「そして、そんな起きたばかりのユメさんにこれまでの経緯を説明したところ、今すぐここへ駆けつけたいと強く仰られましてね……。
ご本人のあまりの執念と、私の制止を一切聞き入れない強い勢いにすっかり負けてしまいまして。私官が同行して常に経過を観察するという厳重な条件付きで、急遽転院の手続きと外出の許可を出した次第です」
主治医が最後にそう付け加えると、アビドス高等学校の旧生徒会室には、再び重みと静寂の混ざり合った穏やかな沈黙が舞い戻った
古い窓の隙間からは、アビドス特有の乾燥した砂漠の風が、乾いた砂粒をカサカサと音を立てて巻き上げながら、優しく吹き抜けていく
「……そっか。白子が、また……ユメ先輩を助けてくれたんだね……」
ホシノは震える指先で制服の胸ポケットの奥を探り、大切に大切にしまい込んでいた小さなお守りをそっと取り出した
中に納められていたあのエメラルドグリーンのプラズマ鉱石は、あの瞬間に美しく光を散らして粒子となり、今はもうただの空っぽな手縫いの布袋に戻っている
けれど、そんな物理的な形状のことなんて、ホシノにとってはどうだってよかった
中身の石がなくなったからといって、白子が命懸けで繋いでくれた命や、ユメ先輩が溢れんばかりに込めてくれた温かい想いまで消えてしまうわけなど、口が裂けてもないのだから
ホシノは愛おしそうにその小さく温かなお守りを両手で優しく包み込み、ギュッと自分の胸元へと強く強く抱き寄せた
「ん。流石は私の妹」
そのホシノのすぐ隣で、シロコは何故かすまし顔で腕を組み、ドヤ顔で小さく胸を張っていた
「い、妹……?」
ユメは車椅子の背もたれにゆったりと体を預けたまま、頭の上に大きな疑問符を浮かべ、目の前に立つシロコをじっと不思議そうに見つめた
「あー……そういえばシロコちゃん、さっきから当たり前のようにそんな事言ってるけど……一体どういう意味なの?」
少し遅れて状況の妙に気づいたホシノが、思い出して首をかしげながら尋ねる
するとシロコは、やれやれと言わんばかりに小さく息をつき、人差し指を立てた
「白子は私より歳下。それに、仮にホシノ先輩と私より先にあの場所で暮らしていた時期があったとしても、生命として生まれた年齢で言えば私の方が歳上なんだから、どう考えたって私が姉。白子は妹」
「な、なるほど……? いやでも、それだと色々と話の前提がややこしくなりそうな気も……」
「それ、もしクロコ先輩が聞いたら『それなら私の方が更にお姉ちゃんだね』とか真顔で言いそうですね……」
アヤネが冷や汗を流しながら「はぁ……」と頭を押さえると、ホシノも「あはは……あの子なら絶対ドヤ顔で言い出しそうだね」と遠い目をしながら苦笑いを浮かべた
複雑で途方もない因果律が絡み合うアビドス生たちの現在の関係性に、ユメはただ「うわぁ……すごい時代になったものだなぁ」と目を丸くして感心するばかりだった
「そういえば、ユメ先輩……? なんで車椅子に乗ってるんですか?」
「たしかに。どこかお身体の具合でも悪いんですか?」
セリカが腕を組み、ユメの膝元をじっと覗き込みながら不思議そうに切り出した
皆の温かな視線が、自然とユメの膝の上へと集まる
「それはねー……えへへ、2年間もずーっと長~く眠っていたから体力が落っこちちゃってさぁ。足を動かすとすぐに疲れちゃうからなんだよー」
ユメは照れくさそうに頭の後ろを掻きながら、子供っぽくへへっと無邪気に笑ってみせた
「医学的な見地から言わせていただければ、普通の人間が2年間もの長きにわたって昏睡状態にあれば、全身の筋肉組織は著しく萎縮し、自力で立つどころか起き上がることすら不可能なはずなのですがね……
流石はキヴォトスの神秘を纏った生徒さん、としか言い様がありません。まさに奇跡の回復力です」
主治医が心底感嘆したように深い息を漏らす
「まあ、それもあると思うけどさ。ユメ先輩って昔から妙なところで無駄に頑丈だったからね。体はあんなに……なんというか、こう、柔らかいくせにさ」
「ほ、ホシノちゃん!? それ、どういう意味かな!?」
ホシノの何気ない、しかし絶妙に核心を突いたイジりに、ユメは車椅子の上で「もう、そんな失礼なこと言わないの!」とぷんすかと両肩を怒らせ、まるで小さな子供のようにぷくーっと頬を膨らませて突っかかっていった
その懐かしく愛おしい二人のやり取りに、旧生徒会室を包む空気はどこまでも柔らかく、温かくほどけていくのだった
「あ、そういえば……ちょっと気になったんですけど、ユメ先輩って今、学校の籍というか……どういう扱いになるんですか?」
旧生徒会室を包む和やかな空気の中、不意にホシノがポンと自分の手のひらを叩きながら、急に真面目な顔をして首をかしげた
「扱いって……どういうこと?」
「先輩って、卒業間近の時期に入院して、それから丸2年が経っちゃったわけじゃないですか。……となると、今更アビドスに復学するとして、もう一回3年生からやり直しってことになるんですかね?」
「あっ……」
その核心を突く質問を投げかけられた瞬間、ユメの朗らかな顔が「ピキッ」と見事にフリーズし、表情が凍りついた
たしかに、自分はもうすぐ感動の卒業式を迎えるという絶好のタイミングで、あの不運な事故と長い入院生活に見舞われたのだ
しかし、実際のところこの2年間、自分は病院のベッドの上で命の灯火を揺らしながら眠り続けていたわけで、現在の自分が一体どのような在籍状態として処理されているのかなど、考えたこともなかったのだ
「んー……そうだね。たしかにユメの状況は前例のないくらい特殊だし、せっかく奇跡的に戻ってきたんだから、今年いっぱいゆったりアビドスで学生生活を楽しんでから卒業でもいいんじゃないかい?」
「それって……! つまり、面倒な手続きも授業も一切気にせず、いっぱい遊んで暮らしていいってことだよね!? 卒業はもう内定してるし、やったーーーっ!」
先生が顎に手を当てながら気楽にそう助け船を出すと、ユメの瞳が一瞬でキラキラと美しい宝石のように輝き出した
確実な卒業が保証された上で、過去の過酷な借金問題や面倒事からは解放され、大好きなアビドスで思いっきり遊べるのだという喜びが全身からヒシヒシと溢れ出してきて、先生は思わず困ったような苦笑いを浮かべるしかなかった
しかし、その甘くバラ色の期待は、愛しい後輩の容赦のない一言によって、一瞬にして砕け散ることになる
「ダメです。先輩、復学するならちゃんとテストとかは受けてもらいますからね?」
「ええっ!? テストーーー!? そんなの聞いてないよー!」
ホシノがニッコリとした満面の、けれど一切の妥協を許さない笑顔でそう言い放った瞬間、ユメの顔に浮かんでいた晴れやかな表情は音を立てて盛大に弾け飛び、真っ青になってその場で崩れ落ちた。
「えっと……あの、ホシノ先輩? 私、アビドスに入学してからずっと気になってたんですけど……このアビドス高校って、そもそもテストとか授業のシステムって存在してましたっけ……?」
アヤネが冷や汗をダラダラと流しながら、アビドスでの生活の中で初めてこの学校に『テスト』という概念が存在することを知ったという、心底からの驚愕の表情を浮かべる
セリカ、シロコ、そしてノノミの三人にとっても完全に初耳だったらしく、全員が揃って目を丸くしたまま固まっていた
「んー……まぁ、一応『学校』と名乗ってはいるけど、普段は授業なんてまともにないし、テスト勉強に追われるような生活もしなくてよかったからねぇー」
「うう……だったらなんで今更私だけテストなんて受けなきゃいけないの……! 借金返済とか復興準備とかで毎日大変なんだしいいじゃん……!」
「……これ以上、世間の悪知恵に簡単に引っかかって変な契約書にサインしたりしないため、じゃないかしら?」
「うん、ヒナちゃんの言う通り。正解!」
パイプ椅子に深々と腰をもたれかかせていたヒナが、項垂れるユメを一瞥しながらボソッと的確すぎる指摘を飛ばすと、ホシノはここぞとばかりに嬉しそうに胸を張った
「先輩はすぐに怪しい上手い話に飛びついちゃうんですから! これからはもう二度とそういう詐欺や変な業者に騙されないように、社会の仕組みとお勉強をみっちりやり直してもらいます!」
「えええーーっ!? お勉強なんて絶対嫌だよー! 私、せっかく戻ってきたんだから後輩ちゃんたちと思いっきりアビドスで遊びたいの!」
「ふ、ふふふ……ユメ先輩。長い眠りから覚めたばかりですけれど、現実とは厳しいものよ。しっかり腹を括って頑張りなさいな」
絶望のあまり机に突っ伏して幼子のように駄々を捏ねるユメを、セリカは必死に笑いを堪えながら上から見下ろしていた
しかし、そんな高みの見物を決め込むセリカに対して、アヤネが冷ややかな視線を向けながら静かに不穏な爆弾を投下する
「……ですがセリカちゃん、その理論でいくと、セリカちゃんも怪しい行動や素行を考慮してテストの対象になりますよ?」
「は、はあーーっ!? なんでよ! 私全然関係ないでしょ! ちゃんとお仕事もアルバイトも頑張ってるわよ!」
「この前だって、ネットの怪しい通販で『買えば必ず金運が爆上がりする謎の黄金のツボ』を買おうとしていたじゃないですか。私がギリギリで注文をキャンセルしたから良かったものの……」
「あ、あれは……残りわずかとか限定出荷って書いてあったから勢いで……! それに、すぐにお金が貯まってアビドスの借金が返せるって書いてあったし……!」
「ん。あと、この前なんか変な雑居ビルで行われてた投資の怪しい講義に参加してなかった? 私でも一目で分かるような、典型的な古典的マルチ商法だったけど」
「あれマルチ商法だったの!? っていうか、なんでそれをシロコ先輩が知ってるのよ! もしかしてシロコ先輩もあの怪しい会場にいたの!?」
「私はただ、近くにある銀行の構造と警備体制を下見しに行いただけ」
「それも目的が危険すぎて全然違うし、どっちにしろダメでしょーーっ!!」
セリカの必死の抗議に対し、シロコは「当然の準備をしたまで」とばかりにグッと力強く親指を立ててみせる
「んー……それじゃあ、折角の復学の機会だし、私の方からもみんなの現状を測るための『特別なテスト』を作ってみようかな」
「「えっ」」
先生が楽しそうにポツリと呟いた瞬間、旧生徒会室の空気がピタリと凍りつき、全員が石像のように固まった
「わ、私もですか先生!? 私は毎日ちゃんとオペレーションも生徒会の事務処理もこなしています!」
「おじさんまで巻き込まれるの!? 私、詐欺とかに騙されたりしないけど!?」
アヤネとホシノが、まるで大切なドッグフードを奪われそうになった野良犬のような凄まじい勢いで、前のめりになって先生の机に詰め寄る
「うん。ホシノは、一人で全部を抱え込んで勝手に突っ走ったり無茶をしたりすると周りのみんながどれだけ心配するかを、テストの答案用紙に原稿用紙数枚分みっちり書いて反省を学んでもらわないとね……
アヤネは普段から本当にしっかりしてるから大丈夫だとは思うけど、一人だけ受けないのも仲間外れみたいで寂しいだろうから、基礎的な問題をいくつか解いてもらうよ」
「うぐぅ……そ、それを言われたら、おじさんもう何も言い返せないよ……!」
「なるほど……確かに、私だけ除け者みたいに扱われるのは不本意ですし、対策委員会としての連帯責任なら仕方がありませんね……」
先生の容赦ない論理的思考に完璧に撃墜され、ホシノは渋々と、しかしどこか諦めたように項垂れた
その一連のやり取りを、ヒナは少し難しい顔をしながらじっと見つめていた
「……ねぇ。もしかして、ゲヘナ学園でもこういうシステムを取り入れるべきかしら……いわゆる、ペーパーテスト以外の『人間性や危機管理、自己犠牲の暴走を学ぶための特別テスト』っていうのを……」
「ん。間違いなくゲヘナの生徒の間で大規模な武装反乱が起きると思う。あと、単純に人数が多すぎるから管理しきれない」
「……そうよね、私の考えが甘かったわ」
シロコのあまりにも現実的で的確すぎる一言に、ヒナは「ぐうの音も出ない」といった様子でガクッと力なく小さな肩を落とした
自由と混沌を極致とする広大なゲヘナ学園。日々の生徒たちのトラブル処理や膨大な業務の山に追われる風紀委員長としては、少しでも生徒たちの自覚と危険予測能力を促せればと思ったものの、生徒数わずか数人のアビドスとは規模も性質も違いすぎる巨大校において、そんな個別指導的なテストの導入が不可能であることは火を見るより明らかだった
窓の外では、相変わらずアビドス特有の乾いた風が吹き抜けている
けれど、かつての一人きりの孤独で冷たい風とは違う
たくさんの愛しい仲間たちと、そして奇跡のように戻ってきた大切な人が共にいるこの旧生徒会室には、これから始まる賑やかで少しだけ騒がしい、かけがえのない日常の温もりだけが満ち溢れていたのだった
それからしばらくして
ホシノは、ユメが乗る車椅子の後ろに回り、ゆっくりとその車輪を押しながら、黄金色の夕暮れに染まり始めるアビドス高等学校の屋上へと足を向けていた
「ユメ先輩、風が少し冷たくなってきましたけど寒くないですか? 体調は、どうですか?」
「うん、ありがとうホシノちゃん。ここから見渡す夕日の景色は、昔と少しも変わっていなくて……すごく、いいよねぇ」
「……なんだか、さっきから少し息が上がってるみたいですけど……本当に大丈夫ですか?」
ホシノの心配そうな問いかけに、ユメは引きつったような、けれどどこか茶目っ気のある疲れた笑みを浮かべて返事をする
ホシノはその様子に首をかしげた
「だって! 私、さっき階段の前で『自分の足で歩く練習をする!』って言ったよね!? それなのにホシノちゃん、私の意見を完全に無視して、私を車椅子に乗せたまま力任せに一気に持ち上げて階段を駆け上がったんだよ!? あんなの、乗ってるこっちはジェットコースターみたいで心臓が止まるかと思ったんだからね!?」
ユメは両頬を大きく膨らませ、生まれて初めて怒ったと言わんばかりにぷんすかと両手をパタパタと振って抗議した
それもそのはずである
屋上に行くためには、校舎内の長い長い階段を何フロア分も登らなければならない
ユメの体力を気遣ったホシノは、「車椅子ごと私が持ち上げて上がれば一番早いし先輩も疲れない」と判断し、乗っているユメごと車椅子を軽々と腕力で抱え上げて、驚異的な脚力で一気に階段を駆け上がってきたのだった
「だ、大丈夫ですよ、ユメ先輩。私、見た目によらずこれでも結構な力持ちですし、それに……ユメ先輩、すっごく軽かったですし」
「そういう問題じゃないの! 力自慢の自慢話を聞かせてほしいんじゃなくて、急に視界が浮き上がって私がすっごく怖かったって言ってるのー!」
慌てて取り繕うように必死の弁明を繰り出すホシノに対し、ユメは車椅子の上でむすっと両頬を大きく引っ張るように引っ張り、これ見よがしに怒ってみせる
そんな彼女のどこか子供っぽくて可愛らしい反応を、ホシノは目尻を下げ、愛おしそうに、そして心底楽しそうな温かい笑みを浮かべながら見つめていた
ふう、とユメは胸の撫で下ろしつつ、小さく可愛らしいため息をつく
「……そういえばさ、ホシノちゃん。さっきから気になってたんだけど……話し方、なんだか昔の感じに戻ってるよね? 私がずっと寝てた時の独り言や、病院のベッドで聞いてた話し方とは、なんだか全然雰囲気が違うような気がするんだけど」
「――ギクッ!?」
ホシノの背筋が、文字通りビクッと激しく跳ね上がった
まるで悪戯が見つかった子供のように、全身の筋肉が硬直する
「あのね、アビドスの深刻な危機を語ったり、ちょっと暗くて悲しい報告をしてる時は、いつもの私がよく知ってる『ホシノちゃん』の話し方だったんだけどさー……対策委員会のみんなと楽しく喋ってたりする時のホシノちゃんは、なんだかすごく……こう、素直で可愛い話し方になってたよねぇ?」
ユメはニコニコと、これ以上ないほど楽しそうに目を細めて小首を傾げてみせる
「私にはホシノちゃんの隠し事なんて全部お見通しだよ」と言わんばかりの、その無邪気な笑顔の破壊力
ホシノの顔はみるみるうちに熟したトマトのように真っ赤に染まり、耳の先端まで赤熱して全身が小刻みに震え始めた
「う、うるさいですね!? 私にだって、その……年上としての立場とか、色々あるんですから!」
「えー? 色々ってなーにー? おじさん口調はどこにいっちゃったのかなー?」
「う……っ、い、色々は色々なんです! もう、そんな意地悪ばかり言うなら知りません!」
真丸な瞳でじっと自分の顔を覗き込んでくるユメの視線から逃れるように、ホシノはプイッと大きな音を立てて盛大に顔をそっぽに向ける
その照れ隠しを隠そうともしないあから様な後輩の様子を見て、ユメはさらにクスクスと嬉しそうな笑い声を夕空に響かせた
この穏やかで他愛のない空気感は、間違いなく、あの止まっていた『2年前のあの時』の確かな延長線上にあるものだった
「あ、そうだ。もう一つだけ、どうしても気になってたことがあったんだぁ」
「……なんですか、まだ何かあるんですか」
ユメがパチンと小さく手を叩くと、ホシノは顔を逸らしたまま、拗ねたような声音でぼそっと返す
「さっきね、白子ちゃんが私のことを『また』助けてくれたって言ったでしょう? ……あれって、一体どういう意味なのかなって、ずっと気になってさ」
「……」
その質問を投げかけられた瞬間、先程までの冗談めかしたホシノの雰囲気が一変した
ホシノはユメの顔を一度じっと見つめ返し、それからゆっくりと視線を上げ、どこまでも鮮やかな茜色に染まり始めたアビドスの美しい夕空を仰いだ
「……あの日。ユメ先輩が砂漠で倒れているのを見つける前に……私、白子の夢を見たんです」
「夢……?」
「はい。最初はどこまでも続く真っ白な無の世界にポツンと立っていて、すぐに『あ、これは夢だ』って分かったんです。明晰夢……っていうんでしょうね、自分の意識だけがはっきりしている不思議な夢でした
そして、心の底から強く願ったんです
『これがもし夢なら、せめて私の思い通りになってよ』って……そしたら、どこからともなく白子の鳴き声が聞こえてきて……その夢の中で、ユメ先輩が冷たく倒れているあの場所まで、私を案内してくれたんです」
ホシノはガタピシと音を立てる車椅子のグリップからゆっくりと手を離し、屋上の手すりの前へとスッと歩み出た
夕暮れの濃密な茜色がアビドスの広大な空を優しく包み込み、地平線の向こうへ沈みゆく大きな太陽が、見渡す限りの砂漠の砂粒一つひとつを黄金色に輝かせている
「最初は……あの子に夢の中で導かれた時、私を拒絶するように離れていく白子の背中を見て、私は白子に心の底から恨まれているんだって、自分がだらしなかったから見放されたんだって、本気でそう思っていたんです
でも……今こうして振り返ってみると、あの時からすでに、あの子はずっと私のことを心配してくれて、私を救おうと必死に手を差し伸べてくれていたんですよね」
ホシノの声には、かつて胸を削り取っていた絶望や後悔の影はなく、長い暗い夜を潜り抜けた者だけが持つ静かで温かな慈愛が満ちていた
「ホシノちゃん……」
ユメは車椅子の肘掛けにそっと手をかけ、切なさと愛おしさが深く混ざり合った瞳で、夕陽を浴びるホシノの小さな背中を見つめる
「失ったものの大きさに押し潰されそうになる夜も、白子ともっと長い時間を一緒に過ごしたかったっていう未練も、完全に消え去ったわけじゃありません
……けど、私はユメ先輩と、そして白子と大切な約束をしたんです。これからはもう後ろばかりを振り返らず、前を向いてしっかりと歩いていくって……だから、もう大丈夫です。私は、もう一人で躓いたりなんかしませんよ」
ユメの瞳に浮かんだかすかな心配の色を綺麗に拭い去るように、ホシノはクルリと鮮やかにその場で身を翻した。そして、沈みゆく夕陽よりも眩しく、温かな満面の笑みをユメに向けたのだった
「これからも、よろしくお願いしますね。……ユメ先輩」
その言葉には、かつて己を縛り付けていた重荷や仮面をすべて降ろし、本当の意味で自らの足で未来へと踏み出した一人の少女の、気高く尊い覚悟が宿っていた
「……うんっ! もちろんだよ、ホシノちゃん!」
ユメは胸の奥から込み上げてくる涙と熱いものをこらえきれず、輝くような満面の笑みで力強くうなずいた
「さてと……。いつまでそんな特等席でこっそり見物してるのかな〜? シロコちゃんたち〜」
「?」
不意に、ホシノがピタリと視線を屋上の重い鉄扉の陰へと向け、面白そうにいたずらっぽく声を張り上げた
その言葉に驚いたように、固く閉ざされていたはずの扉の向こう側から、バタバタと慌ただしい足音と、互いに押し競饅頭をしているような賑やかな気配が廊下に響き渡る
「ちょっ……、後ろから押さないでよシロコ先輩! あ、きゃっ……!?」
「……むぎゅ……っ! せ、セリカちゃん、私の背中に体重預けないで……っ!」
「んぐ……お、重い……アヤネ、足踏んでる……!」
扉の向こうからドタバタとした見苦しい押し問答が聞こえたかと思えば、セリカの悲鳴とアヤネの情けない声が重なり合う
次の瞬間、ガチャリと音を立てて屋上の重い鉄扉が勢いよく開き、揉みくちゃにもつれ合うようにしてシロコ、セリカ、アヤネの3人がなだれ込むようにして屋上の床へと盛大に倒れ込んできた
「痛たた……。もう、だから言ったじゃない! 扉に張り付いて盗み聞きなんてするからこうなるのよ!」
「セリカちゃんが真っ先に『ホシノ先輩が何か真面目な顔して話してる!』って身を乗り出してきたんじゃないですかー!」
「ん、2人がうるさいからバレた」
砂埃をかぶってスカートを払いながら文句を言い合う3人を、先生がどこか温かい苦笑いを浮かべながら見守り、ヒナが呆れたように「はぁ……」と深い溜息をつく
そして、いつの間に屋上まで到着していたのか、誰よりも静かで自然な足取りでクロコがその騒がしい輪の後ろからひょっこりと姿を現していた
「ええっ!? み、みんな……いつの間にそこに隠れてたの!?」
真っ赤になった顔を隠すように叫ぶユメに対し、クロコは無機質な表情を一切崩さないまま、小さくコクリとうなずいて完璧なまでのサムズアップを無言で突き立ててみせた
「ん。ホシノ先輩のこんな一生に一度レベルの一大感動シーンを生で、しかも最前線の特等席で見逃すなんて選択肢は、私の辞書には存在しない」
「……私、お邪魔みたいだからそろそろゲヘナへ帰ってもいいかしら?」
腕を組んで佇んでいたヒナが、少しだけ照れくさそうに視線を逸らしながら呟く
「あれ~? ヒナちゃんなら、こういう後輩たちのベタベタした感動的な雰囲気を見るなり、何も言わずにスタスタと一人で帰っていきそうなのに……もしかして、おじさんともっと感動の余韻に浸りながらお話したかったりする~?」
ホシノがいつもの意地悪そうな笑みを浮かべて語りかけると、ヒナは紫の瞳を冷ややかに細めた
「……さっきまでの真面目で堅苦しい口調をあえて崩して、無理にいつものふざけたおじさん喋り方で必死に照れ隠しをしている情けないホシノの姿なら、もうちょっとここでじっくり観察させてもらってもいいかもしれないわね?」
「うぐっ……! ヒナちゃん、遠慮という言葉をどこかに綺麗さっぱり忘れてきたのかなぁ!?」
「残念だけど、ホシノに余計な遠慮をする方がかえって面倒な喧嘩や隠し事の元になるって、これまでの経験で嫌というほど気がついたのよ」
顔を真っ赤に染め上げて抗議するホシノと、それを凛とした余裕の笑みで軽やかにいなすヒナ
二人の軽妙で気心の知れた小競り合いを見ながら、屋上全体がどこまでもあたたかい笑い声に包まれていく
そんな平和で心から愛おしい光景を、少し離れた車椅子の上から眺めていたユメは、もうじっとしていられなくなっていた
胸の内でどこまでも膨れ上がった愛おしさと感動が限界を突破し、目頭にじわっと温かい涙が滲む
「 私もその楽しそうな輪に混ぜてーっ!」
「えっ……わぁっ!?」
ユメが突然、まだ完全にはおぼつかない足で車椅子から勢いよく立ち上がると、両手を広げて前へ突進してきた
その予期せぬ巨体の超接近突撃に対し、危機管理能力に長けたヒナはスッと見事な体捌きで横へ身をかわす
しかし、直前までヒナと口喧嘩を繰り広げていて隙だらけだったホシノは完全に反応が遅れ、猛スピードで突進してきたユメの豊かな体に正面から激しく激突された
そのまま抵抗する間もなく、綺麗に押し潰される形で砂埃の舞う屋上の地表へと盛大に倒れ込んだのだった。
「ぐえっ……! ゆ、ユメ先輩……重い……押し潰される……!」
「えへへ~、ホシノちゃんあたたかいよ~! みんなも早くおいでよー!」
「ん。便乗する」
「ちょっとシロコ先輩まで上から乗っからないでよ!? ホシノ先輩が本当にペシャンコになっちゃうでしょ!……ああっ、もう! 私も混ぜなさいよ!」
「そ、それなら私も日頃サボられてる仕返しを!」
「あはは……本当に、アビドスは賑やかですね♪」
沈みゆく太陽が砂漠をどこまでも黄金色に染め上げる中、屋上にはこれ以上ないほどの笑い声と、かけがえのない温もりだけがいつまでも響き渡っていた
♢
それから、奇跡の帰還を果たしたユメが正式にアビドス対策委員会の一員として再び籍を置き、後輩たちと共に活動を共にするようになってから、早くも1ヶ月という穏やかな月日が流れていた
かつてはどこか切なく、悲しげな静寂が漂っていたアビドスの古い校舎には、今や嘘のように毎日賑やかで騒がしい笑い声が戻っている
「ホシノ、居るかしら?」
「おー、ヒナちゃん。ここに居るよ~うへ~」
「……なんで貴方は、いつ顔を出しても毎回ソファーでゴロゴロ寝転がってるのよ」
ゲヘナでの過酷な書類仕事の合間を縫って、時折「ただの息抜き」と称してアビドスへ顔を出すようになったヒナの存在も加わり、ホシノは上級生としての威厳をすっかりかなぐり捨てて、これまで以上に盛大にだらけ癖を発揮するようになっていた
「また変な怪しい業者に騙されたんですか!? あれほど何か契約する時は必ず私に事前相談してくださいって言いましたよね!?」
「うっ……そ、そんなに鬼の首を取ったみたいに怒らないでよアヤネちゃん……あの時はユメ先輩も『これなら絶対アビドスが儲かるよ!』って太鼓判押すから……」
「そ、そうだよ! あの時はチラシの謳い文句も完璧で、絶対に大丈夫だと思ったの! ね? セリカちゃん!」
「2人とも言い訳無用で正座ーーー!!!」
「「ひぃぃっ!?」」
元々、世間知らずでちょっぴり騙されやすい気質だったセリカに加えて、底抜けに好奇心が旺盛で「楽しそうなら何でも首を突っ込む」という思い切りの良すぎるユメが加わったことで、対策委員会の頭脳であるアヤネの胃痛の頻度と「ちゃぶ台返し」を発動する回数は、日を追うごとに爆発的な増加の一途を辿っていた
「ふふ、二人とも怒られちゃいましたね♪ お茶でも淹れましょうか?」
「ん。反省の正座をしながら飲むお茶も、きっと味わい深い」
「シロコ先輩、それ全然フォローになってないから……!」
そんな、相変わらずドタバタと騒がしく、何物にも代えがたい愛おしい日常の一日が終わりを告げようとする、ある穏やかな夕暮れ時
茜色の優しい陽光がアビドス高校の旧生徒会室の床を長く引き延ばす中、みんなで机を囲み、明日へと続く平和な余韻を楽しんでいた――まさに、その矢先のことだった
「ユメ先輩! ほら、さっきアビドス駅前の古い掲示板で見かけたんだけど……『誰でも絶対に明日から大金持ちになって幸運を掴める、神秘の特別講演会』が開催されるみたいよ!」
「えっ、本当!? それは絶対に行かないと損だね! アビドスの借金も一発で返せちゃうかもしれないし、すぐに出発しよう!」
「そ、それってどう考えても100%詐欺の典型的なマルチ商法じゃないですかーっ……って、ああもう! 人の話を最後まで聞いてください、2人とも待ってくださいってばーーっ!」
セリカが血相を変えて絶叫しながら旧生徒会室を飛び出し、その後を楽しそうにパタパタと追うユメ、そして頭を抱えて必死の形相で二人の暴走を止めようと背中を追いかけるアヤネ
三人のドタバタとした足音と叫び声が、夕暮れの廊下の向こうへ賑やかに消えていった
「いや~、あの子たちはいつ見ても本当に元気だねぇ~うへ~」
「ん。いつだって賑やかで、見ていて飽きないし、何より楽しい」
「あはは……アヤネちゃんがそろそろ過労と気苦労のストレスで限界を迎えて倒れそうですけどね……」
遠ざかっていく騒がしい足音と悲鳴を聞きながら、ソファーに腰かけたホシノがのんびりと呟き、その横でシロコが深くうなずき、ノノミがやれやれといった風に優しく苦笑いを浮かべる
「それじゃあ、私も今日のところはこの辺りで……失礼しますね! アヤネちゃんたちのフォローに行ってきます♪」
「ん、また明日、ノノミ」
「気をつけて帰るんだよ~、途中で何か変な金運の壺とか買わされちゃダメだからね~」
「大丈夫です♪ それではお二人とも、お先に失礼します~」
ノノミはふわりと包み込むような穏やかな笑顔を浮かべ、二人に可愛らしく手を振りながら教室を後にした
後に残されたのは、茜色に染まる窓際で並んで立つシロコとホシノの二人だけ
静まり返った室内で、教室の隅に沈む二人の影が、西日を受けてゆっくりと長く伸びていく
「あれ? シロコちゃんは帰らないの?」
「ん。……もう少しだけ、ここに残っていく。ホシノ先輩こそ、まだ帰らないの?」
「おじさんは、みんながちゃんと校門を出て行くのを確認してから、戸締りとか清掃の最終確認をしていかないといけないからねぇ~。後片付けが済んだらすぐ帰るよ」
「……ん」
「?」
自分のカバンを肩にかけたまま、シロコは何故かすまし顔のままホシノの顔と、少しだけ開いたままの教室の出入口を、まるで何かを計るように交互に何度も見つめている
何か言いたげな、けれど言葉に詰まっているような独特の気配を察し、ホシノは小首をかしげながらじっと見つめ返した
「……あのさ、ホシノ先輩」
「んー? どうしたのシロコちゃん、そんなにもじもじしちゃって。何か大切な忘れ物でもした?」
「……あした、ひま?」
「んー? 明日は特に大きな予定や対策委員会のお仕事は入ってないかなぁ。一日中ソファーで昼寝の予定だよ」
「ん……それじゃあ、明日……二人で、お出かけしない?」
思いがけない不意打ちの誘いに、ホシノは「へ?」と目を丸くした。しかし、すぐにいつもの面倒見の良い先輩らしい嬉しそうな笑顔を浮かべる
「おっ、いいねぇ~! じゃあ、セリカちゃんたちやノノミちゃん、ユメ先輩にも連絡して、みんなで賑やかにどこか遠出でもする計画を立て――」
「ん、待って……!」
「し、シロコちゃん!?」
慌てた様子で、シロコがトタトタと素早い足取りでホシノの元へ駆け寄り、スマホを取り出そうとしていたホシノの手首をギュッと両手で掴み取った
ホシノはキョトンとした、完全に間の抜けた表情のまま、目の前に迫ったシロコを見上げる
「……二人だけで、出かけたい。……昔みたいに」
「!」
不意に投げかけられた「二人だけ」という言葉と、まっすぐな瞳。ホシノの胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘く切ない感覚に襲われる
――昔みたいに
シロコがアビドスにやってきてすぐの、あの頃。まだメンバーも揃っておらず、ホシノの部屋で二人きりでご飯を食べたり、静かな砂漠や商店街を並んで歩き、まるで保護者と子供のように過ごしていた、あの愛おしい時間
「ど、どうしたの急に……。みんなを誘ったら、また賑やかで楽しいのにさ」
「……たまには、こうして甘えたいだけ。……ダメ、かな?」
「うっ……!」
シロコが、少しだけ首を傾げ、わざとらしく、けれどどこか本気を孕んだ潤んだ水色の瞳でじっと上目遣いに見つめてくる
それは、シロコがかつてホシノと二人きりで仮住まいをしていた頃、何か無理なお願いや我儘を通したい時だけにこっそり使っていた、ホシノにとって絶対に抗えない最大の特効薬だった
シロコが一人暮らしを始めて、アビドスの一員としてすっかり自立してからは一度も見せることのなかったその愛くるしい仕草
その裏にある、シロコなりの隠し切れない気恥ずかしさと甘えたい気持ちに気づいてしまい、ホシノはそれ以上追及することができなくなってしまった
「だ、ダメなんて言うわけないでしょ……! 久しぶりのシロコちゃんとの二人きりのデート、おじさんもすごく楽しみにしてるからさ……!」
「……別に、デートというわけではないけど。ただのお出かけだけど」
「うっ……! その冷ややかなジト目も、おじさんの繊細なガラスのハートには効果抜群だからあんまり直視しないで……うへへ……」
「ふふ」
真っ赤になりながらタジタジとたじろぎ、照れ隠しに頭をかくホシノの姿を見て、シロコはふっとわずかに口元を緩め、どこか心底満足げに、そして愛おしそうに小さく微笑んだのだった