Epics of the sky ~天空の叙事詩集〜   作:skyminstrel

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第1章 第2話 森の少女

 静かな森の中に、一つの落下傘が引っかかっていた。

 

 白い布は枝に裂かれ、風に揺れるたび、かすかに音を立てる。その下、草と土の上に、一人の少年が横たわっていた。

 

 金色の髪は泥に汚れ、頬には煤と土がついている。濃紺の飛行服はところどころ破れ、肩や腕には細かな傷が走っていた。胸にはエミトリア王国騎士団の徽章。だがその持ち主は、今はまぶたを閉ざしたまま、ぴくりとも動かない。

 

 どれほどの時間が経っただろう。

 

 やがて、森の奥から、草を踏む小さな音が近づいてきた。

 

 現れたのは、一人の少女だった。

 

 歳は、ラファエルとそう変わらないだろうか。肩口で切りそろえられた金色の髪に、青い瞳。白いブラウスと黒いスカートは、森の土や草でところどころ汚れていた。少女は手に小さな籠を下げたまま、倒れている少年を見つけて足を止めた。

 

 「……」

 

 しばらく、少女は声も出さずに彼を見ていた。

 

 森の中に人が倒れている。それも、ただの旅人ではない。胸の徽章。飛行服。泥のついた拍車飾りのブーツ。空から落ちてきた人だ、と彼女は直感した。

 

 おそるおそる近づく。

 

 少年の顔を覗き込み、そっと手を伸ばす。指先が頬に触れ、少し迷ったあと、首筋へと移った。

 

 息がある。

 

 少女の表情が、ほんの少し変わった。

 

 「……生きてる」

 

 小さく、しかしはっきりとそう言った。

 

 少年は目を覚まさない。体も重そうだ。このまま放っておけば、森の冷気か、あるいは獣か、もっと悪いものに見つかるかもしれない。

 

 少女は周囲を見回した。

 

 そして、決めた。

 

 「もう少しだから……たぶん」

 

 誰に言うでもなくつぶやき、少女は少年の腕を取った。

 

 だが、すぐに顔をしかめる。

 

 「……重い」

 

 ラファエルは十六歳の少年で、しかも飛行服と装具を身につけている。少女一人で運ぶには、あまりに重かった。

 

 それでも、彼女は諦めなかった。

 

 肩を抱えようとし、うまくいかず、今度は足を引こうとして、枝に引っかかって転びかける。泥で滑り、膝をつき、息を切らしながらも、また少年の体を起こそうとする。

 

 「空の人って、みんなこんなに重いの……?」

 

 少女は額の汗をぬぐいながら、少し恨めしそうにつぶやいた。

 

 「う……」

 

 かすかな声が、少年の口から漏れた。

 

 少女ははっと顔を上げる。

 

 「起きた?」

 

 ラファエルのまぶたが、わずかに震えた。だが、意識はまだ遠いらしい。青い瞳が一瞬だけ開き、すぐにまた閉じられる。

 

 「ちゃんと起きてよね」

 

 少女は少しむっとしたように言った。

 

 「あとで聞かせてもらうから。空から落ちてくるなんて、普通じゃないもの」

 

 その言葉に答える者はいない。

 

 少女はため息をつき、少年の胸元にかかっていた革紐や装具をどかそうとした。その時、彼の飛行服の内側から、折り畳まれた紙が落ちた。

 

 「……?」

 

 少女はそれを拾い上げた。

 

 広げてみると、それは細かな線と記号で埋め尽くされた紙だった。川。森。山。点在する村。見たことのある地形と、見たことのない印。

 

 「地図……?」

 

 少女は土のついた指で、紙の上をたどった。

 

 完全に読めるわけではない。だが、自分の村の位置なら分かる。近くの川。森の端。山へ続く道。少女は地図と周囲の森を見比べ、やがて一点を指さした。

 

 「ここ……?」

 

 それから、倒れているラファエルを見る。

 

 「こんなところまで、飛んできたんだ」

 

 木々の間から、青い空が見えていた。

 

 少女は少しだけ顔を上げる。

 

 「空の人って、みんなこんな地図を見るのかな」

 

 その声には、不安よりも先に好奇心があった。

 

 だが、いつまでも地図を眺めているわけにはいかない。少女はそれを不器用に畳むと、ラファエルの胸元へ押し込み、再び彼の腕を肩に回した。

 

 「よし」

 

 自分に言い聞かせるように言う。

 

 「もう少し。だから、あなたも少しだけ頑張って」

 

 ラファエルが答えることはなかった。

 

 それでも少女は、彼を支え、引きずるようにして森の道を進んだ。何度も足を止め、息を整え、また歩く。重さに膝が震え、肩にかかる腕がずり落ちるたび、少女は歯を食いしばった。

 

 やがて、木々の向こうが明るくなった。

 

 森が切れ、視界が開ける。

 

 そこには、小さな開拓村があった。

 

 煙突から細い煙が上がり、粗末な木の家々が夕日を受けて赤く染まっている。畑には人影があり、家畜の鳴き声も聞こえる。遠くから見れば、静かで平和な村に見えた。

 

 少女は、ようやくほっと息を吐いた。

 

 「見えてきた」

 

 そして、気を失ったままの少年を支え直す。

 

 「着いたよ」

 

 そう言って、彼女は村へと下りていった。

 

     *

 

 ラファエルが目を開けた時、彼が見たのは、粗い木の天井だった。

 

 「……」

 

 しばらく、何も分からなかった。

 

 自分は空を飛んでいたはずだった。フルーレの操縦席。森の中の不自然な飛行場。リグジェリアのシュライク。機関砲。炎。爆発。

 

 そこまで思い出し、ラファエルは身を起こそうとした。

 

 「つ……!」

 

 全身に痛みが走る。思わず顔をしかめ、寝台に手をついた。

 

 「起きた?」

 

 声がした。

 

 ラファエルは顔を上げる。

 

 窓辺に、一人の少女が座っていた。肩口あたりで切り揃えられた金髪が揺れ、青い目がこちらを振り向く。窓の向こうには、夕方の光に包まれた村が見えた。

 

 「ここは……?」

 

 かすれた声で尋ねる。

 

 少女は少し考えるように首を傾げ、それから答えた。

 

 「森で倒れてたから、運んできたの。ここは、私たちの村」

 

 「君が……?」

 

 ラファエルは驚いて彼女を見た。自分の体を見下ろす。飛行服は泥だらけで、所々包帯が巻かれている。簡単な手当ても受けているらしい。

 

 「一人で?」

 

 「うん」

 

 少女はすぐに答え、それから少しだけ眉を寄せた。

 

 「でも、すごく重かった」

 

 ラファエルは言葉を失った。

 

 自分は空から落ちて、何もできずに倒れていた。その自分を、この小柄な少女がここまで運んでくれたのだ。

 

 「……ありがとう」

 

 心から、そう言った。

 

 少女は少しだけ目を瞬かせる。

 

 「ううん」

 

 そして、視線をそらした。

 

 「見つけたのに放っておくの、嫌だっただけ」

 

 その言い方はそっけなかったが、声は冷たくなかった。

 

 ラファエルは窓の外へ目を向けた。

 

 家々が並び、畑があり、何人かの村人が行き交っている。煙突の煙。夕日を受ける木の柵。遠くには森と山。

 

 平和な村に見えた。

 

 いや、見えすぎるほどに、平和だった。

 

 少女は小さな椀を持ってくると、寝台の横の椅子に置いた。中には野菜の入った薄いスープがあり、隣には黒っぽいパンが添えられている。

 

 「お腹、空いてる?」

 

 言われて初めて、ラファエルは自分の腹が鳴ったことに気づいた。

 

 「……あ」

 

 少女が口元を押さえて笑う。

 

 「当たりね」

 

 「いや、その……」

 

 「豪華じゃないけど」

 

 少女は椀を差し出した。

 

 ラファエルは少し恥ずかしそうにしながら、それを受け取った。

 

 「助かる」

 

 スプーンで一口すくい、口に運ぶ。

 

 温かい。

 

 決して豊かな味ではない。だが、泥と煙と火の記憶の後では、その温かさだけで十分だった。

 

 「うまい」

 

 少女は少し得意げに目を細めた。

 

 「そう?」

 

 「うん。本当に」

 

 ラファエルはもう一口食べた。

 

 その間にも、彼は窓の外をちらちらと見ていた。村は静かだった。あまりにも、静かだった。

 

 「静かだな」

 

 ふと、言葉が漏れた。

 

 少女は窓の外へ目を向ける。

 

 「そう?」

 

 「村の人数の割に……子供が少ない?」

 

 ラファエルは言ってから、自分の言葉が少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。だが、違和感は消えなかった。家の数に対して、走り回る子供の姿が少ない。人々は働いているが、笑い声があまり聞こえない。

 

 少女は少し黙った。

 

 「……そうかな」

 

 その声は、答えというより、答えたくない時の声だった。

 

 「それに」

 

 ラファエルは窓の向こう、村の外れに目を細める。

 

 夕日の中、森の端に細い塔のような影が立っていた。見張り台だろうか。開拓村にしては高く、そして無骨だ。

 

 「この辺に、何かあるのか?」

 

 少女は答えなかった。

 

 ラファエルが振り向くと、彼女は椅子に座ったまま、指先で自分の胸元のペンダントをいじっていた。

 

 やがて、彼女は小さく言う。

 

 「あるよ」

 

 「あるのか?」

 

 「でも」

 

 少女は顔を上げた。

 

 「知らなくてもいいこともあるって、みんな言うの」

 

 「みんな?」

 

 「知らない方が楽なこともあるから、って」

 

 その言葉に、ラファエルは眉を寄せる。

 

 少女の言い方は、まるで自分の言葉のようでいて、どこか誰かから教えられた言葉を繰り返しているようでもあった。

 

 知らない。聞かない。見ない。

 

 それは、平和だからではない。むしろその逆だ。ラファエルには、そう思えた。

 

 「でも、君は目を逸らしていないんだね」

 

 少女がこちらを見る。

 

 「私が?」

 

 「うん。みんなが見ないようにしているものを、君はちゃんと見ようとしてる」

 

 少女は目を丸くし、それから少し笑った。

 

 「そうかな」

 

 その笑みには、明るさと、どこか寂しさが混じっていた。

 

 しばらくして、ラファエルは椀を置いた。

 

 「少し、外を見てもいいかな」

 

 少女は驚いた顔をする。

 

 「もう歩けるの?」

 

 「騎士だからな」

 

 ラファエルは少し強がってそう言った。

 

 立ち上がろうとした途端、足元がふらつく。少女が慌てて手を伸ばし、彼の腕を支えた。

 

 「……騎士でも、倒れたらまた運ぶのは私なんだけど」

 

 「すまない」

 

 ラファエルは苦笑した。

 

 少女は小さくため息をつき、それでも彼を支えた。

 

 「じゃあ、少しだけ。ほんとに少しだけだからね」

 

 二人は小屋の外へ出た。

 

 夕暮れの村は、近くで見ると、やはり静かだった。畑から戻る人々がいる。井戸のそばで水を汲む女性がいる。薪を運ぶ男がいる。だが、ラファエルを見ると、彼らは皆、すぐに目を逸らした。

 

 歓迎されていない。

 

 そう感じるには十分だった。

 

 「……僕は、あまり歓迎されていないみたいだな」

 

 ラファエルが小声で言う。

 

 少女は少しだけ首を振った。

 

 「違うよ」

 

 「違う?」

 

 「みんな、怖いだけ」

 

 「怖い?」

 

 ラファエルが聞き返した、その時だった。

 

 低い音が、村の奥から響いてきた。

 

 ゴゴゴゴ……と、土を踏みしめる重い車輪の音。エンジンのうなり。ラファエルは顔を上げる。

 

 少女の表情が変わった。

 

 「隠れて!」

 

 「え?」

 

 「声、出さないで」

 

 少女はラファエルの袖をつかみ、近くの家の陰へ引き込んだ。ラファエルは反射的に従う。

 

 その直後、村の道を一台の軍用車両が通り過ぎていった。

 

 荷台には、武装した兵士たちが乗っている。銃を肩にかけ、村を見下ろすその態度は、巡回というより監視に近かった。

 

 車体の側面には、黒い獅子と月を組み合わせた紋章。

 

 リグジェリア軍。

 

 ラファエルは息を呑んだ。

 

 「軍……?」

 

 車両が遠ざかってから、彼はようやく声を出した。

 

 少女はまだ物陰から道を見ていた。

 

 「兵隊。最近、よく来るの」

 

 「ここは、エミトリア領のはずだ」

 

 少女は答えない。

 

 その沈黙が、何よりも答えだった。

 

 「帰ろう」

 

 少女は静かに言った。

 

 ラファエルはまだ聞きたいことが山ほどあった。だが、今ここで声を荒げることはできなかった。彼は少女に支えられながら、小屋へ戻ろうとした。

 

 その途中で、低い男の声がした。

 

 「お嬢ちゃん」

 

 二人は振り向いた。

 

 道の向こうから、大柄な男が歩いてくる。黒い髪に無精髭。粗末なシャツの上に革のベストを羽織り、いかにも開拓民らしい厚い手をしていた。だが、その目は油断なく周囲を見ている。

 

 「探したぞ」

 

 男は少女にそう言い、それからラファエルを見た。

 

 「そいつか。森で拾った空の兄ちゃんってのは」

 

 少女は少し困ったようにうなずいた。

 

 ラファエルは姿勢を正そうとするが、体が痛み、うまくいかない。

 

 「もう大丈夫です」

 

 「そうは見えんな」

 

 男はにやりと笑う。

 

 「話がある。来な」

 

     *

 

 小屋の中に戻ると、男は椅子にどっかと腰を下ろした。少女とラファエルも向かいに座る。

 

 窓の外は、もう夕日が山の端に沈みかけていた。

 

 「まず聞いておく」

 

 男は腕を組んだ。

 

 「お前さん、名前は?」

 

 ラファエルは少し背筋を伸ばした。

 

 「ラファエル・マノックです。エミトリア王国天空騎士団所属、従騎士です」

 

 男の眉がわずかに上がる。

 

 「騎士様か」

 

 「いえ、まだ見習いです」

 

 ラファエルが慌てて訂正すると、男はふっと笑った。

 

 「そうか。なら安心した」

 

 「?」

 

 「本物の騎士様なら、もっと偉そうだからな」

 

 少女が口元を押さえて、ふふっと笑った。

 

 ラファエルは少し赤くなった。

 

 「俺はクライド。この開拓団の団長だ」

 

 男――クライドはそう名乗った。

 

 「まず話しておく。ここは普通の村じゃない」

 

 ラファエルの顔つきが変わる。

 

 クライドは窓の外へ目を向けた。

 

 「この辺りは、昔から国境地帯だ。戦が起きるたびに国が変わる。前の戦争の時はエミトリア。その前はリグジェリア。そのまた前は、別の国だったこともある」

 

 「そんな……そんな場所が、本当にあるのか」

 

 ラファエルは思わずつぶやいた。

 

 彼は地図で国境を学んできた。線は線として描かれていた。こちらがエミトリアで、向こうがリグジェリア。だが、そこに住む人々が、戦のたびに国を変えられてきたという現実を、彼は知らなかった。

 

 少女が小さく言う。

 

 「みんな、慣れちゃってる」

 

 「本当は、慣れたくないけどな」

 

 クライドは続けた。

 

 「王都の連中は知らんだろうな。中央は遠い。辺境は辺境だからな。アストリア山脈の向こうなら、なおさらだ」

 

 ラファエルは唇を噛む。

 

 「だから俺たちは、自分たちで生きていくしかない」

 

 「さっきの兵隊は?」

 

 ラファエルが尋ねる。

 

 クライドの目が細くなった。

 

 「リグジェリア軍だ」

 

 「リグジェリア……!」

 

 分かっていたはずなのに、言葉にされると胸が冷えた。

 

 「今はこの辺りを実効支配している。表向きは停戦中だがな。最近は兵隊も増えた」

 

 「そんな話、騎士団では聞いていません」

 

 「だろうな」

 

 クライドは静かに言った。

 

 「中央は遠い」

 

 その一言は、ラファエルの胸に重く落ちた。

 

 彼は騎士になるために学んできた。空を飛び、戦い、主君と民を守るために。だが、守るべき民が、こんな場所で、こんなふうに息を潜めて生きていることを、彼は知らなかった。

 

 知らなかった。

 

 その事実が、ひどく恥ずかしかった。

 

 「今日はもう休め」

 

 クライドが言った。

 

 ラファエルは顔を上げる。

 

 「ですが――」

 

 「休め」

 

 今度の声は、少し強かった。

 

 「明日、また話す。動けるようになってからだ」

 

 少女も頷く。

 

 「クライドがそう言ったら、たぶん無駄よ」

 

 「……そうですね」

 

 ラファエルは苦笑した。

 

 ふと、彼は大事なことに気づいた。

 

 「そういえば、君の名前を聞いていなかった」

 

 少女が動きを止めた。

 

 ラファエルは彼女を見る。

 

 「君は……?」

 

 少女は少し困ったように視線を落とした。

 

 「分からない」

 

 「分からない?」

 

 「記憶がないんだ。目を覚ました時から」

 

 クライドが代わりに言った。

 

 ラファエルは言葉を失う。

 

 少女は胸元に手をやった。そこには、古びたペンダントが下がっている。丸い金属の中に、翼を広げた鳥のような紋様が刻まれていた。

 

 「これだけ、持ってたの」

 

 少女はそれを両手で包む。

 

 「ずっと前から」

 

 ラファエルは、その紋様を見つめた。

 

 彼女がどこの誰なのか。なぜこの村の近くの森で倒れていたのか。何も分からない。

 

 けれど、名前がないということが、どれほど心細いことなのかは分かった。

 

 ラファエルは少し考えた。

 

 そして、口を開く。

 

 「クリス」

 

 少女が顔を上げる。

 

 「え?」

 

 「なんとなく」

 

 ラファエルは照れくさそうに頬をかいた。

 

 「クリス、って名前が似合う気がした」

 

 少女は、驚いたように目を開いた。

 

 「クリス……」

 

 小さく、その名を繰り返す。

 

 「私の名前?」

 

 「嫌なら別だけど」

 

 ラファエルは慌てて言い足した。

 

 「悪くない」

 

 クライドが、腕を組んだまま言った。

 

 「いい名前だ」

 

 少女はペンダントを握ったまま、しばらく黙っていた。

 

 そして、ふっと笑った。

 

 「好き」

 

 その笑顔は、夕暮れの小屋の中で、灯りのように明るかった。

 

 ラファエルは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 

 自分は彼女に、何かを返せただろうか。森で助けてもらい、村まで運んでもらい、食事までもらった自分が、彼女に渡せたものは、たった一つの名前だけだった。

 

 それでも、少女は嬉しそうだった。

 

 「じゃあ、行こうか」

 

 クライドが席を立つ。

 

 「夜になる。外は冷えるぞ」

 

 少女――クリスはランタンを手に取った。

 

 小屋の外へ出ると、空にはもう星が見え始めていた。昼の青とは違う、深い藍色の空。そこに無数の光が瞬いている。

 

 村は静かだった。

 

 だが、その静けさは昼間とは少し違っていた。恐れを含んだ沈黙ではなく、夜を迎えるための静けさだった。

 

 ラファエルはまだ足元が頼りなかったが、クリスがランタンを持って隣を歩いた。

 

 「クリス……」

 

 彼女はもう一度、自分の名を口にした。

 

 「私の名前」

 

 その横顔を、ラファエルは見た。

 

 彼女の声には、嬉しさと、少しの戸惑いが混じっていた。名前を得たからといって、失った記憶が戻るわけではない。自分が誰だったのか分かるわけでもない。

 

 それでも、その名は、今の彼女が明日を迎えるための、小さな灯りになったのだろう。

 

 ラファエルは、空を見上げた。

 

 枝の間からではなく、村の上に広がる空。そこに、昼間自分が墜ちてきた空があった。

 

 飛ぶために生きる。生きるために飛ぶ。

 

 天空騎士の言葉が、ふと胸の奥で響いた。

 

 だが、地上には地上の戦いがある。

 空からは見えなかった人々の暮らしがある。

 知らないままでは、守れないものがある。

 

 ラファエルは、まだそれをはっきりと言葉にはできなかった。

 

 ただ、隣でランタンを掲げる少女を見て、思った。

 

 この村で、自分は何かを知らなければならない。

 

 星明かりの下、クリスはもう一度、そっと名をつぶやいた。

 

 「クリス……」

 

 ランタンの火が、彼女の瞳に小さく揺れていた。

 

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