火吹き花を倒した後も、熱は弱まらなかった。
むしろ、道が開けたぶん、奥から吹いてくる熱風がまともに身体へぶつかってくる。
ローズが倒した赤い花は、地面に横たわったまま動かない。
さっきまで炎を噴いていたとは思えないほど、静かだった。
俺はその花を跨ぎながら、思わず振り返る。
「……本当に火を吹いてたんだよな。」
「見たでしょ。」
ローズが淡々と答える。
「見たけど、信じたくないこともある。」
「人間って面倒。」
「自覚はある。」
ひまわりが焦げた枝を拾い、すぐに顔をしかめて手を離した。
「あつっ。」
「触るな。」
ローズが短く言う。
「まだ熱が残ってる。」
「うぅ……先に言ってよ。」
「触ると思わなかった。」
「そこは人間社会でも同じだな。」
俺は苦笑しながら荷物を背負い直す。
好奇心で火傷する生き物。
まったく、文明を持っても人類は大して変わらない。
いや、ひまわりは人類ではないが。
似たようなものだ。
三人は再び歩き始めた。
火吹き花の群生を抜けた先は、さらに赤い花が濃くなっていた。
地面を覆う花弁は、風に揺れるたび炎の波のように見える。
その隙間を縫うように、黒い岩の道が細く続いていた。
踏み外せば火傷。
近付きすぎれば炎。
その上、水は少ない。
観光地なら星一つだ。
いや、命があるだけ星を付ける店側が図々しい。
「オリマー。」
ローズが振り返らずに言う。
「足元だけ見ないで。」
「周りも見る。」
「ああ。」
「でも足元も見ないと死ぬ。」
「両方。」
「簡単に言うな。」
そう言いながらも、俺は視線を前後左右へ動かした。
足場。
岩陰。
花の色。
風の流れ。
逃げ込めそうな隙間。
仕事で道を走る時も、見る場所は一つではなかった。
前の車。
歩行者。
標識。
信号。
荷物の揺れ。
目的地までの時間。
見るものが多いほど疲れる。
だが、見落とせば終わる。
ここでも同じだった。
しばらく歩いて、俺は眉をひそめた。
「……静かだな。」
ひまわりも辺りを見回す。
「ほんとだ。」
「虫さんもいない。」
「鳥さんもいないね。」
昨日までは、遠くで何かが鳴く声が聞こえていた。
草の間を走る小さな影もあった。
だが、今は何もない。
赤い花だけが揺れている。
熱風だけが音を立てている。
ローズは足を止めない。
「いる。」
「見えないだけ。」
「隠れてるのか。」
「うん。」
「どうして?」
ローズは少しだけ間を置いた。
「怖いから。」
その言葉に、俺は背筋が冷えるのを感じた。
暑いはずなのに。
「何が怖いんだ。」
ローズは答えなかった。
答えられないのかもしれない。
ただ、彼女の歩調は少しだけ遅くなった。
警戒している。
それは分かった。
ローズがここまで慎重になる相手。
少なくとも、軽く考えていいものではない。
赤い花道を進むにつれ、地面の様子が変わっていく。
黒い岩が増えた。
花はところどころ焼け焦げ、灰のように崩れている。
何かが通った跡だった。
ひまわりが小さく声を上げる。
「ねぇ、これ……。」
彼女が指差した先。
黒い岩に、巨大な窪みが刻まれていた。
丸い。
深い。
足跡だった。
俺はしゃがみ込む。
自分の靴を横に置いて比べる。
馬鹿みたいに大きい。
冗談なら笑える。
現実なら逃げたい。
残念ながら、だいたい現実は笑えない方を選ぶ。
「でかいな。」
ひまわりが息を呑む。
「チャッピー?」
「似てるけど、違う。」
俺は足跡の縁へ指を置く。
岩が欠けている。
押し潰されたというより、焼かれて脆くなったところを踏み抜かれたようだった。
「かなり重い。」
「それに、熱い。」
足跡の底から、まだ熱が立ち上っていた。
俺はすぐに手を離す。
「通ったばかりかもしれない。」
ローズが静かに言う。
「この辺りの主。」
「主……。」
ひまわりが分かりやすく不安そうな顔をする。
「強いの?」
ローズは即答しなかった。
その沈黙が、何より答えだった。
やがて、短く言う。
「強い。」
俺は足跡の先を見る。
花は焼け焦げ、岩は砕けている。
この道を作ったものがいる。
そして、それは俺たちよりはるかに大きい。
「見つからないように進もう。」
俺が言うと、ローズは小さく頷いた。
「それがいい。」
「戦わないの?」
ひまわりが尋ねる。
ローズは前を見たまま答える。
「今は駄目。」
「勝てない?」
「勝つとか負けるとかじゃない。」
「準備がない。」
その言葉に、俺は少しだけ安心した。
無謀に突っ込まない。
ローズは強い。
だが、強さだけで何とかしようとするほど馬鹿ではない。
そこは本当に助かる。
人間の中には、勝てる根拠もないのに気合いで突破しようとする連中がいる。
だいたい荷物も納期も人生も壊す。
三人は足跡から離れ、岩壁沿いに進んだ。
できるだけ花の少ない道を選ぶ。
風の向きも確認する。
熱風が正面から来る場所は避け、岩陰を伝う。
歩く距離は伸びた。
だが、体力の消耗は抑えられた。
ローズは黙々と先導する。
ひまわりは珍しく口数が少ない。
俺も余計なことは言わなかった。
喋るだけで喉が渇く。
水は減っている。
残りは果皮の器で二つと半分。
今日中に補給できなければ、かなり厳しくなる。
「少し休もう。」
俺がそう言うと、ローズは近くの岩陰を指差した。
「向こう。」
「日が当たりにくい。」
三人は岩陰へ移動し、荷物を下ろした。
腰を下ろした瞬間、身体が重くなる。
自分で思っていた以上に疲れていたらしい。
俺は果皮の器を取り出す。
「一口ずつだ。」
「分かってるよ。」
ひまわりは受け取ると、本当に少しだけ口へ含んだ。
それから名残惜しそうに器を見る。
「もっと飲みたい……。」
「飲みたい時に全部飲むと、後で困る。」
「分かってるけどぉ。」
「偉いぞ。」
「子ども扱いしてない?」
「してる。」
「ひどい。」
そう言いながらも、ひまわりは少し笑った。
その笑顔に、場の空気が少しだけ緩む。
ローズは水を飲まず、赤い花道の奥を見つめていた。
「ローズ。」
俺が声を掛ける。
「飲まなくていいのか。」
「まだ平気。」
「我慢してるなら飲め。」
「我慢じゃない。」
いつもの短い返事。
だが、俺は少しだけ眉をひそめた。
「無理はするなよ。」
「倒れられると困る。」
ローズがこちらを見る。
「困る?」
「ああ。」
「先導役がいなくなる。」
「それだけ?」
「それだけじゃない。」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
ローズも同じように目を瞬かせる。
ひまわりが横でにやにやしていた。
余計な観察力だけはある。
「仲間が倒れたら困る。」
俺は言い直した。
「誰でも同じだ。」
ローズは少しだけ視線を逸らす。
「……そう。」
短い返事だった。
けれど、その耳が少し赤く見えた。
暑さのせいかもしれない。
そういうことにしておく。
世の中には追及しない方が平和なことがある。
休憩を終えると、俺たちは再び歩き始めた。
太陽は傾き始めていた。
それでも暑さは衰えない。
むしろ、岩に溜まった熱がじわじわと戻ってくる。
足元から焼かれているような感覚だった。
ローズは何度か立ち止まり、周囲を確認する。
そのたびに俺たちも息を潜めた。
遠くで、一度だけ低い音がした。
ドン。
岩が割れるような、地面を叩くような音。
ひまわりが俺の袖を掴む。
ローズは無言で首を横へ振った。
行くな、という意味だった。
俺たちは遠回りを選んだ。
細い岩場を抜け、赤い花を避け、黒い斜面を下る。
その先に、ようやく少し広い岩陰を見つけた。
「今日はここまでにしよう。」
俺は足を止めた。
「暗くなってからこの道を歩くのは危険すぎる。」
ローズも頷く。
「ここなら風も少ない。」
ひまわりはその場へ座り込んだ。
「つかれたぁ……。」
「よく歩いた。」
「褒められた。」
「倒れなかったからな。」
「褒め方が地味!」
それでも、ひまわりは嬉しそうだった。
俺は荷物を下ろし、野営の準備を始める。
乾いた苔。
枯れ枝。
風除けの石。
火を起こす場所は慎重に選んだ。
この土地で焚き火をするのは妙な気分だった。
周りが勝手に燃えそうなのに、わざわざ火を作る。
人間は本当に不便な生き物だ。
それでも夜になると気温が下がる。
火は獣除けにもなる。
何より、焚き火があると少し安心できる。
ぱち、と小さく火が鳴った。
三人は焚き火を囲む。
食事は残りの木の実と果実を分けただけだった。
ひまわりは不満そうに果実を見つめる。
「明日は何か採れるかな。」
「採らないと困る。」
俺は地図代わりの葉を広げる。
今日歩いた道を、黒い木炭で簡単に記す。
火吹き花の群生。
巨大な足跡。
焼けた岩場。
遠回りした斜面。
今日の野営地。
こうして書いておけば、戻る時にも役に立つ。
「また地図?」
ひまわりが覗き込む。
「道を覚えるためだ。」
「森って変わるよ?」
「変わっても、何もしないよりはいい。」
ローズも地図を見つめる。
「細かい。」
「仕事の癖だ。」
「荷物を運ぶ時、道を間違えたら困るからな。」
ひまわりが顔を上げる。
「オリマーのお仕事って、ずっと帰ったり出かけたりしてるんだよね。」
「まあ、そうだな。」
「朝に出て、夜に帰ることもある。」
「何日か家を空けることもある。」
「へぇ……。」
ひまわりは目を輝かせる。
「いろんな場所に行くんだ。」
「行くけど、観光じゃないぞ。」
「荷物を降ろして、次の場所へ行って、また運ぶ。」
「景色を見る暇なんてあまりない。」
「でも、いろんな場所を知ってるんでしょ?」
「少しはな。」
ひまわりは羨ましそうに笑った。
「いいなぁ。」
「私も、いろんな場所に行ってみたい。」
その夢は、彼女らしい。
明るくて、真っ直ぐで、外の世界に向かっている。
俺は自然と笑っていた。
「森を出たら、いくらでも聞かせてやる。」
「ほんと?」
「ああ。」
「北海道の雪も。」
「海沿いの朝焼けも。」
「夜の高速道路も。」
「サービスエリアのカレーも。」
「最後だけ急に現実的!」
「大事だぞ。」
「長距離の食事は命に関わる。」
ひまわりは声を立てて笑った。
ローズも少しだけ口元を緩めていた。
その表情を見て、俺はふと思う。
この子たちは、どこまで外の世界を知っているのだろう。
どこまで覚えているのだろう。
聞いていいことなのか、悪いことなのか。
その判断が難しい。
焚き火の火が揺れる。
赤い光がローズの横顔を照らした。
彼女はじっと火を見つめていた。
炎が平気なはずなのに、その目はどこか遠い。
「オリマー。」
珍しく、ローズから声を掛けてきた。
「何だ?」
「家って。」
そこで言葉が止まる。
ローズは少しだけ考え、続けた。
「どんな場所?」
ひまわりも静かになる。
俺は木の枝を火へくべた。
少しだけ考える。
「難しいな。」
「建物のことなら、俺の家は普通だ。」
「広くもない。」
「特別綺麗でもない。」
「仕事から帰ると、玄関があって。」
「靴を脱いで。」
「風呂に入って。」
「飯を食って。」
「眠る。」
「それだけだ。」
ローズは黙って聞いている。
「でも。」
俺は続けた。
「帰ると、少し力が抜ける。」
「外ではずっと気を張ってるからな。」
「事故を起こさないように。」
「荷物を壊さないように。」
「遅れないように。」
「誰かに迷惑をかけないように。」
「ずっと考えてる。」
火が小さく爆ぜる。
「でも家に帰ると。」
「今日も終わったって思える。」
「荷物を届けた。」
「無事に帰った。」
「それだけで少し安心する。」
ローズは小さく呟いた。
「安心する場所。」
「ああ。」
「そういう場所だと思う。」
ひまわりが頷く。
「いいなぁ。」
「帰る場所。」
ローズは火を見つめたまま、静かに言った。
「……いいな。」
その声は本当に小さかった。
でも、はっきり聞こえた。
「ローズ?」
「私も。」
ローズはゆっくりと言葉を選ぶ。
「帰りたい。」
「でも。」
「どこへ帰ればいいのか分からない。」
焚き火の音だけが続く。
ひまわりも何も言わない。
「どうして帰りたいのかも分からない。」
「誰かがいるのか。」
「何かがあるのか。」
「何も分からない。」
「でも。」
ローズは自分の胸へ手を当てた。
「ここだけが。」
「ずっと言ってる。」
「帰りたいって。」
俺はすぐに答えられなかった。
記憶ではない。
理由でもない。
ただ感情だけが残っている。
それがどれほど苦しいことなのか、俺には分からない。
分からないのに、簡単な言葉で慰めるのは違う気がした。
だから、少し考えてから言った。
「じゃあ、帰ろう。」
ローズが顔を上げる。
「どこへ?」
「それを探す。」
「分からないなら、探せばいい。」
「思い出せないなら、帰ってから思い出せばいい。」
「帰る場所がまだ分からないなら。」
「分かるまで一緒に探せばいい。」
ローズは目を見開いた。
「そんなの。」
「できるか分からない。」
「できるかどうかは、やってから考える。」
「人間って、そうやって無駄にあがく生き物だ。」
ひまわりが小さく笑う。
「オリマーらしい。」
「褒めてるのか?」
「褒めてるよ。」
多分。
きっと。
人間社会なら査定に響かない程度の褒め方だ。
ローズはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「変な人。」
「よく言われる。」
「でも。」
ローズはほんの少しだけ笑った。
「嫌いじゃない。」
その言葉に、ひまわりが目を輝かせる。
「ローズが素直だ!」
「うるさい。」
「照れてる?」
「暑いだけ。」
「夜なのに?」
「暑いの。」
俺は思わず笑ってしまった。
ローズはむっとした顔でそっぽを向く。
けれど、焚き火の光に照らされた横顔は、さっきよりずっと柔らかかった。
遠くで、低い音がした。
ドン。
三人の会話が止まる。
もう一度。
ドン。
地面がわずかに震えた。
焚き火の火が揺れる。
ローズの表情が一瞬で変わった。
「近い。」
俺は息を呑む。
「さっきの主か。」
ローズは頷く。
「たぶん。」
ひまわりが身を寄せる。
「来るの?」
「分からない。」
ローズは立ち上がり、暗い花道の奥を見つめた。
夜の赤い花は黒く沈み、その奥だけがぼんやり赤く光っている。
まるで地面の下で、まだ炎が眠っているようだった。
俺は焚き火を小さくし、荷物を手元へ寄せる。
逃げるならすぐ動けるように。
戦うのではない。
生き残るためだ。
しばらく、三人は息を潜めた。
低い足音は遠ざかったり、近付いたりしながら、やがて闇の奥へ消えていった。
ひまわりが小さく息を吐く。
「……怖かった。」
「ああ。」
俺も同じだった。
ローズはまだ奥を見つめている。
その背中は小さい。
けれど、逃げない。
「ローズ。」
俺が呼ぶと、彼女は振り返った。
「明日は、もっと慎重に進もう。」
「うん。」
「でも。」
「避けてばかりじゃ進めないかもしれない。」
その言葉に、俺は黙って頷く。
灼熱花道の奥には、あの主がいる。
避けて通れるのか。
それとも、いつか向き合わなければならないのか。
今は分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
この土地は、まだ俺たちを帰すつもりなどない。
焚き火の火が小さく揺れる。
赤い花道の奥で、もう一度だけ低い唸り声が響いた。
それはまるで、灼熱の番人がこちらを見つけた合図のようだった。
夜が明けた。
眠れた、とは言い難い。
何度も地面の揺れで目を覚ました。
遠くから聞こえる低い足音。
黒い花道の奥で揺れる赤い光。
そのたびに俺は荷物へ手を伸ばし、逃げられる体勢を取った。
結局、何も来なかった。
それでも朝になった時、身体は休んだ気がしなかった。
「……最悪の寝心地だな。」
俺が呟くと、ひまわりが岩陰で膝を抱えたまま頷いた。
「夢の中でも、何かに追いかけられてた……。」
「それは嫌だな。」
「すごく嫌だった。」
ローズはすでに起きていた。
赤い花道の奥を見つめている。
昨夜と同じ方向だ。
「足音は?」
俺が尋ねると、ローズは振り返らずに答えた。
「遠い。」
「でも、いる。」
安心できる言葉ではなかった。
まあ、この森に来てから心の底から安心できた瞬間などほとんどない。
人間は慣れる生き物らしいが、危険に慣れるのはただの鈍化だ。
俺は荷物をまとめる。
水は残り少ない。
食料も心細い。
長居すればするほど不利になる。
「進もう。」
「ここで待っていても、水は増えない。」
ひまわりが立ち上がる。
「水、探さないとね。」
「ああ。」
「それに、あの主の縄張りからも離れたい。」
ローズが静かに頷く。
「離れられれば。」
その一言が引っかかった。
「離れられないのか?」
「分からない。」
「でも。」
「この道を通るなら、近付く。」
実にありがたい情報だ。
避けたいものに近付かなければ進めない。
世界というものは、こちらの都合を本当に聞かない。
三人は野営地を後にした。
朝の光が赤い花を照らしている。
昨日の夜は黒く沈んでいた花々が、今はまた炎のように揺れていた。
その美しさが、少し腹立たしい。
危険な場所ほど綺麗に見えるのは、自然界の悪趣味な設計だ。
しばらく進むと、昨夜の足音の正体が残したものが現れた。
巨大な足跡。
昨日見たものより新しい。
岩の縁がまだ熱を持っている。
焦げた花が灰になり、風に崩れていく。
「近いな。」
俺はしゃがみ込まず、少し離れて見るだけにした。
手で触る必要はない。
昨日、学習した。
人間にも成長機能くらいはある。
「この向きだと、俺たちと同じ方向へ進んでる。」
足跡は、赤い花道の奥へ続いていた。
ひまわりが不安そうにローズを見る。
「どうする?」
ローズは少し考える。
「足跡の横を行く。」
「真正面は駄目。」
「追いかける形になるからか。」
「うん。」
俺は周囲を見渡した。
右手には黒い岩壁。
左手には背丈ほどの赤い花。
足跡の横を進むなら、花の間を抜けるしかない。
「火吹き花は?」
「少ない。」
ローズは花を見つめる。
「でも、ないとは言えない。」
「いつも通り最悪寄りだな。」
「最悪?」
「気にしなくていい。」
三人は花の間へ入った。
赤い花弁が肩や腕をかすめる。
熱を帯びているのか、肌に触れるたびじりっとした感覚があった。
ローズが先頭で花をかき分ける。
俺はその後ろ。
ひまわりは最後尾だ。
「ひまわり、離れるなよ。」
「うん。」
「足音がしたら?」
「すぐ止まる。」
「火を吹きそうな花があったら?」
「触らない。」
「よし。」
「なんか授業みたい。」
「命の授業だ。」
「すごく嫌な授業……。」
それでも、ひまわりの声には少しだけ元気が戻っていた。
怖がっていても、前へ進む。
それが彼女の強さなのだと思う。
花の間を抜ける途中、ローズが急に手を上げた。
三人はその場で止まる。
ドン。
遠くで音がした。
続けて、もう一度。
ドン。
足元の小石が震える。
ひまわりが息を呑む。
ローズはゆっくりと身を低くした。
俺たちもそれに倣う。
赤い花の隙間から、黒い岩場の向こうが見えた。
そこにいた。
巨大なチャッピー。
だが、これまで見た個体とは違う。
丸い身体は黒く焼けた岩のようで、背中や頭のあちこちから炎が立ち上っている。
口元からは白い煙。
足を踏み出すたび、地面の花が焦げて縮んだ。
熱で空気が歪み、姿が揺れて見える。
まるで炎そのものが、チャッピーの形をして歩いているようだった。
「……あれが。」
俺の声は自然と小さくなった。
ローズが頷く。
「マグマチャッピー。」
「この辺りの主。」
ひまわりは完全に固まっていた。
無理もない。
俺だって今すぐ現実を辞退したい。
「こっちには気付いてるか?」
「まだ。」
ローズの声は低い。
「動かないで。」
マグマチャッピーはゆっくりと岩場を進んでいた。
時折、地面へ鼻先を近付ける。
何かを探しているようにも見える。
「匂いを嗅いでるのか。」
「たぶん。」
「風向きは?」
ローズは花の揺れを見た。
「向こうからこっち。」
つまり、今は俺たちの匂いが届きにくい。
運がいい。
この森に来てから、運というものがいかに頼りないか学んだが、今だけはありがたい。
俺はゆっくり周囲を見る。
右へ行けば岩壁。
左は花の群れ。
後ろに下がれば来た道。
前方にはマグマチャッピー。
逃げるなら、後ろか左だ。
だが、左の花の奥がどうなっているか分からない。
「後退する。」
俺は小声で言った。
「ゆっくりだ。」
ローズが頷く。
三人は音を立てないように、少しずつ後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
ひまわりも懸命に息を殺している。
その時だった。
カラン。
小さな音が響いた。
ひまわりの足元で、石が転がっていた。
一瞬、世界が止まった。
マグマチャッピーの動きも止まる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
炎をまとった頭がこちらを向いた。
青い目が、赤い花の隙間から俺たちを捉える。
ローズが叫んだ。
「走って!」
その声と同時に、俺はひまわりの腕を掴んだ。
三人は赤い花の中を駆け出す。
背後で咆哮が響いた。
熱風が背中へ叩きつけられる。
地面が揺れる。
マグマチャッピーが追ってきた。
「こっち!」
ローズが先導する。
俺はひまわりを引っ張りながら走る。
花弁が顔に当たる。
熱い。
息を吸うだけで喉が焼けるようだった。
背後で岩が砕ける音がした。
振り返る余裕はない。
それでも、巨大な影が迫っていることは分かった。
熱が近い。
「速い……!」
ひまわりが叫ぶ。
「喋るな、走れ!」
自分で言いながら、俺も息が続かない。
足元は悪い。
黒い岩は不規則に盛り上がり、ところどころ亀裂がある。
転べば終わりだ。
ローズは何度も振り返りながら走っている。
最後尾へ下がろうとしているのが分かった。
「ローズ、前にいろ!」
「嫌!」
即答だった。
「二人を守る!」
「守る前に逃げろ!」
「逃げてる!」
まあ、確かにそうだ。
言い返す余裕があるのが腹立たしいほど頼もしい。
前方に岩壁が見えた。
行き止まり。
いや、完全な壁ではない。
細い裂け目がある。
人一人が通れるかどうか。
「そこだ!」
俺は叫ぶ。
「裂け目に入れ!」
ローズがすぐに進路を変える。
ひまわりが先に飛び込む。
続いて俺。
最後にローズが滑り込んだ。
その直後。
ドゴォッ!!
岩壁にマグマチャッピーが激突した。
衝撃で小石が降ってくる。
ひまわりが悲鳴を上げる。
俺は彼女を抱えるように庇った。
裂け目の入口に、巨大な口が突っ込まれる。
牙が岩を削る。
熱気が流れ込んできた。
「奥へ!」
ローズが叫ぶ。
三人は這うようにしてさらに奥へ進む。
入口は狭い。
マグマチャッピーの身体では入れない。
だが、口先は届く。
熱で空気が揺れ、息をするのも苦しい。
「水!」
俺は荷物から濡らした葉を取り出し、ひまわりの口元へ当てる。
「これで息をしろ。」
「う、うん……!」
自分にも同じように葉を当てる。
ローズは入口を睨んでいた。
「来るな……。」
低く呟く。
マグマチャッピーは何度も岩へ体当たりした。
そのたびに裂け目が揺れる。
崩れるかもしれない。
入れなくても、潰されたら同じだ。
冗談ではない。
いや、冗談ならかなり質が悪い。
「このままじゃ岩が持たない。」
俺は奥を見た。
裂け目はさらに続いている。
細いが、通れそうだ。
「奥へ抜ける道があるかもしれない。」
ローズが頷く。
「行って。」
「お前もだ。」
「私は後ろ。」
「またそれか。」
「早く。」
言い争う時間はない。
俺はひまわりを先に進ませ、自分も後に続いた。
ローズは最後尾で、マグマチャッピーの動きを見ている。
狭い岩の間を進む。
肩が岩へ擦れる。
荷物が引っかかる。
俺は蔦を解き、一部の荷物を手で持ち替えた。
焦るな。
引っかかれば遅れる。
遅れれば死ぬ。
配送と同じだ。
乱暴に扱えば、結局余計に時間がかかる。
こんな状況でも仕事の癖が出るあたり、自分でも呆れる。
人間、染み付いたものはなかなか抜けない。
背後でまた衝撃。
岩が欠け、熱風が吹き込む。
ローズが短く息を呑んだ。
「ローズ!」
「平気!」
平気な声ではなかった。
俺は振り返りそうになる。
だが、その瞬間ローズが叫ぶ。
「前を見て!」
その声に、俺は歯を食いしばって前へ進んだ。
やがて、裂け目の先に光が見えた。
出口だ。
「ひまわり、出ろ!」
「うん!」
ひまわりが先に外へ転がり出る。
俺も続く。
そこは小さな窪地だった。
周囲を岩壁に囲まれているが、上は開けている。
マグマチャッピーが通れる広さはない。
少なくとも、今すぐ襲われる場所ではない。
最後にローズが飛び出してくる。
その直後、入口の向こうで大きな音がした。
岩が崩れ、裂け目の一部が塞がる。
三人はその場に倒れ込んだ。
誰もすぐには喋れなかった。
聞こえるのは荒い呼吸だけ。
しばらくして、遠くでマグマチャッピーの咆哮が響いた。
怒っている。
それは分かる。
だが、こちらへは来られない。
少なくとも今は。
ひまわりが震える声で言った。
「……生きてる?」
俺は仰向けになったまま答える。
「たぶん。」
「たぶんって何……。」
「確認する元気がない。」
ひまわりは小さく笑った。
笑えるなら大丈夫だ。
多分。
ローズは座り込み、塞がった裂け目を見つめていた。
その拳が固く握られている。
「ローズ。」
俺が声を掛けると、彼女はゆっくりこちらを見た。
「怪我は?」
「ない。」
「本当か。」
「ない。」
短い。
だが、少し声が揺れていた。
俺は起き上がり、彼女の腕や肩を確認する。
焦げた跡はない。
火傷も見えない。
それでも、疲労は明らかだった。
「無茶をするな。」
ローズは少しだけむっとする。
「してない。」
「最後尾で守るのは無茶だ。」
「必要だった。」
「必要でも、危ないものは危ない。」
ローズは視線を逸らした。
「……守るって決めたから。」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
火吹き花を壊した時も。
炎の前へ立った時も。
そして、さっき。
ローズは迷わず最後尾へ回った。
自分が傷付くことより、誰かを守ることを先に選ぶ。
その姿は頼もしい。
けれど同時に、危うくも見えた。
「ありがとう。」
俺は静かに言った。
ローズが目を瞬かせる。
「助かった。」
「お前が後ろを見てくれなかったら、俺たちは逃げ切れなかった。」
「……別に。」
「別にじゃない。」
「ありがとう、ローズ。」
今度ははっきり言った。
ローズは少し困ったような顔をする。
それから、小さく頷いた。
「……うん。」
ひまわりが横から顔を出す。
「ローズ、照れてる。」
「照れてない。」
「耳赤いよ。」
「暑いだけ。」
「さっきも言ってた。」
「暑いの。」
俺は笑いそうになったが、飲み込んだ。
命からがら逃げた後でも、こういうやり取りができる。
それだけで少し救われる。
だが、安心してはいられない。
俺は窪地の周囲を見渡した。
出口はある。
狭い斜面が一つ。
そこを登れば、別の道へ出られるかもしれない。
ただし、マグマチャッピーがいる場所へ戻る可能性もある。
「ここで少し休む。」
俺は言った。
「水を飲んで、息を整える。」
「その後、上の道を確認する。」
ローズが頷く。
ひまわりも素直に従った。
水を少しだけ分ける。
喉が焼けるように乾いていた。
もっと飲みたい。
だが、まだ我慢する。
人間の理性というものは、こういう時だけ役に立つ。
普段の買い物や夜食では簡単に負けるくせに。
遠くで、再び低い咆哮が聞こえた。
マグマチャッピーはまだ近くにいる。
あれを避けて進むのか。
倒す方法を探すのか。
今の俺たちには、どちらも簡単ではない。
ローズは咆哮の方角を見つめていた。
その瞳には恐怖だけではなく、別の感情も宿っているように見えた。
怒り。
悔しさ。
それとも、守り切れなかった何かへの焦りか。
本人にも分からないのだろう。
だから俺は聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「今は逃げて正解だった。」
ローズがこちらを見る。
「勝てない相手から逃げるのは、負けじゃない。」
「生きて次を考えるためだ。」
「運ぶ仕事でも同じだ。」
「無理な道に突っ込んで荷物を壊したら、それで終わりだ。」
「回り道でも、届ければ勝ちだ。」
ローズはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……次は。」
「次は?」
「準備する。」
その声は静かだった。
けれど、確かな決意が込められていた。
灼熱花道の主。
マグマチャッピー。
俺たちはその存在を知った。
そして、今のままでは勝てないことも知った。
勝てない相手へ無闇に挑むほど、俺は無責任じゃない。
荷物だって、人だって、無事に届けるには準備がいる。
運ぶ道を選び、危険を避け、万全を整える。
それが俺の仕事だった。
なら、この森でもやることは変わらない。
生きて帰るために。
三人で帰るために。
まずは、勝つための準備をする。
遠くから、低い咆哮が響いた。
まるで灼熱花道そのものが唸っているような、重く腹へ響く音だった。
俺はその方向を見据える。
「逃げるだけじゃ、帰れない。」
誰に言うでもなく呟く。
ローズが静かに頷いた。
「うん。」
その返事は短い。
だが、不思議と頼もしく聞こえた。
熱風が岩場を吹き抜ける。
赤い花弁が一枚、風に乗って舞い上がり、俺たちの前へ落ちた。
それは地面へ触れた瞬間、静かに黒く焦げて崩れていく。
灼熱花道最大の試練は、まだその牙を隠したままだった。
だが、次はもう逃げるだけでは終わらない。
俺たちは、この灼熱の番人を越えてみせる。