七月二十六日、午前十時。
チュンチュンと小鳥が囀り、鳩がポポポと言いながら地面を歩き回り、会社ならば朝礼が始まるくらいの時刻だ。だが、その心地よい静寂は
「おはようございます!!」
という爆音にぶち抜かれた。
「さぁさぁ朝ですよ、朝!! 素晴らしい朝!! さぁ宙雷殿起きて、おはようござい」
「うるせぇ!!」
「まぶっ」
起き抜けにライダーをクッションでぶん殴った宙雷は、むくりと身体を起こした。不機嫌そうにライダーを睨みつけ、嫌々ながら寝巻きの帯を解いた。
「ふふふふふふ、まさか殴られるとは。ふふふ、良いですね、元気ですね!」
「朝っぱらからうるせぇよ、何時だと思ってやがる……」
甚平に着替え、ガシガシと頭を掻きながらドアを開ける。階下から、何やら楽しげな音楽が聞こえてきた。朝のニュースバラエティの音楽だ。アナウンサーが面白おかしく司会進行を務めているらしく、音楽の中にさざめくような笑い声が混ざっていた。
「実はもう十時なんですよ、寝坊助さん。将殿に言われて起こしにまいりました。使い魔で霊地を見て回れとのことですよ。あ、ところで私、せっかくなので宙雷殿のために朝ご飯を作ろう! ……と思ったんですけどね。よく考えたらキッチンに立ったことがないんです。なので作っておりません!」
「帰れや」
「ふふふふふふ!」
両側から降りられる作りの階段を降りると、共用スペースがある。ホテルもかくやの豪奢な作りの建物だ。一階はダンスホールのような巨大な空間が広がっており、階段からの眺めは、ホテルのラウンジのようだった。
ブラウン管テレビは、今はもう砂嵐しか映さないが、その横の薄型テレビは今も健在だ。このテレビは双子が勝手に持ち込んだものである。
将はソファに腰掛けてテーブルに向かっていた。サネムの姿はない。
「あの女は?」
「レディ・サネムですか? 彼女は本日一度もお見えになっておりませんな。お部屋に伺いましたが、結界を貼っておいでですので、アナグマもかくやの始末と言いますか。そういえばアナグマをご覧になったことは? 白っぽくてずんぐりしてい――」
「無い。まぁ出てこねぇなら出てこねぇでいいけどさ」
「……あ、宙雷おはよう」
「おはよう、将」
将がゆっくりした動きで振り返った。刺された箇所が痛いのだろう。自分の見知らぬ間の出来事とはいえ、やはり身内に手を出されるのは腹立たしい。
「さっきまでたっちゃんも一緒にテレビ見てたんだけど、ライダーさんの声にビックリして消えちゃった」
「そうか。で、お前は何してんだ?」
「夏休みの宿題」
「……夏休みだからな」
夏休みに、高校生が夏休みの宿題をする。全くもって不自然ではない。それが聖杯戦争の期間中であり、彼が当事者でなければの話だが。ぐっと言葉を飲み込み、兄は弟に「朝飯食ったか」と聞いた。弟は「とっくの昔に」と答えた。
***
ひそひそ、くすくす。
しってる?
なぁに?
おやまのうえのおやしきのはなし。
なぁに?
むかし、たくさんひとがしんだんだって。
むかし、おとうさんがおかあさんとこどもをころしたんだって。
むかし、しょけいじょうだったんだって。
むかし、のざらしのくびがごろごろ。
むかし、じさつしたひとがいるってきいたよ。
むかし、
むかし、
むかし……。
だから、はいっちゃいけないよ。
どうして?
はいったらしんでしまうからよ。
どうして?
しらない。
***
「……おい、ここの問Ⅱ間違えてるぞ。その後芋づる式に全部計算が違ってきてる。これだと最終的に点Pが時速三千キロで地球の外まで飛んでいく」
「え、マジ?」
歯磨きを終え、将の課題をちらりと見た宙雷は、トントンと答案用紙を叩いた。どうやら、計算を間違えているらしい。将は小さく悲鳴を上げながら回答を消しゴムで消し始めた。
「お前朝飯何食った?」
冷蔵庫を漁りながら、宙雷は再度数学に挑む弟に問いかけた。
「パン」
「何塗った?」
「磯海苔」
「正気か?」
「嘘だよ」
「なんだテメェ」
少し将を睨み、宙雷は食パンをトースターにセットした。広いカウンターキッチンはひとりで立つと料理人になった気分になる。料理など電子レンジでチンしかしない宙雷は、食パンを仕掛けるだけ仕掛けてキッチンを出た。
「……さて、将。宿題はそこまでだ。今は聖杯戦争、な?」
「七月中に終わらせたかったのに……」
「一日目に終わらせとけよ」
「無理だよ!」
むぅと拗ねた弟は、渋々ながら宿題を片付け始めた。宿題の代わりに宙雷のスマホがテーブルに置かれる。画面に表示されていたのはアナグマの写真だった。
「とりあえず地図だな」
宙雷がマップアプリを開くと、二階からゲンナリとした声が聞こえた。
「やっぱりいるのね……ああ、もう、悪夢であって欲しかったのに……」
「あ、サネムちゃん。おはよう」
「だから誰がサネムちゃんよ! おはよう!」
シンプルながらに洗練された服を着た彼女は、長い黒髪を揺らしながら共用スペースに降りてきた。彫りが深く、整った顔立ちが不機嫌そうに歪んでいる。少し垂れ気味のまぶたに収まった青い瞳が、双子を睨んだ。
「もう、こうなったら受け入れるしかないから、受け入れてあげるけど。あくまでも敵同士。それは忘れないで」
「言われなくても忘れねぇよ、クソ女」
「は? ここで殺されたい?」
「やめろって二人とも」
早速険悪になる兄と同居人を諌めた将は、現在地にピンをさした。
「とりま、今ここね。子山の中腹の、もう少し上」
「ここ子山っていうの」
「うん。向かいが母山」
画面上には子山、母山との記載はなく、別の漢字が書いてある。だが、サネムには読めなかった。
「そう。で、他に霊地は?」
「あるっちゃあるけど……」
「この街の霊脈は時々荒れる。安定してる霊地は少ないぞ」
「……なんなのよこの街……」
そんなに変かな、などと言いながら双子は顔を見合わせ、首を傾げた。将は主たる安定している霊地にピンをさしていく。しばらくそれを眺めていたが、サネムは不信げに目を細めた。
「……多くない?」
将の情報が正しければ、安定した大きい霊地が、少なくとも六箇所あることになる。蛇川市はそう広大な街ということもないのにも関わらずだ。さらに、出たり消えたりする小さな霊地も複数あるのだとか。ざっと調べた時には、そんな情報は無かったのに。
宙雷は食パンが焼けたのでトースターの方に歩いていった。バターを塗りつける音がする。そして冷蔵庫から磯海苔を取り出そうとして、やめた。
「そう? 気にしたことなかったな」
「あらそう。じゃあ、とりあえず今から、安定した霊地を見て回りましょうか」
「それには及びませんとも!」
「きゃっ」
突然背後から声がしたので、彼女は少し飛び上がった。
「ちょっと、やめてよね、ライダー!」
「ふふふふふふふ、申し訳ない、レディ。おはようございます」
「……おはよう。で、それには及ばないって、何?」
「今、俺の使い魔と将の式神で街を見回ってる」
宙雷が、結局バターとカスタードクリームを塗った食パンを食べながら言った。
「うん。だからサネムちゃんはここ、に……」
将の顔が強ばった。
「どうしたの?」
「……死体を見つけた。まだ新しそうだ」
***
死体があったのは、母山と街の境界となっている崖の下だ。主要道路からは離れているため、通勤ラッシュの時間以外はほとんど車通りがない。サネムの車で現場に向かうと、式神が見た通りに死体があった。側溝に横たえられたそれは、二人分だった。心臓を抜かれた死体だ。将が「あ」と小さな声を出した。
「……村山さんと、奥さん」
「知り合いか?」
兄が聞くと、こくりと頷いた。
「バイト先の常連さん。昨日来なかったと思ったら……」
血まみれの変わり果てた姿を見て、将は思わず口元を押さえた。呼吸が止まる。
「村山さんが気を付けろって、言ってたのに」
「将」
宙雷は将の背中を軽く叩く。けほ、と咳き込んだ。サネムはその様子を見て、目を細めた。
将は深呼吸をする。
――落ち着け、俺。死体は見慣れてるだろ。もっと酷い自殺体だって何度も見てる。何も変わらない……。
「……ごめん、ちょっと車戻る……」
無理だった。緩慢な動作でドアを開け、後部座席に横たわる。宙雷とサネム、ライダーとアーチャーは死体検分をしているようだった。ぼんやりと虚空を見ていると、ライダーが助手席で実体化した。
「将殿、よろしいですか」
「ん……」
「彼らの傷口を見ました」
「……そう」
「貴方のお腹の傷と、同じ形をしていましたよ」
目を見開いた。バッと起き上がり、痛みに顔をしかめる。
「……いッ……ライダーさん、それって」
「ええ。下手人は、貴方を襲った時と同じ手口を使ったと考えてよろしいかと」
「じゃあ、犯人は……」
「ホームズ――彼が最有力候補であると愚考します」
「あいつ、
「おそらくは」
「マジかよ、ライダーさん賢者だろ、天才かよ……ありがとう、もう戻れるんで」
「将殿、ご無理はなさらず」
「平気だって。ほんと平気。平気じゃなきゃ、余計につらい」
「……は。では、そのお言葉に従いましょう」
ドアを開け、一歩外に踏み出す。改めて村山の遺体に向き合った。
「……クソッ」
らしくもない悪態をつき、将は無意識に腹をさすった。