カーテンの隙間から差し込む青白い薄明かりが、部屋を照らし出し始める。
僕は身体を起こし、シーツの上に視線を落とした。
「....やっぱり、もういないか」
呟いた独白は、誰の耳にも届くことなく空気に溶けていく。
隣に眠っていたはずの少女──坂柳有栖の姿は、影も形もなかった。
有栖が夜更け、もしくは朝早くから部屋を抜け出した理由は、羞恥心などという可愛らしいものだけではないはずだ。
僕は自身の右手を持ち上げ、掌をじっと見つめた。
【神の手】
『使用回数:2/3。1回目の発動時はあらゆる心身の不調を治す』
先天性心疾患という、現代医学のでは治療できない不治の病が治癒されていく感覚は、触れていた僕の手のひらにもに伝わってきていた。
天才である有栖が、その劇的な肉体の変化に気づかないはずがない。頭が冷えれば、持ち前の知性で事態の異常性を分析し始めたはずだ。
そして難なく辿り着いた。自分が健康な肉体を手に入れたという紛れもない事実に。
まず間違いなく、自らの肉体に何が起きたのかを正確に把握するため、専門の医療機関による精密検査を望むだろう。
父親である坂柳理事長に連絡を入れ、極秘裏に高度な検査を手配してもらうはずだ。
この高度育成高等学校は原則として外部との接触や外出が禁じられているが、理事長の愛娘の、それも命に関わる先天性疾患の話となれば話は別だろう。
特例措置として、数日から1週間ほど学園を離れ、外部の最高峰の総合病院へ送られることになるはずだ。
「しばらくの間、有栖はここから姿を消す」
僕にとって何の不都合もない。
「さて、僕も朝の準備を始めようか」
僕はベッドから抜け出し、シャワーを浴びて昨夜の熱を洗い流し、制服へと袖を通す。
鏡に映る自分の顔を眺めると、天界の美容液の効果によって磨き上げられた肌は、潤いもツヤもあり美しいの一言に尽きる。
時刻は午前7時を少し回ったところだった。
部屋を出て寮のエレベーターを降り、エントランスを抜ける。
登校中の生徒たちが僕の姿を見るや否や、次々と視線を奪われていくのがわかる。
すれ違う他クラスの女子生徒たちが頬を染めて立ち止まり、男子生徒たちは居心地悪そうに視線を逸らしている。
そんな中、駆け寄ってくる影もあった。
「あ、凪くんっ!おはよう!」
手を大きく振って駆け寄ってきたのは、Bクラスのクラスメイトである網倉だった。
その後ろには、どこか気だるげな様子で歩いてくる姫野の姿もある。
「おはよう、網倉。姫野も」
僕が柔らかく微笑みかけると、網倉はパッと顔を華やかせ、姫野は僅かに視線を泳がせてから小さく会釈した。
網倉の頭上には【好感度:55】、姫野の頭上には【好感度:52】の数値が静かに浮かんでいる。
「須藤くんとのバスケ勝負、すっごく噂になってるよ!凪くん、バスケもあんなに上手だったんだね」
「噂になるほどのことじゃないよ。少し体を動かしたかっただけさ」
「またまた〜。須藤くんって、入学初日からすっごく怖そうな雰囲気出してたじゃん?それを手も足も出させないで勝っちゃうなんて、もうヒーローみたいだよ」
身を乗り出してくる網倉の隣で、姫野がジトッとした視線を僕に向けてくる。
「姫野。僕が何か怒らせるようなことをしたかな?」
僕が一歩踏み込み、姫野の瞳を真っ直ぐに見つめながら囁くように告げると、彼女の白い首筋が瞬く間に淡いピンク色に染まった。
「──っ、別に、怒ってるわけじゃない。ただ、朝から目立ってると思っただけ」
姫野の好感度が【52】から【54】へと微増する。
素直になれないクールな少女が、至近距離の視線に耐えかねて狼狽える姿は実に愛らしい。
「もし迷惑な」
「えっ、ダメだよ凪くん!一緒に食べよ!ね、ユキちゃんもいいよね?」
網倉と姫野との他愛のない会話を楽しみながら登校するも、僕の視界の端には、別の生徒たちの姿が捉えられていた。
Dクラスの面々だ。桔梗と波瑠加と鈴音の3人が一緒に登校してるなんて珍しい。
僕と視線が交差した瞬間、3人の反応は見事なまでに分かれた。
鈴音は一瞬だけ足を止め、驚いたように目を見開いた後、少し不貞腐れたように目を逸らした。ああ、最近はあまり構えてなかったかな。
【好感度:93】
続いて目が合った波瑠加は、僕の姿を認識するなり、胸元を両手でギュッと押さえるような仕草をとった。
【好感度:91】
そして、桔梗。
彼女は僕が網倉や姫野と親しげに話している光景を一瞥した後、僕に向かって小さく手を振ってみせた。
【好感度:92】
3人とも、少し放置気味にはなっているけど、そこまで強いストレスを感じている様子はない。もう少し放置しても問題なさそうだ。
「凪くん?どうかしたの?」
僕の視線の先を追おうとする網倉に、僕は優しく微笑みかけて意識を引き戻した。
「ううん、なんでもないよ。今日もいい天気だと思って」
その後は特に何事もなく教室に到着した。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、僕は机の上の教科書を片付け、立ち上がった。
「神代くん、お昼どうするの?」
クラスメイトたちが声をかけてくる。
「ごめん、今日は少し用事があってね。また今度誘ってよ」
断りを入れてから教室を出る。僕が向かう先は図書館だ。
僕の現在の攻略優先者は、Cクラスの椎名ひよりだ。
単に部活の時間だけ言葉を交わすだけでは、彼女の分厚い心の壁を打ち砕くことはできない。だからこそ、部活動以外で関わる時間も大切なのだ。
昼休みの図書館は、予想通り閑散としていた。
生徒の大半は食堂や教室で友人と過ごすため、この広大な図書館には数えるほどの生徒しかいない。
図書館の奥のスペースへと歩みを進めると、柔らかな光が差し込む窓際の席に、目的の銀髪が見えた。
椎名ひよりだ。
彼女は周囲を一切気にする様子もなく、分厚い本に視線を落としていた。
その横顔はどこか浮世離れした儚さを纏っている。僕は足音を立てずに近づき、彼女の向かいの席の椅子を静かに引いた。
その音に気づいた彼女が、ハッとして本から顔を上げる。
「──あ」
紫がかった淡い瞳が、驚きに見開かれた。
「こんにちは、椎名さん。奇遇だね」
僕が小声で挨拶をすると、ひよりの表情にパァッと花が咲いたような明るい笑みが広がった。
「神代くん、こんにちは。こんなところで会えるなんて、思っていませんでした」
【好感度:35】。
前に別れた時の【32】から、さらに少し上がっている。
「昼休みに少し時間ができたから、何か面白い本でも探そうと思ってね。そしたら、窓辺にとても綺麗な妖精さんが読書をしているのが見えたから、つい引き寄せられちゃったよ」
「ふふ、妖精だなんて。神代くんはお上手ですね」
ひよりは本を胸元に抱え、恥ずかしそうに頬を染めた。
「邪魔をしたかな?」
「いいえ、全く!むしろ、とても嬉しいです。神代くんとなら、本のお話がたくさんできますから」
彼女は嬉しそうに身を乗り出し、自分が今読んでいる本を僕に見せてくれた。
「太宰治の『人間失格』古典的な名作だね。少し陰鬱な気分にならないかい?」
「そうですね。でも、主人公が抱える、他者への恐怖や、道化を演じることでしか人と繋がれない不器用さは、どこか胸に迫るものがあります。神代くんは、どう思われますか?」
単なるあらすじのなぞり合いではなく、作品の魂をどう受け止めているかを問うているのだ。
試されている、と言ってもいい。
僕は一度深く息を吸い、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「他者を恐れるあまり、道化の仮面を被り続ける──それは確かに悲劇的だけど、裏を返せば、誰よりも他者の愛を渇望していた証拠だと僕は思うよ。本当に他人に無関心な人間なら、道化を演じることすら面倒に感じるはずだからね」
「他者の愛を渇望していた、ですか」
「そう。彼は狂っていたんじゃない。ただ、世界が自分を受け入れてくれないことに絶望した、あまりにも純粋すぎる子供だったのさ。僕には、彼の痛みが少しだけ理解できる気がするよ」
僕の言葉を聞いた瞬間、ひよりの息が微かに止まった。
【好感度:48】。
一気に13ポイントもの跳ね上がり。
彼女みたいな本当な読書家にとって、自らが愛する文学について語れる同年代の異性など、奇跡に近い存在なのだろう。
「神代くんは、とても優しい方なんですね」
ぽつりと漏らされた彼女の声には、確かな熱が宿っていた。
「そうかな?ただ、感じたままを言っただけだよ」
「いいえ。人の弱さや痛みを、醜いものとして切り捨てるのではなく、哀しみとして受け止めることができる。そんな感性を持っているのは、素敵だと思います」
ひよりは愛おしそうに文庫本の表紙を撫で、それから僕に向かって、無防備な笑顔を向けた。
「私、神代くんとお友達になれて、本当によかったです」
「僕もだよ、椎名さん。君のような素敵な理解者に出会えただけで、この学校に来た価値があったと思えるくらいだ」
甘い言葉を惜しみなく重ねる。
彼女の手元にある文庫本にそっと手を伸ばし、彼女の細い指先に僕の指を触れさせた。
ビクッと彼女の肩が小さく跳ねたが、手を引っ込めることはしなかった。
「放課後、茶道部でまた会えるのを楽しみにしているよ。今日の部活が終わったら、図書館で一緒におすすめの本を探さないかい?」
「はいっ。ぜひ、ご一緒させてください」
【好感度:55】。
物静かな文学少女の攻略は、下手に急ぐよりも、精神的な共感を演出することこそが最短の近道だ。
「じゃあ、予鈴が鳴る前に戻るね。また後で、ひより」
あえて苗字ではなく、下の名前を呼んで立ち上がる。
「あ....」
不意に名前を呼ばれた彼女は、目を見開いてフリーズし、どう反応すべきか迷っているように見える。
その初々しい反応に内心で満足しながら、僕は図書館を後にした。
今日の放課後は茶道部だ。
茶道部には、ひよりだけでなく、なずな先輩もやってくる。今から放課後が楽しみだ。
午後の授業を終え、放課後のチャイムが鳴り響いた。
僕は鞄を手に取り、真っ直ぐに特別棟の茶道部室へと向かった。
渡り廊下を歩いていると、部室の前で所在なさげに佇んでいる人影が見えた。
なずな先輩だ。
彼女は壁に背を預け、誰かを待つように足でトントンと床を叩いていたが、僕の足音に気づくや否や、バッと顔を上げた。
「.....神代くん」
「こんにちは、なずな先輩。もしかして、僕を待っててくれたんですか?」
僕が笑顔で歩み寄ると、彼女は気まずそうに視線を逸らし、小さく唇を尖らせた。
【好感度:68】。
「べ、別に待ってたわけじゃないし。ただ、ちょっと早く着いただけ」
「そうですか?でも、僕は先輩の顔を早く見たくて、授業が終わるなり走ってきましたよ」
「──っ、もう、そういう冗談はいいから」
耳まで赤くしながら抗議してくるが、その声には一切の拒絶の色がない。
周囲をキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認してから、僕の制服の裾をクッと引っ張ってきた。
「.....雅から何か言われたりしてない?」
心配そうな瞳が僕を見上げてくる。
「南雲先輩からですか?いいえ、何も。僕のような一介の1年生に、偉大な生徒会副会長様が直接何か言ってくるはずないじゃないですか」
「本当に?ならいいんだけど。あいつ、一度目をつけた相手には手段を選ばないところがあるから。神代くんに迷惑がかかったら、私、申し訳なくて」
「先輩が僕のために心を痛める必要なんてありませんよ」
僕は彼女の引いている手をそっと包み込むように握りしめた。
「ひゃっ.....!」
「僕も、1度目をつけた相手のためなら、手段を選ばないところがあるので」
【好感度:74】。
「神代くんって....本当に、ずるいよね。そんなこと言われたら、私.....」
「ずるくて結構ですよ。先輩を僕に夢中にさせられるなら、どんな手段だって使います」
僕がさらに顔を近づけようとした、その時──カチャリと部室の引き戸が開く音がした。
「あ......」
部室の中から顔を出したのは、ひよりだった。
彼女は僕となずな先輩が手を握り合い、顔を近づけ合っている瞬間を、バッチリとその目で捉えてしまったのだ。
静寂が廊下に落ちる。
なずな先輩は弾かれたように僕の手を振り解き、真っ赤になって飛び退いた。
「あ、朝比奈先輩、神代くん......こんにちは」
ひよりの声は平坦だったが、その瞳の奥には明らかな動揺と、小さく揺れる戸惑いの色が浮かんでいた。
昼休みに図書館であれほど甘い言葉を吐いた相手が、放課後には部室の前で上級生の女子と親密に肌を触れ合わせている。
普通であれば、激しい不信感と嫌悪感を抱いてもおかしくない場面だ。
しかし──
【好感度:53】。
ひよりの頭上の数値は、僅かに2ポイント落ちただけで踏みとどまっていた。
むしろ、彼女のステイタス詳細には『状態:困惑・胸の疼き・焦燥』という文字が表示されている。
読書を通じて僕への好意を芽生えさせたばかりの彼女にとって、この光景は幻滅ではなく、嫉妬を芽生えさせる引き金として機能したみたいだ。
「こんにちは、ひより。早いね」
僕は何事もなかったかのように、ごく自然な笑顔でひよりに声をかけた。
「はい。お茶の準備を、少し早めに来てやろうと思いまして」
「偉いね。僕も手伝うよ」
僕はなずな先輩に軽く目配せを送ってから、ひよりの隣を通り抜けて部室へと足を踏み入れた。
すれ違いざま、彼女がキュッと唇を噛み締めるのが見えた。
修羅場などではない。
この程度の摩擦は、僕のハーレムを完成させるために無数に起きるそよ風みたいなものだ。
部活動が始まると、畳の部屋には心地よい静寂と、湯気の温もりが満ちていった。
部長の指導の下、僕たちは交代でお茶を点てていく。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、無駄のない流れるような所作で茶筅を振る僕の姿に、部長たちだけでなく、なずな先輩とひよりも見惚れているのがわかる。
「神代くん、所作がとても美しいね」
部長の感嘆の声に、僕は謙虚に頭を下げる。
「いえ、先輩方の手本が素晴らしいからです」
そんな優等生なやり取りの合間、僕は隣に座るひよりにお茶を差し出した。
「どうぞ、ひより。僕が点てたお茶だよ」
「……ありがとうございます、神代くん」
ひよりはおずおずと茶碗を受け取り、両手で包み込んだ。
僕の指先と彼女の指先が触れ合う。
昼休みの図書館での約束を思い出したのか、彼女の白い頬が再びほんのりと朱に染まる。
一口含んだ彼女は、ふわりと表情を緩めた。
「とても、温かくて、優しい味がします」
「君のために点てたからね。口に合ってよかった」
僕が耳元で囁くと、ひよりの好感度は【57】へと跳ね上がった。
その甘いやり取りを、少し離れた席から苦々しい表情で見つめるなずな先輩の視線が突き刺さる。
彼女の好感度もまた、嫉妬に煽られて微かに上下を繰り返していた。二人の少女の感情が、短時間で激しく揺れ動いている。
部活動が終わり、片付けを終えて部室を出ると、外はすっかり茜色の夕暮れに包まれていた。
「神代くん。この後の約束を──」
ひよりが控えめに、勇気を振り絞って僕の袖を引いてきた。
図書館での約束を覚えていてくれたのだ。
「もちろん。一緒に行こうか、ひより」
僕が微笑みかけると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「あ、神代くんっ!」
そこへ、鞄を持ったなずな先輩が駆け寄ってきた。
「私も.......一緒に帰ってもいいかな?ケヤキモールに用事があって」
明らかにひよりとの二人きりの時間を邪魔するための乱入だった。2人同時だと互いに競い合ってくれて好感度が上がりやすいから嬉しい。
対照的な二人の美少女が、僕を挟んで無言の牽制を繰り広げている。そんな中、僕は言葉を発した。
「いいですよ。二人と一緒に歩けるなんて、僕にとっては願ってもない幸運ですから」
僕は両手を軽く広げ、笑みを浮かべて見せた。
「さあ、行こうか」
夕日に染まる並木道を、僕を中心に2人の美少女が並んで歩き出す。周囲の生徒たちからの猛烈な嫉妬の視線が僕の背中に突き刺さるけど、そんな負け犬の視線は気にならない。
その時、ふと僕のポケットの中で端末が微かに震えた。
歩きながら画面をさりげなく確認すると、そこには一件のメッセージが届いていた。
差出人は──坂柳有栖。
『凪くん。急な私用により、数日間学園を離れることになりました。私の不在中、あなたが有象無象の羽虫たちと戯れすぎるのではないかと、それだけが心配です。忘れないでください。あなたの隣には、私という先約がいることを』
画面に表示された文字を眺めながら、僕は誰にも気づかれないように深く、笑みを噛み殺した。
予想通りだ。
彼女は今、自らの身体に起きた奇跡を確かめるため、盤外へと旅立った。
『待っているよ、僕の可愛いクイーン』
僕は小さく呟き、端末をポケットへと滑り込ませた。
彼女が戻ってくるまでの間に、少なくともなずな先輩とひよりを落とす。
誰が僕の隣に座るのか、それは好きにやってくれればいい。基本的に口出しは控えよう。
隣を歩くひよりが僕を見上げて微笑み、反対側のなずな先輩が僕の腕にそっと自分の肩を寄せてくる。
心地よい気分のまま、僕たちの影は夕暮れの道へと長く伸びていった。
「──副会長のこの動画をプレゼントしたら、喜んでもらえるでしょうか」
なずな
ひより
坂柳
最近はワートリばっかりだったから、久しぶりにこっちを。
Bクラス or Cクラス
-
Bクラス
-
Cクラス