Epics of the sky ~天空の叙事詩集〜 作:skyminstrel
轟音とかすかな振動が、絶えることなく体を震わせ続ける。カタカタと揺れる風防とキャノピー、小さく震える計器の針。布張りの翼はわずかな空気の流れにも揺さぶられる。
ラファエルの乗り慣れた高等練習機はおろか、同じプロペラ機の騎士団の金属製初等練習機とも全く違う、そんな小型機の飛行。同じ空でも、これほどに違うものなのか、とふと思った。
谷が左へと曲がっている。操縦桿を倒し、同時に左のフットバーを踏み込んだ。コクピット内にむき出しのワイヤーが動き、舵にラファエルの意思を伝える。機体は緩やかに反応し、空にカーブを描いていく。
リトルベアの操縦にも、大分慣れてきた。
「そろそろ、アストリア山脈か」
計器盤の航空時計をちらりと見、ラファエルはつぶやいた。空を見上げれば、大分明るくなってきている。飛び立った時にはまだ見えていた星は、もう空の青に溶けてしまっていた。
そして、その視線を前方にやると。
「あれを、超えないと……な」
進路を立ちふさがるようにそびえる、高い山々。この山を越えた先に、最も近い町がある。
標高は3000メートルほど。この飛行機でも超えられない高さではないが、ややきつい飛行になるのは間違いない。ラファエルはコクピットのヒーターを確かめると、徐々に切り立った崖になっていく両側の壁を見つつ、山に向かって進んでいく。
川は徐々に岩が転がる谷川となり、その谷は徐々に狭くなっていく。ラファエルは谷の真ん中を飛ばしていた機体を片側に寄せた。万一進めなくなった時、反転する余地を作っておくためだ。
と、
「うわっ」
突然機体が傾いた。一瞬の突風。すぐに立て直すが、ラファエルの胸を悪い予感がよぎった。
「あの雲……この風。風が強くなってきそうだな……」
座学で習った雲と天気の関係を思い出し、そう予想する。山岳地帯を飛ぶときに、あまり天気は荒れてほしくない。そもそも、こんな小さく非力な飛行機で山岳飛行を行うことそのものが、望ましいことではないのだ。
普段なら、天気がベストな日でも絶対にやろうとは思わないだろう。少なくとも、自分の技量では。無理なことはしない、それが飛行機乗りの鉄則だ。
普段なら。
残念ながら、今はそうではない。この困難な飛行を成し遂げなければ、自分は助からないのだ。
「風が荒れる前に……越える」
ラファエルはスロットルレバーを、ぐんと前に押し込んだ。加速して勢いをつけ、いよいよこの山へと挑む。
決して軽くない機体をしかし、エンジンはぐいぐいと上昇させていく。尾根に対して斜めに角度をつけるよう針路を調整。まっすぐ向かっては、登り切れなかったときに反転が難しくなる。
「山登り」は続く。あまり木が生えていない岩肌が、その中の谷間を流れる渓流が眼下を流れていく。地面の緑の割合が徐々に少なくなり、代わりに白が目立ち始めた。
顔を巡らせ、周囲を見る。風防の向こうに見える尾根は、少しずつ近づいてきている。続いて先ほどの雲を見れば、ぐんぐん成長してはいるものの、そのペースは風が荒れるまでの猶予時間はまだ十分にあることを示していた。
「よし、このまま!」
満を持して、いよいよ尾根越えに挑もうとした、その時。
バリバリ、バリッ!
突然、滑らかだったエンジン音に異音が混じった。同時に、機体が激しく揺さぶられる。
「なっ!」
反射的に両手が動いた。エンジン出力を絞り、あわせて機首を下げる。
ふっ、と静寂がコクピットを支配し、機体は降下を開始。同時に暴れ馬のような振動も収まった。が、依然として小さく異音は続いている。
「なんだ、一体」ラファエルは操縦機器に目を走らせる。
燃料コック、開。混合気、リッチ。マグネトー、左右異常なし。
「あっ」
そして次に見た計器の示す事実に、ラファエルは小さく声を上げた。
滑油温が高い。危険域ではないが、その一歩手前だ。
あわてて滑油圧計を見る。こちらは平常であることを確認し、ほっと胸をなでおろす。 即、エンジン停止が起こりかねないような、急激な滑油漏れではないらしい。
良かった。
けれど、困った事態であることに変わりはない。油温が高くなりすぎれば、オーバーヒート、そしてエンジン破壊を招いてしまう。
「ここで、これか……」
ラファエルはうめいた。額に汗が浮かび上がる。
飛行中に油温の異常が見られた場合、取るべき行動は以下の通り。
油温を下げるためにエンジンを必要最低限の出力で回して飛行を継続し、最寄りの飛行場に着陸する。
緊急事態ともいえない、飛行中のトラブルとしては対処の楽な部類だ。
……普段の飛行ならば。
今、ラファエルは山を越えるべく上昇中。リトルベアのエンジンの出力は、全開にしてもそのためには十分とは言えない。
そしてこの山の手前には飛行場はない。あの開拓村のリグジェリア軍の動き出す時間を考えても、何としてもこの山を越えねばならない。
エンジン出力がそのまま、飛行の成否に、ひいてはラファエルの運命に直結するのだ。
ラファエルは少しずつスロットルを動かし、滑油温が上がりすぎない範囲で、出せる最高の出力を探る。少しでも、出力を保ちたい。
だが、
「ここが、限界か」
油温計との息つまる“睨めっこ”の末、ラファエルはため息をつく。
出力、80パーセント弱。それが出せる限界だった。
本来なら巡航、それも低燃費飛行をするとき程度の出力だ。この出力で上昇、それも空気の薄いこの高度で上昇するのは、足かせを付けたまま登山をするようなものだ。
見定めた出力にスロットルをセット。水平飛行するだけでも、機体はややよろめく。操縦桿を引いて上昇に入れば、たちまちのうちに速度が落ちる。
高度計の針は時計の分針よりも遅くだが右に回り、計器はかろうじて上昇中であることを示しているが、もはや飛行機は空を飛んでいるというより、空気の中で「溺れている」とでもいうべき状態だ。
「頼むよ……なあ!」
ケガをした馬をなだめるように、ラファエルはつぶやく。両の手足を、わずかずつ慎重に動かしていく。わずかでも急な、あるいは無駄な操作をしてしまえば、たちまちのうちに機体は高度を失ってしまうだろう。
綱渡りのごとき操作を続けるラファエル。這うように、しかし確実に高度を稼いでいき、そしてどれだけの時間が経ったか忘れたころ、ついに機体は2500メートルまで上昇した。
「あと、少し!」
ラファエルは自らの頬を叩き、渇を入れる。防寒服を着ていてもむき出しになる顔面の肌は、すでに氷のように冷えていた。
だが、その苦しさももうすぐだ。もう山の稜線は、手を伸ばせば届きそうなところにある。あと、もう一息で越えられる!
しかし。
約、十分の後。
高度計は未だ、2500メートルを指していた。
「くそっ!」
ラファエルは毒づく。だが、どうしようもなかった。
この高度が、今のリトルベアの限界だった。
操縦桿を引いても、機首が上を向くだけで高度は上がらない。そしてすぐに速度が落ちて失速してしまう。
わずかな距離が、まったく縮まらない。
「あと、あと少しなのに」
歯噛みした。ここを超えれば、あとは一直線に目的地まで降下して終わりなのに。
やむを得ず、ラファエルは針路を変える。飛び越えられないのならば、どこかで峰を回り込むしかない。
高度を極力失わないよう、慎重に旋回。山々の間、谷の中へと入っていく。危険な飛行だが、これしか手がない。
どこか、尾根が切り欠いている地点はないか。どれかの谷が、山の向こうまで続いていないか。ラファエルは周囲の景色と地図を頼りに飛び続けるが、そもそもそんな都合の良いものがあるならば、最初からそこを通っているだろう。
出発前の確認でそれらがなかったから、山を正面から飛び越えようとしていたのだ。
それでも、どこかに地図には示されないような、小さな谷が、尾根の隙間がないか。ラファエルは一縷の望みを託し、谷の間を飛び続ける。
「そこは、だめか。あの谷は……だめだ、狭すぎ……」
目を皿にして、突破口を探していた、その時。
グワン!
「うわあ!」
突然、機体が凄まじい勢いで傾く。同時に、目に見えて斜面へと押し付けられるように近づいていく。
「くう……っ!」
混乱しかかる脳を懸命になだめ、すぐさま修正操作。なんとか山にぶつかる前に安定を取り戻したものの、今のでさらに高度は落ちてしまった。
「そうか、風が!」
山を登りにかかる前に見ていた、強風の前兆となる雲。その風が、ついに吹き出していた。
絶え間なく吹き続ける風。機体は目に見えて流され続け、ラファエルは斜面が近づくたびに姿勢の修正を余儀なくされる。風上にやや機首を向けることで安定を図るも、風の強さは頻繁に変わり、時折来る強い風にあおられればやはり修正せねばならない。やや修正の頻度を下げるのみだった。そして、修正のために舵を切るたび、空気抵抗が増して高度が落ちていく。
せっかく稼いだ高度が、少しずつ下がっていく。だがラファエルは、もう悪態をつ
くこともできなかった。
操縦の疲労は、いよいよ体を蝕んできていた。必死に操縦桿を握る手は震え、頻繁に周りを見るために動かす首は攣りかけている。
「うう……」
荒ぶる自然の力、それは、今まで経験してきたどの空中戦訓練の相手よりも手ごわかった。か弱き少年と小さな飛行機は、ただ風の手の上で弄ばれるのみ。
「もう……だめ……か」
酸素が薄すぎる高度ではないのに、息苦しい。めまいがする。
――くそっ、こんな、ところで。
ラファエルはいつの間にか操縦桿を放しつつあった右手を、左手で抑える。だがその左手も、もう震えが止まらなくなっていた。
――父上、母上……
安定を失いつつある飛行機の中で、ラファエルの目の前に、様々な人々の姿が去来する。
同期の従騎士たち。師匠。開拓村の皆、そして……
「クリス……っ!」
明るく可愛らしい、金髪の少女。
ふと、コクピットの横に目をやった。彼女からもらった、ささやかなお守り。
飛ぶ鳥が彫られた、ペンダント。
「……鳥、か」
そう、小さくラファエルがつぶやいた時。
ふっ、と、その「お守り」の向こうに、何かが重なった。
ごくごく小さな、黒い影。
「……鳥?」
それは、大きな一羽の鳥。
ラファエルの遥か前方で、大きな翼を広げてゆったりと飛んでいる。それは、とても優雅に空高く上がっていく。
「綺麗だな……」
ラファエルは、ぼそりとつぶやき……そして、目を見開いた。
「上がっている……?」
なぜだ。ラファエルの機体はもう上がれない状況で。この風の中で、あんなにも悠然と。
しかも……その鳥は、ほとんど羽ばたいていない。
「どうして……」
ラファエルは目を細め、見る見るうちに近づいてくるその鳥を見つめた。そして、ある事に気が付く。
「山の斜面に沿っている……?」
その鳥は、先ほどから何度もラファエルが叩きつけられそうになっている斜面のすぐそばを、沿うように飛んでいた。依然、羽ばたくことなく。
ということは……
「そうか!」
ラファエルは、ある事に気が付いた。
かつて、座学で習ったこと。けれど、今の今まで思い浮かばなかったこと。
ラファエルは機首の向きを変える。先ほどまで斜面から少しでも離れようとしていたのを、斜面に向かって。
そして、思い切って斜面にギリギリまで近づいた。斜面の岩肌どころか、地面に転がる石まで見えそうなくらいまで。
前に見える鳥と、同じように。
その時だった。
グワン!
機体が再び、強い風に襲われた。先ほどまでと同じく、機体は大きく流される。
「わあ!」
ラファエルは叫んだ。
だが……それは悲鳴ではなく、歓喜の叫びだった。
機体の流された向きは、横ではなく……上だった。
先ほど失った高度が、瞬く間に回復する。さらに、高度計の針が目に見える勢いで右へと回っていく!
ずっと、これ以上上がらないかと思えていたのがウソのように。高度は2500メートルをすでに超え、早くも2600メートルを上回らんとしていた。
「やった、やった!」
思った通りだった。
鳥が飛んでいる斜面は、谷を吹き抜ける風が正面からぶつかる側だった。行き場を失った風は岩肌に沿って押し上げられ、斜面を駆け上がるように上へ吹き上がっている。
先ほどまで、ラファエルがどう抗っても敵わないと諦めかけたほどの強い風。それを今や、彼は味方につけていた。
風に抗うのではなく、風に乗る。鳥たちがそうであるように。
それこそが空を飛ぶもののあるべき姿だと、かつて師匠が言っていたその意味を、ラファエルはその身をもって実感していた。
鳥との距離が急速に詰まる。もとより速度はこちらが上だ。ゆったりと飛ぶ鳥の脇を飛びぬけながら、ラファエルはその鳥の真下に機体を持っていった。
ひときわ、機体が上昇を速める。上昇気流の一番強いところをつかんだらしい。
「……はは、やっぱりすごいね、君は」
案の定、鳥はぴったりと、その場所を飛んでいたのだ。ラファエルは上を見上げ、この空における大先輩に敬意を表す。
山岳滑翔。
グライダーに乗る者たちの間で、そう呼ばれる技術がある。山肌に当たった風が生む上昇気流をつかみ、斜面に沿って高度を稼ぐ飛び方だ。
教本では知っていた。座学でも習った。
だが今、ラファエルは突然の本番で、それを試されていた。
それでも、もう怖くはなかった。
何よりもの師が、目の前にいたのだから。
斜面を見て、機体と地面の距離感を覚える。そしてその距離を保って飛び続けた。機体の上昇は、未だ止まる様子を見せない。
ふと周囲を見ると、鳥はもう、いずこかへと飛び去っていた。ラファエルはそっと後方の空に敬礼を送った。
そして、数分の後。ついにラファエルの機体は、3000メートル強の高さまで上り詰めた。
ずっと見上げていた尾根が、今や下に見える。その向こうに広がる大地の中に、わずかに色が違う場所が見える。人が住む里だ。
「行くぞ!」
ラファエルはいよいよ、斜面を離れて目的の方角へと機首を向けた。あとは、尾根を一つ飛び越えるのみ。
針路を変えると、今までの力強い上昇は瞬く間に止まり、再び以前のようなふらふらの飛行に戻る。だが、これでいい。あと一分、この高度を保ってくれれば。
そこで満を持して、ラファエルの左手がスロットルレバーをいっぱいに押し込んだ。ずっと出力を押さえていたエンジンが、出発時と同じように咆哮する。
「頼むぞ、エンジン、あと少しでいいんだ!」
風に乗って上昇中、80パーセントよりもさらに出力を下げてまで冷ましていた滑油。それが再び危険温度になるまでのわずかな時間だけでも、全力で回ってくれ!
尾根が足元に迫る。少しずつ、少しずつ後ろへと雪の積もった景色が流れていく。
ガガッ、ガッ
かすかに、エンジンから異音がまたも聞こえ始める。だが、スロットルは緩めない。
山を越えるまで、あと数秒。
「行けえ!」
すっかり乾いた喉で、ラファエルは叫ぶ。
稜線が、ラファエルの下わずか数十メートルを通り過ぎていく。
そして。
眼下の灰色だった雪原が、白に変わった。
灰色は、日陰。白は、日向。
日の当たっていない斜面から、日の当たる斜面へと、ラファエルは乗り移った。
尾根を、超えたのだ。
「……よし!」
小さなコクピットの中で、ラファエルは思わず左手を振り上げた。喜びが、抑えきれなかった。
だがすぐに冷静に戻る。飛行は、着陸して初めて終わるのだ。
すぐさま、エンジンを再び低出力に。危険域に入りかけていた油温を冷ます。そして、降下開始。
地平線上に見える村に向け、ラファエルの翼はゆっくりと舞い降りていく。あそこの飛行場に降りて、騎士団に連絡するのだ。
太陽の日差しが心地よい。ラファエルは水筒を取り出し、水を口に含んだ。こんなにおいしい水は、生まれて初めてだった。
「ふう……」
肺の奥の奥からの、ため息が漏れた。そして前を見ると、村の飛行場の滑走路が朝靄の中に浮かび上がり始めていた。
「……ビスタ飛行場、こちらエミトリア従騎士ラファエル・マノック」
「ビスタ飛行場管制、どうぞ」
「着陸のため進入する。方位30、距離5。エンジンに若干の不調あり」
「了解。支援はいるか」
「はい。牽引車と、万が一のために消火装置の用意を頼みます。
それと……暖かいベッドを」