目が覚める。
夜中に一度、起きた。
夢を見た。火の匂いと、走る足音と、誰かの名前を呼ぶ声。名前は出てこなかった。出てこなくても、体は覚えていた。枕を握った指が、白い。関節を一本ずつ開く。開いても、火の匂いはすぐには消えない。
隣のベッドで、ルチアが寝ていた。
栗色の髪が枕に広がって、呼吸が規則正しい。浅い。止まらない。肩が、毛布の下で小さく上下している。
それを確認して、また目を閉じられた。
前は、一度起きると朝まで開いたままだった。静かすぎて怖かった。敵のいない静けさは、敵が上手いときと同じ形をしていた。今も静かだ。静かの中にルチアの寝息がある。それだけで、もう一度閉じられる。
ナタルは壁の向こうで、ミラの隣で眠っている。
足音は聞こえない。聞こえないのが、たぶん、眠れているということだ。
窓の外を確認する。
鍵と木立を見る。地面までの高さ、飛び降りた場合の着地点、左へ出たときに屋根へ届く距離。枝の先が、冬より薄い緑を持っている。緑は、確認の項目には入っていない。入っていないものが、目に入る。
まだやっている。
たぶん、これは消えない。
でも今は、「あ、またやってる」と気づく。気づいて、少し口の端が動く。止めようとして止まったわけではない。気づいた、ということだけだ。
後ろで、毛布が擦れる。
ルチアが起きている。水色のリボンを棚から取り、口にくわえて髪をまとめ始める。窓の留め金に触っているあいだに、結び目ができる。いつもの順番だ。
「おはよう、リーネ」
「おはよう。起こした?」
「ううん。いつもの時間」
窓を閉める。確認は終わっている。ルチアがいる朝は、続きを途中で切れる。
制服を着る。
ボタンを留める。前は三つ目で慣れた。今は最初から手が知っている。一つ目、二つ目、三つ目。飛ばさない。軍服よりボタンが多い。多いほうが、今は楽だ。楽だと言える朝が、来ていた。
襟を正す。鎖骨の火傷の跡に、指が触れる。白っぽく引きつっている。痛くない。とっくに治った傷だ。形だけが残っている。掌では覆えない。覆わなくていい日を、今日は選ぶ。
一番上のボタンを外したままにする。
隠す日と、隠さない日がある。今日は隠さない日だ。理由はない。なんとなく。なんとなくで開けられる朝が、来ていた。
学年章を胸につける。二年のものだ。針の位置を、ルチアが一度間違える。直す。細かい作業は、得意なほうだ。報告書を畳む指だ。畳む先が、今は胸の鷲だ。鷲の意味は知っている。知ったまま、つける。
食堂へ行く。
廊下の石は、冬より滑らない。靴底が鳴る。鳴らしている。明るい場所では、鳴らす。鳴らさない歩き方は、ナタルのほうがいまだに上手い。
壁際の席に座る。出口に近くて、背後に壁がある。
これもまだ変わらない。たぶん変わらない。座る場所が同じでも、隣に座る人が違う。盆の上が、パンと、卵と、温かいスープだ。量が、まだ多い。多いまま、残せる日もある。残さなくていい日もある。今日は、残さないほうだ。
ミラが走ってくる。
「おはよう、リーネ! 今日の朝ごはん、パンが二種類あるよ」
「おはよう」
胡桃のほうを取る。取ると、ミラが「やっぱり」と言う。言われる前から、手が出ていた。
ナタルが黙って向かいに座る。
前は壁際にしか座れなかった。今は窓の光が来る側にも座れる。わたしより先に変わった場所もある。目の下のくまは残っている。口は結んだままだ。それでも、窓側だ。スープを飲む順番が、わたしより遅い。遅いのが、あいつの速さだ。
ルチアが来る。隣に座る。
「おはよう」
「おはよう、ルチア」
パンを食べる。前より少しゆっくりだ。まだ早い。四分はかからない。かからないまま、席に残れる。残れるのが、たぶん、変わったほうだ。ルチアがスープの温度を確かめてから匙をつける。隣でそれが見えると、自分の手も少しだけ遅れる。遅れたぶん、胡桃の形がわかる。
ミラが、パンをちぎりながら聞いた。
「リーネ、好きな食べ物決まった?」
宿題だ。目の前に出されればわかる。自分の中から一つに絞ることは、できなかった。講堂では言えた。砂糖漬けが好きだ、と。大勢の前では言えて、食堂の宿題は残っていた。谷へ行っても、湯を飲んで、蜂蜜はなくて、一つにはならなかった。
膝の上のパンを見る。胡桃は好きだ。好きだと、もう言った。
休日の通りで、紙の器に入っていた橙色の果実。砂糖の粒。舌の先が先に覚えている。講堂の言葉と、この席の言葉は、別だ。この席で、宿題に答える。
「……砂糖漬け、かな」
ミラが目を丸くする。
「やっと決まった!」
声が大きい。食堂の奥まで届きそうだ。
ルチアが横で、小さく口元をゆるめている。講堂でも聞いた顔だ。それでも、朝のスープの横で「かな」と言われると、別のゆるみ方をする。胡桃を噛む。甘さが、先に来る。
「かな、ってつけるなよ」
ナタルが言った。短い。パンを持ったまま、こちらを見ている。目は笑っていない。口の端が、ほんの少しだけ上がって、すぐ戻る。
「つける。まだ、かな、だもん」
「決まってるだろ」
「決まった、にしない。かな、のままにする」
ミラが「それもリーネちゃんだな」と言って、自分のパンを口に入れた。粉砂糖の匂いが、向こうの包みからする。教室まで持っていく気だ。持っていかれるほうだ。
ルチアが先に立つ。
「席、取っとくね」
「うん。すぐ行く」
手を振る。廊下の光の中へ、水色のリボンが消える。先に教室へ行く。止めない。
隣室の扉を叩く。ナタルが出てくる。ミラが包みを持って、あとから走ってくる。並んで、本館へ入る。
教室に入る。
ナタルと並ぶ。後ろからミラが、朝の菓子の包みを持って走ってくる。受け取って、歩く。入り口の左右を一度見る。癖だ。教室の扉でも、まだやる。
ルチアが窓際で手を振っている。隣が空いている。
座る。壁を背にする角度へ、体をずらす。窓際でも、出口は見える。
「おはよう」
「おはよう、ルチア」
窓の外を見る。朝日が中庭の石を白くしている。噴水の氷はない。
「今日もいい天気だな」
「ルチア、今日の午後の実技、一緒にやろう」
「うん」
「剣のほう」
「わかってる」
一拍ある。それから立つ。一歩、隣へ寄る。両腕を開く。下ろさない。
「ルチア、おいで」
「これ、ずっとやり直したかったの」
来てくれる。
背中に腕を回す。浅く。短く。
「……ここまで。今日は、ここまで」
切る。自分で切る。
ルチアの目が濡れている。口元はゆるんだままだ。袖で先に押さえる。
「うん。ここまでで、いい」
鐘は、まだ来ない。来ないまま、隣に座っている。
午前の授業。ドルフ先生の歴史だ。
教科書を開く。ヴェルダ戦争のページ。紙の匂いと、インクの匂い。
「正当な領土回復」と書いてある。まだ書いてある。変わっていない。
字はきれいだ。覚えやすい。試験に出しやすい。五ページに収まるように、六文字にまとめてある。
ペンを持つ。年号は入らない。入らないまま、紙の上を追う。火の匂いは、今は夢の側にある。授業の側には、インクがある。区別できる日と、できない日がある。今日は、インクの側にいる。
ユリウスも、このページを知っている。教室の何人かは、講堂でわたしが話した日から、五ページの外側があることを知っている。教科書は変わっていない。読む席が、同じでも、読む目が同じとは限らない。同じ紙を開いている。それだけだ。それでも、ゼロじゃない。
ドルフ先生の声が続く。前の列で、ペンが紙を擦る。同じ速度だ。同じ速度で、同じ六文字を書いている席がある。わたしの席だけが、傾く。傾いたまま、開いた襟の跡に春の光が落ちている。誰かが見ているかもしれない。見られても、眉は寄せない。寄せない日を、朝選んだ。選んだまま、午後まで持っていく。
隣で、ルチアのペンが止まらない。止まらないのが、あの子の仕事だ。わたしのノートは汚い。右に傾く。傾いた字で、「正当な領土回復」を写す。写す。試験の欄には、火の匂いは書けない。書けないまま、六文字を置く。
午後の実技。グレン先生の剣術。
寮から訓練場まで、廊下を歩く。ナタルが半歩後ろにいる。足音はしない。しないまま、壁には寄らない。ミラが後ろから「待ってよ」と言っている。待たない。待たない歩き方は、まだ残っている。残ったまま、先に土の上へ出る。
訓練場の土は、冬より柔らかい。靴底が沈む。風が、開いた襟に当たる。当たっても、閉じない。ルチアが、向かい側の列に立つ。一緒にやろう、と朝言った。
型の三本を、ルチアとやる。上段から振り下ろす。止まる。二本目も、止まる。三本目も、止まる。型なら、止まれる。止まれる相手が、目の前にいる。ルチアの受けが、少し遅い。遅いまま、届く前に止める。加減する、と朝言った。しすぎない、とルチアが返した。しすぎない幅が、まだ広い。広いとわかっていて、止める。
型が終わる。
グレン先生が、顎でこちらを示す。やれ、ではない。やるか、だ。
「やります」
木剣を受け取る。柄のタコが、いつもの位置に収まる。低い構え。半身。剣を体の横に引く。学院の型ではない。型ではないまま、今日も振る。
一回目。
振り下ろす。止めようとする。体が「殺す」を実行する。グレン先生が受ける。木と木の音が、腕の骨まで来る。止まっていない。止まろうとした跡だけが、肩に残る。
二回目。
同じだ。止めようとしている。止めようとしているのに、腕が先に行く。喉の位置が、先に決まる。決まった位置を、先生が払う。払われて、足が止まらない。次の敵はいない。いないとわかっていても、体は次を探す。
「もう一本」
自分で言う。言われてやるのではない。やる、と口に出す。
木剣の柄を握り直す。土を踏む。足の裏が、いまの地面を確かめる。三つ数える。肩が、少し落ちる。落ちたまま、構える。
三度目。
来る。振り下ろす軌道。喉の位置。指二本ぶん。
止まる。
腕の力だけではない。今日は、少しだけ、意志が間に合う。少しだけ。全部ではない。全部じゃないのに、止まった。止まった位置で、木剣が震える。自分の手が震えているのではない。止めた反動だ。反動を、握ったまま待つ。待つ間に、土の匂いが戻る。冬の土とは違う。湿っている。
グレン先生が何も言わない。頷くだけ。
「今日はここまでだ」
「はい」
笑わない。苦笑いもしない。止まったことを、止まったまま置く。置いて、木剣を返す。柄から手が離れる。離れても、指の形が少し残る。残った形を、開く。
ルチアが、列の端で待っている。木剣を持ったまま、こちらを見ている。朝の目だ。怖がっていて、待っている。頷く。言葉は、要らない。
教室に戻る。みんなが帰ったあと、自分の机だけが残っている。窓から入る光が、机の傷まで届いている。ルチアの席は空だ。先に寮へ戻ると言っていた。待たせない。待たせないで、一枚だけ書く。
便箋を出す。
家の人への手紙だ。墓の石には、口で言った。紙には、書けなかった。宛名の空け方を、知らなかった。出し方も、知らなかった。知らないまま、今日は紙を出す。
ペンを持つ。インクが、先に点を作る。点を見ている。
「母へ」
書いて、止める。父の名が出てこない。顔も出てこない。六つか七つのころにいなくなった人の名を、紙の上に置けない。母だけ書くのも、違う。消す。インクがにじむ。
「元気です」
書いて、見る。石に向かって言った言葉だ。石は受け取らない。紙も受け取らない。受け取らないとわかっている言葉を、二度置くのは、嘘に近い。消す。にじんだ跡を、指で押さえる。押さえても、薄く残る。
今日も上手くは書けない。字は汚い。飾り方も知らない。宛名の書き方も、出し方も、知らない。出す先はない。家の人は、もうそこにいない。いない人に、紙は届かない。届かないとわかっていて、残った空白に、一行だけ置く。
「生きてます。砂糖漬けが好きになりました」
報告書みたいだ。事実と、結果。感想の欄はない。軍に感想の欄はなかった。
でも本当のことだ。生きている。砂糖漬けが好きだと、口にも出した。石の前では、甘いものは王都にある、とだけ言った。
ミラの手紙は手伝えた。人の分は言える。自分の分は、輪郭がなかった。輪郭がないまま、一行だけ置いた。置いた、なら確かだ。
便箋を畳む。端がずれる。ルチアがくれる紙みたいには、まっすぐにならない。ならないまま、ポケットにしまう。出す宛がない紙を、持って歩く。持って歩く場所が、今日はあった。胸の学年章の下で、紙の角が当たる。当たるたびに、一行がそこにある。
放課後。中庭のベンチ。
ルチアが先に着いていた。石の端に、水色のリボンが風で一度跳ねる。隣を空けてある。空ける形が、教室と同じだ。同じ空け方を、噴水の前でもする。
座る。背後は植え込みだ。出口は見える。見える位置に、また座っている。変わらない。変わらない場所から、ルチアの横顔を見る。灰青の目が、水のほうを見ている。見てから、こちらを見る。口元がゆるむ。遅れない。遅れない笑いを、隣でされるのは、まだ新しい。
噴水の水が、冬より高い音を立てている。冬枯れの枝の先は、薄緑だ。今朝、教室の窓から見えたのと同じ緑だ。石のベンチは、冬より少し温かい。日が当たっている。当たっている側に、ルチアの手が置いてある。指の間から、光が落ちる。
手を伸ばす。ルチアの手に重ねる。
今日は震えない。明日は震えるかもしれない。でも今日は震えない。掌が温かい。知っている温度だ。知っている温度の上に、自分のタコのある手が乗る。指が一本ずつ重なる。重なっても、囲わない。囲わない距離で、握る。
握り返す。強くない。離れないぶんだけ。
ルチアの指が、返してくる。白い。細い。剣のタコがない。ない手が、ある手の下から、静かに来る。
しばらく、何も言わない。言わなくていい時間が、噴水の音の中にある。言わないまま、空を見る。見る順番が、確認ではない。確認は朝、窓で終わっている。今は、見るだけだ。
王都の空は、高い。
入学した日もそう思った。あの日は馬車の幌をめくって見た空だった。山に切り取られていない空。覗き穴ではない空。誰も武装していない通りの上の空。
今日は中庭のベンチから見ている空。同じ空だ。でもあの日は一人だった。今日は隣に人がいる。風が、開いた襟に当たる。当たっても、閉じない。閉じないまま、空を見る。
「今日もいい天気だな」
前にもこう言った。今朝、教室の窓でも言った。入学した日は、たぶん嘘だった。天気なんて見ていなかった。綺麗だな、と思って、あと何時間で暗くなるかを計算していた。計算が先で、綺麗はあとだった。
今朝は、見ていたつもりだった。今は、見ている。
空が高くて、雲が流れていて、風がルチアの髪を揺らしている。水色のリボンが、光の中で一度だけ跳ねる。跳ねた先に、噴水の水が光る。
まだ夜中に起きる。まだ手が震える。まだ壁際に座る。まだ窓を確認する。まだ夢に火の匂いがする。まだ剣を止められない日がある。
全部まだある。
でも、砂糖漬けが好きだとわかった。ルチアの手が温かいと知っている。その寝息で、もう一度目を閉じられる。ナタルが別の部屋で眠れている。ミラの声で、口の端が動く。グレン先生の頷きで十分だと思える。三つ数えると、肩が落ちる。足の裏を確かめると、戻れる日がある。
全部、前はなかった。
ポケットの中で、便箋の角が指に当たる。一行だけの紙だ。出す先はない。それでも、書けた。
わたし、壊れてるらしいです。
たぶん、本当に壊れています。
でも、壊れたまま、ここにいます。
これにて完結になります。
長い物語だったと思いますが、ここまで読んでくださりありがとうございました。