1945年、連合国の勝利で戦争は終結した。
ようやく訪れた平和に皆が一息をついた、その束の間の瞬間であった……しかし。
——銃の悪魔、顕現。
【世界推定犠牲者:一億人】
突如として世界に現れたそれは、全世界の総人口の約三十分の一を、わずか七日間で殺戮し尽くした。
連合国、枢軸国、コミンテルン、中華統一戦線……先の大戦における全戦没者は約六千万人。
それに匹敵する数の尊い生命が、たった一週間で地上から消滅したのである。
この世界に、チェンソーマンはいない。
■ ■ ■
公安にデビルハンターとして就職したのは、半ば強制のようなものだった。
幼少期からの俺の特技が悪魔をぶっ殺すこと。
だから高校卒業後の進路はすでに決めてあった。
本当なら民間で依頼を請け負って個人事業主として、ぬくぬく働く予定……だったが。
「シキくん。『命令』です、私の犬になりなさい」
この目の前にいる上司に、捕まってしまったのだ。
紅髪に、黄色の多重同心円の瞳。
俺は彼女に、スカウト(国家権力)されたのだ。
「よろしい。では右手を出してください」
そらぁ最初は抵抗した。
だってあの殉職率ナンバーワンの公安だ。
死にたくないよ、俺。
民間なら自分で仕事(悪魔)を選べるからいい。
でも公安は基本、上から仕事が与えられる。
こんなの自由じゃない。
俺がやりたいのは、楽な金稼ぎだ。
「はい。なら次に左手を出してください」
企業の株を買って、配当金で食っていく。
それが目標のはずが、俺は今なぜか公安にいる。
何度も言うが、スカウト(国家権力)だ。
しつこい勧誘に嫌気がさして、ネカフェに逃亡。
転々とあちらこちらに山手線一周。
「よし。お手もおかわりも覚えて、いい子だね」
でも逆に教えて欲しい。
どうやったら俺は逃げ切れたと思う?
いいや、無理だね。
新幹線に乗って京都まで向かってみたら分かる。
隣の席にえらく美人なお姉さんがいるのさ。
黒服姿で、まさに公安のデビルハンター! って。
「それでは、おやつをあげましょう」
そして茶封筒をふと渡されるんだよ。
ニコニコとても人の良い笑みで。
怪しげにソレを開いてみると……もうなんと!
それはそれは美味しい『おやつ』が入ってる。
俺の心は奪われた! 金と女に目が眩んだ!
「はい。今回のコウモリの悪魔の討伐報酬です」
つまるところだ、俺は負けたんだよ。
プライドなんてものは、黄金を前にカスだ。
まあなんていうの? 福利厚生?
公安って一応、公務員だから充実してるらしいし。
それに偉く魅惑的な女上司ってのも悪くない。
少し、ほんのさきっちょだけなら働いてみるか。
それが全ての始まりだった——。
「あの、マキマさん……?」
「どうしましたか。シキくん」
こくりと首を傾げる姿はどこか妖艶だ。
いやいや、そうじゃない。
「ここ、俺の家なんですけど」
「はい。それが何か?」
「今、深夜の二時なんですけど」
「ええ、そうですよ」
「なんで、俺のパジャマ普通に着てるんですか?」
「…………?」
ちくしょう! めっちゃカワイイじゃねえか⁉︎
■ ■ ■
皆も知っての通り。
日本は、アメリカの『死』の傘に守られている。
死は圧倒的である。
既存の兵器でこれに肩を並べられるのは、核兵器くらしかないだろう。
それでも、死は圧倒的である。
アメリカの大統領が契約する『死の悪魔』は、寿命など対価さえ払えば他国を文字通りゼロにできる。
あまりにも強すぎる。
人類には、大それた手に余る力なのだ。
米国の保有する『死の悪魔』。
ソ連の保有する『飢餓の悪魔』。
EUの保有する『戦争の悪魔』。
日本の保有する『支配の悪魔』。
世界の情勢についてのおさらいはこんなものだ。
もしここに、付け加えるならば……。
中国の保有する『租唖の悪魔』くらいだろう。
おいおい話す機会があるかもしれない。
「……それで? こんな夜更けに平のデビルハンターの六畳間に何の用ですか? 」
俺は半ばヤケクソ気味に尋ねた。
ベッドの縁に腰掛けるマキマさんの姿。
それは、俺のダサいスウェットを着ているというのに、不気味なほど妖艶だった。
「明日の朝から出張に行ってもらいます」
「出張?」
「はい。行き先は、北海道です」
北海道——日本の北端。
つまり、今なお社会主義の帝国として君臨するソ連と、海を隔てて向かい合う最前線である 。
「ソ連は現在、経済制裁や天然ガスなどの資源供給停止として運用し、『飢餓』の力をじわじわと増しています 。知っていますね? 」
「ニュースでやってますよ。ソ連がバルブを締めれば、EU圏内は一瞬で飢餓状態に陥って暴動が起きるから、人質を取られているEUは生ぬるい経済制裁しかできてないって 」
EUは戦争への恐怖を煽り、加盟国の領土やインフラすらも概念兵器化できる総力戦の怪物だが、基礎エネルギーを握られている以上は身動きが取れない。
マキマさんは淡々と、まるで明日の天気を語るように恐ろしい世界情勢を口にする。
「ソ連は最近、西側への離反を企てた東欧の国へと電撃侵攻を行いました 」
「ああ、アレですか」
「飢餓の悪魔による人為的な大量飢餓……史実のホロドモールの焼き直しです 」
俺は背筋が寒くなるのを感じた。
遠い異国の話とはいえ、規模がデカすぎる。
「それで、俺に北海道でどうしろと?」
「話が早くて助かります」
「まだ何も本筋を聞いてないんですがね」
「決定事項ですから」
マキマさんは、一冊の茶封筒を手渡してきた。
おやつではなく、忌まわしき仕事の資料だ。
「……げえっ」
「目を通してください」
封筒から出てきたのは、数枚の不鮮明な写真。
そこに写っていたのは、痩せ細った人間の集団だ。
いや、もはや人間と呼んでいいのかも怪しい。
肋骨が浮き出るほど極限まで痩せこけているのに、その目は異様に血走り、まるで獲物を狙う獣のようにギラついていた。
「……これ。ゾンビ映画のオーディションすか?」
「いいえ。数日前、稚内の沖合で回収されたソ連からの密航船に乗っていた者たちです」
「ただの不法入国者じゃないですよね、これ」
「ええ。『飢餓の悪魔』の眷属です。おそらく、先ほどの東欧侵攻で国ごと喰い潰され、ソ連の完全な駒に塗り替えられた哀れな人々でしょう」
「うわぁ……」
飢餓の悪魔の能力。
飢えた者を自分の駒にする。
「目的は?」
「日本の防衛網に対する様子見か、あるいは我が国へのささやかな嫌がらせか。いずれにせよ、彼らがすでに数名、北海道の街中に潜伏しているのは事実です」
マキマさんは俺のパジャマの袖を少し捲りながら、淡々と続ける。
「日本は表向き、米国の『死』の傘に入りつつも、ソ連に対しては遺憾の意を示すだけの中立的な態度をとっています。とはいえ相手は、あのソ連です」
「なるほど。まあ結局、殺せばいいんですよね?」
「はい。彼らの迅速な『処理』をお願いします」
俺はため息をつき、写真を封筒へ押し込んだ。
やっぱり公務員(公安)なんてクソだ。
面倒事しか回ってこない。
「……で。俺一人ですか?」
「いえ、今回は岸辺隊長も同行します」
「あー。アル中おじさん……」
「非常に心強い戦力でしょう」
「まあ、それは否定できないですけど」
「何か問題でも?」
「いや、どうせなら可愛い子が良かったなって」
「…………」
すると、マキマさんは押し黙った。
途端、六畳間の空気がピンと張り詰めた。
まるで深海に放り込まれたかのような重圧。
「えっ……あの、マキマさん?」
彼女のぐるぐるとした黄金の瞳。
それが、こちらを真っ直ぐに見つめている。
無表情のまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。
ふわりと、シャンプーの良い香りが鼻を掠める。
「シキくん」
声は、甘く優しい。
けれど、ひどく恐ろしい響き。
過ちを犯してはならない。
目の前の女性に対しては、特に。
「……あっ、うん! そうだ! マキマさんが一番可愛いです! カワイイ! そう、世界一‼︎」
俺が食い気味にそう叫ぶと、ふっと部屋の重圧が嘘のように消え去った。
マキマさんは満足そうに目を細め、俺の頭をよしよしと愛玩動物に対するように撫でてくる。
「よくできました。浮気性の犬にはお仕置きが必要かと思いましたが……素直な子は嫌いじゃありません」
彼女はふふっ、と艶やかに微笑んで、俺のベッドにごろんと横になった。
そして自分の隣をポンポンと叩く。
「じゃあ、一緒に寝よっか。……返事は?」
「ワン!」
■ ■ ■
羽田空港から稚内空港まで空路で約二時間。
日本のほぼ最北端の街に俺は降り立っていた。
目的は、北海道に潜入しているソ連のスパイ……飢餓の悪魔の眷属にされた人々の処理及び捕獲である。
「さみぃ、さみぃ」
それにしてもここは特に寒い。
樺太西側から日本海に向かって流れる冷たい潮水であるリマン海流の影響がどうも強いらしい。
東京でぬくぬく生活している者としては、ここで生活している人たちはもはや仙人のように感じる。
ともかく、とっとと仕事を終わらせて帰ろう。
俺はそっと横をみて、黒服の似合うスキットルからウィスキーを絶賛流し込んでいる男に声をかける。
「岸辺隊長」
「ん、なんだ」
「仕事前ですよ」
「知っている」
ぐびぐびとアルコールを摂取している岸辺は、仕事前だというのにさも当然といったような反応だ。
頭のネジをゆるめるとか何とか理由はあるらしいが、俺にとっては飛行機内で隣の席でめっちゃ酒臭かったので困りものである。
しかし仕事の遂行能力については折り紙つきなので、それに対して文句を言う人はほぼいない。
俺をのぞいて。
「ストレートで飲むほど美味いんですかそれは」
「うまい」
「そんなに酔いたいならウォツカでも飲んでは?」
「まずい」
「度数高ければ高いほど隊長強くなるんでしょ?」
「それなりに」
「なら——」
「おいシキ、お前はわかっていない」
スキットルの中の液体を空にして、ひっくり返した状態でチタン製の瓶を地面に振っている岸辺。
彼が、俺をすっと見据えると指をさした。
「買ってこい」
「はい?」
「肝臓を温める」
「え?」
「酒屋に行ってこい」
「俺がですか」
「そうだ、お前だ」
先には商店街があり、中には酒屋もあるだろう。
岸辺の唐突な指示に俺は渋い顔をしてみせる。
「俺、まだ十八なんですけど」
「もう大人だ」
「ハタチにならないと酒買えませんよね?」
「バレなければいい」
「その間、岸辺隊長は一体何を?」
「一服して待っている」
この人は一体どうしてこんなにも人使いが荒いのだろうか、まさか脳がアルコールで溶けてしまったのではなかろうか。
とはいえ一応上司だ。
それに強い。
命令には大人しく従っておくのが吉だろう。
「……はあ。本当に俺に任せてもよくて?」
「ああ、高いのを買ってこい」
「日本酒でいいですか?」
「瓶が汚れるからダメだ。ウィスキーにしろ」
「甘口、辛口?」
「あまからくち」
そしてぽいっと財布を渡された俺は、スタスタと琥珀色の液体を求めて商店街の中へと消えていった。
……醤油を希釈したものでも買ってやるか?
なーんてことを考えたり考えなかったり。
■ ■ ■
凍てつくような海風に首をすくめながら、俺はシャッターの閉まった店が目立つ、寂れた商店街を歩いていた。
時刻は午後三時を回ったところだが、空はすでにどんよりと鉛色に濁り日暮れのように薄暗い。
歩行者の姿はまばらで、すれ違う地元民らしき老人たちは皆、分厚い防寒着に身を包んで足早に通り過ぎていく。
ただでさえ活気があるとは言い難い北の果ての街だが、それにしても異様に静かだった。
まるで、街全体が息を潜めているような静寂。
「……おっ、あったあった」
古びたアーケードの切れ目に、『佐々木酒店』と書かれた色褪せた看板を見つけた。
自動ドアではなく、手動のガラス引き戸。
ガラガラと音を立てて中に入ると、暖房の効いた空気がじんわりと顔を撫でた。
「すんませーん。高いウィスキーありますかー」
声をかけてみるが、返事はない。
店内は薄暗く、蛍光灯が数本チカチカと点滅しているだけだった。
棚には日本酒の瓶や缶詰、スナック菓子などが所狭しと並べられている。
田舎特有の、ちょっとした日用品も置いているタイプの酒屋だ。
奥のレジカウンターには誰もいない。
トイレにでも行っているのだろうか。
「勝手に探すか」
俺はウィスキーのコーナーへと歩を進めた。
岸辺隊長のオーダーは『あまからくち』だ。
ふざけているのか真面目なのか分からないが、とりあえず高級で度数がバカみたいに高いやつを買っておけばあのアル中おじさんは文句を言わないだろう。
棚を物色していると、店の奥——バックヤードの扉の向こうから、奇妙な音が聞こえてきた。
——バリッ。……ボリッ。クチャ……。
何かを咀嚼する音だ。
それも、ポテトチップスやせんべいのような軽快な音ではない。
もっと硬くて、水分のない、得体の知れない何かを無理やり噛み砕いているような音。
と同時に、ひどい悪臭が鼻を突いた。
腐敗臭ではない……酸だ。
胃液が込み上げるような、強烈な胃酸の匂い。
「……店長さん?」
俺はコートのポケットの中で拳を握りしめながらバックヤードの扉をそっと押し開けた。
薄暗い倉庫の中。
段ボールが散乱するコンクリートの床に、一人の男がうずくまっていた。
年齢は五十代くらいだろうか。
しかし、その姿は異様だった。
写真で見たあの『密航者』たちと全く同じだ。
頬はドクロのようにこけ、パジャマの下から覗く手足は枯れ木のように細い。
極度の栄養失調。
しかし、ぽっこりと膨らんだ腹部だけが異常に張っている。
男は、床に散らばったドッグフードの袋に顔を突っ込んでいた。
いや、違う。
ドッグフードの中身を食べているんじゃない。
男は、中身の入った『ビニール袋ごと』、血だらけの歯で噛みちぎって嚥下しているのだ。
「あ……が……ッ、たり、ない……」
男が振り返った。
血走った両目が、俺をギョロリと捉える。
ショーケースには売るほどの食べ物があるというのに、狂ったように異物を胃に詰め込んでいる異常性。
どうにもこうにも、『飢餓』のようだ。
物理的な食糧の有無は関係ない。
その権能に侵されてしまえば、脳の『満腹中枢』の概念そのものが破壊され、永遠に満たされない飢えに苦しみ続ける。
そして最後には、飢餓の悪魔の従順な駒へと成り下がるらしい。
マキマさんが前に言っていたことそのものだ。
「肉……新鮮な、肉ゥ……ッ!」
男——いや、元店長だった化け物が、四つん這いのままゴキブリのような凄まじい速度で俺に向かって跳躍してくる。
開かれた口からは、ビニール片と混ざったどす黒い胃液が垂れている。
「……他人のメシ時に邪魔した俺が悪かったよ」
俺はポケットから右手を引き抜き、飛んできた化け物の顔面に、容赦のないストレートを真っ直ぐに叩き込んだ。
——ベキッ⁉︎
硬い骨が砕ける感触。
俺の拳をまともに食らった化け物は、凄まじい勢いで吹っ飛び、積まれていたビール瓶のケースに激突して派手な音を立てて崩れ落ちた。
「痛ぇな、くそっ……」
自分の拳を軽く振りながら悪態をついた。
俺には特技がある。
それは悪魔をぶっ殺すことだ。
人間じゃないなら、躊躇はない。
補足すると俺は『狐の悪魔』と契約している。
狐の悪魔は優秀だ。
対価さえ払えば、その巨大な顎や爪で大抵の悪魔を瞬殺してくれる。
だが、俺は基本、肉弾戦を好む。
理由は単純で、純粋に殴る方が『代償』がなくて圧倒的にコスパがいいからだ。
悪魔の力を使えば、髪の毛やら皮膚やら、寿命やらを持っていかれる。
俺がやりたいのは楽な金稼ぎであって、身を削って正義のヒーローごっこをすることじゃない。
配当金生活という輝かしいゴールを迎える前に、体がハゲ散らかしてボロボロなんてご免だ。
だから、自分の拳で片付く程度のザコなら、わざわざ狐の手を煩わせる必要はない。
「ギギ……アガ……ッ」
瓦礫の中から、顎が完全にひしゃげた化け物が再び立ち上がってきた。
痛覚すらも『飢え』にかき消されているらしい。厄介極まりない。
さらに最悪なことに、騒ぎを聞きつけたのか、店の奥の居間からさらに三体の『飢餓の眷属』が這い出てきた。
エプロン姿の女に、まだ学生服を着た若い男。おそらく、この店長の家族だろう。
彼らもまた、ソ連が放った『飢餓』の概念兵器にすでに感染し、喰い潰されていたのだ。
密航者だけじゃない。
すでに日本の民間人まで被害が出ている。
マキマさんがわざわざ北海道まで俺たちを差し向けた理由が、ようやく腑に落ちた。
これはただの不法入国者の処理じゃない。
ソ連による、日本への『見えない侵略』だ。
「うーむ。面倒くさい」
俺は近くの棚から、手頃なウイスキーの瓶(一番安いやつ)を一本掴み取った。
「肉……! クウ……‼︎」
「喰うなら自分の舌でも噛みちぎってろ」
一番手前に飛び込んできた学生服の眷属の頭に、ウイスキーの瓶を思い切りフルスイングで叩きつける。
ガシャン! という派手な破砕音とともに、ガラス片と安酒のアルコール臭が弾け飛んだ。
怯んだ隙を見逃さず、俺はその胸ぐらを掴んで引き寄せ、顔面に渾身の膝蹴りを叩き込む。
脳震盪を起こして白目を剥いたそいつを盾にして、エプロン姿の女の引っ掻き攻撃をガード。
そのまま女の顎を掌底でカチ上げ、脳を揺らして気絶させた。
残るは、最初に殴り飛ばした元店長だけだ。
「ハァ……ハァ……ッ!」
「おらよ」
飛びかかってきた元店長の顔面にもう一発、今度は左のフックを綺麗にクリーンヒットさせる。
首が不自然な方向に曲がり、ついに三体の眷属たちはピクピクと痙攣しながら床に沈んだ。
「ふぅ……異常なし」
息を一つ吐き出し、拳についた血を公安の黒い制服の袖で雑に拭き取る。
改めて店内を見渡すと、見事にめちゃくちゃになっていた。
倒れた棚、割れた瓶、散乱したスナック菓子。
「っと、そうだ。おつかいの途中だった」
俺は割れずに無事だった棚の中から、鍵のかかったガラスケースの中にある一番高そうな木箱入りのスコッチ・ウイスキーを見つけ出した。
ガラスケースをカチ割って、それを取り出す。
ラベルにはウン万円と書かれている。
俺の金じゃないから別にいいだろう。
俺は岸辺から渡された財布を開き、中に入っていた一万円札を数枚、無人となったレジの上に綺麗に並べて置いた。
強盗じゃあるまいし、代金はきっちり払う。
それが民間の(予定だった)俺なりの流儀だ。
■ ■ ■
「おそい」
商店街の入り口に戻ると、岸辺隊長は雪がチラつく中、ベンチに腰掛けてていた。
「すいません。その、少し買い物の途中で野良犬に絡まれまして」
俺は木箱入りの高級スコッチをポンと投げ渡した。
岸辺はそれを受け取ると、無表情ながらも満足気に口角を少しだけ上げる。
「野良犬?」
「ええ。酷く腹をすかせた、狂犬病の野良犬が三匹ほど」
「……そうか」
岸辺は短く答え、スコッチの木箱を開けてさっそく封を切った。
そして、コップも使わずにそのままラッパ飲みで琥珀色の液体を喉に流し込む。
「……で、味はどうだった?」
酒の味を聞いているわけじゃない。
俺が処理した『飢餓の眷属』の強さについて聞いているのだ。
「ただのザコですよ。全部、俺の拳骨だけで片付きました。狐を使うまでもなかったです」
「そうか。お前のケチな戦い方は嫌いじゃない」
岸辺は立ち上がり、雪を払った。
その切れ長の目が、俺の背後——商店街の奥へと向けられる。
「だが、どうやら野良犬の『飼い主』は、少しばかり骨が折れそうだな」
岸辺の視線を追って振り返る。
いつの間にか、俺がさっき歩いてきた商店街の道のど真ん中に、巨大な影が立っていた。
人間の形はしていない。
それは、膨れ上がった無数の胃袋と、無数の痩せ細った手足が絡み合って構成された、巨大で醜悪な肉の塊だった。
周囲の雪が、その熱気と胃酸の匂いでジュージューと音を立てて溶けている。
「うおぉ……」
俺は思わず顔をしかめた。
「前言撤回します隊長。こりゃあ、俺の拳じゃ割に合わない」
「だろうな」
「特別手当、出ますよね?」
「マキマに請求しろ。俺は知らん」
岸辺はウィスキーの瓶をコートの内ポケットにしまうと、無造作にナイフを引き抜いた。
どうやら、ここからが『仕事』の始まりらしい。
まったく、とんだ北海道出張だ。
俺は小さくため息をつき、右手を顔の前に掲げた。
そして、中指と薬指を親指で押さえ、人差し指と小指を立てる——狐の形を作る。
「——『コン』」
■ ■ ■
北海道でのおつかいから数日。
東京・霞が関の公安対魔特異課本部。
「——お疲れ様でした、シキくん。右腕の具合はどうですか?」
ふかふかの革張りソファに深く腰掛けたマキマさんが、淹れたてのコーヒーをテーブルに置きながら微笑みかけてきた。
俺は出されたものには手をつけず、ため息をつく。
「最悪ですよ。労災降りますよね、これ」
「ええ、もちろん。治療費と特別手当はすでにあなたの口座に振り込んでおきました」
「……いくらですか?」
「およそ、民間デビルハンターの年収の三年分といったところでしょうか」
俺は一瞬、痛む右腕をさすりながら真顔になった。
三年分、配当金生活の種銭としては破格すぎる。
やっぱり公安(公務員)って最高かもしれない。
「で、マキマさん。金払いが良すぎるってことは、それだけ裏があるってことですよね」
ソファに身を沈めながら、単刀直入に切り出した。
「あの肉塊……ただの密航者やその辺の野良悪魔じゃないですよね。明らかに『兵器』として調整されてましたよ」
「気づきましたか」
「そりゃあね。岸辺隊長なんて、最初からアレが出てくるのを待ってたフシがありましたし。俺たち、最初からアレを処理するために行かされたんですよね?」
マキマさんはコーヒーカップを優雅に口に運び、静かに頷いた。
「事の顛末を説明しましょう。あれは、ソ連が意図的に放った『観測気球』です」
「……つまり、日本の防衛網に対するテストですか」
「その通りです。近年、ソ連の『飢餓』は物理的な国境を越え、概念的アプローチで他国を侵食する実験を繰り返しています。飢餓の概念を応用した自律型概念兵器。彼らはそれを密航船に偽装し、日本の最北端に漂着させました」
なるほど、と俺は納得した。
現代の戦争は、もはや銃やミサイルを撃ち合うだけじゃない。
正規軍のマークを外した所属不明の部隊や、今回のような『ただの悪魔の暴走』を装った概念的テロリズム、それらが用いられている。
「ソ連側の言い分としては、『我が国の国民が勝手に悪魔化してそちらに流れ着いただけだ。遺憾である』といったところでしょう。もしアレに対して、日本が自衛隊などの正規軍を動かしていればどうなっていたと思いますか?」
「……軍隊を動かせば、それは『有事』と見なされる。最悪の場合、国連の『敵国条項』を発動する口実を与えかねない、とか?」
「正解です」
マキマさんの同心円状の瞳が面白そうに細められた。
「厄介なものです。アメリカの『死』の傘は絶対的な抑止力ですが、ソ連の狙いは、日本の過剰防衛を誘発し、同盟国との間に摩擦を生むことでした」
「はあ……なんとも大きな話で」
「警察組織である我々『公安』が、ほんの数名で、しかも内密に処理した。これが国際社会において何を意味するか分かりますか、シキくん」
「……ただの『ローカル・トラブル』として処理したってことですか」
「正解です。ソ連が手塩にかけて作り上げた最新鋭の概念兵器を、日本は軍隊すら出さず、一介の警察官の『狐の悪魔』程度で払い除けた。これはソ連に対する強烈な牽制になります。同時に、彼らが秘密裏に放った兵器の残骸は、『予定通り』こちらで回収し、研究素材として美味しく頂かせてもらいました」
そこまで聞いて、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
つまり、こういうことだ。
マキマさんは、ソ連の概念兵器が北海道に上陸したことを、最初から『知っていた』。
知っていて、あえて軍隊も大規模な部隊も動かさず、岸辺隊長と平のデビルハンターである俺のたった二人だけを派遣したのである。
恐ろしい女……。
俺が酒屋で狂った飢餓と殴り合い、痛覚と引き換えに狐を呼び出している裏で、この人は国境を跨いだマクロな盤上のチェスをノーリスクで打っていたのだ。
「俺たちは、マキマさんの見事な外交カードにされたってわけですね」
「ちゃんと報酬は弾んだでしょう?」
「否定はしないんですね」
「……解釈は任せます」
「まあ、三年分も貰えれば文句は言えませんけど」
俺が肩をすくめると、マキマさんはふふっと声を漏らして笑った。
窓の外に広がる東京のコンクリートジャングルを見下ろしながら、彼女は続ける。
「世界は今、絶妙なバランスの上に成り立っています。アメリカの『死』、ソ連の『飢餓』、EUの『戦争』、中国の『租唖』、そして……日本の『支配』」
マキマさんの視線が、窓の外から真っ直ぐに俺へと戻ってきた。
「そんな化け物じみた大国に囲まれて、日本が独立を保つためには、どうしても『手駒』が必要です。強くて、便利で、言うことをよく聞く……優秀な犬が」
国家間のパワーゲームなんて、俺みたいな小市民には規模がデカすぎて現実味が湧かない。
だが、今この目の前にいる女性が、アメリカ大統領やソ連の書記長と対等に渡り合う日本の最高戦力なのだという事実だけは、嫌というほど理解できた。
「俺、よく食べるし、散歩もサボるダメ犬ですよ」
「躾け甲斐があるというものです。それに——」
マキマさんは席を立ち、俺の背後に回った。
そして包帯の巻かれた俺の右腕に両手を這わせる。
彼女の冷たい指先が触れた瞬間、ズキズキと脈打っていた患部の痛みが嘘のようにスッと引いていった。
「——飼い犬は、愛でて育てるものでしょう?」
耳元で甘く囁かれる。
柑橘のシャンプーの匂いが香る。
ああ、ちくしょう。
やっぱり俺の平穏な配当金生活は、まだまだ遠い未来の話になりそうだ。
「……ワン」
俺は小さく鳴いて、明日へと立ち上がった——。
○○○○米ソ欧日の四騎士が世界を弄び
○○米国は死をソ連は飢餓を武器として振る
○欧州の戦争と日本の支配が均衡を保ちて尚も
概念兵器が国境を溶かし冷戦の暗闇が深まりゆく
1997年終わらぬ悪魔の宴が、今日も響き渡る
平和はまやかし誰かの犠牲上に築かれた檻である
○飢餓と戦争の影に怯え死の傘下で息を殺して
○○支配の手綱が世界を静かに包み込みいく
○○○○人類の長い永い歴史の一頁の中
書こうと思えば(王者の風格)