来たる日のための裁判には、六法全書を持ち込まない 作:ほてぽて
喫茶店を出る。
ガラス戸の向こうで店員が会釈をした。
私は軽く頭を下げて商店街へ足を向ける。
片手にはスマートフォン。
胸ポケットにはメモ帳。
録音機もある。
準備は万全だった。
「おじさんも付いてきてくださいね」
後ろを振り返る。
鷺森恒一は気怠そうに欠伸をしながら歩いてくる。
「ああ……いるぞ」
返事だけはする。
やる気はない。
それでも付いてくる。
私は少しだけ気合いを入れた。
今の私なら見つけられる気がした。
情報を集める。
整理する。
繋ぎ合わせる。
そうすれば答えは出る。
きっと。
まずはパン屋だった。
「おばあさんとこのタマか?」
店主が腕を組む。
「昨日の夕方に見かけたかな」
私はすぐにメモを取る。
昨日、夕方。
パン屋前。
次は魚屋。
「いたよ」
魚を捌きながら店主が答える。
「昨日の午後にな。小魚欲しそうに見てたから少しやった」
昨日午後。
魚屋。
さらに記録。
八百屋。
「今朝見たかな」
野菜を並べながら答える。
「日向で寝てたぞ」
今朝。
八百屋前。
私は次々に書き込んでいく。
商店街を行き交う人にも声を掛けた。
「今日の昼に公園で見たかも」
「猫が集まってるところにいた」
「昼くらいに走ってた」
「昨日は喫茶店の前で寝てたな」
「知らない」
「裏通り歩いてたぞ」
「見てない」
「分からない」
情報が増える。
どんどん増える。
なのに。
私は眉を寄せた。
「……おかしい」
立ち止まる。
メモ帳を開く。
書き込まれた証言。
昨日の夕方。
昨日の午後。
今朝。
昼。
公園。
裏通り。
魚屋。
喫茶店。
八百屋。
全部違う。
一致する情報がない。
いや、
正確には違う。
全部が一致している。
タマはいつも通り商店街を歩いていた。
それしか分からない。
ボールペンを頬に当てる。
「んー……」
唸る。
恒一はその後ろで缶コーヒーを飲んでいた。
何もしていない。
本当に何もしていない。
私は聞き込み。
私は記録。
私は整理。
私は推測。
おじさん。
缶コーヒー。
以上。
「わりぃ、トイレ行ってくる」
「……あ、はい」
恒一が喫茶店の方へ戻っていく。
私は近くのベンチに腰掛けた。
去っていく背中を見る。
少しだけ不満が湧く。
もっと協力してくれてもいいのに。
そう思う。
けれど。
私が勝手に首を突っ込んでいるだけとも言える。
元々はおばあさんの依頼だ。
恒一は付き合ってくれているだけ。
それも分かっている。
分かっているけれど。
「探してくれてありがとうねぇ」
声がした。
顔を上げる。
依頼人のおばあさんだった。
「毎日顔見せてくれるんだよ」
優しく笑う。
「朝になると来てねぇ」
「ご飯食べて」
「縁側で寝て」
「夕方になると出ていくんだ」
少し寂しそうだった。
「息子みたいなもんでねぇ」
その言葉に私は何も言えなくなる。
ただ頷く。
「大丈夫です」
代わりにそう答えた。
「絶対に見つけますから」
おばあさんは少し驚いたように笑った。
そしてポケットから何かを取り出す。
飴玉だった。
黄色い輪っかの飴。
昔ながらの駄菓子。
懐かしい。
「ありがとう」
受け取る。
「無理しないでねぇ」
その言葉を残しておばあさんは去っていった。
私は飴を見つめる。
少しだけ想像したら、胸が痛かった。
毎日来る。
ご飯を食べる。
寝る。
そして帰る。
当たり前のこと。
それだけのこと。
それだけなのに。
帰ってこなくなる。
空の皿。
毛布。
そこに猫がいないだけ。
そんなことがある。
私は飴を握る。
その時だった。
「戻ったぞ」
聞き慣れた声。
恒一が戻ってきた。
ベンチへ腰を下ろす。
深く背を預けて、足を投げ出す。
昼寝を始めそうな姿勢。
いや。
たぶん始める。
この人はそういう人だ。
私はしばらく黙って見ていた。
そして。
限界だった。
「あの」
「ん?」
「おじさんも探してください」
少し語気が強くなる。
恒一は気にした様子もない。
「探してる」
即答。
私は眉をひそめた。
「どこをです?」
「猫」
沈黙。
腹が立つ。
どうしてそんなに呑気でいられるのか。
十四歳。
高齢猫。
事故だってある。
病気だってある。
誰かに連れて行かれたかもしれない。
どこかで動けなくなっているかもしれない。
死んでいるかもしれない。
考えたくない想像ばかりが浮かぶ。
どんどん。
どんどん。
悪い方へ。
最悪の方へ。
転がっていく。
見つけなきゃ。
早く。
何か起きてからじゃ遅い。
取り返しがつかなくなってからじゃ遅い。
私は立ち上がった。
「もういいです」
恒一がこちらを見る。
「私一人で探しますから」
声が少し震えていた。
「おじさんはそこで寝ててください」
吐き捨てるように言う。
そして歩き出そうとする。
その背中へ。
恒一の静かな声が落ちた。
「瑠夏」
足が止まる。
振り返らない。
「猫はな」
少し間があった。
「お前より猫やってる歴が長ぇぞ」
私は眉を寄せる。
意味が分からない。
けれど。
その声だけは妙に落ち着いて聞こえた。