Epics of the sky ~天空の叙事詩集〜   作:skyminstrel

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第1章 第4話 翼を取り戻せ

 朝の山道を、クリスは軽やかに駆けていた。

 

 空はよく晴れていた。夜の冷気はまだ草の上に残っていたが、東の山の端から昇った太陽は、すでに谷間を金色に染め始めている。遠くの森には薄い霧がたなびき、村の煙突から上がる白い煙が、朝の光の中でゆっくりとほどけていた。

 

 「こっち!」

 

 クリスが振り返って手を振る。

 

 その少し後ろを、ラファエルが歩いていた。彼は昨日までの村のシャツではなく、泥を落とされた緑の飛行服に着替えている。完全に汚れが落ちたわけではない。袖や膝にはまだ煤の跡が残り、ところどころに傷もある。だが、胸の徽章と肩の刺繍は、朝日に照らされてかすかに光っていた。

 

 その後ろには、クライドと数人の村人たちが続いている。中には、白髪混じりの髭をたくわえた老人が二人いた。トマスとウィリアムという彼らは、飛行機についての話を聞くと率先して参加したのだった。

 

 昨夜、クリスの話を聞いたクライドが、真っ先に声をかけた二人である。

 

 「本当にあるんだって!」

 

 クリスは、今にもまた走り出しそうな顔で言った。

 ラファエルは少し息を整えながら、彼女を見る。

 

 「分かってる。信じてるよ」

 

 「本当に?」

 

 「本当に」

 

 ラファエルがそう答えると、クリスは嬉しそうに笑った。

 

 クライドはその二人を見ながら、肩をすくめる。

 

 「信じるのは勝手だが、あったとしても使えるとは限らんぞ。古い飛行場の跡なんざ、たいていは草に埋もれて終わってる」

 

 「確認する価値はあります」

 

 ラファエルは前を向いたまま言った。

 

 「滑走できるだけの平地が残っていれば、それだけでも手がかりになります」

 

 「お前さん、本気で飛んで逃げるつもりか」

 

 「それ以外に、山を越える手段はありません」

 

 クライドはふっと鼻で笑った。

 

 「たいした度胸だ」

 

 「度胸というより……他に考えがないだけです」

 

 そう言うラファエルの声は静かだった。だが、その目は昨日よりもはっきりしていた。逃げるためではない。戻るために飛ぶ。エミトリアへ帰り、この村のことを騎士団へ伝える。そのために、どんな手段でも探さなければならない。

 

 丘へ続く道は、細く荒れていた。獣道と呼ぶには少し広く、人の道と呼ぶには草が茂りすぎている。村人たちがめったに来ないというのは本当なのだろう。石に苔がつき、ところどころ木の根が地面を割っていた。

 

 「村のみんなは、普段はこっちへ来ないの?」

 

 ラファエルが尋ねる。

 

 クリスは前を向いたまま答えた。

 

 「うん。あんまり。村の外は危ないって言われるから」

 

 「君は来てたんだ」

 

 「気になったんだもん」

 

 クリスは少しだけ胸を張った。

 

 「村の周りに何があるのか、知らないままなのは嫌だったから」

 

 その言葉に、ラファエルはふと黙った。

 

 知らないままでは、守れないものがある。

 

 昨日、自分の中に生まれた言葉が、もう一度胸の奥をよぎる。

 

 やがて、一行は丘の上に出た。

 

 そこから先は、視界が開けていた。

 

 朝日に照らされた草原が、山の斜面に沿って緩やかに広がっている。風が吹くたび、長く伸びた草が波のように揺れた。遠くにはアストリア山脈の険しい峰々が見え、その手前に、村とは別の小さな谷が横たわっている。

 

 そして、その谷の中に。

 

 草に埋もれかけた、まっすぐな平地があった。

 

 「着いた!」

 

 クリスが声を上げた。

 

 ラファエルは足を止めた。

 

 クライドも、老人たちも、村人たちも、しばらく何も言わなかった。

 

 そこには、確かに滑走路があった。

 

 舗装と呼ぶには古すぎる。石と土を固めた細長い道は、ところどころひび割れ、草がその隙間から伸びている。端には古びた吹き流しの柱らしきものが斜めに立ち、その向こうには、大きな木造の建物が一つ、半ば朽ちたように残っていた。

 

 格納庫だった。

 

 「ここは……」

 

 ラファエルは小さく息を呑む。

 

 「飛行場だ」

 

 クライドが低く言った。

 

 「まさか、本当に残っていたとはな」

 「ね?」

 

 クリスは振り返る。

 

 「あったでしょ」

 

 その顔は、まるで自分の宝物を見せる子供のように輝いていた。

 

 ラファエルは頷いた。

 

 「うん。本当にあった」

 

 「信じていたって言ったでしょ?」

 

 「言ったよ」

 

 「じゃあ、もっと驚いていいと思う」

 

 クリスが少し不満そうに言うので、ラファエルは思わず笑ってしまった。

 

 「ごめん。驚きすぎて、言葉が出なかった」

 

 「なら、いいけど」

 

 クリスは満足そうに笑い、また格納庫の方へ駆け出した。

 

     *

 

 格納庫の扉は、重かった。

 

 長い間開かれていなかったのだろう。木の板は乾き、金具は錆び、押してもなかなか動かない。男たちが数人がかりで肩を入れ、クライドが掛け声をかける。

 

 「せーの!」

 

 ぎぎぎ、と鈍い音が響いた。

 

 隙間から、暗い室内の匂いが流れ出す。古い木材。油。錆。湿った布。長い時間、閉じ込められていた空気だった。

 

 もう一度押す。

 

 扉が大きく開いた。

 

 朝の光が格納庫の中へ差し込む。

 

 その奥に、機体があった。

 

 ラファエルは、息を止めた。

 

 古い飛行機だった。細長い胴体に、高い位置の主翼。機首には布で覆われた大きな丸いカウリング。主脚は機体の前方に二つ、その後ろ、尾翼下に小さな尾輪がついている。緑色の塗装はくすみ、ところどころ剥げているが、側面には白い熊の絵と、薄くなった機体番号が残っていた。

 

 クリスが小さく言う。

 

 「あった……」

 

 ラファエルはゆっくりと近づいた。

 

 彼の手が、機体の布をそっと払う。指先に、古い埃がついた。

 

 「保存布……」

 

 「どうだ」

 

 クライドが尋ねる。

 

 「使えそうか?」

 

 ラファエルは答えなかった。機首へ回り、布で塞がれた吸気口を見る。排気口にも覆いがされている。カウリングの留め具に触れ、主翼の張りを見上げる。

 

 「吸気口も塞がれていた。排気口だけじゃない」

 

 彼はつぶやいた。

 

 「放置された機体というより、飛ばすつもりで保管された機体です」

 

 トマスが目を細めた。

 

 「ほう」

 

 ラファエルはカウリングの一部を慎重に開ける。中に見えたのは、放射状に並んだシリンダーだった。

 

 「星型です。シリンダーは……七気筒」

 

 「リトルベアだな」

 

 トマスが言った。

 

 ラファエルは振り向く。

 

 「ご存じなんですか?」

 

 「昔、飛行機の整備を少しな。こいつそのものじゃないが、同型の機体は扱ったことがある」

 

 トマスはゆっくりと機体に近づくと、白熊の絵を見た。

 

 「リトルベア。丈夫で、短い滑走路からでも飛べる。山間部の連絡機には悪くない機体だった」

 

 「では……」

 

 ラファエルの声に、わずかな期待が混じる。

 

 だが、トマスはすぐに首を振った。

 

 「すぐ飛べるとは言っとらん」

 

 その言葉に、周囲の空気が少し沈んだ。

 

 ラファエルは自分で機体の周りを一周する。

 

 「まず外観から確認します」

 

 彼は機体の状態を一つずつ見ていった。

 

 タイヤは劣化しており、空気も抜けている。主翼の羽布は一部が破れ、張り替えか補修が必要だった。操縦ケーブルは固着しており、動きが重い。燃料タンクを開けると、そこは空だった。

 

 クライドが腕を組む。

 

 「結局、飛べるのか?」

 

 ラファエルは少し黙った。

 

 機体は残っている。保存状態も、思ったより悪くない。だが、飛行機は形があれば飛ぶものではない。翼があり、エンジンがあり、操縦席があればそれでよいわけではない。

 

 空は、甘くない。

 

 「……今は無理です」

 

 正直にそう言うと、クリスの顔が少し曇った。

 

 ラファエルはすぐに続けた。

 

 「でも、絶対に無理というわけではありません。状態を確認して、必要なものをそろえれば……可能性はあります」

 

 トマスがにやりと笑った。

 

 「その通りだ。そして、それなら十分だ」

 

 「え?」

 

 「可能性があるなら、村の連中は動く」

 

 クライドも頷いた。

 

 「手伝おう。飛行機の整備そのものは分からなくても、手はある。道具も、人も、ここにはある」

 

 村人たちが顔を見合わせる。

 

 誰かが言った。

 

 「トラクター用のワイヤーならあるぞ」

 

 「布の補修なら、女たちができる」

 

 「滑走路の草なら刈れる」

 

 「燃料は……発動機用の燃料が少し残っているはずだ。村の倉庫を探そう」

 

 それまで不安げだった空気が、少しずつ動き出す。

 

 ラファエルは、その様子を見ていた。

 

 昨日、彼を引き渡そうとした村人たちが、今は彼を空へ戻すために、何ができるかを探している。

 

 それは、奇妙な感覚だった。

 

 「手伝ってください」

 

 ラファエルは村人たちへ向き直った。

 

 「僕一人では、とても間に合いません」

 

 クライドが大きく頷く。

 

 「聞いたな。やれることを探せ。今日中に、この子熊を起こすぞ」

 

 その言葉に、村人たちは一斉に動き出した。

 

     *

 

 格納庫は、たちまち作業場になった。

 

 埃をかぶっていた作業台には工具が並べられ、壁にかけられていた古いランプには油が足された。男たちは錆びた部品を外し、女たちは破れた羽布を広げて補修の段取りをつける。若者たちは滑走路へ出て草を刈り始めた。

 

 ラファエルは機体の横で、小さな手帳を開いていた。

 

 「タイヤ。操縦索。羽布。オイル。燃料。点火プラグ。燃料系統。主翼支柱。尾輪。ブレーキ……」

 一つ一つ、確認すべき項目を書き出していく。

 

 トマスは機首のそばで腕まくりをしていた。

 

 「よし、ではわしはエンジンを見よう。長く眠っていたなら、いきなり回すな。無理に回せば、起きる前に壊れる」

 

 ラファエルは頷く。

 

 「お願いします」

 

 「若いの、お前さんは外側を見ろ。飛ぶとなったら、機体全体を知らなきゃならん」

 

 「はい」

 

 ラファエルは主翼の下へ入り、支柱と張線を確認した。張線を軽く弾くと、鈍い音が返ってくる。完全ではないが、折れてはいない。

 

 「まず、固着している操縦ケーブルですね」

 

 彼が言うと、クライドがすぐに太いワイヤーの束を持ってきた。

 

 「トラクターの予備だ。長さもこれだけあれば足りるか」

 

 「助かります」

 

 「何をすればいい」

 

 「まずは古いケーブルを外して、長さを合わせます。端末の加工が必要です」

 

 「そのくらいならできる」

 

 クライドは短く答え、すぐに作業へ移った。

 

 クリスは女性たちのところへ走っていた。

 

 「私もやる! 縫うの、得意じゃないけど!」

 

 「じゃあ押さえてて!」

 

 「ほつれないように急ごう!」

 

 「おー!」

 

 クリスは布の端を押さえながら、真剣な顔で作業を手伝う。さっきまで山道を走っていた元気そのままに、彼女は格納庫の中をあちこち駆け回った。布を運び、針を渡し、外の草刈りにも顔を出す。

 

 ラファエルはその姿を何度も目で追った。

 

 この飛行場を見つけたのはクリスだ。

 

 村人たちがこうして動き出したのも、昨日、彼女が泣きながら前に出たからだ。

 

 ラファエルは、改めてそう思う。

 

 今、この場にある希望の始まりは、彼女だった。

 

 昼近くになると、村からさらに人が来た。誰かが倉庫で燃料缶を見つけ、別の誰かが使えそうなオイルを抱えてきた。小さな子供たちは、土の詰まった袋を誇らしげに並べている。ラファエルが頼んだものだ。

 

 「翼の補修後、荷重試験をしたいんです」

 

 ラファエルがトマスに説明しているのを聞いて、子供たちが目を輝かせた。

 

 「かじゅう?」

 

 「土嚢を翼に乗せて、重さに耐えられるか確かめるんだ」

 

 「じゃあ、作る!」

 

 子供たちは元気よく駆け出した。

 

 「お前、子供にも好かれるな」

 

 「そ、そうでしょうか……」

 

 その様子を見たクライドにラファエルがそう答えると、クライドは肩を揺らして笑った。

 

 その時だった。

 

 格納庫の窓の近くから、クリスが叫んだ。

 

 「黒い煙!」

 

 全員が振り返る。

 

 開け放たれた格納庫の扉の向こう、村の方角から、黒い煙が細く立ち上っていた。

 

 それは、リグジェリアの秘匿飛行場に動きがあった時に、村からそのことを知らせる合図だった。

 

 クライドの顔つきが一変する。

 

 「格納庫を閉めろ!」

 

 男たちが一斉に扉へ走る。

 

 「滑走路の草刈りも中断だ! 道具を隠せ!」

 

 ラファエルは窓から空を見上げた。

 

 遠く、高いところに、小さな機影が二つあった。忘れもしない、リグジェリアの戦闘機シュライクだ。

 陽光を受けて、腹がかすかに光る。そこには、何かがぶら下がっている。

 

 「偵察用カメラを積んでいる……」

 

 ラファエルは低くつぶやいた。

 

 クリスが隣に来る。

 

 「見つかったら?」

 

 「まずい。飛行場を整備していると知られれば、今夜を待たずに兵が来る」

 

 格納庫の扉が重く閉じられていく。滑走路へ出ていた村人たちも道具を抱え、森の影へ散った。

 

 扉が閉まる直前、ラファエルはもう一度空を見た。

 

 機影はゆっくりと旋回している。

 

 こちらに気づいたのかどうかは分からない。

 

 だが、リグジェリア軍も本気になっている。

 

 そう思うには十分だった。

 

     *

 

 一方、村では別の動きもあった。

 

 何人かの男たちが、リグジェリア兵に見える場所で堂々と荷車やトラックへ乗り込んでいた。

 

 「おい、どこへ行くんだ?」

 

 兵士が声をかける。

 

 男の一人が、わざとらしく帽子を上げた。

 

 「あんたらが言ってた捜索だよ。東は兵隊さんたちが探してるんだろ? なら、俺たちは西を見てくる」

 

 「村に人も少ないようだが」

 

 「男手は出払ってる。森の方を探してるんでね」

 

 兵士はしばらく疑うように男たちを見ていたが、やがて顎をしゃくった。

 

 「……そうか」

 

 トラックが動き出す。荷台の村人たちは、まるで本当に捜索へ向かうかのように手を振った。

 

 少しでも時間を稼ぐ。

 

 それが、彼らの役目だった。

 

 

 格納庫では、ラファエルが荷重試験を終えた翼を見上げていた。

 

 「問題なし」

 

 その言葉に、周囲から小さな歓声が上がる。

 

 作業は、大詰めを迎えていた。

 

 羽布は張り終えられ、操縦ケーブルの交換も済んだ。タイヤには空気が入り、燃料は濾されながらタンクへ移されている。エンジンも、トマスの手によって少しずつ目を覚ましつつあった。

 

 「本当に飛べそうですね」

 

 ラファエルが言うと、トマスはふんと鼻を鳴らした。

 

 「まだ早い。飛行機は、飛ぶまでは飛んだことにならん」

 

 「……その通りです」

 

 「それに、若いの」

 

 今度は、これまで黙って機体を見ていたウィリアムが口を開いた。

 

 「尾輪式を飛ばしたことはないだろう」

 

 ラファエルは一瞬、言葉に詰まった。

 

 「ありません」

 

 「だろうな。この機体、作られたのはお前が生まれるよりも前だろう」

 

 クライドが腕を組む。

 

 「問題なのか」

 

 「問題だ」

 

 ウィリアムは即答した。

 

 「前輪式と同じつもりで走らせたら、滑走路で横を向いて終わる」

 

 ラファエルの顔が引き締まる。

 

 「教えてください」

 

 ウィリアムは、作業場の床に白い石で機体の横姿を描き始めた。

 

 「まず覚えろ。尾輪機は前輪機じゃない。主輪より後ろに重心がある」

 

 白い線で描かれた主輪の後ろに、ウィリアムは丸印をつける。

 

 「一度振れ始めると、勝手に曲がり続ける。放っておけば機体は横を向く。地上滑走で気を抜くな」

 

 「グラウンドループ……」

 

 ラファエルがつぶやく。

 

 ウィリアムが目を細めた。

 

 「知ってるのか」

 

 「教本でだけは。実機経験はありません」

 

 「なら、今からが最初の授業だ」

 

 ウィリアムは棒を持ち直した。

 

 「滑走を始めたら、操縦桿はいっぱいに引け。尾輪を地面へ押しつける。尾輪が地面を掴むまでは、機体に勝手をさせるな」

 

 「はい」

 

 「速度が乗ったら、少しだけ戻して尾輪を上げろ。少しだけだ。前へ倒しすぎれば、つんのめる。戻しが足りなければ、尾輪はいつまでも上がらん」

 

 ラファエルは真剣に頷きながら、手帳へ書き込んでいく。

 

 「離陸したら?」

 

 「一メートルでも飛び上がれば、あとはただの飛行機だ」

 

 ウィリアムは言った。

 

 「山を越えることだけ考えろ」

 

 「着陸は?」

 

 「まあ、これから教えることを試すつもりでやれ。ぐるりとやっても、死にはせん」

 

 「はは……」

 

 ラファエルは困ったように笑った。

 

ウィリアムはまじめな顔のまま続ける。

 

 「山の向こうへ着けば勝ちだ。上手く降りることより、生きて降りることを考えろ」

 

 その言葉に、ラファエルは笑みを消し、静かに頷いた。

 

 「はい」

 

     *

 

 日が沈む頃、リトルベアは一応の形を取り戻していた。

 

 破れた羽布は補修され、操縦索の端末は締め直された。タイヤには空気が入り、燃料も必要な量だけ確保できた。機体の下には土嚢が並び、使い終えた工具や布切れが格納庫の隅に積まれている。

 

 だが、試運転はまだだった。

 

 トマスは腕を組み、機体を見上げる。

 

 「試運転は離陸直前だ。奴らに音を聞かれない考えがある」

 

 「分かりました」

 

 ラファエルは頷いた。

 

 「よし。なら、ひとまず今日は終わりだ」

 

 その一言に、格納庫の中から小さな歓声が上がった。

 

 「やったあ!」

 

 「飛ぶかなあ」

 

 「飛ぶさ。ここまでやったんだ」

 

 村人たちは笑い合い、互いの肩を叩いた。昨日までの沈んだ顔ではない。疲れてはいるが、その目には何かをやり遂げつつある人間の光があった。

 

 ラファエルはウィリアムのもとへ歩いた。

 

 「ありがとうございました。尾輪機を飛ばしていたのですか?」

 

 ウィリアムは少しだけ目を細めた。

 

 「軍で連絡機をな」

 

 「この開拓団にも?」

 

 「ああ。飛行要員として参加した」

 

 ウィリアムは、リトルベアを見上げた。

 

 「連絡や物資輸送が仕事だった。だが占領が始まってすぐ、我々の開拓団の飛行機は持っていかれた。こいつは我々が来る前から、ここで忘れられていたんだろうな。昔の開拓計画の名残かもしれん」

 

 

 そして、機体の表面にそっと触れた。

 

 「飛行機に触るのは、本当に久しぶりだ」

 

 そう言うウィリアムの声は、少しだけ遠くを見ていた。

 

 ラファエルは黙って聞いていた。

 

 「そうだ。まずは離陸しろ。そこから先は、お前の空だ」

 

 ウィリアムは彼を見た。

 

 「山を越えることだけ考えろ」

 

 「はい」

 

 ラファエルは背筋を伸ばして答えた。

 

     *

 

 夜。

 

 格納庫の中には、ランタンの灯りだけが残っていた。

 

 村人たちはそれぞれ家へ戻り、外では見張りが交代で立っている。リトルベアは大きな影となって、薄暗い格納庫の中央に静かに佇んでいた。

 

 ラファエルは作業台の前に座り、空図を広げていた。

 

 アストリア山脈。

 

 黒い線で描かれた尾根。谷。川。エミトリア側へ抜ける可能性のあるルート。昼間のうちに老人たちやクライドから聞いた地形も、手帳に書き込んである。

 

 「山を越えることだけ考えろ」

 

 ウィリアムの言葉を、ラファエルは小さく繰り返した。

 

 リトルベアはフルーレのように速くない。高くも上がれない。航法装置も心許ない。敵に見つかれば確実に終わる。アストリア山脈の風は乱れ、谷筋には下降気流もある。

 

 けれど、地上の道は塞がれている。

 

 飛ぶしかない。

 

 扉が小さく鳴った。

 

 ラファエルが顔を上げると、クリスが立っていた。腕には毛布を抱えている。

 

 「クライドに頼まれて、毛布を持ってきたの」

 

 「ああ、クリス。ありがとう」

 

 クリスは中へ入り、作業台のそばに毛布を置いた。

 

 「それと、これを渡してってクライドが」

 

 続いて、彼女はやや分厚い封筒を差し出す。

 

 「これは?」

 

 「リグジェリア軍の飛行場とか、施設の写真だって。彼らの目を盗んで、時々撮っていたって。証拠になるかなって」

 

 少し中身を取り出すと、木製の小屋に偽装した格納庫やシュライク戦闘機、迷彩された燃料タンクなどが写っていた。おそらく遠くから隠れて撮ったのだろう、決して鮮明とは言えない写真だが、それらがあるという情報には十分だった。

 

 「クライドさん……それは助かる。騎士団を説得しやすくなると思う」

 

 やはり、あの団長はただ従っているだけでは無かったのだ。いつか、情報を外へ持ち出せる機会に備えて、準備していたのだろう。

 

 写真を機体に積み込むラファエルの隣に、クリスは近づいた。

 

 「まだ起きてたんだ」

 

 「少し航路を確認していた」

 

 「明日、飛ぶの?」

 

 ラファエルは少し黙り、それから頷いた。

 

 「たぶん。機体が動けば」

 

 クリスはリトルベアを見た。

 

 夜の中で、白熊の絵はランタンの灯りを受けてかすかに浮かび上がっている。

 

 「……ちゃんと飛ぶかな」

 

 「飛ばせるようにする」

 

 「ラファエルなら、そう言うと思った」

 

 クリスは小さく笑った。

 

 その笑顔は、どこか無理をしているようにも見えた。

 

 ラファエルは空図から目を離し、彼女を見る。

 

 「どうしたの?」

 

 クリスは胸元に手をやった。

 

 そこには、いつものペンダントがあった。古びた丸い金属。鳥の紋様。

 彼女はそれを外す。

 

 細い鎖が、ランタンの灯りを受けて小さく光った。

 

 「これ」

 

 クリスは、両手でペンダントを差し出した。

 

 ラファエルは驚いた。

 

 「大切な物じゃ……」

 

 「だからだよ」

 

 クリスはまっすぐに言った。

 

 その声は、静かだった。

 

 「これ、私が持ってる中で、一番大事なものなの。名前も、昔のことも、何も分からないけど、これだけはずっとあったから」

 

 「なら、なおさら――」

 

 「ちゃんと返してね」

 

 クリスはそう言った。

 

 その言葉で、ラファエルは何も言えなくなった。

 

 これはお守りではない。

 

 ただの幸運の印でもない。

 

 戻ってこい、という約束だ。

 

 彼はペンダントを受け取った。

 

 手のひらの中で、それは思っていたよりも温かかった。クリスが今まで胸元で握っていたからだろう。

 

 「必ず返す」

 

 ラファエルは言った。

 

 「うん」

 

 クリスは少しだけ笑った。

 

 「返してね」

 

 もう一度、彼女は言う。

 

 ラファエルは頷いた。

 

 「約束する」

 

 クリスはそれを聞いて、ようやくほっとしたように息を吐いた。

 

 ランタンの灯りの向こうで、リトルベアの翼が静かに伸びている。

 

 ラファエルはペンダントを首にかけた。

 

 自分の胸の上で、鳥の紋様が小さく揺れた。

 

     *

 

 夜明け前。

 

 格納庫の中はまだ暗かった。

 

 ラファエルは毛布にくるまったまま、浅い眠りの中にいた。横にはリトルベアの影があり、ランタンの火はもう小さくなっている。

 

 「起きろ」

 

 低い声がした。

 

 目を開けると、クライドが立っていた。

 

 「そろそろだ」

 

 ラファエルは身を起こす。体の節々が痛む。だが、昨日ほどではない。眠った時間は短かったが、頭は不思議と冴えていた。

 

 外へ出ると、空はまだ暗い藍色だった。東の山の端が、わずかに白み始めている。村人たちも、すでに集まっていた。クリスも目をこすりながら立っている。

 

 遠くから、低い轟音が聞こえた。

 

 ゴオオオ、と空気を震わせる音。

 

 ラファエルは顔を上げる。

 

 「敵の試運転ですか」

 

 クライドが頷いた。

 

 「ああ」

 

 その顔には、どこか不敵な笑みがあった。

 

 「今だ。戦闘機の試運転をしている間は、敵はこちらの音に気づきにくい。起こすなら、今しかない」

 

 ラファエルはリトルベアを見た。

 

 村人たちが格納庫の大扉を開け、機体を外へ押し出す。朝露に濡れた地面が、星と夜明けの光を映していた。まだ薄暗い中、白熊の絵が機体側面にぼんやりと浮かぶ。

 

 「配置につけ!」

 

 クライドの声が響いた。

 

 消火器を持った少年が前に出る。主輪の前には輪止めが置かれ、トマスがプロペラの前に立った。クリスはクライドの横で、両手を胸の前に握っている。

 

 「緊張してるか?」

 

 クライドがラファエルに聞いた。

 

 ラファエルは小さく息を吸う。

 

 「少しだけ」

 

 「それでいいんだ。じゃあ行け」

 

 ラファエルはコクピットへよじ登った。

 

 古い計器が並ぶ操縦席は、フルーレとはまるで違っていた。狭く、質素で、何もかも手で確かめなければならない。だが、そこには確かに飛行機の匂いがあった。

 

 彼はクリスのペンダントに一度触れる。

 

 それから、手順を口にした。

 

 「マスター、オン」

 

 スイッチを入れる。

 

 「燃料コック、オープン」

 

 硬いレバーを動かす。

 

 計器の針が、かすかに震えた。

 

 トマスがプロペラの前で手を上げる。

 

 「コンタクト!」

 

 「コンタクト!」

 

 ラファエルが返す。

 

 トマスがプロペラを握り、力を込めて回した。

 

 ブッ、と短い音がして、プロペラが止まる。

 

 かからない。

 

 周囲が息を呑む。

 

 トマスは眉を上げ、もう一度手をかけた。

 

 「もう一回!」

 

 プロペラが回る。

 

 今度は、機体の奥で何かが目を覚ますような音がした。

 

 ババババッ、と星型エンジンが荒く咳き込み、白い煙を吐いた。

 

 そして次の瞬間。

 

 ブオオオオオン、と、リトルベアのエンジンが力強く回り始めた。

 

 村人たちが一斉に歓声を上げる。

 

 「動いた!」

 

 「本当に動いたぞ!」

 

 「飛べるぞ!」

 

 クライドが親指を立てた。

 

 トマスは腕を組んだまま、ただ一度だけ頷いた。

 

 ラファエルは計器を確認する。

 

 「滑油圧正常。回転数正常。シリンダー温度……問題なし」

 

 エンジンの振動が、機体を通して体に伝わってくる。フルーレのジェットエンジンとはまるで違う。息をするような振動。古いが、生きている機械の鼓動だった。

 

 その音を聞いた瞬間、クリスは胸元に手をやった。

 

 そこに、いつものペンダントはない。

 

 けれど、胸の奥がふいに震えた。

 

 初めて聞くはずの音だった。

 

 なのに、知らない音ではなかった。

 

 「……知ってる」

 

 自分で言ってから、クリスは小さく目を見開いた。

 

 「この感じ……」

 

 誰にも聞こえないほどの声だった。

 

 ラファエルはマグネトーを切り替える。

 

 「マグチェックします」

 

 回転数がわずかに落ち、また戻る。

 

 「左正常。右正常」

 

 ラファエルは操縦桿を握る。

 

 「……飛べる」

 

 その言葉は、誰かに聞かせるためではなかった。

 

 自分に言い聞かせるためでもない。

 

 確かめた結果として、ただ口から出たものだった。

 

 クライドが機体へ近づく。

 

 ラファエルは彼に向けて頷いた。

 

 「行けます」

 

     *

 

 リトルベアは滑走路の端へ向けて押し出された。

 

 空は少しずつ明るくなっていた。東の山の向こうには、朝日が顔を出そうとしている。まだ地面には夜の冷えが残っていたが、機体のエンジンだけが熱と音を生んでいた。

 

 村人たちは、滑走路の脇に並んでいる。

 

 クライドが大声を上げた。

 

 「分かってるな! 俺たちが時間を稼ぐ!」

 

ラファエルは操縦席から頷いた。

 

 「はい! 川沿いに南下します!」

 

 「生きて逃げろよ!」

 

 クライドの声が飛ぶ。

 

 「ラファエル!」

 

 クリスの声が聞こえた。

 

 ラファエルは振り向く。

 

 彼女は両手を胸の前に握り、こちらを見上げていた。目は少し潤んでいる。けれど、泣いてはいなかった。

 

 「また会おう! 待ってるから!」

 

 ラファエルは一瞬、言葉に詰まった。

 

 それから、親指を立てた。

 

 「うん!」

 

 機内のフレームにかけたペンダントが小さく揺れる。

 

 そして、前を向く。

 

 「離陸する」

 

 スロットルを押す。

 

 リトルベアが震えた。

 

 ゆっくりと動き出す。最初は重い。尾輪が地面を蹴り、主輪が水たまりを弾く。機体は左右に揺れ、まっすぐ走ろうとしない。

 

 「操縦桿は、いっぱいに引け」

 

 ウィリアムの声が脳裏に響く。

 

 ラファエルは操縦桿を引き、足で方向を押さえる。

 

 尾輪が地面を掴む。

 

 ガララララ、と古い滑走路が鳴った。

 

 機体が跳ねる。主輪が石を踏み、泥を跳ね上げる。村人たちが息を呑む。

 

 「最初は尾輪で走る」

 

 速度が上がる。

 

 ラファエルは少しだけ操縦桿を戻した。

 

 少しだけ。

 

 尾が上がる。

 

 視界が変わる。機首の向こうに、朝焼けの滑走路がまっすぐ伸びる。

 

 まだだ。

 

 ラファエルは機体の声を聞くように、足元と手元に集中した。

 

 「速度が乗ったら……」

 

 操縦桿をわずかに前へ。

 

 美林が浮き上がり、リトルベアは水平姿勢で加速していく。

 

 風が翼を撫でる。

 

 滑走路の端が近づいてくる。

 

 クリスは息を止めて見ていた。

 

 トマスも、ウィリアムも、クライドも、村人たちも、誰一人として声を出さなかった。

 次の瞬間。

 

 リトルベアの主輪が、ふわりと地面を離れた。

 

 「飛んだ」

 

 ウィリアムがつぶやいた。

 

 その声を合図にしたように、村人たちから歓声が上がった。

 

 「飛んだ!」

 

 「本当に飛んだ!」

 

 「行ったぞ!」

 

 クリスは空を見上げた。

 

 リトルベアはまだ低かった。滑走路のすぐ上を、ふらつきながら進んでいる。だが、確かに地面を離れていた。

 

 ラファエルは操縦席で、まだ気を緩めていなかった。

 

 「まだだ」

 

 高度計の針が少しずつ動く。

 

 滑走路が下がっていく。そして、周りの木々を越えられるだけの高さになった。

 

 格納庫が小さくなり、村人たちの姿が点になっていく。朝日が山の端から顔を出し、リトルベアの翼を金色に染めた。

 

 

 ラファエルは前を見た。

 

 アストリア山脈が、巨大な壁のように朝焼けの中へそびえている。

 

 その向こうに、騎士団の城がある。仲間が待つ場所がある。

 

 そして、再び戻らなければならないこの村がある。

 

 胸元で、クリスのペンダントが揺れた。

 

 ラファエルはそれに一度だけ触れ、操縦桿を握り直した。

 

 リトルベアは、朝焼けの空へと向かっていった。

 

     *

 

 クリスは、いつまでも空を見上げていた。

 

 リトルベアは小さくなっていく。朝日に照らされた翼は、まるで金色の鳥のように見えた。山の手前をなぞるように進み、やがて雲の影へ紛れ、点のようになっていく。

 

 「ちゃんと飛んどる」

 

 トマスが隣で言った。

 

 「本当に飛んだな……」

 

 村人の誰かが、夢を見るようにつぶやく。

 

 クリスは頷いた。

 

 「うん……」

 

 胸元に手をやる。

 

 そこに、いつもあったはずのペンダントはなかった。

 

 指先が触れたのは、少し冷たい服の布だけ。

 

 クリスは小さく息を吐いた。

 

 寂しさがないわけではない。けれど、不思議と不安だけではなかった。

 

 ラファエルは持っていった。

 

 だから、返しに来なければならない。

 

 そう思えることが、今のクリスには嬉しかった。

 

 遠くの空で、小さな機影が山へ向かっていく。

 

 クリスはそれを見送りながら、そっとつぶやいた。

 

 「返してもらわなきゃ」

 

 朝焼けの光が、彼女の髪を金色に染めていた。

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