窓のない部屋だった。正確にはあるのだが、目隠しを打ち付けられており、外の様子はその隙間からしか窺い知ることはできない。
その部屋で、ページをめくる小さな音がした。ドアは固く閉ざされ、暖かなランプの灯りが唯一の温かみといえる。動かそうと思えば目隠しも動かせるのだが、少女はそれを知らなかった。
彼女はベッドに腰掛け、本を読んでいた。
…………ブウウ――ンンン――――ンンンン……………………。
蜜蜂の唸るような音が実際に聞こえてきそうなほど、彼女は活字にのめり込んでいた。
読めば必ず一度は精神に異常をきたすだとか、わけのわからぬ小説だとか。そういう内容の、一応は探偵小説に分類される小説である。日本三大奇書のひとつ、ともいわれる。
彼女はページをめくる。意味が理解できるわけではない。だが、彼女にとって活字とは呼吸と同じだった。ここにボンボン時計はないが、デジタル時計はある。時刻は深夜二時過ぎ、そろそろ眠らなければ――。
ガチャガチャと外から鍵を開ける音がした。少女――黒田なぎさは顔を上げた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
茶色のスーツを着た紳士風の男だった。帽子を壁にかけ、薄暗い部屋に電気をつける。なぎさは目を細めた。
「ダメじゃないか。こんな暗くして本を読んでいたら。目が悪くなるよ、なぎさちゃん」
「えへへ、ごめんなさい。こうしてたら眠くなるかなって」
「眠くなりたいなら、ベッドに座るんじゃなくて、寝ていないとね」
「はーい……でも、ホームズさんのことが心配で」
なぎさは本に栞を挟み、膝に置いた。ホームズに向き直る。
「聖杯戦争ってやつ、いつ終わるんですか?」
ホームズは肩を竦めた。
「サーヴァントとマスターが、それぞれ一人になるまでだよ。けど、それがいつになるかはわからない。バーサーカー……狂戦士だね。君が見た斧の彼。ああいうのがこの街を端から端まで蹂躙しつくしたら、今すぐにでも終わるかも?」
息を飲む。少女は不安げに視線を落とす。
「でも、大丈夫。君のことは僕が守るし、君の家族も、僕がなんとかする。だから、君はここから出ちゃダメ。いいね?」
「……はい。あの、ホームズさん」
「なんだい?」
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「ああ、もちろん。ちゃんと君の元へ帰るよ」
彼はなぎさの頭を撫でた。彼女は微笑み、「じゃあ、寝ます」とやけに広いベッドに横になった。
「おやすみ、なぎさちゃん」
彼は持ち帰ったコーヒーセットを片付け、電気を消した。
***
なぎさの寝息が安定してきた頃、ホームズはスーツケースを持って部屋を出た。中身は空だ。
外側から
数十分後、彼は上機嫌でスーツケースを引いていた。重みが増した分、ガラガラという音が大きく響く。
飲み屋街をうろつくサラリーマンは知らない。今すれ違った外国人が引くスーツケースの中身がなんなのか。
キャッチの男は知らない。今声をかけた外国人が一体何をして生きているのか。
客の男と腕を組んで歩くキャバ嬢は知らない。今肩がぶつかって、謝ってきたこの外国人の腹が何で満たされているのか。
歓楽街の人間は知らない。数メートル後ろのビルの間に血溜まりが出来ていることを。その血溜まりは、まだ温もりをもっていることを。
だが、ホームズは知っている。自分と肩がぶつかり合ったキャバ嬢が、どんな悲鳴をあげるのか。客の男がどんな声で威嚇するのか。どんなはらわたの色をしているのか。
ホームズは知らない。彼女の、彼の名前を。そして、真実知ることになる。彼女の、彼の、血の色を、はらわたの色を。