。
────
『お手伝い出来る事はありませんか?』
「…和人に俺達の暮らしを手伝えるとは思わないが」
『お裁縫と料理は得意なんです。軒先…えっと、寝る場所を貸して頂くのだから、お礼として何か手伝わせてください。お願いします』
「なら、俺の家でハポ…母の手伝いをしてくれ」
そう言ったアイヌの男性は〝キラウㇱ〟と名乗って自身の家に連れて行くついでだと言って村の中を案内してくれた。
…キラウㇱさんの家に通され、母親だという女性と面通しをする。アシㇼパちゃんに教えて貰った〝ウテクルイルイェ〟という女性の挨拶をする素振りを見せると甚く喜ばれて、挨拶を交わし、覚えたてで大して話せもしないアイヌ語でご機嫌伺いの言葉をかけると尚の事喜ばれ、歓迎を受けた。
彼女は日本語はあまり話せないけれどゆっくり話せば意味は分かるそうなので、三日間お手伝いします、と頭を下げた。
「……アイヌ語、話せるのか?」
『挨拶程度ですが…一緒に居たアイヌの女の子、アシㇼパちゃんに習ったんです』
「アンタ変なシサㇺだな」
『ふふ、私は和人の中で育ちましたが…見てください私の目の色。北方のアイヌの血が入っているらしいんです』
「ああ、夏の森の色だ。ピㇼカ」
そう言ってキラウㇱさんはニコリと笑うと、アンタが作るのを手伝ったものはあの軍人さん達に振る舞っていい、最近目が悪くなってきた母の代わりにこの着物を縫ってやってくれ、と私に仕事を作って家から出て行った。
…その日は谷垣さんや百之助さんに食事を持って行く以外は女性と家事をして過ごし、和人の女が気になるのか、時折顔を覗かせるアイヌの若者や子供達と話したり、昔話を聞かせて貰ったり、遊びに付き合ったり、それなりに関わりを持った。明るく朗らかな人柄の人ばかりで、こんな彼らをあそこまで怒らせる姉畑という囚人の所業が気になったけれど、誰に聞いても詳細は教えてくれなかった。
──その夜、布団を貸してやるというキラウㇱさんの厚意をやんわりと断って、言われた通りに百之助さんの過ごす食糧庫に向かう。
彼は昼間から微塵も動いていないように思えるくらい、静かにそこに佇んでいた。
「どうだった」
『皆様お優しい方でしたよ。アイヌの文化も奥が深くて興味深いです』
「この件の和解は出来そうか」
『それは難しそうです。杉元さん達が真犯人を捕まえて来てくれるのに期待するしかありません』
「そうか…お前は中で
『はい、おやすみなさいませ』
食糧庫の中の穀物の詰まった袋を隅に寄せ、丸くなれば一晩寝めるくらいの空間を作ってから、出入口に頭を向けて横になる。瞼を閉じて、身体の力を抜いて、細く呼吸を繰り返していると、私が寝入ったと思った百之助さんが遠慮がちに私の髪を指先で梳かしてくれる。この時間が好きだった。
…そうして狸寝入りが本当の睡眠になる頃には、雨が降り出しそうな湿った匂いがしていた。
──翌朝目を覚ますと、シトシトと雨が降っていた。この天気では昨日のように外で子供達と遊んだりは出来なさそうだと真っ直ぐキラウㇱさんの家に向かう。
朝食をご馳走になって、昨日のように代わる代わる訪れるアイヌの方々と話したり、刺繍の模様の意味を教わったり、逆に和人の昔話や着物の柄の意味を教えたりしながら家事をしていると、あっという間に昼になり、百之助さんに昼食を渡してから谷垣さんの所へ。
『谷垣さん、昼食ですよ』
「すまん、助かる……なぁ、アンタ、尾形上等兵とはその、恋仲なのか」
『ええ、暫く前からその、お付き合いをさせて頂いております』
「…脅されてるのか?」
『そんな!とても良くして頂いてます。百之助さんはああ見えて、とてもお可愛らしいところがあるのですよ』
「……」
檻の隙間から訝しげに此方を見る谷垣さんの顔には、信じられない、と大きく書かれているようだった。
…そして気遣わしげに、或いは憐れむように私を見つめて、暫く口篭ってから意を決したように、谷垣さんは口を開く。
「…アンタ、尾形上等兵の事はどの程度知っているんだ」
『軍での階級は上等兵で、今は脱走兵扱いなんですよね?』
「それだけか?」
『ご家庭事情はなんだか複雑そうですけど、私は今の百之助さんを見ていますから、関係ありません。
顔と声が綺麗で、銃の扱いが上手で、頑張り屋さんの手をしていて…大事な所は言葉足らずなのに余計な憎まれ口ばっかり叩くから人と仲良くなるのが苦手で、意外と素直で何でも顔に出る、可愛らしい人です。私は好きですよ、そんな百之助さんの事』
「…貶してないか?それ」
『私、綺麗なお顔とお声をお持ちで、可愛らしい男性に弱いんです』
「……そうか…だが一つだけ、心に留めておいてくれ。あの人はその、出世の為なら手段を問わないようなところがある。上官の娘なんかを宛てがわれて、娘と夫婦になれば昇進させてやる、などと言われた日にはアンタを捨ててそちらを選ぶ可能性が高い。そういう男だと、覚えておいてくれ」
『ご忠告、痛み入ります』
薄く微笑んでそう返すと、谷垣さんは処置なし、と言いたげに首を振って百之助さんの居る方を窺って、急に顔色を悪くして、昼飯ありがとう、器は後で返すからもう行った方がいい、風邪を引く、と矢継ぎ早に言葉を連ねて私を遠ざけた。
…谷垣さんの視線の先を辿ると、先程までそっぽを向いていた百之助さんが此方をジッと見ているのが雨の中でも確かに分かった。食べ終わった器を回収して欲しいのだろうな、と寄って行き、器を洗ってきますね、と差し出した手に器が乗せられる事はなく、百之助さんの手は私の手首を掴んで食糧庫の上に引き上げて、私を自身の膝の上に抱き上げて首元に顔を埋め、暫くボソボソと不明瞭に恨み言を垂れ流してから、じとりと私を睨めつける。
「谷垣源次郎と何を話していた」
『百之助さんの話をしてましたよ?』
「………そうか」
『はい。夕飯時にまた来ます。空になった器ください』
「ああ」
あっさりと解放されたけれど、さっきのアレは何だったのだろう。たまに百之助さんの情緒が分からない。
キラウㇱさんの家に戻って、夕方雨が上がるまで家事をして過ごしていた。
…その夜。百之助さんは明日の朝が早いからお前はさっさと寝ろ、と指示して私を食糧庫に詰めてその入口で静かに座っている。
──夜明け前に谷垣さんを連れて逃げるつもりで…そして、私を置いて行くつもりもないのだと、嬉しくなった。
日の出前に静かに百之助さんに肩を叩かれて、行くぞ、と促されるまで本当によく眠れる程、気持ちが安らいでいた。
「お前を担いでもいいが…沼地に足を取られでもしたら共倒れになる。自分で走れるな?」
『はい、頑張ります』
「疲れたら言え。担ぐ」
『ありがとうございます』
村の周りの森を抜け、アシㇼパちゃん達が囚人を探していると思われる湿原を目指す間、足元が悪いから走れないだろ、と百之助さんに抱き抱えて貰っていたので、体力は充分に残っている。
胸の前で拳を握って意気込んでみせた私と、私の頭を当たり前に撫でた百之助さんの間に何度も視線を行ったり来たりさせている谷垣さんが、信じられん、と小声で零して百之助さんに脛を蹴られて涙目になっていた。なんというか、口が災いを呼んでいるけれど愛嬌のある人だと思う。
…湿原を進む。泥濘む足元に疲弊するのはすぐだった。少し前を走る百之助さん達も息が上がっている。
「杉元達を信じて待っても良かったのに…」
「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる」
『はっ…杉元さん、達が間に合わ…なかったらとは、思わ、ないのですか…』
「紗和…お前はもういい、俺が担ぐ」
『すみません…』
「……逃げれば罪を認めるようなものだ」
「お前の鼻を削ぐのは俺がやっても良かったんだぜ」
担ぐ、と口では言いながらも私を片腕に座らせるようにして抱き上げた百之助さんにしがみついて息を整えながら、湿原を見渡した。緑豊かな草原に点々と広がる小さな湖が美しい場所で、こんな切羽詰まった状況でなければもっと楽しめただろうにと少し口惜しい気持ちになる。
…ふぅ、と深く息を吐いて呼吸を整え切った頃に、少し間延びした銃声が聞こえた。百之助さんの持つ歩兵銃の物よりも低く響く。黒色火薬を使った銃の銃声だと教わったのを思い出した。
「銃声だ。行くぞ」
『谷垣さんの銃の銃声ですか?』
「黒色火薬を使った銃特有の間延びした銃声…状況的に見ても谷垣の村田銃の銃声だ」
この先に居るな、と百之助さんが走り出し、谷垣さんもそれに続く。百之助さんの肩越しにアイヌの男性達が私達を探しているのがかなり遠くに見えた。
その旨を小声で囁くと、追いつかれるまでにアシㇼパ達を見つけ出す、銃を盗んだやつの傍に居るだろう、と答えて私を強く抱え直した。
「居たぞッ、逃げた三人だ!」
「見つかった!!」
『でももうアシㇼパちゃん達が遠目に見えてました。彼らもあそこまで連れて行きましょう』
「…ああ、現場を見りゃ、アイヌ共も納得するはずだ」
そうしてキラウㇱさん達を少し後ろに連れるような形で走る事暫く。私は見てしまった。下半身裸の男性──恐らく姉畑支遁──がヒグマの臀部にしがみついて……恐らく肛門に陰茎を挿入している姿を。そして即座に目を百之助さんの手で塞がれた。叩く勢いだった。
「なんてこった」
「信じられん。みんな見てるか?」
「ああ…!!」
「オイ、手ェどけようとすんな」
『もう見てしまったのであとは幾ら見ても一緒かなと…』
「お前ちょっと肝が据わり過ぎだぞ」
そして、湖から胸元までを出している杉元さんが興奮した様子で、やりやがった、姉畑支遁すげえッ!と声を上げている。私はアレを凄いとは思いたくない。凄まじいとは思うけれど。そしてアシㇼパちゃんも杉元さんも、よく通る声をしている。そして気が動転しているのだろう、最早叫んでいる。
…男として姉畑に敬意を抱いたのか〝姉畑先生〟と呼んでいる杉元さんが姉畑の元に辿り着いたのか、たったまま死んでる、と驚愕の声を漏らした。最初は立位のまま死んだという意味だと思ったけれど、少し考えたら腹上死を指しているのだろうと思い至って、背筋がゾッとした。ヒグマと性交して腹上死だなんて…嘘みたいな死因だ。歴史上には空から降ってきた亀が頭に直撃して死んだ学者が居たらしいが、どっこいどっこいではないか。
『……昔外国で、空から降ってきた亀が頭に直撃して亡くなった詩人が居たらしいですよ』
「それ今言う事か?そして何だそのイカれた死因は」
『それくらい突飛な死を目撃してしまったなぁと思って、つい…』
「……そうか。ヒグマも死んだし、姉畑の皮剥がしに行くぞ。お前はあんなもん見ちまったアシㇼパを慰めてやれ」
『はい』
季節は夏。幾ら北海道が一年を通して気温が低く過ごしやすい土地だとしても、大きな動物の肉は早く処理しないとすぐに悪くなってしまう。早速キラウㇱさん達がヒグマを仰向けにして皮を剥ぐ為の切れ込みを入れるのを横目に、姉畑の所業の衝撃から立ち直れていない様子のアシㇼパちゃんに駆け寄った。
「安らかな顔だ。ウコチャヌㇷ゚コㇿして力尽きるとは…鮭みたいな奴だったな。
あのヒグマが人を殺して〝
『ウェンカムイ…人を殺したカムイは悪いカムイになって地獄に送られる、というアイヌの教えですね』
「そうだ。姉畑はどうしてこんな真似を…熊に殺された人間は熊に好かれて結婚相手に神の国へ貰われていったのだという話もあるけど…」
「そのアイヌの話…姉畑先生は知ってたのかなぁ?」
「アイヌに詳しければ知ってたかもな」
『あの、その、先生って呼ぶの辞めてくれませんか?』
「ゴメン紗和さん…いやその、同じ男としてついこう、先生って呼んじゃうというか、ウン…ゴメンね。
はァ…決死の想いも恋は成就せず…だったって訳か」
「おい杉元!この男を哀れむのか?やめろ。
姉畑支遁が本当に動物を愛していたなら、どうして最後に殺すんだ?
姉畑もどこかで動物とウコチャヌㇷ゚コㇿするのが良くない事だと分かっていたんだ。後になってその存在ごと無かった事にしようなんて…本当に自分勝手だ。
どうしてウコチャヌㇷ゚コㇿする前によく考えなかったのか…そうすれば殺さずに済んだのに…なあ杉元!!そう思わないか?」
「………」
とてもじゃないけどアシㇼパちゃんの前では言えない事を考えている顔をした杉元さんが、気まずそうにアシㇼパちゃんから目を逸らしている。
私も知識としては幾つか話せる事はあるが、果たして十代前半の少女であるアシㇼパちゃんにこんな濃ゆくて深い性の世界の話を言っていいものかと思案している。と。
「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ」
「そうなのか?紗和」
『アーーー…そうなる方も…いらっしゃるみたい…ですね……私は知りませんけど』
「お前結婚してたんじゃないのか?」
『…私の夫達はその…なんというか…女性に興味がない人達だったので…』
「じゃあ尾形は?」
『まだ何もしてません!!!』
百之助さんのとんでもない発言の流れ弾を喰らって思わず声がひっくり返った。
なんて事言うんですか、と百之助さんの腕にしがみついて揺さぶると、そんなに興奮するな、と肩を抑えて宥められる。
「そもそも何でお前律儀に全部答えてんだ」
『アシㇼパちゃんって、誤魔化しが効かないんですよ…頭の良い子だから、ちゃんと向き合ってちゃんと答えないと納得してくれないんです』
「……それでも、言いたくない事は言いたくないと言えるようになれ」
『はい…善処します』
キラウㇱさん達が釧路のアイヌに伝わる作法であっという間に熊を解体して〝送る儀式〟の為に村へと運んで行く。こういう、自然信仰的な所は日本神道とよく似ているのに、どうして和人とアイヌは中々分かり合えないのだろうか、と私は不思議に思った。
自然の織り成す人では敵わないものを神と崇め、感謝と礼儀を忘れずに細く長く付き合っていく。根本は同じのように、私には思えた。
…熊が獲れた事を知らせる雄叫びの声を追いかけて村への道を戻りながら、私はそんな事を考えていた。
けれど同時に思うのだ。今の大日本帝国のやり方では、きっとアイヌの人達の優れた宗教思想も生活文化も、遅れたもの、恥ずべきものとして揉み消されて、伝承が絶えてしまうだろう。彼らはただでさえ文字を持たない民族だから、彼らの文化は、人が語り、歌い、手を動かして次代へ渡すことで守られている。その人々を散り散りにされ、言葉を奪われれば、簡単に伝承は絶えてしまう。のっぺらぼうも、それを危惧して立ち上がったのだろう。
──アシㇼパちゃんは分かっているのだろうか。彼女の背負わされた物の重みと、その重みとの付き合い方を。
きっとまだ、分かっていないのだろう。
────
「アンタら、いいウムレㇰだな」
「…ウムレクってなんだ」
「夫婦って意味だ」
キラウㇱの暮らすコタンで〝カムイホプニレ〟に同席させて貰った一行は、酒飲んで仲直りしよう、と酒宴に招かれていた。杉元は初日に殴り合いをしたアイヌに肩を叩かれながら、娘を嫁に要らないか、と紹介され、谷垣はキラウㇱにわんこ蕎麦の如く酒を注がれ、アシㇼパが蛇を触った手を周りの人間に臭くないかと嗅がせて回っている時に、隣合って座って尾形の椀に酒を注いでいた紗和を見たアイヌの男が二人を指差してそう言った。
丁度手を嗅がせに来ていたアシㇼパが間に入って所々に挟まるアイヌ語を訳してくれたところによると、夫は妻をよく守り、妻は夫をよく世話する、仲のいい夫婦でいい事だ、という事だった。
…何を考えているのか分からない表情で俯く尾形の肩をツンとつついた紗和が、幸せそうに微笑んで尾形の耳元に唇を寄せ、コソコソと囁いて悪戯っぽく笑う。目を丸くした尾形が紗和をじっと見て、僅かに表情を緩める。丁度キラウㇱから酒を注がれる最中で目の空いていた谷垣はそれを見て、こんな表情をする人だったか、と首を傾げたが、余計な口を叩く前にキラウㇱに酒で満ちた椀を口に宛てがわれて沈黙した。
──宴も酣。気分良く酒を飲んで雑魚寝を始めたアイヌ達の傍で、谷垣が重々しく口を開く。
アシㇼパの祖母が死期を悟って死装束を縫い始めた話だ。そしてその理由は、孫に二度と会えなくなる夢を見たからだと言う。
「婆ちゃんが〝二度と孫と会えなくなる夢を見た〟って…たかが夢だろ?手紙でも送っとけよ」
「夢というのは、カムイが私達に何か伝えたくて見せるものと強く信じられてきた。私は信じなくても、フチは古い考え方のアイヌだから…それにフチは昔、ある夢を見た。
自分の娘の周りに熊が沢山集まって〝送っている〟夢だった。その後すぐに私の母は病気で亡くなったとフチが話していた。だからなおさら夢占いを信じているんだ」
『アシㇼパちゃんのお祖母様は、見る力が強いのでしょうか。宗教を強く信じる人の中にはそういう、理の外の奇跡を体験する人は多いです』
「紗和さんもこう言ってるし、アシㇼパさん…一度帰ろうか?
一度顔を見せりゃ〝孫娘とは二度と会えない〟ってフチが見た予言は無効だろ?元気になるさ。
我慢しなくっていいんだよ?」
「子供扱いするな杉元!!
私にはどうしても知りたい事がある。知るべき事を知って、自分の未来の為に進むんだ!!」
アシㇼパが決意を新たにするのを眩しそうに見つめていた紗和は、一度はコタンから逃げる為の案山子に使ったものの無事誤解が解けて尾形の元に戻った外套の中に潜り込んで、汗かいたからヤメロ、と嫌がる尾形の胸元に顔を寄せて眠りに就いた。
…翌朝、谷垣と合流した初日に逸れた白石達と再び合流する為に釧路の町へ向かうべく旅支度を整える一行の中で紗和は、世話になったキラウㇱの家でその母と別れの挨拶をしていた。
短い間だったけれど娘が増えたようで楽しかった、そう拙い日本語で伝えてくれる彼女に紗和は、控えめに〝
「「谷垣ニㇱパ!!」」
「無事だったか」
釧路湿原で逸れたインカㇻマッ、チカパシ、白石の三人と合流してすぐ、インカㇻマッが谷垣の胸を気遣うように優しく叩いてみせるのに色恋の気配を感じ取った杉元達が囃し立て、尾形が意味ありげにじっと見詰めるのを横で呆れたように見ていた紗和は、しゃがみ込んでチカパシを呼び寄せてそっと飴を握らせてやりながら、心配だったでしょうに、よく頑張りましたね、と頭を撫でてやった。
…そして、湿原で壊してしまった杉元の銃を銃砲店に修理に出し、その修理が終わるまでの間アシㇼパのフチの十五番目の妹が暮らす海岸のコタンに身を寄せた。
海亀漁に出たアシㇼパとそれに同行する杉元、巻き込まれた白石を見送って、海岸で双眼鏡を覗く尾形の隣で紗和は毛皮商人から買い取った鹿革を広げて型紙に尾形の手の型を取っていた。まだ夏だが北海道の夏は短く、あっという間に雪に閉ざされた冬がやって来る。その前に尾形に手袋を仕立ててやりたかったからだ。
軍の病院から着の身着のまま同然で脱走して今に至る尾形の持ち物はそう多くない。防寒着だって羅紗の外套一枚だ。秋までには鹿革の手袋と栗鼠の毛皮の襟巻きくらいは縫えるだろう。
「…手袋なんぞ、銃が使いにくくなるだけだ」
『素人細工ですが、手の型を取ってピッタリに作れば大丈夫かなと思ったんです。
それに、手が冷えていたら銃が使いにくくなりますよ』
「……俺より先に自分の分を作れよ。お前の手はいつも冷たい」
『私の分は土方様が買ってくださったのがあって…』
「そうか」
それとお揃いの細工にしようと思ってるんです、と機嫌よく笑った紗和の頭を撫でた尾形が、海亀獲れたみたいだぞ、と浜に戻ってくる舟を指差した。
…砂浜で仰向けにされて捌かれるアオウミガメを見てふと何かを思いついた様子の尾形がアシㇼパに何か話しかけているのを不思議そうに見ている紗和は、ウミガメも食べるんだ、和人も大概何でも食べるけどアイヌも何でも食べるな、と考えながら畳んだ革と型紙を背嚢に仕舞い込んで、ウミガメを解体してコタンに戻るのを追い駆けた。
──アオウミガメの鍋をご馳走になって、暗くなる前に型紙に合わせた鹿革の裁断を済ませた紗和は、いつものように尾形の外套の中に潜り込んでいって目を閉じた。紗和が寄ってきた気配に僅かに意識を覚醒させて腕の中に迎え入れてくれる尾形に表情を緩めて、幸せそうに。
『ハマナス、酸っぱいけどほんのり甘くて美味しいですよ』
「ン」
『ふふ、たまには双眼鏡を離してみては?』
「ン」
『ふふ』
翌日、漁に出たアシㇼパを浜辺で待ちながらインカㇻマッに教えて貰った通りに真っ赤に熟したハマナスの実だけを摘んで尾形の元へ向かった紗和は、無防備に口を開いて待つ尾形に微笑ましい気持ちでハマナスの実を食べさせて、顔を顰めるまでを見守って、ほんのり甘いと言いましたよ、としらばっくれて見せた。恨みがましく額を弾かれて、それでも紗和は微笑んでいた。
「…オイ、見ろ」
『?何です?』
「飛蝗だ。逃げるぞ」
流れるように尾形に抱えられた紗和は、大量のバッタに追われて逃げてきた杉元達となし崩しに海岸に建てられた番屋へと逃げ込んだはいいが、番屋の窓にビッシリと張り付く無数のバッタの腹がウゾウゾと蠢いている様に気分を悪くして、腹が減ったからと谷垣がアイヌの老人に貰った肉を鍋にしようと支度を始めるのを他所に、ヨロヨロと奥の間に引きこもってしまった。
…木戸を閉めて、窓の方を極力見ないように小さくなって気持ちを落ち着かせていると、杉元達が居る囲炉裏の部屋の方から何やら異様なやり取りが聞こえてくる。
尾形が体調を崩したようなのだが、胸元を開けて楽にしてやれ、まではいい。間髪入れずに白石らしき声が、全部脱がせろ、と叫んでいる。どういう事???と思わず木戸を細く開けて様子を覗うと、頬を赤らめて汗だくになった、興奮を抑えきれないという様子の杉元達が床に倒れる尾形を囲んでゴソゴソやっている。服を脱がされている真っ最中だった。怖くなった紗和はそっと木戸を閉めて見なかったことにした。
──やがて木戸の向こうで異様な雰囲気で騒いでいる男達の中に声が増え、杉元達の反応からキロランケが合流したのだと分かった。
────そして、相撲しようぜ、という杉元の一声を皮切りに、木戸の向こうで男達の雄叫びと肉のぶつかり合う鈍い音が響き始めた。誰かが笑い、誰かが吠え、床板まで軋む。
紗和はいよいよ膝を抱えた。
杉元達が急に正気を失った理由が、まるで分からなかったから。
──ズッ…
『え、ぁ、百之助さん?』
「………」
『……どうされましたか?』
「…………」
立て付けの悪い木戸が擦れるような音を立てて開き、褌姿の尾形がヌッと部屋に入ってきて、無言で紗和の膝を寝かせて横座りの形に整えると太腿の上に俯せに顔を乗せて紗和の腰に腕を回してガッチリとしがみついて深く長く呼吸を繰り返している。
…確実ににおいを嗅がれている。どうにかその行為を辞めて貰おうと、仰向けになりませんか、深呼吸やめてください、せめてお風呂に入った後にしてください、と言葉を尽くすも尾形は聞き入れる様子が無い。ここで漸く尾形も可笑しくなっているのだと悟った紗和から血の気が引いた。
──暫くそのまま匂いを嗅がれ続けた紗和が抵抗を諦めてされるがままになった頃、のそりと起き上がった尾形が紗和を胸の中に抱き込んで、ゴロリと板の間に横たわった。心做しか先程よりも息が荒い。
「フーーッ…フーーッ…」
『大丈夫ですか?お辛いようでしたら、私は席を外しますから』
「構わん…ここに居ろ」
『…分かりました』
荒い呼吸を繰り返す尾形の腕の中で紗和は、困ったように眉を垂らして目を伏せた。
…繰り返しになるが尾形は、自分の性欲というものを穢らわしいものだと思っているフシがある。
釧路湿原で言った〝男は出すもん出すとそうなる〟という発言は己の実体験に基づくものではなく、男所帯の軍で見た諸々と、自身の父親の所業を揶揄している所が大きい。
──それなのに、紗和を突き放すどころか胸の中に強く抱き込んだ尾形は、紗和の柔らかな黒髪に鼻を埋めて、女の肌の香りで鼻腔から肺までを満たしていた。
尾形の剥き出しの背中に恐る恐る腕を回して、宥めるようにその汗ばんだ背中を撫でる紗和の手は柔らかくて、その手つきは尾形への思いやりに満ちていて、尾形は初めて、女に抱かれて満ち足りた気持ちになれた。身体は酷く熱を持って疼くのに、心は酷く満たされていた。
────瞼を閉じて視界を閉ざして深く息をしても、女に近付くたび脳裏に浮かんでいた母の幻は、もうどこにも現れなかった。
────
「アレッ?尾形は?」
「えッ?あ、居ないねぇ…服も着ないで何処行ったんだろ」
「……紗和さんの所じゃない?確か隣の部屋にこもってたよね」
「紗和嬢も居たのか?アレ、聞いてたのか…?」
「………そうだよッ!」
ゴソゴソと布の擦れる音と共に杉元さん達のそんなやり取りの後、木戸が細く開いて百之助さんの衣服が静かに置かれて杉元さん達の声が遠ざかっていく。
…何か誤解されている気がするのは気のせいだろうか。
気まずそうに起き上がった百之助さんが髪を整えて衣服に手を伸ばし、無言で襯衣を羽織って服装を整えている。洋袴のボタンを留めているらしき後ろ姿に外套を広げて抱き着くようにして肩に外套を掛けてあげながら、お加減はもう大丈夫ですか、と問い掛けると、小さく頷いてくださった。
──そのまま無言で手を引かれて番屋を出る時に、インカㇻマッさんとすれ違った。谷垣さんは床で寝ていたから、彼を心配して探していたのだと思う。
『杉元さん達と合流しますか?』
「……アシㇼパを探している筈だ。村に戻ってるかも」
『では一度村に向かいましょう』
「ああ」
一度海岸沿いの村に戻るもアシㇼパちゃんの姿はなく、もう暗いから明るくなったら探しに行こう、と家で休ませて貰う事になった。
…早朝、東の空が白く染まり始めた頃にアシㇼパちゃんを探しに海岸に戻る。杉元さん達はずっと私たちに対して何処かよそよそしいというか、気まずげだ。首を傾げて百之助さんを窺うと、気にしなくていい、と言っていたのでなるべく気にしないようにしようと思った。
──海岸で火が焚かれているのが遠くからでも分かった。明かりの元に居るのは小さな影で、アシㇼパちゃんだともすぐに分かる。百之助さんの外套の裾を引いて、見つかってよかったですね、と囁くと朝闇の中で小さく頷いてくれるのが分かった。
番屋で一晩過ごしたのだろう、谷垣さんと連れ立って私達と反対方向からアシㇼパちゃんに合流したインカㇻマッさんが、緊張した面持ちで私達──恐らくは昨日まで居なかったキロランケさん──を見る。
「キロランケニㇱパが私の父を殺したのか?」
「え?」
『…なんて直球』
「俺が?何だよいきなり…」
キロランケさんの反応は、思わぬ問いをされた動揺とは、少し違う気がした。心当たりがあるとまではいかないが、後ろめたい事はあるような、そんな反応に見えた。彼は存外分かりやすい。きっと私の気の所為ではないだろう。
…指紋という証拠を得ていたインカㇻマッさんがキロランケさんを問い詰め始めて急に険悪になる空気に、身の置き所を考えるまでもなく百之助さんの影に隠れる。私にとってはここが一番安全だから。
ズ、と足と一緒に身体の軸をズラして私を外套の影にすっぽりと隠した百之助さんが、インカㇻマッさんに銃を向ける。この女は鶴見中尉と通じているぞ、そう言って。
「よせッ、何を根拠に…」
「谷垣源次郎〜…色仕掛けで丸め込まれたか?
殺害現場の遺留品を回収したのは鶴見中尉だ…つまり、鶴見中尉だけが指紋の記録を持っている」
銃を構える百之助さんとの間に入って背に庇ったインカㇻマッさんを振り返る谷垣さんに、彼女は淡々と、鶴見中尉を利用しただけです、と答える。この図太さは見習いたいと思った。
大した女だな?と谷垣さんを責め立てる百之助さんの銃口を下げさせながらキロランケさんは、鶴見中尉の情報を信じるのか?と反論ついでに話をすり替える。上手い。一見筋も通っている。
「殺し合えば鶴見中尉の思うツボだ。この状況がヤツの狙いだろ?
アシㇼパ…父親がのっぺら坊じゃないと信じたい気持ちはよく分かる。でも、あんな暗号を仕掛けられる男がこの世に何人も居るはずない。アシㇼパだって、あの父親ならやりかねないと…そう思っているんだろ?」
「……」
「どっちだ?どっちの話が本当なんだ?誰が嘘をついているんだ?」
「白石。この中で〝監獄に居たのっぺら坊〟と会ってるのはお前だけだよな?」
「本当にアシㇼパさんと同じ青い目だったのか?」
「え?俺は一度も青い目なんて言ってねえぞ。あんな気持ち悪い顔まじまじと見た事ねえよ。
土方歳三が前にそれっぽい事言ってた気がするけど…それに多分…他の囚人ものっぺら坊とは会話してないんじゃねえかな。あいつは黙々と入れ墨を彫るだけだった。脱獄の計画はすべて土方歳三を通して俺たち囚人に伝えられたんだ」
全員が疑心暗鬼に陥っているのが、雰囲気だけでもよく分かった。けれど私は、土方様が嘘を吐いて皆さんを操っているとは思えない。確かに秘密にしている事はあるのだろうけれど、秘密を抱えたまま話せる範囲の真実しか明かさない事は、騙している事になるのだろうか。人は皆、自分に都合のいい状況を作りたがるものだけれど、そこに嘘を交えない事はある種の誠実さではないだろうか。
…誰にもそんな事は言えないけれど、私はそう思った。
感情的になった奴は暫く頭を冷やして来い、昼に釧路の町で合流だ、と取り決めて離散するのを見届けて、百之助さんの手を握った。
──この人もそう。私に隠し事をしている。けれど信じられる。だってこの人は、嘘を吐くのが下手だから。本音を隠せない人だから。周りの人は百之助さんの事を、何を考えているのか分からないと言うけれど、私にとってはそういう、可愛らしい人に見える。
今だって、当たり前のように私の手を握り返してくれる。この優しい手を、私は信じられる。
『……百之助さん、ありがとうございます』
「何がだ」
『こんな風に、誰かの背中に安心して隠れていられるのが初めてだから、お礼を言いたくなったんです』
「…そうか」
『はい。深い意味は無いんです。ただお礼を言いたくて』
「………………俺もだ」
何に対しての同意なのかは聞き返さなかった。その必要はないと思ったから。ただ釧路の町に向かう百之助さんに手を引かれて、黙って歩いた。
…ちなみに百之助さんが昼の合流までに時間を潰す宛として選んだのは風呂屋だった。服は折を見て洗ったり替えたりしていたけれど、入浴する習慣のないアイヌの村には風呂場が無いから、そろそろ不快に感じていたのだと思う。旅をしている割にあまり動き回る事もなく、元々汗を掻きにくい私でさえそう感じていたから。
──入浴を済ませて杉元さん達と合流する頃にはキロランケさんもすっかりいつもと変わらぬ様子で、自分の息子達は北海道のアイヌで、金塊はこの土地のアイヌの為の物だ、インカㇻマッと目的は変わらない、と述べてみせる。私はそれは、彼の嘘だと思った。
みんな疑心暗鬼のままでどうするんだ、と白石さんが言うのに便乗して、寝首を掻かれるのは勘弁だ、と百之助さんが小さな悪意を刺す。
「行くしかねえだろ。
のっぺら坊がアシㇼパさんの親父なのか違う男なのか…会えば全部ハッキリする。網走監獄へ行くってのは最初っからずっと変わらねえ。
インカㇻマッとキロランケ、旅の道中もしどちらかが殺されたら……俺は自動的に残った方を殺す!これでいいな!?」
『ワ……』
「なんてなッ!アッハッハ…」
『こわ』
思わず漏れた私の声に、百之助さんが細く笑った。
私達は疑心暗鬼を抱えたまま、網走を目指して北へ向かう。塘路湖の傍に暮らすアシㇼパちゃんの親戚を頼って、これから30キロ程を歩く事になる。
…これからの季節は湖で採れる菱の実が美味しいのだとアシㇼパちゃんが言う。食べた事がないので、少し楽しみだった。
──足場が悪い場所を通る度に百之助さんが手を引いてくれるのも嬉しくて、旅はあっという間に感じる程。
────
『盗賊?』
アシㇼパの従兄弟伯父のチセで家事を手伝っていた紗和は、その言葉にゆったりと首を傾げた。
女性達が言うには、月の無い夜に盲目の盗賊がこの辺りの村を襲っているという。今のところアイヌに死人は出ていないがきっと時間の問題だ、屈斜路湖の方へ向かうのなら気を付けて、と情報を得て紗和は頷いた。
…杉元達と夕飯を囲む席でアシㇼパの従伯父から同じ、しかしより詳しい話を聞かされて、一行はそれが網走監獄を脱獄した刺青囚人の率いる盗賊だとあたりをつけて、囚人に詳しい白石の話から〝都丹 庵士〟だと結論を出して屈斜路湖へと向かって旅立った。屈斜路湖の傍のコタンにもアシㇼパの親戚が居るのだという。
開拓民として入植して半世紀も経っていない和人では考えられない血縁関係の広い繋がりに、紗和は控えめに慄いて尾形の耳元で、和人も長く一つの地域で暮らしていたらこんな風に何処へ行っても親戚が暮らしているものなんですか?と聞いて、首を横に振られた。
──塘路湖から屈斜路湖までは北へ約60キロ。道中で狩りをしたり食事の支度をしたりしていたら数日かかる距離だ。
紗和は尾形の靴下の爪先と踵に補強の布を縫い付けてやってから、いつものように尾形の腕の中へと潜り込んでいった。当たり前にそれを受け入れて寝む尾形も、一行の日常として受け入れられている。
────道中大きな事件はなく、屈斜路湖近くのコタンに暮らすまた別の従伯父に快く受け入れて貰った一行は、狩りに行く者、コタンの暮らしを手伝う者、自身の装備を手入れする者、思い思いに一日を過ごし、夜になると集まって食事を囲む。杉元が目を撃ったというシマフクロウで一悶着したり、チタタㇷ゚未経験の谷垣を杉元と白石が茶化すなどの一幕を経て食事にありついた。
「すっかり餌付けされてる」
『ふふ、こうやって見ると皆さん可愛いですよね。雛鳥みたい』
「…ちょっとズレてるなアンタ」
『そうでしょうか?』
チタタㇷ゚を振る舞うアシㇼパの前で親鳥にエサを求める雛鳥のように口を開けて待つ杉元と白石にシレッと混じっている尾形を微笑ましそうに見る紗和は、男達の後ろでポカンと口を開けているチカパシを呼び寄せてアシㇼパのように食事を口に運んでやった。
…紗和
──紗和が、母になる。それはきっと尾形との子供の。二人によく似た深い黒髪と白い肌の子供の母に。
その姿を想像して、尾形は決して嫌な気分にはならなかった。
「東に住むアイヌにとってコタンコㇿカムイはヒグマより位の高いカムイだ。
木のウロで捕まえた雛は村に持ち帰り、子熊よりも大切に育てる。送る儀式は飼い熊送りよりも厳粛だ」
「シマフクロウは鮭を捕まえても皮が軟らかい喉の肉だけ食べて残すから、川漁が中心の地域に住むアイヌには大切にされたんだよ」
「コタンコㇿカムイは村を守護するカムイで、闇の奥から忍び寄る魔物を大声で怒鳴りつける」
『村長の事をコタンコㇿエカシと言ったりしますよね。それと同じ意味ですか?』
「そうだ。紗和もだいぶアイヌ語が分かるようになったな!」
『アシㇼパちゃんの教え方が上手なんですよ』
笑顔を向け合うアシㇼパと紗和の事をじっと見ている尾形が、俺達は盲目の盗賊を探している、とアシㇼパの従伯父を窺って従伯父は、前の新月の時は隣の村が襲われた、カムイに頼っていても村は守れない、盗賊がこの村を襲ってきたら村の男達も命懸けで戦う覚悟だ、と語って聞かせた。
…そこに耳を劈くシマフクロウの叫び声が響く。銃を構えて外へ飛び出して行った男達とアシㇼパを黙って見送った紗和は、同じくチセの中に残ったインカㇻマッに、私達はこういう時は無力ですね、と薄い微笑みを向けた。
「…紗和さんは、どうしてこの旅に同行しているのですか?」
『インカㇻマッさんには話していませんでしたね。
私は戦争未亡人なんです。夫を日露戦争で亡くして婚家を追い出され、路頭に迷っているところを永倉様に拾って頂いたのです。お金に困って身売りを考えている時でした。
…今は、百之助さんと一緒に居たくて、こうしてついて回っています。金塊にも、北海道独立にも、実は興味が無いんです。ただ好きな人と一緒に居たいだけなんです。私達、似ているのかも知れませんね』
「……そうですね」
『男性の趣味は似てないみたいですけど』
「ふふ、そうですねぇ」
今度恋のお話でもしませんか?と冗談めかして笑う紗和に、いいですねぇ、と笑うインカㇻマッ。急に距離が縮んだように見える女二人に、戻ってきた男達が首を傾げた。
…翌日、アシㇼパの従伯父が言った温泉旅館に向かった一行は、昼間のうちに荷物を部屋に置いて思い思いに行動していた。男性陣は夜寝る前に風呂に入ると言うので、紗和は贅沢に昼風呂を楽しんでいた。勿論夜にももう一度入る気だ。夜の露天風呂は足元が危ないから内湯にしろよ、と尾形に釘を刺されているので、昼の露天風呂を満喫している。
尾形は覗きに行きかねない白石を見張っている。
──そこで紗和は不意に大雪山で尾形が言った事を思い出して、風呂に浸かっている事とは関係ない理由で逆上せそうになった。尾形は紗和に、お前布団があるとこに着いたら覚えてろよ、とそう言ったのだ。
部屋割りでは当たり前のように尾形との同室に割り振られた紗和は、今夜尾形と個室で二人きりになる。布団もある。つまり今夜。
────そこまで考えて真っ赤になった紗和は、男性陣が風呂に行っている間にインカㇻマッの所に閨での作法を教わりに行こうと決めた。
『あの、インカㇻマッさん…』
「どうされましたか?」
『少し相談があって』
「ええ、いいですよ、どうぞ入っていらしてください」
『失礼いたします』
男性陣が全員温泉に向かった頃を見計らって、紗和はインカㇻマッの部屋を
『……その、殿方と初めてその、する時って…何かお作法などはあるのでしょうか?』
「マ、ふふ、それを聞きにいらしたんですか?」
『お恥ずかしながら…経験が無くて。夫は居たんですけど、その、しなかったので…』
「大丈夫ですよ、紗和さん。きっと尾形ニㇱパは、何も知らない、何も分からない、そういう紗和さんのままで居た方が喜ばれます。占いじゃありませんよ?」
『……そうでしょうか』
「はい。紗和さんはとても、お可愛らしい方ですから」
「何の話をしてるんだ?」
『あ、アシㇼパちゃんにはまだ早い話です!』
「尾形ニㇱパとのお話ですよ」
『インカㇻマッさん…!』
「ふふ」
アシㇼパの後ろから顔を出した按摩師が、それじゃああたしはお暇しますよ、と声をかけて出て行く。女三人で見送りに立つ。
「ひとりで大丈夫か?」
「ありがとう。夜道はお嬢ちゃんより得意だよ」
「ほんとに?」
「ああ。真っ暗でも転がっていった小銭だってすぐ拾えるんだから。お嬢ちゃんには出来ないだろう?」
『耳がとてもよろしいんですのね』
「ああ。目が見える人はそっちに大きく頼りがちだからね。目が見えない分、あたしらにしか見えないものがある。
そうだお嬢ちゃん、夜のゲタの音に気を付けなさい」
「ゲタ?」
「夜になるとこの辺りに出て来る、盲目の盗賊さ。
皆はゲタの音だって言うけどあれは違う。ある晩あたしも聞いた事がある。
あれは舌の音だ。舌を鳴らした音の反響でものを見る」
「舌を鳴らすってどんな風に」
──カンッ
その音を聞いた途端に血相を変えて走り出したアシㇼパに呆気にとられている按摩師に、大丈夫です、ありがとうございました、と礼をした紗和が、でも心配なのでお出口までご一緒しますね、と按摩師の手を取って旅館の出口まで送って行く。
…その道中で銃声を聞いた。
そのすぐ後にインカㇻマッが駆けて来て、私は谷垣ニㇱパを探しに行きます、と紗和の持つカンテラを貸して欲しいと頼んでくるから、私はここに残りますね、とそのカンテラを手渡した。
──アシㇼパの従伯父達の話によると、盲目の盗賊が出るようになったのはここ最近の話では無さそうだった。もう何ヶ月もこの辺りに潜伏して月の無い夜に盗みを働いているのだろう。そして硫黄山の開発会社の人間は殺されているそうだ。
恐らく土方達も情報は掴んでいるだろう。そして、網走に向かう道中で一行に加える為に寄るはずだ。運が良ければ、杉元に都丹庵士が殺される前に。
土方は刺青囚人を殺すよりも利用できる者なら手勢へ加える。盲目の盗賊が集団を率いているなら、必ず一度は接触を試みるはずだから。
按摩師を見送った紗和は、一度部屋に戻って防寒着を手に取ると、館の入口の上がり框に腰掛けて土方達の到着に賭ける事にした。
────そして紗和は、賭けに勝った。土方が間に合ったのだ。未明に旅館に到着した土方が、紗和を呼び寄せて一言、状況は、と問うた。
『杉元さん達男性陣が夜の露天風呂に居る所を襲撃されたようです。
本来は今日から山中に点在する廃旅館を総当たりして、盲目の盗賊の塒を探す予定でした。
もうすぐ夜が明けますので、盲目の盗賊は塒に戻っていく頃合いかと思われます』
「分かった。お前はここで待っていなさい。ちゃんと部屋で休んでいなさい」
『ではこれを、百之助さんに渡してあげてください』
「ああ、分かった」
紗和は上がり框で朝を待つ間の暖をとる為に羽織っていた外套を、小樽で留守番していたはずがいつの間にか土方一行に加わっていた夏太郎に持たせて、紗和は一行を見送った。
────
「紗和、起きてるか」
『ぁ……おかえりなさいませ。お怪我はありませんか?』
「ああ」
『良かったです』
夜通し山の中で戦っていたという事で、出発は翌朝になった。朝から温泉で温まり直した男性陣が戻ったのは日が高くなり始めた頃で、土方様から事の次第を聞かされて安心した私は部屋で布団を敷いてウトウトしていて、襖が開く音にも気付かずに布団の上から肩を軽く叩かれて漸く意識が浮上した。
…少し離して敷いていた布団を寄せてくっつけた百之助さんがモゾモゾと布団に潜り込んで、欠伸を一つ。
「布団のある所に着いたら覚えてろと言ったが……まずは寝る。コトはその後だ」
『はっ、はい…』
スっと寝入ってしまった百之助さんとは対照的に、私は先程までの眠気が何処かにいってしまった。けれど皆さんおやすみされているので気を紛らわす話し相手になってくださる方は居ない。
悶々と過ごすうちに昼が来て、夕飯だから起きろ、と永倉様が部屋を回って起こしにいらした。
…夕飯を頂いて、内湯で温泉に入り、百之助さんの居る部屋に戻る。心臓が口から出そうなくらいに緊張していた。
──けれど、この人となら大丈夫だと、そう信じられる。だって私を布団に押し倒した手が、酷く冷えていたから。少し震えていたから。
多分私と同じくらい…もしかしたらそれ以上に、百之助さんの方が怖がっているんじゃないかと、そう思った。そう思った途端に早鐘のように鼓動を刻んでいた心臓が静かな脈を取り戻して、何を言わなければいけないのか、どう振る舞うべきなのか、いつものように考えなくても分かるようになった。
「……本当にいいのか」
『何がです?』
「…この先を見たら、お前が泣いて嫌だと言っても、俺はもうお前を離してやれん」
『ふふ、離さないで。ずっとお傍に置いてください。
私…初めて自分で選んだんです。誰かを好きになったのも、その人の傍に居たいと思ったのも、こうして肌を重ねる事も、全部、初めて。
自分の人生を自分で決めるのって、こんなに幸せな事だって知らなかった。これから貴方と一緒に居られたらもっと幸せになれる。そういう確信があるんです。
だから……私をもっと、幸せな女にしてください。貴方の手で、私を女にして』
「ハハァ……物好きめ」
私を嘲るような言葉を吐いた声も唇も震えていた。互いの唇を食むように重なった唇が柔らかくて、ハラリと垂れて私の頬を擽る髪からは丁字の香りがして、みっともなく浅くて速い呼吸を繰り返して、夢中になって唇を食み合って。
…口吸いに夢中になっている間に帯を解いて浴衣の袷を広げて、私の薄い腹を確かめるように撫でていた手が、腰の骨をツゥと掠めた時、腹の奥に熾火を灯されたような熱を感じて太い首に縋りついた。
──生まれてこの方あげた事もない艶めいた声が漏れて、百之助さんが喉の奥で唸って、部屋にある二組の布団の片方が汗や互いの名残で湿って使い物にならなくなる頃には、晦の月が東の空に浮かんでいた。
『百之助さん』
「…なんだ」
『女は初めて契りを交わした男に背負われて三途の川を渡ると言うのですよ。手を引かれて、と伝えられている場所もあるそうですが。
……私が死んだら、三途の川を渡る為に私を背負ってくださいね。背負うのが嫌なら、手を引いてください』
「俺の方が先に死ぬだろ」
『そうしたら、待っていてくださいね、三途の川の畔で。きっと私も、すぐにいきますから』
貴方が居ない人生をそう長く生きられるとは思わないのです。乾いた布団の上でそう言って、まだしっとりと汗ばんだ胸に擦り寄った。私の湿り気を帯びた髪で手慰みをしていた百之助さんの手が私の頬を包んで、暫く黙り込んだまま指先で私の頬を揉んだ後に吐息のような声で、待ってやるから好きな時に来い、と呟いて私の顔を胸板に押し付けて言葉を塞いで、寝ろ、とだけ言って目を閉じてしまわれた。
…百之助さんの肌の香りに包まれて目を閉じると、いつ眠りに落ちたかも分からないまま朝を迎えていた。
──今まで生きてきた中で一番幸せで、美しい朝だった。
目を覚まして眩しいくらいに白い胸元から顔を上げると、少し幼い寝顔で目を閉じている百之助さんを仰ぎ見る。いつも私より早く起きているから、寝顔を見たのは初めてだ。いつも整えられている髭が少しだけ伸びかけているのも分かるくらい近くて、少しの悪戯心で指の背で髭を逆撫でしたらビクリと跳ね起きた百之助さんに不満そうな眼差しを向けられたので、すみません、と謝って頬を撫でて顎髭に頬を寄せた。これが意外と柔らかくて気持ちがいいのだ。
「……さっさと服を着ろ」
『はい』
「………何処も痛くないか」
『ええ、平気です』
「そうか」
私に背を向けて隣の布団から褌を手探りで引き出している百之助さんの背中や首の付け根には赤い爪跡が残っていた。その事を謝るのは少し違う気がして、私も起き上がって自分の背嚢から着替えを引き出した。
…とろりと太腿を伝う名残をひっそりと拭って。
──何か悪い事をした後のような気持ちで土方様達と顔を合わせて、旅の方針を共有する。網走まではもうすぐだけれど、一度北見の町に寄るのだと言う。
北見の町までは、休みなく歩いても丸一日かかる。何処かで一晩休むのだろう。土方様は私の顔を見て一言、お前は馬に乗りなさい、と仰った。
『百之助さん、写真ですって』
「なんだ、はしゃいで」
『生まれて初めて写真機を見ました』
北見の町で土方様が私達を連れて行ったのは写真館だった。
初めて見る写真機に興奮する私の肩を軽く抑えて、埃が立つから落ち着け、と言った百之助さんに、一緒に写りましょう、と手を引くと思ったよりもアッサリと応えてくださった。それを見ていた土方様と永倉様が、白粉と紅をもう少し厚く塗った方がいい、顔が白く口紅が濃い方が写りが良くなる、と言って鏡を持ってくださるので化粧を直して写真機の前へ。並んで立つと百之助さんの手が私の肩をそっと抱いた。
…素敵なご夫婦ですね、と写真師の田本様に微笑まれて、私も写真機を見つめて微笑んだ。
──谷垣さんを残して全員出るようにと言われて首を傾げたけれど、きっと何か、田本様の気に入るものを谷垣さんがお持ちだったのだろう。後から妙に疲れた顔で写真館から出てきた谷垣さんに事情を聞く気にはならなかったけれど。
写真を焼き付けて貰う間にそれぞれ食事をしたり、一部の方は遊郭で遊んだりと思い思いに過ごして、写真を手に北見の町を発つ。私達の写真は私が逸れた時に写真を見せて人に訊ねられるようにと、土方様と永倉様、意外な事に杉元さんも受け取っていた。
────写真の中の百之助さんは、伏し目で私の横顔を見て薄く微笑んでいた。私の気のせいでなければそれは、幸せそうな笑みに見えた。
────
「紗和、来い」
『はい』
またアシㇼパの親戚が暮らすという網走監獄傍のアイヌコタンに着いて間もなく、鮭の遡上の季節が始まった。
…網走監獄の周りを山の幸の採集をしたり川で漁をしたりしながら観察し、情報を出し合って決まった方針は、警備の手薄な網走川に面した堀から侵入してのっぺら坊と会う、というものだった。
鮭の漁期を利用して監獄内に続くトンネルの入口をアイヌの仮小屋で偽装し、侵入経路を作るのだ。
これらは主に白石の発案だ。
──紗和はトンネル掘りにも鮭漁にも役に立たないのが分かりきっているので、アイヌの冬支度の手伝いや服の修繕、一行の滞在するチセの家事全般を担って日々を過ごしていた。
時折──というか二、三日に一度──尾形に声をかけられてコタンを抜け出すのはご愛嬌として見逃されている。紗和はきちんと周りにその事を伝えてからコタンを空けるし、若い恋人同士の逢引を邪魔する程野暮な男は此処には居ない、と土方が鷹揚に受け入れているからだ。
行先は網走の町であったり野山であったりとその時々だが、大抵は二人きりになれる場所でゆっくり一晩過ごして張り詰めた日々の息抜きをしたら戻ってくる。紗和と尾形はそういうものだと周りも受け入れていた。
今夜の行先は山の中の仮小屋で、焚き火の前に座る尾形の胡座の中に腰を降ろした紗和を抱えて着物を整えてやっている。乱したのも尾形だが。
「……お前に一つ、話しておく事がある。これを土方に報告するか否かはお前の判断に任せるが」
『なんでしょうか』
「網走監獄に入れば何が起きるか分からん。俺が戻らなかった時、お前が何も知らんままでは困る…だから話す事にした。
俺は、中央の内通者だ。陸軍第一師団長からの密命を受けて、第七師団…鶴見中尉の動向を中央に報告している。
中央の目的はアイヌの金塊と……戊辰戦争時に蝦夷共和国とアイヌの間で結ばれた北海道の土地に纏わる権利書の回収だ。中央は鶴見中尉を泳がせて金塊と権利書を見つけさせて、それらを掠め取る算段でいる。例え土方やアシㇼパが見つけても、武力で制圧してそれらを奪い取るだろう。それをあの老獪なジイサンがさせるかは別として、だ。
………俺は、中央に金塊と権利書を差し出した見返りに出世を約束させている。ゆくゆくは、第七師団長の椅子に座る。その為に」
『出世して第七師団長に…それをお望みなんですか?』
「第七師団長の椅子なんざ、俺のような男でも座れる大した価値の無いモンだと証明する…最初はそのつもりで望んだ。だが今は……それもよく分からなくなった。
お前が訊いてくるから……俺の幸せは何だって、お前が訊くから考えた。そうしたら、よく分からなくなった。
ただ今は、お前が幸せそうに俺の周りで笑っているのを、見ていたい。俺は軍人としての生き方しか知らん。それ以外の道なんざ考えた事も無い。
お前を娶って、お前を囲って、お前に不自由のない生活をさせる。その為には金と地位が要る……出世だ。せめて下士官に…欲を言うなら将校に。俺は成り上がる。お前はそれまで、お前を安全地帯に置く土方と永倉の所で待っていろ」
『私は、貴方が軍人さんだから好きになったんじゃありませんよ?』
「……なら逆に、俺のどこに惚れたんだ」
『ふふ…実は最初は、お顔なんです。素敵だから』
「………今、生まれて初めて父親に感謝したぜ」
『百之助さんはお父様似なんですね。お母様の気持ちが分かるような気がします。
こんなに素敵な殿方に可愛がられたら、忘れられなくなってしまいますから』
「……そうだな。そうだったよ」
『私も、忘れませんよ。貴方の事。
出世も、地位も、名誉も…貴方が望むなら私は否定しません。それらを手に入れた貴方が私にも与えてくれるなら、受け取ります。でも私は、貴方が私の人生の中に居てくれるだけでいいって思ってる事を、忘れないでくださいね』
「…ああ」
身を捩って尾形の方へと向き直った紗和が、尾形の頬を両手で包んで鼻先同士を擦り合わせて、教えてくれてありがとうございます、今日のお話は私の胸にしまっておきますね、もしも土方様達にお話しなければいけなくなっても百之助さんから聞いたとは言いません、と笑って尾形の唇を塞いだ。
…紗和は口吸いの時に、相手──尾形──の唇を吸うのではなく食む癖がある。尾形の唇を唇で食んで、舌先で舐めて、尾形が自ら口を開くまで待つ。おずおずと唇を薄く開く尾形の歯列を紗和が舌でなぞって、尾形の震える舌を慰撫するようにねろりと舐めて、舌を絡め合った。
整えたばかりの着物の袷を広げる尾形の手を受け入れて尾形の襯衣の釦を外す紗和に、助平め、と尾形が笑う。助平で結構でございます、と答えた紗和に尾形は珍しく、無垢に笑った。
──乱れた着物もそのままに二枚重ねたお互いの外套に包まって朝を迎えるまで、紗和は尾形の腕の中にすっぽりと収まっていた。
仮小屋の焚き火はすっかり燃え尽きて、温もりを求めて尾形に擦り寄る紗和を満足するまで眺めた尾形は、そろそろ起きろ、と細い肩を揺さぶってやる。暫くむずがって尾形の腕の中で小さく唸っていた紗和が、おはようございます、と不明瞭に言ってムクっと起き上がり、眠たげに目をシパシパさせながら尾形の頬に自分の頬を寄せてから、スンと鼻を鳴らして漸く目をマトモに開いた。
──その仕草を金持ちの家の小さい犬のようだと可愛らしく思っているけれど口には出さない尾形は、紗和の二尺袖の身八つ口から手を差し込んで開いた袷を閉じてやり、そろそろトンネルが完成する頃だな、と髪を撫でつけた。網走に到着してから結構な時が経っている。新月の日に屈斜路湖を発ってから、月は満ち、痩せ始めている程に。
────その日、トンネルが通じたと穴掘り班からの報告が上がった。
土方に言われた通りの方角に向かって、言われた通りの距離を掘り進め、出た先は土方と内通している看守の宿舎だったという。
その夜は、作戦の進展を祝ってアイヌの鮭料理が振る舞われた。アシㇼパによるアイヌと鮭の歴史の話を聞きながら鮭のチタタㇷ゚に興奮して暴れる杉元や、名刀・和泉守兼定でチタタㇷ゚したいと言い出したチカパシに応えてやる土方とそれを凄まじい目で見る永倉、アシㇼパに詰め寄られて漸く小さな声で〝チタタプ〟と唱えた尾形などの一幕を挟みながら皆でご馳走を囲んで車座になる。
その席でインカㇻマッと谷垣の関係の微妙な空気に一同が気まずくなった時、尾形が紗和に袱紗に包まれた箱を手渡した。
「……これをやる。そろそろ髪を結える長さになっただろ」
『まぁ、綺麗。鼈甲と銀の平打ちですか?』
「鼈甲じゃねぇ、和甲だ。釧路で獲った海亀の甲羅を加工させた」
『あの時の海亀ですか?』
「ああ。それの意味は分かるな」
『、勿論…』
「ゆくゆくは、この飾りに紋を彫らせる。俺の家か、お前の家か…その時に決めればいい」
『ではそれまで、大切に持っていますね』
蕩けるような笑みを浮かべて尾形にそう答えた紗和が箱を包んでいた袱紗で簪を包んでそれを袂に納めるのを見て夏太郎が、こっちはこうくっつくんだ、という顔をした。
土方が紗和に含みのある笑みを向け、永倉は深く溜息を吐き、家永が紗和の腹部をまじまじと凝視している。三者三様の年寄り達の反応に紗和は目線を彷徨わせた後に、土方に向かって微かに〝してやったり〟という色の滲む笑顔を向けた。
…見つめ合って微笑み合う土方と紗和に首を傾げた尾形は、よかったじゃねぇか、可愛い嫁捕まえやがって、羨ましい男だぜ、と背中を叩いてきた牛山のせいで盛大に咳き込んで、紗和に背中をさすられるうちに、先程一瞬浮かんだ疑問符はどうでもいい事の部類になっていった。
──その夜遅く、紗和は土方に連れられて看守の宿舎に居た。何故ここに連れて来られたのかが分からない、と顔に書かれた状態で話し合いの席に座っている。余計な事を言わず、土方の意図を探る思考を回転させながら。
「次の新月の晩にのっぺら坊が居る房はここ…第四舎第六六房だ」
「俺の脱獄の鉄則としては、新月に拘らず全ての音をかき消す嵐の夜なんだが…トンネルが川のすぐ側だ。雨とか川の増水で塞がれる危険がある。今回は俺一人じゃねぇしな…
誰にも気付かれないように侵入して、アシㇼパちゃんをのっぺら坊に引き合わせ、何事も起きなかったかのように静かに立ち去れば…大成功だ!」
「失敗すればここのトンネルはすぐに見つかり、その瞬間に門倉はお尋ね者だな」
「この仕事に執着はありません。その時は土方さんにお供します。死んだ親父も喜ぶ」
そう言った門倉に土方が笑みを深めるのを見て、紗和は悟った。この話し合いは茶番なのだと。
土方と通じている看守は門倉さんだけ?とキロランケに訊かれて答える門倉の声を聴きながら、紗和は考えていた。恐らく今話されている計画は表向きで、土方の真の目論見は他のところにあるのではないかと。
…土方の語る犬童四郎助の為人が間違っていないのなら、刺青囚人を網走監獄から解き放って暗号をばら撒く役目を終えたのっぺら坊をそう易々と接触出来るような場所には置かない筈だ。網走監獄は堅牢な監獄だけれど、今土方達がやっているように、外部からの侵入手段が無いではないのだから。
──つまり、今話題の的になっているのっぺら坊は犬童が用意した替え玉だ。長く網走監獄に勤めている門倉がその事に気付いていない訳が無い。
紗和は己が土方に、この情報に辿り着けるか、そして辿り着いた上でこの情報をどう扱うのかを試されているのだと解った。
────その時土方が背にしたトンネルに向かって、そこで盗み聞きしとらんで上がってこい、と声をかけた。
ヌッ、と顔を出した真顔の尾形がどことなく気まずげに見えた紗和は何故かそれが面白くて、常の微笑みを少し深めて振り返った。
「キロランケと谷垣からお前の事を聴き出したぞ。
〝尾形百之助は自刃した第七師団長の妾の息子である〟というのは師団内で公然の事実であったそうだな?
ただの金塊目当てで軍を脱走したにしては、出自が厄介だ」
「俺が何か軍をどうこうする為に動いているとでも?冗談じゃねぇよ面倒くせぇ。
テメエらだってお互いに信頼があるとでも言うのかよ」
『土方様』
「好きにしなさい。お前の聞くべき話は終わっている」
『ありがとうございます』
短いやり取りの後に場を辞した紗和は、トンネルを出来る限り早く抜けて尾形の後を追いかけた。
トンネルの先で丸木舟に乗り込もうとしている尾形の手をそっと掴んで、ご一緒しても?と尾形の顔を窺う紗和は、少しだけ眉を垂らして微笑んでいる。
…小さく頷いて、紗和が乗り込み易いようにと丸木舟を手で押さえた尾形にお礼を言いながら乗り込んで、後から乗ってくる尾形の分の場所を空け、紗和は黙って網走川を渡った。
『百之助さん』
「…なんだ」
『子供は親を選べません。でも…どう生きていくかは選べるのではないでしょうか。貴方の手はこんなに硬くなるくらい努力を積み重ねた結果だと、生き方を選んだ結果だと、私は思います』
「選んだ道が人殺しだとしてもか」
『私は初めて嫁いだ日に自分を殺しました。生きる為に。貴方は人を殺した。生きる為に。そうするしか無かったから。違いますか?』
「……」
『納得出来ませんか?
では言い方を変えます。どう生きていくのかは選べると言いましたが、産まれた性別や生まれた環境、柵の多い少ないに選択肢の数は左右されます。貴方も私もきっと、選べる選択肢の数はそう多くはなかったのでしょう。
でもその少ない選択肢でも生き残れる道を選んで来たからこそ、こうして生きて今貴方に出逢えて、こうして生きてお傍に置いて貰えている…私はそれだけで、人生の全てが報われたような、そんな心地です』
「………そうかよ」
『ええ』
網走監獄を臨む川岸で、紗和は尾形の手を取って、そう言って、朗らかに笑う。尾形もうっすらと微笑んだように見えて、紗和は密かにホッとした。
…紗和は知っている。
尾形が自身の母を深く愛していることを。
自身の父を恋しく思っていることを。
本妻が産んだ異母弟の事も決して疎ましく思っていないことを。
網走に着いてからの尾形は、二人きりになるとよく、紗和の家族の話を聞きたがった。
紗和を捨てた母親の話も、紗和を疎んだ父親の話も、紗和を慕った弟の話も、紗和は嫌な顔一つしないで話して聞かせた。最早傷つく程の愛着も無い家族の話など幾らでも。そして、尾形の家族の話も少しずつ引き出した。
──だから知っている。
尾形は今も、自身の家族の事でついた傷が癒えないまま生きているのだと。
全てを諦めてしまった紗和と違って、尾形は今も、律儀に傷つき続けているのだと。
だから紗和は思うのだ。産まれ持った家族だけが全てでは無いのだと、いつか気付いて欲しいと。それが、自分と築く家庭の中での気付きであれば一等嬉しいと。
────そうして、数多の思惑が錯綜する、月の無い夜がやってくる。
────
『インカㇻマッさん』
「紗和さん。どうなさいましたか?」
『一つ、お話が』
「ええ構いませんよ」
作戦当日、アシㇼパちゃんを除く女子供と非戦闘員の家永様、そして私達の護衛と刺青人皮の保管役に残った永倉様を残して他の方々は、網走監獄に侵入したり退路を守ったり山に潜んで狙撃で援護をしたりと、それぞれの役目を背負ってアイヌの村を発った。
百之助さんに先日仕上がったばかりの革手袋と栗鼠の襟巻きを渡して送り出した私は、静かに村を出ようとしていたインカㇻマッさんに声をかける。
…常と変わらぬ和やかな笑みの奥に、僅かな猜疑心を感じた。
『お互いに、悔いの無いようにしましょうねと、そう言いたかったんです。呼び止めてしまってすみません』
「…貴女も、悔いの無いように」
『はい、勿論』
インカㇻマッさんはそう言って、灯りを手に闇の奥へと消えて行った。
彼女が鶴見中尉と通じているという判断をした百之助さんは正しいけれど、彼女にも彼女の道理があってそうしたのだと、あの表情を見れば分かる。
…しかし、こちらの構成員も動向も、インカㇻマッさんを伴って滞在した拠点も筒抜けになっているかも知れないというのは困る。この網走の村も、把握されているのだろう。私には軍人から逃げる足も、軍人を返り討ちにする力も無い。そして捕まって尋問を受けたとして、黙り通せる根性も、恐らく無い。
──逃げ切るには策が要る。
寝場所としてお借りしている家に戻るとチカパシくんを寝かしつけてくれていた若い奥様が、顔色が悪い、大丈夫?と私に襟巻きを巻いてくれた。ふわふわと毛足の長さの分だけ厚みのある襟巻きに、茨戸で千代子さんに変装した永倉様のお腹の詰め物を思い出して──そして、鈴川様の言葉も思い出した。
『一つお願いがあります』
「どうしたの?」
『何も聞かずに、今から私を妊婦として扱ってください。どうかお願いします』
「ええ、いいわよ」
何も聞き返さずに快く頷いてくださった奥様に可能な限り丁寧にお礼をして、巻いて貰ったばかりの襟巻きを解いて、自分の背嚢から月のものの時に使う丁字型の月経帯を引っ張りだして履き、月経帯の腰紐に畳んだ襟巻きを挟み込んだ。腹を撫でて確かめる。膨らみ方も、膨らみの柔らかさも、身重の女そのものだ。
…土方様が腹を冷やすなと言って毛糸の腹巻を贈ってくださっていたので、それを重ねて着けて、腹に詰めた襟巻きがズレないように固定する。
──遠くから、鐘の音がしていた。
『土方様達も同じ事を言いましたが、もしここに兵士が訪ねてきても、抵抗しないで私達を差し出してくださいね』
「でも…」
『チカパシくんは幼く、家永様は医師として大変有能で、捕虜となっても酷い扱いは受けないでしょう。永倉様には一人で逃げ切る能力がある。足手纏いなのは私だけ……私さえ見逃して貰えれば、土方様達にご迷惑はかかりません』
「どうするつもりなの?」
『揺さぶります。心を。
彼らは日露戦争帰りの兵士です。敵を殺す事への抵抗が酷く小さい…けれど人としての良心が少しでもある人間が相手ならば…きっと上手くいきます。
私にあるのは、そういう策です』
「…私は紗和ちゃんを信じるわ。頑張りましょう」
『ありがとうございます』
鐘の音を掻き消す轟音──恐らくは大砲か何かの発砲音──に、第七師団がこの村を訪ねてくるのはそう先の事ではないと考えた。
…荷物を纏めた背嚢を背負い、背嚢の負い革に巻き込むように袴の後ろ側を少し引いて、前側を張らせる。腹部の膨らみを目立たせる為に。
そしてチカパシくんを起こして先程奥様に頼んだように言い聞かせてから、村に迷惑をかけない為に自主的に村の出入口に向かった。
──チカパシくんは笑顔で、今だけはオレが尾形ニㇱパのかわりに紗和カッケマッを守ってあげるからね、と頼もしく頷いてくれた。頭を撫でると嬉しそうにするのが可愛らしい。
「土方歳三の一味の者だな」
『はい、土方様のお世話になっている者で間違いありません』
「我々に投降しろ。大人しくついて来るなら、手荒な真似はしない」
「鶴見中尉殿は女子供を痛めつけるような方ではないぞ」
「だ、ダメだよ!
紗和カッケマッのお腹には赤ちゃんが居るのに、土方ニㇱパ達から離れるなんて出来ないよ!」
尾形ニㇱパの赤ちゃんが居るのに、と叫んだチカパシくんの言葉で対峙する兵士達の顔色が変わるのにチカパシくんが気付いた様子は無く、私は頭の芯が重さを増すように痛んだ。百之助さん、どうしてこんなに同僚に嫌われてるの?あの嫌味のせい?あんな可愛い嫌味でここまで嫌われるもの?
…どうしよう、策が破綻しそう。考えろ。ここから彼らが手を引こうと考えるような行動を。
──短い逡巡の末に私は、袂のデリンジャーに初めて手をかけた。
「おい、銃を下ろせ」
「何してるんだ辞めなさい!」
『……女一人と言えども、私の腹には子が居ります。この子諸共、私を死なせる覚悟がおありなら、どうぞ捕らえてください』
「っ〜〜〜〜!」
デリンジャーの銃口を自分の側頭部に押し付ける私の姿に言葉を失った兵士達の視線は、私の膨らんだ腹に向いていて、かなりの葛藤を抱えているのが見て分かった。
…一人が後退り、もう一人は空足を踏んで、松明の光の中でも分かる程に顔色を悪くしていく。もう一押しだ。
一歩、二歩と踏み出して、兵士の持つ松明の光の中へと踏み込んで行く。私の顔がハッキリと見えた兵士達の動揺が顕になった。
──私には自覚がある。自分の顔が整っている部類にあたるという自覚が。顔が綺麗な事は私の数少ない自慢だから。人は美しいモノに魅入るサガを持っている事も、知っている。
私の顔から目を逸らせない様子の兵士達の前で、その顔をゆっくりと柔らかな笑みに変え、引鉄に指をかけ、そして──
「ッもういい!行くぞ、捕らえるのは子供だけでいい!」
「次に見回りに来るのが我々のような者だとは限らんからな。次の見回りが来るまでにさっさとこの場を離れろ!」
『ありがとうございます。チカパシくんはどうなるんです』
「……悪いようにはしない。どうせ大した情報も持っていないんだから、すぐに解放されるはずだ」
『そうですか。ご丁寧にありがとうございます。
チカパシくん…知らない事は知らないって、知ってる事は知ってる通りに、ちゃんとお話するんですよ。どうか元気で過ごしてね』
「うん!俺は大丈夫!
紗和カッケマッも、元気な赤ちゃん産んでね。それでそれで、尾形ニㇱパと家族になって、幸せになってね!」
『……うん、頑張る。応援してくれてありがとう』
兵士に挟まれて連れて行かれるチカパシくんは、最後まで私を気遣ってくれたし、その姿が兵士の罪悪感を煽ってくれていた。無邪気な子供の振る舞いがここまで人の心を曇らせる事があるんだ、と何か新しい学びを得たような気持ちになりながら、私は兵士達の姿が見えなくなってすぐに踵を返し、森に入る。
…まずは永倉様と合流しなければならない。
永倉様の事だから、今頃村の周りで第七師団と切り結んでいるか、早ければある程度の人数を排除し終えた頃だろう。近くに居るといいけれど、とりあえず朝になってから探した方がいい。
網走監獄周辺の見張り小屋は第七師団に制圧されていると思った方がいいだろう。監獄の周辺に建てられたアイヌの仮小屋も同じく、人の出入りが無いかの見張りが立てられている可能性がある。
──町に向かうべきか、山中に潜むべきか。少し考えて、私は町に向かった。山中で自給自足で耐えられる力は私には無いと判断したので。
それに、町には病院もある。あれだけの騒ぎになったのだから、土方様達も医者の処置を必要とする怪我をしている可能性は高い。大きな病院は第七師団に抑えられているとしても、小さな診療所であれば土方様達が怪我の処置を受けに訪れるかも知れない。
町へ向かい、防寒用にと買い与えられていた御高祖頭巾を被って歩く。大きな病院と、その周りの宿には兵士の姿があったので、避けて兵士の姿が少ない方へと向かう。網走監獄での騒ぎを聞きつけて路上に出ている野次馬の姿がいい目眩しになって、目立たず行動出来ている。都合が良かった。
結果として、網走監獄へ向かう道が見えて、且つ小さな診療所が傍にある宿へ泊まる事にした。兵士の動きも見られるし、土方様達が訪れる可能性のある診療所も見られる。
それでも毎日網走監獄の傍には通うけれど、下手に動き回るよりも何処かに居を構えて待つ方がいいだろう。
────明け方の薄暗い頃にほぼ全焼した網走監獄の様子見をしに通いながら土方様達を探す事数日、死体の片付けの為に通う兵士の数が少なくなってきた頃、網走監獄を見下ろす山中で奇跡的に永倉様との合流が叶った。
「紗和…よくぞ無事で第七師団から逃れたな」
『少々汚い手を使いましてなんとか…永倉様もご無事で何よりでございます』
「お前の言う汚い手など、我々から見たら可愛いものだ。無事で良かった…土方さん達もじきに隙を見て監獄から脱出するだろう。荷物がそれだけなら、私とここらで潜伏して待たないか?」
『是非。永倉様と一緒なら心強いです』
「ああ、私もお前が目の届く所にいるとほっとする」
私の鎖骨より少し下まで伸びた髪をそっと掬った永倉様がそう言って目を細めて、第七師団の巡回が来ない仮小屋があるから昼間はそこで休んでいる、と案内してくださった。
…その日の夜、闇夜に乗じて監獄を抜け出した土方様、牛山様、都丹様、夏太郎くんと合流し、犬童典獄がのっぺらぼうを隠していた教誨堂の地下に土方様達が潜伏している中で、新たに入手した刺青囚人の情報を追って南に発つ。
──百之助さんは、作戦決行前に私に言った通りに姿をくらませてしまった。
土方様もその行先はご存知なかったけれど、百之助さんの言った通りに事が運んだのならば、きっと今頃樺太に到着している頃だ。のっぺらぼうがアシㇼパちゃんの父親であったら殺し、アシㇼパちゃんを樺太に連れて行き、自分達の故郷の窮状を見せてパルチザンの仲間に引き合わせるのだと言うキロランケさんの策に乗って、自分なりにアシㇼパちゃんから金塊の隠し場所を探ると言っていた。
上手くやれていると良いけれど、と考えながら頭に怪我をした都丹さんを医者に見せる為に網走の町へと一度向かう。
兵士の巡回の少ない通りにある診療所の場所を伝えると、土方様が褒めてくださった。
────正直私は、アイヌの金塊も、北海道の土地の権利書も、百之助さんの軍での出世も、何もかもどうでもいいけれど、私にとっての大切なものをそう思わない人が平気で踏みつけにしてきたような真似をしたくなくて、私にとってのどうでもいいものを大切に思っている人も居るのだからと口を噤んで、山道を歩いた。
────fin,
まずは一言、こんな馬鹿みたいに長い前編を読んでくださってありがとうございます。
尾ちゃんっ…幸せになって…!!!と網走監獄襲撃編を10回以上見た結果情緒を狂わされて書き始めました。私は今正気じゃないです。
あの試し行動の権化みたいな尾形に寄り添える女isどんなん???と思いながら紗和ちゃんを産みました。私の答えは慈悲深いブッティストの未亡人でした。尾形と似たり寄ったり(なんなら女に産まれたせいである意味より悲惨)な境遇に生まれ育っていながら、尾形とは対極の結論に辿り着いた女が全身全霊を懸けて尾形の闇に寄り添う話になります。
未亡人なのは紗和ちゃんの年齢が年齢なので時代背景に合わせる為の帳尻合わせと、明治時代に産まれ生きた女の悲哀をよりリアルに書く為と、私がシンプルに未亡人が大好きだからです。
私はよくある積極的で淫らなお姉さんを〝光のえっちなお姉さん〟と呼び、愛する人と死に別れた故の陰鬱な色気を持つお姉さんを〝闇のえっちなお姉さん〟と呼んで区別しています。そこには大きな隔たりがあるのです。私の中では。
これから紗和ちゃんは無限の慈悲と慈愛と仏教由来の人間賛歌で尾形を包み込んで、土方に言った通り胃袋と玉袋を掴んで籠絡して、二人で寄り添い合って繊月の夜のような人生を歩んでくれると思います。所々計算高いというか腹黒いというか、まぁ、性格がアレなのはご愛嬌です。女は強かですからね。
話のそこかしこで登場する紗和ちゃんの亡き夫〝信幸〟は、余所見をしない光属性の鶴見篤四郎と、人生の酸いも甘いも噛み分けた花沢勇作を〝足して二で割らない〟みたいな男です。紗和ちゃんに出会うまでは上位存在的に人類への愛を振り撒いて生きてました。紗和ちゃんに出会ってからは、この少女を救う為に自分は産まれてきたのだと悟りを得ています。愛です。ちなみにアセクシャル・アロマンティックで紗和ちゃんより三歳歳上です。
紗和ちゃんは十三歳で〝死んでもこの家に帰ってくるな〟と嫁に出された先が干支一回り半歳上でミソジニストのゲイ(ネコ)とかいう地獄の初婚を経験し、人生のドン底に居る時にそんな男に出会って、情緒と脳と思想を焼け野原にされて、光属性の薫陶を十年以上受けながらゆっくりと回復して今の人格になりました。
出会った頃はもっと感情の起伏が小さくて厭世的で、鬱々とした性格の少女でした。当時の状態は現代的な言い方をすれば、恐れ・回避型愛着障害の鬱病患者です。
夫が出征する時に、まだ何も恩返し出来てない、どうか生きて還って来て欲しい、と縋った紗和ちゃんに、恩というのは受けた人に返すのではない、いつか自分と同じような傷を抱えた人を救うんだ、そうやって人の縁と絆は循環しているんだよ、と言って聞かせています。
紗和ちゃんの心の芯に一本通った強さを産んだのはこの言葉だと思います。
尾形目線の心情描写はあえて殆どしていないのですが、行間だったり挙動だったり皮肉だったりからみてとれるように書いてるつもりです。私がいくら境遇が似ていてシンパシーを感じていると言っても、尾形みたいな複雑な人間の心情を全部理解できるとは到底思えないので、行間や挙動から想像して頂けるよう意識しました。しかも色々私の解釈が乗っかった尾形百之助になってるので、合わない人にはとことん合わないだろうなと思いながら放流しました。
初めて女に情を感じて静かにオロつく尾形が書けていますでしょうか?
尾形の人生に足りなかった存在って、尾形を愛して、尾形の為を思って、慈悲深く根気強く接して、精神的に成長出来るように教え導いてくれる存在だったんじゃないかなと思ってます。本来なら両親がそうであるべきですが、それが得られなかった尾形にとって、紗和ちゃんはその役割を果たせる伴侶なんじゃないかな、と私は解釈しています。
そんな紗和ちゃんが土方さんと永倉さんというおじいちゃんズの庇護下で人間的な成長をしながら、尾形と歩む人生を切り拓いていく後編を気長に待って頂けると幸いです。まだプロットしか出来てないんです。
ついでにいうと熊本地震で被災して今二次創作どころじゃなかったりするんですよね。
紗和ちゃんのブッティズム語りが説教臭くならないようにするバランスが難しいな…と頭を抱えながら書いてます。
ではまた、後編でお会い出来たら幸いに思います。