五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く   作:生サーモン

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【第20話】まだ鳴っている

 1936年、九月の朝。

 

 ミッドタウン、ブロードウェイと七番街のあいだにある五階建てのビルの最上階に、モレッティ・ミュージック・パブリッシングの本社があった。壁の羽目板は暗い胡桃色に塗られ、ドアの上に真鍮の社名板が留めてある。板の縁に、拭き取りきれない磨き粉の白が薄く残っていた。清掃夫の指先が今朝も通った跡だった。

 

 窓辺の椅子に、レオは腰を下ろしていた。手のなかの陶器のカップから、湯気が斜めに立って、ガラスに触れる寸前で消えた。エンパイア・ステート・ビルの頂に、朝の光が当たっていた。五年前に完成した頃はほとんどの階が空で、〈エンプティ・ステート・ビル〉と新聞が皮肉に呼んだ。今年に入って、テナントの札がひとつずつ増え始めていた。

 

 三十八歳。

 

(前世のコーヒーの味は、もう思い出せない)

 

 そのつぶやきを、頭の中に置いてみて、置いた場所を忘れた。缶コーヒーだったか、粉のコーヒーだったか、その二つの単語だけがまだ残っていて、味の輪郭が浮かばない。「缶」の形状は思い出せる気がするが、それが本当の記憶なのか、この時代の食料品店の缶詰の映像を後から縫い付けたものか、判別がつかなくなっていた。

 

 カップを口に運んだ。コーヒーがうまい。最近は何を飲んでもうまく感じる。舌が若返ったのではない。前世で舌に貼りついていた冷めた白身魚のフライの匂いが、剥がれていったのだ。

 

 机の上に、ゆうべ帰る前に置いておいた新聞が二部積んであった。上は〈ニューヨーク・タイムズ〉、下は〈ヘラルド・トリビューン〉。どちらも一面に「工業株、緩やかに上昇続く」の一段見出しがあった。三年前ならこの見出し自体が幻覚のような響きを持っていた。今は誰も驚かなくなっている。

 

 カップを窓枠に置いた。

 

 

 

 

 九時前に、ドアが軽く二度叩かれて、ルーが入ってきた。腕に契約書の束と、綴じ紐で束ねた明細を抱えている。

 

「レオ。今月のASCAP明細が来た。それとNBCの担当から電話があったわ。冬の新番組で三曲使いたいそうよ」

 

 ルース・ゴールドバーグ。三十六歳。副社長兼CFO。ゴールドバーグ楽譜店の頃から数えて、レオの帳簿と契約を捌き続けて十六年になる。

 

「番組名は」

 

「〈Winter Evenings〉。家庭向けのバラエティ枠。ジミー・デュランテが出るらしい」

 

「使用料は」

 

「年間四百ドル。三曲で千二百。安いけど、露出が増えればASCAPの分配ランクも動く」

 

「交渉はサルに任せろ。五百まで押せるはずだ」

 

 ルーは机の縁に明細を置いてから、小さく笑った。

 

「あなた、最近サルに何でも振るわね」

 

「あいつの方がうまい。口が回って、人に好かれる。営業は俺の仕事じゃない」

 

「知ってるわよ。あなたは帳簿の前に座っているのが好きな人間だもの」

 

(そう思われている。十六年間、そう振る舞ってきた。だが最近、帳簿の前より、ピアノの前に座っている時間の方が長い)

 

 ルーは束の中から一枚を引き抜き、レオの前に置いた。

 

「ブレナンさんから伝言。今朝、ロサンゼルスのRKOから連絡があったって。次の映画で五曲使いたい。ブレナンさんは『西海岸は任せてくれ』と言ってたわ」

 

「あの人の流通網か。ハリウッドの映画スタジオに直接パイプを持ってるのは、この街ではあの人だけだ」

 

「六十六歳で毎月、大陸を往復してるのよ。あの人が入ってから、映画音楽の収入だけで三倍になった」

 

「ああ」

 

(ハーヴェイ・ブレナン。二十年の春に、俺の曲を二十五ドルで買い叩いた男。今は月六百ドルの給与で、こちらのカタログを売り歩いている。因果は巡る。だが今の関係は、清算ではない)

 

 レオはペン立てから万年筆を取り、明細の下段に短く署名した。

 

「RKOの件、契約書のドラフトを頼む。年二千五百を目標に。ブレナンさんが二千五百を通せると言ってるなら、通る」

 

「午後までに出すわ」

 

 ルーが振り向いて、鍵盤の方向に目を投げた。事務所の隅、赤い絨毯の上に、蓋を閉じたスタインウェイのグランドが据えてある。

 

「今日も昼に触るの?」

 

「触る」

 

「毎日ね」

 

「毎日だ」

 

 ルーは何も付け加えずに、明細を抱えて隣室に戻った。ドアが閉まる時、蝶番が短く軋んだ。この事務所に引っ越した年から鳴り続けている軋みだった。

 

 

 

 

 午前十時過ぎに、階段の音でサルが来たのが分かった。二段飛ばしで上がってくる癖は、九歳の時から変わらない。

 

 サルヴァトーレ・コスタンツォ。四十一歳。モレッティ・ミュージック・パブリッシングのマネージャー。灰色の羊毛のコートを腕にかけている。恐慌の冬に袖を擦り切らせて捨てた革のジャケットではない。仕立ての通った、新しい生地のコートだった。

 

「レオ。CBSの件、三百五十で通った。それとクリフから伝言。新曲のデモが出来たから聴いてくれってさ」

 

「あいつが自分で持ってこないのか」

 

「忙しいんだとよ。ハーレムにスタジオを構えてからこっち、若いミュージシャンが出入りするようになった。エリントンの楽団にも曲を提供し始めたと言ってた」

 

「エリントンか」

 

「ああ。お前との共作は続けるって言ってた。ただ、前みたいに毎週というわけには、な」

 

(あいつが独り立ちしたのだ。当然の道筋だった。俺の耳を借りなくても、自分の音を鳴らせる人間だ)

 

 サルは向かいの椅子を引き、腰を下ろす前に机の端の写真立てに目をやった。フレームの中で、マルコとジーナが並んでカメラを見上げていた。マルコは去年の写真より首が伸びている。

 

「月に一曲、共作できれば十分だ。CBSの契約書はルーに回しておけ」

 

「了解。あと、今夜、アンジェロのところ行くだろう」

 

「水曜日だからな」

 

「パールが新曲やるらしい。聴いてやってくれ」

 

「行く」

 

 サルはコートを椅子の背にかけ、隣室のルーの机に向かった。二人の話し声が、木の壁を一枚隔てて、低く続いた。契約更新の話。ラジオ局の窓口の異動。淡々と、効率よく。無駄な語が一つも入らない。九歳の時に父の八百屋の裏で剥いた玉葱の皮を蹴り合っていた二人の会話とは、別の生き物のリズムだった。

 

 レオはコーヒーの残りを飲みほして、カップを置いた。

 

 三年前の冬を、久しぶりに思い出した。三二年の暮れ。サルがこの事務所に来て、コートも脱がずに立ったまま、「お前のやり方を、もっと学ばせてくれないか」と言った日。九歳から二十年、無条件に続いてきた信頼は、暴落の夜に一度、皮の裏側まで裂けた。裂けた場所にゆっくり別の織物が張り直された。互いの仕事を認め合う、大人同士の信頼。

 

(前より良いかどうかは、分からない。前とは違う。だがサルは隣にいる。それでいい)

 

 

 

 

 昼前に、電話が鳴った。二度目のベルの途中で、レオは受話器を取った。

 

「レオ。ゼネラル・エレクトリックが四十二ドルを超えた。お前のポートフォリオ、時価で三百三十五万だ。三二年の底値から、四倍を超えた」

 

「計算はしてある、モー」

 

「計算はしてあるか。お前はいつもそうだ。俺が電話する前に、数字を知ってやがる」

 

 モーリス・シェイファー。個人ブローカー。五番街に、たった一人の事務所を構えている。〈シェイファー証券〉。看板は磨りガラス一枚に金文字で刷った、控えめなものだった。顧客は、暴落以前の三分の一まで戻っていた。

 

「モー、コカ・コーラを買いたい。一千株。五万ドル」

 

「コカ・コーラか。理由は」

 

「ニューディール以降、消費財の売上が回復している。五セントのコークは不況に強い。それに——」

 

(この会社は、この先も長く残る。だが最近、「この先」という言葉の縁が薄れている。前世でそう読んだのか、この世界での十六年の観察でそう判断しているのか、境界が滲んでいる)

 

「それに?」

 

「いい会社だ。それだけだ」

 

 電話の向こうで、モーが短く笑った。あの、湿ったところのない笑い方だった。

 

「分かった。明日の寄りで入れる。……レオ、懐中時計は」

 

「チェストの上か」

 

「チェストの上だ。娘が朝、時計を覗きに来る。俺のじゃなく、時計の様子を見に来るんだ。あの時計は俺の三十年を見てきた。お前は、あれを返してくれた。まだ借りが残ってる」

 

「借りはない。もう十分だ」

 

「十分かどうかは、俺が決める。……今夜、アンジェロのとこ、行くだろ」

 

「行く」

 

「俺も行く。ガンボが食いたい。南部風のあれだ」

 

「ガンボだな」

 

「ガンボ。あれが食いたい」

 

 電話が切れた。受話器を戻す動作の途中で、指の腹に受話器の冷たさが残った。

 

(先月、モーから聞いた。パーカーの消息が分かった、と)

 

 ウィリアム・パーカー三世。パーク・アベニューの家は差し押さえられていた。今はニュージャージーで、義理の兄弟の雑貨店を手伝っている。棚に並ぶ小麦粉と洗剤の箱を、白いカフスシャツで数えているらしい。

 

(靴を磨いていなかったパーカー。RCA五百五ドルで「年末には二百万ドル」と豪語した男。教本の通りだった。暴落は来て、パーカーは吹っ飛んだ。だが生きている。飛び降りなかった。それだけでいい)

 

 

 

 

 午後、事務所からルー以外の人影が消えた。サルは出先の交渉で外回り、従業員たちは順に昼食に出ていった。西向きの窓から、遅い午前の光が斜めに差し込み、ルーの机の上の書類を金色に染めていた。

 

 レオはカタログの台帳を開いた。今年の登録総数、四百十二曲。朝、来た時にも数えた。

 

「また数えてるの」

 

「確認だ」

 

「四百十二よ。朝も四百十二だった。昼にまた数えても四百十二だから」

 

「安心する」

 

「数字で安心する人間は、あなたくらいよ」

 

 ルーが立ち上がり、二つのカップにコーヒーを淹れた。片方をレオの机に置いてから、自分のカップを両手で持ったまま、窓の外を眺めた。

 

「最近、よくお礼を言うようになったわね。以前は三年に一回だった」

 

「歳を取った」

 

「あなた、まだ三十八でしょう」

 

(三十八。この世界での三十八年。前世を足せば、幾つになる? 前世の年齢が思い出せない。二十八だったか、三十だったか。足し算ができないのではない。足す数の方が、指の間からこぼれている)

 

 ルーは窓を見たまま言った。

 

「ねえ、レオ。私、あなたに一つだけ聞かないと決めていることがあるでしょう」

 

「ある」

 

「あれは、今日も聞かない」

 

「助かる」

 

「助かる、と言うのは、あなたの側の感情の問題であって、私の側の問題じゃないわ。私は、私の便宜のために聞かないの。あなたに聞いたら、あなたの答えが、私が今日出したい数字を狂わせる。それが嫌だから、聞かないの」

 

 ルーはようやくこちらを向いた。目の縁に、朝より少しだけ疲れが乗っていた。

 

「三三年の暮れに私は、根拠は聞かない、結果で信じる、と言った。三年間、それで足りている。今日もそれで足りる」

 

「ありがとう」

 

「三年に一回でよかったのに」

 

 カップの縁で、ルーが小さく笑った。

 

(十六年。ルーには、一つだけ言わないできたことがある。俺が未来を知っていたこと。全部知っていて、全部黙っていたこと。ルーは、あの三三年の暮れに、その一つのことを問わないと決めた。諦めではなく、受容だった。共同経営者としての線の引き方だった)

 

 

 

 

 夕方、マンハッタン、ウエスト・ハーレム。

 

 〈After Hours〉。三年前、禁酒法が廃止された日に開店した、合法のバーだった。表通りに面した入口の上に、ネオンの看板が、店名の二語をそのまま光らせている。地下の隠し扉ではなく、通りから直接ドアを押して入る。

 

 レオが押して入ると、ジャズの生演奏が空気を先に迎えた。

 

 クインテット。トランペット、サックス、ピアノ、ベース、ドラム。ステージ中央の細いスポットライトの下で、クリフのトランペットが、天井に向かって澄んだ音を放っていた。半音上げ気味の張り出し方。ここ数年で、あいつの音は前より張って、前より柔らかくなっている。

 

 ステージの前で、パールが歌っていた。

 

 『New Day Coming』。八年前、恐慌の底の夜にレオが自分のために書いた曲だった。書いてしばらく机の抽斗に置いていたのを、翌年の夏に譜面を起こして、パールに渡した。今はNBCの週三回のレギュラー枠で、毎週火・木・土の夜十時に、全米の三百局を通じて流れている。

 

 だが、ラジオで聴くのとは、違う。

 

 スピーカーの向こうでは削られてしまう倍音が、生の声にはあった。声帯が振動するときの、下のほうの少し粗い揺れ。子音の際で漏れる気息音。それが、パールの喉と客席のあいだの空気を、一メートル刻みに震わせている。

 

(ラジオが「近さ」を伝えるなら、生の声は「そこにいる」を伝える。パールはレコードの盤を溶かされた。ヴィクターの専属契約は解除された。だが声は死ななかった。ラジオが生き残らせた。メディアは変わった。声は変わっていない)

 

 カウンターの向こうで、アンジェロが顎を上げて合図した。

 

「レオ。奥、いつもの席、空けてある」

 

「ありがとう、アンジェロ」

 

「ありがとうはこっちだ。お前の出資がなかったら、この店はなかった」

 

「五千ドルの出資で、毎月分配をもらってる。感謝するのは俺の方だ」

 

「金の話じゃねえよ」

 

 アンジェロが短く笑って、グラスを磨く手に戻った。

 

(アンジェロ・ルッソ。マッシモの支配下で、密造酒を売らされていた男。マッシモが連邦に踏み込まれてから、自分で選んだ酒を仕入れ始めた。禁酒法が廃止された日に、地下のスピークイージーが、地上の合法バーになった。マッシモの影は、この壁からも、この床からも、消えている)

 

 奥のテーブルで、サルとロザリアと子供たちが先に着いていた。マルコは十三歳、ジーナは十一歳。二人ともここ半年で背が伸びた。マルコは肘を膝に置いてジャズを聴いている。ジーナは母親の隣で、深皿の中のガンボをスプーンで押して遊んでいた。

 

「レオ。遅いぞ」

 

「仕事が伸びた」

 

「嘘つけ。帳簿を三回数え直してたんだろう」

 

「二回だ」

 

 サルが笑った。ロザリアが小さくうなずいた。

 

 ルーが隣に腰を下ろすと、同じ列の向こうから、モーがグラスを掲げた。

 

「レオ。乾杯」

 

「モー。何に」

 

「何にでもいい。生きてることに」

 

 グラスを合わせた。琥珀色の液体が、アンジェロが今年から仕入れ始めたケンタッキーのバーボンだった。正規の卸業者の伝票で来た、正規の樽の色をしていた。

 

 ドアがまた押された。

 

 ハーヴェイ・ブレナンが、コートを脱ぎながら奥のテーブルにまっすぐ来た。頭髪はすっかり薄くなっていた。背筋は真っ直ぐだった。

 

「モレッティ君。すまない、遅れた。ロサンゼルスからの列車が二時間押した」

 

「ブレナンさん。座ってください」

 

 ブレナンは向かいの椅子に腰を下ろし、テーブルの端に指を軽く置いてから、ようやくコートを膝の上で畳んだ。仕草のひとつひとつに、六十六歳の身体の順序があった。

 

「RKOの件、契約書のドラフトを、ルーに任せた。五曲で年二千を目標」

 

「二千五百まで押せる。あちらのプロデューサーは、うちのカタログを気に入っている。ジャズとポピュラーの中間。映画にちょうどいい、と」

 

「さすがだ」

 

「さすがじゃない。売り物が良ければ、営業は楽だよ」

 

 アンジェロがブレナンの前にグラスを置いた。ブレナンはグラスを持ち上げるまえに、一度、テーブルの木目に目を落とした。

 

「モレッティ君」

 

「はい」

 

「列車の中で、昔のことを考えていた。ロサンゼルスからニューヨークまで、三日ある。やることがないから、昔のことが浮かぶ」

 

 ブレナンがグラスを口に運び、一口だけ含んだ。

 

「十六年前の春だ。私は、名前も知らない、痩せた若い作曲家の曲を、二十五ドルで買った。あれは『April Moon』だった。今もラジオで流れている。版権は、私のものだ。年二百ドルの使用料が入る。二十五ドルの投資に対して、十六年、年二百ドル。利回りだけならわるくない」

 

「ブレナンさん——」

 

「だがあの日、私は投資をしたのではない。才能を安く買った。それは事実だ」

 

 ブレナンがグラスを置いた。

 

「二十五ドルから始まって、ここまで来た。君は、五百万ドルの会社を作った。私は一度潰れて、君に雇われた。二十五ドルしか払わなかった男が、五百万ドルの会社を作って、二十五ドルしか払わなかった男を月六百ドルで雇っている。因果ではあるだろう。だが清算ではない。君は復讐のために私を雇ったのではない」

 

「違います」

 

「分かっている。君は流通網が要った。私は、流通網を持っていた。それだけだ。……だが、それだけのことが、私にとっては——」

 

 ブレナンが、言葉を探した。五十年、業界の言葉で生きてきた元出版社社長が、六十六歳になって、言葉を探している。テーブルの木目に、指の腹が短く触れて、離れた。

 

「救いだった」

 

 レオは何も言わなかった。バーボンを一口飲んだ。琥珀色が喉の奥で、乾いた熱に変わって落ちた。

 

(二十五ドル。二十年の春。あの日、俺には金がなく、この人に曲を売った。あの屈辱が、出版社を作らせた。版権を握る側に回らせた。ラジオに賭けさせた。空売りで暴落を越えさせた。全部、あの二十五ドルから始まった)

 

 ステージで、パールが歌い終わった。拍手が短く広がった。パールが軽くお辞儀をして、クリフと目を合わせた。クリフの首が、下に一度だけ落ちた。

 

 次の曲。

 

 クリフのトランペットが、最初の一音を、低い場所から出した。静かで、温かい音だった。

 

 『Midnight in Harlem』。レオとクリフの共作。ちょうど十年前に書いた曲だった。

 

(十年前、あの曲を初めて演奏したのは、アンジェロが地下でやっていた店だった。煙と密造ジンの匂いに包まれて、床板の合わせ目からも、上の階の煙草が沁みてきた。今、同じ曲が、同じアンジェロの店の、明るいステージで鳴っている。同じ曲だ。同じ人間の店だ。だが全てが違う。地下ではなく、地上にある)

 

 パールの声が、四小節遅れて曲に乗った。

 

 テーブルから、レオはステージを見ていた。クリフのトランペット。パールの声。ピアニストが弾くコード進行。

 

 Cmaj7。Fmaj7。Bm7♭5。E7。Am7。Dm7。G7。Cmaj7。

 

 ジャズのターンアラウンド。長調に着地する、八小節の一周だった。

 

 テーブルを見回した。サルがロザリアの肩に手を置いていた。ルーは目を閉じて聴いていた。モーがグラスを傾けている。ブレナンが腕を組んで、ステージを見ていた。カウンターの向こうでは、アンジェロが白い布巾でグラスを磨きながら、時々、ステージの方に顔を上げていた。

 

(全員、生きている。恐慌を越えて、暴落を越えて、マッシモを越えて、禁酒法の終わりを越えて。マッシモは消えた。パーカーは退場した。禁酒法は終わった。残ったのは——ここにいる面々と、あの音と、テーブルの上の合法の酒だ)

 

 曲が終わった。拍手。クリフがステージからレオの席を見た。トランペットを、目の高さに軽く上げた。十年来の共作者の、挨拶だった。レオはグラスの縁で応えた。

 

 

 

 

 夜。レオは事務所に戻った。ルーは先に帰った。従業員たちも帰った。五階のオフィスに、レオだけが残った。

 

 机の抽斗を開けた。中から二つ折りの薄い紙束を取り出した。今月分の集計を、レオの筆跡で書いたものだった。九月の月末の数字が、既に上段に載っていた。

 

 鉛筆の腹で、下段に線を引いた。

 

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  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1936年9月末

 

  【資産】

   現金(手元)               $20,000

   銀行預金(三行分散・チェース中心)    $1,200,000

   米国債                  $300,000

   株式ポートフォリオ(時価・DJIA 180超)  $3,350,000

    (取得原価$1,200,000、1932年底値の四倍)

   音楽事業資産(版権412曲・事務所設備)   $200,000

   不動産(マンハッタン事務所ビル五階)   $150,000

 

  【負債】

    なし

 

  【月間収入】

   ASCAP演奏権料(配分ランク上位)     $4,200/月

   映画音楽契約料(ハリウッド・ブレナン網) $1,800/月

   ラジオ局供給料(NBC・CBS)        $1,500/月

   株式配当                 $800/月

   米国債利子                $700/月

   楽譜売上                 $400/月

   After Hours 利益分配           $300/月

   演奏料(水曜定期出演)          $200/月

   レコード版権料(回復基調)        $150/月

   合計                   $10,050/月

 

  【月間支出】

   サル給与                 $800/月

   ブレナン給与               $600/月

   ルー報酬                 $500/月

   従業員四名                $1,200/月

   クリフ共作分               $200/月

   家賃(パーク・アベニュー)        $200/月

   事務所維持費               $200/月

   食費                   $60/月

   印刷・郵送費               $50/月

   雑費                   $90/月

   合計                   $3,900/月

 

  【純資産】$5,220,000

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 鉛筆を置いた。

 

 紙の余白に、小さな字で、レオはもう一行だけ書いた。

 

  $47.23 → $5,220,000。十六年。

 

 書いてから、その一行を、消しゴムで消した。あとに、紙の繊維に薄い凹凸だけが残った。

 

(帳簿は、他人に見せる書式に整えておけばいい。数字の下の凹凸は、俺の側だけに残しておく)

 

 

 

 

 台帳を抽斗に戻した。事務所の隅の、スタインウェイの蓋を開けた。象牙の鍵盤が、デスクランプの光を斜めに受けて、柔らかい黄色を返した。

 

 指を鍵盤に乗せた。

 

 なめらかで、ほのかに冷たかった。

 

 Cmaj7を弾いた。

 

 C、E、G、B。安定。出発点。二十年の冬、四十七ドル二十三セントのポケットで目覚めた朝の、何もないところから始まった和音だった。

 

 Fmaj7。

 

 F、A、C、E。上昇。歩き出した道。サルと再会し、クリフとハーレムで初めて音を合わせ、ルーからASCAPの仕組みを教わり、版権を握る側に回った日々。Cmaj7からFmaj7への移動は、四度上。石段を一段だけ上がる、あの体の運び方に似ていた。

 

 Bm7♭5。

 

 B、D、F、A。ハーフ・ディミニッシュ。減五度の響きが、足元の平らな石を斜めに傾ける。記憶が消えていく恐怖。前世の知識がどこまで正しいか分からない不安。長調のダイアトニックの中で、この和音だけが唯一、減音程を持つ。

 

 E7。

 

 E、G♯、B、D。緊張。ドミナントの中でも、解決を要求する力が最も強い和音。暴落の夜。空売りの証拠金。「注文が通らない」と知った瞬間の、電話越しの摩擦音。モーの懐中時計。救えた人と、救えなかった人。パーカーが二百二十万ドルの含み益を吹き飛ばした夜。ボーナスアーミーの写真の、燃えるテント村と、サーベルを持った騎兵。全部が、この一つの和音の中に押し込まれていた。

 

 Am7。

 

 A、C、E、G。カサンドラの短調。未来を知っていて言えなかった苦痛。Am7はCmaj7の平行調——同じ音を使いながら、根音が違うだけで、明るさが消える。

 

 Dm7。

 

 D、F、A、C。前世から今世への、乗り換え地点。サブドミナント。進むことも戻ることもできる中間の、灰色。のり弁の記憶が、輪郭を失いかけている場所だった。

 

 G7。

 

 G、B、D、F。期待。ドミナント。Cmaj7に帰ろうとする力。底値で買った株。ブレナンとの和解。アンジェロの店の合法化。全部が、このG7の中で、解決に向かって進んでいる。

 

 Cmaj7。

 

 帰還。

 

 八つの和音が、ターンアラウンドを一周した。C・F・Bm・E・Am・Dm・G・C。出発して、上昇して、揺らいで、緊張して、孤独に沈んで、乗り換えて、期待して、帰ってきた。

 

 さっき、〈After Hours〉で聴いたのと同じ進行だった。だが今は、クリフのトランペットも、パールの声もない。レオの指と、スタインウェイの弦だけが、この八和音を鳴らしている。

 

 

 

 

(前世のことを、意図して思い出そうとしないと、浮かんでこなくなった)

 

(DTMソフトの名前は、完全に消えた。画面の中に、横長の窓と、色のついたブロックが並んでいた気がする。「ピアノロール」と呼ばれていた気がする。だがその言葉が、前世のソフトウェアの用語だったのか、この時代の自動ピアノのロール紙のことだったのか、もう境目が引けない)

 

(のり弁。容器の形は、もう浮かばない。温かかったことだけ覚えている。電子レンジ。箱の中で食べ物が温まる機械。それ以上の詳細が出てこない)

 

(深夜のオフィス。疲労で霞むディスプレイ。時間がない中で、間に合わせで作った曲だったはずだ。どんな曲だった?)

 

(……思い出せない)

 

 十六年分のこの世界の記憶が、前世を塗り潰していく。

 

 それでいい、と——今は思える。

 

 前世で持っていなかったものが、全部、手元にある。サルがいる。ルーがいる。クリフとパールがいる。モーがいる。アンジェロがいる。ブレナンがいる。四百十二曲の版権がある。ラジオで毎日、俺の書いた曲が流れている。〈After Hours〉で、毎週水曜日に、この面々と酒を飲んでいる。

 

 前世で持っていたもの——安いMIDIキーボードと、誰にも聴かれない曲——は、消えかけていた。

 

 指の腹にだけ、微かに残っていた。

 

(この指はまだ探している。象牙の鍵盤の下に、あの安っぽい、軽い、六十一鍵の感触を。十六年間、本物のピアノを弾いてきた。スタインウェイの、重い、深い、響く鍵盤を。なのに指はまだ、あの軽さを探している)

 

 いつか、指も忘れるだろう。

 

 以前は、その先に「完全にレオナルド・モレッティになる」自分を想像していた。転生者ではなく、この世界の人間として。四十七ドル二十三セントから会社を作った、音楽出版社の社長として。帳簿の前に座る男として。

 

 だが今は、そうは思わない。

 

(クリフに言われた。お前は作曲家じゃない、版権屋だ、と。反論できなかった。十六年間、俺は音楽を売り物としてしか書いてこなかった。前世でも、同じだった。売れない曲を捨てて、売れる仕事に逃げた。二つの人生を通して、一度も、自分のために曲を書かなかった)

 

(一度だけ、書いた。恐慌の底の夜。売る当てもなく、自分のために弾いた、四つの音。『New Day Coming』。今夜、パールがそれを歌っていた。五十人の前で。そして毎週、電波に乗って、何百万の耳に届いている)

 

 鍵盤に指を置き直した。

 

 スタインウェイの象牙の鍵盤。前世の、埃をかぶった六十一鍵とは、何もかもが違う。重い。深い。響く。一音ごとに、弦が震え、木が鳴り、空気が動く。

 

 前世の1Kの、蛍光灯が一つ切れた台所で、ヘッドフォンの中だけに閉じ込められていた音楽が——

 

 今は、光の中で鳴っていた。

 

 Cmaj7を、一音だけ、鳴らした。

 

 C、E、G、Bの四音が、スタインウェイの弦を震わせた。ハンマーが弦を叩き、弦が振動し、響板が増幅し、空気が動いた。壁に反射して、事務所の天井まで届き、柔らかな残響を作った。

 

 指を離した。ダンパーが弦に触れた。弦はすぐには止まらなかった。振幅が小さくなり、音量が下がり、やがて耳の閾値の下に沈んだ。だがまだ、振動は続いていた。空気の中で。壁の中で。床の中で。

 

(前世のMIDIキーボードでは、指を離した瞬間に音が消えた。ノートオフ。零と一の間に、中間はない。だがこのピアノでは、音は消えるのではない。薄れていく。振幅がゼロに近づく。永遠にゼロにはならない。ただ、人間の耳の閾値の下に、沈んでいく)

 

(聴こえなくなってからも続いている振動の中に——音楽がある)

 

 

 

 

 残響が消えた。

 

 レオは、暗い事務所を見回した。デスク。帳簿。電話。契約書の綴じ紐。五百二十万ドルを生んだ道具たち。

 

(全部、配管だ。水を流すための管。十六年間、俺は管ばかり作ってきた。誰よりも上手く。だが肝心の水を——音楽そのものを——ずっと後回しにしてきた)

 

 窓辺に立った。マンハッタンの夜景。ラジオ塔の赤い灯が、いくつも点滅していた。その電波の一つ一つに、誰かの声が、誰かの曲が乗っている。今夜も、どれかから『New Day Coming』が流れているかもしれない。パールの声で。俺が初めて、自分のために書いた四音の上で。

 

(次にやることは、決めている)

 

(自分のスタジオを建てる。真ん中に、このピアノを置く。技師の後ろで音を待つのではなく、俺自身がピアノの前に座って、耳で音を組む。クリフに「もう一回、そこのフレーズ」と言う。パールに「半音下げてみてくれ」と言う。マイクの位置も、楽器の距離も、編曲のバランスも、全部この手で決める。前世のDAWでやっていたことを、この時代の道具で)

 

(そんな仕事に、まだ名前はない。作曲家でも、指揮者でも、レコード会社の重役でもない。強いて言うなら——ピアノを弾くプロデューサーだ)

 

(五百二十万ドルも、四百十二曲の版権も、ラジオ局との契約も、全部、そのためにある。金のために音楽をやるのではない。音楽のために、金を回す。順番が、ようやく元に戻る)

 

 窓ガラスに、レオの顔の輪郭が映っていた。ネオンの赤が、頬の片側に薄く落ちていた。

 

 窓の下、通りを一台のタクシーが走っていった。屋根の黄色が、街灯の下だけ、明るく光った。

 

 コートの襟に、指を伸ばした。父の遺したものだった。もう十六年着ている。裏地の縫い目の白い糸で、「C.M.」の印字が、今も残っている。カルロ・モレッティ。指でその二文字をなぞった。糸の結び目が、指の腹に、砂粒ほどの高さで盛り上がっていた。二十年の一月の朝、同じ場所を同じ指でなぞったときと、同じ高さだった。

 

 椅子に戻った。蓋を開けたままのスタインウェイ。指を、鍵盤に置いた。

 

 G。E。C。D。

 

 『New Day Coming』の、あの四音を弾いた。誰も聴いていない、夜の事務所で。

 

 だが明日は、スタジオの図面を引く。そうすれば、この音も、いつか、光の中で鳴る。一本足打法は素人のやることだ。管が四本、五本と増えているぶん、流す水も、少しずつ、増やしていく。

 

 前世の記憶は、もうほとんど残っていない。指だけが覚えている。

 

 だが今の手元には、聴かれる音楽と、自分の音楽が、両方ある。

 

 そして、それを鳴らす場所を、これから作る。

 

 

 

 

                      完

 

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