夕日がゆっくりと地平線の向こう側へと沈みかけ、アビドスの果てしない広大な空を、まるで炎が燃え上がるような鮮やかな茜色と、夜の訪れを告げる深い紫色の美しいグラデーションで染め上げていく
その黄昏時の柔らかな光が差し込む街路を、少しだけ不服そうに可愛らしく頬を膨らませて歩くシロコと、そんな彼女の機嫌を損ねてしまったことに少し申し訳なさを覚えながら、参ったなといった風に苦笑いを浮かべて隣を歩くホシノの姿があった
「ん……今度模擬戦して。それで今回の件はチャラにしてあげる」
「うへぇ……そ、それはまたとびきりキツイ罰ゲームだねぇ……お手柔らかにお願いするねー……」
からかい過ぎたせいでほんの少しだけ拗ねてしまったシロコの機嫌を、あの手この手で宥めすかし、何とかいつもの平穏な状態に戻すことに成功したホシノだったが、その代償として突きつけられた「シロコとの本気の一騎打ち」という提示に、思わずガクッと肩を力なく落とした
シロコとの模擬戦は正直憂鬱だ
戦いを重ねるごとに彼女の戦闘技術と立ち回りは凄まじい精度で洗練されており、対策委員会の他の面々とは比べ物にならないほど本気を全開で出さなければ、こちらが本気で返り討ちに遭ってしまうほどなのだ
それに何より、以前ホシノがテラー化して暴走した際、シロコから脳天に強烈かつ容赦なく叩き込まれたあの『一切の容赦のないかかと落とし』の痛烈な衝撃と記憶が、今でもトラウマとして背筋にうっすらと冷たい汗を走らせていた
「ふふ、覚悟しておいてね、今度は私が勝つから。……ほら、そろそろ目的地に着くよ」
「うへぇ……あれ、ここって……」
シロコに促されるまま前方に顔を上げたホシノは、思わず「おや?」と間の抜けた情けない声を漏らした
いつの間にか二人の足は、毎日見慣れているはずのアビドス高等学校の大きな正門の真ん前へとたどり着いていたのだ
シロコの機嫌を取り繕うことに必死で、あまり周囲の景色を意識して見ていなかったとはいえ、ここまで完璧に自然な足取りで学校へと誘導されていたことに、ホシノは軽く驚きを覚えずにはいられなかった
「えっと……シロコちゃん、私達これからここで何をするの? 今日は確か休日だし、学校に何か忘れ物や用事なんかないはずじゃ……」
「ん、見ればすぐに分かるよ。見たらきっと、驚くと思う。ほら、行くよ」
「あっ、一人で先に行かないでよシロコちゃーん!」
スタスタと迷いのない足取りで、夕闇が迫る正門をくぐっていくシロコの華奢な背中を、ホシノは慌てて小走りで追いかける
奇妙なことに、校舎へと近づくにつれて、普段の静まり返った寂れた校舎からは絶対に聞こえてこないはずの、賑やかな人々の楽しげな話し声や笑い声、さらにはどこかお祭りめいた軽快な音楽のようなものが、夕暮れの乾いた風に乗って微かに聞こえてくるような気がした
(あれ……? おかしいな。今日は休日だし、校舎には誰も残っていないはずじゃ……それに、この風に乗って漂ってくるたまらなく香ばしい食べ物の匂いは一体……?)
不思議そうに首を傾げながら、何ひとつネタバレを語ろうとしないシロコの後ろをトコトコとついていくホシノ
そして、ついに二人が校庭の入口前でピタリと足を止めた時、シロコは振り返ることなく、どこか誇らしげで満足げに小さく告げた。
「着いたよ。ここが今日、私が決めていた唯一の目的地」
「えっ……これって、どういうこと……!?」
ホシノが目を見開いて絶句しながら、目の前に広がる光景を正面から見据えた瞬間、彼女の脳裏に当然のように浮かんでいた「いつものアビドス高校」という前提は、跡形もなく完全に粉々に打ち砕かれた
そこに広がっていたのは、いつもの埃っぽくて殺風景で殺伐とした校庭の姿などでは決してなかった
一体どこからこれだけの資材や機材を調達してきたのか、広い校庭の敷地内には色とりどりの電飾で彩られた屋台がいくつも行儀よく綺麗に並び、その軒先からはジューシーな肉の焼ける香ばしい煙や、濃厚で甘いソースの焦げるたまらない匂いが、夕暮れの空気を余すことなく満たしていたのだった
「アリス、次はあっちの屋台に行きたいです! あの看板に『巨大虹色綿あめ・魔王級サイズ』と書いてあります! 討伐ミッションを開始しましょう!」
「今日は先生からお小遣いも貰ったし、心ゆくまで食べまくるよー! 揚げパンにフランクフルト、次はたこ焼きコンボだーっ!」
「ちょっと、アリスちゃん勝手に人混みに走っていかないの! って、ちょっとお姉ちゃんまで便乗して先に行かないでよーっ!」
「ふふ、アリスもモモイも賑やかで何よりです。ユズ、私たちは人混みを避けてゆっくり回るとしましょうか」
「う、うん……そうだね。人目が少ない屋台から回れたら……助かるかな……」
「今日くらいは細かい計算も全部忘れて、日頃のストレスを全部発散する解禁日にするんだから! 誰にも文句は言わせないわよーっ!」
「にはは! ユウカ先輩、そんな短時間に高カロリーな糖分と炭水化物をドカ食いしたら、明日には一目で分かるくらい体重計の数字がふと……ぎゃーっ!? 足を踏まないでくださいーーっ!? 私の足がー!!?」
「ふふ、二人とも本当にお祭りを満喫していて何よりですね♪」
少し前まで駅前のゲームセンターの近くでキャッキャと無邪気に騒いでいたはずのゲーム開発部の面々――モモイ、ミドリ、ユズ、ケイ、そしてアリスの姿はもちろんのこと
ミレニアムサイエンススクールの厳格かつ冷徹な会計として知られるセミナーのユウカが、額に青筋を立てて頭から爆発しそうなほど湯気を吹き出しながら、必死の形相でコユキを追い回している姿、そしてそれを優しく微笑みながら眺めるノアの姿など、本来のアビドスにはいるはずのない他校の生徒たちの賑やかな姿が、夕闇が迫る校庭のあちこちにこれでもかというほどチラホラと見え隠れしていた
色鮮やかな電飾の光、賑やかな生徒たちの弾けた笑い声、そして鼻腔をくすぐるたまらなく香ばしい食べ物の匂い
それらに包まれた、まさしく『お祭り』の特設会場が、昨夜まではただ殺風景な砂漠の風が吹き抜けるだけだったアビドスの校庭に、まるで魔法のようにすっぽりと出現していたのだった
「シロコちゃん、これ……って、ぶっふ……!? ぷ、くすっ……!」
昨日までは何も無かったはずの、いつもの砂に覆われたアビドス高校の殺伐とした校庭とは思えないほど華やかで、とびきり賑やかなお祭りの光景
あまりの現実離れした光景に呆気に取られ、脳内の情報処理が完全に追いつかないまま硬直していたホシノが、恐る恐る隣に立つシロコの方へ顔を向けた
その瞬間――
そこには、これまで数年間におよぶ長い付き合いの中でも一度たりとも見たことがないような、あまりにも不器用で、けれど誇らしげな、胸を張った精一杯の『ドヤ顔』を決めたシロコの姿があった
「し、シロコちゃん……? そのドヤ顔、一体どうしたの……? あははっ、待って、ちょっと真顔すぎて面白すぎるでしょ……!」
「むぅ……そんなに笑わなくてもいいでしょ……私は大真面目なのに……」
周囲をワイワイと通り過ぎていく他校の生徒たちが「あの二人、何やってるんだろ?」と不思議そうにこちらを振り返る視線など気にする余裕もなく、ホシノはしばらくの間、お腹を抱えて膝を折り、盛大に腹筋が崩壊するほど笑い転げた
ようやく笑い疲れて目元に浮かんだ涙を指先でぬぐい、はぁーっと息を整えた頃、シロコはわずかに白い耳の根元を赤く染めながら、小さく、ぽつりと言葉を紡ぐ
「……これね、私やアヤネ、セリカ、ノノミたちで何日も前から計画して、ホシノ先輩に秘密に準備を進めてきた私達流の『アビドス砂まつり』だよ」
「……へ? すな……まつり?」
「うん。忘れた? ホシノ先輩、前に言ってたよね。いつか自分たちの手で、昔あったアビドス砂まつりをもう一度復活させて、みんなで思いっきりお祭り騒ぎをして楽しんでみたいって。そう言ってたの、覚えてない?」
その言葉を聞いた瞬間、ホシノの脳裏に、記憶の奥底に眠っていた懐かしい情景が鮮やかに蘇る
それは、まだ先生が対策委員会のみんなと出会って間もない頃、カイザーPMCの不穏な動きを調査するために、みんなで初めて砂漠へ足を踏み入れた時のことだった
『いつかはさ、私達みんなでアビドス砂まつりを復活させて……色んな学校の生徒も呼んで、みんなで思いっきり楽しめたらいいなぁって。実はおじさん、そういう賑やかなお祭りとか今まで一回も行ったことがないからさ。ずっと、叶いっこない小さな夢だったんだよねぇ』
あの日、あの時は少しだけ気恥ずかしくなって、自分のガラじゃないと「うへへ、冗談冗談〜」といつもの気だるげな態度ではぐらかしたつもりだった。けれど、胸の奥底にあった誰にも言えなかった本当の願いを、不意に大切な後輩達の前で吐き出してしまったあの日の記憶
その後、自分が学園の膨大な借金問題や理事たちの汚い陰謀、そして黒服との取引といった泥沼のトラブルに巻き込まれたり、身を挺して戦い、果てはテラー化して全てを破壊しそうになるほどの過酷で冷酷な運命の渦中に投げ出されてしまったがゆえに、自分自身でもいつしかその口にした小さな夢のことなど綺麗さっぱり忘れてしまっていた
ホシノ自身ですらとうの昔に諦め、忘れていた、ほんの気まぐれのような小さなつぶやき
それを、シロコや対策委員会の仲間たちがずっと大切に胸の奥にしまい込み、こうして多くの人々を巻き込んで形にしてくれるなんて、夢にも思っていなかった
ホシノは言葉を失い、ただただ愕然と瞳を見開いて、眼前に広がる光景とシロコの顔を交互に見つめることしかできなかった
だが、それと同時に、もう一人の「隠し事が絶望的に苦手な、大好きな先輩」の顔が脳裏に浮かんだ
「ちなみにね、ユメ先輩にも事前にこの『砂まつり』のことを話して、協力してもらおうかっていう話題も出たんだよ。でも……ユメ先輩って、ほら。セリカ以上に隠し事が致命的なくらい苦手な性格でしょ? 計画を伝えたら絶対嬉しくなっちゃって、ホシノ先輩に会った瞬間に全部話しちゃいそうだったから、私が裏で慌てて止めたんだよね。……で、さっきセリカたちがここに来るように、買い出しのフリをしてユメ先輩を上手く誘い出したの。ほら、見て」
もしかして、ユメ先輩もこのサプライズをずっと隠し通そうとしていたのでは――と心配したホシノの思考を完璧に先回りするかのように、シロコがスッと自分のスマホの画面を掲げて差し出してきた
画面に表示されていたのは、今まさに屋台の列の一番端っこで、熱々の焼き立てのソース焼きそばを両頬いっぱいに詰め込み、まるでリスのように幸せそうにモグモグと咀嚼しながら目を輝かせているユメの姿だった
セリカのモモトークのチャットから、リアルタイムで写真が送られてきていたのだ
写真の背景には「ユメ先輩、食べ過ぎです!」と怒っているアヤネの姿も写っている
確かに、あの素直すぎるユメが、自分だけ知っているこんなサプライズをホシノ相手に隠し通せるわけがない。今朝、自宅の前で会った時のユメの『肉』Tシャツを着たケロッとした能天気な様子を思い出せば、これ以上ないほど納得しかなかったのだった
(ユメ先輩……ある意味で、一番信用できない史上最強のサプライズブレイカーですからね……)
ホシノが苦笑いを浮かべて「うへぇ」と頭を抱えていると、シロコは少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、けれどまっすぐで真剣な水色の瞳をホシノに向けながら、小さく咳払いをした
「それで……その、もしよかったらさ、私と一緒にこのお祭り、回ってくれない?」
シロコは少しだけ耳の根元まで朱に染め上げながら、すらりと華奢なその小さな手をホシノの前へと差し出した
それは、普段はクールで口数の少ないシロコなりの精一杯の甘えであり、ホシノに対する偽りのない確かな愛情表現だった
ホシノはその差し出された細く温かな手をじっと見つめ、ふっと目尻を柔らかく細めると、迷うことなく自分の手でしっかりと包み込むようにそれを優しく握り返した
「それじゃあ! 早速、おじさんと一緒にお祭り会場を探検しに行こっか!」
「ん!」
♢
シロコの手をキュッとしっかりと引きながら、ヘルメット団といった厄介な暴徒たちが群れをなして攻め込んできない限りは絶対に拝むことのできない、圧倒的な活気と熱気に包まれたアビドス校庭の特設会場へと足を踏み入れた
「あ、ねえシロコちゃん、見て見て! 屋台の超定番、カラフルなチョコバナナがあるよ!」
「ん……お祭りといえばの定番メニューだね」
「定番だからこそ、お腹が空いてる最初に食べなきゃいけないんだよ!」
先ほど商店街でお肉屋さんの特製コロッケをペロリと平らげたばかりの二人だったが、そこはやっぱり育ち盛りの現役女子高生
屋台の隙間から漂ってくるチョコと甘いバナナの香ばしさに再び胃袋が盛大に反応し、気づけば足は自然と人だかりの絶えない食べ歩きの列へと吸い寄せられていた
少しだけ、今日のこの盛大な学園祭の総予算や自分たちの寂しい財布事情が気にならなくもなかったが、不思議なことに屋台を出店している人々の顔ぶれを見渡してみると、ミレニアムの生徒会関係者から周辺の商店街の店主たち、さらには他校の顔馴染みに至るまで、なぜかホシノやシロコたちアビドスの生徒と何かしらの深いつながりや恩義のある人ばかりで、誰もが「アビドスの二人なら特別!」と快く、時には「これ持ってきな!」とおまけのたこ焼きやジュースまでつけて商品を手渡してくれた
「ふぅ……なんだか、さっきからチョコバナナに焼きそばにフランクフルトって、食べてばかりでさすがにお腹が限界になってきちゃったねぇ……」
「ん……私も、もうこれ以上は入らない……無理……」
パンパンに膨らんだお腹を満足げにさすりながら、校庭の隅に設置された特設イートインスペースの丸椅子に腰掛けて、まったりと心地よい夕涼みを楽しんでいたその時、ホシノの視界の端にとんでもなく香ばしいディスプレイと的を掲げた、一際賑やかな屋台が飛び込んできた
「おっ、シロコちゃん、あそこを見てごらん! 楽しそうな射的屋さんがあるよ!」
「え、どこ……? って、ちょっ、そんなに急に手首を引っ張らないで……口の中からさっき食べた焼きそばの麺とタピオカが逆流しそうだから……!」
ホシノは、すでに限界寸前で満身創痍のシロコの手首を容赦なく引っ張り、わーわーと抗議する彼女を連れて、いそいそとその屋台へと駆け寄った
「あら? 誰かと思ったら、ホシノとシロコじゃない」
「やっほー! 二人とも、お祭りに来たなら絶対にこの便利屋特製の射的をやっていかないと損だよ〜?」
「い、1回につきワンコイン、たったの500円になりまーす! 」
「ハルカ、落ち着いて。この二人からはお金を取らなくてもいいの」
――そこには、普段から何かとアビドスの周辺でも色んな噂が絶えない「便利屋68」の面々の姿があった
ビルの一室の家賃すらまともに払えず、毎日インスタントラーメンで極貧生活を送っていると噂の彼女たちであるが、なぜか屋台に用意されている射的の景品のラインナップは、そんな悲壮感の漂う舞台裏が嘘のように豪華な一級品ばかり。限定プラモデルから高級スイーツの引換券までズラリと並んでいる
その景品棚のすぐ手前には、なぜか今回の屋台の楽しげな雰囲気に一切馴染まない、いつものコートを羽織ったアルが立っており、持ち前の見栄とハードボイルドな威厳を必死に保とうと腕組みをしてフッ……と不敵な笑みを浮かべていた。そして、抜群の営業スマイルで無邪気に客引きに精を出すムツキ、客と目が合っただけで「申し訳ありません死んでお詫びします!」と顔面をコンクリートのようにガチガチに硬直させて冷や汗を流しているハルカ、さらに屋台の片隅のパイプ椅子に深々と座り込み、頭を押さえてぐったりと疲労の色を隠せないカヨコの姿があったのだった
「まさか、アビドスのお祭りに便利屋の皆まで揃って来てるなんてびっくりしたよー。本当に、どこに行っても君たちは大忙しだねぇ」
ホシノが目を丸くして、感心したように、どこか呆れたような声をかけると、アルはいつもの堂々とした不敵な笑みを浮かべ、コートの胸元をポンと叩いてみせた
「ふふふーっ! 当たり前じゃない! アビドス対策委員会から正式に依頼を受けたからには、このアビドスの大イベント、私達が最高に派手に、そして最高にハードボイルドに盛り上げてあげるに決まっているわ! これぞアウトローの流儀よ!」
「まあ、今回のこのお祭りを企画して開くことになった事情を聞いた社長が、その熱意に当てられて依頼料の請求を全額お断りしちゃったせいで、私達の事務所の財政は今や完全に『火の車』を通り越して灰になりかけているんだけどね」
「ちょっ……、カヨコ!? そこはわざわざ客前で大声で言わなくてもいいところでしょう!? 私の経営者としての威厳が台無しじゃないの!」
「あ、あはは……。その、なんだか色々とお手数とお財布の負担をおかけしちゃってるみたいだね……。とりあえず、参加費は500円だったよね、払うから――」
ホシノが苦笑いを浮かべながら、制服のポケットから年季の入った財布を取り出そうとモソモソ探り始めると、アルは慌てて両手をブンブンと激しく横に振って制止する
「い、いいえ! 貴方たちからは代金なんて1クレジットも取らないわよ! タダでいいわ!」
「へっ……? ……そういえば、さっきもカヨコがハルカに『お金は取らなくていい』って言ってたけど……なんで私達はお金を払わなくていいのさ? おじさん、タダより高いものはないって教わってきたんだけどなー」
「クフフ、それはねー? 今日このお祭りの主役は、他でもない貴方たち2人だからだよー!」
ムツキが髪をピコピコと揺らしながら、悪戯っぽく唇の両端を吊り上げて微笑む
「主役……?」
ホシノが財布を握りしめたまま、完全にキョトンとした間の抜けた顔で首を傾げる
しかし、ムツキのその説明はあまりにも端折られすぎていて、肝心の核心部分が全く伝わらなかったため、ホシノの脳内はさらに大きなハテナマークでいっぱいになってしまった
「まあまあ、そんなに難しい顔をして深く考えなくても、どうせ後になれば嫌でも理由なんて分かるんだから、今はただ素直にこのお祭りを楽しんじゃってよ!」
「……もしかして、サプライズの内容を説明するのが面倒くさい2割と、単にドヤ顔したいだけの気持ちが8割を占めてるんじゃないの、ムツキちゃん?」
「そ、そんな痛いところを正確に突くような不穏な勘ぐりは気にしなくてもいいのよ! はい、これ持って!」
これ以上の追及を恐れたのか、アルは逃げるようにして慌てた手つきで、コルクの弾を装填したおもちゃの射的銃を2丁と、2人分の予備のコルク弾10発をひったくるように掴むと、ホシノとシロコの手元へと無理やり押し付けた
「ん、まあ細かい事情はともかく、せっかく便利屋のみんなが用意してくれたんだし、今は二人で思いっきり楽しもうよ、ホシノ先輩」
「シロコちゃんは、最初からこのサプライズの全貌を知っていたんだから、道すがらもう少しヒントを教えてくれてもよかったのにさぁ……! おじさんだけ蚊帳の外じゃない?」
「ん。サプライズは最後まで秘密にしておくのがルール」
ホシノのちょっとした不満混じりのツッコミを、シロコは綺麗なまでに華麗にスルーし、すでに射的の構えに入りながら的をじっと見据える
ホシノは小さくあきらめの嘆息を吐き出すと、シロコの隣に並び、同じように木製のおもちゃのコルク銃をしっかりと両手で構えた
「あ、言い忘れてたけど、流石に仕入れ値と景品の限界があるから、何回も無料で撃ちまくるのはお店の経営的に無理よ! だから、ひとり1回きりで我慢してよね!?」
アルの口から飛び出した、とても『ハードボイルドなアウトロー』のセリフとは思えないほど現実的でセコい注意を完全に無視して、ホシノは目の前に並べられた賞品の数々に全神経を集中させた
――パッと見のラインナップからして、さっきのカヨコの言葉通り、急ごしらえで無理やり集めたり用意したりしたのだろうことがありありと伝わってくる
上段には子供たちが喜びそうな定番のゲームソフトのパッケージや本体、高級そうな果物の盛り合わせの引換券といった華やかな品が飾られている
しかし、下段に目を移すと、なぜか様々な予備弾薬、少しだけ残量が減った女性用のちょっといいコスメ商品、猫の肉球型のおもちゃグッズ、そして『無法者を気取るあなたへ:アウトローへの遠き道』という何とも怪しげな自費出版の謎の冊子……そして、極めつけはなぜか小さな素焼きの植木鉢に植えられている、道端から根っこごと引っこ抜いてきたような青々とした雑草……?
(……ひょっとして、予算の大半を上段の豪華な子供向け景品に使い果たしちゃったせいで、下段のスカスカなスペースを埋めるために自分の私物を無理やり総動員して並べてたりしない……?)
コスメの減り具合からして、これは間違いなくムツキの私物。予備弾丸や猫グッズは野良猫との戯れを好むカヨコの持ち物に違いない
そして、あの「アウトローの本」に至っては、表紙のフォントや書き込みの痛々しさからして完全にアル自身の黒歴史的な私物である
そうなると、あの怪しげな植物の植木鉢は……おそらく、消去法でハルカのもの
謎の雑草と自費出版の本の2種類は置いておくとしても、様々な予備弾丸はアビドスでの日常的な実戦において純粋に喉から手が出るほど有難い実用的な品だった
(パンッ!)
乾いた小さな発砲音が響く
「……ちょっと、嘘でしょ!? 射的用にあえて威力をかなり弱く調整してあるコルク銃なのに、簡単に倒すなんて!」
「社長……」
アルの嘆きを聞いたカヨコが呆れたような目を向ける
内心で(コルク銃の威力を裏で減らしたことをここで口に出すのはどうなの……)とツッコミを入れつつ、ホシノが隣に視線を走らせると、そこではシロコがホシノの射撃とほぼ完璧にタイミングを合わせて、一糸乱れぬ正確さでアサルトライフルの予備弾丸が置かれた的を綺麗にブチ抜いていたところだった
「ホシノ先輩。このままだと、残り支給された4発……二人合わせて合計8発のコルク弾で、用意された景品を10個も根こそぎ全取りしちゃいそうなんだけど……ねえ、ここでちょっと勝負しない?」
「勝負、かい?」
「うん。今からアルに指名してもらった景品を、どっちがより早く正確に撃ち落とせるか勝負」
「わ、私!? なんで勝手に私を巻き込んで、勝負の審判兼ハンデ選択枠に仕立て上げようとするのよ!」
突然名前を指名されたアルが、目を剥いて大声で抗議する。確かに、簡単に取れてしまう射的において、こういうアトラクション的な真剣勝負はなかなか面白そうではあるのだが……
「ふーん? シロコちゃん、早撃ち勝負なら、おじさんは昔から荒野のガンマン気取りで鳴らしてきたんだから、そう簡単には負けないつもりだけどなー?」
「ん、口で言うより、実際に試してみないと分からないでしょ。私の成長を見せてあげる」
「な、なんで勝手に話を進められているわけ……!? はぁ、でも……まあ、二人のそういうやる気に満ちた熱い目を見せられたら、ここで断るのも社長の威信にかかわるわね。いいわよ、的となる景品のチョイスくらいなら、この私が特別にセレクトしてあげるわ!」
アルは、シロコやムツキからジトッと冷ややかな視線を向けられつつも、どこか嬉しそうな、そして自分を頼りにされている誇らしげな笑みを浮かべながら小さく深ため息をついた
彼女はまだ2年生でありながら、一癖も二癖もある個性豊かな「便利屋68」の面々をまとめ上げているだけあって、こういう突発的なハプニングや面倒な巻き込まれ事には、すっかり慣れっこになっているようだった
「そうねぇ……それじゃあ、まずは手始めにそこの……!」
アルがコートの袖からビシッと左手を堂々と伸ばし、屋台の最下段の端っこに並べられたアサルトライフルの予備弾薬の束を指さした瞬間――その言葉の終わりを待つ必要すらなかった
(パパンッ!)
乾いた二発の銃声が、ほとんどタイムラグすら感じさせないほど完全にシンクロして夕空に響き渡る
シロコとホシノのおもちゃの銃口から放たれたコルク弾は、一寸の狂いもなく的の真ん中を貫き、予備弾薬の束を綺麗に弾き飛ばしたのだった
「い、今の……どっちの弾が早かったかしら!? 全く同時に見えたけれど……!」
「え、えーっと……い、今のは! 今のはホシノさんの弾がほんの少し早かった気がします! ほんの僅かな差ですけれど!」
「おっ、ハルカちゃん、よくそんな一瞬の違いを見きれたねぇ、すごいすごい! おじさんも全然分からなかったよ」
「……えへへ……ホシノさんに褒められました……申し訳ありません……」
ホシノに褒められ、ハルカは照れくさそうに「へへっ」と笑顔を浮かべる
その微笑ましいやり取りに、アルも「まあ、ハルカの動体視力なら間違いなく信頼できるわね」と満足そうに深くうなずいた
これならば、審判に不服が出ることもなく、目の前の熱戦にしっかりと集中できそうだ
「それじゃあ、どんどん行くわよ!次はあれよ!」
(パパンッ!)
「今のは、シロコさんの方が早かったです!」
(パパンッ!)
「……これも僅差でシロコさんです!」
(パパンッ!)
「い、今のは……! 完全に同時のタイミングでしたけれど、わずかにホシノさんです!」
アルが面白そうに指し示す先から、的として置かれた便利屋の怪しい私物や予備弾丸、豪華な景品が、次々と凄まじいスピードで連続して撃ち落されていく
最初のうちこそ、どちらかと言えば「お祭りの中のちょっとしたアトラクション感覚の戯れ」だったはずなのに、いつの間にか二人の脳内では、アビドスの先輩と後輩としてのプライドをかけた絶対に負けられない真剣勝負のスイッチがカチリと入ってしまっていた
並べられている景品の豪華さや価値など、二人の眼中にはもはや一切存在せず、ただ純粋に「この早撃ち勝負、相手にだけは絶対に負けたくない」という強烈な意思と闘争心だけが、その瞳の奥でギラギラと燃え盛っていたのだ
「ねえねえ、あそこの便利屋の屋台の射的、ちょっと見てよ! めちゃくちゃ凄いハイレベルな早撃ち勝負が繰り広げられてるよ!」
「なんだあの構えと反応速度……! 動く的でもないのに、まるでプロの特殊部隊の狙撃手同士の撃ち合いみたいになってるじゃないか……!」
「あそこの銀髪の女の子、前半はすごいリードしてたのに、ピンク髪の小柄な子にめちゃくちゃ猛追されて追いつかれてる……! どっちも一切弾を外さないぞ!?」
いつの間にか、屋台の周囲にはミレニアムの生徒たちや、お祭りに参加していた他校の生徒たち、さらには通りすがりの一般の観客までが人山をなして群がり始め、まるでサーカスの特等席でも囲むかのように、手に汗を握りながら二人の一騎打ちを固唾を呑んで見守り始めていた
「ふぅ……やるねぇ、シロコちゃん。おじさん、こんなに本気を出させられるなんて思わなかったよ。コルク銃で指が痛くなってきちゃった」
「ん。誰かさんに、日頃の模擬戦で散々鍛えられた成果……。それに、ホシノ先輩にだけは、絶対に負けたくないから」
「ふふ、その負けず嫌いなところ、出会った頃から全然変わってないんだから! 本当に頼もしい後輩だよ」
「それじゃあ、これでいよいよ最後よ! 残るコルク弾は二人とも最後の1発! これを先に正確に撃ち落とした方が、今日のこの真剣勝負の完全なる勝者とするわ!」
アル自身も、最初の冷やかしや高見の見物気分はどこかへ吹き飛び、この一大勝負の熱気に完全に当てられていた
彼女はすっかりヒートアップし、まるでプロのスポーツ実況アナウンサーのような嬉々としたハイテンションな口調で、コートの裾をひらめかせながら最後の的を指し示す
「最後の景品……それは……!」
アルの伸びやかな声だけが、夕暮れの茜色に染まりつつあるアビドス校庭の空間にどこまでも響き渡る
まるで西部劇の荒野で繰り広げられる一瞬の決闘のような、異様なまでに張り詰めた緊張感が、その場の一帯を完全に支配した
先程までのラウンドでは、アルが指し示すやいなや待ちきれないとばかりに撃ち込んでいた二人だったが、この最終決戦の局面においてだけは、なぜか誰もが息を呑み、アルの最後の宣言の言葉を静かに待ち続けていた
「あれよ――っ!」
(パパンッ!)
アルが叫び声を上げたのと全く同時に、コンマ一秒の遅れもなく、二人は最上段の目立つ位置にドーンと飾られていた子供向けの最新ゲーム機の外箱めがけて、同時に引き金を引いた
(コトン……)
乾いた音を立てて、中身の入っていない空箱のようなディスプレイ用のパッケージが、綺麗に後ろへとバタンと倒れ込む
「ど、ど……どっちが、いまの一撃で勝ったんだ……!?」
「全然見えなかった……! 音が完全に重なって聞こえたぞ!?」
観客席から、思わず固唾を呑んで見守っていた見物人の一人が、緊張しきった声でぽつりと呟いた
その問いかけを合図にするように、この大一番の勝負の厳正な審判を務めていたハルカの方へと、集まった全員の視線が一斉に集中したのだった
「い、今の……最後の勝負は……」
極度の緊張のあまり顔面を青白く硬直させながら、ハルカは小刻みに震える唇をゆっくりと開き、喉を鳴らしてごくりと唾を飲み込んだ
シロコもホシノも、自分の指先に伝わってきたおもちゃの銃身の微かな反動と、引き金を極限まで絞りきった瞬間の確かな手応えから「自分の方が早かったはずだ」という絶対の確信をそれぞれ胸に抱きながら、息を完全に殺してその判定の瞬間を待つ
「ひ、引き分けですっ……!」
「「へ……?」」
「「おおおおおーーっ!!」」
ハルカの口から絞り出されたそのあまりにも意外すぎる判定の言葉に、当事者であるシロコとホシノの二人は思わず「えっ?」と間抜けで情けない声を綺麗にハモらせて漏らした
しかし、その結果を聞いた周囲の観客たちは、まるで歴史的な名勝負の結末を見届けたかのように、割れんばかりの大歓声と盛大な拍手を一斉に巻き起こしたのだった
「そ、そんなはずはない! 私の方が、確実に早く引き金を絞り切った手応えがあった!」
「ちょっと待って、それはおかしいよ! おじさんの弾道の方が、確実にあの箱の重心の中心を正確に捉えていたはずだもん!」
「え、えええーっと……! その、ですね……! ごめんなさいごめんなさい、私なんかが判定を下してしまって本当に申し訳ありませんっ……!」
シロコが納得いかないという強い抗議の光を瞳に宿しながら一歩前へ身を乗り出すと、ハルカは怖気づいたようにギュッと両目を固くつぶり、その場でガクガクと小鹿のように震え出した
かくいうホシノ自身も、なぜあの完全な早撃ち勝負が「引き分け」という着地になったのか、自分の中でどうしても理屈が納得できずに、首を何度も斜めにかしげ続けていた
「二人とも、そこまでにして少し落ち着きなよ。そんなに血眼になって詰め寄ったら、うちのハルカが耐えきれなくなって爆発するか自暴自棄になっちゃうでしょ」
ピリピリと鋭く張り詰めた空気の中、いつの間にかスッと二人の間に自然な動作で割って入ってきたカヨコが、低く落ち着いた声で静かに制止に入った
「あ、ありがとうございます、カヨコ課長……! 助かりました……!」
「あっ、ごめんねハルカちゃん……おじさん、ちょっと久しぶりの真剣勝負で熱くなりすぎちゃってさ……脅すつもりはなかったんだよ〜」
「ん……私も。……ごめん」
カヨコの的確なフォローのおかげで、興奮のあまり沸点に達していた頭がようやくクールダウンした二人は、申し訳なさそうにペコリとハルカに向かって頭を下げた
「それで、ハルカ。どうして今のラストが『引き分け』判定になったわけ? この2人、理由を聞かないといつまでも納得しない顔してるよ」
カヨコがやれやれといった様子で呆れ気味に問いかけると、ハルカは両手を胸の前でパタパタと小刻みに動かしながら必死に説明し始めた
「そ、それはですね……えっと、お二人がほぼ同歩で発射されたコルクの弾丸がズレもなく、まったく同じタイミングで的の中心に両側から完璧に激突したから……あの一番大きな景品の箱が、真後ろにキレイに倒れたんです……!」
「なるほどね……。というわけよ、お二人さん。審判のハルカがそこまで見極めて言ってるんだから、今回の早撃ち勝負は美しく手を取り合っての『引き分け』ということで、二人とも納得してくれた?」
カヨコが深い溜息とともに、納得がいかずにまだ少しだけ不服そうな顔をしているホシノとシロコの方へとゆっくりと振り返る
「んー……なんだか、最後の勝負だけはちょっとだけ釈然としないところもあるけれど……でも、ハルカちゃんがそこまで集中して一生懸命に判断してくれたなら、もう素直に納得するしかないかなぁ。ねえ、シロコちゃん?」
「……ん。今回はハルカの審判を尊重して、これで手を打っておく。次の勝負は、もっと別の場所と種目でしっかり白黒決着をつけるから」
「それじゃあ、これ! さっき二人で見事に同時撃ち落とししてくれた、記念すべきゲーム機の景品よ。せっかくだから大切に持って帰って頂戴!」
「ありがとね、アルちゃん! 便利屋の皆さんも、今日はお店のお手伝いお疲れ様! 後半戦も商売がんばってねー!」
アルから、先ほどの早撃ち勝負で綺麗に倒した景品の入った少し大きめの紙袋を受け取りながら、ホシノは名残惜しそうに手を振った
渋々といった表情を浮かべつつも、どこかやり切った清々しい顔をした二人は、太陽が完全に沈み切って少しずつ人の波が散らばり始めた校庭の人混みを、肩を並べて縫うようにして歩き出した
♢
それから、少しだけ気を取り直した二人は、再び手をつないだり並んで歩いたりしながら、完全に暗くなったおかげで眩い電飾の灯りが綺麗に灯る他の屋台をのんびりと見て回っていた
しかし、ホシノの胸の奥には、先ほどからどうにも消えない小さな違和感のひっかかりが残り続けていた
ここまでアビドス校庭の特設会場を回る中で、どの屋台に立ち寄っても、購入制限や仕入れの関係でちょっとしたルールこそあるものの、店主や他校の生徒たちは皆一様に「アビドスの生徒さんなら、今日はお代なんていらないよ」「いつも街を守ってくれているご褒美さ」と、驚くほど快く、しかも無料で様々な美味しい品物やゲームの手助けを手渡してくれた
もちろん、これがアビドスの復興や日々のパトロール、そしてこれまでの自分たちの頑張りを街の人たちが認めてくれてこその、街全体からの温かいおもてなしなのだとしたら、この手厚い高待遇や無料の振る舞いについても、少しは納得がいかなくもない
しかし――
(『今日このお祭りの主役は、他でもない貴方たち2人だからだよー!』)
先ほど、便利屋のムツキが何の気なしに口にしたあの言葉が、どうにも頭の隅から離れなかった
もし仮に、このお祭りがアビドス砂まつりの復興であり、自分たちがその主役なのだとしても、それならどうしてノノミやアヤネ、セリカたち他の対策委員会の仲間たちまで含めて全員が主役ではなく、なぜ自分とシロコの「二人だけ」が特別に主役扱いされているのだろうか
「……ねぇ、シロコちゃ――」
「やっと見つけましたよ、お二人とも!」
「この声は……ノノミちゃん! ……って、うわぁ、両手にすごい量の食べ物と景品を抱えてるけど、お祭り思いっきり満喫してるみたいだねぇ」
胸の奥に渦巻いていた小さなモヤモヤとした疑問を言葉にしてシロコに投げかけようとしたまさにその瞬間、背後からコロコロと澄んだ鈴が転がるような、聞き慣れたおっとりとした温かい声が風に乗って飛んできた
振り返ると、そこには両手いっぱいに焼き鳥の入ったプラスチック容器や巨大な虹色のわたあめ、さらには縁日の屋台ゲームでゲットしたと思われる可愛らしいマスコットのぬいぐるみがギッシリ詰まった大きな紙袋を大事そうに抱え、これ以上ないほど満足げで幸せそうな笑みを浮かべたノノミが立っていた
「はいっ♪ お二人とも、今日のお祭り、楽しんでいらっしゃいますか?」
「もちろん、すごく楽しんでるよー! さっきもアルちゃんたちがやってる射的の屋台で、シロコちゃんとプライドをかけた本気の早撃ち勝負を繰り広げたりね!」
「ん、まだ最後の勝負の判定には少し納得がいっていないけれど」
「だからあっちの便利屋さんの屋台のあたりから、何やらすごい気迫と凄まじい連続銃声が響いてきていたんですね。他校の生徒さんたちも大興奮で集まっていましたよ?」
ノノミはクスクスと上品に胸元に手を当てて笑いながら、やれやれといった風に優しく小首を振った
そうだ、今のこの和やかな状況なら、対策委員会で一番気配りができて顔の広いノノミに直接聞いてしまえば、ずっと胸につかえていた疑問の答えもすぐに分かるかもしれない
ホシノは、今が絶好のチャンスとばかりに少しだけトーンを落とし、真面目な雰囲気に切り替えた
「ねえ、ノノミちゃん。ちょっとだけ、さっきからずっと気になってたことを聞いていいかな?」
「はい! どうされましたか、ホシノ先輩? 何でも聞いてください♪」
「今日、私とシロコちゃんをサプライズでびっくりさせるために、この『アビドス砂まつり』を内緒で計画して準備してくれたのは嬉しかったんだけどさ……一つだけ、どうしても分からないことがあるんだ。どうして、どの屋台に行ってもみんな私達から一切お金を受け取ってくれないの? シロコちゃんは何度聞いても『内緒』って言って教えてくれないし……」
「あー、そのことですか……! ふふ、実はですね……今回のこのお祭りで使われている機材の調達や物資の手配、出店にあたってのサポートは、すべて私の方で個人的にお手伝いさせていただいたからなんです♪」
「……へ?」
ニコニコと、まるで今日が抜けるような晴天であることくらい当たり前のことのようにそう言い放ったノノミの言葉に、ホシノは綺麗に思考の糸がプツリと切れ、ポカンと口を開けたまま完全に言葉を失った
そんな置物のように固まったホシノをよそに、ノノミは少しも気にする様子もなく楽しそうに説明を続ける
「もちろん、商店街のみなさんは『自分たちの力でやりたいから』とおっしゃって、私からの出店費用やサポートのお申し出を頑なに断られてしまったんですけど……。でも、今回『ぜひアビドスのお祭りで出店したい!』と言ってくださった他学園の方々には、私からテントや資材のお手伝いをさせていただいたんです♪
そして事前にみなさんを集めて会議をした際、全員一致で『アビドスを守ってくれたシロコちゃんとホシノ先輩には、今日くらいお金の心配をせずに楽しんでほしい』と提案してくださいました。
出店者のみなさんが『二人から代金は受け取れない』と言ってくださったおかげで、今日はお二人限定で完全無料になっているんですよ♪」
「ん、本当はホシノ先輩だけのつもりだったけどね」
いつもの穏やかな日だまりのような笑顔を崩さず、嬉しそうに話し続けるノノミ
しかし、ホシノの脳内では、一つの謎が解けた瞬間に、それとは比較にならないほど巨大で恐ろしい別の疑問がドミノ倒しのように次々と湧き上がってきていた
この巨大なお祭りのために使われた莫大な物資や資材が、すべてノノミの個人的な手配を通じて提供されている?
先ほどから二人で見て回っただけでも、アビドス校庭にズラリと並ぶ屋台の数は30軒を軽くくだらない。それを、ミレニアムの生徒会関係者や外部の専門業者も含めて、ノノミがほぼ一人で、あるいはその途方もない人脈と潤沢すぎる財力で完璧にサポートしきったというのか
一体、それだけのレベルの規模の費用や物資をどうやって調達したというのだ
(……ちょっと待って。もしかして、まさか……)
「の、ノノミちゃん……? もしかして、その、例のゴールドの『あのカード』を使ったり……してないよね……?」
「へ?」
ノノミの名前を聞いて、対策委員会の仲間やアビドスの誰もが真っ先に思い浮かべる存在。それは、超巨大企業ネフティスグループから個人的に支給され、キヴォトスの中なら大抵の巨大建造物や兵器すら札束の暴力で一括購入できてしまうという、あの燦然と輝くゴールドカードだ
かつて、ノノミとシロコとホシノの3人しかこの学校にいなかった過酷な時期、ノノミが「私がこのカードでアビドスの膨大な借金を全部払って解決しちゃいましょうか?」と笑顔で一括返済を提案したことがあった
あの時のことを思い返せば、今回のアビドス砂まつりのための莫大な準備費用や大量の物資の調達など、ノノミにとってはあのカードを一枚切れば文字通り「朝飯前」のあまりにも小さな出来事に違いなかった
当時、その借金一括返済の提案についてはホシノが「後輩にそんな背負い込み方をさせられない」と何度も頑なに断り、ノノミも最終的にはホシノの誇りを尊重して納得してくれていたはずだ
だからこそ、普段の買い物やちょっとした部活の生活費以外のカードの使い方について、ホシノもあまり詮索しないように配慮していたのだが――
「い、いやね……! 確かに借金返済以外でノノミちゃんがあのカードを使うのはおじさんに止める権利は無いけどさ、今回のお祭りの規模と資材の調達を考えたら、いくらなんでもその……個人で出すには金額が大きすぎやしないかい!?」
「ん、ホシノ先輩。落ち着いて。ノノミは今回の件で、例のゴールドカードも自分のお金も一切使ってないよ」
「えっ、そう……なの?」
「あはは……ホシノ先輩、そんなに真剣な顔で疑わなくても大丈夫ですよ。さすがに私だって、何でもかんでもカードの力やお金で強引に解決しようとは思っていませんよ」
シロコの即座のフォローに、ホシノは「はぁ……よかったぁ……」と、胸に手を当てて心底ホッとしたように大きく息を吐き出した
ノノミもまた、真っ先にカードの使用を疑われたことに対してトホホといった風に上品に苦笑いを浮かべる
では、一体カードも個人的な大金も使わずに、どうやってこれほど大規模な屋台の設営や豪華な物資のサポート、他校の生徒たちの誘致を実現させたというのだろうか
「実はですね、今回はあのカードこそ一切使っていませんが、ネフティスの『正規のビジネスコンタクト』と正式な調整窓口をフル活用させてもらったんです♪」
「ええっ!? ネフティスの窓口を……!?」
「はいっ。この前の列車砲を巡る大きな事件が一段落ついた後……執事さんから、改めて丁重な謝罪とお手紙をいただいたんです。その時に、『もし今後、アビドスで何か困ったことや、お嬢様が本当にやりたいことができた時は遠慮せずにいつでも私達を頼ってください』って仰っていただけて……
最初は、自分の引き起こしてしまった過去の複雑なしがらみや、ネフティスにこれ以上甘えるのはどうなのかなって、私自身すごく悩んだんです。でも、執事さんと私が昔ちゃんと正面から話し合えなかったことも、結局はあの事件のひとつの原因だったんだって気づいて……だから、思い切って今回のこのお祭りの計画について、執事さんに少しだけ相談してみたんです」
ノノミは少しだけ気恥ずかしそうに頬を指先でポリポリとかきながら、けれど胸を張って嬉しそうに言葉を続けた
「そしたら、単に大金をポンと渡されるような形ではなくて、グループが持つ広大なロジスティクスのネットワークや正規の流通の『ツテ』をうまく使って、必要な資材を正規の卸値で安く手配してくれたり、グループの倉庫ですぐに使えそうに眠っていた余剰のテントや照明機材をあちこちから揃えてくださったんです♪ それだけじゃなくて、屋台の設営や警備の裏方としても、ネフティスの下請けの業者さんたちが『お嬢様とアビドスのためなら!』って喜んで協力しに来てくれたんですよ!」
「な、なるほど……そういう事だったんだね……」
そういえば、あの激しい列車砲を巡る死闘が一段落ついた後、ノノミの付き人であるあの執事から、ホシノの元にも丁寧な謝罪と今後の関係改善に向けた挨拶の連絡が届いていた記憶がうっすらと蘇ってきた
しかし、まさかそこから話が発展して、アビドスの敷地全体を巻き込むほどの大掛かりなお祭りの設営まで、水面下で完璧にバックアップしてくれていたとは夢にも思わなかった
そのお陰で、昨日の時点では荒涼とした砂まみれの寂しい校庭でしかなかった場所に、これほど多くの魅力的な屋台や華やかな電飾が所狭しと立ち並び、自分たち対策委員会だけでなく、ミレニアムやゲヘナ、便利屋といった多くの学園の生徒たちや街の住民までもが、心から笑顔で楽しめる最高の空間が完成していたのだ
自分たちに向けられたその優しさと、周りの人々が寄せてくれた尽力の大きさに、ホシノは改めて胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた
『――アビドス砂まつりに参加されている皆さん、聞こえますでしょうか! 対策委員会の奥空アヤネです!』
「ん……? アヤネちゃんの声……? 放送室のスピーカーからかな……」
突如としてアビドスの広大な校庭の熱気を切り裂くように、校内スピーカーを通したアヤネの凛とした、しかし少し緊張の混じったアナウンスの声が全域に響き渡った
その突然の校内放送に、屋台のあちこちで食べ歩きやゲームを楽しんでいた他校の生徒たちや街の住民たちも、不思議そうに一斉に首をかしげ、校庭の中心へと一斉に耳を傾け始める
『本日のメインイベントの開催まで、残り20分となったことをお知らせいたします! 事前に皆さまへ配布いたしました特製パンフレットの最後のページに記載されている指定の場所へ、どうぞお早めにお集まりください! 』
きっぱりとした口調でそれだけを告げると、アヤネの臨時放送はピタリと終了した。スピーカーからツーンという残響音が消えたあとに残されたのは、遠くから聞こえる他校の生徒たちの「メインイベントが始まるって!」「どこに行けばいいんだっけ?」というワクワクしたざわめきだけだった
「メイン……イベント……?」
「あーっ! もう、そんな時間になっちゃったんですね……! 大変、準備を手伝いに行かなきゃ!」
「ん……時間の流れって、本当に楽しいことをしている時はあっという間に過ぎちゃうんだね」
きょとんと目を丸くして首を傾げるホシノの横で、ノノミは慌てたように両手をパチンと軽く叩き、シロコも「あ……」と少しだけバツの悪そうな、しかしどこか含みのある愛らしい仕草で自分の頬をポリポリと掻いた
しかし、その「メインイベント」の具体的な内容について、サプライズを受けた当事者であるホシノ一人だけが、未だに全く何も知らされていなかった
――そういえば、一般的に「お祭り」といえば、夜空を彩る大輪の打ち上げ花火だったり、みんなで櫓を囲んで踊る伝統的な盆踊りだったりといった、最後に全員で最高潮を迎える派手で華やかなクライマックスが用意されているのが定番だということを、以前聞いた覚えがある
もしかして、この手作りの『アビドス砂まつり』でも、最後の最後に何かとびきり大きなサプライズが仕掛けられているのだろうか
「ね、ねぇ……? ノノミちゃん、シロコちゃん。もし良かったら、おじさんにも何か会場の準備でお手伝いできることとか、ないかな……? ずっと見てるだけじゃ申し訳ないしさ……」
自分以外の全員が水面下で進めてきた計画の全貌が気になりつつも、この最高に温かいお祭りに、自分も最後くらいは少しでも何かで関わりたいと、ホシノは尋ねた
しかし、その申し出は予想外のノノミの強い言葉によってピシャリと遮られる
「ダメですよ、ホシノ先輩! ホシノ先輩には、これからシロコちゃんと一緒にぜひ行っていただきたい特別な場所があるんですから、こちらの会場の準備は私達にすべてお任せください!」
ノノミは満面の、どこか意味深で愛おしそうな笑みを浮かべながら、きっぱりと人差し指を立てて首を振った
「行ってほしい場所って……一体どこに連れていくつもりなのさぁ……?」
「ん、それは今から連れて行かれてからのお楽しみ。言ったらサプライズにならない。ほら、行くよホシノ先輩」
「わっ、ちょっと待ってよシロコちゃん!? ちゃんと自分で歩いてついていくから、そんなに強引に腕を引っ張らないでってば――っ!」
「お二人とも、メインイベントの準備はバッチリ整えておきますから、いってらっしゃいませ〜!」
「サプライズ多すぎるよー!」
シロコに細い手首をギュッと掴まれ、半ば強引に引きずられるようにしてその場を慌ただしく後にするホシノ
その後ろ姿に向けて、ノノミはどこまでも慈愛に満ちた笑顔を向けながら大きく手を振ると、自分自身も急ぎ足でそれぞれの担当ポジションへと小走りで駆け出していったのだった
♢
「ん、なんとかギリギリ時間に間に合った……。ホシノ先輩、大丈夫?」
シロコに細い手首をキュッと強く引かれ、息を完全に切らせながら強引に連れてこられたのは、他でもないアビドス高等学校の使い古された、錆びついたフェンスに囲まれた『屋上』だった
そこに至るまでの階段を、シロコがメインイベント開始までの時間の余裕のなさを理由に、ホシノのペースを完全に無視してほぼ全力疾走の訓練並みの速さで駆け上がってきたため、日頃から日常的なパトロールで鍛え上げているとはいえ素の体力はシロコが上なのか、流石のホシノも両膝に両手を突き、肩を激しく上下させながら「ぜー……はーっ……」と大きく荒い息を吐き出していた
「……し、シロコちゃん……ちょっとペースが速すぎるよぉ……おじさんの肺が爆発して破裂しちゃうかと思ったよ……」
「ご、ごめん……。でも、メインイベントの開始時刻のタイムリミットがもう数分前に迫っていたから、どうしても走って急ぎたかったの」
「ふう……冷たいお茶のペットボトルを買っておいて、本当に心から良かったよ……命拾いしたぁ……」
ホシノは先ほどの屋台巡りの途中で購入していたペットボトルの緑茶を一気にゴクゴクと喉へと流し込み、荒ぶる心音と熱を持った喉を鎮めるように必死に呼吸を整える
「……ふう。でも、こうして高い所から見下ろすお祭りの夜景も、なんだかすごく新鮮で、とっても綺麗だねぇ」
「……ん。そうだね。ここが一番綺麗に見える特等席」
すっかり荒い呼吸を落ち着かせたホシノは、シロコと共に古びた鉄の手すりへとそっと歩み寄り、眼下に広がる広大な校庭の景色を見下ろした
周囲が完全に漆黒の闇に包まれた寂しい砂漠の暗がりのなか、このアビドス高校だけが無数の温かな電飾の明かりに照り輝いている
そして、先ほどアヤネが校内放送で流したアナウンスの言葉通り、今まさに校庭の中央にある広い特設スペースへと、大勢の人々が一箇所に集まるようにゾロゾロと群れを成して集まり始めているのを上から眺め、この自分たちのために手作りされた小さなお祭りには、本当にたくさんの人たちが足を運んでくれたのだという温かな実感が、じわじわとホシノの胸の奥底へと染み渡ってきた
「それで? アヤネちゃんが放送で言ってたメインイベントって、いったいここから何を見るっていうのさ?」
ホシノはふと首を斜めに傾げ、隣にぴったりと並んで同じように夜空と校庭を見上げていたシロコの方へと顔を向けた
「……3……」
「……2……」
「……1……」
「どうしたのシロコちゃん、急にカウントダウンなんて始めちゃって……」
しかし、ホシノの素朴な問いかけに対してシロコは一切言葉を返さず、黒い制服のポケットから自分のスマートフォンをスッと取り出すと、発光する画面をじっと見つめながら淡々と、けれどはっきりと透明感のある声で数字を口にし始めた
「……0」
シロコの薄い唇から紡がれた最後の数字が夜風に溶けて消え去った、まさにその刹那
校庭のあちこちで賑やかに煌めいていたはずの屋台の電球や、特設ステージのまばゆい投光器の照明のすべてが、まるであらかじめ計画されていたかのように一斉にその光を失い、周囲は完全なる漆黒の闇へと一瞬で呑み込まれた
「えっ!? な、なにが起きてるの……!?」
辛うじて隣に立つシロコの華奢なシルエットが分かる程度の、あまりにも突然で容赦のない暗転だった
さっきまで賑やかで明るい人工の光のなかにいたせいで、完全に暗順応が追いついていないホシノの目は周囲をうまく捉えられず、思わず小さく狼狽えた声を漏らして、シロコの制服の裾をギュッと手で掴んだ
もしかして、何か予期せぬ停電のトラブルでも起きたのだろうか
あるいは、ヘルメット団のような不良グループが、この平和なお祭りを台無しにしようと一斉蜂起でも企てたのでは――いや、あり得ないか
つい先ほどまで、校庭のあちこちに風紀委員や正義実行委員など他学園の名だたる生徒たちがいたはずだ。あのメンツがいる前で大規模な襲撃を起こそうなんて命知らずが、いるはずも無かった
「ホシノ先輩、慌てないで。大丈夫……ほら、下をちゃんと見てて」
シロコが静かに、どこか誇らしげで愛おしそうな声音でそう耳元で囁く
その落ち着き払った声を聞き、これが不測の事故などではなく、最初から周到に用意されていた一大イベントの最高のワンシーンなのだとようやく察したホシノは、ぎこちなく息を呑みながら再び祭り会場となっていた漆黒の校庭の方へと静かに視線を戻す
すると
「……わぁ……っ」
先ほどまでの賑やかな人工の照明や、屋台の煌めきとはまったく違う、どこか儚く、そして息をのむほどに幻想的な淡い無数の光の粒が、漆黒の暗闇のなかでポツポツと、まるで夜空の美しい星々が地上に舞い降りて咲いたかのように広がっていった
皆が静かに集まっている校庭の中央のスペースで、一人ひとりの手元に大切に抱えられたその柔らかな光が、校庭の隅々まで温かな橙色にそっと染め上げていく
見下ろせば、校庭という巨大なキャンバスに、まるで無数の星屑をすくい取って地上へ敷き詰めたかのような、あたたかなオレンジ色の光の海が広がっている
「……すごく……綺麗。まるで、温かい生き物みたいにパチパチと瞬いてる……」
言葉を失い、ただただその幻想的で圧倒的な光景に目を奪われているホシノの横顔を見つめながら、シロコは静かに、けれどどこか誇らしげに口元を緩めて微笑んだ
「綺麗な光でしょ? でも、メインイベントの本番は、まだここからだよ」
「えっ……? まだ何か仕掛けがあるの?」
シロコが意味ありげに小さくコクリとうなずいた、まさにその瞬間だった。
校庭の暗闇のなかで一人ひとりの手元に大切に抱えられていた淡い温かな光が、静寂を破るようにひとつ、またひとつと地上を離れてふわりと浮き上がり始めた
柔らかなオレンジ色の光の粒たちは、夜風に心地よく揺られながら、天に向かってゆったりとした軌道を描き、少しずつ、けれど着実にアビドスの漆黒の夜空を埋めつくしていく
地上の温もりがそのまま空へと解き放たれ、星々すら霞むほど幻想的な光の群青が広がる光景に、ホシノは息をのんだ
「うわぁ……すごい……。ねえシロコちゃん、このゆっくり天に昇っていく温かい光はいったい何なのさ……?」
「あれはね、『スカイランタン』っていうんだよ。みんなでメッセージや願いごとを書いて、一緒に夜空へ飛ばしているの」
「ランタン……? あの、昔読んだ絵本とか外国の昔話で見たことがある、火を灯すやつだよね?」
どうしてわざわざ、これほどまでに辺りを真っ暗な闇に染め上げてから、そんな温かな光を夜空に打ち上げる必要があるのだろうか
もちろん、視覚的に神秘的で息を呑むほど美しい光景であることは間違いないのだけれど、それがこのアビドスの手作りのお祭りにおける「メインイベントの真骨頂」だと言われても、ホシノの頭の中にはまだいくつかの疑問符がフワフワと浮遊していたのだった。
「うん。実はこのアビドス砂まつりを企画して、準備の8割方くらいが形になった時のことなんだけど……最後の最後、みんなの記憶に一番残るはずの肝心な目玉となるメインイベントがどうしても決まらなかったんだ。私達もまともなお祭りになんて行ったことがなかったし、自分たちの知っている知識だけで思いつくものと言えば、せいぜい定番の打ち上げ花火くらいで……それも予算が足りなくて断念したの」
シロコは夜風に銀色の髪を小さく揺らしながら、当時の試行錯誤の様子を思い返すようにポツリポツリと語りかけた
「それで、どうしたのさ? セリカちゃんあたりがまた突拍子もないアイデアを出して大揉めでもしたかい?」
「ううん。どうしても手詰まりになってしまって途方に暮れていた私達は、困り果てて先生に相談してみたの。そしたら先生が、お祭り運営委員会の子達を紹介してくれたんだ」
「お祭り運営委員会……あー、そういえば! 以前にあの南国のリゾート地で出会った、あの賑やかで元気な子達だね?」
セリカが奇跡的に当てたリゾート地の宿泊利用券で、対策委員会のメンバー全員で夢のような最高バカンスを満喫するはずが、なぜか現地でカイザーPMCの非道な傭兵部隊や暴走したヘルメット団、さらには狂気的な愛を叫んで暴れ回るワカモと大乱闘を繰り広げるハメになったあの破天荒な事件――その渦中で出会った、お祭りのプロフェッショナルであるシズコたちの顔がホシノの脳裏に鮮やかに蘇ってきた
「そう。その子達に事情を話して相談したら、『アビドスの夜空と広大な敷地を生かすなら、絶対にスカイランタンが一番だよ!』って熱意たっぷりに教えてくれたの。夜空にみんなの願いと祈りを乗せて一斉に解放して飛ばす幻想的な光景は、きっとそこにいる全員の心に一生残るからって」
「なるほどねぇ……。プロのアドバイスだったわけだ。でもさ、シロコちゃん。どうしてわざわざ、そんな大仕掛けなものを夜空に飛ばそうなんて思ったのさ?」
ホシノの静かな問いかけに、シロコは少しだけ言葉を区切り、それからゆっくりと首を傾けて、まっすぐにホシノの瞳を見据えた。その水色の美しい瞳には、一切の迷いも偽りもない、どこまでも純粋で真摯な光が宿っていた
「……ホシノ先輩はさ。今でもまだ、白子のこと……心のどこかで、ずっと一人で気に病んでいるでしょ?」
その名前がシロコの口から直接発せられた瞬間、冷たい夜風が吹き抜ける屋上でありながら、ホシノの胸の奥で心臓が激しくドクリと大きく跳ね上がった
あの壮絶な事件と死闘の果てに、自分は先生や対策委員会の後輩たちに救われ、ようやく自分の足で未来へ向かって前を向いて歩き出せるようになった
それは何一つ偽りのない事実だ
けれど、だからといって「白子のことなどもう思い出さない」「胸の奥に刻まれた悲しい過去の傷跡なんて綺麗サッパリ消え去った」というわけでは決してなかったのだ。自分だけがこうして温かい日常にいて良いのかという、消え切らない小さな罪悪感
「シズコたちからそのスカイランタンの本来の由来や歴史を聞いた時、私達はメインイベントはこれしかないって確信したんだ。遠い昔のどこかのお祭りではね、大切な人を亡くしてしまった人達が、その深い悲しみや喪失感を乗り越えて、共に過ごした楽しかった思い出への感謝と、未来への確かな祈りの意味を込めて、夜空へランタンを解放して飛ばすんだって」
シロコが再び、ゆっくりと愛おしそうに視線を満天の夜空へと戻す。ホシノもまたそれに釣られるように顔を上げると、先ほどまで校庭のあちこちからバラバラに打ち上がっていた無数の小さな光の粒が、アビドスの澄んだ夜風に乗って一つに優しく寄り添い合い、まるで一つの大きな温かなオレンジ色の星座のように、アビドスの漆黒の夜空一面を優しい希望の色に染め上げていくのが見えた
「だから……参加してくれた人たちにはこれからの目標や夢を……私とホシノ先輩は白子という大切な仲間の旅立ちを祈る、そんなイベントにしたかったの」
そう静かに言い終えると、シロコは足元に置いていた通学カバンから、まだ火の灯っていない真っ白な薄紙製のランタンと、その底面の小さな金属フレームに取り付けるための丸い筒状の固形燃料のセットを丁寧に取り出した
「……」
ホシノは何も言わず、その差し出された軽量な竹の骨組みと真っ白な紙の塊を両手で大切に、そっと受け取った
シロコがカバンのポケットから取り出したマッチを擦り、シュッと乾いた音とともに小さな橙色の炎が夜闇の中で揺らめく
シロコはその火を、ホシノが持つランタンの固形燃料へと丁寧に移し替えた
熱気球と同じ物理法則なのだろう。内部に温かな空気が徐々に蓄積されるにつれて、手元で優しく支えていた紙の筒がふわりと円柱状に丸く膨らみ、まるで自らの意志を持った優しき生き物のように、ゆっくりと上へ上へと浮き上がろうとする柔らかな浮力がその手のひらへダイレクトに伝わってくる
(……白子)
この2年間という途方もなく長く、そして過酷だった歳月は、自分にとってあまりにも残酷で、けれど同時に痛いほど眩しいかけがえのない日々だった
大切なものを同時にいくつも失い、自分の無力さを呪い、自分自身を傷つけ責め続けなかった日なんて一日だってなかった
もしあの時、心の糸がほんの少しでも途切れていれば、自分は自らの手でこの命を投げ出してしまっていたかもしれない
それほどの出口のない暗い深淵の淵を、ずっと独りでさまよっていた
だけど、ノノミの底抜けに温かい優しさと包容力が、凍りついていた自分の心を溶かしてくれた。アヤネやセリカといった、頼もしく健気で可愛い後輩たちが「ホシノ先輩!」と心から頼ってくれたからこそ、自分は踏みとどまることができたのだ
そして、何よりも――いま目の前に並んで立っている、このシロコの存在がある
かつて失ってしまった白子と瓜二つの容姿を持ち、「自分が傷ついてでも守らなければいけない存在だ」と勝手に一人で重圧を背負い込んでいた大切な後輩。しかし、いつの間にか彼女の心も体も、自分が想像していたよりもはるかに大きく、強く、たくましく成長していた
今や守られるだけの存在ではなく、倒れそうな自分を力強く横から支えてくれる、けがれのない最高の相棒となっていたのだ
「……シロコちゃん」
「ん?」
二人がそっと手から離したランタンが、夜空のあちこちに舞う他の無数のオレンジ色の光の群れへと吸い込まれるように混ざり合い、ゆっくりと、けれど確実に視界の彼方、満天の星々のほうへと昇っていく
もう二度と、取り返しのつかない過去の恐怖や記憶に怯える必要なんかないんだ
「白子の昔話……もしこれから全部聞きたいって言うのならさ……」
嫌な思い出も、苦しかった悔しさも、そして何よりも大切だったあの温かく楽しかった日々のすべての記憶が、あの白い仔犬――白子との確かな絆の証だ
この絆を、これからは暗い心の奥底に隠すような懺悔ではなく、未来を照らす温かい物語として、これからのアビドスの仲間たちにしっかりと語り継いでいこう
「絶対に、おじさんの昔話は果てしなく長くなるから……今夜は朝まで覚悟してね?」
「……ふふ。それなら、アヤネやセリカやノノミ達も巻き込んで、対策委員会のみんなで朝までお喋りすればいいよ。それがいい」
いつの間にか、メインイベントのランタン打ち上げの演出が一段落した校庭のあちこちで一斉に屋台の電球や照明がパッと復旧し、温かな日常の賑やかな光が再び周囲を包み込んだ
その明るさのおかげで、月明かりとランタンの光だけだった時よりも、シロコの柔らかい表情がハッキリと、そしてこれ以上ないほど綺麗にホシノの目に映し出された
「それじゃあ、みんなが待っている校庭の中央会場の方に戻ろっか! まだ、みんなとお話ししたいことや食べたいものが山ほどあるんだからさ! 今日は朝まで徹夜でお話し大会だよ!」
「えっ……い、今から……!? 今日は流石に疲れたし……続きは明日ゆっくり……」
「もちろん今から! 善は急げ、って昔から言うでしょ?」
「ほ、ホシノ先輩、急にエンジンがかかりすぎ……っ! 腕引っ張らないで……!」
目を丸くして驚きつつも、シロコの口元には隠しきれない愛おしそうな、最高に柔らかく温かな笑みがこぼれていた
――白子も、きっとこの満天の空のどこかから、私達の今のこの最高の笑顔を優しく見守ってくれているはずだ
胸の奥にどこまでも満ちていく温かな光をギュッと抱きしめながら、ホシノはシロコの手をしっかりと引き、大好きな仲間たちの賑やかな歓声と笑顔が待つ校庭へと、勢いよく走り出したのだった
これにて無事に完結です!!
長い間このシリーズをお読みいただき、本当にありがとうございました!
実はもう少し早く最終回を書き終えるはずだったのですが、リアルの事情で色々とお休みが重なってしまい、ここまで伸びてしまいました……!
いつもならお話が終わったあとに長文の後書きを書くことはあまりないのですが、今回のシリーズだけは、どうしても書きたいことがあって筆を走らせています。
今回のシリーズには、私なりの強い願いを込めて書いていました。
私自身、約5年前に大切なペット(ニワトリ)を誤飲という形で亡くしてしまった過去があります。
その子の命日が近くなった日、ふと「このお話を書こう」と思い立って生まれたのが今作でした。
皆さんには、大切なペットや家族がいますでしょうか?
一緒に過ごせる時間は、いつ終わってしまうか本当に分かりません。
だからこそ、大切にできる「今」という時間を全力で愛して、遊んだり、たくさんの思い出を作ってあげてくださいね。
それでは、長くなってしまいましたが最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました!