NOT CHAINSAW 1997   作:姉妹ξ紳士

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第2話

【経済新聞 1997年7月2日朝刊 国際面より抜粋】

 

『1997年7月1日。

 香港は英国から中国へと無事返還された。

 式典は厳戒態勢の中で行われたが、国際社会が注視しているのは、中国政府が保有すると噂される指定概念悪魔『租唖(そあ)』の動向である。

 近年、東南アジアを中心に爆発的な感染を見せている新型の精神感染症(通称・租唖病)は、発症者を中国政府の息がかかった悪魔の傀儡へと変貌させる。

 欧米諸国はこれを「最悪の生物・概念兵器」として非難しているが、中国側は「ただの風土病であり、我が国も被害者である」との主張を崩していない。

 一方、米国の第一列島線維持を背景としたアジア海域への強硬な軍事介入に対し、中国側は台湾海峡周辺での中国人民解放軍海軍の大規模な演習を予告。

 これを受け、昨日の東京株式市場では日経平均株価が急暴落。アジア通貨危機の連鎖も懸念され、地政学リスクは戦後最大の臨界点に達している――』

 

「ふざけるな。ふざけるなよ……! 俺の、俺の貴重な元本がァ⁉︎」

 

 公安対魔特異課の待機室で、俺は椅子をガタガタと揺らしながら、朝刊の経済面を睨みつけていた。

 株価のチャートが、まるで崖から飛び降りるバンジーのように綺麗な垂直の右肩下がりを描いている。

 アジア通貨危機の煽りを受けて俺がコツコツと買い集めていた日本の大手通信株と、安定を求めて買ったはずの米国増配株が、まとめて大爆死を遂げていた。

 前回の北海道出張でもらった、民間デビルハンターの年収三年分という破格の特別手当。

 その大半をぶち込んだ直後のこれである。

 

「おい、静かにしろ。酒が不味くなる」

 

 部屋の隅のソファで、一応職務中でありながらも、当たり前のようにスキットルからウイスキーを煽っている岸辺隊長が、こちらを見ずに呟いた。

 

「隊長、これを見てくださいよ! 株価大暴落ですよ! ああ、もう世界の終わりだぁ……‼︎」

「株の世界が終わっても酒は飲める」

「その酒を作ってるのが株式会社なんですよ!」

「そうか……それは少し困る」

「おお、分かってくれましたか隊長!」

「……ふん、奴が来たぞ」

 

 岸辺隊長が話を遮り、視線を向けた先。

 待機室のドアが静かに開き、黒いコートを身にまとった紅髪の女性――マキマさんが入ってきた。

 

「おはようございます、シキくん、岸辺隊長。朝から随分と賑やかですね」

「マキマさん!  聞いてください、俺の株が――」

「ええ、知っています。大変な地政学リスクですね」

 

 マキマさんは俺の愚痴を美しい微笑みで受け流すと、手にした茶封筒をテーブルに置いた。

 

「中国国内は香港の返還で沸き立っています。そして次の彼らの目的は、台湾の奪取・返還。そして日本政府に『台湾有事への不介入』を呑ませることです」

 

 マキマさんは淹れたてのコーヒーを俺の前に置き、その同心円の瞳を妖しく細めた。

 

「現在、アメリカは第七艦隊を台湾海峡へ派遣しようとしています。現在横須賀に停留しているソレを、中国はアメリカの同盟国である日本の内側を揺さぶり、足留めを食らわせたい。……シキくん、これが何を意味するか分かりますか?」

「いえ、さっぱり」

 

 俺は出されたコーヒーを一口すすり、苦虫を噛み潰したような顔で言った。

 とても芳醇な含み損の味が濃厚に広がった。

 

「含み損を取り戻したくない?」

「そらあもう一刻も早く」

「なら仕事を与えましょう。簡単な話です」

「ええ……でもまた北海道とかは嫌ですよ」

「大丈夫、今度は寒くない場所です」

「と、言いますと……?」

 

 ——福建省に向かってもらいます。

 

 

■ ■ ■

 

 

 蒸し暑い、とにかく蒸し暑い。

 まとわりつくような湿気と、香辛料と排気ガスが混ざったような独特の匂い。

 俺は今、大陸の南東部——台湾海峡を挟んで台湾の対岸に位置する、福建省の港町にいた。

 

「あっつ……日本の夏よりタチが悪いぞ、これ」

 

 公安の黒いスーツなんてもちろん着ていられないため、安物の半袖シャツで誤魔化しているが、それでも汗が止まらない。

 街中には、あちこちに『統一』や『解放』といったスローガンが書かれた赤い横断幕が掲げられている。

 ピリピリとした熱狂的な空気感だ。

 株価が大暴落するのも、なるほど頷ける。

 俺のポートフォリオは今、荒れ狂っているのだ。

 

「それで、『現地の協力者と接触しろ』だったか」

 

 指定された場所は、路地裏にある大衆食堂——いや、屋台に毛が生えた程度の小汚い飯屋だった。

 看板の文字は読めないが、店先で豪快に湯気を立てている巨大なセイロからは、豚肉と八角の暴力的なまでに美味そうな匂いが漂っている。

 

 店に足を踏み入れると、昼時ということもあり、地元民らしき客でごった返していた。

 飛び交う中国語の怒号に近い注文の声。

 脂ぎったプラスチックのテーブル。

 俺は周囲を見渡し……すぐに『それ』を見つけた。

 周囲の喧騒から、そこだけ完全に切り取られたような異質なテーブルが一つ。

 

 座っているのは、右目に眼帯をした銀髪の女。

 年は俺より少し上くらいに見えるが、纏っている空気が只者ではない。

 

 何より異様なのは、彼女の周りを囲むように座っている四人の風変わりな少女たちだ。

 頭から角が生えているツインテールの女に、顔の右半分が縫い合わされた女、さらには脳みそが剥き出しになっている女までいる。

 どう見ても人間じゃない、魔人のハーレムだ。

 

 そして銀髪の女は、俺が近づいていることにも一切の興味を示さず、無表情のまま、凄まじいスピードで山積みの小籠包と炒飯を胃袋に流し込んでいた。

 

「……相席、いいですか」

「構わん、座れ」

 

 俺が日本語で声をかけると、銀髪の女は箸を止めず、顎で向かいの空席をしゃくった。

 流暢な日本語だった。

 俺は遠慮なく腰を下ろし、店員を呼んで適当に麺料理を頼む。

 

「あなたが『協力者』ですね。ええと、たしか……」

「クァンシだ」

「俺はシキです。日本の公安から来ました。いやぁ、それにしても凄い食いっぷりですね」

「…………」

 

 クァンシは感情の読めない瞳で俺を一瞥した。

 最初のデビルハンター。

 公安の研修資料で見たことがある生きる伝説が、今、俺の目の前で炒飯をかっこんでいる。

 

「で、本題なんですけど。台湾海峡に展開してるアメリカの第七艦隊を足止めするための、中国政府の『工作』って何なんですか? 俺の上司はそれを頼れと」

 

 クァンシは箸を置き、静かにお茶をすすった。

 

「『租唖』が使われる」

「最近ニュースで騒がれてる……あの?」

「ああ、そうだ」

「具体的には、どのように?」

「感染者を送り込んで、内部から潰す」

 

 なるほど。

 どの国も、やり口がエグすぎる。

 まるで中世の攻城戦のようだ。

 

「念の為確認ですけど、クァンシさん。中国側のデビルハンターですよね?」

「そうだが」

「なんで、日本に協力してくれるんですか」

 

 至極真っ当な質問だった。

 メリットがないどころか、反逆的行為である。

 

「私は……情報提供をしただけだ」

「それこそ、一体なぜ」

「……『租唖』は危険だ。政府がコレを乱用すれば、いずれ自国ごと喰い潰される。私はこいつら(魔人たち)と、静かに美味い飯が食えればそれでいい」

「「「「クァンシ様〜!」」」」

「こらこら、お前たち。今はお預けだろう?」

 

 目の前で女性のイチャイチャが繰り広げられる。

 だが俺の息子は一切の反応を見せなかった。

 岸辺隊長からは昔のバディと聞いていたし、それはつまりこのクァンシなる人物は本当は年増なのだ。

 それよりも、株式の含み損の悲しみが強すぎる。

 

「奇遇ですね。俺も、株の配当金で一生働かずして暮らしたいだけなんですよ」

 

 俺が自嘲気味に笑うと、クァンシの口角がほんのわずかに、数ミリだけ上がった気がした。

 目的の規模は違えど、お互いに『国家の理不尽』に振り回されている労働者同士、通じるものがあったのかもしれない。

 

「ふぅ……」

 

 クァンシは最後の小籠包を口に放り込み、満足げに息を吐いた。

 彼女の周囲に控える魔人たちが一斉に残った汁を舐め取ろうとするのを、彼女は軽く手を振って制した。

 

「シキとやら」

「はい。なんでしょう」

「私は、大事なことを言い忘れていた」

 

 周囲を見渡せば、あの食堂の喧騒はどこへやら。

 近くの席も遠くの席の人間も、皆が消えている。

 代わりに店の入り口前では、屈強な体をした一般人に紛れ込んだ様子の男たちが、店内を覗いている。

 つまるところだ。

 

「うちの国は、皆が皆、敵だと考えた方がいい」

「ええ、そうみたいですね」

 

 クァンシは、まるで今日の天気の話でもするように淡々とした口調で続けた。

 

「私が情報を売っていることが政府にバレたようだ。お前には悪いが、店の外は中国公安の精鋭部隊で埋め尽くされている。……さて、どうする?」

「どうするって……まあ」

 

 外の気配を確認するまでもなく、窓ガラスの外側をうろつく影たちが、こちらをロックオンしているのが肌でわかる。

 銃器のセーフティを外す音まで聞こえてきそうだ。

 

「…………」

 

 クァンシはといえば、眼帯の奥の瞳で俺をじっと見つめている。

 助ける気など、毛頭ないらしい。

 

「……あーもう! どうしてこうなっちゃうかな⁉︎」

 

 ——俺は叫びながら、店内のテーブルをひっくり返し、即席のバリケードを作った。

 弾丸が壁を突き抜けてくる。

 木製の壁が粉砕され、木屑が舞った。

 

「クァンシさん! 同じ平穏を求める仲間として、少しくらい助けてくれてもいいんですよ⁉︎」

「私はただ、美味い飯を食いに来ただけだ」

 

 クァンシは無表情のまま、飛んできたライフル弾を素手で叩き落としていた。

 やはりバケモノだ。

 外からの銃撃が激しくなる。

 中国公安の包囲網。

 

「……ッ、狐!」

 

 俺は咄嗟に狐のサインを作る。

 しかし、次の瞬間。

 すぐさま狐の悪魔を呼ぼうと指を構えた——が。

 クァンシが俺の指を握り無理やりサインを解いた。

 彼女は自分の眼帯を外し、その下の闇を見開く。

 

「……シキ、お前に一つ提案だ」

「提案?」

「ここは助けてやる。だから貸し一つだ」

「はい⁉︎」

 

 クァンシの手が、俺の首元に伸びてきた。

 その瞳に映る、底なしの虚無。

 中国公安の銃口が火を噴く。

 俺は、迫りくる鉛玉の中で、マキマのあの不敵な微笑みを思い出した。

 弾丸が俺のシャツの袖を掠める。

 クァンシの指先が首筋に触れた瞬間、意識がホワイトアウトした。

 

「一閃」

 

 ——その刹那、店内を埋め尽くしていた公安の男たちの首が、音もなく空中に舞った。

 俺の意識が完全に途切れる寸前、聞こえたのは店内の喧騒を切り裂くような、クァンシの刀身が鞘から抜ける硬質な音だけだった。

 

 

■ ■ ■

 

 

【ラジオ放送 1997年7月5日】

 

『――続いてのニュースです。台湾海峡周辺で演習を行っていたアメリカ海軍第七艦隊ですが、昨日未明より本国との通信が完全に途絶している問題で、米国防総省は「大規模な通信障害、ならびに未知の奇病の集団感染」が原因であると正式に発表しました。

非公式の情報によりますと、乗組員の多くが突如として母国語を理解できなくなる、いわゆる「失語症」に似た症状を訴え、艦内は一時パニック状態に陥ったとのことです。

これに対し、ホワイトハウスの報道官は「何者かによる意図的な概念兵器の行使である可能性が高い」と強く非難。事態の収拾がつかない場合、大統領権限による『死の傘』の限定的な展開も辞さない構えを見せており、緊張はかつてない水準まで――』

 

 

■ ■ ■

 

 

「……ん、あ……」

 

 目を覚ますと、見覚えのある染みがついた天井。

 俺の家だ。

 東京にある、六畳一間。

 ひどい頭痛と、全身を鉛に変えられたような凄まじい倦怠感が襲ってくる。

 

「おはようございます。シキくん」

 

 声のした方へ首を巡らせると、小さなちゃぶ台の前に正座して、優雅に日本茶をすすっているマキマさんの姿があった。

 今日は黒いスーツではなく、なぜかエプロン姿だ。

 

「……マキマさん。ここは、天国ですか?」

「残念ながら、まだ労働の義務が残る現世ですよ。三日ぶりですね」

 

 三日?

 俺の記憶は、福建省の小汚い大衆食堂でクァンシに首根っこを掴まれたところで途切れている。

 中国公安の銃弾の雨、閃光、そして、気絶。

 

「俺、生きてるんですか……?」

「ええ。相手方があなたを『荷物』として、台湾経由の密輸船に放り込んでくれましてね。到着したあなたを、横浜港で私たちが『回収』しました」

「……なんて雑な扱いだ」

 

 起き上がろうとしたが、全身の筋肉が悲鳴を上げてベッドに倒れ込んだ。

 ただ気絶させられただけじゃない。

 あの魔人ハーレム女、気絶させる時に俺の神経系に何か物理的なバグを仕込んだようだ。

 だが、そんな身体の痛みよりも、俺には確認しなければならない最優先事項があった。

 

「俺の株! 新聞、今日の朝刊はどこですか⁉︎」

 

 這いずるようにしてちゃぶ台に手を伸ばすと、マキマさんはくすりと笑い、きれいに折りたたまれた経済新聞を手渡してくれた。

 

 俺は血走った目で株式欄に噛み付く。

 ——そこには。

 

「……上がってる」

 

 あれだけ崖から飛び降りていた日経平均が、昨日の午後から急激なリバウンドを見せていた。

 特に、防衛関連株や通信インフラ系の銘柄がストップ高を記録している。

 アジア通貨危機の余波で焼け野原になったかと思いきや、見事なV字回復だった。

 

「うおおおぉぉ……! 耐えた! 俺の配当金生活の夢が、首の皮一枚で繋がった……!」

 

 新聞紙を抱きしめ、俺はベッドの上で咽び泣いた。

 命が助かったことよりも、資産が溶けなかったことへの安堵感の方が百倍デカい。

 資本主義社会は最高だ。

 

「喜んでいるところ申し訳ありませんが、シキくん。状況を整理しましょう」

 

 マキマさんが急須から新しいお茶を注ぎながら、氷のように冷たい声を出した。

 俺はスッと真顔になり、新聞紙を畳む。

 そうだ、俺はただ助かったわけじゃない。

 

「あのバケモノ……クァンシさんに、『貸し一つ』とか言われた気がするんですが」

「ええ。それが今回の最も大きな『収穫』です」

「収穫? 俺が中国のトップハンターに借金を作ったことがですか?」

「彼女は中国政府の管理下から外れつつあります。あちらが日本(こちら)側に『貸し』を作ったという事実は、今後の日中関係における強力なジョーカーになり得る。あなたは、素晴らしい外交の架け橋になってくれました」

 

 イマイチ納得がいかない。

 

「……マキマさん。もしかして、俺がクァンシに絡まれて、あわや中国公安に蜂の巣にされかけたのも、全部『予定通り』だったんですか?」

「まさか。私はただ、シキくんに現地の空気を味わってほしかっただけですよ」

 

 嘘だ、絶対嘘つきの言葉だ。

 とはいえ深く追求はしない。

 

「で、アメリカはどうなったんです? さっきラジオで、第七艦隊がどうとか聞こえましたが。俺、米国株も持ってるんですよね」

「中国政府が『租唖の悪魔』の眷属を、台湾海峡の米軍基地周辺に大量投棄しました」

「『租唖』……言語と理解を奪う悪魔でしたっけ」

「ええ。感染すると、まず論理的思考が欠落します。そして言葉を失い、最終的には『上の命令に絶対服従するだけの肉人形』と化す。物理的な殺傷能力は低いですが、軍隊の指揮系統を破壊する概念兵器としては、最高峰の性能を誇ります」

 

 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

 最新鋭の護衛艦・空母も、核弾頭を積んだ潜水艦も、動かしているのは結局『人間』だ。

 艦長からの命令を部下が理解できず、レーダーの文字が記号にしか見えなくなり、無線からは意味不明なうめき声しか聞こえなくなる。

 そんな状態でまともな戦争などできるはずがない。

 

「アメリカは今、自慢の軍事力が『ただの鉄くず』に成り下がる恐怖を味わっています。中国は一発のミサイルも撃たずに、世界最強のアメリカ軍を台湾海峡に釘付けにしたのです」

「……つまり、アメリカの負けですか?」

「いいえ。アメリカには『死』があります」

 

 マキマさんの声のトーンが、一段下がった。

 

「メンツを潰されたアメリカは、報復として中国の沿岸部——香港や福建省あたりに『死の悪魔』の権能をピンポイントで使用する算段を立てています。もしそれが実行されれば、アジアの経済圏は完全に麻痺するでしょうね」

「ええ⁉︎ 冗談じゃない! そんなことされたら、今度こそ俺の株たちが全部紙切れになりますよ!」

「そう。だからこそ、日本の出番です」

 

 マキマさんは立ち上がり、窓際のカーテンを少しだけ開けた。

 夏の強い日差しが、彼女の紅い髪を燃えるように照らし出している。

 

「世界は今、互いの概念兵器を恐れ、身動きが取れなくなっている。アメリカの『死』、ソ連の『飢餓』、ヨーロッパの『戦争』、中国の『租唖』。この四つの均衡を崩さないよう、真ん中で手綱を握る存在が必要なのです」

 

 振り返ったマキマさんの顔には、ぞっとするほど美しい、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。

 

「それが、日本の『支配』」

 

 アメリカでも、ソ連ですらもない。

 この人——いや悪魔は本気で、あのバケモノじみた大国どもを相手取って、自分の手元でコントロールしようとしているのだ。

 

「……で、俺はこれからどうすればいいんですか。また海外に飛ばされて、悪魔の殴られ役ですか?」

「ふふっ。ご安心を、シキくん。しばらくは日本で、ゆっくりと休んでください。あなたにはまだ、働いてもらわなければならない舞台がありますから」

 

 そう言って、マキマさんは俺のベッドの横に腰掛け、頭をよしよしと撫でてきた。

 ひんやりとした彼女の手の感触に、俺の疲労しきった脳髄がじわじわと冷却されていくのがわかる。

 

「ちなみに」

「はい」

「今回の中国出張の特別手当ですが」

「……いくらですか?」

「封筒のおやつ三個分ですね」

「ワンワン!」

 

 返答は、コンマ一秒だった。

 俺は資本主義の犬である前に、マキマさんの犬だ。

 いつか来る平穏な配当金生活のためなら、俺は喜んでしっぽを振ろうじゃないか。

 

 

 

 

■ おまけ ■

 

 

「ふふふ……素晴らしい。実に素晴らしい」

 

 公安からの破格の「特別手当(おやつ三個分)」が振り込まれた翌日の夜。

 俺は自宅の六畳間で、預金通帳と証券口座の画面を交互に見比べながら、ひとり悦に入っていた。

 アジア通貨危機の余波で一時はどうなることかと思ったが、日本の相場は見事に持ち直した。

 暴落の底で拾った優良銘柄たちは、今や俺の資産をぐんぐんと押し上げている。

 このまま堅実に運用を続ければ、二十代のうちに夢のアーリーリタイア、すなわち完全なる配当金生活も決して夢ではない。

 

「よしよし。明日のランチは奮発して、牛丼に卵と豚汁をつけちゃおうかな……」

 

 そんなささやかな贅沢を想像し、にんまりと口角を上げたその時だった。

 

——コン、コン。

 

 俺の部屋の窓ガラスが、外から叩かれた。

 時刻は午後八時。

 ここはマンションの六階である。

 ベランダはない。

 あるのは、手すりすらない垂直の壁だけだ。

 

「……鳥かな? うん、でっかいカラスだ。最近の東京は物騒だからな」

 

 現実逃避をして通帳に目を戻そうとしたが、再び窓が叩かれる。

 今度は少し強めに。ドン、ドン、と。

 恐る恐るカーテンを少しだけ開ける。

 ——そこには。

 

「来たぞ」

 

 夜風に銀髪をなびかせ、マンションの六階の窓枠に片足で立ちながら、右目に眼帯をした女が一人。

「……え?」

「開けろ。窓越しだと話しづらい」

 

 俺は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、慌てて窓を開けた。

 音もなく室内に滑り込んできたのは、ついこの前、中国の福建省で俺を問答無用で気絶させたバケモノ——クァンシだった。

 

「な、なな、なんで日本に⁉︎ というか、なんで俺の家の居場所を⁉︎」

「入国管理局は通っていない。お前の住所は、公安の知り合いから直接聞いた」

「俺のプライバシーはどこ?」

 

 クァンシは部屋に侵入すると、俺の六畳間をぐるりと見渡し、ちゃぶ台の前に胡座をかいて座った。

 相変わらず、一切の感情が読めない。

 

「あの、魔人の皆さんは……?」

「置いてきた。たまには静かに飯が食いたくてな」

 

彼女はため息をつき、こちらの顔を真っ直ぐ見た。

 

「シキ。お前、私に『貸し』が一つあったな」

「……嫌な予感しかしませんね」

「違う。今言っただろう? 静かに飯を、と」

 

 クァンシは真顔で、しかしながら、それはとても静かな水面のような声で言った。

 

「日本の、美味い寿司屋。——今から行こう」

「はい?」

「だから、寿司屋だ。たまには良いと思ってな」

「つまり?」

「寿司屋に連れて行け」

 

 どうやらこの銀髪の伝説は、ただ寿司を食うためだけに、はるばる国境を不法に越えてきたらしい。

 

「ザギンのスーシーだ」

 

 そして一時間後。

 俺たちは銀座のネオン街にいた。

 すぐさま目的地に入店。

 暖簾に毛筆体で『すし 銀波』。

 つまり、超がつくほどの高級店。

 

「二名様ですね、カウンターへどうぞ」

 

 白木のカウンター。

 一切の無駄がない研ぎ澄まされた店内。

 そして何より恐ろしいのは、壁にも手元のメニューにも、『値段』が一切書かれていないことだ。

 

「ははは……クァンシさん。ここ、俺みたいな平の公務員が来る場所じゃないですよ。帰りに臓器でも売らされるんじゃ……」

「安心しろ。金はお前が払う、私の臓器は無事だ」

「俺の臓器の心配をしてるんですよ!」

 

 クァンシは俺のツッコミを華麗にスルーし、大将に向かって軽く手を挙げた。

 

「大将。とりあえず、白身から適当に見繕ってくれ。それと、酒だ。一番辛口の冷酒を頼む」

「かしこまりました。本日は極上のヒラメと、真鯛が入っております」

 

 大将が鮮やかな手つきで寿司を握り始める。

 俺は財布の中身(先日おろしたばかりの現金十万円と、クレジットカード)を触りながら、冷や汗を流していた。

 だが、クァンシは俺の苦悩など知る由もない。

 

「そうだ、シキ。これをやろう」

 

 ふと、クァンシがコートのポケットから小さな包みを取り出し、カウンターの上に置いた。

 赤い布で包まれた、手のひらサイズの何かだ。

 

「なんですか、これ。爆弾じゃないですよね?」

「中国からの土産だ。お前、金が好きだと言っていたからな」

 

 俺が恐る恐る布を開くと、中から出てきたのは、真鍮でできた三本足のヒキガエルの置物だった。

 口には古銭をくわえており、ずっしりとした重みがある。

 

「ヒキガエル……? なんで足が三本しかないんですか。不良品?」

「『金蟾(きんせん)』といって、中国では財運をかき集める神獣として扱われている。三本足なのは、前方と左右からお金をかき集めるためだそうだ。これを部屋に置いておけば、お前のその『配当なんとか』というのも上手くいくんじゃないか」

 

 俺は置物とクァンシを三往復くらい見比べた。

 

「……クァンシさん」

「なんだ。気に入らないなら捨てるが」

「大切にします。毎朝このカエルに向かって二礼二拍手一拝します。ありがとうございます、財神様」

 

 俺は手のひらを返し、金蟾を後生大事にポケットにしまった。

 現金な奴だと思われるかもしれないが、俺はこういう縁起物に弱い。

 特に金運アップのアイテムとあらば、神だろうが悪魔だろうが信じる覚悟がある。

 怪しげな壺だって買ったことがある。

 

「ヒラメの昆布締めと、真鯛です」

 

 美しい皿に盛られた、芸術品のような寿司。

 クァンシは迷いなく箸を伸ばし、醤油をわずかにつけて口に放り込んだ。

 その瞬間、彼女の無表情な顔に、ほんの一瞬だけ花が咲いたような柔らかい色が差した。

 

「……美味い」

「ありがとうございます」

「次だ。光り物を。アジ、コハダ、イワシ。それとマグロの赤身を三貫ずつ」

「三貫ずつ……? お連れ様の分も合わせて六貫ということでしょうか?」

「いや、私の分だ。こいつの分は適当に安い卵でも握ってやってくれ」

「誰が卵オンリーだ! 俺も赤身食いますよ! 大将、マグロのフルセットで頼みます!」

 

 そこからの光景は、もはや恐怖映像だった。

 クァンシの胃袋には、ブラックホールが繋がっているのだろうか。

 光り物を一掃し、赤身を平らげたかと思えば、大トロ、中トロ、ウニ、イクラ、アワビ、クルマエビと、単価の高そうなものを次々とコールしていく。

 

「大将、大トロをあと五貫」

「へいお待ち!」

「ウニを軍艦ではなく、つまみで。山盛りで頼む」

「豪快ですねえお嬢さん! 北海道産の極上バフンウニです!」

 

 クァンシの食べるペースは一切落ちない。

 冷酒も、すでに五本が空になっている。

 俺はといえば、最初に頼んだ赤身と卵焼き、ついでにカッパ巻きをちまちまと囓りながら、頭の中で猛烈な勢いでソロバンを弾いていた。

 

 ざっと見積もって、現在八万円。

 いや、この立地と大将の自信満々な顔を考慮すれば、十万円を超えている可能性すらある。

 

「……ふぅ。そろそろシメにするか」

 

 クァンシが最後のお茶をすすりながら、ようやく満足げな息を吐いた。

 目の前には、高く積まれた木皿と、空の徳利。

 大将は「いやあ、ここまで気持ちよく食べていただけるお客様は久々です!」と満面の笑みだ。

 

「よし、満足した。帰るとするぞ、シキ」

「で、では……お会計をお願いします……」

 

 俺は震える声で告げた。

 大将が和紙に書かれた伝票をスッと差し出す。

 

「明細は裏に。誠にありがとうございました」

 

 裏をめくる。

 そこに書かれていた数字は。

 

 ——『¥285,000』

 

「にじゅう……はちまん……」

 

 俺の魂が、口から半分抜け出た。

 ボーナスが……俺の大切な、血と汗と涙の結晶である種銭が……。

 クァンシはといえば、「美味かったな」とつまようじをくわえながら、完全に他人事である。

 

「……カード、一括で……」

 

 涙目でプラチナでもゴールドでもない普通のクレジットカードを取り出そうとした、その時だった。

「ガラッ」と、店の引き戸が開く音がした。

 

「大将。まだやってるか」

 

 ドスの効いた、どこか気怠げな声。

 その声の主がのれんをくぐって店に入ってきた瞬間、俺は心臓が止まるかと思った。

よれよれのトレンチコートに、無精髭。

 手にはスキットル。

 俺の上司であり、最強のデビルハンター。

 

「……岸辺隊長⁉︎」

「ここにいたか」

 

 岸辺は俺の右隣の空席にドカッと腰を下ろすと、大将に向かって指を一本立てた。

 

「刺身の盛り合わせを見繕ってくれ。それと、熱燗を三本だ」

「へい、毎度ありがとうございます!」

 

 常連かよ。

 いや、それよりも問題はそこじゃない。

 なぜここにいるのだ。

 

「隊長、どうしてここに……」

「公安の犬が、どこで何に金を使っているかくらい、匂いでわかる」

 

 嘘だ。絶対にさっきから店の外で張り込んでいたに違いない。

 岸辺は俺の左隣に座るクァンシを一瞥した。

 

「……相変わらず、食い意地が張ってるな」

「お前も、相変わらず酒臭い男だな」

 

 かつてバディを組んでいたという二人の間に、静かで、しかし確かな信頼のようなものが漂う。

 絵になる光景だ。

 まるでどこかの映画のワンシーンのようだ。

 

 ——俺のクレジットカードの伝票さえなければ。

 

「お前たち、まだいるのか?」

 

岸辺が熱燗をちびりとやりながら、俺の方を見た。

 

「いや、俺たちはちょうどお会計をして、帰るところでして……」

「そうか」

 

 岸辺はふっと息を吐くと大将に向かって言った。

 

「大将。俺の分も、そいつの伝票につけてくれ」

「はい⁉︎」

「部下が奢ってくれるそうだ」

「いや、無理ですよ! すでに二十八万——」

「追加で、アワビの酒蒸しと、大トロの炙りだ。遠慮はいらんぞ、シキ」

「かしこまりましたァ!」

 

大将の威勢のいい声が、銀座の夜に響き渡る。

 

「……ッ、悪魔! ここに悪魔がいます! タカリの悪魔がぁぁッ!」

 

 俺の悲痛な叫びは、クァンシが追加で頼んだ伊勢海老の味噌汁をすする音にかき消された。

 

 ポケットの中の『金蟾(三本足のカエル)』を強く握りしめる。

 ……財運の神獣よ。

 どうか来週の株式相場が、ストップ高の連続になりますように。

 

 俺は心の中で涙を流しながら、悪魔よりも恐ろしい『一括払い』のサインを、震える手でペンを走らせたのだった——。




マクロな多極冷戦構造を書きたいはずが、ミクロな視点での物語になってしまう
それはともかく、クァンシは魅力的なキャラクターだなあと
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