将はシャワーを浴びていた。ジクジクと傷が痛むが、それよりも気分をリセットしたかった。
***
ホームズが去った後、しばらく時が止まったように、将は動けなかった。
ようやく動けるようになり、最初にしたことは、トイレに駆け込み嘔吐することだった。夕食を抜かしたので胃酸しか出なかったが、とにかく気持ち悪くて、全てを出し切りたかった。
吐き気が収まったあと、ホームズが使っていったスポンジを捨てて、新しいものを出した。テーブルを拭いて、椅子を拭いた。
ガラスのコップに水を汲んで一気に流し込む。胃が冷えるような感覚が心地よくて、将はようやく一息ついた。
「……申し訳ない、将殿。私がいながらあのようなこと」
ライダーが、ぐっと拳を握る。
「おそらく、あの男のスキルか宝具か。それで警戒心を解かれ――」
彼は言葉を止め、わざとらしく咳払いをした。
「何はともあれ――ですな。気分を変えるとよろしい、将殿。見張りであればお任せを。あまり信用できないかもしれませんが!」
***
そのような流れで、ライダーの言葉に従いシャワーを浴びていた。鏡に映る腹は、魔術である程度ふさいでいるとはいえ、未だ痛々しい。
「……ホームズ……」
呟き、舌打ちをした。腹の傷がズキズキと痛む。
――何がホームズだ。ふざけやがって。
何をしても無駄だった。何一つ、効きやしなかった。
ホームズ、シャーロック・ホームズ。将はそのシリーズに触れたことはなかったが、当然名前と役割くらいは知っている。事件を調査する探偵だ。
だが、彼は事件の調査どころか、むしろ事件を起こしていた。
――叔母さんと俺を刺しといて、どの口がマスターになれなんざ言いやがる、あの野郎。
「ふざけんな、ちくしょう……」
シャワーを握る手に力が入る。
――なぎさちゃんと同じクラスなんだね、とか。どこで……。
「黒田ちゃ、いってぇ!! ……クソッ、痛てぇ……!」
お湯がシャワーヘッドから直接患部にかかり、思考が途切れた。大丈夫ですか、と外からライダーが声をかけてきた。
「はー……大丈夫っす。もう上がるんで」
なんとなく、彼がいつでも突入できるように準備をしている気がして、将は手早く体を拭いて服を着た。脱衣所のドアを開けると、ライダーがクラウチングスタートの姿勢を取っていた。二秒ほど静止し、将は少し笑った。
「……ねえ、何してんの?」
「茨に巻かれた心、ああ、なんと痛ましいことか!」
「え、何?」
ライダーは勢いよく立ち上がり、仰々しく腕を開いた。
「ですが将殿。私、このライダーは!
とりあえず、ペットボトルに汲んでおいた水を飲む。彼は話し続ける。しばらく聞いていたが、将は諦めてドライヤーの電源を入れた。熱風と轟音に、ライダーの長台詞はかき消される。
髪を乾かし終えても、ライダーはめげずに話続けていた。ドライヤー同様、大層な熱が入っているらしい。
「喉疲れない?」
「疲れませんとも、まだまだ喋りますよ!」
「すげぇ馬鹿みてぇだからやめて?」
「はい」
彼は素直に口を閉じ、一息ついてコルセットを締め直した。わざわざマントを脱いで椅子に引っ掛けている様子を見るに、困ったことに、彼は常に本気なのだろう。
「おう。勝手に上がってんぞ」
テーブルの方から声がした。
「……宙雷!」
宙雷は軽く手を挙げた。
「いつ来たの?」
「さっき。お前ならまずここに来ると思ってな、寄って正解だったわ」
彼は麦茶のペットボトルの蓋を閉める。キュ、と小さく音が鳴った。
「で、一応あらましは聞いた。こいつのクソほど分かりにくい口調でな」
辟易したように親指でライダーを指し、「ま、座れや」と椅子をひいた。将は素直に椅子に腰かける。
「お前、なんか色々と大変だったな」
「そりゃあもうめちゃくちゃ大変だったよ……ホームズの野郎は怖ぇし、お母さんはもっと怖ぇし、ライダーはうぜぇし」
将の言葉にライダーはパッと顔を上げた。
「え、今、私の悪口言いました?」
「言った。ちょっと休ませて欲しいんすけど」
「はい」
満足そうに彼は口を閉じ、少し後ろに立った。宙雷はライダーを怪訝そうな顔で見た。
「まぁいい。喜べ、将」
すぐに視線を外し、椅子にかけていたコンビニのビニール袋を取った。中には数個のおにぎりとペットボトル飲料が数本入っていた。
「高菜が残ってた。好きだろ」
「マジ? やった。ありがとう」
「適当に食ってろよ、お茶入れる」
「え、いいよ、そんなの。俺がやるし」
「テメェ怪我人だろ、馬鹿が」
「えぇ、口悪……」
ブツブツと文句を言いながら、高菜おにぎりのパッケージを剥く。かじりつくと、パリッといい音がした。
台所では、宙雷がケトルで沸かしたお湯を、ほうじ茶のティーバッグを入れたマグカップに注いでいる。トクトクという音が耳に心地よい。香ばしい匂いが辺りに広がると、サッとティーバッグを引き上げて、マグカップをテーブルに持ってきた。
「ありがとう。高菜美味い」
微笑む将に、宙雷は不敵に笑い返した。
「ぜってー明太子の方が美味い」
「とかいってお前ツナマヨ食ってんじゃん」
「っせーな、明太子無かったんだよ」
「ふーん」
宙雷が入れたほうじ茶を一口飲み、将は気が付いたように後ろを振り返った。
「ライダーさんもおにぎり食べます?」
「おにぎり、ですか?」
「うん、おにぎり。美味いっすよ。好きなの選んで」
「俺が買ってきたんだけど」
「二人分にしちゃ多いし、ライダーさんのも入ってんだろ」
「うっせ。俺が全部食う」
「いやそれはヤンチャすぎるって。あ、大丈夫っすよ、ライダーさん。こいつこれで優しいんで」
宙雷の横槍を一刀両断した将は、ライダーにビニール袋を差し出す。ライダーは一歩引いた。
「しかし、そのような……私ごときが、よろしいのですか?」
「そんな遠慮しなくて良くない?」
申し訳なさそうに「はぁ」と曖昧な返事をしたライダーは、素直にひとつ選んだ。
「では、こちらをいただきますね。ありがとうございます、宙雷殿、将殿」
ライダーが選んだのは梅味だった。見よう見まねでビニールを剥き、やけに慎重に口に運ぶ。パリ、と控えめな音がした。しばらく咀嚼し、突然、雷に打たれたように動きを止めた。
「あれ? 口に合わなかった?」
「梅干し酸っぱいからな」
唇を真一文字に結び、微妙な表情で硬直しているライダーを横目に、宙雷はほうじ茶をすすり、将は二つ目のおにぎりに手を出している。しばらくして、彼はようやく口を開いた。
「これは……熟れていない木苺の如き……!?」
あまりにも壮絶な反応をするので、双子は顔を見合わせて苦笑した。
「木苺って!」
「何時代のやつだよ」
宙雷の言葉にライダーはスッと真顔になった。
「十五世紀です。プランタジネット朝、あるいはヨーク朝とも」
「いやそらそうなんだけどな?」
数秒の間があり、三人ともぷっと吹き出した。
「なんだよ今の間! クッソ腹バカ痛ぇ!」
「知らねぇよ、ライダーに聞けよ」
「私に聞かれましても! おや? 最近の子は木苺食べないんですか?」
「あんま食わねぇけど、ケーキの上に乗ってるかも?」「あんま食わねぇけど、ケーキの上に乗ってるかも?」
双子は同時に返した。
三人で顔を見合わせひとしきり笑い、最初に切り出したのは宙雷だった。
「あーあ。ったく……で、これからどうするよ」
「俺もう家から出たくない」
「しかし将殿、ここはホームズに知られていますよ」
「それなんだよなぁ……」
将は項垂れる。兄がその背を軽く叩いた。「いてっ」と声が出た。
「……とりあえず教会だな」
「俺らクリスチャンじゃないけど」
「バーカ。誰がこんな時間にお祈りかましにいくんだよ」
――お祈り、かましに?
ライダーはそう思ったが、言わなかった。
「監督役ってのがいてな。説明聞いてなかったのか?」
「いや腹痛くて……刺されてんだぜ、俺」
「……そうだな」
「何その顔」
宙雷は不機嫌そうな表情のまま言葉を続けた。
「まとめ役みたいなのがいんだよ。そいつに会いに行く。一応そういうルールだ」
「ふーん……色々あるんだな」
「色々あんだよ。だからさっさと飯食って行くぞ。ライダー、お前もだ。サーヴァントが梅干しに手こずってんじゃねぇよ」
「くっ……」
恐らく、彼の仮面の奥にある眉はひそめられている。そのような面持ちで、ライダーは思いのほか小さな一口でおにぎりを食べ進めていた。