【緊急特別 1997年8月15日 国際ニュースより抜粋】
『――繰り返しお伝えします。
日本時間未明、アメリカ合衆国主導の多国籍軍は、中東の反米国家に対する大規模な巡航ミサイル攻撃および空爆作戦を開始しました。
ホワイトハウスの声明によりますと、同国が大量破壊兵器である『銃の悪魔の巨大な肉片』を極秘裏に秘匿し、テロ支援や非公然の軍事利用を企てていた確たる証拠を得たとのことです。
この『大義名分』のもと行われた電撃的な先制攻撃により、標的とされた首都の軍事施設は壊滅。
同国の最高指導者が死亡したと発表がされました。
この事態を受け、国際原油市場では中東からの供給不安が爆発し、原油先物価格は一気に跳ね上がり、歴史的な高値を記録しています。
同時に、ペルシャ湾周辺の航行リスクが最高レベルに引き上げられ、世界の物流網への大打撃が懸念されており――』
デビルハンター東京本部。
石造りの重厚な建物の一室にて。
「ふざけるな! ふざけるなァァァッ‼︎ 俺の前回買ったばかりの海運株がァァ⁉︎」
俺はブラウン管テレビの画面に映るアナウンサーからの情報を前に、頭を抱えて絶叫していた。
「ああっ……沈む! 俺の船が沈んでいく! オイルショックとか聞いてねえよぉおん‼︎」
タンカーが中東の海を通れなくなった。
おまけに原油価格の爆上がりで燃料費が高騰。
まさに地獄のダブルパンチである。
「朝から騒々しいな。酒が不味くなる」
部屋の隅のソファ。
いつものように、朝の九時からスキットルを傾けている岸辺隊長が、呆れたようにため息をついた。
「隊長! 聞いてくださいよ! アメリカの野郎、なんでいきなり中東を爆撃なんかしてるんですか! 今日は終戦記念日ですよ⁉︎ あの国は狂っている‼︎」
「知ったことか。安酒でも飲んで忘れておけ」
岸辺隊長が放り投げてきた安物のウィスキーをキャッチし損ねて、床に転がす。
もうダメだ……配当金生活の夢が、中東の砂漠の砂と共に消えていく。
膝から崩れ落ち、世界の理不尽を呪っていると、背後のドアが静かに開いた。
「おはようございます、シキくん。今日も相場に一喜一憂して、大変そうですね」
もはや何も言うまい——マキマさんだ。
手には、分厚い茶封筒が握られている。
これはアレだ、嫌な予感しかしない。
「……おはようございます、マキマさん。あっ、その茶封筒を結構ですので、お帰りください」
「おや、つれないですね。中東情勢の解説資料ですよ。シキくんも気になっているでしょう?」
「解説ならもうニュースで見ました。銃の悪魔の肉片がどうとかで、アメリカが暴走したんですよね?」
「はい、大枠はその通りです」
「ガッツのない大統領と話を伺っていたのですが」
「他国に爆弾を落とせるガッツのある人間のみが合衆国大統領になれるのです。気のせいでしょう」
「シーさんのアレは幻だったか……」
マキマさんは淹れたてのコーヒーをテーブルに置き、優雅に足を組んでソファに腰を下ろした。
「それにしても中東との戦争か……」
「表向きは、ですね」
「では裏向きの理由があると?」
「事の本質は『代理戦争』です」
「代理戦争……ああ、なるほど」
そう言われて、俺の中で一つ線が結ばれる。
中東のあの国は、ソ連と仲が良かったんだ。
そして多国籍軍と銘打った米国チーム。
「その通りです。ソ連は、ヨーロッパへの天然ガス供給を人質にしてEUを締め上げています。これに対抗するため、アメリカは中東の石油利権を武力で制圧し、ヨーロッパへの新しいエネルギー供給ラインを構築しようとしているのです」
マキマさんの同心円の瞳が、愉快に細められた。
「つまり。中東を舞台にして、欧米諸国と、ソ連が、間接的に殴り合いを始めたというわけです」
「……わぁ。文字通りガソリンに火がついたわけだ」
俺はため息をついた。
大国どもの概念兵器の殴り合いのせいで、一般市民(俺)の資産が理不尽に溶けていく。
こんなの、資本主義のバグじゃないか。
やはり人類が目指すべきは社会主義だったのか?
今からでもソ連に亡命してみるべきかもしれない。
……なーんて、冗談さ。
「で? 俺の海運株が紙切れになったことと、マキマさんがその非常に怪しげな茶封筒を持ってきたことに、俺と何らかの相関関係はありますか?」
俺はジト目で尋ねてみる。
すると、マキマさんは極上の笑みを浮かべた。
「シキくんの含み損、私が補填してあげましょうか」
「……マジですか⁉︎」
なんですと⁉︎ 今のは聞き間違いじゃないよな?
「ええ。その代わり、少しだけ『お使い』を頼まれてほしいのですが」
「お使い! 行きます! どこへでも行きますよ! 近くの珈琲屋でカフェラテでも?」
俺が尻尾を千切れる勢いで振ると、マキマさんは茶封筒をスッと俺の胸に押し当てた。
「——ベルギーです」
「べるぎー?」
「はい。EUの中枢であり、欧州委員会の本部のあるブリュッセル。『戦争の悪魔』もそこにいます」
——『戦争の悪魔』ヨル。
「あの……ベルギーって、言葉通じますかね?」
「大丈夫ですよ。公用語は三つありますから」
「俺、ほんの少しのエングリッシュしかできません」
「多分……大丈夫かな?」
やべえよやべえよ……。
俺、いきなり海外行ってもなんも喋れないよ。
「ふふっ、じょーだんです。冗談」
「……え?」
「シキくんの言語問題については、心配不要です」
「と、言いますと?」
——解決策として、悪魔と契約してもらいます。
■ ■ ■
数日後。
ベルギー・ブリュッセル。
欧州委員会本部ビル、通称『ベルレモン』の巨大なエントランスホール。
(あっちいなぁ……)
夏なのに、ビル内の空調はほとんど効いていない。
中東の戦争で石油がストップし、さらにソ連が天然ガスのバルブを絞っているため、EU全土で厳格なエネルギー制限が敷かれているのだ。
すれ違うエリート官僚たちは皆、眉間に深いシワを寄せ、ヒソヒソ話に終始している。
(……ふむ)
俺の今回の表向きの肩書きは、『日本エネルギー庁から派遣された視察団の末端カバン持ち(兼護衛)』である。
偉いオジサンたちが会議室にこもっている間、「ちょっとトイレに」と抜け出した俺は、ロビーの隅にある自動販売機の前で途方に暮れていた。
(ユーロの小銭がない……。それにしても、どうやって暇を潰せばいいんだ?)
俺は周囲を鋭い目で睨みつけながら、ただ黙って壁に寄りかかっていた。
寡黙でクールな凄腕エージェントを気取っているわけではない。
喋りたくても、喋れないのだ。
理由は、俺が新たに契約した悪魔にある。
——『言語の悪魔』。
こいつの能力は完璧だった。
相手の言葉は日本語に聞こえるし、俺の日本語も自動で現地の言葉に翻訳されて相手の脳に直接響く。
だが、悪魔の力には当然『代償』がある。
契約している間、俺が一文字発声して翻訳させるごとに、俺の預金から直接『お金』が消失するのだ。
(マジで最悪だ……。さっき空港で『タクシーどこですか?』って聞いただけで一万円消えたぞ。これじゃあ、破産待った無しだ)
俺が金欠への恐怖で無表情を作っていると。
「ああもう! ふざけるな! なんで出撃許可が下りないんだ!」
バンッ! と、激しい音がロビーに響いた。
声の主は、俺の隣にある自販機を、親の仇のように蹴り飛ばしている一人の少女だった。
黒髪を無造作に流し、顔には痛々しい十字の傷跡。
EUの青い旗と十二の星が刺繍された、加盟国統一の特注軍服——そんな物騒なコートをだらしなく羽織ったその少女は、自販機相手に喚き散らしている。
「『ソ連のガスが止まったら戦車も動かせない』だとぉ⁉︎ 馬鹿な官僚どもめ! 私は戦争がしたいんだ! アメリカに頼らなくたって、私がいれば……!」
周囲の官僚たちは、その少女を見て見ぬふりをして足早に通り過ぎていく。
触れてはいけない『厄介者』を避けるように。
(……マキマさんが言ってたっけ。EUの『戦争』の悪魔は、アホだって)
おそらく、アレがそうなのだろう。
世界を滅ぼしかねないヨハネの四騎士の一角。
だが、俺の目にはワガママ娘にしか見えなかった。
何だか、妙な親近感すら湧いてくる。
(あ、やべ。目あっちゃった……)
少女——ヨルは、ふと俺の視線に気づいたのか、ギロリとこちらを睨みつけてきた。
「なんだお前! 私の顔に何かついているか! それとも、お前も私を『バカ』だと笑いに来たのか!」
物凄い剣幕で詰め寄ってくる。
紅焔の色を描く、同心円状の瞳。
(やばい、絡まれた。適当に相槌を打って逃げよう)
そう思い口を開きかけた瞬間。
俺は財布の残高を思い出す。
(いかん、ここで「そんなことないですよ」なんて言ったら、また一万円の損失だ。静かにしとこう……)
口を真一文字に結び、無表情のままヨルを見る。
一言も発さず、ただ静かに、紅い瞳を見つめ返す。
「……な、なんだその目は。何が言いたい?」
ヨルが一歩、たじろいだ。
だが違う。
俺が真に恐れているのは、預金の消失だ。
「おい、無視するな! 私は戦争の悪魔だぞ! お前が持っているそのボールペンも、私が『武器になれ』と命じれば一瞬で手榴弾に……」
俺は深くため息をついた。
視察団の経費でもらっていたユーロ紙幣を自販機に突っ込み、ボタンを押す。
ガコン、と落ちてきた冷たい缶コーヒーを拾い上げ、俺はヨルの額にピトッと押し当てた。
「ひゃっ⁉︎」
「飲め」
二文字、二千円。
俺は極限まで削ぎ落とした単語だけを発し、残りの釣銭をポケットにねじ込んだ。
「の、飲めって……お前、私にほどこすつもりか!」
「金だ」
「は?」
「戦争は、金」
あああああああ⁉︎
会話合計十文字、一万円。
痛い出費だ。
「お前は強い。やめとけ」
「や、やめとけ……?」
ヨルは缶コーヒーを両手で持ったまま、ポカンと口を開けていた。
寡黙で、尋常ならざる雰囲気の男。
「お前……」
ヨルの紅い瞳に、警戒とは違う。
それは、奇妙な興味の光が宿った。
「名前はなんという」
「シキ」
「シキ……そうか。お前、他の馬鹿どもよりは、この私『戦争の悪魔』の強さを知っているようだな」
ヨルはニヤリと、好戦的な笑みを浮かべた。
「お前はいい人間だ! 私の部下になれ‼︎」
「無理」
「なっ‼︎ 私からの提案を拒否するだと⁉︎ 不遜だ!」
「ふっ」
「鼻で笑うな! ……だがお前、面白い男だなっ!」
(……なにこれ。なんだか懐かれてるぞ?)
俺は心の中で血涙を流しながら、この先のヨーロッパ滞在で一体いくらの預金を毟り取られるのか、頭の中ではそればかりを計算しては悲観していた。
「よし決めた! シキ。お前、ちょっと付き合え!」
「……え」
ヨルは俺のスーツの袖をガシリと掴んだ。
そして大きな声で「来い!」と言うと。
「お前みたいな話のわかる奴を探していたんだ!」
細腕に見えるが、そこは腐っても悪魔。
しかも世界を滅ぼしかねない四騎士の一角。
抵抗する間もなく、俺はズルズルとビル内部の奥深くへと引きずられていった。
すれ違うEU官僚たちが「あの厄介者に捕まった哀れな東洋人」という同情の目を向けてくるが、誰一人として助けてくれる気配はない。
そして暫く引き摺られて。
連行された先は、分厚い防弾ガラスと厳重なセキュリティで守られた『戦略会議室』だった。
部屋の中央には巨大なホログラムマップがあり、ヨーロッパ全土から中東、ソ連に至るまでの詳細な地形と、軍事境界線が赤や青の光で表示されている。
「見ろ、これ!」
ヨルはバンッ! と会議テーブルを叩き、中東のあたりを乱暴に指差した。
「アメリカの『死(シー)』の野郎だ! あのクソ長女、銃の悪魔の肉片だの何だのと適当な大義名分をでっち上げて、中東の油田地帯を独占しやがった!」
(……知ってるよ。そのせいで俺の海運株が海の底に沈んだんだから)
心の中で深く同意しつつ、俺は無言で頷く。
言葉を発さなければ、預金残高は減らない。
沈黙は金なり、だ。
「おまけに東を見ろ! ソ連だ! あの食い意地の張った『飢餓(キガ)』め! EUがアメリカの暴走に文句を言えないのをいいことに、天然ガスのパイプラインをギリギリまで絞りやがって!」
ヨルはギリィッと歯ぎしりをして、ホログラムに映るソヴィエト連邦領土を睨みつけた。
「戦争にはな、エネルギーが必要なんだ! 戦車を動かすのも、戦闘機を飛ばすのも、兵士に温かいメシを食わせるのも、全部燃料がいる! それをシーとキガの二人に完全に握られてるせいで、私は身動きが取れない! この私が、『戦争(ヨル)』が、ただの会議室の飾りみたいになってるんだぞ⁉︎」
アメリカ(死)が中東の石油を押さえ、ソ連(飢餓)がロシアの天然ガスを押さえている。
両方から兵糧攻めに遭っているヨーロッパ(戦争)は、手足をもがれたも同然。エネルギーがなければ総力戦など起こしようがない。
おまけに極東の中国からは『租唖』という得体の知れない概念兵器が迫り、多極冷戦のパワーバランスは最悪の形で膠着している。
「なあ、シキ! お前ならどうする⁉︎」
ヨルが急に、すがりつくような目で俺を見てきた。
「お前はさっき『戦争は金だ』と言った! 戦いを知る者だ! この膠着状態をひっくり返して、私が大暴れできる最高の一手を教えてくれ!」
いや、知らんがな。
俺は一介の公務員で、投資家見習いだぞ。
大国同士の地政学リスクなんて、厄介な株価の変動要因としてしか見ていない。
適当に「頑張れ」とでも言って逃げようかと思ったが、発声すればチャリンと口座から金が消える。
無駄な出費は絶対に避けたい。
(……待てよ?)
俺の脳内で、凄まじい速度でソロバンが弾かれた。
ソ連のガスが止まっている。
中東の石油はアメリカが独占。
では、エネルギーを実質的に絶たれたヨーロッパが次にすがる『代替エネルギー』はなんだ?
マキマさんが俺を送り込んだ場所……ここベルギーだが、隣にはEUの電力の中核を担う国がある。
フランスだ。
あそこは、世界有数の『原子力大国』じゃないか。
(EUがソ連と中東への依存を減らすために、フランスの原発をフル稼働させて電力を賄う方向にシフトするはずだ)
点と点が繋がり、一本の明確な線になる。
フランスの重電メーカーや、欧州の電力株を買うだけで、絶対に爆上がりする!
俺の目は、欲望でギラリと光った。
「……原発」
俺はホログラムマップのフランスのあたりを指差し、重々しく呟いた。
「げんぱつ……?」
ヨルの紅い瞳が、見開かれた。
「そうか! 化石燃料がないなら、フランスの核インフラをフル稼働させてエネルギーを補い、それを盾にしてソ連とアメリカを牽制すればいいのか!」
ヨルはホログラムマップに身を乗り出し、狂喜の声を上げた。
「そして有事の際は——クックック……」
(えっ? いや、俺はただ「関連銘柄の株を買え」って意味で言ったんだけど……)
「シキ! お前は今日から私の専属軍師に決定だ!」
ヨルが俺の両肩をガシリと掴み、満面の笑みで顔を近づけてくる。
十字の傷跡がある顔は、近くで見ると年相応の少女のように整っている。
「お前がいればEUの弱腰どもを説得できる! 私と一緒に、世界中を最高の戦争で燃やし尽くそうぞ!」
「……ええ?(困惑)」
何か勘違いが起きている。
ヨルは完全に俺を自分と同じ『戦争仲間』だと勘違いしているようだ。
「よし! 軍師就任の祝いだ!」
ヨルは会議室の奥にある厳重な金庫を乱暴に開け、中から分厚いファイルの束を取り出して俺の胸に押し付けてきた。
「これはEUの来年度の極秘軍事予算と、インフラ投資の配分表だ! 官僚どもが隠していたものだが、軍師のお前ならこれを読んで、次の完璧な作戦を立てられるだろう!」
俺は、押し付けられたファイルに視線を落とした。
『TOP SECRET』と書かれた紙をパラパラと捲る。
そこには、次世代エネルギー開発への莫大な補助金、民間軍事会社への委託予算、そしてヨーロッパ各国のどの企業にどれだけのユーロが流れるかが、事細かに記載されていた。
(……インサイダー情報の、超ド級の塊だ!)
俺の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
これさえあれば、どの株が上がり、どの株が下がるか、ほぼ完全に未来が見える。
中東の海運株の暴落なんて、鼻で笑えるほどの莫大な利益が得られる可能性がある。
配当金生活どころか、南の島を買って一生働かずに王様になれるレベルの情報だ!
「どうした? あまりの凄さに言葉を失ったか?」
ヨルが、誇らしげに胸を張って笑っている。
俺は、ファイルを持つ手をプルプルと震わせながら、ヨルを真っ直ぐに見つめ返した。
「……ご主人様!」
「主人! そうだ、私がお前の主人だ‼︎」
がばっとこちらに大きく抱擁してくるヨル。
柔らかな双房が当たるが、脳内はそれ以上の快楽。
俺はそれを受け止め、ニヒルな笑みを浮かべた。
(マキマさん。俺、やっぱこの娘の犬になります!)
■ ■ ■
東京の霞が関、公安デビルハンター本部にて。
「おかしいな。シキくん……帰ってこないな?」
夕暮れ時の窓際で、淹れたてのコーヒーを片手にマキマが小さく首を傾げていた。
予定では、ベルギーでの視察(という名の情報収集)を終え、今日の昼の便で帰国しているはずだ。
しかし、入館ゲートにシキが姿を現したという報告は未だに上がってきていない。
「ふっ……どこかで野垂れ死んだのかもしれないな」
岸辺隊長が、気怠げに口を挟む。
「言語の悪魔の契約で、無駄口を叩いて破産して首でも吊ったか。あるいは、ヨーロッパの厄介な悪魔にでも食われたかだな」
「それは……いやまさか。そんなことは——」
「なんだ、思い当たりでもあるのか?」
マキマの脳内ではとある一つの仮説が立っていた。
シキはまず死ぬことはないだろう。
彼はここにいる岸辺隊長ほどではないが、それに並ぶ程度には人間として強い。
だから、もしこの音信不通に理由を探すなら……。
「もしかすると、躾が失敗したのかもしれません」
「しつけ……?」
「ふふっ。いえ、気にしないでください」
「そうか、俺はどうでもいいが」
マキマはそっと立ち上がり、ハンガーに掛けられていた黒いコートを羽織った。
「少し、ヨーロッパまで散歩に行ってきます」
「日本はどうする?」
「隊長に一任します。上には私の方から伝えます」
「チッ……手荒な真似はするなよ」
「ふふっ。ご心配なく」
彼女は振り返り、その多重同心円の瞳を細めた。
「——ちょっと、『お話』をしてくるだけですから」
■ ■ ■
欧州委員会本部から徒歩二十分ほど。
歴史ある五つ星ホテルの最上階スイートルーム。
1910年のブリュッセル万博に際して当時の国王の命で建設された、極めて歴史価値の高いホテルだ。
「……はい。ええ、そうです。買いです。成り行きで、限界まで」
俺は分厚い絨毯の上を裸足で歩きながら、受話器越しに英語で指示を飛ばしていた。
連絡先は日本の証券会社ではない。
スイスのジュネーブに本店を置く、世界最大級のプライベート・バンクの専属ブローカーだ。
「ええ。フランスの重電メーカーと、欧州全域のウラン採掘関連株。……資金ですか? こちらからの送金は確認できているでしょう? ええ、サンキュー」
ガチャリ、と受話器を置く。
ふう、と深く息を吐き出し、俺は冷たいミネラルウォーターを一気に飲み干した。
言葉を発するたびに『言語の悪魔』の代償として俺の個人口座からチャリンチャリンと数万円単位の金が消失しているはずだが、今はもう気にならない。
それはなぜか。
入ってくる額が、桁違いすぎるからだ。
俺は今、EUにおける『戦争の悪魔』ヨルの専属軍師(という名のヒモ)として、ヨーロッパの中枢に居座っていた。
もちろん、一介の平デビルハンターが、スイスのプライベートバンクに個人口座を持てるわけがない。
最低預け入れ金額数十億円。
厳格な身元審査。
王族や世界的富豪からの紹介状。
そんなもの、普通は持っているはずもない。
だが、俺には『ヨル(国家権力)』がいた。
『この男の口座を作らねば、今すぐ貴様の銀行の地下金庫ごと武器にして最前線に送り込むぞ。ついでに中立国ごと焦土にしてやろうか?』
——先日、スイスの銀行の頭取に対して行われた、戦争の悪魔直々の物理的なプレゼン(脅迫)。
その圧倒的な暴力の前に、スイスの誇る永世中立の精神と厳密な顧客審査は、わずか三分で崩れ去った。
恐るべし、四騎士の権力。
「おい、シキ! 上がったぞ! 承認が下りた!」
バンッ! とバスルームの扉が開き、湯気を纏ったヨルが飛び出してきた。
全裸に、ホテルの上質なバスタオルを一枚羽織っただけの無防備な姿だ。
黒髪から水滴が滴り落ちているが、彼女の顔は傷跡ごと紅潮し、狂喜に満ちていた。
「あの弱腰だったドイツやイタリアの官僚どもが、ついに私たちの策——フランスの原発フル稼働によるエネルギー自立——に首を縦に振った! これでソ連の天然ガスなど不要! いつでも戦争ができるぞ!」
「素晴らしいです、ヨル様。まさに天才的な軍略、アレクサンドロス大王もかくやという采配ですね!」
俺は揉み手をしながら、ソファに座るヨルにバスローブを差し出した。
彼女は得意げに鼻を鳴らし、「もっと褒めろ!」とふんぞり返る。
チョロい。
「お前の『戦争にはまずカネ(インフラ投資)が必要だ』という進言、見事に通してやったぞ! これで存分に軍備を増強できるな!」
「ええ、お任せください。全ては順調です」
俺はノートパソコンの画面をチラリと見た。
画面を埋め尽くすのは、急激な右肩上がりを描く欧州のエネルギー関連株のチャート。
ヨルの脅しで作らせたスイスのVIP口座を隠れ蓑に、俺はEUの軍事予算の一部を担保として引っ張り、インサイダー取引の限りを尽くしていた。
俺の心臓は、歓喜で早鐘のように鳴っている。
(ふふふ……このまま株価がピークに達したタイミングで売り抜ければ、数億、いや数十億は固い。南の島を買って、一生ハンモックで寝そべるリタイア生活が現実のものになる!)
ごめんなさい、マキマさん。
俺、もう日本には帰りません。
任務中の不慮の事故で野垂れ死んだとでも思っておいてください……!
心の中で、あの妖しい紅髪の上司に別れを告げる。
あの多重同心円の瞳に見つめられるだけで、心臓が掴まれるようで、寿命が縮む思いだった。
だが、ここはヨーロッパ。
日本の『支配』の手は届かない、俺には『戦争』という強力なパトロンがついているのだから。
——ピンポーン。
スイートルームのチャイムが、軽快に鳴った。
だが、ルームサービスを頼んだ覚えはない。
「……誰だ?」
ヨルが訝しげに、ドアを睨みつける。
俺は息を殺し、ゆっくりと。
ドアスコープに顔を近づけた。
魚眼レンズ越しに見える、廊下の風景。
——そこに立っていたのは。
「あ」
俺の心臓が、ヒュッと縮み上がった。
全身の血の気が一瞬にして引き、指先が氷のように冷たくなる。
脳が、本能が、DNAが警鐘を鳴らす。
黒いトレンチコート。
艶やかに紅い髪。
そして、レンズ越しにこちらを真っ直ぐに見つめ返してくる、黄金の多重同心円の瞳。
「シキくん。お迎えにあがりました」
ドア越しなのに。
その甘く優しい声は、俺の脳髄に直接響いた。
日本にいるはずの、ここにいないはずの。
「シキ、どうした? 誰かいるのか?」
ヨルが不思議そうに近づいてくる。
俺は声を出そうとしたが、喉が引きつって空気の漏れる音しか出なかった。
(まずい、終わった)
南の島での楽園生活。
その夢が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「開けてくれないんですか? そうですか……なら。悪い犬には、お仕置きが必要ですね」
——くるり、と。
鍵のかかったはずのドアノブが、音もなく回った。
つづく
これを面白いと思ってくれる、そこの御方。
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