夜明け前。
灼熱花道は、昨日と変わらず熱を抱えていた。
空はまだ薄暗い。
それでも黒い岩肌からは白い湯気が立ち上り、赤い花々は朝露ではなく熱気に揺れている。
眠っていた森が目を覚ますのではない。
この土地は、一晩中燃え続けているのだ。
俺は目を開け、すぐ隣へ視線を向けた。
ローズはすでに起きていた。
岩へ背中を預けたまま、静かに拳を握ったり開いたりしている。
隣では、ひまわりがまだ眠そうに身体を丸めていた。
「……おはよう。」
俺が声を掛けると、ローズはこちらを見る。
「おはよう。」
短い返事。
昨日と同じ。
それだけで十分だった。
「眠れたか。」
「普通。」
「緊張は?」
ローズは少しだけ考える。
「ある。」
「でも。」
「怖くはない。」
その言葉に嘘は感じなかった。
強がりでもない。
ただ、自分の役割を受け入れている。
そんな表情だった。
俺は立ち上がり、小さく伸びをする。
身体中が痛い。
昨日は岩場を登り降りし続けたせいで、足も肩も悲鳴を上げていた。
「いてて……。」
「大丈夫?」
いつの間にか起きていたひまわりが心配そうにこちらを見る。
「歳かな。」
「オリマーって、おじさん?」
「まだ違う。」
「たぶん。」
「たぶん?」
「自信なくなってきた。」
ひまわりは声を押し殺して笑った。
その笑い声につられて、ローズの口元も少しだけ緩む。
ほんの一瞬だった。
だが昨日より自然だった。
俺は荷物を広げる。
昨日作った地図。
蔦。
匂い付けに使う布。
予備の枝。
そして残った水。
どれも十分とは言えない。
「水は最後に飲もう。」
「出る直前。」
二人が頷く。
朝食も質素だった。
昨日拾った木の実を一つずつ。
果実を半分。
それだけ。
空腹は残る。
だが満腹で動く方が危険だ。
配送でも積み過ぎた車は止まりにくい。
人間も似たようなものだった。
食事を終えると、俺は地図を広げた。
「確認する。」
ローズとひまわりが近寄ってくる。
木炭で描かれた線は少し見づらい。
それでも昨日一日掛けて調べた成果だった。
「まず。」
俺は巡回路を指差す。
「マグマチャッピーは、この順番で回る。」
中央。
火吹き花。
出口。
中央。
「途中で止まる場所は二つ。」
「出口前と。」
「ここ。」
中央の岩場へ印を付ける。
「休憩してる場所。」
ローズが補足する。
「でも寝てない。」
「いつでも動ける。」
「ああ。」
完全に油断する時間はない。
だからこそ、こちらも慌てない。
「次。」
俺は火吹き花の群生へ丸を描く。
「ここが一番重要だ。」
ひまわりが頷く。
「岩を落とす場所。」
「そう。」
「蔦を引けば岩が落ちる。」
「花が反応する。」
「地面がさらに弱くなる。」
ローズはその横の印を見る。
「空洞。」
「ああ。」
「ここへ踏み込ませる。」
「でも。」
ひまわりが不安そうに言う。
「踏まなかったら?」
「その時は。」
俺はローズを見る。
ローズも静かに頷いた。
「私が誘う。」
「最後の手段だ。」
俺はすぐに言った。
「最初からやるな。」
「分かってる。」
「本当に?」
「……しつこい。」
「大事だからな。」
ローズは少しだけ頬を膨らませる。
ひまわりが笑う。
「また心配してる。」
「当たり前だ。」
「誰か一人欠けたら終わる。」
「俺たちは三人で帰る。」
その言葉に、二人とも静かになった。
風だけが岩陰を吹き抜ける。
やがてローズが、小さく頷いた。
「うん。」
それだけで十分だった。
俺たちは荷物をまとめ始める。
蔦は昨日確認した通り。
結び目も問題ない。
布には汗が染み込んでいる。
正直、自分でもあまり近付きたくない匂いだった。
「くさい。」
ひまわりが鼻を摘まむ。
「そんなにはっきり言うか。」
「本当だもん。」
ローズも布へ近付き、小さく鼻を動かした。
「……くさい。」
「お前まで。」
「事実。」
二対一だった。
少し傷付く。
「作戦の要なんだけどな。」
「役には立つ。」
ローズが真面目な顔で言う。
「でも、くさい。」
「そこは譲らないんだな。」
ひまわりは笑いながら布を受け取った。
「これ置いていくんだよね。」
「ああ。」
「間隔は昨日決めた通り。」
「風向きも変わってない。」
俺は花を見る。
赤い花弁は出口側から中央へ向かって揺れている。
風も昨日と同じ。
条件は悪くない。
「行こう。」
俺が立ち上がる。
ローズもひまわりも荷物を背負った。
窪地を出る。
朝の灼熱花道は静かだった。
聞こえるのは風と、遠くで燃える火の音だけ。
マグマチャッピーの姿は見えない。
だが、いる。
見えないだけだ。
三人は岩棚へ登る。
昨日何度も歩いた道。
足場も危険な場所も覚えている。
「右。」
ローズが短く言う。
俺は頷き、その通りに進む。
空洞音がした岩を避ける。
脆い場所は踏まない。
昨日より足取りは軽かった。
知っている道は、それだけで安心感が違う。
岩棚の上まで登ると、俺たちは身を伏せた。
下には灼熱花道が広がっている。
赤い花。
黒い岩。
白い湯気。
そして。
ドン。
地面が震えた。
三人は同時に視線を向ける。
黒い道の向こう。
炎を背負った巨体がゆっくりと姿を現した。
マグマチャッピー。
朝になっても、その炎は衰えていない。
一歩。
また一歩。
歩くたび、足元の花が焦げる。
昨日と同じ巡回だ。
「予定通り。」
俺は小さく呟く。
ローズも頷く。
「うん。」
「始められる。」
俺は深く息を吸った。
昨日まで逃げるだけだった。
今日は違う。
俺たちが動く番だ。
「ひまわり。」
「うん。」
「最初の布を。」
「了解。」
ひまわりは静かに頷き、汗の染み込んだ布を一枚取り出した。
三人は岩陰を伝いながら、マグマチャッピーに気付かれないよう最初の配置場所へ向かう。
灼熱の番人との勝負が、静かに始まろうとしていた。
三人は岩壁へ身を寄せながら進んだ。
足音はできる限り殺す。
転がる小石一つでも、余計な音は立てたくない。
岩陰からそっと覗くと、マグマチャッピーは中央の岩場をゆっくり歩いていた。
まだこちらには気付いていない。
「今。」
俺が小さく言う。
ひまわりは頷き、汗の染み込んだ布を岩陰へ置いた。
布は風に揺れないよう、小石で押さえる。
これで終わりではない。
ここは最初の目印に過ぎない。
三人はさらに先へ進んだ。
次の配置場所まで、およそ二十歩。
その間にも、俺は何度もマグマチャッピーへ目を向ける。
巡回は予定通り。
焦る必要はない。
「止まって。」
ローズが囁いた。
三人はその場でしゃがみ込む。
マグマチャッピーが立ち止まり、鼻先を高く上げている。
大きく息を吸う。
鼻がゆっくり左右へ動いた。
「匂い……。」
ひまわりが小さく呟く。
俺は返事をしない。
息さえ止める。
数秒後。
マグマチャッピーは再び歩き始めた。
こちらへ来る様子はない。
「……大丈夫。」
ローズが静かに言う。
俺もようやく息を吐いた。
思った以上に鼻が利くらしい。
「急ごう。」
三人は次の場所へ移動した。
二枚目の布を置く。
風向きを確認する。
布から布まで、匂いが途切れない距離。
近すぎても意味がない。
遠すぎても辿れない。
昨日、何度も話し合って決めた間隔だった。
「これで二つ。」
ひまわりが小声で言う。
「あとは最後。」
俺は頷く。
最後の布は、空洞近くへ置く予定だった。
そこまで誘導できれば、作戦は半分成功したも同然だ。
しかし。
予定通りにいくほど、この森は甘くない。
ドン。
重い足音が響く。
俺は反射的に顔を上げた。
「……早い。」
巡回が予定より少し早い。
マグマチャッピーが、もう火吹き花の群生へ近付いていた。
「昨日より速い。」
ひまわりも不安そうに呟く。
「急ぐ。」
俺たちは岩壁沿いを進む。
走らない。
走れば終わる。
焦る気持ちを抑え、一歩ずつ進む。
ようやく空洞近くへ辿り着いた。
俺は最後の布を受け取る。
「ここだ。」
岩盤の端。
風が巡回路へ流れる位置。
慎重に布を置く。
石で押さえようとした、その時だった。
ゴォッ。
突然、風向きが変わった。
布がふわりと浮く。
「あっ!」
ひまわりが手を伸ばす。
だが間に合わない。
布は熱風へ乗り、巡回路とは反対側へ飛ばされていった。
俺は舌打ちを飲み込んだ。
「まずい。」
布は岩へ引っ掛かることなく、そのまま赤い花の中へ落ちる。
よりにもよって、火吹き花の群生から外れた場所だ。
「あれじゃ匂いが繋がらない。」
ひまわりの顔が青ざめる。
俺はすぐ地図を見る。
布は回収できない。
近付けば見つかる。
「……変更する。」
「どうする?」
「匂いが足りないなら。」
俺は自分の肩へ掛けていた布を外した。
汗が染み込んでいる。
予備に取っておいた一枚だった。
「これを置く。」
「オリマー。」
ローズが俺を見る。
「布がなくなる。」
「構わない。」
「今は作戦が優先だ。」
俺は岩陰から身を乗り出す。
あと数歩。
そこへ置けば間に合う。
マグマチャッピーとの距離は十分ある。
そう判断した。
一歩。
二歩。
三歩。
布を置こうと腰を下ろした、その瞬間。
ドン。
地面が震えた。
俺は顔を上げる。
マグマチャッピーが立ち止まっていた。
こちらを向いている。
「……見られた?」
ひまわりの声が震える。
マグマチャッピーは動かない。
鼻先だけがゆっくりと左右へ揺れている。
匂いを探している。
俺は動けなかった。
今動けば気付かれる。
動かなければ、匂いだけで終わるかもしれない。
時間だけが流れる。
やがて。
マグマチャッピーが一歩踏み出した。
こちらへ。
「来る。」
ローズが呟く。
二歩。
三歩。
巡回路を外れ、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
匂いに気付いた。
そう考えるしかなかった。
「戻るぞ。」
俺は小さく言う。
だが、ローズは首を横へ振った。
「間に合わない。」
確かに。
ここから岩棚までは距離がある。
三人で戻れば、その途中で追いつかれる。
「私が行く。」
ローズが一歩前へ出る。
「駄目だ。」
「まだ。」
「今しかない。」
「ローズ!」
俺が腕を掴もうとした時には、もう遅かった。
ローズは岩陰から飛び出していた。
赤い花道へ。
その姿を見つけたマグマチャッピーが、大きく咆哮する。
ゴォォォォォッ!!
灼熱花道全体が震えた。
炎を背負った巨体が、ローズへ向かって走り出す。
「こっち。」
ローズは振り返り、小さく呟いた。
そして迷いなく駆け出す。
俺は拳を強く握る。
最初から、こうするつもりだった。
もし匂いだけで駄目なら。
自分が囮になる。
そんな覚悟を、最初から決めていたのだ。
「……無茶しやがって。」
だが。
ここで止めても間に合わない。
俺はすぐにひまわりを見る。
「予定変更だ!」
「岩棚へ!」
「急げ!」
三人で考えた作戦は、もう形を変え始めていた。
だが、まだ終わってはいない。
むしろ。
ここからが、本当の勝負だった。
ローズが赤い花道へ飛び出した瞬間。
ゴォォォォォッ!!
マグマチャッピーが腹の底へ響く咆哮を上げた。
その巨体が、一気に地面を蹴る。
ドンッ!!
踏み込むたび、黒い岩が震える。
赤い花々が左右へ押し分けられ、焼けた花弁が宙へ舞った。
「ローズ!」
俺は思わず叫ぶ。
しかし、ローズは振り返らない。
一直線に火吹き花の群生とは反対方向へ駆けていく。
「予定変更だ!」
俺はひまわりへ振り返った。
「岩棚へ!」
「うん!」
ひまわりも状況を理解したのだろう。
迷わず走り出す。
俺もその後を追う。
ローズが囮になった以上、一秒でも早く持ち場へ着かなければならない。
ドン!!
再び大地が震えた。
マグマチャッピーは予想以上に速い。
巨体からは想像できない加速だった。
「速い……!」
ひまわりが息を呑む。
「走れ!」
俺たちは岩壁沿いを駆け抜けた。
昨日まで何度も歩いた道だ。
危険な場所も覚えている。
右側は空洞。
左側は崩れやすい。
迷わず進める。
それだけが唯一の救いだった。
岩棚へ登り始めた時だった。
ゴォッ!!
背後から熱風が吹き抜ける。
思わず振り返る。
マグマチャッピーが炎を吐いたのだ。
一直線ではない。
扇状に広がる灼熱の息吹。
炎は赤い花々を飲み込みながら進み、火吹き花の群生へ届く。
ボボボボッ!!
花々が一斉に反応した。
無数の炎柱が空へ立ち上る。
昨日見た光景より、さらに激しい。
「ローズ!」
炎の中を、小さな影が駆け抜ける。
ローズだった。
炎を真正面から浴びながらも、速度は落ちない。
熱を物ともせず、花の間を縫うように走っている。
「やっぱり……。」
俺は思わず呟いた。
「火は効かない。」
「でも。」
その直後。
ローズが大きく跳んだ。
炎ではない。
足元の亀裂を避けたのだ。
着地した瞬間、地面が崩れる。
ガラガラと黒い岩が崩落していく。
「地面は平気じゃない。」
火には耐えられる。
だが、足場は別だ。
ローズ自身も、そのことは理解している。
無茶をしているようで、ちゃんと危険は見ている。
「オリマー!」
ひまわりの声で我に返る。
「早く!」
「ああ!」
俺たちは岩棚を駆け上がる。
持ち場まではあと少し。
その間にも、ローズはマグマチャッピーとの距離を保ち続けていた。
決して離しすぎない。
近付きすぎない。
追い付かれそうになると方向を変える。
昨日決めた逃走経路ではない。
その場その場で判断している。
「うまい……。」
思わず感心した。
ローズは速いだけじゃない。
ちゃんと相手を見ている。
真正面へ逃げない。
急な方向転換も多用する。
巨体のマグマチャッピーは、その度に大きく身体を振らなければならない。
ほんの一瞬。
その一瞬が距離になる。
「ローズって。」
ひまわりが走りながら言う。
「逃げるのも上手なんだね。」
「ああ。」
「たぶん。」
俺はマグマチャッピーを見る。
「何度も生き残ってきたんだ。」
その言葉に、ひまわりは黙った。
ローズは、この森で長く生きてきた。
戦った回数より。
逃げた回数の方が、ずっと多いはずだ。
だからこそ、生きている。
岩棚へ到着する。
「ひまわり!」
「ここだ!」
昨日作った仕掛けが目の前にあった。
太い蔦。
岩へ結び付けた結び目。
その先には、巨大な岩。
下には火吹き花の群生。
「位置は!」
俺が叫ぶ。
ひまわりはすぐ耳を澄ませた。
「まだ遠い!」
「あと少し!」
俺は岩棚から身を乗り出す。
ローズは大きく回り込みながら、少しずつこちらへ近付いている。
予定していた空洞の方向へ。
「そのままだ……。」
ローズは俺の姿を見つけた。
ほんの一瞬だけ頷く。
声は届かない。
それでも十分だった。
作戦は続いている。
マグマチャッピーが再び炎を吐く。
ゴォォッ!!
熱風が花道を走る。
火吹き花が次々と炎を噴き上げる。
爆ぜるような音。
吹き上がる火柱。
赤い花弁が炎へ飲まれていく。
まるで花道そのものが燃え始めたようだった。
「すごい……。」
ひまわりが息を呑む。
俺も同じだった。
昨日は敵だと思っていた景色が、今日は利用できる地形へ変わっている。
見方一つで世界は変わる。
配送でも同じだ。
遠回りに見える道が、一番早いこともある。
「来る!」
ひまわりが叫ぶ。
ローズが火吹き花の群生へ近付いた。
そのすぐ後ろにはマグマチャッピー。
距離は十メートル。
八メートル。
六メートル。
「まだだ。」
俺は蔦へ手を掛けたひまわりを止める。
「まだ引くな!」
「でも!」
「まだだ!」
岩を落とすのは一度きり。
早すぎれば意味がない。
遅すぎればローズが危ない。
一番難しい役目だった。
ローズが群生の横を駆け抜ける。
マグマチャッピーも続く。
火吹き花が一斉に炎を噴いた。
しかし巨体は止まらない。
炎を浴びながら、そのまま突っ込んでくる。
「まだ!」
俺は叫ぶ。
ローズが空洞の手前まで来た。
あと少し。
あと数歩。
そこへ。
ガキッ。
ローズの足が岩へ引っ掛かった。
身体が大きく前へ傾く。
「ローズ!」
俺の心臓が止まりそうになる。
だが。
ローズは倒れなかった。
咄嗟に片手を地面へ突き、その反動で身体を立て直す。
そのまま前転するように転がり、すぐ立ち上がった。
一瞬の隙。
だが、その一瞬で。
マグマチャッピーとの距離が一気に縮まる。
あと三メートル。
二メートル。
「オリマー!」
ひまわりの声が震える。
俺は歯を食いしばる。
まだだ。
まだ早い。
空洞へ踏み込んでいない。
焦れば全部終わる。
俺はマグマチャッピーの前足だけを見つめた。
あと一歩。
あと一歩だけ踏み込めば――。
俺はマグマチャッピーの前足だけを見つめていた。
巨大な爪が岩盤を叩く。
ドンッ。
地面が震える。
まだ空洞の手前だ。
「まだ!」
俺は叫ぶ。
ひまわりは蔦を握ったまま耐えている。
腕が震えていた。
引けば終わり。
引かなければ、ローズが食われる。
その境界だった。
ローズは転倒から立て直すと、もう一度走り出した。
無駄な動きはない。
息も乱れていない。
だが、速度はほんの少しだけ落ちていた。
疲労だ。
昨日から休みなく動き続けている。
火には強くても、体力まで無限ではない。
マグマチャッピーとの距離がさらに縮まる。
二メートル。
一メートル。
大きく開かれた口。
鋭い牙。
熱気が岩棚まで届く。
「ローズ!」
俺は叫ぶ。
その瞬間だった。
ローズが真横へ跳ぶ。
マグマチャッピーの牙が空を噛む。
ガチンッ!!
岩を砕くような音が響いた。
「避けた!」
ひまわりが叫ぶ。
だが、安心する暇はない。
マグマチャッピーはすぐ身体を捻り、もう一度追い始めた。
今度こそ空洞の方向へ。
「……来い。」
俺は小さく呟く。
あと数歩。
空洞まであと数歩。
ローズは振り返らない。
ただ一直線に走る。
彼女も分かっている。
今振り返れば遅れる。
だから信じている。
俺たちを。
ドンッ。
前足が岩盤へ乗る。
ガリッ。
細い亀裂が広がる。
もう一歩。
さらに前足が踏み込む。
「まだ。」
俺は歯を食いしばる。
空洞全体へ身体が乗っていない。
今では足りない。
ローズが空洞を飛び越える。
着地。
そのまま岩場へ転がり込む。
続いて。
マグマチャッピーが大きく踏み出した。
ズシンッ!!
巨体が空洞の真上へ乗る。
岩盤全体が沈む。
「今だ!!」
俺の叫びと同時に。
「うんっ!!」
ひまわりが全身で蔦を引いた。
腕だけではない。
岩へ足を掛け、身体ごと後ろへ倒れ込む。
ギシギシッ!!
蔦が大きく軋む。
結び目が張る。
巨大な岩がゆっくり動いた。
「もう一回!」
「えいっ!!」
ひまわりがさらに力を込める。
ゴゴゴゴ……
岩が傾く。
一瞬。
止まる。
「動いて!」
ひまわりの声が響く。
その時だった。
ローズが岩の下へ飛び込んだ。
「ローズ!」
俺が叫ぶより早く。
ドンッ!!
ローズの拳が巨大な岩へ叩き込まれる。
鈍い衝撃音。
岩が一気に傾いた。
ゴゴゴゴゴゴッ!!
巨大な岩塊が斜面を転がり始める。
「行った!」
俺は息を呑む。
岩は勢いを増しながら火吹き花の群生へ落下した。
ドォォォンッ!!
地面が揺れる。
岩が群生へ激突した。
次の瞬間。
ボボボボボボボボォッ!!
無数の火吹き花が一斉に炎を噴き上げる。
一本。
二本。
十本。
二十本。
数え切れない火柱が空へ立ち上った。
熱風が爆発する。
岩盤が悲鳴を上げる。
メリメリメリッ!!
地面に走っていた亀裂が、一気に繋がった。
「来る!」
俺は叫ぶ。
マグマチャッピーが身体を止めようとする。
しかし遅い。
巨体は勢いのまま前へ進む。
ズズッ……
前足が沈む。
続いて後ろ足も。
「うおおおっ!!」
俺は思わず声を上げた。
岩盤全体が大きく沈む。
耐える。
持ちこたえる。
いや。
もう限界だった。
バキィィィィン!!
凄まじい破砕音。
空洞を覆っていた岩盤が、一斉に崩れ落ちる。
マグマチャッピーの巨体が大きく傾いた。
「グオオオオォォォッ!!」
怒りとも驚きともつかない咆哮が響く。
前足が空を掻く。
岩へ爪を立てようとする。
だが。
掴めない。
重すぎる身体が、自らを引きずり込んでいく。
ズドォォォォォン!!
地面が大きく沈み込んだ。
砂煙。
熱風。
砕けた岩。
赤い花弁。
全てが空高く舞い上がる。
俺たちは思わず腕で顔を庇った。
轟音だけが辺りへ響き続ける。
やがて。
静寂。
「……やった?」
ひまわりが恐る恐る顔を上げる。
俺も穴を見る。
巨大な空洞。
その底までは見えない。
マグマチャッピーの姿もない。
「成功……。」
そう呟いた、その瞬間だった。
グオオオオォォォォォッ!!
穴の底から、とてつもない咆哮が響いた。
地面が震える。
砕けた岩が穴の中から弾き飛ばされる。
「生きてる!」
ひまわりの顔が青ざめた。
ローズは穴を見つめ、静かに言う。
「登ってくる。」
俺も頷いた。
倒したわけじゃない。
閉じ込めた時間も長くはない。
「今しかない!」
俺は二人を見る。
「走るぞ!」
ローズが真っ先に駆け出す。
ひまわりが続く。
俺も荷物を掴み、全力で二人を追った。
背後ではなお、マグマチャッピーの咆哮が灼熱花道を揺らしていた。
灼熱の番人との勝負は、まだ終わっていなかった。
「今しかない!」
俺の声と同時に、三人は駆け出した。
先頭はローズ。
その後ろをひまわり。
最後尾を俺が追う。
背後では、なおもマグマチャッピーの咆哮が響いている。
グオオオオォォォッ!!
穴の底から響く怒号は、灼熱花道そのものを震わせていた。
「急いで!」
ひまわりが振り返る。
「ああ!」
俺は息を切らしながら走る。
全身が重い。
足は鉛のようだった。
だが止まれない。
止まれば、ここまで積み重ねたものが全部無駄になる。
ローズは先頭で道を選んでいた。
「右!」
短く言う。
三人は昨日通った岩場へ入る。
空洞音がした場所。
崩れやすい岩。
全部覚えている。
知っている道を走るだけでも、昨日とは安心感が違った。
その時。
ズドン!!
背後から大きな衝撃が伝わる。
地面が大きく揺れた。
「出た!」
ひまわりが叫ぶ。
俺も反射的に振り返る。
穴の縁へ、巨大な前足が掛かっていた。
黒い爪が岩へ食い込む。
続いて炎をまとった頭が姿を現す。
マグマチャッピーだ。
全身が土埃にまみれている。
それでも傷らしい傷はない。
やはり倒せてはいなかった。
「速い!」
俺は歯を食いしばる。
思ったより早い。
もっと時間を稼げると思っていた。
ローズも振り返る。
「走って。」
「止まらない。」
「分かってる!」
俺たちは再び前だけを見る。
出口までは、あと少し。
黒い岩壁の向こう。
空気の違う場所。
あそこを抜ければ灼熱花道は終わる。
その時だった。
ゴォォォッ!!
熱風が背中を襲う。
「伏せろ!」
俺は叫んだ。
三人は反射的に地面へ飛び込む。
次の瞬間。
炎が頭上を通り過ぎた。
轟音と共に、後方の火吹き花が一斉に燃え上がる。
熱風だけで反応したのだ。
ボボボボボッ!!
無数の火柱。
赤い花弁が焼け散る。
「大丈夫か!」
俺は二人を見る。
「平気!」
ひまわりがすぐ答える。
ローズも静かに頷いた。
「行こう。」
三人は立ち上がる。
だが。
マグマチャッピーはもう巡回していた時とは違った。
一直線に追ってくる。
縄張りを守るためではない。
怒っている。
明らかだった。
「まずいな。」
俺は息を切らしながら呟く。
「出口まで持つか……。」
ローズは少しだけ前へ出る。
「私が止める。」
「駄目だ。」
「でも。」
「時間なら作った。」
俺は首を横へ振る。
「ここで戦う必要はない。」
「帰るぞ。」
ローズは少しだけ迷う。
それでも頷いた。
「……うん。」
出口まで残り百メートル。
九十。
八十。
後ろではマグマチャッピーが岩を砕きながら追ってくる。
五十。
四十。
もう目の前だった。
その時。
ゴォォォッ!!
再び炎。
今度は真正面へ広がる。
「横へ!」
ローズが叫ぶ。
三人は左右へ散った。
炎が中央を焼き払う。
熱風で息が詰まる。
だが。
その炎が思わぬ結果を生んだ。
出口付近に残っていた火吹き花が、一斉に炎を噴いたのだ。
ボボボボボッ!!
炎が壁のように立ち上がる。
マグマチャッピーは止まらない。
そのまま突っ込む。
しかし。
視界だけは遮られた。
「今だ!」
俺は叫ぶ。
三人は炎の壁を横から回り込む。
ローズは火の中を突っ切る。
ひまわりと俺は岩壁沿いを駆け抜けた。
マグマチャッピーは炎の向こうで俺たちを見失ったらしい。
鼻先を左右へ振っている。
その一瞬。
それだけで十分だった。
「出口だ!」
目の前の岩壁が途切れる。
熱風が変わる。
乾いた空気から、少しだけ湿った風へ。
赤い花が消えた。
黒い岩も少なくなる。
代わりに見えてきたのは。
青々とした草だった。
「抜けた……。」
ひまわりが立ち止まる。
俺たち三人は振り返った。
灼熱花道。
赤い花々がどこまでも続いている。
その奥で。
マグマチャッピーが立っていた。
こちらを見ている。
しかし。
追っては来ない。
一歩だけ前へ出る。
そこで止まる。
まるで見えない境界線でもあるようだった。
ローズが静かに呟く。
「ここまで。」
俺はその言葉の意味が分かった。
あいつは番人だ。
縄張りを守る存在。
追い払うことはあっても、どこまでも追い掛けるわけではない。
自分の役目は、この花道を守ることなのだ。
マグマチャッピーは低く唸る。
それから、ゆっくりと身体を反転させた。
炎を揺らしながら、灼熱花道の奥へ戻っていく。
その背中を、三人は黙って見送った。
やがて、その姿は赤い花々の中へ消える。
静寂だけが残った。
ひまわりが大きく息を吐く。
「生きてる……。」
「ああ。」
俺も座り込んだ。
全身から力が抜ける。
指先まで震えていた。
ローズもその場へ腰を下ろす。
珍しく、肩で息をしている。
「疲れたか。」
俺が尋ねる。
ローズは小さく笑った。
「少し。」
「初めて聞いたな。」
「何が。」
「お前が疲れたって言ったの。」
ローズは首を傾げる。
「疲れるよ。」
「当たり前。」
「でも。」
ひまわりが笑う。
「ローズって疲れない人だと思ってた。」
「違う。」
「我慢してるだけ。」
その一言に、俺は思わず苦笑した。
「それもほどほどにな。」
ローズはこちらを見る。
「オリマーも。」
「また返された。」
「同じだから。」
ひまわりが吹き出した。
「やっぱり似てる!」
「似てない。」
ローズは即座に否定する。
俺はもう反論しなかった。
言っても無駄だと学習した。
三人で顔を見合わせる。
そして。
誰からともなく笑った。
灼熱花道。
炎の番人。
逃げることしかできなかった昨日。
知恵を集め、準備を重ね、ようやく越えられた今日。
倒したわけではない。
勝ったわけでもない。
それでも。
俺たちは前へ進めた。
俺は新しい景色を見上げる。
草木は鮮やかな緑へ変わり、遠くには澄んだ水の流れる音が聞こえていた。
「水だ。」
ひまわりが目を輝かせる。
ローズも耳を澄ませる。
「近い。」
俺は笑みを浮かべた。
「まずは休もう。」
「その後だ。」
三人は新しい土地へ、一歩を踏み出す。
灼熱花道は、もう背中の向こうだった。
だが、この森の旅は、まだ始まったばかりだった。