Epics of the sky ~天空の叙事詩集〜 作:skyminstrel
朝の光が、山の端から村へと降りてきていた。
高くそびえるアストリア山脈の稜線は淡い金色に縁取られ、谷間にはまだ薄い霧が残っている。木々の間を抜けた陽光は、開拓村の屋根を照らし、石を積んだ煙突からは朝餉の支度を知らせる細い煙がいくつも上がっていた。
遠くから見れば、そこはどこにでもある静かな村だった。
木組みの家。畑。柵の中で草を食む家畜。井戸へ向かう女たち。薪を抱えて歩く男。眠たげに母親の手を引かれていく子供。
けれど、その静けさの中には、どこか息を潜めるような固さがあった。
小さな家の一室で、少女は目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、粗い木の床に四角く落ちている。少女は寝台から体を起こすと、しばらくぼんやりとその光を見ていた。
それから、胸元のペンダントに手をやる。
丸い古びた金属。翼を広げた鳥の紋様。目を覚ました時から、自分の手元にあった唯一のもの。
そして昨日、その持ち主には名前がついた。
「クリス」
小さく口にしてみる。
まだ少し、不思議な響きだった。昨日までは、自分を呼ぶ名などなかった。誰かに呼ばれて振り向くための言葉も、自分自身を確かめるための言葉もなかった。
けれど今は違う。
クリス。
ラファエルが、そう呼んだ。
少女――クリスは、少しだけ頬を緩めた。
部屋の奥では、ラファエルがまだ眠っていた。昨日のうちに泥だらけの飛行服は脱がされ、村の男物の白いシャツに着替えさせられている。包帯の巻かれた腕が、薄い掛け布の上に出ていた。
眠っている顔だけを見ると、彼が空から落ちてきた人間だとは思えない。歳も、クリスとそれほど変わらない。けれど昨日、彼は確かに空から来た。
森で倒れていた、空の人。
クリスは彼の寝顔をしばらく見ていた。
その時だった。
遠くから、低い音が聞こえてきた。
最初は山の向こうで鳴る雷のようにも思えた。だが、すぐに違うと分かる。規則正しく、重く、土を踏みしめて近づいてくる音。車輪とエンジンの音だ。
クリスは息を呑み、窓へ駆け寄った。
朝日を受ける村の入り口に、軍用車両が現れた。
黒い獅子と月の紋章をつけた、リグジェリア軍の車両だった。
*
車両は村の広場に止まった。
荷台から兵士たちが降りる。鉄兜をかぶり、銃を肩にかけた彼らは、村人たちに散るような眼差しを向けながら、手際よく広場を囲んでいった。
そのうち一人、他よりも身なりの整った兵士が、クライドの前に立った。
「クライド団長だな?」
クライドは表情を変えずに頷いた。
「そうだ」
兵士は手にした紙を広げる。そこにはリグジェリア軍の印章が押されていた。
「昨日夕刻、この付近でエミトリア軍機が撃墜された。搭乗者は脱出した可能性がある。よって、この一帯に生存者捜索命令が出ている」
村人たちの間に、低いざわめきが走った。
「生存者……?」
「墜ちたのは騎士か?」
「この辺りにいるってことか」
兵士はそのざわめきを無視し、続けた。
「村人全員に捜索への協力を命じる。該当者を発見した場合は、直ちに我々へ通報せよ。隠した場合、反乱幇助とみなす」
最後の言葉に、広場の空気が冷えた。
反乱幇助。
それは、村一つを罰する理由としては十分すぎる言葉だった。
「分かった」
クライドは低く言った。
「村人には伝えよう」
兵士はしばらくクライドの顔を見ていたが、やがて紙を畳んだ。
「協力を期待する」
その言葉は、ほとんど脅しだった。
クリスは小屋の窓の隙間から、その様子を見ていた。胸元のペンダントを握る手に、自然と力がこもる。
リグジェリア軍が探しているのは、間違いなくラファエルだ。
彼女は振り返った。
ラファエルはまだ寝台の上で眠っている。
クリスは一瞬だけ迷い、それから彼のもとへ駆け寄った。
「ラファエル」
返事はない。
「ラファエル、起きて」
肩に手を置き、揺する。ラファエルのまぶたがかすかに震えた。
「……ん」
「来たの」
その言葉に、ラファエルの目が少し開いた。
「何が……?」
「リグジェリア軍。捜索命令が出た」
青い瞳が、はっきりと開かれた。
ラファエルは身を起こそうとして、痛みに顔をしかめる。それでも寝台に手をつき、窓の方へ目を向けた。
外では、兵士たちが村人を集めている。
「僕を探しているんだな」
「たぶん」
クリスの声は固かった。
ラファエルはしばらく外を見ていたが、すぐに顔を上げた。
「まずは、クライドさんの話を聞こう。勝手に動く方が危険だ」
その声には焦りがあった。だが、それ以上に、状況を見ようとする冷静さもあった。
クリスは頷く。
ほどなくして、扉が開いた。
クライドが入ってくる。昨夜と同じように無精髭を生やした大柄な男だったが、その顔には昨夜よりずっと重いものが乗っていた。
「起きたか」
「僕も、話し合いに出ます」
ラファエルは寝台から降りようとした。
クライドの太い手が、それを制する。
「やめとけ」
「でも、これは僕のことです」
「だからだ」
クライドの声は厳しかった。
「今お前が出りゃ、話し合いにならん。村人はお前を見た瞬間、怖さで何を言い出すか分からん」
ラファエルは唇を引き結んだ。
外からは、村人たちのざわめきが聞こえてくる。兵士たちはいったん広場の外へ退いていたが、命令だけは村の中に重く残っていた。
「まずは俺が話す。お前はここにいろ。まだ、何も決まっちゃいない」
「……分かりました」
ラファエルは悔しげに答えた。
クライドは扉へ向かう。出る直前、クリスの方を一度見た。
「お嬢ちゃんも、ここにいろ」
クリスは何か言いかけたが、言葉にはならなかった。
クライドはそのまま広場へ出ていった。
*
広場には、村人たちが集まっていた。
皆、顔色が悪い。女たちは子供を抱き寄せ、男たちは拳を握り、老人たちは互いに顔を見合わせている。
クライドはその中央に立った。
「聞いての通りだ。兵隊は、墜ちた騎士を探している」
ざわめきが一気に大きくなった。
「本当に生きているのか?」
「この辺にいるってことか?」
「もし村にいたらどうするんだ!」
「見つけたら知らせるしかないだろう!」
「黙っていたら、村ごと罰せられるぞ!」
怒声が飛ぶ。だが、その声の底にあるのは怒りだけではなかった。
恐怖だ。
ラファエルを憎んでいるのではない。エミトリアの騎士だから憎いのでもない。ただ、自分たちの村が焼かれることを恐れている。子供を連れて行かれることを恐れている。明日の食べ物まで奪われることを恐れている。
その恐怖が、人々の声を荒くしていた。
小屋の中で、ラファエルはその声を聞いていた。
彼は寝台の端に座り、拳を膝の上で握っている。
「……」
クリスは彼を見た。
ラファエルの顔には、痛みとは別の苦しさが浮かんでいた。
「隠れているだけじゃ、何も変わらない」
彼は立ち上がった。
「待って」
クリスが慌てて手を伸ばす。
「出るつもりなの?」
「うん」
ラファエルは短く答えた。
「僕が出れば、少なくとも村を巻き込む理由はなくなる」
「捕まるかもしれないのに?」
ラファエルは一瞬だけ黙った。
そして、静かに言う。
「だからこそだ。皆を危険に巻き込むわけにはいかない」
その声は、震えていなかった。
だが、クリスには分かった。彼も怖いのだ。リグジェリア軍に捕まればどうなるか、彼だって分からないはずがない。
それでも、行こうとしている。
「騎士団へ知らせることができれば、必ず助けは来る。この村も、解放できるかもしれない。だから、協力してほしい。僕を逃がしてくれ」
「でも……!」
クリスの声を置いて、ラファエルは扉へ向かった。
その時、外からまた大きな怒号が響いた。
「連中に引き渡せ!」
「村を危険にするな!」
その声を聞いた瞬間、クリスの中で何かが弾けた。
彼女はラファエルより先に扉へ走った。
「クリス!」
ラファエルが呼ぶ。
だが、クリスは止まらなかった。
*
広場に飛び出したクリスは、両手を広げて村人たちの前に立ちはだかった。
「やめて!」
その声は、決して大きくはなかった。だが、村人たちは思わず口を閉じた。
朝の光の中、クリスは震えていた。両手を広げた腕も、膝も、唇も、かすかに震えている。目には涙が浮かんでいた。
それでも、彼女は退かなかった。
「嬢さん、どけ!」
男の一人が叫ぶ。
「そいつをかばったら、お前まで危ないんだぞ!」
「この人は、何もしてない」
クリスは言った。
声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。
「怪我して、倒れてただけだよ」
「そんなことは分かってる!」
別の男が叫んだ。
「でも兵隊はそう見ない! 村が危険になるんだ!」
「だからって」
クリスは胸元のペンダントをぎゅっと握った。
「怪我してる人を売るなんて、おかしいよ!」
ざわめきが広がる。
「綺麗事を言うな!」
「俺たちは子供を守らなきゃならないんだ!」
「もし村にいたらどうするんだ!」
「見つけたら知らせるしかないだろう!」
声が押し寄せる。
クリスの目から、涙がこぼれた。
だが彼女は、両手を下ろさなかった。
その背中を、ラファエルは見ていた。
昨日、森の中で彼を見つけた少女。重いと文句を言いながら、それでも村まで運んでくれた少女。名前をもらって、嬉しそうに笑った少女。
そのクリスが今、村人たちの前で、彼を守ろうとしている。
怖いはずなのに。
震えているのに。
ラファエルは扉の影から一歩踏み出した。
「僕です」
その声に、村人たちが一斉に振り向いた。
ラファエルは白いシャツ姿だった。頬にはまだ傷があり、髪にも土が残っている。足元は確かではない。それでも、彼はまっすぐに立っていた。
「僕が、リグジェリア軍の探している者です」
広場に緊張が走る。
「いたのか!」
「本当に!」
「騎士だ……」
ラファエルは一度、深く息を吸った。
「僕は、エミトリア王国天空騎士団の従騎士です」
村人たちの視線が彼に集まる。
ラファエルは続けた。
「皆さんに迷惑をかけていることは分かっています。本来なら、これは僕一人の問題です。ですが、僕が騎士団へ知らせることができれば、必ず助けは来ます。この村も、解放できるかもしれません」
「そんな保証がどこにある!」
男の一人が怒鳴った。
「助けが来る前に見つかったら終わりだ!」
「連中に引き渡せ!」
「村を危険にするな!」
怒号が再び湧き上がる。
ラファエルは唇を噛んだ。
自分の言葉が、村人たちにとってどれほど頼りないものか、彼にも分かっていた。必ず助けは来る。そう言いたい。だが、今すぐ来るわけではない。騎士団に知らせる手段も、まだない。
彼はただ、ここにいる全員を危険に巻き込んでいる。
その事実だけが重かった。
「やめて!」
また、クリスの声が響いた。
彼女は村人たちの前に立ったまま、泣きながら叫んだ。
「助けた人を、怖いからって差し出すなんて……そんなの、ダメ!」
その声に、広場が止まった。
ラファエルは、クリスの横顔を見た。
彼女は顔をくしゃくしゃにしていた。涙を流し、震え、それでも両手を広げて立っている。
怖くないわけではない。
むしろ、怖くてたまらないのだ。
それでも、退かない。
「そこまでだ」
低い声が響いた。
クライドだった。
彼は村人たちの前へ出ると、片手を上げた。
「今ここで騒いでも、何も決まらん」
「だがクライド!」
「村が危ないんだぞ!」
「分かってる」
クライドは短く言った。
その声には、広場の熱を押さえつける力があった。
「分かってるから、今決めるなと言ってる」
彼はラファエルを見た。
「坊主」
「はい」
「お前、本当に助けを呼べるんだな」
ラファエルは一瞬も迷わず答えた。
「はい。必ず」
クライドはしばらく彼を見ていた。
やがて、村人たちへ向き直る。
「なら、まずは話を聞く」
村人たちは黙った。
納得したわけではない。恐怖が消えたわけでもない。だが、クリスの叫びと、ラファエルの名乗りと、クライドの判断が、彼らをぎりぎりのところで踏みとどまらせた。
「数日くらいなら……」
誰かが小さく言った。
「見つかるなよ」
別の誰かが吐き捨てるように言う。
「何かあったら、知らせてくれ」
「村を危険にするなよ」
言葉は厳しい。だが、その中には、完全な拒絶ではないものが混じっていた。
ラファエルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
老人の一人が、ふんと鼻を鳴らした。
「礼は、生きて帰ってから言え」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかだけ緩む。
クリスは、そこでようやく両手を下ろした。
足元がふらつく。ラファエルがすぐに手を伸ばした。
「クリス」
彼女は振り向いた。
「震えてる」
ラファエルが言うと、クリスは泣き笑いのような顔をした。
「怖かったもん」
そして、少しだけうつむく。
「でも、あのまま連れて行かれる方が、もっと嫌だったから」
ラファエルは何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉を胸の奥に刻んだ。
*
その日の午後、村には少しだけ違う空気が流れていた。
リグジェリア軍は捜索の準備を進めていたが、すぐに家々を荒らすことはなかった。兵士たちはまず村の外れや森の入口を調べ、村人たちへの聞き取りを続けていた。家々を一軒ずつ調べ始めるのは、おそらくそれからだろう。
ラファエルとクリスは、小屋の前の道に立っていた。
朝の騒ぎの後、村人たちはいつもの仕事に戻っている。だが、こちらを見る目は昨日ほど冷たくはない。警戒はある。恐れもある。けれど、どこかに、かすかな迷いもあった。
「ありがとう」
ラファエルが言った。
クリスは首を傾げる。
「何が?」
「さっき、前に出てくれたこと」
クリスは少し困ったように笑った。
そして、少しだけ頬を赤くする。
「助けた人を、見捨てるなんて嫌だっただけ」
その言葉は、昨日と似ていた。
だが、ラファエルには、その意味が昨日よりずっと重く聞こえた。
しばらくして、クリスがふと思い出したように言った。
「そういえば、騎士ってみんなあんなに真面目なの?」
「え?」
「ラファエルみたいに」
ラファエルは少し困ったように笑った。
「師匠には、よく堅いって言われる」
「やっぱり」
クリスは小さく笑った。
その笑顔は、朝の涙の後だからか、少しだけ眩しく見えた。
*
夜になると、村の静けさはまた別のものになった。
昼間のざわめきが引いた後、家々の窓には小さな灯りがともっている。だが、誰も大きな声で話さない。犬も吠えない。風が木々を揺らす音だけが、妙に大きく聞こえた。
昼の間、村の周囲を調べていたリグジェリア兵たちは、日が落ちる頃になってようやく家々を回り始めた。村の外に手がかりがなければ、次は中を疑う。それは当然の流れだった。
ラファエルは小屋の中で、椅子に腰を下ろしていた。
クリスは棚の前で、使い終わった椀を片付けている。二人とも、ほとんど話していなかった。広場で村人たちが踏みとどまってくれたとはいえ、リグジェリア軍が諦めたわけではない。
むしろ、本当の危険はこれからだった。
その時。
ドン、ドン、と扉を叩く音が響いた。
二人は同時に顔を上げた。
外から、兵士の声がした。
「開けろ! 軍の捜索だ!」
ラファエルは立ち上がろうとした。だが、クリスが素早く彼の腕をつかむ。
「こっち!」
「え?」
「早く!」
クリスは部屋の隅へ駆け寄った。そこには古びた敷物があり、その下に木の床板が並んでいる。彼女は迷わず敷物をめくり、床板の端に指をかけた。
板が、わずかに浮いた。
床下へ続く、狭い隙間だった。
「ここに隠れて」
「クリス、でも――」
「今はいいから!」
また扉が叩かれる。
「聞こえないのか! 開けろ!」
ラファエルは歯を食いしばった。
クリスの手が震えている。だが、その目は逃げていなかった。
「……分かった」
ラファエルは床下へ身を滑り込ませた。
木の下は狭く、土の匂いがした。体を動かすたびに傷が痛む。だが、声を上げるわけにはいかなかった。
クリスは床板を戻し、敷物を直す。
「落ち着いて……」
彼女は小さく自分に言い聞かせた。
「平静を装うの。怖がってると、悟られる……」
深く息を吸う。
それから、扉へ向かった。
鍵を外す音が、小屋の中にやけに大きく響いた。
扉を開けると、ランタンを持ったリグジェリア軍の兵士たちが立っていた。
「軍の捜索だ。中にいる者はすべて出てこい」
「……私だけです」
クリスは答えた。
声は震えなかった。
少なくとも、震えないように聞こえた。
兵士たちは中へ入ってきた。重い軍靴が木の床を踏む。ランタンの光が、壁や棚、寝台をなめるように動いた。
「全部調べろ」
隊長らしき男が命じた。
兵士たちは棚を開け、寝台の下を覗き、物入れを乱暴に探った。陶器の器が触れ合い、かすかな音を立てる。
床下のラファエルは、息を殺していた。
上を歩く軍靴の音が近づくたび、板越しに振動が伝わってくる。もし見つかれば、自分だけでは済まない。クリスも、クライドも、この村も危険にさらされる。
そのことだけが、胸を締めつけた。
クリスは部屋の端に立っていた。
膝が震えそうになる。手を握りしめる。けれど、顔には出さないようにした。
怖がっていると、悟られる。
そう思いながら、彼女は隊長に声をかけた。
「隊長さん」
男が振り向く。
「何を探しているんですか?」
「逃げた騎士だ」
「若い男の人を、ですか?」
「そうだ」
クリスは少しだけ首を傾げた。
「見なかったと思います。見ていたら、教えてあげますよ」
隊長はじっとクリスを見た。
その視線は重かった。子供を見る目ではない。嘘をつく者を見る目だった。
「……そうか」
男はそれだけ言うと、部屋を見回した。
「こっちは異常なしだな」
兵士の一人が言う。
だが、別の兵士が部屋の隅で足を止めた。
床板を踏んだ足元が、わずかに沈む。
「ん?」
その兵士は身をかがめた。
「……床板が少し浮いているな」
クリスの心臓が、跳ねた。
床下のラファエルも、その声を聞いた。
まずい。
彼は奥歯を噛みしめる。
兵士が床板に手をかけようとした、その時だった。
「隊長殿!」
扉が勢いよく開いた。
クライドが立っていた。背後には、何人かの村人たちもいる。皆、慌てた顔をしていた。
「この先の納屋で火事が起きたようで、大変なんです!」
隊長の顔が険しくなる。
「火事?」
「ええ。乾いた藁が積んである。このままだと隣の家まで燃えます」
兵士たちが顔を見合わせた。
村に火事が広がれば、彼らの捜索どころではなくなる。隊長は舌打ちし、床板に手をかけていた兵士へ顎をしゃくった。
「行くぞ」
「しかし――」
「後だ。まず火を見に行く」
兵士たちはぞろぞろと小屋を出ていき、扉が閉じられた。
足音が遠ざかっていく。
クリスは扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
「……行ってしまった」
そうつぶやいた声は、ようやく震えていた。
彼女は急いで床板の方へ戻り、敷物をめくる。
「ラファエル」
床下から、ラファエルが顔を出した。額には汗が浮かび、唇を固く結んでいる。
「よかった……」
クリスが息を吐く。
だが、ラファエルは首を振った。
「いや、よくない」
その声は低かった。
「今回は助かった。でも、次は分からない」
クリスの顔から、安堵が消える。
その時、扉が静かに開いた。
クライドが戻ってきた。
「その通りだ」
彼は部屋に入ると、扉を閉めた。
「連中は諦めちゃいない。必ずまた来る」
ラファエルは床下から這い出し、膝をついた。傷が痛むのか、一瞬顔をしかめる。
クライドは彼を見下ろした。
「待っているだけじゃ駄目だ。お前さんを、この村から出さなきゃならん」
その時、窓の外から、かすかに煙の匂いが流れてきた。だが、炎の赤い光は見えなかった。村の誰かが、納屋の裏で湿った藁でも燻したのだろう。火事というには小さく、騒ぎというには十分な煙。
ラファエルはクライドを見た。
クライドは何も言わず、ただ片目を細めた。
「……助かりました」
ラファエルが低く言う。
「まだ助かっちゃいない」
クライドは短く返した。
「今夜を一度ごまかしただけだ」
「問題は、方法ですね」
ラファエルは息を整えながら言った。
「ああ」
クライドは腕を組む。
「山を越えてエミトリアへ戻れれば……」
ラファエルの言葉に、クライドは即座に首を振った。
「徒歩じゃ無理だ。アストリア山脈を越えられるわけがない。道はあるが、今はリグジェリア軍が押さえている。お前一人で抜けられるほど甘くはない」
重い沈黙が落ちる。
ラファエルは卓に手をつき、考え込んだ。
「飛行機があれば……」
その言葉に、クリスが反応した。
「……飛行機?」
ラファエルは頷く。
「うん。小さな機体でもいい。飛べるものがあれば、山を越えられるかもしれない」
「飛行機、か……」
クライドは苦い顔をした。
「あればな。だが、そんなものはこの村には――」
「……あっ」
クリスが声を上げた。
ラファエルとクライドが同時に彼女を見る。
クリスは少しの間、何かを思い出そうとするように目を見開いていた。
彼女の頭の中に、一つの景色が浮かんでいた。
村の外れ。森を抜け、丘を越えた先。草に埋もれかけた広い平地。ところどころひび割れた石の道。崩れかけた小屋のような大きな建物。人の来ない場所。村人たちは怖がって遠くへ行かないから、ほとんど誰も知らない場所。
でも、クリスは知っていた。
村に来てから、彼女は何度も周りを歩いていた。皆が行かない場所へも行った。知らないものを見るのが好きだったから。怖いと言われても、どうしても気になったから。
その場所を、彼女は見つけていた。
「あるよ!」
クリスは立ち上がった。
「丘の向こうに!」
ラファエルは息を呑む。
クライドの目も、鋭く細くなった。
「……何があるって?」
「飛行機があるかは分からない。でも、広い場所があるの。平らな道みたいなのがあって、大きな小屋もあって……たぶん、昔の飛行場」
「飛行場……?」
ラファエルは思わず繰り返した。
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
山を越える道は、地上にはない。
だが、空へ続く道なら、まだ残っているのかもしれない。
クリスはラファエルを見た。
不安と、期待と、少しの興奮がその瞳に混じっている。
「丘の向こうにあるよ」
そう言った彼女の声は、今朝村人たちの前で震えていた声とは違っていた。
そこには、確かな希望があった。