わたしもいっしょに、いく 作:学マスオタク
「プロデューサーは、生まれ変わりって信じる?」
波が岩を打つ音が響く中でも、篠澤さんのか細い声ははっきりと俺の耳に届いていた。
閉じた瞼を開く。眼下に広がった海は暗く、終幕の気配を感じさせた。
「今際の際になって、来世の話ですか」
「そう。信じる?」
隣で俺を見上げながら、篠澤さんはまるで明日の献立でも聞いているかのような軽さで問いかける。
生まれ変わり。今まさに飛び立とうとする俺たちの、最後の会話として相応しいかもしれないと思った俺は、その会話に乗ることにした。
「信じていますよ」
「ロマンティックだ、ね。どうして?」
「他に縋るところがありませんから。篠澤さんは、信じますか?」
「わたしは、信じてない。非科学的」
篠澤さんらしい返答に、堪え切れず笑いが漏れた。
別に俺も、本気で来世があると信じているわけではない。むしろ、考えたことすらなかった。
ただ明日の可能性は閉ざしても、どこかに救いはあると信じたかったのだ。
「なら、どうして聞いたんですか」
「プロデューサーが信じてるなら、来世のことを検討する価値があると思った」
「俺が言うことなら、信じるんですか?」
「うん」
即答だった。
波が岩を叩く。白く砕けた飛沫が、夜の中で一瞬だけ輪郭を持って、それからすぐに消えた。
冬の海は暗い。空も、海も、岩場も、全部が同じ色に塗り潰されていて、境目がわからなかった。
ただ隣にいる篠澤さんの体温だけが、この場所にまだ現実が残っていることを示していた。
「合理的ではありませんね」
「知ってる」
「あなたらしくもない」
「そうかもしれない、ね」
篠澤さんは否定しなかった。
彼女はいつも通り、淡々としている。
淡々としているのに、いつもより少しだけ柔らかいその声が、冷たい風に乗って優しく耳元に届く。
俺が聞き逃さないように。あるいは最後まで、俺にだけ届けばいいと思っているように。
「あなたは、わたしのプロデューサーだから」
その言葉を聞いて、胸の奥に鈍い痛みが走る。
H.I.Fの前、俺は言った。
今年のH.I.Fに俺のプロデューサー生命を賭ける、と。
周囲に覚悟を示すための言葉だと思っていた。自分自身を奮い立たせるための言葉だった。
実際に命を賭けるなんて意味では、もちろんない。そのはずだった。
「本当に今更ですが、本気にしてたんですね」
篠澤さんが、小さく頷く。
「うん」
「言葉の綾だったつもりなんですが」
「知ってる、よ」
「だったら」
「でも、あなたは本気だったから」
篠澤さんが俺を見る。暗くなった中でも、その目ははっきりと見えた。
まばたきの少ない、静かな目。
ステージの上で何度も見てきた、何を考えているのかわからない目。
けれど今は、その視線から伝わる熱量が、少し違うようにも感じた。
「言葉の意味じゃなくて、気持ちの話」
俺は返事をしなかった。
「負けたら終わるって、思ってた」
「……」
「プロデューサーは、そういう顔をしてた」
「篠澤さん」
「アイドルは辛くて苦しくて楽しい。でも、わたしのせいであなたが苦しむのは違うと思う、から」
アイドルは趣味。だが、趣味だからこそ、夢だからこそ、本気になって命をかけ、追いかける価値があると思っていた。
「だから夢の時間は、終わり」
穏やかな声だった。あまりにも穏やかで、頭が追いつかなかった。
「あなたは関係ない」
「あるよ」
「ありません」
「ある、よ」
篠澤さんは、ほんの少しだけ眉を寄せる。
困っているようにも、怒っているようにも見えた。しかしたぶん、そのどちらでもないのだろう。
彼女はただ、俺の言葉が理解できないのだと思う。
「プロデューサーは、わたしが負けた責任を取ろうとしてる」
「それは」
「だから、わたしにも関係ある」
「違います。あなたは関係ない」
「違わない、よ」
波の音が、会話の隙間を埋める。
俺は何度も息を吸った。
言うべきことは決まっているはずだった。
篠澤さんだけは、帰さなければならない。
篠澤さんだけは、この先に連れて行ってはいけない。
そんな当たり前のことすら、うまく言葉にならなかった。
「篠澤さんは、生きてください」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「嫌」
篠澤さんは即答した。
「嫌、なんですか」
「うん」
「生きていくことが?」
「一人で生きるのが」
篠澤さんは俺から視線を逸らさない。
震えてはいなかった。泣いてもいなかった。
ただ、いつものように俺を見ている。
「プロデューサーがいないなら、わたしはアイドルを続けられない。夢も趣味も持てない」
「続けられますよ」
「できるかもしれない」
彼女はあっさり認めた。
「でも、続けたくない」
胸の奥が、今度ははっきりと痛んだ。
「わたしは、あなたとだから楽しかった」
「……」
「あなたが見てくれるから、ステージに立てた」
「篠澤さん自身の力ですよ」
「そういう話じゃない」
篠澤さんは、少しだけ声を強くした。
それでも波の音に消えそうなくらい、か細い声だった。
「あなたがいない世界では、もうわたしは何をしても楽しくないと思う」
「そんなこと」
「ある、よ」
きっぱりと言い切って、彼女は続ける。
「わたしは頭がいいから、わかる」
普段は自分で言わないくせに、篠澤さんは誇らしげに胸を張った。
その言い方が、あまりにも篠澤さんらしくて。こんな時なのに、少しだけ笑いそうになった。
「今のわたしは、プロデューサーに依存してる」
「……自覚があるなら、直すべきですよ」
「直したくない」
「なぜですか?」
「好きだから」
波の音が遠のいた。
いや、実際の音量や距離は変わっていない。
変わったのは俺の方だった。
「あなたのこと、好きだから」
篠澤さんは同じ言葉を繰り返した。
確認するように。願うように。
自分の中にある感情へ、名前を与えるように。
「……こんな場所で言うことでは、ありませんね」
「じゃあ、いつ言えばよかった?」
その問いに、俺は答えられなかった。
もっと早く。もっと普通の日に。もっと明るい場所で。
いくらでも答えは浮かぶのに、そのすべてが嘘に思えた。
俺が、気づかないふりをしていただけだ。
俺が見ないようにしていただけだ。
篠澤さんはずっと、俺を見ていた。
ステージの上から。
レッスン室の隅から。
ミーティングルームの向かい側から。
俺が彼女を見てきて接してきたのと同じくらい、あるいはそれ以上に、彼女は俺を見ていて、接してきた。
勝ちたかった。その時俺は、負けた悔しさも情けなさも忘れて、初めて強くそう感じた。
勝って、同じ言葉を聞きたかった。
「プロデューサー」
篠澤さんが、俺の袖を掴んだ。力は弱い。その気になれば、簡単に振りほどける。
けれど、俺は動けなかった。
「来世があるなら」
「……信じていないんでしょう」
「うん。信じてない」
篠澤さんは頷く。
「でも、プロデューサーが信じてるなら、来世があると仮定する」
「仮定して、どうするんですか」
「来世でも、わたしをプロデュースして」
あまりにも身勝手で、あまりにも残酷な願いだった。
来世なんて存在しないと言った彼女が、存在しないものに縋っている。非科学的だと切り捨てたものを、俺のためにあると仮定している。
信じてもいない未来に、俺との約束だけを置こうとしている。
それがどうしようもなく、苦しい。
「……来世じゃなきゃ、駄目なんですか」
気づいた時には、そんなことを言っていた。
篠澤さんが瞬きをする。
「今じゃ、駄目なんですか」
自分の声が震えていた。
情けない声だった。プロデューサーらしくも、大人らしくもない、敗者の声だった。
決意から、責任から。逃げようとしている人間の声だった。
篠澤さんは俺の袖を掴む指に、少しだけ力を込める。
「今?」
「はい」
「終わりじゃ、ないの?」
「……わかりません」
「勝てなかったのに?」
「はい」
「プロデューサー生命を賭けたのに?」
「はい」
「言葉の責任は、どうする、の?」
責任。
その言葉が、ずっと俺の首に絡みついていた。
負けた責任。大きな言葉を吐いた責任。
篠澤広というアイドルを、H.I.Fの──アイドルの頂点へ連れていけなかった責任。
そのすべてを取る方法が、俺には一つしか思いつかなかった。
けれど。
篠澤さんの指が、俺の袖を掴んでいる。
弱い力だった。本当に、簡単に振りほどけるはずの。だがこの体は、まるで金縛りにでもあったかのように動かない。
口は、動く。
「取ります」
風の音が止んだ。
「生きて、取ります」
篠澤さんは何も言わなかった。ただ、俺を見ていた。
波が岩を打つ。白い飛沫が夜に消える。
俺たちはまだ、そこに立っていた。
「プロデューサー」
「はい」
「それは、逃げてない?」
鋭い問いだった。
けれど今度は、すぐに答えられた。
「逃げています」
「そう」
「でも、死ぬよりはましでしょう」
「どうして?」
「あなたを、来世まで待たせることになるので」
篠澤さんは少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
泣きそうになったのかもしれない。
俺には、まだその違いがわからなかった。
「非科学的」
「はい」
「ふふ。でも、少しロマンティックだ、ね」
「篠澤さんが言ったんですよ」
「そうだった」
彼女はそう言って、俺の袖から手を離さなかった。
そのまま、波の音だけがしばらく続いた。
夜はまだ明けない。冬の海は暗いままだ。
俺たちの敗北も、責任も、消えたわけではない。
それでも、篠澤さんは隣にいる。
生まれ変わりを信じていない彼女が、今の俺を選んでいる。
なら、俺も。
「帰りますか」
そう言うと、篠澤さんは小さく首を傾げた。
「どこに?」
俺は少し考えた。
学園。寮。ミーティングルーム。レッスン室。
帰るべき場所はいくつもあるはずなのに、どれも正解ではない気がした。
だから俺は一番情けなくて、一番正直な答えを選んだ。
「明日がある場所に」
篠澤さんは、ゆっくり瞬きをした。
「抽象的」
「すみません」
「でも、いいね」
彼女はそう言って、ようやく俺の袖を離した。
そして代わりに、俺の手を取った。
その手は冷たかった。けれど、確かに篠澤広の温度があった。
「プロデューサー」
「はい」
「明日は、何をする?」
俺は答えに詰まった。
明日の予定なんて考えていなかった。
俺たちは今夜で終わるつもりだった。だから、明日なんて存在しないはずだった。
それなのに篠澤さんは、当然のように明日の話をする。
まるでそれが、俺たちに残された唯一の抵抗であるかのように。
「……まず、学園に戻ります」
「うん。それで?」
「それから、謝罪します」
「誰に?」
「関係者全員に」
「多いね」
「それだけ、迷惑をかけましたから」
「じゃあ、わたしも一緒に行く、ね」
その言葉の持つ温度が、どうしようもないくらいに暖かく感じた。
一緒にいく。一緒に逝く。一緒に行く。
俺がどこへ行こうとも、篠澤さんはついて来るつもりなのだろう。言葉の形は変わっても、篠澤さんは変わらない。
今度は彼女がついて来ることを、否定することができなかった。する意味がなかった。
「街に帰ったら、温かいものが食べたい」
「そうですね」
「お腹が空いた、ね」
俺は今度こそ笑った。泣きながら、笑った。
堪えられなかった。
冬の海の前で。今際の際のはずだった場所で。篠澤広は、明日の予定と、今日の夕食の話をしている。
そのあまりの不釣り合いさに、どうしようもなく救われてしまった。
「何が食べたいですか?」
「考えておく」
「今からですか?」
「うん」
篠澤さんは俺の手を握ったまま、暗い海に背を向ける。
「明日も生きてるから、ね」
背中越しに、篠澤さんの笑顔が透けて見えた。
来世なんていらない。生まれ変わりなんて、信じなくていい。
今この瞬間、篠澤さんが俺の手を握っている。小さな手から伝わる確かな温かみが、生きることの意味を伝えて来る。
それだけで、俺はまだ生きていける気がした。
「はあ。勝手に費用まで使ってしまって、気が重いですね」
「ふふ。悪い人だね、プロデューサー」
「そうですね。否定できません」
篠澤さんが振り返った。
「ね、プロデューサー」
「なんですか、篠澤さん」
「次は勝とう、ね」
「……はい、必ず」
「次もプロデューサー生命、賭ける?」
「いえ」
言葉を否定する。篠澤さんは予想が外れたのか、首を傾げた。
「我々にとってのアイドル活動は、趣味ですから。命を賭けるほどのものではありません」
「うん。それで?」
「帰って二人で、一緒に悔しがりましょう。そして、今度はちゃんと……、楽しみましょう」
篠澤さんは、不敵に笑った。その様子が、これ以上ないほど頼もしい。
「……いいね、それ」
それは俺にとって、これからも二人で歩み続けるための、最初の約束であるかのように感じた。
「では、帰りましょうか」
「うん。帰ろう」
ここがどこかもわからないほど遠くまで来て、これから夕飯を食べて、初星学園へ帰る。
何時間かかることだろうか。終電では、間に合わないかもしれない。
関係者、先生方にも相当怒られるだろう。突然いなくなって、連絡も無視して、アイドルを連れ回したのだから。
最悪の場合退学を言い渡されることだって、もしかするとあるかもしれない。
どうでもよかった。
俺たちには、まだ明日があるから。