Epics of the sky ~天空の叙事詩集〜 作:skyminstrel
静かな森の中に、一つの落下傘が引っかかっていた。
白い布は枝に裂かれ、風に揺れるたび、かすかに音を立てる。その下、草と土の上に、一人の少年が横たわっていた。
金色の髪は泥に汚れ、頬には煤と土がついている。濃紺の飛行服はところどころ破れ、肩や腕には細かな傷が走っていた。胸にはエミトリア王国騎士団の徽章。だがその持ち主は、今はまぶたを閉ざしたまま、ぴくりとも動かない。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて、森の奥から、草を踏む小さな音が近づいてきた。
現れたのは、一人の少女だった。
歳は、ラファエルとそう変わらないだろうか。肩口で切りそろえられた金色の髪に、青い瞳。白いブラウスと黒いスカートは、森の土や草でところどころ汚れていた。少女は手に小さな籠を下げたまま、倒れている少年を見つけて足を止めた。
「……」
しばらく、少女は声も出さずに彼を見ていた。
森の中に人が倒れている。それも、ただの旅人ではない。胸の徽章。飛行服。泥のついた拍車飾りのブーツ。空から落ちてきた人だ、と彼女は直感した。
おそるおそる近づく。
少年の顔を覗き込み、そっと手を伸ばす。指先が頬に触れ、少し迷ったあと、首筋へと移った。
息がある。
少女の表情が、ほんの少し変わった。
「……生きてる」
小さく、しかしはっきりとそう言った。
少年は目を覚まさない。体も重そうだ。このまま放っておけば、森の冷気か、あるいは獣か、もっと悪いものに見つかるかもしれない。
少女は周囲を見回した。
そして、決めた。
「もう少しだから……たぶん」
誰に言うでもなくつぶやき、少女は少年の腕を取った。
だが、すぐに顔をしかめる。
「……重い」
ラファエルは十六歳の少年で、しかも飛行服と装具を身につけている。少女一人で運ぶには、あまりに重かった。
それでも、彼女は諦めなかった。
肩を抱えようとし、うまくいかず、今度は足を引こうとして、枝に引っかかって転びかける。泥で滑り、膝をつき、息を切らしながらも、また少年の体を起こそうとする。
「空の人って、みんなこんなに重いの……?」
少女は額の汗をぬぐいながら、少し恨めしそうにつぶやいた。
「う……」
かすかな声が、少年の口から漏れた。
少女ははっと顔を上げる。
「起きた?」
ラファエルのまぶたが、わずかに震えた。だが、意識はまだ遠いらしい。青い瞳が一瞬だけ開き、すぐにまた閉じられる。
「ちゃんと起きてよね」
少女は少しむっとしたように言った。
「あとで聞かせてもらうから。空から落ちてくるなんて、普通じゃないもの」
その言葉に答える者はいない。
少女はため息をつき、少年の胸元にかかっていた革紐や装具をどかそうとした。その時、彼の飛行服の内側から、折り畳まれた紙が落ちた。
「……?」
少女はそれを拾い上げた。
広げてみると、それは細かな線と記号で埋め尽くされた紙だった。川。森。山。点在する村。見たことのある地形と、見たことのない印。
「地図……?」
少女は土のついた指で、紙の上をたどった。
完全に読めるわけではない。だが、自分の村の位置なら分かる。近くの川。森の端。山へ続く道。少女は地図と周囲の森を見比べ、やがて一点を指さした。
「ここ……?」
それから、倒れているラファエルを見る。
「こんなところまで、飛んできたんだ」
木々の間から、青い空が見えていた。
少女は少しだけ顔を上げる。
「空の人って、みんなこんな地図を見るのかな」
その声には、不安よりも先に好奇心があった。
だが、いつまでも地図を眺めているわけにはいかない。少女はそれを不器用に畳むと、ラファエルの胸元へ押し込み、再び彼の腕を肩に回した。
「よし」
自分に言い聞かせるように言う。
「もう少し。だから、あなたも少しだけ頑張って」
ラファエルが答えることはなかった。
それでも少女は、彼を支え、引きずるようにして森の道を進んだ。何度も足を止め、息を整え、また歩く。重さに膝が震え、肩にかかる腕がずり落ちるたび、少女は歯を食いしばった。
やがて、木々の向こうが明るくなった。
森が切れ、視界が開ける。
そこには、小さな開拓村があった。
煙突から細い煙が上がり、粗末な木の家々が夕日を受けて赤く染まっている。畑には人影があり、家畜の鳴き声も聞こえる。遠くから見れば、静かで平和な村に見えた。
少女は、ようやくほっと息を吐いた。
「見えてきた」
そして、気を失ったままの少年を支え直す。
「着いたよ」
そう言って、彼女は村へと下りていった。
*
ラファエルが目を開けた時、彼が見たのは、粗い木の天井だった。
「……」
しばらく、何も分からなかった。
自分は空を飛んでいたはずだった。フルーレの操縦席。森の中の不自然な飛行場。リグジェリアのシュライク。機関砲。炎。爆発。
そこまで思い出し、ラファエルは身を起こそうとした。
「つ……!」
全身に痛みが走る。思わず顔をしかめ、寝台に手をついた。
「起きた?」
声がした。
ラファエルは顔を上げる。
窓辺に、一人の少女が座っていた。肩口あたりで切り揃えられた金髪が揺れ、青い目がこちらを振り向く。窓の向こうには、夕方の光に包まれた村が見えた。
「ここは……?」
かすれた声で尋ねる。
少女は少し考えるように首を傾げ、それから答えた。
「森で倒れてたから、運んできたの。ここは、私たちの村」
「君が……?」
ラファエルは驚いて彼女を見た。自分の体を見下ろす。飛行服は泥だらけで、所々包帯が巻かれている。簡単な手当ても受けているらしい。
「一人で?」
「うん」
少女はすぐに答え、それから少しだけ眉を寄せた。
「でも、すごく重かった」
ラファエルは言葉を失った。
自分は空から落ちて、何もできずに倒れていた。その自分を、この小柄な少女がここまで運んでくれたのだ。
「……ありがとう」
心から、そう言った。
少女は少しだけ目を瞬かせる。
「ううん」
そして、視線をそらした。
「見つけたのに放っておくの、嫌だっただけ」
その言い方はそっけなかったが、声は冷たくなかった。
ラファエルは窓の外へ目を向けた。
家々が並び、畑があり、何人かの村人が行き交っている。煙突の煙。夕日を受ける木の柵。遠くには森と山。
平和な村に見えた。
いや、見えすぎるほどに、平和だった。
少女は小さな椀を持ってくると、寝台の横の椅子に置いた。中には野菜の入った薄いスープがあり、隣には黒っぽいパンが添えられている。
「お腹、空いてる?」
言われて初めて、ラファエルは自分の腹が鳴ったことに気づいた。
「……あ」
少女が口元を押さえて笑う。
「当たりね」
「いや、その……」
「豪華じゃないけど」
少女は椀を差し出した。
ラファエルは少し恥ずかしそうにしながら、それを受け取った。
「助かる」
スプーンで一口すくい、口に運ぶ。
温かい。
決して豊かな味ではない。だが、泥と煙と火の記憶の後では、その温かさだけで十分だった。
「うまい」
少女は少し得意げに目を細めた。
「そう?」
「うん。本当に」
ラファエルはもう一口食べた。
その間にも、彼は窓の外をちらちらと見ていた。村は静かだった。あまりにも、静かだった。
「静かだな」
ふと、言葉が漏れた。
少女は窓の外へ目を向ける。
「そう?」
「村の人数の割に……子供が少ない?」
ラファエルは言ってから、自分の言葉が少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。だが、違和感は消えなかった。家の数に対して、走り回る子供の姿が少ない。人々は働いているが、笑い声があまり聞こえない。
少女は少し黙った。
「……そうかな」
その声は、答えというより、答えたくない時の声だった。
「それに」
ラファエルは窓の向こう、村の外れに目を細める。
夕日の中、森の端に細い塔のような影が立っていた。見張り台だろうか。開拓村にしては高く、そして無骨だ。
「この辺に、何かあるのか?」
少女は答えなかった。
ラファエルが振り向くと、彼女は椅子に座ったまま、指先で自分の胸元のペンダントをいじっていた。
やがて、彼女は小さく言う。
「あるよ」
「あるのか?」
「でも」
少女は顔を上げた。
「知らなくてもいいこともあるって、みんな言うの」
「みんな?」
「知らない方が楽なこともあるから、って」
その言葉に、ラファエルは眉を寄せる。
少女の言い方は、まるで自分の言葉のようでいて、どこか誰かから教えられた言葉を繰り返しているようでもあった。
知らない。聞かない。見ない。
それは、平和だからではない。むしろその逆だ。ラファエルには、そう思えた。
「でも、君は目を逸らしていないんだね」
少女がこちらを見る。
「私が?」
「うん。みんなが見ないようにしているものを、君はちゃんと見ようとしてる」
少女は目を丸くし、それから少し笑った。
「そうかな」
その笑みには、明るさと、どこか寂しさが混じっていた。
しばらくして、ラファエルは椀を置いた。
「少し、外を見てもいいかな」
少女は驚いた顔をする。
「もう歩けるの?」
「騎士だからな」
ラファエルは少し強がってそう言った。
立ち上がろうとした途端、足元がふらつく。少女が慌てて手を伸ばし、彼の腕を支えた。
「……騎士でも、倒れたらまた運ぶのは私なんだけど」
「すまない」
ラファエルは苦笑した。
少女は小さくため息をつき、それでも彼を支えた。
「じゃあ、少しだけ。ほんとに少しだけだからね」
二人は小屋の外へ出た。
夕暮れの村は、近くで見ると、やはり静かだった。畑から戻る人々がいる。井戸のそばで水を汲む女性がいる。薪を運ぶ男がいる。だが、ラファエルを見ると、彼らは皆、すぐに目を逸らした。
歓迎されていない。
そう感じるには十分だった。
「……僕は、あまり歓迎されていないみたいだな」
ラファエルが小声で言う。
少女は少しだけ首を振った。
「違うよ」
「違う?」
「みんな、怖いだけ」
「怖い?」
ラファエルが聞き返した、その時だった。
低い音が、村の奥から響いてきた。
ゴゴゴゴ……と、土を踏みしめる重い車輪の音。エンジンのうなり。ラファエルは顔を上げる。
少女の表情が変わった。
「隠れて!」
「え?」
「声、出さないで」
少女はラファエルの袖をつかみ、近くの家の陰へ引き込んだ。ラファエルは反射的に従う。
その直後、村の道を一台の軍用車両が通り過ぎていった。
荷台には、武装した兵士たちが乗っている。銃を肩にかけ、村を見下ろすその態度は、巡回というより監視に近かった。
車体の側面には、黒い獅子と月を組み合わせた紋章。
リグジェリア軍。
ラファエルは息を呑んだ。
「軍……?」
車両が遠ざかってから、彼はようやく声を出した。
少女はまだ物陰から道を見ていた。
「兵隊。最近、よく来るの」
「ここは、エミトリア領のはずだ」
少女は答えない。
その沈黙が、何よりも答えだった。
「帰ろう」
少女は静かに言った。
ラファエルはまだ聞きたいことが山ほどあった。だが、今ここで声を荒げることはできなかった。彼は少女に支えられながら、小屋へ戻ろうとした。
その途中で、低い男の声がした。
「お嬢ちゃん」
二人は振り向いた。
道の向こうから、大柄な男が歩いてくる。黒い髪に無精髭。粗末なシャツの上に革のベストを羽織り、いかにも開拓民らしい厚い手をしていた。だが、その目は油断なく周囲を見ている。
「探したぞ」
男は少女にそう言い、それからラファエルを見た。
「そいつか。森で拾った空の兄ちゃんってのは」
少女は少し困ったようにうなずいた。
ラファエルは姿勢を正そうとするが、体が痛み、うまくいかない。
「もう大丈夫です」
「そうは見えんな」
男はにやりと笑う。
「話がある。来な」
*
小屋の中に戻ると、男は椅子にどっかと腰を下ろした。少女とラファエルも向かいに座る。
窓の外は、もう夕日が山の端に沈みかけていた。
「まず聞いておく」
男は腕を組んだ。
「お前さん、名前は?」
ラファエルは少し背筋を伸ばした。
「ラファエル・マノックです。エミトリア王国天空騎士団所属、従騎士です」
男の眉がわずかに上がる。
「騎士様か」
「いえ、まだ見習いです」
ラファエルが慌てて訂正すると、男はふっと笑った。
「そうか。なら安心した」
「?」
「本物の騎士様なら、もっと偉そうだからな」
少女が口元を押さえて、ふふっと笑った。
ラファエルは少し赤くなった。
「俺はクライド。この開拓団の団長だ」
男――クライドはそう名乗った。
「まず話しておく。ここは普通の村じゃない」
ラファエルの顔つきが変わる。
クライドは窓の外へ目を向けた。
「この辺りは、昔から国境地帯だ。戦が起きるたびに国が変わる。前の戦争の時はエミトリア。その前はリグジェリア。そのまた前は、別の国だったこともある」
「そんな……そんな場所が、本当にあるのか」
ラファエルは思わずつぶやいた。
彼は地図で国境を学んできた。線は線として描かれていた。こちらがエミトリアで、向こうがリグジェリア。だが、そこに住む人々が、戦のたびに国を変えられてきたという現実を、彼は知らなかった。
少女が小さく言う。
「みんな、慣れちゃってる」
「本当は、慣れたくないけどな」
クライドは続けた。
「王都の連中は知らんだろうな。中央は遠い。辺境は辺境だからな。アストリア山脈の向こうなら、なおさらだ」
ラファエルは唇を噛む。
「だから俺たちは、自分たちで生きていくしかない」
「さっきの兵隊は?」
ラファエルが尋ねる。
クライドの目が細くなった。
「リグジェリア軍だ」
「リグジェリア……!」
分かっていたはずなのに、言葉にされると胸が冷えた。
「今はこの辺りを実効支配している。表向きは停戦中だがな。最近は兵隊も増えた」
「そんな話、騎士団では聞いていません」
「だろうな」
クライドは静かに言った。
「中央は遠い」
その一言は、ラファエルの胸に重く落ちた。
彼は騎士になるために学んできた。空を飛び、戦い、主君と民を守るために。だが、守るべき民が、こんな場所で、こんなふうに息を潜めて生きていることを、彼は知らなかった。
知らなかった。
その事実が、ひどく恥ずかしかった。
「今日はもう休め」
クライドが言った。
ラファエルは顔を上げる。
「ですが――」
「休め」
今度の声は、少し強かった。
「明日、また話す。動けるようになってからだ」
少女も頷く。
「クライドがそう言ったら、たぶん無駄よ」
「……そうですね」
ラファエルは苦笑した。
ふと、彼は大事なことに気づいた。
「そういえば、君の名前を聞いていなかった」
少女が動きを止めた。
ラファエルは彼女を見る。
「君は……?」
少女は少し困ったように視線を落とした。
「分からない」
「分からない?」
「記憶がないんだ。目を覚ました時から」
クライドが代わりに言った。
ラファエルは言葉を失う。
少女は胸元に手をやった。そこには、古びたペンダントが下がっている。丸い金属の中に、翼を広げた鳥のような紋様が刻まれていた。
「これだけ、持ってたの」
少女はそれを両手で包む。
「ずっと前から」
ラファエルは、その紋様を見つめた。
彼女がどこの誰なのか。なぜこの村の近くの森で倒れていたのか。何も分からない。
けれど、名前がないということが、どれほど心細いことなのかは分かった。
ラファエルは少し考えた。
そして、口を開く。
「クリス」
少女が顔を上げる。
「え?」
「なんとなく」
ラファエルは照れくさそうに頬をかいた。
「クリス、って名前が似合う気がした」
少女は、驚いたように目を開いた。
「クリス……」
小さく、その名を繰り返す。
「私の名前?」
「嫌なら別だけど」
ラファエルは慌てて言い足した。
「悪くない」
クライドが、腕を組んだまま言った。
「いい名前だ」
少女はペンダントを握ったまま、しばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「好き」
その笑顔は、夕暮れの小屋の中で、灯りのように明るかった。
ラファエルは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分は彼女に、何かを返せただろうか。森で助けてもらい、村まで運んでもらい、食事までもらった自分が、彼女に渡せたものは、たった一つの名前だけだった。
それでも、少女は嬉しそうだった。
「じゃあ、行こうか」
クライドが席を立つ。
「夜になる。外は冷えるぞ」
少女――クリスはランタンを手に取った。
小屋の外へ出ると、空にはもう星が見え始めていた。昼の青とは違う、深い藍色の空。そこに無数の光が瞬いている。
村は静かだった。
だが、その静けさは昼間とは少し違っていた。恐れを含んだ沈黙ではなく、夜を迎えるための静けさだった。
ラファエルはまだ足元が頼りなかったが、クリスがランタンを持って隣を歩いた。
「クリス……」
彼女はもう一度、自分の名を口にした。
「私の名前」
その横顔を、ラファエルは見た。
彼女の声には、嬉しさと、少しの戸惑いが混じっていた。名前を得たからといって、失った記憶が戻るわけではない。自分が誰だったのか分かるわけでもない。
それでも、その名は、今の彼女が明日を迎えるための、小さな灯りになったのだろう。
ラファエルは、空を見上げた。
枝の間からではなく、村の上に広がる空。そこに、昼間自分が墜ちてきた空があった。
飛ぶために生きる。生きるために飛ぶ。
天空騎士の言葉が、ふと胸の奥で響いた。
だが、地上には地上の戦いがある。
空からは見えなかった人々の暮らしがある。
知らないままでは、守れないものがある。
ラファエルは、まだそれをはっきりと言葉にはできなかった。
ただ、隣でランタンを掲げる少女を見て、思った。
この村で、自分は何かを知らなければならない。
星明かりの下、クリスはもう一度、そっと名をつぶやいた。
「クリス……」
ランタンの火が、彼女の瞳に小さく揺れていた。