来たる日のための裁判には、六法全書を持ち込まない   作:ほてぽて

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5. 消えた猫④

 

 

 

 猫は、ただ寝ていただけだった。

 

 それだけだった。

 

 誰かに追われていたわけでもない。

 怪我をしていたわけでもない。

 閉じ込められていたわけでもない。

 

 神社の裏手。

 

 木陰の涼しい場所で、

 ただ気持ちよさそうに昼寝をしていた。

 

 私は腕の中の猫を見下ろす。

 

 タマはすっかり大人しくなっていた。

 いや、大人しいというより慣れているのだろう。

 

 抱かれることに。

 撫でられることに。

 人に可愛がられることに。

 

 喉の奥からゴロゴロと音が聞こえる。

 機嫌がいいらしい。

 

 時折、前足を私の胸に押し当てては揉むような仕草を繰り返す。

 

 もみ、もみ。

 

 赤ちゃんが母親の胸を探す時のような動き。

 

 私は少しだけ笑ってしまった。

 ついさっきまで必死だったのに。

 見つからないかもしれないと思っていたのに。

 

 抱き上げた途端。

 この猫が妙に可愛く見えてくる。

 

「見つかってよかったです」

 

 横を歩く恒一に言う。

 

「そうだな」

 

 相変わらず気の抜けた返事だった。

 

 神社の石段を降りる。

 街灯が少しずつ灯り始めている。

 

 昼と夜の境目。

 

 人の影も長くなっていた。

 

 私は猫を抱えたまま歩く。

 

「帰ってこないかもしれないって思いました」

 

「そうだろうな」

 

「どこかで倒れてるかもしれないって」

 

「そうだろうな」

 

「事故かもしれないし」

 

「そうだろうな」

 

 私は思わず立ち止まりそうになる。

 

「でもちゃんといました」

 

「そうだな」

 

 今度は少しだけ違った返事だった。

 

 私は猫の頭を撫でる。

 タマは目を細める。

 

 気持ちよさそうだ。

 

 私は横を歩く恒一を見る。

 

「おじさん」

 

「ん?」

 

「最初から分かってたんですか」

 

 恒一は少し考えるように鼻を鳴らした。

 

「半分くらいな」

 

「半分?」

 

「絶対じゃねぇ」

 

「でも探しに来たんですよね」

 

「そうだな」

 

「どうして分かったんですか」

 

 少しの沈黙。

 

 恒一はポケットに手を突っ込んだまま前を向いている。

 

 そして。

 

「まぁ、なんだ」

 

 言葉を探すように頭を掻いた。

 

「帰る場所があるやつは案外帰る」

 

 私はその言葉を反芻する。

 

 帰る場所。

 

 タマは帰る場所を知っていた。

 

 だから帰る。

 ただそれだけ。

 

 商店街の明かりが見えてくる。

 

 人の声。

 自転車のベル。

 閉店準備をする店。

 

 いつもの景色。

 

 おばあさんの家も見えた。

 

 その姿を見た瞬間だった。

 

 腕の中でタマが暴れ始める。

 

「わっ」

 

 前足で私を押す。

 続いて後ろ足。

 

 そして。

 

 ぴょん。

 

 軽やかに飛び降りた。

 

 年寄り猫とは思えない動きだった。

 そのまま地面を駆ける。

 

 一直線。

 おばあさんの方へ。

 

「タマ!」

 

 声が響いた。

 おばあさんだった。

 

 驚いた顔。

 

 そのあと。

 

 安心した顔。

 

 そして。

 

 涙。

 

「もう帰ってこないかと思ったよぉ」

 

 しゃがみ込むと、

 タマが足元に擦り寄る。

 

「ニャア」

 

 まるで返事みたいだった。

 

 おばあさんの皺だらけの手がタマを抱き上げる。

 

 何度も撫でる。

 

 何度も。

 何度も。

 

 タマは嫌がる様子もない。

 

 喉を鳴らしている。

 

 その様子を見ていた、

 気付けばメモ帳も閉じたまま。

 録音機も止まったままだった。

 

 良かった。

 

 本当に。

 

 良かった。

 

 その時だった。

 

 横から声がする。

 

「ほらな」

 

 おじさん。

 

「何がです?」

 

 おばあさんと猫を顎で示す。

 

「帰る場所」

 

 私は言葉の意味を考える。

 おじさんは続けた。

 

「飯があって」

 

「寝る場所があって」

 

「待ってるやつがいる」

 

 少しだけ笑う。

 

「猫だって忘れねぇよ」

 

 私は再びおばあさんを見る。

 

 おばあさんが顔を上げる。

 

「ありがとうねぇ」

 

 私は首を振る。

 

「いいえ」

 

 言葉が続かない。

 おばあさんはタマを抱いたまま何度も頭を下げた。

 

 おばあさんの家を離れる。

 

 タマはもうこちらを見ない。

 おばあさんの腕の中で満足そうに丸くなっている。

 

 玄関の灯りが点いた。

 扉が閉まる。

 それで終わりだった。

 

 

 私はしばらくその家を見ていた。

 

「帰るぞ」

 

 おじさんが歩き出す。

 私は返事をしなかった。

 

 ただ後ろを付いていく。

 

 商店街の街灯が並ぶ。

 人の声が聞こえる。

 自転車が通り過ぎる。

 いつもと同じ景色。

 

 なのに妙に静かだった。

 

 胸の奥にあった焦りがなくなっている。

 代わりに何が残ったのか。

 それが分からない。

 

 気付けばメモ帳も閉じたまま。

 録音機も止まったままだった。

 探す理由がなくなった途端、 身体から力が抜けたようだった。

 

「……終わりましたね」

 

 ぽつりと呟く。

 おじさんは前を向いたまま答える。

 

「ああ」

 

 それだけだった。

 

 

 それから二人で商店街へ戻った。

 

 夜の喫茶店は昼とは少し違う。

 店内の照明は暖かい。

 

 ガラス窓に街灯が映り込んでいる。

 

 私たちは窓際の席に座った。

 

 恒一の前にはコーヒー。

 私の前にはアイスカフェオレ。

 

 そして。

 

 いつものように六法全書。

 

 テーブルの上では異様な存在感を放っている。

 

 私はストローを咥える。

 

 冷たい。

 甘い。

 

 少しだけ疲れた身体に染み渡る。

 

 気分も良かった。

 達成感というやつかもしれない。

 私は胸を張る。

 

「解決しました」

 

 恒一がコーヒーを飲む。

 

「猫が寝てただけだぞ」

 

「解決しました」

 

「そうか」

 

「しました」

 

「そうだな」

 

 私は満足そうに頷いた。

 

 恒一は呆れたようにコーヒーカップを置く。

 

 そして。

 

「頑張ったついでに」

 

 そう言ってこちらを見る。

 

 嫌な予感がした。

 

「タバコも買ってくれねぇか」

 

 私は無言で六法全書を開いた。

 

「未成年への喫煙教唆について調べますか?」

 

「やめろ」

 

 即答だった。

 

 ページをめくる。

 

「条例の確認もしますか?」

 

「やめろ」

 

「受動喫煙についても」

 

「やめろって」

 

 私は頷く。

 

「分かりました」

 

 おじさんは安心したようにコーヒーを飲む。

 

 少しだけ。

 

 ほんの少しだけ。

 

 今日一番笑った気がした。

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