獅子泉の宮殿に、ユリアン・ミンツが姿を現した。
彼は敬礼をせず、静かに一礼しただけだった。
「来ていただき、ありがとうございます」
ヒルダの声は落ち着いていたが、どこか冷たい。ユリアンは一瞬だけ身を固くしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
ヒルダは机の上の覚書の束を、彼の前へ押し出した。
ユリアンはそれを手に取り、黙って読み始めた。
ページをめくるごとに、沈黙が重くなる。
やがて彼はやや困惑したように顔を上げた。
「……これは、憲法の草案ですか?」
ヒルダは小さく首を振った。
「いいえ。ある方の個人的な覚書です」
ユリアンはもう一度紙に目を落とした。
「皇帝の判断が国家の利益と衝突する場合、制度は皇帝の判断を無効化しうる構造を持つべきである……帝国にも、こういう思想があったのですね」
「はい。皇帝の隣にあって、あの方は全く違う世界を見ていたようです」
その言葉に、ユリアンの瞳がわずかに見開かれた。感情というより、理解の衝撃だった。
「……ああ、絶対零度の剃刀」
ヒルダが眉を上げる。
「え?」
「失礼しました。私たちは、故オーベルシュタイン元帥のことをそう呼んでいたものです」
ユリアンは少し照れたように笑った。
「申し訳ありません」
ヒルダは思わず笑みをこぼしそうになる。
「私は“永久凍土上の石板”と呼んでしまいました」
「えっ」
ユリアンは目を丸くし、帝国最高位の女性をまじまじと見た。ヒルダは、いたずらっぽく微笑んでいる。ユリアンは小さく肩をすくめた。
「……なるほど。呼び名はいろいろあるものですね」
それからまっすぐにヒルダを見つめる。
「それで、僕は何のために呼ばれたのでしょう」
ヒルダは少し姿勢を正した。
「憲法の草案は、アレクサンドル陛下が成人されるまでに整えます。ですが、発布するのは陛下です。私は摂政に過ぎません」
まず、きっぱりと前置きをする。
「ただ、その前に整理しておきたいのです。この方の考えを。……記憶が残っているうちに」
ユリアンは静かに頷いた。
「ええ、わかります。歴史資料と同じですね」
「歴史資料?」
ヒルダが首を傾げると、ユリアンはわずかに熱を帯びた口調になった。
「歴史学では、同時代の人物が対象について直接残した証言や、当事者がその時々に遺した文書は一次史料と呼びます」
覚書を大切そうに触れた。
「つまりこれはかなり貴重な資料なんです。後世の歴史家が見たら垂涎もの、喉から手が出るというやつです」
ヒルダは思わず声を上げた。
「まあ」
ユリアンは少し笑う。
「もしヤン提督が見たら、たぶん大騒ぎですよ。……同時代人の証言は、後になるほど失われていきます。大事にしてください」
その言葉を噛み締めるように、ヒルダは覚書にそっと手を置いた。
「あの方は秘密主義で、生前に言葉にされていたことはとても少ないのです。この覚書もどこまで本気で書かれたのかはわかりません。だからこそ、あなたの意見をうかがいたかったのです。帝国の未来のために」
ユリアンは深く頷いた。
そして思う。
摂政皇太后ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ。
貴族女性としては稀に大学で政治学を学び、皇后となり、今は帝国の黎明期を支えている。
この女性の存在そのものが、ローエングラム王朝の特異点なのかもしれない。
個人の才能に依存しない制度を作ろうとしている人が、それでもなお、個人の才能によって歴史を動かしている。
その矛盾に気づいて、ユリアンは小さく笑った。
pixivより転載