来たる日のための裁判には、六法全書を持ち込まない   作:ほてぽて

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4. 消えた猫③

 

 

 

 気が付けば夕方になっていた。

 六時を過ぎてもまだ空は明るい。

 けれど、それは錯覚だ。

 七時を回れば一気に暗くなる。

 

 人間の目は慣れてしまう。

 少しずつ変わるものには気付きにくい。

 

 だから気付いた時には遅い。

 それは空も同じだし、人も同じだ。

 

 私は商店街を走っていた。

 猫は見つからない。

 聞き込みで聞いた場所を順番に辿った。

 

 魚屋。

 パン屋。

 八百屋。

 公園。

 裏通り。

 喫茶店。

 

 何度も何度も回った。

 途中で何匹も猫を見かけた。

 

 野良猫。

 飼い猫。

 毛色の似た猫。

 けれど違う。

 

 どれもタマじゃない。

 

 十四歳の老猫。

 白と黒の混ざった毛並み。

 尻尾に茶色。

 

 人懐っこい。

 

 おばあさんの家に毎日帰る猫。

 その猫だけが見つからなかった。

 

 私は足を止めて、肩で息をする。

 喉が渇いて、額に汗が滲む。

 

 思ったより走っていたらしい。

 

 視線を上げる。

 喫茶店が見えた。

 

 そして、その前のベンチ。

 おじさんがいた。

 

 深く背を預けている。

 

 本当に昼寝をしていた。

 

 今まで何をしていたのか。

 本当に探していたのか。

 疑いたくなる。

 

 私は息を整えながら近付く。

 

「……おかしいです」

 

 恒一は目を開けないまま返した。

 

「……何がだ」

 

「帰ってこないんです」

 

 その瞬間。

 

 彼はゆっくりと目を開けた。

 

 私を見る。

 気怠げな目。

 いつもと変わらないように見える。

 

 けれど。

 

 ちゃんとこちらを見ていた。

 

「待ってる人がいるのに」

 

 私は続ける。

 

「ご飯もあるんです」

 

「寝る場所もあるんです」

 

「帰る家もあるんです」

 

 言いながら胸が苦しくなる。

 

 どうしてだろう。

 

 ただの猫なのに。

 ただの迷子なのに。

 どうしてこんなに。

 

 恒一は何も言わない。

 黙ったまま私を見ていた。

 

 そして。

 

 深く息を吐いた。

 

 大きなため息だった。

 呆れたような。

 諦めたような。

 

 そんな息。

 

「おじさん……?」

 

 恒一は立ち上がった。

 

 何も言わない。

 そのまま歩き出す。

 

 私は慌てて追いかけた。

 

「どこ行くんですか」

 

 返事はない。

 

「まだ帰らないでください」

 

「ああ」

 

 ようやく返ってくる。

 

「分かってる」

 

 短く言う。

 

 そして。

 

「黙って付いてこい」

 

 それだけだった。

 

 商店街を抜ける。

 人通りが減る。

 住宅街を外れる。

 

 私は横を歩きながら何度も口を開きかける。

 

 結局、我慢できなくなった。

 

「おじさん」

 

「ん?」

 

「本当に探してたんですか」

 

 歩く速度は変わらない。

 

「探してた」

 

「嘘です」

 

 即答だった。

 おじさんは面倒そうに頭を掻く。

 

「なんでそうなる」

 

「だって昼寝してたじゃないですか」

 

「してたな」

 

「探してなかったじゃないですか」

 

「探してた」

 

 同じ答えに腹が立つ。

 

「私、全部回ったんですよ」

 

 返事はない。

 

「聞き込みもしました」

 

 返事はない。

 

「公園も裏通りも探しました」

 

 それでも返事はない。

 少しだけ声が大きくなる。

 

「なのに見つからなかったんです」

 

 立ち止まりそうになり、胸の奥が苦しい。

 

「帰ってこないんです」

 

 その言葉だけは自分でも驚くほど弱かった。

 

 おじさんはそこで初めて足を止めた。

 振り返らない。

 背中だけ向けたまま言う。

 

「瑠夏」

 

「……」

 

「お前、猫探してんのか?」

 

 意味が分からなかった。

 

 そこから少し歩いて、高い場所へ向かう。

 

 やがて石段が見えた。

 古い神社だった。

 

「神社……?」

 

 恒一は階段を見上げる。

 

「そうだな」

 

「神頼みですか」

 

 返事はなかった。

 私は首を傾げる。

 

 神頼み。

 そんな非合理的なことをする人には見えない。

 

 けれど、

 今は従うしかなかった。

 

 石段を上る。

 周囲には木々が並んでいる。

 草刈りの跡が見える。

 

 下を見ると商店街の屋根が見えた。

 少しだけ高い。

 だから見渡せる。

 

 だから。

 静かだった。

 

 神社は古かった。

 小さな本殿。

 古びた蔵。

 賽銭箱。

 

 誰もいない境内。

 

 砂利を踏む音だけが響く。

 

 ジャリ。

 

 ジャリ。

 

 恒一は賽銭箱へ向かわない。

 そのまま脇へ逸れる。

 

 神社の裏手。

 木陰。

 

 そこで足を止めた。

 私は横に並ぶ。

 

 視線を向ける。

 

 そして。

 固まった。

 

 猫だった。

 

 黒。

 白。

 茶色。

 少しだけ乱れた毛並み。

 

 丸まって眠っていた老猫。

 

 恒一が顎で示す。

 

「こいつだろ」

 

 私は返事ができなかった。

 

 探していた猫が、そこにいた。

 何時間も探した猫。

 おばあさんが待っている猫。

 間違いない。

 

 見つかった。

 見つかったのに。

 

 足が動かなかった。

 

 

 探していた。

 ずっと探していた。

 見つからないかもしれないと思った。

 もう遅いかもしれないと思った。

 

 最悪のことも考えた。

 なのに、猫はいた。

 

 何事もなかったみたいに。

 そこに。

 

 

 私はようやく息を吐いた。

 気付けば肩の力が抜けていた。

 

 

 猫はゆっくり目を開ける。

 眠そうな顔。

 

 猫は欠伸を一つした。

 

 それから私を見る。

 数秒。

 じっと見つめる。

 

 警戒もない。

 逃げる気配もない。

 

 そして。

 のそのそと歩き出した。

 

 私はしゃがむと、猫はそのまま近付いてくる。

 靴に鼻先を当てて匂いを嗅ぐ。

 それから足首へ体を擦り付けた。

 

 柔らかい毛の感触。

 何事もなかったような仕草。

 

 まるで。

「どうしたんだ?」

 とでも言いたげだった。

 

 力が抜ける。

 探していた側と。

 探されていた側。

 

 その温度差があまりにも大きかった。

 

「……いた」

 

 ようやく言葉になる。

 

「本当にいた……」

 

 猫は興味を失ったように尻尾を揺らす。

 そして神社の石畳へ座り込む。

 

「だから言ったろ」

 

「お前より猫やってる歴が長ぇ」

 

 

「なんで……」

 

 声が漏れる。

 

「ここに……」

 

 恒一は肩を竦めた。

 

「年寄りだからな」

 

「日向と静かな場所が好きなんだろ」

 

 猫は再び欠伸をする。

 

 まるで、

 最初から帰るつもりだったみたいに。

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