ピクミン擬人化ハーレム物   作:風神ぷー

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第十話 灼熱の番人

 

 

火吹き花を倒した後も、熱は弱まらなかった。

 

むしろ、道が開けたぶん、奥から吹いてくる熱風がまともに身体へぶつかってくる。

 

ローズが倒した赤い花は、地面に横たわったまま動かない。

 

さっきまで炎を噴いていたとは思えないほど、静かだった。

 

俺はその花を跨ぎながら、思わず振り返る。

 

「……本当に火を吹いてたんだよな。」

 

「見たでしょ。」

 

ローズが淡々と答える。

 

「見たけど、信じたくないこともある。」

 

「人間って面倒。」

 

「自覚はある。」

 

ひまわりが焦げた枝を拾い、すぐに顔をしかめて手を離した。

 

「あつっ。」

 

「触るな。」

 

ローズが短く言う。

 

「まだ熱が残ってる。」

 

「うぅ……先に言ってよ。」

 

「触ると思わなかった。」

 

「そこは人間社会でも同じだな。」

 

俺は苦笑しながら荷物を背負い直す。

 

好奇心で火傷する生き物。

 

まったく、文明を持っても人類は大して変わらない。

 

いや、ひまわりは人類ではないが。

 

似たようなものだ。

 

三人は再び歩き始めた。

 

火吹き花の群生を抜けた先は、さらに赤い花が濃くなっていた。

 

地面を覆う花弁は、風に揺れるたび炎の波のように見える。

 

その隙間を縫うように、黒い岩の道が細く続いていた。

 

踏み外せば火傷。

 

近付きすぎれば炎。

 

その上、水は少ない。

 

観光地なら星一つだ。

 

いや、命があるだけ星を付ける店側が図々しい。

 

「オリマー。」

 

ローズが振り返らずに言う。

 

「足元だけ見ないで。」

 

「周りも見る。」

 

「ああ。」

 

「でも足元も見ないと死ぬ。」

 

「両方。」

 

「簡単に言うな。」

 

そう言いながらも、俺は視線を前後左右へ動かした。

 

足場。

 

岩陰。

 

花の色。

 

風の流れ。

 

逃げ込めそうな隙間。

 

仕事で道を走る時も、見る場所は一つではなかった。

 

前の車。

 

歩行者。

 

標識。

 

信号。

 

荷物の揺れ。

 

目的地までの時間。

 

見るものが多いほど疲れる。

 

だが、見落とせば終わる。

 

ここでも同じだった。

 

しばらく歩いて、俺は眉をひそめた。

 

「……静かだな。」

 

ひまわりも辺りを見回す。

 

「ほんとだ。」

 

「虫さんもいない。」

 

「鳥さんもいないね。」

 

昨日までは、遠くで何かが鳴く声が聞こえていた。

 

草の間を走る小さな影もあった。

 

だが、今は何もない。

 

赤い花だけが揺れている。

 

熱風だけが音を立てている。

 

ローズは足を止めない。

 

「いる。」

 

「見えないだけ。」

 

「隠れてるのか。」

 

「うん。」

 

「どうして?」

 

ローズは少しだけ間を置いた。

 

「怖いから。」

 

その言葉に、俺は背筋が冷えるのを感じた。

 

暑いはずなのに。

 

「何が怖いんだ。」

 

ローズは答えなかった。

 

答えられないのかもしれない。

 

ただ、彼女の歩調は少しだけ遅くなった。

 

警戒している。

 

それは分かった。

 

ローズがここまで慎重になる相手。

 

少なくとも、軽く考えていいものではない。

 

赤い花道を進むにつれ、地面の様子が変わっていく。

 

黒い岩が増えた。

 

花はところどころ焼け焦げ、灰のように崩れている。

 

何かが通った跡だった。

 

ひまわりが小さく声を上げる。

 

「ねぇ、これ……。」

 

彼女が指差した先。

 

黒い岩に、巨大な窪みが刻まれていた。

 

丸い。

 

深い。

 

足跡だった。

 

俺はしゃがみ込む。

 

自分の靴を横に置いて比べる。

 

馬鹿みたいに大きい。

 

冗談なら笑える。

 

現実なら逃げたい。

 

残念ながら、だいたい現実は笑えない方を選ぶ。

 

「でかいな。」

 

ひまわりが息を呑む。

 

「チャッピー?」

 

「似てるけど、違う。」

 

俺は足跡の縁へ指を置く。

 

岩が欠けている。

 

押し潰されたというより、焼かれて脆くなったところを踏み抜かれたようだった。

 

「かなり重い。」

 

「それに、熱い。」

 

足跡の底から、まだ熱が立ち上っていた。

 

俺はすぐに手を離す。

 

「通ったばかりかもしれない。」

 

ローズが静かに言う。

 

「この辺りの主。」

 

「主……。」

 

ひまわりが分かりやすく不安そうな顔をする。

 

「強いの?」

 

ローズは即答しなかった。

 

その沈黙が、何より答えだった。

 

やがて、短く言う。

 

「強い。」

 

俺は足跡の先を見る。

 

花は焼け焦げ、岩は砕けている。

 

この道を作ったものがいる。

 

そして、それは俺たちよりはるかに大きい。

 

「見つからないように進もう。」

 

俺が言うと、ローズは小さく頷いた。

 

「それがいい。」

 

「戦わないの?」

 

ひまわりが尋ねる。

 

ローズは前を見たまま答える。

 

「今は駄目。」

 

「勝てない?」

 

「勝つとか負けるとかじゃない。」

 

「準備がない。」

 

その言葉に、俺は少しだけ安心した。

 

無謀に突っ込まない。

 

ローズは強い。

 

だが、強さだけで何とかしようとするほど馬鹿ではない。

 

そこは本当に助かる。

 

人間の中には、勝てる根拠もないのに気合いで突破しようとする連中がいる。

 

だいたい荷物も納期も人生も壊す。

 

三人は足跡から離れ、岩壁沿いに進んだ。

 

できるだけ花の少ない道を選ぶ。

 

風の向きも確認する。

 

熱風が正面から来る場所は避け、岩陰を伝う。

 

歩く距離は伸びた。

 

だが、体力の消耗は抑えられた。

 

ローズは黙々と先導する。

 

ひまわりは珍しく口数が少ない。

 

俺も余計なことは言わなかった。

 

喋るだけで喉が渇く。

 

水は減っている。

 

残りは果皮の器で二つと半分。

 

今日中に補給できなければ、かなり厳しくなる。

 

「少し休もう。」

 

俺がそう言うと、ローズは近くの岩陰を指差した。

 

「向こう。」

 

「日が当たりにくい。」

 

三人は岩陰へ移動し、荷物を下ろした。

 

腰を下ろした瞬間、身体が重くなる。

 

自分で思っていた以上に疲れていたらしい。

 

俺は果皮の器を取り出す。

 

「一口ずつだ。」

 

「分かってるよ。」

 

ひまわりは受け取ると、本当に少しだけ口へ含んだ。

 

それから名残惜しそうに器を見る。

 

「もっと飲みたい……。」

 

「飲みたい時に全部飲むと、後で困る。」

 

「分かってるけどぉ。」

 

「偉いぞ。」

 

「子ども扱いしてない?」

 

「してる。」

 

「ひどい。」

 

そう言いながらも、ひまわりは少し笑った。

 

その笑顔に、場の空気が少しだけ緩む。

 

ローズは水を飲まず、赤い花道の奥を見つめていた。

 

「ローズ。」

 

俺が声を掛ける。

 

「飲まなくていいのか。」

 

「まだ平気。」

 

「我慢してるなら飲め。」

 

「我慢じゃない。」

 

いつもの短い返事。

 

だが、俺は少しだけ眉をひそめた。

 

「無理はするなよ。」

 

「倒れられると困る。」

 

ローズがこちらを見る。

 

「困る?」

 

「ああ。」

 

「先導役がいなくなる。」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃない。」

 

口にしてから、自分でも少し驚いた。

 

ローズも同じように目を瞬かせる。

 

ひまわりが横でにやにやしていた。

 

余計な観察力だけはある。

 

「仲間が倒れたら困る。」

 

俺は言い直した。

 

「誰でも同じだ。」

 

ローズは少しだけ視線を逸らす。

 

「……そう。」

 

短い返事だった。

 

けれど、その耳が少し赤く見えた。

 

暑さのせいかもしれない。

 

そういうことにしておく。

 

世の中には追及しない方が平和なことがある。

 

休憩を終えると、俺たちは再び歩き始めた。

 

太陽は傾き始めていた。

 

それでも暑さは衰えない。

 

むしろ、岩に溜まった熱がじわじわと戻ってくる。

 

足元から焼かれているような感覚だった。

 

ローズは何度か立ち止まり、周囲を確認する。

 

そのたびに俺たちも息を潜めた。

 

遠くで、一度だけ低い音がした。

 

ドン。

 

岩が割れるような、地面を叩くような音。

 

ひまわりが俺の袖を掴む。

 

ローズは無言で首を横へ振った。

 

行くな、という意味だった。

 

俺たちは遠回りを選んだ。

 

細い岩場を抜け、赤い花を避け、黒い斜面を下る。

 

その先に、ようやく少し広い岩陰を見つけた。

 

「今日はここまでにしよう。」

 

俺は足を止めた。

 

「暗くなってからこの道を歩くのは危険すぎる。」

 

ローズも頷く。

 

「ここなら風も少ない。」

 

ひまわりはその場へ座り込んだ。

 

「つかれたぁ……。」

 

「よく歩いた。」

 

「褒められた。」

 

「倒れなかったからな。」

 

「褒め方が地味!」

 

それでも、ひまわりは嬉しそうだった。

 

俺は荷物を下ろし、野営の準備を始める。

 

乾いた苔。

 

枯れ枝。

 

風除けの石。

 

火を起こす場所は慎重に選んだ。

 

この土地で焚き火をするのは妙な気分だった。

 

周りが勝手に燃えそうなのに、わざわざ火を作る。

 

人間は本当に不便な生き物だ。

 

それでも夜になると気温が下がる。

 

火は獣除けにもなる。

 

何より、焚き火があると少し安心できる。

 

ぱち、と小さく火が鳴った。

 

三人は焚き火を囲む。

 

食事は残りの木の実と果実を分けただけだった。

 

ひまわりは不満そうに果実を見つめる。

 

「明日は何か採れるかな。」

 

「採らないと困る。」

 

俺は地図代わりの葉を広げる。

 

今日歩いた道を、黒い木炭で簡単に記す。

 

火吹き花の群生。

 

巨大な足跡。

 

焼けた岩場。

 

遠回りした斜面。

 

今日の野営地。

 

こうして書いておけば、戻る時にも役に立つ。

 

「また地図?」

 

ひまわりが覗き込む。

 

「道を覚えるためだ。」

 

「森って変わるよ?」

 

「変わっても、何もしないよりはいい。」

 

ローズも地図を見つめる。

 

「細かい。」

 

「仕事の癖だ。」

 

「荷物を運ぶ時、道を間違えたら困るからな。」

 

ひまわりが顔を上げる。

 

「オリマーのお仕事って、ずっと帰ったり出かけたりしてるんだよね。」

 

「まあ、そうだな。」

 

「朝に出て、夜に帰ることもある。」

 

「何日か家を空けることもある。」

 

「へぇ……。」

 

ひまわりは目を輝かせる。

 

「いろんな場所に行くんだ。」

 

「行くけど、観光じゃないぞ。」

 

「荷物を降ろして、次の場所へ行って、また運ぶ。」

 

「景色を見る暇なんてあまりない。」

 

「でも、いろんな場所を知ってるんでしょ?」

 

「少しはな。」

 

ひまわりは羨ましそうに笑った。

 

「いいなぁ。」

 

「私も、いろんな場所に行ってみたい。」

 

その夢は、彼女らしい。

 

明るくて、真っ直ぐで、外の世界に向かっている。

 

俺は自然と笑っていた。

 

「森を出たら、いくらでも聞かせてやる。」

 

「ほんと?」

 

「ああ。」

 

「北海道の雪も。」

 

「海沿いの朝焼けも。」

 

「夜の高速道路も。」

 

「サービスエリアのカレーも。」

 

「最後だけ急に現実的!」

 

「大事だぞ。」

 

「長距離の食事は命に関わる。」

 

ひまわりは声を立てて笑った。

 

ローズも少しだけ口元を緩めていた。

 

その表情を見て、俺はふと思う。

 

この子たちは、どこまで外の世界を知っているのだろう。

 

どこまで覚えているのだろう。

 

聞いていいことなのか、悪いことなのか。

 

その判断が難しい。

 

焚き火の火が揺れる。

 

赤い光がローズの横顔を照らした。

 

彼女はじっと火を見つめていた。

 

炎が平気なはずなのに、その目はどこか遠い。

 

「オリマー。」

 

珍しく、ローズから声を掛けてきた。

 

「何だ?」

 

「家って。」

 

そこで言葉が止まる。

 

ローズは少しだけ考え、続けた。

 

「どんな場所?」

 

ひまわりも静かになる。

 

俺は木の枝を火へくべた。

 

少しだけ考える。

 

「難しいな。」

 

「建物のことなら、俺の家は普通だ。」

 

「広くもない。」

 

「特別綺麗でもない。」

 

「仕事から帰ると、玄関があって。」

 

「靴を脱いで。」

 

「風呂に入って。」

 

「飯を食って。」

 

「眠る。」

 

「それだけだ。」

 

ローズは黙って聞いている。

 

「でも。」

 

俺は続けた。

 

「帰ると、少し力が抜ける。」

 

「外ではずっと気を張ってるからな。」

 

「事故を起こさないように。」

 

「荷物を壊さないように。」

 

「遅れないように。」

 

「誰かに迷惑をかけないように。」

 

「ずっと考えてる。」

 

火が小さく爆ぜる。

 

「でも家に帰ると。」

 

「今日も終わったって思える。」

 

「荷物を届けた。」

 

「無事に帰った。」

 

「それだけで少し安心する。」

 

ローズは小さく呟いた。

 

「安心する場所。」

 

「ああ。」

 

「そういう場所だと思う。」

 

ひまわりが頷く。

 

「いいなぁ。」

 

「帰る場所。」

 

ローズは火を見つめたまま、静かに言った。

 

「……いいな。」

 

その声は本当に小さかった。

 

でも、はっきり聞こえた。

 

「ローズ?」

 

「私も。」

 

ローズはゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「帰りたい。」

 

「でも。」

 

「どこへ帰ればいいのか分からない。」

 

焚き火の音だけが続く。

 

ひまわりも何も言わない。

 

「どうして帰りたいのかも分からない。」

 

「誰かがいるのか。」

 

「何かがあるのか。」

 

「何も分からない。」

 

「でも。」

 

ローズは自分の胸へ手を当てた。

 

「ここだけが。」

 

「ずっと言ってる。」

 

「帰りたいって。」

 

俺はすぐに答えられなかった。

 

記憶ではない。

 

理由でもない。

 

ただ感情だけが残っている。

 

それがどれほど苦しいことなのか、俺には分からない。

 

分からないのに、簡単な言葉で慰めるのは違う気がした。

 

だから、少し考えてから言った。

 

「じゃあ、帰ろう。」

 

ローズが顔を上げる。

 

「どこへ?」

 

「それを探す。」

 

「分からないなら、探せばいい。」

 

「思い出せないなら、帰ってから思い出せばいい。」

 

「帰る場所がまだ分からないなら。」

 

「分かるまで一緒に探せばいい。」

 

ローズは目を見開いた。

 

「そんなの。」

 

「できるか分からない。」

 

「できるかどうかは、やってから考える。」

 

「人間って、そうやって無駄にあがく生き物だ。」

 

ひまわりが小さく笑う。

 

「オリマーらしい。」

 

「褒めてるのか?」

 

「褒めてるよ。」

 

多分。

 

きっと。

 

人間社会なら査定に響かない程度の褒め方だ。

 

ローズはしばらく黙っていた。

 

それから、小さく息を吐く。

 

「変な人。」

 

「よく言われる。」

 

「でも。」

 

ローズはほんの少しだけ笑った。

 

「嫌いじゃない。」

 

その言葉に、ひまわりが目を輝かせる。

 

「ローズが素直だ!」

 

「うるさい。」

 

「照れてる?」

 

「暑いだけ。」

 

「夜なのに?」

 

「暑いの。」

 

俺は思わず笑ってしまった。

 

ローズはむっとした顔でそっぽを向く。

 

けれど、焚き火の光に照らされた横顔は、さっきよりずっと柔らかかった。

 

遠くで、低い音がした。

 

ドン。

 

三人の会話が止まる。

 

もう一度。

 

ドン。

 

地面がわずかに震えた。

 

焚き火の火が揺れる。

 

ローズの表情が一瞬で変わった。

 

「近い。」

 

俺は息を呑む。

 

「さっきの主か。」

 

ローズは頷く。

 

「たぶん。」

 

ひまわりが身を寄せる。

 

「来るの?」

 

「分からない。」

 

ローズは立ち上がり、暗い花道の奥を見つめた。

 

夜の赤い花は黒く沈み、その奥だけがぼんやり赤く光っている。

 

まるで地面の下で、まだ炎が眠っているようだった。

 

俺は焚き火を小さくし、荷物を手元へ寄せる。

 

逃げるならすぐ動けるように。

 

戦うのではない。

 

生き残るためだ。

 

しばらく、三人は息を潜めた。

 

低い足音は遠ざかったり、近付いたりしながら、やがて闇の奥へ消えていった。

 

ひまわりが小さく息を吐く。

 

「……怖かった。」

 

「ああ。」

 

俺も同じだった。

 

ローズはまだ奥を見つめている。

 

その背中は小さい。

 

けれど、逃げない。

 

「ローズ。」

 

俺が呼ぶと、彼女は振り返った。

 

「明日は、もっと慎重に進もう。」

 

「うん。」

 

「でも。」

 

「避けてばかりじゃ進めないかもしれない。」

 

その言葉に、俺は黙って頷く。

 

灼熱花道の奥には、あの主がいる。

 

避けて通れるのか。

 

それとも、いつか向き合わなければならないのか。

 

今は分からない。

 

ただ一つだけ分かることがある。

 

この土地は、まだ俺たちを帰すつもりなどない。

 

焚き火の火が小さく揺れる。

 

赤い花道の奥で、もう一度だけ低い唸り声が響いた。

 

それはまるで、灼熱の番人がこちらを見つけた合図のようだった。

 

 

 

 

 

 

夜が明けた。

 

眠れた、とは言い難い。

 

何度も地面の揺れで目を覚ました。

 

遠くから聞こえる低い足音。

 

黒い花道の奥で揺れる赤い光。

 

そのたびに俺は荷物へ手を伸ばし、逃げられる体勢を取った。

 

結局、何も来なかった。

 

それでも朝になった時、身体は休んだ気がしなかった。

 

「……最悪の寝心地だな。」

 

俺が呟くと、ひまわりが岩陰で膝を抱えたまま頷いた。

 

「夢の中でも、何かに追いかけられてた……。」

 

「それは嫌だな。」

 

「すごく嫌だった。」

 

ローズはすでに起きていた。

 

赤い花道の奥を見つめている。

 

昨夜と同じ方向だ。

 

「足音は?」

 

俺が尋ねると、ローズは振り返らずに答えた。

 

「遠い。」

 

「でも、いる。」

 

安心できる言葉ではなかった。

 

まあ、この森に来てから心の底から安心できた瞬間などほとんどない。

 

人間は慣れる生き物らしいが、危険に慣れるのはただの鈍化だ。

 

俺は荷物をまとめる。

 

水は残り少ない。

 

食料も心細い。

 

長居すればするほど不利になる。

 

「進もう。」

 

「ここで待っていても、水は増えない。」

 

ひまわりが立ち上がる。

 

「水、探さないとね。」

 

「ああ。」

 

「それに、あの主の縄張りからも離れたい。」

 

ローズが静かに頷く。

 

「離れられれば。」

 

その一言が引っかかった。

 

「離れられないのか?」

 

「分からない。」

 

「でも。」

 

「この道を通るなら、近付く。」

 

実にありがたい情報だ。

 

避けたいものに近付かなければ進めない。

 

世界というものは、こちらの都合を本当に聞かない。

 

三人は野営地を後にした。

 

朝の光が赤い花を照らしている。

 

昨日の夜は黒く沈んでいた花々が、今はまた炎のように揺れていた。

 

その美しさが、少し腹立たしい。

 

危険な場所ほど綺麗に見えるのは、自然界の悪趣味な設計だ。

 

しばらく進むと、昨夜の足音の正体が残したものが現れた。

 

巨大な足跡。

 

昨日見たものより新しい。

 

岩の縁がまだ熱を持っている。

 

焦げた花が灰になり、風に崩れていく。

 

「近いな。」

 

俺はしゃがみ込まず、少し離れて見るだけにした。

 

手で触る必要はない。

 

昨日、学習した。

 

人間にも成長機能くらいはある。

 

「この向きだと、俺たちと同じ方向へ進んでる。」

 

足跡は、赤い花道の奥へ続いていた。

 

ひまわりが不安そうにローズを見る。

 

「どうする?」

 

ローズは少し考える。

 

「足跡の横を行く。」

 

「真正面は駄目。」

 

「追いかける形になるからか。」

 

「うん。」

 

俺は周囲を見渡した。

 

右手には黒い岩壁。

 

左手には背丈ほどの赤い花。

 

足跡の横を進むなら、花の間を抜けるしかない。

 

「火吹き花は?」

 

「少ない。」

 

ローズは花を見つめる。

 

「でも、ないとは言えない。」

 

「いつも通り最悪寄りだな。」

 

「最悪?」

 

「気にしなくていい。」

 

三人は花の間へ入った。

 

赤い花弁が肩や腕をかすめる。

 

熱を帯びているのか、肌に触れるたびじりっとした感覚があった。

 

ローズが先頭で花をかき分ける。

 

俺はその後ろ。

 

ひまわりは最後尾だ。

 

「ひまわり、離れるなよ。」

 

「うん。」

 

「足音がしたら?」

 

「すぐ止まる。」

 

「火を吹きそうな花があったら?」

 

「触らない。」

 

「よし。」

 

「なんか授業みたい。」

 

「命の授業だ。」

 

「すごく嫌な授業……。」

 

それでも、ひまわりの声には少しだけ元気が戻っていた。

 

怖がっていても、前へ進む。

 

それが彼女の強さなのだと思う。

 

花の間を抜ける途中、ローズが急に手を上げた。

 

三人はその場で止まる。

 

ドン。

 

遠くで音がした。

 

続けて、もう一度。

 

ドン。

 

足元の小石が震える。

 

ひまわりが息を呑む。

 

ローズはゆっくりと身を低くした。

 

俺たちもそれに倣う。

 

赤い花の隙間から、黒い岩場の向こうが見えた。

 

そこにいた。

 

巨大なチャッピー。

 

だが、これまで見た個体とは違う。

 

丸い身体は黒く焼けた岩のようで、背中や頭のあちこちから炎が立ち上っている。

 

口元からは白い煙。

 

足を踏み出すたび、地面の花が焦げて縮んだ。

 

熱で空気が歪み、姿が揺れて見える。

 

まるで炎そのものが、チャッピーの形をして歩いているようだった。

 

「……あれが。」

 

俺の声は自然と小さくなった。

 

ローズが頷く。

 

「マグマチャッピー。」

 

「この辺りの主。」

 

ひまわりは完全に固まっていた。

 

無理もない。

 

俺だって今すぐ現実を辞退したい。

 

「こっちには気付いてるか?」

 

「まだ。」

 

ローズの声は低い。

 

「動かないで。」

 

マグマチャッピーはゆっくりと岩場を進んでいた。

 

時折、地面へ鼻先を近付ける。

 

何かを探しているようにも見える。

 

「匂いを嗅いでるのか。」

 

「たぶん。」

 

「風向きは?」

 

ローズは花の揺れを見た。

 

「向こうからこっち。」

 

つまり、今は俺たちの匂いが届きにくい。

 

運がいい。

 

この森に来てから、運というものがいかに頼りないか学んだが、今だけはありがたい。

 

俺はゆっくり周囲を見る。

 

右へ行けば岩壁。

 

左は花の群れ。

 

後ろに下がれば来た道。

 

前方にはマグマチャッピー。

 

逃げるなら、後ろか左だ。

 

だが、左の花の奥がどうなっているか分からない。

 

「後退する。」

 

俺は小声で言った。

 

「ゆっくりだ。」

 

ローズが頷く。

 

三人は音を立てないように、少しずつ後ろへ下がった。

 

一歩。

 

もう一歩。

 

ひまわりも懸命に息を殺している。

 

その時だった。

 

カラン。

 

小さな音が響いた。

 

ひまわりの足元で、石が転がっていた。

 

一瞬、世界が止まった。

 

マグマチャッピーの動きも止まる。

 

ゆっくりと。

 

本当にゆっくりと。

 

炎をまとった頭がこちらを向いた。

 

青い目が、赤い花の隙間から俺たちを捉える。

 

ローズが叫んだ。

 

「走って!」

 

その声と同時に、俺はひまわりの腕を掴んだ。

 

三人は赤い花の中を駆け出す。

 

背後で咆哮が響いた。

 

熱風が背中へ叩きつけられる。

 

地面が揺れる。

 

マグマチャッピーが追ってきた。

 

「こっち!」

 

ローズが先導する。

 

俺はひまわりを引っ張りながら走る。

 

花弁が顔に当たる。

 

熱い。

 

息を吸うだけで喉が焼けるようだった。

 

背後で岩が砕ける音がした。

 

振り返る余裕はない。

 

それでも、巨大な影が迫っていることは分かった。

 

熱が近い。

 

「速い……!」

 

ひまわりが叫ぶ。

 

「喋るな、走れ!」

 

自分で言いながら、俺も息が続かない。

 

足元は悪い。

 

黒い岩は不規則に盛り上がり、ところどころ亀裂がある。

 

転べば終わりだ。

 

ローズは何度も振り返りながら走っている。

 

最後尾へ下がろうとしているのが分かった。

 

「ローズ、前にいろ!」

 

「嫌!」

 

即答だった。

 

「二人を守る!」

 

「守る前に逃げろ!」

 

「逃げてる!」

 

まあ、確かにそうだ。

 

言い返す余裕があるのが腹立たしいほど頼もしい。

 

前方に岩壁が見えた。

 

行き止まり。

 

いや、完全な壁ではない。

 

細い裂け目がある。

 

人一人が通れるかどうか。

 

「そこだ!」

 

俺は叫ぶ。

 

「裂け目に入れ!」

 

ローズがすぐに進路を変える。

 

ひまわりが先に飛び込む。

 

続いて俺。

 

最後にローズが滑り込んだ。

 

その直後。

 

ドゴォッ!!

 

岩壁にマグマチャッピーが激突した。

 

衝撃で小石が降ってくる。

 

ひまわりが悲鳴を上げる。

 

俺は彼女を抱えるように庇った。

 

裂け目の入口に、巨大な口が突っ込まれる。

 

牙が岩を削る。

 

熱気が流れ込んできた。

 

「奥へ!」

 

ローズが叫ぶ。

 

三人は這うようにしてさらに奥へ進む。

 

入口は狭い。

 

マグマチャッピーの身体では入れない。

 

だが、口先は届く。

 

熱で空気が揺れ、息をするのも苦しい。

 

「水!」

 

俺は荷物から濡らした葉を取り出し、ひまわりの口元へ当てる。

 

「これで息をしろ。」

 

「う、うん……!」

 

自分にも同じように葉を当てる。

 

ローズは入口を睨んでいた。

 

「来るな……。」

 

低く呟く。

 

マグマチャッピーは何度も岩へ体当たりした。

 

そのたびに裂け目が揺れる。

 

崩れるかもしれない。

 

入れなくても、潰されたら同じだ。

 

冗談ではない。

 

いや、冗談ならかなり質が悪い。

 

「このままじゃ岩が持たない。」

 

俺は奥を見た。

 

裂け目はさらに続いている。

 

細いが、通れそうだ。

 

「奥へ抜ける道があるかもしれない。」

 

ローズが頷く。

 

「行って。」

 

「お前もだ。」

 

「私は後ろ。」

 

「またそれか。」

 

「早く。」

 

言い争う時間はない。

 

俺はひまわりを先に進ませ、自分も後に続いた。

 

ローズは最後尾で、マグマチャッピーの動きを見ている。

 

狭い岩の間を進む。

 

肩が岩へ擦れる。

 

荷物が引っかかる。

 

俺は蔦を解き、一部の荷物を手で持ち替えた。

 

焦るな。

 

引っかかれば遅れる。

 

遅れれば死ぬ。

 

配送と同じだ。

 

乱暴に扱えば、結局余計に時間がかかる。

 

こんな状況でも仕事の癖が出るあたり、自分でも呆れる。

 

人間、染み付いたものはなかなか抜けない。

 

背後でまた衝撃。

 

岩が欠け、熱風が吹き込む。

 

ローズが短く息を呑んだ。

 

「ローズ!」

 

「平気!」

 

平気な声ではなかった。

 

俺は振り返りそうになる。

 

だが、その瞬間ローズが叫ぶ。

 

「前を見て!」

 

その声に、俺は歯を食いしばって前へ進んだ。

 

やがて、裂け目の先に光が見えた。

 

出口だ。

 

「ひまわり、出ろ!」

 

「うん!」

 

ひまわりが先に外へ転がり出る。

 

俺も続く。

 

そこは小さな窪地だった。

 

周囲を岩壁に囲まれているが、上は開けている。

 

マグマチャッピーが通れる広さはない。

 

少なくとも、今すぐ襲われる場所ではない。

 

最後にローズが飛び出してくる。

 

その直後、入口の向こうで大きな音がした。

 

岩が崩れ、裂け目の一部が塞がる。

 

三人はその場に倒れ込んだ。

 

誰もすぐには喋れなかった。

 

聞こえるのは荒い呼吸だけ。

 

しばらくして、遠くでマグマチャッピーの咆哮が響いた。

 

怒っている。

 

それは分かる。

 

だが、こちらへは来られない。

 

少なくとも今は。

 

ひまわりが震える声で言った。

 

「……生きてる?」

 

俺は仰向けになったまま答える。

 

「たぶん。」

 

「たぶんって何……。」

 

「確認する元気がない。」

 

ひまわりは小さく笑った。

 

笑えるなら大丈夫だ。

 

多分。

 

ローズは座り込み、塞がった裂け目を見つめていた。

 

その拳が固く握られている。

 

「ローズ。」

 

俺が声を掛けると、彼女はゆっくりこちらを見た。

 

「怪我は?」

 

「ない。」

 

「本当か。」

 

「ない。」

 

短い。

 

だが、少し声が揺れていた。

 

俺は起き上がり、彼女の腕や肩を確認する。

 

焦げた跡はない。

 

火傷も見えない。

 

それでも、疲労は明らかだった。

 

「無茶をするな。」

 

ローズは少しだけむっとする。

 

「してない。」

 

「最後尾で守るのは無茶だ。」

 

「必要だった。」

 

「必要でも、危ないものは危ない。」

 

ローズは視線を逸らした。

 

「……守るって決めたから。」

 

その言葉に、俺は何も返せなかった。

 

火吹き花を壊した時も。

 

炎の前へ立った時も。

 

そして、さっき。

 

ローズは迷わず最後尾へ回った。

 

自分が傷付くことより、誰かを守ることを先に選ぶ。

 

その姿は頼もしい。

 

けれど同時に、危うくも見えた。

 

「ありがとう。」

 

俺は静かに言った。

 

ローズが目を瞬かせる。

 

「助かった。」

 

「お前が後ろを見てくれなかったら、俺たちは逃げ切れなかった。」

 

「……別に。」

 

「別にじゃない。」

 

「ありがとう、ローズ。」

 

今度ははっきり言った。

 

ローズは少し困ったような顔をする。

 

それから、小さく頷いた。

 

「……うん。」

 

ひまわりが横から顔を出す。

 

「ローズ、照れてる。」

 

「照れてない。」

 

「耳赤いよ。」

 

「暑いだけ。」

 

「さっきも言ってた。」

 

「暑いの。」

 

俺は笑いそうになったが、飲み込んだ。

 

命からがら逃げた後でも、こういうやり取りができる。

 

それだけで少し救われる。

 

だが、安心してはいられない。

 

俺は窪地の周囲を見渡した。

 

出口はある。

 

狭い斜面が一つ。

 

そこを登れば、別の道へ出られるかもしれない。

 

ただし、マグマチャッピーがいる場所へ戻る可能性もある。

 

「ここで少し休む。」

 

俺は言った。

 

「水を飲んで、息を整える。」

 

「その後、上の道を確認する。」

 

ローズが頷く。

 

ひまわりも素直に従った。

 

水を少しだけ分ける。

 

喉が焼けるように乾いていた。

 

もっと飲みたい。

 

だが、まだ我慢する。

 

人間の理性というものは、こういう時だけ役に立つ。

 

普段の買い物や夜食では簡単に負けるくせに。

 

遠くで、再び低い咆哮が聞こえた。

 

マグマチャッピーはまだ近くにいる。

 

あれを避けて進むのか。

 

倒す方法を探すのか。

 

今の俺たちには、どちらも簡単ではない。

 

ローズは咆哮の方角を見つめていた。

 

その瞳には恐怖だけではなく、別の感情も宿っているように見えた。

 

怒り。

 

悔しさ。

 

それとも、守り切れなかった何かへの焦りか。

 

本人にも分からないのだろう。

 

だから俺は聞かなかった。

 

代わりに、こう言った。

 

「今は逃げて正解だった。」

 

ローズがこちらを見る。

 

「勝てない相手から逃げるのは、負けじゃない。」

 

「生きて次を考えるためだ。」

 

「運ぶ仕事でも同じだ。」

 

「無理な道に突っ込んで荷物を壊したら、それで終わりだ。」

 

「回り道でも、届ければ勝ちだ。」

 

ローズはしばらく黙っていた。

 

やがて、小さく頷く。

 

「……次は。」

 

「次は?」

 

「準備する。」

 

その声は静かだった。

 

けれど、確かな決意が込められていた。

 

灼熱花道の主。

 

マグマチャッピー。

 

俺たちはその存在を知った。

 

そして、今のままでは勝てないことも知った。

 

勝てない相手へ無闇に挑むほど、俺は無責任じゃない。

 

荷物だって、人だって、無事に届けるには準備がいる。

 

運ぶ道を選び、危険を避け、万全を整える。

 

それが俺の仕事だった。

 

なら、この森でもやることは変わらない。

 

生きて帰るために。

 

三人で帰るために。

 

まずは、勝つための準備をする。

 

遠くから、低い咆哮が響いた。

 

まるで灼熱花道そのものが唸っているような、重く腹へ響く音だった。

 

俺はその方向を見据える。

 

「逃げるだけじゃ、帰れない。」

 

誰に言うでもなく呟く。

 

ローズが静かに頷いた。

 

「うん。」

 

その返事は短い。

 

だが、不思議と頼もしく聞こえた。

 

熱風が岩場を吹き抜ける。

 

赤い花弁が一枚、風に乗って舞い上がり、俺たちの前へ落ちた。

 

それは地面へ触れた瞬間、静かに黒く焦げて崩れていく。

 

灼熱花道最大の試練は、まだその牙を隠したままだった。

 

だが、次はもう逃げるだけでは終わらない。

 

俺たちは、この灼熱の番人を越えてみせる。

 

 

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