書庫の空気は、夜が深まるほどに透明になっていった。
ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフは、ラインハルトから残された宿題……議会と憲法について、思索していた。
ペン先が紙に触れた瞬間、彼女の手は止まった。
書くべき言葉が、すでにこの空間のどこかに存在しているような、奇妙な感覚があった。
静寂の中で、彼女はゆっくりと顔を上げた。
書庫の奥、軍務省から移送された古い書類箱の中に、それはあった。パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥が遺した、署名も宛先もない「覚書」の束。
ヒルダは、オーベルシュタインの覚書を一枚ずつ机に並べていく。記述は簡潔で、どれもが必要最低限の情報しか持たない。だが、そこには一貫した“意志”があった。
『皇帝の判断は、国家の利益と一致する場合にのみ正当化される。』
『統治の正統性は、皇帝個人の徳ではなく、統治の安定に求められる。』
修辞もなければ、感情もない。
論証すら省かれている。
正論である。
あまりにも正論である。
ヒルダは小さく息をついた。
――正論だけを文章として彫りこんだ、永久凍土上の石板。
そう言ったのは、誰だったか。
いや、思い出すまでもない。
自分だ。
また、別の長くまとめられた文書を取り上げて、ヒルダは、静かに息を吸った。
『皇帝の判断が国家の利益と衝突する場合、制度は皇帝の判断を無効化しうる構造を持つべきである。』
『制度は、個人の死を前提に設計されなければならない。』
驚きではなかった。
ただ、そこにある論理の純度に、わずかな圧力を感じただけだった。
続いて書かれていたのは、どれも皇帝の恣意を排除するための仕組みだった。
皇帝の権限を制限すること。官僚機構を分割すること。軍の指揮権を複層化すること。
いずれも共通しているのは、「皇帝の意思」を国家から切り離す構造である。
オーベルシュタイン元帥は、ラインハルトの隣に立ちながら、すでに“ラインハルトのいない国家”の設計を始めていた。
幼いアレクサンドルや、摂政となる自分を標的にしたものではない。ラインハルト以後の、すべての皇帝を縛る枷だった。
ヒルダは、ふと有名な一節を思い出した。
『君主の力量(ヴィルトゥ)は国家を創る。だが国家を永続させるのは法である。』
「……マキャヴェッリ……マキャヴェッリズム……」
小さな呟きは、書庫の壁に吸い込まれた。ヒルダは、かつて学んだ政治思想史の記憶を辿る。
「……あの方は、『君主論』を生きながら、ディスコルシ、いえ、法治論を考えていたのね」
机上には、ラインハルトの肖像画が置かれている。
若き皇帝の瞳は、まっすぐで、いつも遠くを見ていた。
ラインハルトは天才だった。だがその天才は、常に危うさと隣り合わせだった。激情。孤独。衝動。それらは帝国を築いた力であり、同時に帝国を壊しかねない力でもあった。
その隣に立ち続けた男がいた。私心を捨て、国家の秩序だけを座標に動く男。
ヒルダは、胸の奥に冷たいものが満ちていくのを感じた。それは畏怖だった。
ラインハルトの隣にいたのは、忠臣ではない。
ましてや友でもない。
では何だったのだ。
ヒルダは静かに目を閉じ、そして決断した。
「……ユリアン・ミンツを呼びましょう」
彼は、ヤンの言葉を最も正確に理解し、おそらくオーベルシュタインの論理を最も冷静に読み解ける人物だ。
pixivより転載