来たる日のための裁判には、六法全書を持ち込まない 作:ほてぽて
気が付けば夕方になっていた。
六時を過ぎてもまだ空は明るい。
けれど、それは錯覚だ。
七時を回れば一気に暗くなる。
人間の目は慣れてしまう。
少しずつ変わるものには気付きにくい。
だから気付いた時には遅い。
それは空も同じだし、人も同じだ。
私は商店街を走っていた。
猫は見つからない。
聞き込みで聞いた場所を順番に辿った。
魚屋。
パン屋。
八百屋。
公園。
裏通り。
喫茶店。
何度も何度も回った。
途中で何匹も猫を見かけた。
野良猫。
飼い猫。
毛色の似た猫。
けれど違う。
どれもタマじゃない。
十四歳の老猫。
白と黒の混ざった毛並み。
尻尾に茶色。
人懐っこい。
おばあさんの家に毎日帰る猫。
その猫だけが見つからなかった。
私は足を止めて、肩で息をする。
喉が渇いて、額に汗が滲む。
思ったより走っていたらしい。
視線を上げる。
喫茶店が見えた。
そして、その前のベンチ。
おじさんがいた。
深く背を預けている。
本当に昼寝をしていた。
今まで何をしていたのか。
本当に探していたのか。
疑いたくなる。
私は息を整えながら近付く。
「……おかしいです」
恒一は目を開けないまま返した。
「……何がだ」
「帰ってこないんです」
その瞬間。
彼はゆっくりと目を開けた。
私を見る。
気怠げな目。
いつもと変わらないように見える。
けれど。
ちゃんとこちらを見ていた。
「待ってる人がいるのに」
私は続ける。
「ご飯もあるんです」
「寝る場所もあるんです」
「帰る家もあるんです」
言いながら胸が苦しくなる。
どうしてだろう。
ただの猫なのに。
ただの迷子なのに。
どうしてこんなに。
恒一は何も言わない。
黙ったまま私を見ていた。
そして。
深く息を吐いた。
大きなため息だった。
呆れたような。
諦めたような。
そんな息。
「おじさん……?」
恒一は立ち上がった。
何も言わない。
そのまま歩き出す。
私は慌てて追いかけた。
「どこ行くんですか」
返事はない。
「まだ帰らないでください」
「ああ」
ようやく返ってくる。
「分かってる」
短く言う。
そして。
「黙って付いてこい」
それだけだった。
商店街を抜ける。
人通りが減る。
住宅街を外れる。
私は横を歩きながら何度も口を開きかける。
結局、我慢できなくなった。
「おじさん」
「ん?」
「本当に探してたんですか」
歩く速度は変わらない。
「探してた」
「嘘です」
即答だった。
おじさんは面倒そうに頭を掻く。
「なんでそうなる」
「だって昼寝してたじゃないですか」
「してたな」
「探してなかったじゃないですか」
「探してた」
同じ答えに腹が立つ。
「私、全部回ったんですよ」
返事はない。
「聞き込みもしました」
返事はない。
「公園も裏通りも探しました」
それでも返事はない。
少しだけ声が大きくなる。
「なのに見つからなかったんです」
立ち止まりそうになり、胸の奥が苦しい。
「帰ってこないんです」
その言葉だけは自分でも驚くほど弱かった。
おじさんはそこで初めて足を止めた。
振り返らない。
背中だけ向けたまま言う。
「瑠夏」
「……」
「お前、猫探してんのか?」
意味が分からなかった。
そこから少し歩いて、高い場所へ向かう。
やがて石段が見えた。
古い神社だった。
「神社……?」
恒一は階段を見上げる。
「そうだな」
「神頼みですか」
返事はなかった。
私は首を傾げる。
神頼み。
そんな非合理的なことをする人には見えない。
けれど、
今は従うしかなかった。
石段を上る。
周囲には木々が並んでいる。
草刈りの跡が見える。
下を見ると商店街の屋根が見えた。
少しだけ高い。
だから見渡せる。
だから。
静かだった。
神社は古かった。
小さな本殿。
古びた蔵。
賽銭箱。
誰もいない境内。
砂利を踏む音だけが響く。
ジャリ。
ジャリ。
恒一は賽銭箱へ向かわない。
そのまま脇へ逸れる。
神社の裏手。
木陰。
そこで足を止めた。
私は横に並ぶ。
視線を向ける。
そして。
固まった。
猫だった。
黒。
白。
茶色。
少しだけ乱れた毛並み。
丸まって眠っていた老猫。
恒一が顎で示す。
「こいつだろ」
私は返事ができなかった。
探していた猫が、そこにいた。
何時間も探した猫。
おばあさんが待っている猫。
間違いない。
見つかった。
見つかったのに。
足が動かなかった。
探していた。
ずっと探していた。
見つからないかもしれないと思った。
もう遅いかもしれないと思った。
最悪のことも考えた。
なのに、猫はいた。
何事もなかったみたいに。
そこに。
私はようやく息を吐いた。
気付けば肩の力が抜けていた。
猫はゆっくり目を開ける。
眠そうな顔。
猫は欠伸を一つした。
それから私を見る。
数秒。
じっと見つめる。
警戒もない。
逃げる気配もない。
そして。
のそのそと歩き出した。
私はしゃがむと、猫はそのまま近付いてくる。
靴に鼻先を当てて匂いを嗅ぐ。
それから足首へ体を擦り付けた。
柔らかい毛の感触。
何事もなかったような仕草。
まるで。
「どうしたんだ?」
とでも言いたげだった。
力が抜ける。
探していた側と。
探されていた側。
その温度差があまりにも大きかった。
「……いた」
ようやく言葉になる。
「本当にいた……」
猫は興味を失ったように尻尾を揺らす。
そして神社の石畳へ座り込む。
「だから言ったろ」
「お前より猫やってる歴が長ぇ」
「なんで……」
声が漏れる。
「ここに……」
恒一は肩を竦めた。
「年寄りだからな」
「日向と静かな場所が好きなんだろ」
猫は再び欠伸をする。
まるで、
最初から帰るつもりだったみたいに。