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ハルカの心にはあの日のディナーが深く刻み込まれていた。
出された料理は全て経験したことがないくらい美味しかった。何より、敬愛する便利屋68の仲間と共に過ごした特別な夜だったから。幸せな、夢のようなひと時だった。
「あ……雨」
五月も中頃まで差し掛かった今日は、いつもの長袖のコートを着ていると少し蒸し暑い。梅雨が近づいていることを告げるように、頭上からはぽつぽつと雨粒が降り注ぎ始めた。
事務所にはハルカ以外誰もいない。アルはシャーレの当番で朝早くから出かけ、ムツキはD.U.へ爆弾を漁りに、カヨコは少し散歩してくると言ってどこかへ行ってしまった。だが、こっそりとツナ缶を懐に忍ばせていたのをハルカは見逃さなかった。きっと野良猫に餌でもやりにいったのだろう。
「あの子たちを軒下まで移動してあげないと」
ハルカはふと思い立ったように裏口に行き、ドアを開けた横に並べてある植木鉢を持ち上げる。そこにあるのは美しい花ではなくただの雑草。しかしそれはハルカにとってどんな花々にも勝るものだ。
「よいしょ……あとは……この子が最後ですか」
しばらく軒下と裏口とを往復して、ハルカは最後に残った植木鉢に目を向けた。細い茎を力いっぱいに伸ばして、小さな白い花を二輪咲かせている。
あの日、ハルカが我儘を言って向かった路地裏で咲いていた花。ハルカはなんとなくその植木鉢を持って座り込んだ。なんだかそうした方がいい気がしたのだ。
「……あなたは変わりましたね。こんなに立派な花を咲かせて」
ハルカはそう花に語りかける。無意味な行いだとは分かっているが、この草から自分とみんなとの関係が始まったと思うと、どうにも語りかけずにはいられなかった。
「私はずっと……守られてばっかりです。あの日から今日まで」
『……』
「何が返せるでしょうか……私はもう、貰いきれないくらい貰っているのに……」
あの日から自分は果たして成長しているのだろうか。自分でも根暗な性格であることは自覚している。頭が良いわけでもない。他の人より少しばかり頑丈なだけ。取り柄らしい取り柄もない。
何が変わったと言えるだろう。何をもってすればアルに報いることができるだろう。
『……』
「へ、へへ……何言ってるんでしょうか。私は」
花は何も返さない。ハルカは返ってくるわけのない返事を求めていた自分に呆れて、自虐じみた笑いをこぼす。その時、玄関の方から物音が聞こえてきた。どうやら誰か帰ってきたようである。
「よっと。ハルカちゃーん。ただいまー!」
「ただいま」
「お、お帰りなさいませ!」
出迎えるために慌ててハルカは玄関口まで向かう。玄関にはムツキとカヨコが二人揃ってびっしょりと濡れた状態で立っていた。帰る途中に合流したらしい。
「ふー。もうびしょびしょ――って、あれ? ハルカちゃん。植木鉢なんて抱えてどうしたの?」
「あ、こ、これは……その、雨が降ってきたので軒下に移動してあげようと……」
濡れた髪を絞るムツキは、ハルカの抱える植木鉢を見てパッと笑顔になる。
「あー! これ、あの時の花じゃん!」
「可愛い花だね。雑草なんて呼ばれるのがかわいそうなくらい」
「……そう、ですね。この子にはカンシロギクっていう名前がしっかりあるのに」
名前があってもそれを呼ぶ人がいなければ無いのと同じだ。そういう意味ではきっと”私”はあの時――雑草ちゃんと呼ばれた時に生まれたのだろう。
「とりあえず着替えよっか。もう蒸し暑くてどうにかなっちゃいそう」
「今着替えをお持ちします!」
いつまでも植木鉢を抱えているわけにもいかないので、ハルカは一旦足元にそれを置いて着替えの入っているクローゼットを見に行った。
「あ、そ、そんな……」
クローゼットを開けたハルカは愕然とした声を上げる。着替えが一着もないのだ。そういえば、ついさっきコインランドリーに出してしまった。
「ど、どうしたら……」
「ハルカちゃん? どうしたの?」
様子を見に来たムツキがハルカの後ろから同じようにクローゼットを覗き込む。
「ありゃ」
「す、すいませんすいませんすいません! 私がしっかりと確認してなかったばっかりに……すぐに着替えを取りに――」
「くふふ! そんなことしなくてもいいよ。だって着替えならまだあるでしょ?」
「え?」
楽しそうに笑うムツキにハルカは理解が追いつかない。着替えはまだあると言っていた。もしかして、自分の服を指しているのだろうか。事務所にずっといたから濡れていない。それに上司二人が濡れているのに、着替えの一つも用意できない無能さを暗に意味しているのかも……
「わ、分かりました! 今すぐ脱ぎますので、お二人は私の服を使ってください」
「え? いや、そういう意味じゃ――」
ムツキが言い終える前にハルカは素早く服を脱ぎ捨て、すっぽんぽんになった。そして丁寧に畳んでムツキへ差し出す。流れるような動作にムツキは苦笑いを浮かべることしかできない。
「二人とも何してるの?」
「あ、カヨコちゃん」
騒がしい二人の様子を見に来たカヨコは、ハルカの一糸纏わぬ姿を見てため息をついた。それだけで大方何が起こっているかを察したようだ。
「……ハルカ。せめてパンツは履いて」
「は、はい」
ハルカはいそいそとパンツに手を伸ばす。
また早とちりしてしまった。いつもこうだ。勝手に突っ走って周りに迷惑をかけてしまう。
自己嫌悪で気持ちが沈んでいく。やっぱり今から服を取りに行ってくるべきではないかと思案するが、ムツキはそんな思考を打ち切るように手をパンと叩いて笑った。
「そんなに落ち込まないでよ。着る物ならアレがあるじゃん」
「アレって……ムツキ、もしかして……」
「くふふ。そうだよ――」
「うぅ……」
「アハハ! ハルカちゃんカワイー!」
着る物とは何かと思ったハルカだったが、ムツキが用意したのはあの時レストランで着ていたドレスだった。
特別な場で着る為のものなのに、ただの着替えに使うのは気後れしてしまう。そもそもハルカは濡れているわけではないのに、ムツキがこれ幸いと強引に着せてきたのだ。
「折角ハルカちゃんも脱いだんだし、仲間外れは寂しいでしょ?」
「い、いえ。その、私なんかがこんな綺麗なドレスを……それも特別な理由もないのに……」
「特別な理由ならあるよ。私がハルカちゃんに着てほしい。カヨコちゃんもそう思うよね」
「まあいいけど、汚さないようにね。雨が上がったら着替えを取りに行ってくるから」
「そ、それなら……」
少しだけ恥ずかしさを感じつつも、ハルカはドレスの裾を摘んで布の位置を直す。
「はいハルカちゃん。自分で見て」
ムツキは姿見を持ってきてハルカの前に立てた。鏡面に反射する自分自身の姿に、ハルカは思わず目を逸らしそうになる。だがカヨコに後ろからそれを咎められてしまった。
「駄目、ハルカ」
「うっ」
鏡に写る自分と目が合った。
暗い紫色の布地が白い肌によく映える。自分で言うのも烏滸がましいと感じつつ、少しだけ似合っているのでは、とハルカは思った。
「ハルカちゃんさ、何か悩んでるでしょ」
「うぇ!?」
「これでも長い付き合いなんだから、それくらい私たちにも分かるよ」
二人にそう言われ、ハルカはびくんと肩を震わせて目をそらした。
別に大した事ではないのだ。わざわざ二人に打ち明けるほどの事ではない。
だから上手く誤魔化そうとして顔を上げたハルカは、もう一度鏡の中の自分と目が合う。
(お前は本当にそれでいいんですか?)
「……っ」
そう言われたように感じた。
このまま打ち明けず、二人もまたそれ以上に聞かない。彼女らは優しいから、きっと何か感じても取り繕ってくれるだろう。聞かない優しさに甘えて一人で抱え込む。果たしてそれは仲間を信じていると言えるだろうか。
黙っていていいのか。
自分の弱さと向き合うことから逃げているのではないのか。
(それが言えないから、お前は守られるばかりなのではないんですか?)
「……私、は」
いつまでも気弱な軟弱者ではいられないだろう。
二人がわざわざ聞いてくるなら、どうせアルにもばれる。悩み一つ打ち明けられないなんて思われたくない。守られるだけの自分ではいたくない。
ハルカは一つ息を吐いて、やがて言葉を紡ぎ始めた。
「私は……ずっと皆さんに守ってもらってばかりで……弱いままなのが嫌なんです」
「ハルカちゃんが弱いって、そんなわけ――」
「待ってムツキ。一旦聞こう」
ムツキの言葉を遮って、カヨコはハルカに続きを促した。
「戦闘する際に私が戦力として働けているのは分かっています。でも……そういう強さではなく、もっと人として強くなりたいんです」
「……」
「……ハルカは自分の何が弱いと思ってるの?」
優しく、けれども鋭い目でカヨコはハルカに問う。ハルカはその目に臆することなく、まっすぐに見返して言った。
「私は……皆さんがいなければ多分、生きていけません。食べ物が無いとか、寝る場所が無いとか、そういう理由ではないです。私は皆さんに……アル様に依存している。私の心が『それが無いと生きたくない』と言ってるんです」
「……それで?」
「だから……きっと皆さんの指示を待って、その通りに行動することで私は生きていてもいいって思っています。それが一番皆さんの利益に繋がるから。でもそれじゃあ、ダメで……結局皆さんに負担をかけてしまって……私一人で何かしたわけじゃなくて」
ハルカは一つ間を挟む。
「あの花を見て思ったんです。あの子は自分自身の力で花を咲かせているのに、私は今もずっと助けられてばかりで、一人じゃ何もできないままです。本当は、私はあの子みたいに成らなければいけないんです。それが一番、アル様への恩返しになっているんです」
ハルカはドレスの裾を掴んでしゃがみこんだ。そのまま俯いてぎゅっと手を握りしめる。
「でも……でも……私には、とても難しくて……どうすればいいか分からなくて」
ハルカは絞り出すように言った。
本音を吐き出すのは不安だった。二人をまた困らせてしまう。こんなことを相談したって結局自分自身の問題なのに、また負担をかけてしまう。そう考えるだけで声が震え、瞳からは涙が零れそうになる。
顔を上げるのが怖い。二人の困った顔を見たくない。いっそ土下座でもして場の空気を取り繕おうか、とヤケになりかけていたハルカの頬に、柔らかい指が触れた。
「ハルカ、顔を上げて」
「は、はい……」
カヨコは優しくハルカの頬に手を添えて、笑って言った。
「ハルカがそこまで考えてることが、私はすごく嬉しい。それはきっととても難しい問題だよ。私にとっても、ムツキにとっても……アルにとっても難しいこと」
「え……?」
難しいことだと言うカヨコの言葉がよく理解できないハルカは、疑問符を浮かべて見つめ返す。
「私はね、ハルカがいてくれないとろくに戦えもしないのが悔しいよ。私は全然動けないし、ムツキみたいに爆弾を上手く扱うようなこともできない。それだけじゃない。アルみたいに気さくな笑顔で人と接することも苦手だし、先生みたいに毎日毎日キヴォトスを飛び回って問題を解決したりもできない。そういうことが悔しい」
「……そんな……カヨコ課長はいつも私を助けてくれて……」
「ハルカにとってはそうかもね」
でもね、と首を振ってカヨコは続けた。
「私は私に足りないところを持ってる人が羨ましいんだ。同時に持ってない自分が悔しい。だから、少しでもそういう人たちに近づけるようにいつも自分なりに努力してる。まあ、それが実を結んでるかは分からないけどね。でも、それが成長することなんだって思ってるの」
少し困ったように笑ってカヨコは言った。
「……つまり……上手く言えないけど、そうやってハルカ自身が悩んでることが私は嬉しい。ハルカが自分を持って、殻を破ろうとしてることが。多分、社長も同じことを言うと思う」
悩んでいることが嬉しいなんて、ハルカには思いもよらない言葉だった。呆けているハルカににっこりと微笑みかけながらムツキは口を開いた。
「動機は何だっていいんだよ、ハルカちゃん。少しでも変わろうと考えてくれてることが、私たちへの恩返しになってる。ていうか、そもそも恩なんて感じてほしくないけどね……とっくにハルカちゃんは便利屋68の家族なんだよ?」
「……そんな……そんな幸せでいいんでしょうか。私は……悩んでいるだけで、何もできていないのに」
「いーの! 行動なんて後からいくらでもできるんだから。ハルカちゃんが納得できるまで悩み抜いてくれた方が、私は好きだよ」
気づけばハルカは泣いていた。二人の言葉がじんと心に染み渡ってくる。
なんて幸せなんだろう、とハルカは思った。あの日便利屋68に迎え入れられてから今日まで、幾度となく思ったことだ。
もう十分愛されている。これからは、自分がここにいていいと胸を張れるようになりたい。自分は便利屋68に見合う人間であると証明したい。
「……ありがとうございます。今日中に必ず答えを出します」
「今日中って、そんなに焦らなくても」
「いえ、今日中に出します。私がそうしたいんです」
ハルカはそう言って立ち上がり、置きっぱなしにしていた植木鉢を抱えて外へ飛び出していってしまった。
「……行っちゃった……まだ雨降ってるのに」
「でも、このままにしておこう。きっと何か見つけてくる」
「くふふ、そうだね。頑張ってね、ハルカちゃん」
「頑張って。ハルカ」
取り残された二人はお互いに顔を見合わせた後、開け放たれたドアへ向かって親指を立てて小さく笑った。
「……ここがあなたのいたところで、私が始まったところです」
ハルカは路地裏の真ん中で止まった。雨足は少し勢いを潜め、ハルカの体をしっとりと濡らす程度になっていた。
ここに来たのはリガトーニ・ファミリーを潰したとき以来だ。思えばあのときもこのドレスを着ていたと、ハルカはなんとなく思った。
アルを助けたい一心で動いた。それはとても気持ち良いものだった。形として戦闘することになったが、ハルカにとっては勝ったことが嬉しかったのではない。アルの助けになれたこと、アルを守れたことが嬉しかったのだ。
「結局、何が正解なのか分かりません」
植木鉢を地面に置いて、ハルカはそう語りかけた。
「きっと何をしても失敗するし、迷惑をかけてしまうと思います。私は要領が良くないですから」
『……』
「雑草ちゃんって呼ばれたとき、嬉しかったんです。どれだけ踏まれても、雨に打たれても、風に吹かれても、また草を広げて生きる。そんな逞しさが、私にもあるような気がして」
『……』
「だから、とりあえず私なりのやり方でやってみることにしました。その結果が仮に失敗だったときは……」
ゆらりと花が揺れる。
「いっぱい反省して、またやってみます。私は『雑草ちゃん』ですから」
もうこれ以上、止まっていたくないから。
「そうして初めて……私はあそこにいてもいいと……私が咲いたと思える気がするんです」
雨は止んでいた。きっと、ここに来るのも最後になる。ハルカはそう直感的に理解していた。
「あなたには先に咲かれてしまいました。一歩リード、ですね。私も追いつけるように頑張ります」
その時だった。
雲の切れ目から日光がちょうどハルカと植木鉢を照らすようにさした。花弁についた水滴がきらりと反射する一瞬、ハルカはその声を聞いた。
『―――――』
「えっ……?」
ポトリ。
数秒もしないうちに雲が動き、ハルカを照らしていた光は消える。
そのタイミングを見計らったかのように、二輪咲いていた花のうちの片方が、根元から折れて植木鉢の中に落ちた。
ハルカはすぐにそれを拾い上げ、今しがた起こったことが現実であることを確認する。
「……もしかして……私に?」
『……』
花は何も喋らない。ただ、凛とそこに咲いているだけだった。それでも、ハルカには花がそうメッセージを送ったように思えた。
「……ありがとうございます。大事にします」
五月も終わり、六月に入った今日このごろ。アルはシャーレにて当番をしていた。と言っても仕事は事務仕事が中心で、書類作業は元々得意なアルにとってさして大変な業務量ではなかった。
このキヴォトスにしては非常に珍しいことに何の騒ぎもなく、至って平和な時間に先生とアルは一息ついていた。
「いやぁ……なんか今日は信じられないくらい何も起きなくて、少し怖いな」
「そ、そうね。いつもなら爆発騒ぎの一つや二つあると思うけれど」
「まあ仕事がないのはいいことだね。アル、今日は当番に来てくれてありがとう。おかげで助かったよ」
「あら先生、あなたは我が便利屋68の経営顧問なのよ。社長としてビジネスパートナーを助けるのは当然よ」
「ビジネスライクな付き合いかぁ。私とアルは」
「いや! あの、そういう意味合いではなくって! なんていうかその――」
紅潮して捲し立てるアルにカラカラと笑いながら、先生は持っていたマグカップをアルへ差し出した。
「ごめんごめん。少しからかっただけだよ。アルは優しいね」
「も、もう先生!」
膨れながらもアルはマグカップを受け取った。ココアの甘い香りが鼻をくすぐる。アルは一口だけココアを飲んでから、仕切り直しとでもいうようにソファに座った。
「アル、もしかして最近良いことあった?」
「え? いきなりどうして?」
「ここのところずっとウキウキしてるなって」
「そ、そんなに分かりやすかったかしら……」
少し恥ずかしそうに笑うアルは、うーんと唸った後に考えに整理がついたらしく、先生に機嫌がいい理由を話し始めた。
「最近ね、ハルカがとても活発になったと思うのよ」
「ハルカが?」
「ええ。なんていうか、自分の気持ちをはっきり言うようになったの」
アルの話を聞きながら、先生は考えるように顎に手を添える。先生の中でハルカのイメージは、自己肯定感が低く、良くも悪くもアルを含む便利屋68が中心、というものだった。あまり自分から動くようなタイプには見えない。わがままだってほとんど言わない子だ。
「この前仕事中にヒナとカチ合っちゃったことがあって、いつもならカヨコがすぐに逃走の手筈を考えるんだけど、その時はハルカが先導して逃走経路を確保してくれたの。なんでも『ここはよく知っている通りだから、任せてほしいです』って」
「へぇ。ヒナ相手に逃げ切れたの?」
「もちろん。ハルカが最後まで殿を務めてくれたおかげよ。他にも危ない依頼は断るように進言してくることもあったわ。前はそんなこと言わなかったのよ」
ハルカの様子を語るアルはさながら我が子の成長を嬉しがる親のようで、見ていて微笑ましい。
「それに最近一人でバイトもするようになって。う、うちの経営が危うくてさせてるわけじゃないのよ!? 自分から工事現場のバイトとかに行ってるの。つい最近はミレニアムにまで行っていたわ」
先生に聞かれてもいない弁明をするアル。先生はくすくすと笑いつつ、内心納得する。
要はアルは、ハルカが主体的に行動するようになったことを喜んでいるのだ。
「アルは大人だね」
「ふふ。そんなの当然じゃない。私は一流のアウトローよ?」
「ああいや、そっちじゃなくて。人の成長を喜べる君の価値観が大人だと思ったんだ」
「そ、そう……」
そっちじゃないと言われたのが残念だったのか、アルは肩を落として落ち込む。実に素直な性格である。これはアウトローになるのはまた大変そうだと、先生は心の中で独り言ちた。
「って、あら?」
「どうしたの?」
「モモトークの通知が……ハルカ?」
スマホをタップして通知を開いたアルは、驚いたように目を丸くして先生にその画面を向けた。そこには便利屋68の共有チャットにハルカからのメッセージが表示されている。
「ハルカが今度の日曜日の夜は空けておいてくれないかって。先生の名前もある。これは……」
「うーん……何かしたいことがあるのかな? それかサプライズとか」
「サプライズですって!?」
アルは先生の発言に目を輝かせて飛び跳ねた。
「先生! そんなのって……さいっこうに素敵よ! しかもハルカが!」
「うん。日曜日に予定はあるの?」
「無いわ。あっても全部キャンセルよ!」
「そりゃあいい。楽しみだね」
シャーレは二人の賑やかな声に満たされる。先生の言うサプライズとやらへの期待を胸に、アルは週末を迎えるのだった。
「アルちゃーん。まだー?」
「も、もう少し待って……! よ、よし」
日曜日の夜、アルはハルカの言う通り予定を何も入れずに迎えた。前日から楽しみであまり眠れなかったのは秘密である。
ハルカが伝えてきたのはドレスを着て、この事務所で待っていてほしいということだけだった。
着替えも済ませたアルはムツキ、カヨコ、先生と一緒に事務所の居間で適当に時間を潰して待つ。みんな普段と違う服装で、どこか妖しい雰囲気を醸し出していた。
「先生って、そんなピッチリしたスーツも持ってたんだね」
「そりゃあ大人だもの。仕事で使うかもしれないからね。まあ基本はシャーレの制服でいいんだけど、ドレスコードを求められるような場面では相応の服装で臨むよ」
「くふふ。でもなんだか、ちょっぴりドキドキしちゃうかも?」
いつもの白い制服姿ではなく、黒い背広を身に纏った先生に、カヨコもムツキも珍しいものを見たとでも言うように見入っていた。かくいうアルも普段と違う先生の姿に内心ドキッとした。
「さて、そろそろハルカの言っていた時間だけど……」
先生はちらりと腕時計を確認する。針は午後五時を回ったところだ。しかし、ハルカの姿は一向に見えない。
もしや何かトラブルでもあったのだろうかと、ハルカに連絡を取ろうとシッテムの箱に手を伸ばしかけたところで、玄関口からドアを開ける音が聞こえてきた。
しばらくして居間のドアが開き、少し肩で息をしているドレス姿のハルカが現れる。
「皆さん、お待たせいたしました」
「ハルカ! よかった……何も無かったんだね」
「すいません。少し車の手配に手間取りまして……」
頭を下げるハルカに一同は気にするなと笑顔を返す。それを見てハルカの表情も明るくなり、ついてきてくれと言うように再び玄関口へ駆けていった。
アルを先頭にそれに続き、やがて全員が車に乗り込んだのを確認してからハルカは運転手に小声で指示を出し、シートベルトを締める。
揺られること十数分、目的地に着いたのか、車はゆっくりと停車した。アルは目に映る光景に気を取られてぽかんとした表情を浮かべている。
「ここは……あの時のレストラン?」
「社長、口開いてる」
「は、はい。今日は予約を取ってあるので、ここで夕食にしようと思って」
「まさかハルカちゃんが予約したの? 結構いい値段したでしょ?」
「はい。でも、今日のためにバイトしたので……お金は心配なさらないでください」
そう言ってハルカはポーチを小さく持ち上げる。なるほど、最近のハルカの働き具合はこの時のためだったらしい。
入口を通ってみれば、まるで別世界に入り込んだように景色が変わる。絢爛としたシャンデリアに黄金の装飾が施された柔らかい絨毯。アルは前にも来たことがあるとはいえ、普段の生活からはかけ離れた雰囲気に少し面食らってしまう。
そんなことを思っていると、人型ロボットがこちらへやってきて、恭しく一礼してきた。
「便利屋68の皆様でございますね。本日はご予約いただきまことにありがとうございます。既にディナーの用意が整っております。こちらへどうぞ」
「み、皆さん。行きましょうか」
「わーい!」
アルの思考をよそに場面はどんどん進んでいく。しかし、こうなれば難しいことを考えているのは野暮だろう。折角ハルカが用意してくれた場なのだ。めいっぱい楽しまなくては損というものである。
「ふふ。みんな、はしゃぎたいのも分かるけれど、私たちは裏社会のアウトローなのよ? もっと落ち着いて余裕のある感じを――」
「そんなこと言って、さっきまで気後れして絨毯踏むの怖がってたくせにぃ〜」
「な、なななな何を言ってるのよ! 私は最初から怖がってなんてないわよ!」
「あ、社長の足元に超高級壺が」
「きゃあ!……って、何も無いじゃないの!」
寄って集ってアルをからかう二人に、先生も思わず苦笑いがこぼれる。アルの反応が面白いのが悪いと、いつかムツキが言っていただろうか。
「皆様のお席はこちらになります」
案内された場所は、レストランの中央にあるひときわ大きなテーブルだった。席に着くとすぐにアミューズが運ばれる。スプーンで口に入れてみると、ニンジンのほのかな甘さが舌を撫でる。おそらくこの皿一つだけで既に便利屋68の一日の食費よりも高価なんだろうなと、アルは少し引きつった表情を浮かべつつも飲み込んだ。
「あの……き、今日は私のわがままを聞いてくださりありがとうございます」
「わがままなんて……むしろこんな所に連れてきてもらってこっちが感謝してるくらいよ」
「えへへ……そ、そんな……私がアル様に感謝されるなんて、とんでもないです」
そうは言いつつもハルカはテレテレとにやけている。まだぎこちない雰囲気はあるが、確かにハルカの中で自己肯定感が上がっていると先生は感じた。何があったのかは知らないが、いい変化であることは間違いない。
「今日は話したいことがあって……あの……」
ハルカはそこで言葉を切り、もじもじと指を絡める。しばらくして踏ん切りがついたのか、ぐっと前を向いて口を開いた。
「私を今まで助けてくれて……導いてくれてありがとうございます。今の私があるのは皆さんのおかげです」
「……」
ハルカ以外は何も喋らない。ムツキとカヨコは気になっていたのだ。ハルカがあの雨の日、何を見つけてきたのか。そしてアルは感じ取っていた。ハルカが確かに今、殻を破ろうとしていることを。
「でも、それじゃいつまで経っても守られてるだけで……もっと、私から皆さんに何か返したい。きっと、私が生きる意味はそこにあるんです」
そう言ってハルカは自身の手首を優しく撫でた。緑色のブレスレットが小さく揺れる。
「少しずつですけど、そう成れるように頑張ってみようと思いました。今日この場所を選んだのは、日付がぴったりだったのと、きっかけをくれた場所だったので。最初の一歩は、ここがいいと思ったんです」
今日は六月八日。誰の誕生日でも記念日でもないのに、なぜハルカが今日を選んだのかが分かった。便利屋68。ハルカにとって、68という数字には特別な思いがあったのだろう。
聞きながらアルは涙を堪えるのに必死だった。目の前にいるのはもう以前の弱気なハルカじゃない。まっすぐ芯の通った、力強い少女だ。ハルカがこう思えるようになるまでに、どれだけの葛藤があっただろう。それを乗り越えることができたハルカが、誇らしくて愛しくてたまらなかった。
「でも失敗することの方が多い私はこれからもたくさん……たくさんたくさん、皆さんに迷惑をかけてしまうと思います。こんな私ですが、これからも、どうかよろしくお願いします!!!」
ハルカはテーブルにおでこをぶつけそうな勢いで頭を下げた。反応が返ってくるまで頭を上げづらい空気だ。誰か何か言ってくれないかと心の中で思っていた矢先、ムツキが声を上げる。
「そっか。それが、ハルカちゃんの見つけた答えなんだね」
「は、はい。分不相応なことだとは承知していますが……」
「ううん。全然そんなことない。私は今すっごく嬉しいよ。みんなもそうでしょ?」
そう言って笑うムツキに、カヨコも先生も大きく頷いた。アルは目尻を拭ってハルカに問いかける。
「ハルカ。そのブレスレットは、もしかしてあの花?」
「はい。先日ミレニアムに行って腐食しないように加工していただいたんです。それで、折角ならお守りにしようと思って。雑草ですけど……へへ」
「いいえ。とっても素敵よ」
ハルカの手首を飾るブレスレットは小さな白い花が存在感を主張している。それはまるでハルカ自身を気高く飾る宝石のようだ。
「ハルカ。ありがとう。こんなに幸せなことは初めてよ」
「アル様……」
ハルカは自分の気持ちを話した。今度は自分の番だ。
「ハルカ。私はいつもいつも失敗ばっかりよ。依頼でヘマして、社長として情けなく思うことなんてごまんとある。でも、そういう時にハルカが、ムツキが、カヨコが……みんなが助けてくれる。そのおかげで私は私の夢を追えている。お互い様よ。ハルカ、あなたがいないと私たちは立ち行かないの。だから――」
そこでアルは背筋を伸ばし、ハルカ同様おでこをテーブルにぶつける勢いで頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
「「お願いします!」」
アルに合わせて、ムツキとカヨコも同時に言った。ハルカは感激のあまり言葉も出せないでいる。先生はこの光景に満面の笑みを浮かべながら遅れて頭を下げた。一応経営顧問ということだし、仲間に入れてもらっても構わないだろう。
「あの……私……が、頑張ります!」
「ええ。私も頑張るわ!」
この場を表す言葉があるとすれば、それは「絆」の一字だろう。先生は目の前の少女たちの成長に思わず涙が出てきそうになった。こうした場面に巡り合えるとは教師冥利に尽きるというものだ。
「ふふ。ほらみんな。早く食べないと、いつまでたってもメインにいけないよ」
「それもそうだね。くふふ、先生はカトラリーの順番分かる?」
「大人をなめてもらっちゃあ困るよ」
からかうムツキを軽くいなしつつも、先生は内心で冷や汗をかく。こんなところで食事なんてめったにしたことが無い。昔の記憶をたどりつつ、うろ覚えでフォークをつかんで前菜を口に運ぶ。
アルはその動作に「流石先生ね」と感嘆するが、ムツキとカヨコには多分ばれていたように先生は感じた。
「もう、ムツキ。私たちだって人のこと言えないでしょ」
「アハハ! ごめんごめん」
先ほどの様子から一転、にぎやかになるテーブル。
(あぁ……私は……幸せですね)
当たり前の事実を改めて実感する。
自分は恵まれているのだ。こんなにも素晴らしい仲間に巡り合えたのだから。それに見合う人間に成らなければいけない。
静かに決意したあの時、まるで見計らったかのように自分の目の前で落ちた花は、きっとそう言っていた。
「アル様! このお料理、とってもおいしいで――」
「お客様! 困ります!」
ハルカが料理の感想を口にしようとした時、レストランの入り口の方から何やら騒ぎ声が響いた。レストラン中の視線がそこへ集中する。
「いいじゃないか。私は貸し切りがいいんだ」
「しかし、他のお客様もいらっしゃいますので……」
「私がそんなことを気にするとでも?」
揉めているのは猫の獣人だった。後ろに大勢の部下らしき者を連れていかにも”そっち”側という感じで立っている。
「君たちが適当に帰らせればいいじゃないか。私を誰だと思っているんだ? カペッリーニ・ファミリーのクロード・カペッリーニだぞ?」
「し、しかし……」
震えながらも譲らない様子に、少し面倒くさそうにため息をついて、クロード・カペッリーニは勝手にレストランの中へ入ってきた。
「仕方ないな。ならここで一番良い席を譲ってもらうだけでいい。どうだ? 私は実に寛大だろう?」
こつこつとハルカたちのいるテーブルまで歩いてきたかと思えば、しっしと手を振って高慢に文句を並べ始める。
「ほら。早くどきたまえ。私が誰か、君たちも聞いていただろう?」
「ちょっといいですか。ここは私たちが先に予約して――」
「――先生。ここは私たちに任せてください」
あまりの傍若無人ぶりに黙っていられなくなった先生が立ち上がろうとするのを静止して、ハルカはゆっくりと立ち上がった。
「ふむ。なんだね君は」
「初めまして。私は伊草ハルカといいます」
「名前はどうでもいい。それで、早くどいてくれないと私が食事できないんだが」
突然名乗り始めたハルカにイライラしているのか、ひげを忙しなく触りながらクロード・カペッリーニは言う。だがハルカはちっとも気にしない様子で言い返した。
「カペッリーニさん。ここは私のテーブルです。あなたに譲ることはできません」
「っ! お前、誰にものを言っているのか分かっているのか? 大体なんだ、その取ってつけたような安物のドレスは。ここはお前たちみたいな低能な奴らが来る場所じゃないんだよ! 腕に雑草まで巻きつけやがって」
「……」
「ガキは家に帰ってシャバシャバのカレーでも食ってろ。おい、お前ら!」
『はっ!』
クロード・カペッリーニは腕を振って部下に合図を送る。それと同時に、三十近い銃口が一斉にハルカに向けられた。
「最後の警告だ。さっさと俺の目の前から消えろ」
「……」
ドスのきいた声で脅すが、ハルカは無感情にその目を見つめ返すばかりだ。
「雑草ですか。確かに、この子はそう呼ばれていますよ」
「あぁ!?」
「でも、それは私にとって最高の誉め言葉です。そして今、お前はアル様を『低能』呼ばわりしたな?」
「何を意味の分からないことを言ってやがる」
クロード・カペッリーニはもはや困惑の方が強くなっていた。ここまで脅しているのに全くひるまない。それどころか雑草と呼ばれて嬉しがっている。狂人の類かと思ったその瞬間、ハルカの恐ろしく速い右ストレートが顔面を打ち据えた。
「ぐぶっ!!!」
鼻血が勢いよく飛び出し、そのまま壁に打ち付けられて動かなくなるボスに、取り巻きの中から悲鳴が上がる。彼らはまだ知らなかった。この世には決して手を出してはいけないものがあるということを。
「アル様」
「いいわ。あなたに任せる。好きにやりなさい」
「仰せのままに」
次の瞬間、ハルカはもうそこにはいない。目にもとまらぬ速さで床を蹴り、手前にいた取り巻き二人に強烈な膝蹴りと肘打ちをお見舞いした。流れるように空中に身を翻し、敵陣の最奥まで跳んだかと思えば、持ち前の戦闘センスで近くにいる敵を殴り、蹴り、蹂躙していく。
状況が飲み込めない敵はハルカの前に一撃で伸されてボスの横へ放り投げられていく一方である。その様子はまるで鼻をかんだティッシュを、無造作にゴミ箱に投げ捨てているようだ。
「ちっ! バケモンがっ!」
「させないよ」
「おバカさんだね」
「がっ!?」
なんとか反撃しようとするも、相手にしているのはハルカ一人ではない。カヨコとムツキの正確な狙撃によって発砲する前に制圧されてしまう。
まさに赤子の手をひねるとはこのことかと言わんばかりの光景に、アルも先生もかえって相手側が気の毒に思えてくるほどである。
「ひっ……ひぃいぃ!!!」
「逃がさないわよ」
最後の一人はこの惨状に背を向けて逃げ出そうとしたが、アルのスナイパーライフルから炸裂した弾丸が後頭部を捉え、あっけなく床に倒れ伏した。
一連の制圧劇に、レストラン中から拍手と歓声が上がる。
「……私の指揮は必要なかったね」
「この程度、先生の手を煩わせるまでもありません」
掃除し終えたハルカは服の埃をはらい、動かなくなった敵をレストランの入り口から外へ放り投げる。すでに誰かが通報していたのか、そこにはヴァルキューレが到着していた。
「あ、ありがとうございます! 助かりました!」
「いえ……お気になさらず。へ、へへ」
とんだハプニングが起こりつつも、なんとか無事に事態を収拾することができて、ハルカはほっと一息ついた。レストランに損害が出ては折角敵を殲滅しても意味がない。だからこそハルカはショットガンを使わなかったし、なるべく他の客を巻き込まないように立ち回っていた。
(そうです。こういう風に、なるべく迷惑を生まないように動ければ)
少しずつだが、実践できている。その実感がつかめたことがハルカは嬉しかった。
「ハルカ。よくやったわ」
「はい。ゴミはゴミ箱にぶち込みました」
アルはハルカの頭をなでる。いつもならどこかしらで爆発して敵味方もろともぶっ飛ばされるのに、今回はなんと鮮やかな手際だったか。
それを演出したのは紛れもないハルカ自身だった。アルは普段の三割増しでハルカの頭を撫でまわす。そこへ、オーナーらしきロボットが小走りで向かってきた。
「先ほどはまことにありがとうございます。便利屋68の皆様にはこれで二回も助けていただきました。これはほんのお返しにしかなりませんが、今後便利屋68の皆様にはVIP待遇をお約束いたします。そして今夜のディナーは、お客様全員お代は頂きません。この後、シェフから口直しのデザートを振舞わせていただきます」
「えぇ!? び、VIP待遇!? そ、そそそんなのいいの!? 夢じゃない!?」
「わー! やったねアルちゃん!」
突然の内容に白目をむいて驚愕するアル。ムツキは面白そうに口元を手で覆って笑う。ここでかっこよく決められないのがアルだが、それがいいのだ。
「これもアル様の力が為せることです!」
「いや……どっちかっていうとハルカだと思うけど」
その後は再び食事に戻り、豪勢な料理に舌鼓をうった。シェフ渾身のデザートはまさしく絶品と評価できるほどだった。
きっとこの先何があっても、私は私で、便利屋68であり続ける。決して離れ離れにはならない。
ハルカは心の中でそう呟いた。理由は分からない。でも、これだけは確信を持って言えることだ。
「そう。私は雑草。雑草で、便利屋68の平社員の――」
これは、とある少女が花開く前の蕾の物語。その花の名前は――
「――伊草ハルカ、です」
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